《赫き吊柿が音符に見えますか》

 冒頭にそんな俳句が持ってこられた今月の吉良の連載記事を、檜佐木は恋文みてえだな、と奇体な心地で眺めていた。長年編集していると周期が大体わかってくるもので、晩秋のこの時季の記事には必ずひとつは《柿》を使った句が載る。月刊ゆえにその比率はかなり高い。季節のものだから当然とはいえ、以前は恨みがましさを隠しきれずにいたり、そこにあるから詠むしかないという諦念のようなものが感じられたりすることも多かった。
 この句はどうだろう。余人にはどうあれ、檜佐木にはやはり恋文に見える。詠み手には最近は特に“吹っ切れた”とでも表現できそうな態度が見られるようになっていたが、こんなに明け透けなことをしでかすようになったとは、意外に思える。《吊柿》は《釣書》にも掛かるのだろうか? 訊ねてみる気はあまり起きない。
 他方、以降の記事の内容自体は従来とさほど大差がない。【この記事の執筆時点ではまだ乾燥中だが、今号が発行されるころには干し柿が例年通り完成している予定だ。先着順にはなるが欲しい方はどなたでも三番隊舎まで。】と締められている以外は。
 檜佐木は同僚権限で毎年取り置きを予約しているため争わずに初冬の味覚にありつけるが、そうでない連中にとっては、三番隊の干し柿を手に入れることは格の上下を問わず激戦に身を投じることである。毎年見ているくせに毎年のようにその盛況ぶりに「こんなことは初めてだ」と言わんばかりに驚き、ほどなく平静に戻る吉良はいい加減学習すべきだと檜佐木は思っている。三番隊の干し柿は護廷十三隊では人気の“季節の逸品”なのだ。
 ところで、吉良自身は相変わらず干し柿を好ましく思っていない。そうなので、自身が口にすることのできないものを手間暇かけて作るという行為を、檜佐木はどう捉えていいのかわからない。特に吉良は体調不良を起こすのだから虚しさも募るのではないかと、檜佐木は先輩面を覗かせて少しばかり気にかけてもいる。
「息抜きになります」
「……なるほど」
「無心で皮を剥くのも悪くないですよ」
 その物言いに檜佐木はひとまず納得はした。
「それに、例えば貴族の家に仕えている料理人などはそれでしょう。自らが口にすることのできないものを作る」
「それは仕事だからまた別なんじゃねえの」
 書類の内容を精査しながらまるで違うことを器用に口にする吉良を、長椅子にだらりと腰掛けた檜佐木は瀞霊廷通信を手許で広げたまま横目に見やる。
 流魂街の出身である檜佐木には、死神となって瀞霊廷に住まうようになって長く経つ現在でも“貴族”の生活を精細に想像することは難しい。確か以前、何かの弾みで吉良は下級貴族の家の出だと聞いた覚えはあったが、同時に「両親の墓」という単語も口にしていたから、そこまで豊かな生活をしていたとは思い難い。
 ――下世話か。
 勝手な妄想を払い、瀞霊廷通信を傍らに放って檜佐木が前屈みに体勢を直したとき、不意に隊首室のある方向からヴァイオリンの音が聞こえてきた。もっとも、この場所で音楽がどこからか聴こえてくることは“不意”でもなんでもなく、方向的にも十中八九、ここの隊長の手によるものだろう。
「お、なんか」
「……今日のはあまり陰鬱ではないですね」
 音楽とは不思議なものだ。それについて特に勉強していなくても、なんだか旋律が明るいとか、なんだか暗いとか、ある程度そういう情感を掴むことができる。長調とか短調とか、コードとか、多種多様なそれらに特別な呼ばわれ方があるだとか、“ここの隊長”――鳳橋に時々習ってはいるものの一回聞いただけでは覚えられなくて檜佐木は悩ましい。
「アレまだ続いてんの、お前の隣にいるとメロディーがってやつ」
「…………」
 からかい混じりに問えば吉良はごく微妙な表情をして、肯定するでも否定するでもなく「さあ、」と返した。
「最近は何も仰いませんよ」
 それはどことなく寂しげに聞こえたが、吉良はいつもどこか陰鬱な調子で話すので檜佐木の気のせいだったかもしれない。違和感を口にするより前に吉良が卓上で書類を整える音のほうが先に鳴った。
「確認しました。多分問題ないとは思いますがもう一人くらいに見てもらったほうがいいかと」
「そうか。雛森忙しそうだし輪堂に頼むかな」
「はい」
 立ち上がり書類を受け取り、土産の干し柿を携えて檜佐木は三番隊舎を辞去する。急ぐ用事でもなしのんびりと七番隊舎に向かって歩きながら、そういえば、とふと檜佐木は思い出した。

 ――いつかあのとき、鳳橋は彼のエレキギターの肌を中指の節で、コン、コン、とやわく打ちながら、密やかに何か歌っていた。コード表を睨めつけながらひとつひとつぎこちなく弦を抑えていく檜佐木の横で、民謡のようなノスタルジックで朴訥とした旋律が優しく流れる。檜佐木はその言語の文法のひとつも理解していないのに、聞こえる声量もそれほどないのに、どうしてか力強さが感じられる言葉の群れだった。
『何の歌スか?』
 歌声が途切れたところで訊ねた檜佐木に、鳳橋はにこりと頬を笑ませた。
『ボクたちはパンもほしいしバラもほしいんだよって歌』

 ――今日、三番隊舎を訪れた檜佐木が見たのは、中庭に面した広縁で軒下に列を成して吊られ光を受けて輝く干し柿と、そのくすんだ赤に遠慮がちに伸ばされた黒い手だった。
 大戦が終結し、復興の途上で三番隊の干し柿作りが再開されたころ、吉良は新任の三席以下の所属隊士たちにその統括のすべてを任せて自身は一切関わらないつもりでいた。その会話の場になんの因果か偶さか同席していたから檜佐木も聞いている。吉良は鳳橋に『死人のしていいことではないでしょう』と言った。死した者の手によって生者の口にする糧食が作られるべきではないと。
 だが鳳橋は返した。
『ボクはイヅルが作った干し柿が好きだから、ボクの分だけでも続けてほしいな』
 そうして微笑む鳳橋を見返した吉良が悲しげに――それはいつもそうだったかもしれないが――眉を下げ、『誰が作っても一緒ですよ』と言い返してからその要請を小さな首肯で許諾するのを檜佐木は端で見ていた。
 したくないことをする必要はないのではないか、と檜佐木は思う――“すべきではない”という彼の口振りが引っかかるにせよ。ただ、吉良の上官である鳳橋の要請があり、吉良がそれを許諾するなら、他隊の死神である檜佐木が口を挟む隙はない。
 だからあの黒い手を見たとき、檜佐木は、鳳橋の要請は決して間違ってはいなかったのではないか、と素直な感情が胸に満ちた。
 生者と死者のあわいに孤独に立つ吉良に対してできることは、少しでもその実存を“こちら側”に属させることなのではないか――同僚として、旧知として、何よりも友人として。
 そうして、誰もいたことのない場所にいる彼と共に悩み、歩むことだって、間違いではないのではないか、と。


 ◇


「すんません、鳳橋隊長、これはだめです、載せられません……!」
 またしても檜佐木は三番隊舎にいた。そうして今回は隊首室で、預かった鳳橋の連載記事を頭を下げながら突っ返した。
「えっ、だめ? どこ?」
「ほぼ全部ですよ! 逆になんでいけると思ったんスか!」
 さも意外そうに身振り大きく驚いてみせる鳳橋に檜佐木は抗議の声を上げる――端的に言えば、吉良のあの句を恋文として認識したのは檜佐木だけではなかったということだ。
「こんなんアイツのことって丸わかりじゃないスか! ラブレターのやり取りをウチの誌面でやらないでください!」
 鳳橋の書いた記事内容は、アートに於ける感性と論理がいかに相反せずむしろ相互に補完し合うかという筋立てに見せかけた、“それはそれとしてボクのインスピレーションの源泉たるイヅルへ賛美と謝辞を捧ぐ”に終始していた。無論、個人名は“イヅル”のイの字も出ていないが、鳳橋の日頃の行いのためによほど事情を知らない読み手でさえなければすぐにそれと判ぜられるものである。
 小手先の技術でわかりにくくなってはいるが冒頭には前回号の吉良の連載記事と例の句への言及もあり、普段通りの心構えで素読みを始めた檜佐木は早々に後悔する羽目になって、読み終わるや否や三番隊舎に瞬歩で乗り込んだ次第だった。
「……うーん、バレたか」
「あ! 観念しましたね! バレるに決まってるでしょーが!」
 いたずらっぽい上目遣いに檜佐木は嬉々として指摘する。鳳橋はいよいよくしゃりと笑って「しくじったなあ」と正体を表した。
「だってあんな……情熱的な……ねえ?」
「いや全然冷めてたと思いますけど……」
 まったく共感できない意見に同意を求められ、困惑しながら檜佐木は返す。
「とにかく、入稿早かったんでまだ間に合います。書き直しお願いします!」
「ええ、もったいなくない?」
「しょうがないじゃないですか……」
 悪びれない鳳橋の言葉に言い募ろうとしたところで、小さく廊下の軋む音がした。開きっぱなしの隊首室の戸を振り返ると所在なさげに吉良が立っている。
「おかえり、イヅル」
 鳳橋がすぐに声をかけ、吉良はそれに軽く一礼した。
「失礼いたしました、出直します」
 そうして下がろうとした吉良を檜佐木は引き留める。
「や、もう終わった。そうだ、鳳橋隊長」
「ん?」
「それ、読むべき相手は“俺ら”じゃないスよね?」
 檜佐木の言葉に瞬いた鳳橋が、すぐにその意図を察して「そうだね」と答える。檜佐木は大きく頷いた。
「そんなら、秘密にしといてくださいよ。新しい原稿よろしくお願いします」
「うあー、ちょっと横暴じゃない? 編集長」
「副隊長が隊長を上回れるなんてこんなことじゃなきゃ無理っスからね」
「そんなことないと思うけどなあ」
 苦笑する鳳橋に一礼して檜佐木は隊首室から辞去する。去り際に軽く吉良の肩を叩くと、彼は訝るような表情で檜佐木を見上げた。それには応えず、檜佐木はゆったりと三番隊舎の廊下を進む。

 ――見えますか、いいえ、見えないでしょう。

 文芸の世界にはそこかしこに行間に隠された意図がある。だが、自由であることを許されているがゆえに、書き手の意図と読み手の意図ですら違いなく重なることは難しい。難しいからすれ違う。そして、“正しさ”など存在しないのに、明確な“誤り”だけは確かにあるから、なおのこと難しく見えてしまうのだ。
 鳳橋は吉良の見た赤い吊柿を情熱的と読んだ。
 檜佐木は吉良の寂しげな声を聞いた。
 そうなら、檜佐木のできることはただこれのみだ。

 干し柿も、言葉も、必要なのだ。いつだって、誰にだって。
 例え届かずとも、檜佐木は二度と後悔したいとは思っていない。

 傷つくのが得意な年下の友人の、くすんだ赤におずおずと触れる黒い手を思い出す。
 ――その傷を癒すことに慣れていこう。お前に空いた孔が塞がることはなくても。
 いつか遠くない未来に、柄にもない態度でそんな言葉を口にするのであろう己を思い浮かべて、檜佐木は小さく微笑んだ。