雨が多い、気鬱な季節だ。
 朝はちゃんとわかっていた。部活動の朝練習のために先に家を出る兄を迎えに来た兄の友人も、今日は雨だぞ、と注意してくれた。友人と待ち合わせをしているとかでどたばたと家を出て行った妹も「忘れないようにしなきゃ」とやけに大きな独り言を言いながら傘を取って行った。父の分の傘は既に傘立ての中になかった。
 ただ、どうしてか孫権はぼうっとしていて、それだからこんなに雨の降る日に傘を学園に持って来るのを忘れてしまった。
 眠気を誘う午後一番の英語の授業、机に頬杖を突きながら孫権は教室の窓の外を見る。何度瞬きをしても少し前に降り出した雨が止むことはない。遠くはないが決して近くもない家路を、雨に濡れながら帰る己の姿を思う。
 何せ今日はつまらない日だ。だって部活は休みだし、政治経済の授業がない。
 四月から新しく陽虎学園に赴任して来た教員の内の一人に、社会科政治経済担当教諭の于禁がいた。もともと陽虎学園のライバル校でもある鳳凰学院で教鞭を取っていた彼は、理事長である曹操の折り紙付きであったという。なぜそのような立派な人物がこの学園に転任して来たのかは、孫権の知るところではない。
 年若い孫権にとって、彼と出会えたことが大切で、すべてだった。
 苦み走った顔つき、乱れなく丁寧に整えられた頭髪、一分の隙もなく着こなされたスーツ、口を開けば低く響く、さびのある声。
 正しいことをないがしろにして、たむろしていれば恐れるものなど何一つないと誇らしげに歩く自信を体いっぱいに膨らませた生徒たちを、その声で于禁は一刀両断にした。新任教諭の振る舞いに楯突く者もあれば陰で罵詈雑言を飛ばす者もあったが、ぴんと背筋を伸ばした彼はそれら全てを意に介さなかった。
 父の経営するこの学園で傍若無人な行いをする者たちを、孫権だって糾弾したかった。それができなかったのは己の身の可愛さゆえで、勇気のなさゆえだ。最上級生である兄や兄の友人たちの目が行き届けばきちんと咎められたそれも、見過ごされてしまえば野放しになるだけで、取りこぼしを掬い上げる力が孫権には足らなかった。
 于禁の大きな背に孫権は魅了された。
 そうして、彼の目に映るものが不正を働く者たちばかりでなくて、自分のように、正しくありたいと願う者でもあればいいのにと思った。
(本当はいつだって正しくありたいと願っているのだ、孫権だって)
 誰かの視野に入りたくて努力するのは慣れなくて少し空回りしたこともあったが、今、新学期が始まってから二か月経った今、ほんの少しでも他の生徒たちよりは覚えてもらえているんじゃないか、と孫権は自負する。だって彼の視線を追っていれば、時々ぱちんと孫権に焦点が合うことに必ず気づける。そしていつもは眉根に寄っている皺が、その一瞬ふと消えて、彼の鋭い目つきが柔らかく細められることもわかる。
 その顔が、孫権はすごく好きだった。
 そんなことを考えながらぼんやりしていて、英語教諭に怒られてしまった。ついでに隣の席で教科書を壁にして居眠りしていた朱然もまとめて怒られて、二人で顔を見合わせてこっそり笑う。
「早くガッコ終わんないかなあ、今日ゲームの発売日なんだよな」
「ああ、ずっと言っていたやつか?」
 そう、それそれ、朱然は少し興奮したように言う。
 孫権も同じことを思う。早く終わんないかな。
 放課後に職員室に寄ってから帰ろうかな。何か適当な理由を探して、そうだ、明日の授業の範囲を予習したくて、とか、そんなことならきっと感心してくれるはず。若い思考は策略と打算に満ちて、少しでもその他大勢を出し抜きたくて、一歩前に出たくてうずうずしている。
 ――あの表情で自分だけを見ていてほしい。

 終礼を経て、放課後の始まりを告げるベルが鳴る。その音とほぼ同時に席を立った朱然は、じゃあ、また明日! と忙しなく教室を出て行った。きっと明日の授業でも居眠りをするんだろう彼に、孫権は小さく微笑む。自分は鞄の中から――本来は今日の授業内容には不要だった――政治経済の授業道具一式を出して、同じように教室を出る。
 放課後の廊下は賑やかで、帰りに何処に寄って帰ろうとか、誰の家に遊びに行こうとか楽しげに交わされる会話の間をくぐり抜けて行く。皆とは少し違う理由で、孫権の足取りも軽やかだった。
 職員室は一階、吹き抜けになっているエントランスホールから特別教室棟に向かう廊下の一番手前にある。
「失礼します」
「おやあ、孫権殿」
 ちょうど入り口すぐ近くにいた地理の担当教諭である韓当が声をかけてきた。父の古くからの友人でもある彼はにこにこと笑って、どうされました、と言う。
「于禁先生はいるか? 明日の授業のことで聞きたいことがあるんだが……」
「于禁先生? ちょうど今帰られたが、お会いしませんでしたかな」
「帰った!?」
 孫権は瞠目した。放課後は毎日彼に会いに来ているというわけでもなかったが、この二か月で孫権の覚えている限りでは初めての出来事だった。于禁はいつも遅くまで職員室に残って、何か作業をしていたように思う。一度、部活動が長引いて夜七時過ぎに部室の鍵を返しに訪れた時も、彼は姿勢よく自身の席に就いて翌日の授業の準備をしていた。
 そういえばその時、少しだけプライベートの話をしたのだ。とは言っても、その日の夕飯は何かとかそういう他愛もない話題だったが。
(彼は一人暮らしをしていて、食事は自炊だそうだ。コンビニ弁当は絶対に買わないが、スーパーの惣菜はたまに、買う。世話してくれる者は、いないそうだ)
「そ、そうか。わかった。ありがとう韓当」
「いいえ、今追いかければ間に合うかもしれませんな。お気をつけて」
 立派な髭を蓄えた韓当の口元が笑む。孫権はうん、と頷いて職員室を辞去した。
 慌てて走り出す。于禁本人が見ていればきっと、廊下を走るな、と怒鳴られただろう。エントランスホールを横切ってまっすぐ反対側に位置する昇降口に向かう。普段は利用しない教員用の玄関を大股で渡って外に出ると、校門の傍に黒い傘を差した大きな背が見えた。
「于禁先生! 待ってくれ!」
 孫権は大声で叫んだ。届かないかも知れないと思ったが、意に反して彼は振り向いた。その目がきょとんと丸く見開かれる。見たことのない表情だった。
「待ってくれ、ちょっとだけ」
「どうした、孫権?」
 于禁の声が、雨音にけぶって遠く、しかし確かに孫権の耳に届いた。
 今日のところは諦めたってよかった。明日は政治経済の授業があるから、明日になれば必ず会える。どうせ適当に作った用事なのだから、優先されなくてもよかったのだ。ただ、わがままに彼を引き留めた。于禁は帰りかけていたきびすを返してまっすぐに孫権の元に来てくれた。
「どうした、何かあったか。……待て、内履きのままで外に出るものではない」
「すまない、ちゃんと履き替える。一緒に入れてくれ、傘を忘れたんだ、途中まででいいから」
「……何だそれは。そんなことのために引き留めたのか? 第一、今朝から天気予報で雨が降ると言われていただろう」
「そうだ、ぼけっとしていたら忘れてしまって。迷惑はかけないから、ちょっとだけでも」
「……わかった。わかったから、早く支度して来い」
 必死な風の孫権の様子を認めたのだろうか、于禁は呆れたようにため息をついて、顎をしゃくって屋内を示した。孫権は二度頷いて、教室に戻るために駆け出す。
「早くとは言ったが、廊下は走るな!」
 やはり于禁の怒号が飛んだ。
 そんなこと、と彼は言った。そんなこと、と孫権は思わなかった。彼は傘を持っていた。孫権の手元に傘はなかった。一足飛びで階段を駆け上り、教室に着くと勉強道具を乱暴に鞄に詰め込んで、また駆け足で来た道を戻る。生徒用の昇降口で内履きをスニーカーに履き替え外に出ると、待っていた于禁が孫権を見て眉尻を下げて目を細めた。
「廊下は走るな」
「何度も言わなくても、わかっている」
「ほう? シャツの裾が出るほど慌てていたようだが」
 指摘されてぐっと詰まる孫権は、頬を膨らませて学生ズボンにシャツの裾をしまいこんだ。きちんとした身だしなみも于禁の好むところの一つである。
「衣更えしたからと言って、弛んだ振る舞いは厳禁だ」
「……はい」
 返事をする孫権の肩を、于禁の大きな掌が二度柔らかく叩いた。
 一所懸命になって己を引き留めた孫権の様子を、于禁はどのように解釈したであろうか。閉じていた黒い傘を開いて、彼はその下に入るように孫権を促す。孫権はなるべく彼に近づくように傍に寄った。
 歩き出した二人を覆い隠す大きな傘の上に雨粒が絶え間なく落ちてくる。于禁は孫権よりも頭一つ分くらい身長が高く、そのせいで二人の間には想像以上に大きな空間が広がっているように孫権には感じられて、余計に寄り添いたくなってしまう。本当は違う歩幅も、于禁が少しだけ縮めて歩いているのには、すぐに気づいた。
 何か、訊かれるだろうか。きっと于禁の目線から見れば、孫権は己を慕う一人の生徒のはずだった。きっとこの生徒には、今日何か――あまり好ましくない何かがあって、それを親しい教諭に相談したくて、あんなに必死になって引き留めたのだろう。彼は教諭として生徒にどう声をかけるべきか、どう教え導くべきか、考えているに違いなかった。
 孫権の思惑はそうではないのに、于禁はきっと孫権のために言葉を尽くしてくれるのだ。
「……何かあったか」
 低い声が、ささやくように、孫権にだけ聞こえた。気遣うような声色だった。
 それが聞けただけで孫権はよかった。何もないのだ。何もない。
「いや……」
「……言いにくければ、言わずともよい」

 ほんの少し弱いふりをすれば、すぐに優しく受け入れてくれる、そういうやわなところがある人だ。あんなに厳しい顔で、あんなに厳しい声で、あんなに厳しいことを言ってみるくせに、孫権の肩を叩く手は柔らかく温もっていた。
 無邪気なつもりの顔をしてその手を取っても、彼は振りほどかずにいてくれるだろうか?

「……何だ」
 黙ったまま孫権は、于禁のスーツの裾をちょっとだけ掴んで、その額を彼の肩口に摺り寄せた。困ったように彼が身じろぐのが伝わる。
 ぱっと、すぐに孫権は離れた。
「二年生になってから、授業が難しくて。ついて行くのも大変なんだ」
「お前がか? 過日の試験では然程悪くない点数だったように思うが」
「だったらいいんだが。自分で思うより手応えがないんだ。……于禁先生、よかったら政治経済だけじゃなくて、他の教科も指導してもらえないか? ああいや、違う、そうじゃなくて」
 まくし立てる孫権に眉をひそめる于禁を見て、言い募る。
「考え方の、コツとか。于禁先生の教え方が、多分私には、一番合ってる」
「……一人の生徒をのみ贔屓するなど言語道断。教科担当の先生方はそれぞれ専門のプロであり、彼らを差し置くなど無礼にも程があるぞ」
「……すみません」
 鋭い声で言う于禁に、結果は見えていた孫権は肩を竦めるが、続けられた言葉に目を見開く。
「もちろん……彼ら一人一人の独自の指導方法がすべての生徒に間違いなく行き渡ることなど到底無理難題であろうが。私の教え方が一番合うなどと、奇矯な生徒はお前が初めてだ」
 ぱっと顔を上げ于禁の表情を覗き見ると、きまり悪そうに視線を遠くにやった彼はきゅっと薄い唇を引き結んで、これ以上何か付け加えることはないようだった。
「……どうしても、どうしても、考えても、わからなかったら、その時訊きに行ってもいいか?」
「……ああ」
 短い返答に孫権は笑って、さっきしたように于禁の肩口に額を摺り寄せた。
「ありがとう、于禁先生」
「……いいや」
 一瞬、傘の下に沈黙が落ちた。于禁が顔を上げたのが触れ合っている場所から感じられて、つられるように孫権も振り仰ぐ。
 視界に拡がる西の空、雲の切れ間から光が射し込むのが見えた。
「……天気予報によれば、明日は晴れだ」
「そうか。……じゃあ、傘は要らないな」
 それでもまだ二人の上には雨が降る。孫権は黄金の雲間をにらんだ。

 このままずっと晴れなくたっていい。
 雨が止まなければいいのにと、孫権は祈っている。