「あんたって鳳橋隊長のことどう思ってんの?」
 不意の松本の問いかけに、彼女の対面で吉良は顔を上げる。
 松本が恒例化させたと言っても過言ではない流魂街六十七地区花枯に存在する市丸ギンの墓前での吉良との飲み会は、松本の振る舞いに影響されるほどには、ここ数年で吉良が吐くまで飲まされることもなくなっていた。吉良が死人となり体組成が著しく変化したことで、酒精への耐性が若干上がったという事情もあるだろう。
「どうと言われても……尊敬できる上官です」
「それだけ?」
 重ねられる問いに吉良は困惑気味に視線を彷徨わせる。松本には彼について、僅かの確信といくつかの疑問があったために訊ねたのだが、予想以上に吉良の表情は雄弁だった。
 語られないのなら語られないままにしておくことも彼女にはできた。だが松本はもう、吉良を“他者”として見ることができない。大切な友人で、弟のような存在で、誤解をおそれずに言えば親友の忘れ形見のようにも思っていた。松本は吉良に、少しくとも“幸福”であってほしいと願っている。
 吉良と鳳橋の間にはおそらく何かある。松本はそう見て、吉良が思い煩うことがあるのならば彼の助けになりたいと思っていた。
「…………その……」
 俯き加減の憂いの面に、片側を隠す前髪の影が落ちる。
「……実は、少し前から鳳橋隊長とお付き合いさせていただいております」
 おっと。
 松本は内心で驚いたがなんとか表に出すのは防ぐ。その答えは少しばかり彼女の想像のうえを行っていた。
「――少し前?」
「大戦の……一年後……くらいでしょうか。鳳橋隊長からお申し出がありまして」
「だいぶ前じゃない! よく今まで秘密にしてたわね」
 鳳橋の明け透けな性格を思い返しつつ松本が言うと、吉良は小さく微笑んだ。
「態度にお変わりはありませんからね」
 彼の言葉に「ふうん」と返してから、そこに引っ掛かりがあることに気づく。じっと吉良を見つめると、吉良は小さく首を傾げて松本を見返した。
「なんか不満でもあるの?」
 ともすればぶっきらぼうに響く問いかけは、彼女の豪気な性格のために真っ直ぐに吉良に届く。吉良はやはり逡巡する様子を見せてから、遠慮がちに口を開いた。彼の細い体がいっそう頼りなく松本には見えた。
「……不満というほどのことは……。ただ、職務上の関係であればともかく、私的な関係ならすぐに飽きられるだろうと思っていたんです。僕は暗いし、つまらない性格なので」
 松本は吉良の自己評価をすぐに否定したくなってその衝動を押し留める。今は話を聞くのが優先だ。
 吉良の正座した膝のうえで、空になった猪口が色の異なる細い指たちに転がされている。
「……いつ『もうやめよう』と仰られてもいいように心構えをしていたのですが、いつまでもそのときが来ず……かえって、僕のほうが……その、僕はおそらく他人に対する気持ちが重いようで、彼人のことをどんどん……その」
「惚れてっちゃったわけだ」
 からかい混じりに口を挟めば、さっと頬を赤らめてこくりと頷く吉良は松本の目にはますます愛らしく映る。
「なので、今度は『もうやめよう』と切り出されるのがおそろしくなってしまって……わかるでしょう? 僕、絶対引きずるって」
「あんた前科あるもんね。わかるわよ〜。振られたときはあたしがいくらでも自棄酒付き合ってあげるって」
 けらけら笑いながら、松本の脳裏にはいつか負った傷の記憶が蘇る。吉良のそれと似ているようで異なる傷みだが、二人は同じだけの年月を関わり合いによって癒やしてきた。そこにあることを拒絶しない傷痕の存在を、松本は吉良の実存と同じくらい愛おしく思っている。
「でも鳳橋隊長は言わないでしょ? そんなこと」
「……まだ仰いませんが……」
「あの人、変なとこはたくさんあるけど基本真面目だし嘘つけないタイプでしょ。あんたを傷つけたくないから本当のことを言わないとか、別にそんなことはないと思うのよ」
「それは、はい」
「んであんたは鳳橋隊長のことを逃がしたくないと思ってる」
 松本の指摘に吉良は目を丸くし、それからぶんぶんと首を横に振った。
「にが、逃がすとか……そういうのは……僕よりも好い人はたくさんいますし、鳳橋隊長のご判断に異を唱えたりはしません。そもそも僕の体はすでに死んでいますし」
「はいはい」
 それは吉良の本心からの発言であろうが松本にはさほど響かない。それよりも久しぶりに心躍る相談事だ。松本は奔放ではあるが面倒見もいい。ましてや吉良のように抱え込む気質のある年下が内奥を打ち明けてくれることには喜びが隠しきれない。
「……松本さん、面白がってません?」
「やだあ、バレた?」
「やっぱり……! 言わなきゃよかった……」
「あたしは言ってもらえて嬉しいわよ。他には誰か知ってるの?」
 吉良はすぐに首を振る。その応えは松本には少し意外に思われた。
「恋次とか雛森とか、修兵とかも?」
「言えませんよ。いつ解消されるかわからない関係なのに……」
 もう結構経っちゃいましたけど、と続いた言葉にはどこか諦念が感じられる。松本は、鳳橋との間に作られた異なる関係性を過ごすなかで吉良が抱えてきたであろう心細さを垣間見た思いがした。
 決して鳳橋のことを信頼していないわけではないのだろう。ただ吉良は自分に、彼に思いをかけてもらえるだけの価値を見出すことを難しく感じているのだ――かつて、自身の恋慕の情を利用され、信頼していた上官である市丸に“嘘”をつかれて、傷ついた雛森のために何もできず己の無力さを知らしめられたときから、ずっと。
 それは、とても寂しい時間だったのではないだろうか。
「…………あんた、ちゃんと強いわよ」
 ぽつりと松本が言うと、その意図を捉えきれなかった吉良は不思議そうな目をした。
「胸張って愛されていいのよ、誰だって。あたしとあんたがずっとギンのこと愛してるのと一緒で」
「…………松本さんと一緒にしないでください」
「今更照れることじゃないじゃない。恋次や雛森とはまた別でさ、事実でしょ?」
「…………」
 途端に口を尖らせて膨れっ面になる吉良は、その赤い頬と幼い仕草とは対照的な恨みがましい眼差しを松本に向ける。意に介さない彼女はニヤニヤと笑って酒を呷った。
 松本が吉良のことを好きなのは、こうした見返りを求めない――彼自身は“重い”と評する――情の深さを抱えているからというのがひとつあった。
 けれど、構わないではないか。誰だって少しくらい、見返りを求めても。報われたいと願っても。
「ねえ、じゃあ、鳳橋隊長のことはどう思ってるの?」
「…………」
 繰り返されたその問いに、吉良は最後の抵抗のようにしばらく黙ってから、ようやく観念して口を開く。
「……お傍にいると、居心地が良いと感じます」
「最高ね」
 松本にはその言葉だけでじゅうぶんだった。


 ◇


 吉良が現世での任務遂行のために三番隊舎を不在にしている隙を狙って松本はこの場を訪れていた。三番隊隊長の確認を必要とする書類を日番谷の手から強引に奪い取り「あたしが行ってきますよお! いっつも隊長にはお世話かけてますんで!」とのたまって十番隊隊首室を出たところで「向こうに迷惑はかけんじゃねえぞ!」と怒鳴り声が後背から飛んできたが松本は聞く耳を持たなかった。そもそも迷惑をかけるつもりなど毛頭ないのだ。
 どこからか管楽器が奏でるメロディーが聴こえてくる三番隊舎を悠然と歩きながら、行き交う隊士たちと松本は気さくに挨拶を交わす。隊長の在舎を問えば「多分」と返ってくるのには思わず笑ってしまう。いつか吉良は松本に「鳳橋隊長は松本さんみたいな人ですよ」と言ったことがある。そのときは理由を訊ねず茶化して終わったが、つまり勤務態度のことを指していたのだろうか? それとも芸事に覚えがあることを?
 問題なく隊首室に辿り着くと、そこにはきちんと一人分の気配があった。覗き込めば、松本の気配に気づいていたらしい部屋の主人――鳳橋も机から顔を上げてこちらを見ている。
「あれ? 珍しいお客さんだね」
「どぉも〜。ウチの隊長から鳳橋隊長宛に確認事項の書類です」
「いらっしゃい、どうぞどうぞ。今イヅルは出かけてるんだよ、ごめんね」
 何の「ごめん」なのかは見当がつかなかったが、松本は首を振って書類を卓上に提出する。すでにそこにはいくつもの同様の書類があって、吉良から伝え聞いていた――楽器を満足するまで弾かない限り仕事に取り掛からないといったような――“怠慢”な上官の影は見えない。
「吉良、いないのは知ってるんで。雛森と虎徹妹と三人で現世ですよね」
「そうそう。そっか、知ってるよね。あ、お茶飲む? 休んでく?」
「え! いーんですかあ」
 ぜひぜひと言うや否や応接用のソファに嬉々として腰を下ろす松本に鳳橋は破顔する。備え付けたらしい湯沸器を再沸騰させ、慣れた手つきで茶器を用意する姿は、普段から彼がこの部屋でそうして過ごしているらしいことを思わせた。
「イヅルが松本副隊長はボクみたいな人だって言ってたから、書類持ってきてくれたのびっくりしたよ」
「あの子、あたしにも鳳橋隊長はあたしみたいな人だって言ってましたよ。サボり魔なんです?」
「そんなつもりはないんだけどなあ。キミは自分のことサボり魔だと思ってるんだ」
「あー、ははは」
 差し出された湯気の立つ湯呑みを受け取り、明るい緑の水面にそっと目線を落とす。ゆらりと松本自身の影が揺らめいた。
 そのまま鳳橋自身は執務机に戻り、また書類業務を再開する。
「今日はもう満足したんです?」
 松本の不意の問いかけに鳳橋は彼女の持参した書類に向けていた目線を上げ、ゆっくりと眦を細めた。
「今日は聴いてほしい子がいないから、お仕事優先」
「それって吉良?」
「うん、そう」
「なんで一回ぼやかしたんですかあ」
「キミに何も訊かれなきゃ何も言わないでいいかなと思ってさ」
 にぱ、と人懐っこく笑った鳳橋は改めて書類に目を落とす。「ああ、うん」とか「はいはい」と小さく相槌を入れつつ、程なく彼はその精査を終えたようだった。
「はいはい、オッケイオーライ。そしたらこれ十番さんに。ここ置いとくね」
「ありがと〜ございます。ところでなんですけど」
 確認署名を入れられた書類が執務机の端に置かれるが、彼女はこれだけで帰るわけにはいかない。ゆっくり緑茶を飲み干して立ち上がると、彼女は鳳橋の執務机に寄って書類を取った。
「吉良のこと、どう思います?」
「真面目で本当に頼りになるいい子だよ。実務や隊士たちの指導もボクなんかよりてきぱきしてくれて上手だし、何より素晴らしいメロディーに満ちているしね!」
 ほとんど即答であり、申し分のない賞賛だ。嘘はないだろうが、松本のほしい答えはそこにはない。
「そういうんじゃなくて」
 小首を傾げて目を細めた松本を見上げる鳳橋は、目を丸くし、それからゆったりと眦を細めて微笑んだ。
「ずっと傍にいたいかな」
 彼はこれといって躊躇う様子もなく、言い直した。今度は簡潔で、飾りがなかった。
「それって何のために?」
「何のためにって訊かれるとボクのためになっちゃうんだよねえ。イヅルに無理強いはできないから」
 明らかに意図を持って質問を重ねる松本を見る鳳橋の眼差しは、松本の真意を探るようでありながら、穏やかな光を持って害意はない。
「もしかして、キミの許可が必要?」
「まさか、そんなあ」
 多少芝居がかった動作で鳳橋の問いかけを否定し、松本は一歩、二歩、隊首室の入り口へ後退る。
「あたしもほんと、ギンのことがあるまでは吉良のことなんてなんとも思ってなかったんですよ。でも、ギンのことがあったから今あの子のことかわいく思えるのかなって考えちゃうと、それはやっぱ寂しいってか」
 そのとき、室内をさっと通り抜ける風があって、それは鳳橋の髪も松本の髪も揺らした。波打つ二人の髪色の違いに、そういえば吉良の髪もまた違う色していたと松本はふと思い出した。
「――あたしにはちょっとめんどくさい性格の友達がいて、その子の心のなかでは自信家と無価値観論者がずーっと戦ってるんです。その子の友達はみんなその子のこと好きだし、その子もあたしたちのこと好きでいてくれてるのはわかるけど、そんなの、たくさんあったほうがいいじゃないですか。だから、まあ、なんで、鳳橋隊長も今後とも何卒よろしくお願いします、みたいな」
 にこ、と松本は鳳橋に笑みを向けた。鳳橋は驚いた様子でその話を聞いていたが、やがてやわらかく微笑んでひとつ頷いた。
「こちらこそ、よろしくね」
「あは。そしたら、失礼しましたあ」
 ひらりと翻って隊首室から辞去した松本はそのまま廊下から中庭に軽やかに飛び降り、そこにある柿の木を見た。晩春の季節、生い茂る葉のなかにちらちらと白黄の小さい花が萼に守られて咲いている。

 “そんなの、たくさんあったほうがいい”。
 かつて、自分の手だけでは繋ぎ止めることのできなかった親友の銀の髪、あの笑顔が、松本の心臓に焦げついている。

『僕自身のことに少しも興味を示さなかったからです。上官と副官として、業務の滞りない遂行のために少しくらいわかり合おうって態度が、微塵も見られなかったから』
 市丸ギンの何がそれほど吉良に信頼を置かせたのか、と松本が問うたとき、吉良はそう答えた。
『副官として着任したときから様々な業務を任されたんですよ。憧れの死神に任されて嬉しくないわけないじゃないですかあ』
 まだ二人についた傷が瘡蓋にすらなれず、吉良が松本の酒に呑まれていたころ、うねうねと自室の畳のうえでひとしきり転がってからきゅうと小さくなるように縮こまり、『多分僕の好きな食べ物も知りませんよ』とぽつりと続けた彼に、松本は、聞きたかった話を聞いている確かな実感を覚えていた。
『そんなのどうでもいいじゃないですか。僕もどうでもよかったんです。でも……』
 膝を抱えて、吉良は背を丸めた。
『あんな嘘だけはつかれたくなかった……』
 酒精に塗れた熱い息と、前髪の陰から見える片目からほろりと一粒落ちた涙が、彼の身の裡の傷の深さを訴える。

(ギン、)

 松本は苦笑して、畳に転がる吉良の背から、開け放しの窓に光を射し込ませる月に目線を移した。

(あたしだってあんたに、いつでも笑っててほしかったわけじゃないのよ)

「……松本さん?」
 不意に声がかかって、松本の意識が引き戻される。振り返ると中庭に面した広縁に吉良が訝しげな様子で立っていた。
「……すみません、声をかけてしまって。いらっしゃるのに驚いたものですから」
「あー、気にしないで気にしないで。もう用事も済んだしちょっと寄っただけだから」
 くるりと柿の木に背を向け吉良の許に歩み寄り、広縁に腰を下ろすと、吉良も静かにその隣に正座する。
「今帰ってきたの? おかえり」
「はい、一番隊へは既に。これから隊長に帰着の報告に向かうところでした」
「え、ごめん。あたしもう帰るわ」
「いえ、どうぞゆっくりしてらしてください」
 細められた眦からはどことない遠慮が感じられる。そうして松本は、かつて三番隊隊長に鳳橋が復職してから程なく、吉良から「いつでもここへいらしてください」と言われたことが心をよぎった。
 松本は改めて柿の木を見る。少し渋い緑の葉、愛らしい白黄の花たちが風に優しく揺れている。いつかあれらはすべて散り、やがて赤々とした実をいくつもつけるだろう。その営みに嘘はひとつもない。
 隣を見れば、松本の視線に気づいた吉良が小さく首を傾げて見つめ返してくる。
「……? なんですか?」
「んー、なんでもなーい」
 手を伸ばして頬をむにりとやわらかく抓ってやれば、むっと眉根を寄せはしても身じろいで振り解きはしない。
 そのことがどうしてこれほど胸を締めつけるのだろう。
「……はなひてくらはい」
「あは、ウケる」
 言われた通りに指を離し、次いで控えめに頬に触れる。吉良はきょとんと目を丸くして、それから小さく微笑んだ。
「早く秋になるといいですね」
 脈絡はなくとも、松本のなかにその言葉は静かに響く。
「……そうねえ」
 同意を返し、吉良から離れゆっくり立ち上がった松本は目を伏せて大きく伸びをする。
 そうして再び開かれた視野で、光を受けた小さな柿の花たちは、密やかにひかめいていた。
 ――いつかあれらはすべて散り、やがて赤々とした実をいくつもつけるだろう。

(あんたがいなくなっても秋は来る。あんたの好きだった季節が)

「……あんたの髪の色に似てるわね」
「?」

(何度でもあたしの傍に、変わらずに)