冗談じゃねえ!
 冗談じゃねえ!!
 冗談じゃねえ!!!

 彼は足許の覚束ない獣道を必死で走っていた。時折、道に敷かれた枯れ葉の下から見え隠れする太い枝に転びそうになるのが煩わしい。

 なんっっっで長野の山奥にトラがいるんだよ!!!?

 この派遣任務に就く前、最終確認で担当研究員は言った。君の命の安全は保障されており、危険なことは何もない。この“三日間”は天候の崩れる予報もないからつつがなく任務は完了する見込みである。もちろん、君が不用意な行動をしないことが大前提でもある。必ず先に通達しているプロトコルを遵守するように――クソが、もっとわかりやすい言葉で言え! それとも何か? それらの言葉がすべてつまり、長野の山奥にはトラが棲んでいるって意味だったってのか!?
 彼は走りながらも後ろを振り返る。そこには避けながら走ってきた雑木林があるばかりで、どうやらトラは追ってきていないらしい。さすがに彼にもトラが自身より足も速く鼻も利くことくらいはわかったから、どうやらあのトラは腹がいっぱいだったか、最初から彼に興味がなかったかどっちかだろう。真正面から向かい合った彼が悲鳴をあげて背中を向けて逃げ出したとしても――だ。

「たっ……助かった、のか……」

 彼はようやく逃げ足を緩め、俯いてポケットから小型の通信機器を取り出した。着任時、この“三日間”の己の住処であるテントに設置されているGPSの反応を確認するために、と件の担当研究員から渡されたものだ。

「いや、それ……完全にこの山ん中を逃げ回る前提じゃねえか……あの野郎……」

 モニターを見ると彼の左手方向、少し行ったところにテントはあるようだ。もう向かっちまうか……任務完了まで寝て過ごすぞ……そう決意した彼が顔を上げたとき、

 目の前に、

 巨大な、

 真っ赤の、

 ダルマが。

 ピェェエエエ……と、長野の山中に甲高い悲鳴がこだました。


 ◇


 ――ああ、どうしよ。この人目を回しちゃったよ。
 ――頭は打ってない? うん、大丈夫みたいだね。
 ――このままここに置いてちゃ鳥やシカにふんをされちゃうかも。
 ――あの布のおうちに連れてってあげよう。

 ずり、ずり、と体が引きずられている感覚がある。首が締まって少し苦しい。そのうち、何か布が擦れる音がして、ぼすん、とどこかへ彼の体が放り投げられた。
 何が起こってるんだ……?
 頭が重く、目を開けることも億劫だ。彼の体の下にあるのはどうやら枯れ葉のカーペットではないようだし、このまま二度寝がしたい……。彼は寝返りをうってくるりと丸まる。そうすると、胸許に小さなもふもふの何かが“すり寄ってくる”のがわかった。そのもふもふは彼の腕のなかに落ち着いて、ぷう、とどこから出したのかよくわからない音を立てる。

 ――人間もこうやって寝るんだねえ。
 ――おやすみ。明日もまたよろしくね。

「ああ、おやすみ……」

 彼はゆっくりともふもふを“撫ぜた”。“あたたかくて、やわらかい”。“生きている感触”がした。