じきにこの地域も梅雨入りするそうだ。暗く、重く凝った灰色の空、もうしているのではないか、と朝の窓にたたきつける雨を見ながら于禁は思う。
 昨日の晴れ空は夕方にはもう曇っていた。夜半から降り出した雨は、天気予報を見る限りでは一週間は続くらしい。
 晴れるのならば傘は要らないな、と言っていた彼は、どうしただろうか。一昨日、まったくもって訳のわからぬ言い分で己の傘に割り込んできた彼、孫権は、あろうことか土砂降りの予報のあった日に傘を家に忘れてきたと言った。呆れながらも彼の必死の形相を見るにつけ、放ってはおけないと思った。
(実際は彼が誤魔化した可能性はあるにせよ、然程大したことのない、むしろ好ましく思われる悩みだったのだが)
 教職に就いてより時が経ち、思い返せば、生徒に頼られることなどほとんどないような教師生活を送ってきた。厳格であれ、正善であれと背筋を伸ばし、未成熟な若者たちを補導することを目的としてきた于禁を、その生活には勉学のみならず遊びをも必要としている生徒たちが敬遠するのは自然なことだった。教諭に対してはよくあることなのだろうが、陰口を叩かれている場に居合わせてしまったことも一度や二度ではない。
 そのような些事に于禁の心は動かされなかった。若さが少なからず軽率さに通じることも、腹を割って話すことのできる友人がいることの心強さも、理解しているつもりだった。それらがいずれ己の軌道を離れ、失われることの恐ろしさも、もちろん。

「于禁先生、おはよう!」
 低いながらも丸みを帯びた声が于禁の背後から飛んできた。振り返らずとも聞き慣れてしまった声色に、于禁は口角を結び、勿体ぶったように肩から顧みる。
「おはよう。今日は傘を差しているようだな」
「ああ。こうも朝から降られては、忘れるものも忘れられないだろう」
 笑みを浮かべ肩を竦める孫権に、フ、と于禁は鼻を鳴らす。孫権はごく自然に、于禁の隣に立って歩き始めた。
「そうだ、于禁先生、今朝のニュースで見たんだが……」
 時々こうして孫権は、高校生らしからぬ話題を引っ提げて于禁に話しかけてくる。彼独自の視点から語られる疑問や提言に答え、補足したり感服したりしながら、于禁はそのことを不思議に思った。教諭として公明正大で清廉な生徒を育てるという理想はあれども、実際に彼のような“真面目さ”を見せつけられてしまうと、当惑しないと言えばうそになる。
 そのくせ友人たちとつるんで高校生らしく振る舞う、年相応な面だってあるのだからなおさら首をかしげる。その姿を遠目にする以外は、孫権は于禁の前でそういった若々しさを見せることはほとんどない。
 だから、だろうか。
 あの日、己の肩に額を寄せてきた彼に、スーツの裾を弱い力で引いた彼に、息が止まってしまうかと思ったのは。
「先生? 私の話、聞いているか?」
 不意に正面に回り込んできた孫権に顔を覗き込まれ、于禁は上半身を引いた。
「ああ……すまない、何だったか」
「……いや、いい。先生に無理させたくはないしな」
 微笑んで、孫権はまた于禁の隣に並ぶ。不遜な物言いに、于禁は小さく眉をひそめた。
「生徒に心配されるようなことはない」
「でも今、その生徒の話を聞いてくれてなかった。大丈夫、ずっと父の姿を見てきたから。教師という職業の大変さはわかっているつもりだ」
 若々しさを感じないのは、彼のこの態度や口調のせいもあるかも知れなかった。于禁が新しく赴任した陽虎学園は、孫権の父親である孫堅の経営する私立学園だ。本人も言うように幼い頃から学校経営に触れ、教職員の中に馴染みの者も多い孫権は、頻繁に職員室を訪れては地理の担当教諭である韓当や、国語の担当教諭である呂蒙らと談笑している。前任の鳳凰学院では見られない光景だっただけに初めの頃は眉根を寄せていた于禁も――実際に注意をしたこともあったが、韓当や呂蒙に生徒と教職員の垣根がないのがこの学園の特色だとか、こうして生徒と交流を持つのも大切なことだと思いますよだとか返されては、新参者である于禁は口を噤むよりなかった――いつしか彼の姿に慣れ、会話に乗るまでになってしまっていた。
 笑顔は可能性に満ちて、輝いている。
 それを見るのが、楽しみにもなっていたから。
「……大きな口を叩くな。それより、今日の授業の準備はきちんとしているのであろうな?」
「もちろんだ! いつ私に問題を掛けてもいいぞ」
「そうして構えている者に掛けると思うか?」
「はっはは、掛けないな! 言わなければよかった」
 肩を大げさに揺らして孫権が笑う。覚えず、于禁の口元にも笑みが浮かぶ。孫権の碧眼が雨を反射してきらめき、柔らかく細まった。
「……ふふ、先生、ありがとう」
 唐突な言葉に、于禁は首をかしげる。
「何がだ?」
「先生の目が鋭く見通すから、私も勉学に励むことができる」
「……先達てもそうであったが、もしやお前は将来教職に就くつもりでいるのか? であれば進路指導の魯粛先生にその旨伝えて――」
「あー、いや、そうだなあ。そこまではっきり意識しているわけではないんだ。学校経営は兄が継ぐことになるであろうし、私自身の将来はまだ漠然としている。ただ、そうだな。于禁先生と共に仕事することができるなら、教師になるのもいいな」

 また。
 息が止まりそうになった。

「……そうして煙に巻くのはよせ。我々教職員は、生徒一人一人をそれぞれの志望する道へ教え導くためにいるのだから」
「……わかっている、ありがとう、先生」
 なぜか情けなく眉を下げて孫権はまた笑う。
(そんな顔が見たいのではない)
 泣きそうなその表情を見つめたまま、于禁は唇を引き結んだ。きっとこの生徒の体の内に、誰にも言えない悩みや痛みがある。

 生まれてから今この時点まで続いてきた己の人生の軌道上、あまりにも多くの人々と並び、連なり、すれ違った。彼彼女ら一人一人の中に、一人一人の考えがあった。于禁がそうであったように彼彼女らにも、息も絶え絶えになりながら越えてきたであろう眠りに就くことのできない夜があった。
 教壇に立ち、整然と並んだ席に着き自分を見上げる生徒たちを見渡すたびに、そのことを思う。若く、幼く、弱い生き物がそれ自身の力で立ち、暗闇の中を歩いて往かねばならない恐怖を。その時に道しるべとなるような灯火が目の前にあるだけで、どれほど心安らぎ、救われるのかを。

「せ、先生?」
 気が付けば、于禁は孫権の頭に手をやっていた。頬を淡く染めた彼の柔らかい髪をなぜて、二度弱く叩く。
「あ、あの……」
「私一人ではお前の不安のすべてを取り除くことなど不可能だ。教職員の中に知己も多いお前には、恐らく私よりも有用な人脈があるはずだろう。持てるすべてを使わぬ手はないぞ」
 互いの眼前に横たわる空間に渡す腕、スーツの袖が案の定雨に降られて濃く染まっていく。孫権は目を丸くして于禁を見上げていたが、やがて自身に伸ばされた于禁の手を力強く握った。
「そ、そうじゃないんだ、先生!」
「孫権殿! 于禁先生! おはようございます」
「おーっす、孫権殿ぉ。于禁先生もはよざいまっす」
 声と同時に、于禁の視界に映る孫権の傘の後ろに二つの影が見えた。孫権のクラスメイトであり幼なじみの朱然と、学年は一つ下だが家が近所であり同じように幼なじみだという陸遜――これらのことを于禁は孫権から聞かされた――が立っている。勢いよく振り返った孫権は慌てて于禁の手を解放し、お、おはよう、二人とも、と居たたまれなさそうに挨拶を返した。
「何してんの? 早く教室行こうぜ」
「孫権殿、今日の練習ですが、サッカー部はエントランスホールでいいんですよね? 一年生の皆にはそう通達していたのですが……」
「あ、ああ、そうだ。筋トレになるからボールは必要ないぞ。って、あ……」
 于禁には、もう彼の隣に己がいる必要はないように思われて、静かに三人から離れた。雨音に混じって耳に届く、朱然の笑い声、陸遜の相槌、孫権の応答。
 これがあるべき姿なのだ、と于禁の内奥から声がした。本当にその者の力になりたい、そう思える存在が目の前に現れたときには既に、その者の手の中には力がある。いつだってそういう寂しさが于禁の隣に添っていた。

(遠くから見守ることも悪いことではない、彼が友人たちに振りまく笑顔を垣間見たとき、心からそう思えた)

 足早に校内に入った于禁は職員室に向かう途中で、巻き上げた大きな世界地図を大量に抱える韓当に会った。
「ああ、おはようございます、于禁先生。今日は遅かったですな」
「おはようございます。途中で孫権と会いまして、少し話し込んでいました」
「孫権殿は本当に、于禁先生のことを慕われておりますなあ」
 于禁が何本か引き受けると、ありがとうございます、と韓当はにこにこと笑う。
「先達て先生が用事で先に帰られたことがあったでしょう、その時も」
「ああ、引き留められました」
「そうか、それはよかった。帰ったと俺が申すとすぐに出て行かれたもんですから、ちゃんと追いつけたなら何より」
 快活に笑う韓当の横で、于禁は胸が締め付けられる思いがした。
 降りしきる雨をものともせず、孫権の大きな声は于禁の元まで飛んできた。振り返り、目に入ってきた彼の切羽詰まったような表情に焦りを覚え、内心慌てて踵を返し来た道を戻る于禁を見つめる孫権は、目に見えて安堵していた。
 シャツの裾がズボンからはみ出るほど、急いて急いて走る彼の後姿を思う。
「……然程心配することはないように思われましたが」
「それならそれでいいじゃないですか。我々教師なんぞ煙たがられることだって多いんですから、普段の何気ない話をしてくれる生徒がいるなら嬉しいことですよ」
「孫権は昔から、そうなのですか?」
「うーむ、兄君の孫策殿が活発であるのに対して、いささか引っ込み思案ではありましたかなあ。我々は古株ですから慣れてくれているが、初対面だった于禁先生に対してもああして馴染んでいるのには、意外な気もしますな。いや、悪い意味でなく」
 職員室に入り、二人は隣り合うそれぞれの席に着く。世界地図を片付け始める韓当を横目に、于禁は眉根を寄せますます厳めしい顔つきをするのに努めた。

 期待などせずに生きてこられた、今までは。
 己自身にすら私情を挟む隙を与えず、峻烈な佇まいを守って生きてきた。そのことが他者との間に軋轢を生み齟齬をきたしても、己の在り方を変えるまでの影響を及ぼすことはなかった。それが原因で心安い地を離れ、今ここに到ることになっても。

「さて、そろそろ行きますかな」
 韓当の声に、于禁ははっと顔を上げた。一限目の授業が始まる五分前。今日、于禁の受け持つ最初のクラスは、
「二のA……」
 孫権のクラスだ。
 そう思えば足取りが重い。他の授業での彼の態度を知る由もない于禁の憶測であり妄想でしかないが、孫権が妙に己の授業に積極的に参加してくれているような気がすることを、勘違いにしたくはない自分がいる。
 雨音だけが響く静謐な廊下、二年A組の教室の入り口に立ち、于禁は深呼吸する。昨日までの自分は一体、どのような気持ちでこの扉を開け、教壇に立ち、生徒たちを見渡していたのだろう。

 始業のベルが鳴るまでに、これからするべき己の挙動を思い描く。ベルに背中を押されるように教室の引き戸を開け、大股で歩いて教壇に立つ。一呼吸置き、生徒たちに向き直って彼らを見渡すとき、
 一番最初に見る彼の碧眼が、あの日、曇天の雲間から射した一縷の光のように、
 輝いていますように。