「ジョージ、大丈夫だ、俺がついてる、大丈夫」
 街路樹の陰から聞こえてきたのは切羽詰まった声だった。男は思わず立ち止まり、声のするほうを見やる。そっと歩み寄れば、雨に濡れた暗闇に赤が映えた。
「……どうかしたのか」
 くすんだ金髪が男を振り仰ぎ、彼がもう一人、別の誰かを抱えているのがわかる。男の差した傘でその上から雨が降り止んだ。金髪の青年は眉をひそめ、ゆっくりと首を振る。
「……いえ、なんでも……」
「体調を崩したのか」
 覗き込めば、荒い息に震えるブルネット。陰のなかにも光る青白い肌、面立ちは未だ少年らしさを残しているように男には感じられる。それは少年を抱える青年も同様だった。
「熱があるのか」
 伸ばした手は、青年が体を動かしたことで避けられた。
「触らないで」
「……すまなかった」
 鋭くにらまれ男は手を引っ込める。彼は持っていた傘を青年に差し出し、青年が恐る恐るそれを受け取るのを見て踵を返し街道へ向かった。
「タクシーに乗れ」
「……は?」
 戻った男に言われ、金髪の青年はいっそう眉根を寄せる。男は顔の脇に両手を上げて敵意のないことを暗に告げ、そこに停めている、と首をかしげて示した。
「俺はその子に触れられない。君が連れて来てくれ」
 手を差し伸べて傘を受け取り、男はそのまま街路樹の陰に立つ。見上げてくる青年を――その腕に抱えられた少年を目を細めて見下ろし、男は青年が動き出すまで待つ。彼はしばらく注視していたが、やがて男が頑として立ち去らないのを見て、少年を抱えておもむろに立ち上がった。男は彼らの上に傘を差し出す。
 街道に停められたタクシーを見て青年は不安げに男を見た。
「お金がありません」
「構うな」
「……行くところも……」
 男はタクシーの後部座席のドアを開け、少年を抱えた青年の背を押してなかへ坐らせると、己は助手席に乗り込んだ。どこへ、と訊く青年の声に男は応えず、運転手に住所を告げる。タクシーはゆるやかに発進した。

 降ろされた場所で、青年は少年を背負ったまま口をぱくりと開けた。雨はいつの間にか降り止んでいて、男は彼の背の二倍以上もあろうかという石造りの門前で青年が来るのを振り返って待っている。青年は彼の首許で苦しげに息を吐く少年を見、また男を見た。
「早く来なさい」
 低い声で男が言う。青年はぐっと唇を引き結び、少年を背負い直して歩き出した。
 鉄格子の門をくぐり、広い前庭を抜けて三つの人影が屋敷の玄関に辿り着く。エントランスの扉は音を立てて開き、男は言葉も発さずに屋内に入ると青年を振り返り、すぐに風呂を沸かすから少し待っていなさい、と言った。青年が頷くのも見ずに彼は足早にエントランスホールから逸れ、右手の廊下奥へと姿を消した。
 青年が広い階段のあるホールの高い天井をぽかんと見上げていると男が戻って来、奥へと彼らを促した。青年が男について行くとバスルームと思しき扉の前に立った彼が、更に廊下の奥を指差す。
「タオルは中にあるから使って。君もその子と一緒によく温まるんだ。上がったらその突き当たりの部屋に来なさい」
 それだけ言って男は自身の示した突き当たりの部屋へ去って行く。青年はしばらくその後ろ姿を見つめていたが、部屋の扉が閉じられたのを見てほうと一つ嘆息した。
「……ぴ、た……?」
「ジョージ」
 青年は慌ててバスルームに入り、カーテンの向こうのバスタブにたっぷり湯が張られてあるのを見てやはり驚いた。
「どこ、ここ……」
「親切な人がお風呂を貸してくれたんだ。ゆっくりあったまっていいって」
 熱に紅潮する少年の頬をさすりながら青年は言う。靴を脱いだ彼らはバスルームの床に坐り込み、青年は少年の着ていたベストを腕を上げさせて脱がせ、シャツのボタンを手早く外していった。青年の肩に額を寄せ、ベルトを外されるがままの少年が小さく微笑む。
「お風呂久しぶりだね……」
「うん……ジョージ、足伸ばせる?」
 言われ、緩慢に足を伸ばした少年のパンツとアンダーウェアも脱がせ、青年自身もまた急いで服を脱いでいく。そうして裸になった青年は、少年の体を後背から抱えるようにしてバスタブに入った。湯のなかに腰を下ろすと青年の胸に背を預ける少年が瞳を閉じて長く息を吐く。肩口に当たるブルネットの感触に青年は微笑み、そっと少年の髪に口づけた。
「……神さまかな……」
「そうかも。すっごいお屋敷だもの。きっとチャリティの一環なんだと思う」
「そっか……ラッキーだね……」
「うん」
 少年の髪を撫ぜながら青年は頷く。その触れる肩の冷たさに彼は身震いした。
 思わず少年の体を抱き寄せたとき、バスルームの扉がノックされて青年は飛び上がるほど驚いた。
「すまない、忘れていた。脱いだ服は隅にある籠に入れておいて。上がったらローブを着るといい」
「あ……」
 閉じられていた少年の瞼がゆるく開き、彼は声のしたほうに目を向ける。
「そこまでしてもらうわけには」
 青年が答えると扉の向こうから、いいからそうしなさい、と返ってきて、青年は結局謝意を述べた。
「ローブって何……?」
「多分、寝るときに着るやつじゃないかなあ」
「ふうん……」
 僕初めて着るよ、と言う少年に青年は笑って、俺もだよ、とささやいた。

 バスルームから上がった二人が男に言われた突き当たりの部屋に向かうと、そこはダイニングキッチンだった。男はテーブルについて何か書面に向かっており、扉の開く音に二人を振り返って目を細めた。
「早いんじゃないか」
「そ、そうでしょうか」
 青年は困ってそう返す。立っているのも覚束ない少年を抱え、彼はこれからどうすればいいのかわからなかった。男は二人をテーブルに促し、慣れた手つきでクリームスープの入ったボウルを彼らの前に置く。青年の目の前には二つのロールが乗った皿も一枚。
「そちらの君のには最初からロールを浸してある。とにかく少しでも食べるんだ。そうしたら薬を飲んで休みなさい」
「えっと……」
 青年が男を見ると彼は薄青の瞳をゆっくり瞬かせ、早く、と言った。
「あ、ありがとうございます」
 青年は焦って少年のスプーンを取る。千切られスープに浸されたロールを掬い上げて少年の口許に持っていくと、彼の瞳が不安そうに青年を見返した。
「食べてもいいみたい」
「……ありがとう……ございます……」
 ぱくりと赤い唇がスプーンを食む。緩慢に咀嚼する少年はたっぷり数十秒をかけてそれを飲み込み、けほんと咳き込んだ。青年はその背をさすりながら彼に次を差し出す。彼らがそうしている間、男はダイニングキッチンから姿を消していた。
 少年に食べさせ終え青年も自身に出された分を急いで食べきると、男が水の入ったグラスを片手に戻って来る。他方の手にはオブラートに包まれた粉末剤が載っていた。
「知り合いの医師から処方してもらっている風邪薬だから大丈夫だ。さあ」
 男から薬とグラスを受け取った少年はしばらくじっとそれを見つめていたが、やがて意を決したように粉末剤を口に入れ水を呷った。青年は隣で、えらい、と嬉しそうにささやく。
 二人の様子を見ていた男もまた小さく微笑み、そうして、おいで、と一歩引いて彼らを手招いた。
「すまないがすぐに用意できる部屋が小さくてね、だがベッドはちゃんと二つある」
 ダイニングキッチンの扉の前で男は振り返り、手を繋いだ二人がついてくるのを確認して廊下に出た。
 正面のエントランスホールに続く廊下とは別に、ダイニングキッチンの左手に続く廊下を男は行く。いくつか窓と扉を過ぎたところで彼は立ち止まり、一つの部屋の扉を開けた。室内の灯りが暗がりの廊下にあふれ、男の影が濃く伸びる。
「ここで休みなさい。俺は隣にいるから、何かあったらすぐに呼んで」
「あの……ありがとうございます。何から何まで」
 青年が言うのに男は首を振った。
「そういうのはいいから」
 目線で促され、青年は少年の手を引いて部屋に入る。すれ違いざま少年はぼんやりとした目で男を見、ありがとうございます、と弱々しい声で言った。
 室内はベッドサイドのランプの灯りでオレンジに色づき、あたたかだった。二つあるベッドのうちの片方に二人は共にもぐり込む。ぱたりと音がして、部屋の扉が閉じられたのがわかった。
「ジョージ、おやすみ」
「……うん、ピーターもだよ……」
「俺は、少し起きてるよ」
 ブルネットを梳きながら答える青年に少年は口許を笑ませて、夜更かしはだめだよ、と言うと、すぐに目を閉じて寝息を立て始めた。
 青年は少年の体にすり寄り、その髪に鼻先をうずめる。久しぶりに使ったシャンプーのいいにおいがして、彼はすうと息を吸い込んだ。少年の体はあたたかく熱を持って、僅かに汗ばんでおり、彼の肉体が今それを苛む病を必死で癒そうとしていることがわかって、青年はため息をつく。
「ジョージ、大丈夫だぞ。俺がいる。俺がいるよ……」
 やわらかな髪を撫ぜながら、青年は祈るように何度もそう繰り返す。少年の寝息は安らかで、彼の心を優しく宥めてくれた。


 ◇


 ぱちり、と音がしそうなほど明快に、ジョージは瞼を開けた。二度瞬いた彼はすっきりした頭で目の前のピーターの寝顔を見、何してても格好いいなあ、と場違いなことを考える。そうしてようやく目線を動かし、見覚えのない天井を見た。
 もうろうとした頭にピーターの声がずっと響いていたのは覚えている。大丈夫だ、俺がついてる、そう繰り返すピーターのおかげでジョージは安心して眠ることができた。熱に浮かされているときも、何やら水のなかに揺れていたようなときも、彼のぬくもりがあったから恐ろしくはなかった。
 ジョージはピーターを起こさないよう、ゆっくりゆっくりと起き上がる。どうやら彼は深い眠りに就いていて、寝息もほとんど聞こえない。そろりとベッドから抜け出した彼は扉の開閉で音を立てないよう注意を払いながら、軽い足取りで部屋を出た。
 静謐な廊下には窓から朝の光が射し込んでいる。左手を見ると外へ出る扉が正面にあるだけだった。ジョージは右手へ向かう。いくつかある扉の前を通り過ぎ、突き当たりの右手にある部屋の扉がわずかに開かれていて、彼はそっと体を寄せた。
「はい、ええ。すみませんウィナントさん、朝から。よろしくお願いします」
 チン、と音がして電話の受話器が置かれたのだ、とわかる。そっと扉を開けて顔を覗かせると、扉に背を向けてダイニングテーブルに着いた男がふと一つ息を吐いた。
「……あの、Sir」
 男がぱっと扉を顧みた。丸く見開かれた薄青の瞳がダイニングに湛えられた光にきらめいて、ジョージはじいっとその色を見つめてしまう。
「……おはよう、もう動いても大丈夫なのか?」
 低く、不思議な響きの声が言う。しばらく見とれていたジョージだったが、男が椅子から立ち上がって歩み寄ってきたのに気づいてまごついた。
「君は、ジョージでいいのかな」
「あ、えっと、はい。僕はジョージです。あの、一緒にいるのはピーター……」
「そうか」
 目を細め、ゆるりと口の端を上げて微笑む男にジョージの頬は染まる。目線を俯けながらジョージは、先ほどまではすっきりしていた頭をぐちゃぐちゃに悩ませながら言うべきことを探した。
「ええと……お風呂とご飯と薬とベッド、ありがとうございました。僕たちお金持ってないので、何か家事のお手伝いします」
 言って、返事がないことに首をかしげて顔を上げたジョージは、男が苦虫を噛み潰したような表情をしているのに驚く。何か己の言動が気に障ったのかと思う間もなく彼は、必要ない、と口にした。
「君たちの服は乾くまでもう少し時間がかかる。俺の服で悪いがそこに置いてあるから着なさい。その間に朝食の準備をするから」
「えっ、手伝います」
「必要ないと言っているだろう」
 男は椅子に置いていた替えの衣服をジョージに押しつけるように渡すと、顎をしゃくって出て行くように急かす。ジョージはおろおろとダイニングキッチンを出た。
 腕のなかのシャツとパンツは手触りがよくて、世の中の人はこんな立派な服を着ているんだな、とジョージは思う。切なく胸が締め付けられて突っ立っていたら、後背で扉の開く音がした。
「ジョージ」
「へっ、はい」
 慌てて振り返ると男が申し訳なさそうな顔つきで立っている。
「すまなかった。君を傷つけた」
 ぽかんとするジョージに男は続ける。
「病み上がりの君に手伝わせるわけにはいかない。それに君は……客人だ。さあ、着替えて顔を洗っておいで。バスルームの場所は覚えているか?」
 首を振ると男は小さく笑って、すいと廊下の先にある一つの扉を指差した。ジョージが頷くと男も頷き、また後で、と言ってダイニングキッチンの開けた扉はそのままに戻っていった。
 ジョージが宛がわれた部屋に戻ると、ちょうどピーターが寝返りを打って唸り、緩慢に覚醒したところだった。扉の前に立っているジョージを見た彼は大きく目を見開く。
「ジョージ! 起きて大丈夫なの?」
「うん。君がいてくれたおかげでもう元気だよ。これ、あの人が服貸してくれたんだ。着替えたら顔を洗っておいでだって」
「あの人って……彼と話したの?」
 首肯するとピーターはぐっと眉をひそめ、大丈夫だった? と尋ねる。大丈夫だったよ、と答えたジョージは、はたして大丈夫とはどういう意味なのかを考えて、優しい人だったよ、と付け加えた。
 身支度を整えてダイニングに向かうと、キッチンに立っていた男が振り返り、やわらかく微笑んだ。
「おはよう、二人とも。早かったな、すまないが坐って待っていてくれるか」
「あ、手伝いま……」
「結構」
 発言したピーターの袖を引くより先に、男が断りを入れる。ジョージが、要らないんだって、とささやくと、ピーターはやはりむっと眉根を寄せた。
 テーブルについた二人は肩を竦めて、男のキッチン作業を見ているだけになる。嫌いなものはないか、と尋ねられた二人が首を振ると男は、いいことだ、と言ってまた莞爾してみせた。てきぱきと目の前に出されていくスプーン、フォーク、サラダ、ハムエッグ、ロール、スープ、それからバターの乗った小皿、ドレッシングの入ったボトル、グラスいっぱいのミルク。二人はひっそりとお互いに困惑した表情で目を合わせた。
「さあ、どうぞ」
 ようやく支度を終えた男がテーブルの対面から言うので、二人は頭を下げてフォークを手にする。彼は一つ首肯すると、ダイニングを出て行った。
「……すごい料理だね」
「うん、すごくおいしい」
 それだけ会話して、あとは彼らは無言で食事を進めた。
 食器の鳴る音だけが響くダイニングの外では朝が賑やかに世界を起こしていく。車のエンジンや鳥の声、風に揺らされてさざめく木の葉や、上空を過ぎ去る飛行機。人の声は聞こえない。
 スプーンを手に取ったピーターが手許に寄せたスープ皿の表面にぽたりと水滴が落ちた。ぽたり、ぽたりと堰をきったように水滴はスープ皿にいくつも波紋を拡げ、彼はいよいよスプーンをテーブルに置く。
「ピーター……」
 ジョージが椅子を引いてその肩に添う。ピーターは小さくこくりと頷いて、彼のブルネットに頬を寄せた。
「……僕のせいでごめんね。早く出て行かないとね」
「君のせいじゃない……」
「ううん。こんなにおいしいの、もったいないもの」
 ピーターの頭が頷く感触がくすぐったくて、ジョージは彼の肩にそっと腕を回した。
「早くお腹いっぱいになろう」
「……うん」
 ぐりぐりと肩口に目頭を押しつけてくるピーターにジョージははにかむ。軽く二度その背を叩くと、ピーターは勢いよく面を上げて赤くなった目をにこりと笑ませた。

 二人が朝食を食べ終えたところで男がダイニングに戻ってきた。食器くらいは洗っておこうと話していたのにそれも叶わず、男は彼らの前の食器を片付けながら、ハーブティーを出すから、と二人を椅子に坐らせたままにする。ケトルを火にかけながら男は、
「もうすぐ医者が来るから」
と言った。驚いて目を見合わせた二人に彼は、薬だけでは心配だから、と微笑む。ジョージは思わず立ち上がって、要りません、とほとんど叫ぶような声で言った。男は目を丸くしたがすぐに、だめだ、と首を振る。
「ちゃんと診てもらいなさい」
「お金がないって言ったじゃないですか」
「必要ないと言っただろう」
「ぼ、僕たち……」
 言葉に詰まったジョージの手をピーターが取った。
「行こう、ジョージ。本当にありがとうございました。何も返せなくてすみません」
 ばたばたとダイニングを出て行く二人の背に、待て、と声がぶつかる。げほん、とジョージが咳き込んで、ピーターは思わず廊下の半ばで足を止めた。
「やあ、おはよう」
 早春の日射しのような声がして、ピーターは廊下の向こうのエントランスホールを見た。ロングコートをまとった背の高い男が、窓からホールに射し込む光を浴びて立っている。二人に追いついた男がその姿を見て、ウィナントさん、とどこかほっとしたような声を発した。
「ああ、その子たちだな。さあ、おいで。風邪は治ったと思ってもまだ芯でくすぶっているものだ」
 物柔らかな面立ちの彼はコートの裾に光の粒を散りばめて、雰囲気に似合いの気安い笑顔で二人のほうへ歩いてくる。ピーターはジョージを抱き寄せたが、彼が腕のなかで何度も咳き込むのに惑乱した。
 ウィナントと呼ばれた医師はジョージの目線までかがみ込むとその首筋に手を当て、つらいな、とささやくように言った。ジョージがこくりと頷いたのを見て、ピーターは悲しくなってしまった。
 宛がわれていた部屋に戻り、ベッドに寝かされたジョージがウィナントに診察されている間、ピーターはその枕許でじっとして動かなかった。男が出したハーブティーにも口をつけず、ウィナントが苦笑するのも気に留めず、彼はただ赤い顔のジョージだけを一心に見つめている。
「しばらく安静にしていれば治る。急に動いたから体が悲鳴をあげたんだよ。薬はちゃんと飲むんだぞ」
 ウィナントの大きな手のひらがジョージの額を撫ぜるのに、ピーターは唇を噛む。立ち上がった医師に礼を言った男は、見送って来るから、と言って彼と連れ立って部屋を辞去した。
 しばらく沈黙が下りていた室内に、ごめん、と言うジョージのかすれて弱々しい声。ピーターは首を振り、彼の前髪をそっと梳いてやる。
「俺のほうこそ……」
「……なんでピーターが謝るの」
「君のためにできることが何もない」
「そんなことない。僕、ここから早く出て行きたかったもの。君が手を握ってくれて嬉しかった」
 そう言う彼の瞳は潤んでいたが、口許ははっきりと笑みを浮かべていた。不安げに己を見返すピーターにジョージは、大丈夫だよ、とささやく。
「あんなにいい人のところにいつまでもいられないよね……。ピーター、すぐそっちに裏口あるの知ってる?」
 頷くピーターに、おもむろに起き上がったジョージが手を伸ばしたとき、部屋の扉が開いた。
「また出て行こうとしているのか?」
 咎めるでもない、優しい声が二人を包む。彼らは男を振り返り、その面に怒りや蔑みの表情がないのを見て訝る。男は扉の前に立ちはだかるように寄りかかり、だめだ、と子供をあやすような低く甘い声で言った。
「ここにいなさい。でないと元気にならない」
「…………それって、憐れみですか」
 ピーターの言に男は片眉を上げる。膝の上で握りしめられた青年の拳が震えた。
「俺たちに施しをして、あなたはいっとき喜びを得るけど、結局またみじめに雨の下に放り出されるんだ。よけいなことしないでください。俺たちは泣きながらスープを飲みたいわけじゃない」
 彼の言葉に、ジョージはそっとピーターの拳に手を重ねる。その熱さにピーターはまた涙をこぼし、袖で何度も目許を拭った。
 男はしばらく答えなかったが、やがてぽつりと、憐れんでいない、と口にした。
「君たちを連れて来たのは、俺がそうしたかったからだ。君たちにそれが必要だと思ったわけじゃないし、君たちをみじめだとも思わない」
 男は手のひらで口許を覆い、ぐいと拭って二人を見た。
「みじめなのは俺のほうだよ。そう、少しでも俺を憐れだと思ってくれるなら……君たちに、しばらくここにいてほしい」
「…………え?」
 呆気にとられ、二人は同時に声をあげる。細められ、たおやかに弧を描くその薄青の瞳には、まるで涙の膜が張っているように二人には見えた。