「イヅル!」
 両腕を拡げて出迎える鳳橋に、フードを取った吉良は目を細めて頭を下げる。掬い上げられるようにぎゅうとあたたかな体温に抱きしめられる感覚にはすっかり慣れたもので、周囲の三番隊隊士たちにとっても二人の様子は見慣れたものだ。
「おかえり! 今日も無事だったみたいだね」
「ただいま戻りました。隊長、お仕事はきちんとされていましたか?」
「もちろん!」
 にぱ、と朗らかな笑顔を見せる鳳橋に対して吉良は気安く口の端を上げ、すぐさまさっと隊士の一名に目線を向ける。向けられた相手は苦笑してコクリとひとつ頷いた。
「嘘ではないようですね」
「ああ、よかった……許された……」
「何を仰っているんですか」
 改めて自身より大きな体に抱きしめ直され、今度は吉良の黒い手が鳳橋の背に静かに回される。襟許の柔らかなチーフに優しく頬を撫ぜられて、吉良はそっと目を閉じた。

 いつのころからか、理由を明らかにしないないまま、吉良は折に触れて趣味と称して辺境に出るようになった。当然この行動は鳳橋の認可を経て行われているものであるが――席官以下三番隊隊士たちは一様に、似てきたなあ、と嘆息したという――以来三番隊では、副隊長の不在時には隊長である鳳橋には“きちんと”隊務をこなすよう要請されることになった。
 初めのころは“言われた通りに”隊務に励みながらもそれまでの振る舞いと同様に、あちらこちらにふらふらと出歩きそこかしこで様々な楽器を奏でては隊士たちの心を和ませることと気を揉ませることを並行して行なっていた鳳橋だったが、あるときから執務机に着いて職務をてきぱきこなすようになったのに驚いたのは、他でもない吉良をはじめとした三番隊の隊士たちである。
 鳳橋の気さくで親しみやすい性格のために、一人の下位席官が吉良の不在に際してその変化の理由を訊ねたことがある。
「だって、イヅルは急にいなくなったりもしないし遅くなってもちゃんと帰ってきてくれるじゃない」
 もの柔らかな笑みを浮かべて鳳橋はそう言い、
「あの子の話を聴くと、創作意欲がますます湧くんだ」
と続けて、そっと人差し指を自身の口許に持っていき、「イヅルには内緒ね」と口止めまでした。そうなので、この話は件の下位席官と鳳橋だけの秘密である。

 鳳橋と吉良は隊舎に備え付けの宿舎の廊下を並んで歩く。吉良の不在に隊士たちや友人たちとの関わり合いで起きた出来事を次から次と喋る鳳橋の笑みや、その喜色に満ちる霊圧は、すれ違う隊士たちをも笑顔にする。
「それでね、拳西が白に……あ、イヅルの部屋に寄っていい?」
「構いませんが、楽器はよろしいのですか?」
「今日はアコギの気分かな。取ってくるね!」
 吉良の私室に着き、軽いやり取りのあとに瞬歩で去る鳳橋に、吉良は彼には見えずとも苦笑を送って室内に入る。
 外出前と変わらない情景――いや、ひとつだけ。整然と事務用品が並べられた文机の隅に、質素な花瓶に挿された濃い橙の花が三本ある。窓を開けた後にそこに目を遣った吉良は微笑み、遠慮がちに花びらに触れた。
「きれいだろう?」
「いつもありがとうございます」
「今日はマリーゴールドだよ」
 行きと同様に素早く吉良のもとに戻ってきた鳳橋は、右手を中空に揺らめかせ「オレンジのマリーゴールドの花言葉は『予言』さ」と歌うように口にする。
「『予言』ですか? どういった意図が……?」
「さあ、その辺はボクにもよくわからないな」
 しゃあしゃあと述べる鳳橋に吉良は今度こそ吹き出した。
「適当なことばっかり」
「いいじゃない、適当でも」
「そうですね」
 辺境に出るようになった吉良が、自身の私室への鳳橋の自由な出入りを許可するようになったために置いた来客用のソファに、その来訪を望まれた客本人が腰を下ろす。持参したアコースティックギターのチューニングを始める上官を横目に、吉良は紅茶の用意にかかった。コーヒーや紅茶の淹れ方といった現世由来の技術もまた、鳳橋のために上達したものだった。
 しばらくはめいめいの奏でる音が室内に静かに響いていたが、やがて二人分の紅茶を用意した吉良が鳳橋の右隣に腰を下ろしたことでそれらは一度、止んだ。
 視線を交わし合う彼らの間に静謐が生まれる。側から見れば動きのない風景の一部でも、彼らにとっては必要な時間だった。
「…………取るに足らない、と」
 口を開いたのは鳳橋だ。
「見過ごされるところに目を向けるキミが好きだよ」
 吉良は答えず、その穏やかな二藍の瞳を見つめたままゆっくりと首を傾げる。
「それは隊長のしてきたことです。僕はあなたから学んだに過ぎません」
「キミのような経歴の人が、そういうところに眼差しを向けるのは本当に珍しいことだ。ましてやそれに寄り添うのは難しい」
「……僕には自然の帰結に思えます」
「生まれ変わったみたい?」
「いいえ、死した肉体を動かしているだけの、連続した自分です」
 ギターの弦に触れていた鳳橋の手が迷いなく吉良の隠されがちな左頬に伸び、そっとそこに添えられ、親指がゆっくりと縁をなぞる。彼の指先の皮膚は硬い。
「死者も社会を構成する一部だ」
 鳳橋は慈愛に満ちた穏やかな笑みを浮かべた。
「隊長は僕に意味を見出しすぎます」
「ごめんね、キミのことが好きすぎて」
 もの柔らかだったそれは困ったように眉尻が下がり、「好きすぎて、キミの存在が意味になっちゃうんだ」と申し訳なさそうに添えられる。頬に触れた手はそのままに、鳳橋は小首を傾げた。
「……困る?」
「もう、いいですよ」
 吉良もまた苦笑して、自ら鳳橋の手にすり寄るような仕草をした。
 困らないから困っていて、それだからあなたのところに帰って来たいのだ、と吉良は言えなかった。

 鳳橋の肩に頭をもたれさせて、彼が爪弾くギターの音色に耳を傾ける。時折ぽつりぽつりと、特に何が起こったわけでもない辺境での出来事を吉良は語り、鳳橋はそれに甘く相槌を打つ。三番隊の隊士たちは彼らの上官の親睦の深さを知ってはいるが、さりとて人前では決して見られない二人の姿だった。
 吉良は上官の肩にもたれかかる無礼を内心苦々しく思いながらも自身にそれを許容し続け、ましてや鳳橋は包容する側であり、ずっとそうしてほしいと思っていた立場である。
 気の置けない相手というなら吉良にはそれこそ数える程度の何人かがいた。自身の付き合いにくさを自覚していながら付き合ってくれる相手――それは阿散井であったり、雛森であったり、檜佐木であったり、松本であったり、ここ最近は肉体のメンテナンスに携わる阿近ともまた関係性を深められるようになった。他者と交わるのが得手ではない己がこれほどの他者に恵まれたことを、吉良は驚異に思うことがある。ああ、昔はもう少し卑屈ではなかったはずだと知っているのに、二度としなやかだったころに戻れないことを否が応にも理解してしまう。
 吉良にとって鳳橋が彼らと一線を画すのは、ただ上官だからではないことはいつしか自明だった。吉良はこの人に“待っていてほしい”と感じている。自分の帰りを待っていてほしいと。そうして、鳳橋は確かにいつも待っていてくれる。この人の懐の深さを期待したくて、吉良は外へ出る。
「夢を見たんです」
「どんな?」
「僕と、李空と武綱と飛鳥で、ええと、そう……歓談する夢」
「えっ、楽しそう。ボクも混ざりたい」
「すみません、いらっしゃいませんでした」
 そんなあ、とギターを抱いて大袈裟に首を垂れる鳳橋に吉良はくすくすと笑う。
「僕らは横並びで、隊舎の屋根で星空を見上げながらつまらない話をしました。星は美しく、僕らの話は取り留めもなく……いつしか僕は僕自身を俯瞰していて……自分の首から上が月になっているのを見ました」
 吉良の言葉を聞いて鳳橋は夢想した。白金に輝く穴ぼこだらけの月の顔をして、吉良が笑う彼らの横に坐っているのを。鳳橋のなかで彼らは笑っている。吉良のなかではどうかわからないが。
 それきり吉良が黙ったので、鳳橋は口を開いた。
「暗い夜にも道を照らす光だね」
「……はあ」
「ボクもイヅルについて行きたいなあ」
「上官が二人揃って隊舎を空けてはだめでしょう」
「もうみんなベテランだよ、少しくらい平気さ」
 肩に乗る吉良の頭に頬を寄せ、鳳橋はかえって甘えるような低い声で言う。
「でも、キミが一人でいる時間もボクには愛おしく思えるから」
「……そうなのですか?」
「キミの不在にキミを思うボクの時間という意味でもある」
「…………」
「どこにいて、何をしているだろう。何を見て、何を思っているだろう。キミが帰路に着くとき――」
 “もうここまでだ”と区切りをつけ、辺境に背を向けた吉良はゆっくりと歩き出す。決して急かず、かと言って名残を感じさせることもなく。ただそうであるように。ただ月が昇り、空を旅し、また沈んで世界からは見えなくなるように。
 身体に空いた孔。天地を支える三本の人工骨の軋み。肌のひきつれ。歩みを進めるごとに、少しずつ、少しずつ、離れていた距離が縮まる。心を寄せていく。
「ちょっとでもボクのことを思っているならいいな」
 吉良は体勢を直して、鳳橋の肩から顔を上げた。鳳橋はじっと吉良を見ていて、たおやかに細められたその眼差しが、確かに吉良を思っていると告げている。
 ――甘えている。こんな年になって、こんな身体になって。二度と高みを目指すことのできないつぎはぎの魂魄になっても。
 鳳橋は吉良のことを諦めないでいてくれている。
 その事実が吉良のつぎはぎの境目に浸透していく。
「…………ギター、続けてください」
「ん? うん、わかった」
 嬉しげに微笑んだ鳳橋の指がギターを奏で始める。吉良は――演奏しづらいだろうに文句のひとつも口にしない――鳳橋の肩に寄り添い、彼の爪弾く音楽に身を委ねて、目を伏せた。

 あなたの音楽に導かれて僕はあなたの許に帰る。


 ◇


「ん」
「どした? 隊長のギター?」
 宿舎や隊舎のそこかしこから聴こえる誰かのメロディーは三番隊隊士たちには日常で、それだから耳に残るのも時々だ。たまに「あの曲よかったですね」と伝えると心底から諸手を挙げて喜ぶ彼らの上官のために、隊士たちの耳は肥え始めている。
「今日のは、暗いなかにも少し明るい」
「確かに」
「今の旋律がよかったなー。繰り返しがほしい」
「ふふふ」
 廊下を歩きながら専門家のように評価を始める一人の隣で、それを聞いているもう一人は言った。
「副隊長が帰ってきたからね」
「ああ、そうかあ」
 下位席官の執務室に戻った彼らは、今日の職務がひと段落したのを見てめいめい楽器を手に取った。
 鳳橋の爪弾くギターの悲しげなメロディーは、三番隊隊舎に遠く優しく響く。語られない悲しみが、痛みが、わがままな願いが傍にあることを、決して否定することはなく。
 彼らもまた、上官たちには聴こえずとも、そのメロディーに乗せて音を奏で始める。
 重なって、連なって、流れていく。

 いつか、誰かに届くまで。