いつ頃からか、気がつけばという表現にしかならないが、どうにも孫権がにこにことして機嫌がいい。声も弾んで気持ちがよく、話しかける者も話しかけられる者も皆自然と気分が上向いてくる。
 軍の所有する物資と金銭が、主に城壁の建造、武器・秘計類の購入により逼迫した状況に陥ったため、大将軍・于禁が陣頭指揮を取り、政庁において政務や軍務に従事する者を対象に質素倹約令を敷いたのが一月前。酒や嗜好品の類いを倉庫の奥にしまって固く扉を閉ざし、いつか来るべき経済的夜明けのために私は身を粉にして働くぞ、などとのたまいながらそれでも三日三晩大好きな酒のことを思ってため息ばかりついていた君主は、どうやら知らぬ間に立ち直っていたらしい。
 良いことだ、と朱然は力強く頷き、同時に、何があったのだろう? と疑問に思った。
 未だに酒を飲めていないのは皆同じだ。孫権ほどではないにしても朱然だって酒は好きだし、他の面々もそうであろう、張郃などは酒より舞とか言いそうではあるが。何か気鬱を発散させるような、それでいて金のかからないような道楽でも見つけたのだろうか。

「何かあったんですか?」
 わからないことは手っ取り早く本人に尋ねるに限る。それが許される間柄だ。
 孫権はきょとんと青い眼を丸くして、何のことだ? と問い返した。
「や、最近機嫌がよさそうだなーと思ったんで。禁酒法が敷かれてから酒も飲めなくて苛々するんじゃないかと心配してたんですけど、大丈夫みたいですね」
 禁酒法とは、于禁による質素倹約令によって煽りを食った孫権を揶揄した龐統の言である。
「ははは、そんなことでいちいち腹を立てたりはしない。さすがに気分は沈んだが、今この時にあっては適切な措置であろう」
 そもそもが政略方針の主眼を防衛に置いた自らの決断だから文句もない、快活に笑う孫権の声はやはり伸びやかだ。
「それに、皆の建設的な提案と奮励努力で少しずつ財政の先行きも明るくなりつつある。経済政策は一朝一夕で結果が出るものではない。長い目で見ていこう」
「そんならそれでいいんですけど」
 脇に抱えた竹簡や巻紙を孫権の傍らにある文机に並べながら、朱然も少し笑う。
「これが城壁の損壊と補修について、これは夷水の灌漑について、こっちは兵たちの練兵を兼ねた農役と……それからこっちが交易です」
「やれやれ、大変だなあ」
 苦笑を浮かべながら、文机の上にある竹片の一つに手を伸ばした孫権は、そこに書かれた文字を見て目を細めた。
「んふふ」
「? 何か面白いことでも書いてあります?」
「ん? いいや……」
 そのまま鼻歌を歌いながら書面に目を通していく孫権に、朱然はますます不可解な表情を浮かべた。おかしい、機嫌がよすぎる。
「なあ、本当に、なんかあったの?」
 思わず――若かりし頃のような――砕けた口調になってしまって朱然は慌てて口を押さえるが、ぱっと顔を上げた孫権が嬉しげに笑ったので、まあいいか、と肩の力を抜いて首を傾げてみせる。
「いいこと?」
「いいこと、そうだな。いいことだなあ……」
 孫権は手招きして朱然を側近くに寄せた。元より今ここには二人しかおらず、ましてや彼のためだけに設えられた執務室だというのに、まるで内緒話を耳打ちする子供のように孫権は声をひそめる。
「好きな人が、いるんだ」
「…………はあ?」
 素っ頓狂な朱然の返答を聞いた孫権は一層笑みを深めて、ふへへ、などと怪しげな息を漏らす。他方朱然はまるでこの場にそぐわない言葉のために瞠目していた。
「すっ……はあ? え?」
「正確にはずっと好きなんだが、なんだかこのところもっと好きになったというか、好きでいることが嬉しいものだというか。なんとなくそう、実感してなあ」
 とっておきを差し出すような声色に、朱然は眉を寄せる。
「ずっとって、いつから? 初めて聞いたぞ、そんな話」
「うーん、出会った頃からと言いたいところだが、どうだったかなあ」
 孫権の筆は踊るように竹片の上を滑っていく。朱然はその軌跡をぼんやりと追いながら、頭の中では孫権の言う『好きな人』に該当する人物を探していた。政庁には女はいないから、孫権の私邸で働く女官であろうか。家の中のことまではさすがに朱然もわからないから、それ以上追及のしようがない。
「…………誰?」
「それは秘密だ。先方の都合もあるし、何より私の片恋だから」
 率直な問いにはさすがに答えてもらえないようだ。朱然は口をとがらせて、不満の表情を浮かべる。
「そこまで言われたら気になるよ」
「私も、本当は言いたいんだが、でもだめだ。話を聞いてくれてありがとう」
 ずっと誰かに言いたかったんだ、と孫権は爽やかに笑う。彼の中にあるのは東から吹く春の風のような気持ちの良い恋心のようだったから、そんならしょうがないか、と朱然も納得するに至った。

 孫権に預けられた竹簡を抱えて、朱然は廊下を駆け足で渡る。お前にさせるべきことではないのに、と眉根を寄せた孫権を、俺がやりたいんだからいいんです、と言いくるめて執務室を辞去してきた。孫権の様子を尋ねることが一番の目的だったから、それ以外の些事に頓着したりはしない。
 文官たちが忙しなく働く政務室にほとんどの竹簡は預けたが、二つほどは孫権軍の筆頭軍師である龐統の精査を必要とした。彼の政務のために宛がわれた参謀室に顔を出すと、なぜかそこに大将軍である于禁も坐して政務をこなしていたのには笑ってしまった。
「龐統殿、また持病の怠慢ですか?」
「怖い医官殿に就かれちまったよ。朱然殿、どっかに連れて行っておくれ」
 その軽口を聞くなり眉間に皺を寄せた于禁を横目に、無理です、と高らかに朱然はのたまい、上座に坐る龐統の傍にある文机に竹簡を二つ置く。
「ちょうどよかった、こっちは于禁も目を通しておいてくれ。あんたの具申だろ?」
「ああ、そうだ。手間をかけたな」
 それじゃあ俺は練兵場にいるから、と言い置いて一旦は参謀室から辞去した朱然だったが、しばらく歩いてから、自分も于禁の提出した具申について目を通しておくべきか、と思い至る。踵を返して改めて参謀室前に戻りその扉に手を掛けたとき、中から龐統の楽しげな声が聞こえてきた。
「ああ、孫権殿は機嫌が本当にいいようだね」
 機嫌がいい孫権。その言葉になぜかどきっとして、朱然は思わず横の壁に退いた。
「どうした?」
「ほれ、お前さんの具申についての返答。文字が踊ってるよ」
「…………内容はまともなようだな」
 はあ、とため息をつく于禁。龐統がフフ、と笑い、竹簡の鳴る音が静かに響く。
「お前さんも嬉しいだろう、思いをかける相手の機嫌がいいと」
「……………、なんだそれは」
「おや、違ったかね」
 その言葉に、盗み聞きをしている朱然の目が見開く。
「違……いや、違わない。……その通りだ」
「お前さんは心を鬼にするのが本当にお得意だね。酒を倉に押し込めたときの孫権殿も面白くて見るに堪えなかったけれど、お前さんも大概の表情だったよ」
「公私混同するつもりは毛頭ない。必要性については孫権が一番よくわかっているだろう」
 口に当てられた布でくぐもった龐統の低い笑い声と、そうだね、という柔らかな返答。数瞬、室内に沈黙が下り、にわかに、ふう、と于禁の息を吐く音が聞こえた。
「……わかりやすいか、私は」
「いいや? あっしもお前さんの気持ちを知っているから得心するだけのことさ。お前さんには何の落ち度もないから安心しなよ」
「そうか……、……よかった」
 それは本当に、心の底から安心したような響きを持っていた。覚えず、朱然の胸に罪悪感がのしかかる。自分は今、誰かの秘密を聞いてしまっている。
「……だが、そうやって人の不意を突くのは、戦でもない限り感心せんな。お前はいつもそうだ」
「お前さんの驚く顔は特に面白いねえ」
 やめてくれ、とあまり聞き覚えがない于禁の気の抜けたような、情けないようなその言葉を背中で受け止めながら、朱然はひっそりとその場を離れた。

 ◇

 気落ちした様子で練兵場に現れた朱然に気づいたのは、その場で兵士たちを指導していた諸葛誕だった。
「どうかなさいましたか。どこか体のお加減でもお悪いので?」
「いや……悪い。なんか、滅入っちゃって」
 頭を掻いて力なく笑う朱然を、諸葛誕は沈痛な面持ちで見つめる。普段から活発で明朗な朱然の物憂げな佇まいに、諸葛誕のみならず練兵場で訓練に精を出していた兵士たちも心配して彼の傍に集まってくるようなありさまだった。
「朱然様、本日はどうぞお休みになってください。連日の政務や軍務できっとお疲れなのです」
「このところは静かなものですよ、城壁も機能してるし、俺たちもちょっとずつですけど、強くなってますから!」
 なあ、と一人の呼びかけに対して、応、と口々に兵士たちが答える。
 江陵に本拠を構え、天下統一のため一丸となって奮闘し始めた今、放浪軍として各地を渡り歩いていた時分とは比べ物にならないほど将兵とも精強に、そしてたくましくなっていった。それは日々の練兵と指導の賜物であり、また皆が目指すところを同じくしているということもあるだろう。
 雨塊を破らず、風条を鳴らさず。故事を引用して、孫権は唱えた。そのような世の中を私はつくりたいのだ、と。
 その晴れやかな野心が皆を率い、動かしている。
「……そんなら、横で見さしてもらおうかな。今日は仕合にしよう。一番勝った者には、そうだな……倹約令が明けたら酒を一杯奢ってやるってことで」
 朱然の提案に、兵士たちは沸き立つ。諸葛誕がよろしいのですか? と尋ねてきたが、朱然は頷いて、当然だよ、と答えた。
「皆のこと見てたら、落ち込んでる俺がみっともないなって思ったんだ。心配かけて悪かった」
「いいえ……そういう日もあるでしょう。私などは、落ち込まない日などないほどです」
 神妙な顔をした諸葛誕の――恐らく――冗談に、いよいよ朱然は声を上げて笑った。

 模擬戦用に拵えた木剣を打ち合う軽快な音が練兵場に響く。屋外の鍛錬場で布陣の確認をしていた張郃と彼の部隊に所属する兵士たちも騒ぎを聞きつけて練兵場に集まり、四方から仕合中の兵士に対する声援が飛び交っていた。
 床几に腰かけるのは朱然と張郃。諸葛誕は自ら審判を買って出、兵士たちの奮戦を間近にきびきびと判定を下している。
 張郃が、囁くように朱然に話しかけた。
「具合が悪いと伺いましたが、ご気分はどうですか?」
「ああ……いや、平気だよ。俺の勝手な都合なんだ。心配してもらって申し訳ないくらいだ」
 張郃が切れ長の目をもっと細めて、そうですか、と薄く笑う。
「……なあ、張郃殿は、例えば自分が心を寄せる相手がいたとして」
「おや、朱然殿の美しき恋のお悩みですか? 私で力になれるかどうか」
「俺じゃないし、例えばの話!」
 この話の流れでは張郃の勘違いにも無理はない。それに、盗み聞きをしただけの他人の話だ。こんなことは自分から言うべきではないのだろうが、朱然は心に凝る不安を誰かに打ち明けずにはいられなかった。
「茶化してすみません。続きを」
「……うん、そんで、その相手はさ、自分じゃない誰かにご執心なんだ。そういうときどうする?」
 ばつが悪くて下から覗き込むようにその目を見やると、張郃は首をかしげ、
「そもそも私は誰と言うよりも美という観念、その体現者を何より尊んでいますからね。恋することでその美しさが顕現するのであればそれ以上私から何かすることはありませんよ」
「あー……そっか……」
 相談する相手が間違っていたか。朱然は苦々しい表情になる。
「絶美なる者には、主がいるのが常です。その事実こそがその者を絶美たらしめるのです」
 夢見るような瞳で張郃は、白熱した仕合を繰り広げる兵士たちに視線を向ける。その向こうにいる『誰か』――しかし張郃にさえ誰とも知れない誰か――を見つめていることを、朱然や他の皆はいつしか言葉にせずとも感じ取ることができた。
「そこまで! 勝者、節子憲!」
 鋭い諸葛誕の判定の声が飛ぶ。わっと練兵場を揺らすような歓声が上がり、その中心で二人の兵士は互いに握手を交わしていた。
 諸葛誕には、激しい苛立ちとやるせなさに胸をかきむしりながら飛び起きる夜が間々あるそうだ。ひどく苦しそうな表情で打ち明けてくれた酒の席を思い出す。
 その思慕が、その恐怖が何を母体に生み出されるのか、答えを持つ者は誰一人としていないが、朱然は一つだけ確信している。己はきっといつの時分も、孫権と共にあった。
「……よくわかんないけど、答えてくれてありがとな、張郃殿」
「いいえ。いつかあなたにもわかりますよ」
 やけに達観したような笑みを浮かべ、張郃は頷いた。

「ほう、面白いことをしているな」

 低く丸みのある、それでいて覇気のある声。ざわめきが一斉に練兵場の入り口を向いた。孫権が歩いてくる。その少し後ろを、于禁と龐統が続く。
「朱然殿の提案で、兵同士の仕合をしていたのです。皆、日々の研鑽の積み重ねが成果を生み素晴らしい立ち回りをしていますよ」
「それはいい。皆の働きには十分に期待しているぞ」
 はい、と幾重にも重ねられた力強い返答。満足げに笑った孫権は、どれ、とそのまま床の上に胡坐をかいた。
「気晴らしついでに朱然を呼びに来たのだが、折角だから私も見さしてもらおうかな。次は誰と誰だ?」
 それは孫権の思惑通りか否か、一瞬にして練兵場に緊張が走る。苦笑した諸葛誕が二名を呼ぶと、彼らはそれぞれぎこちない足取りで中央に出てきた。
「よし、双方とも奮戦せよ。ほら、于禁も龐統も坐ろう、共に応援するぞ」
「…………あまり長居はできんぞ。まだ精査すべき案件が残っている」
「だからと言って根の詰め過ぎはよくないだろう」
 にこにこと笑う孫権を見ながらこめかみを押さえ長い溜息をついた于禁だったが、腕を引かれ、渋々といった様子で彼の脇に胡坐をかいた。龐統は朱然の傍に寄って来て床几の傍らに腰を下ろす。朱然が少し張郃寄りに坐り直すと、すまないね、と空いた隙間に改めて坐り直した。
「孫権殿、俺を呼びに来たんじゃないんですか?」
「ああ、来月成都の王元姫軍と同盟を結びに行くんだけど、あっしとお前さんとを寄越そうという話になってね。その打診に来たのさ」
「そんなことなら、構いませんよ」
 始め、と諸葛誕の声が響く。両の兵士がほぼ同時に鬨の声を上げ、強く互いに向かって踏み出した。木剣が激しく打ち合い、床が地鳴りのような響きを上げる。一瞬の気の緩みも許さない両者一進一退の攻防に、観戦する兵士たちの声援にも熱がこもる。
 朱然の視界の隅で、二人の立ち回りから目を離さないままに孫権が于禁に何事か話しかけた。体を傾けてその口元に耳を寄せる于禁が頷き、二、三、言葉を交わす。孫権が笑った。つられるように、于禁の口元にも笑みが浮かぶ。
 朱然は二人の兵士に視線を戻した。なんとなく、気恥ずかしく思われてしまったのである。

 ◇

 その夜、牀に横になった朱然は、視界の隅に揺れる灯火を見ながら思考の海に身を委ねた。
 あんな風に情けない于禁の声を聞いたのは初めてだったから、そのことばかりがぼんやりと思い起こされる。そして普段、他の多くの者が知る限りではあまりにも頑なな彼をそこまで柔らかくするものが、孫権に対する恋情であり、それを知る龐統の支えであるのだ。
 ――誰かの思いが報われないこともある。
 孫権軍は、ここ江陵を守備していた郭淮軍の太守某を排斥する形で勢力を興した。政庁に残されていた資料によると彼は遠からず郭淮軍から離反し独立勢力となる腹積もりであったことが明らかになったが、もはや瑣末なことである。
 叶えられなかった彼の野望と、息を殺して隠れている同朋の恋心では比べるべくもないものだ。出会った当初はそのあまりの峻厳さに眉をひそめ、いけ好かない奴だと歯向かったりもしたが、今となっては公平さに於いて彼以上に信頼できる者はいないほどである。
 だからこそ、その秤が偏った先が孫権であるのが朱然は嬉しかったし、なんともかわいらしく感じられた。思い出されるのは練兵場で笑い合う二人の姿だ。ずっと二人がああしているなら、それだって悪くない日々だと思える。
「……でもなあ……」
 孫権には『好きな人』がいる。朱然にさえも教えてくれなかったほどの人物が、既に彼の中に居坐っている。あんなにも心弾ませ、そのために周囲の者まで明るく照らしてしまうような、光源。張郃は、美しい者にはその主がいる、と言った。
 孫権が好きになる人なら、きっと素晴らしい人物なのだろう。けれど、
「……寂しいだろ、そんなのは」

 誰かが幸せそうに笑うその陰で、誰かの思いが、報われないのは。

 ◇

「矢が怖いね」
「矢……ですか」
 龐統の言に、朱然は左手に携えた己の武器に視線を落とした。慌てて取り繕うように龐統は、お前さんの武器がどうこうじゃないよ、と続ける。
「秘計で散々使わせたりもするし、そういうときは自分に当たるわけじゃないってわかってるけど、どうもねえ。雨みたいに降り注いでくるじゃないかい、あれがよくない」
 軍師失格かねえ、と小さく笑う龐統に、そんなことないですよ、と朱然は返す。目を細めた彼は振り仰いで、中空を指でなぞった。朱然もつられて顔を上げる。
「ちょうどこんな木漏れ日の中は特にねえ」
 静かにそよぐ木々の葉の間から温い光が射し込む。
 王元姫軍との同盟締結の帰途、林の中に続く緩やかな坂道を馬でゆっくり下りながら、朱然は龐統に、龐統殿ってなんか苦手なものとかないんですか、と出し抜けに問うた。先日、あの于禁ですらも翻弄する様を垣間見てからというもの、飄々とした龐統の本質は朱然の関心事の一つになっていた。
 それなのに想像だにしなかった答えが返ってきて、朱然は言葉に窮する。
「大丈夫さ。だからといって怯えて戦場から逃げたりしないよ」
「わかってますって」
 ふつり、と会話が途切れ、静かに歩みを進める二頭の馬の足音だけが軽やかに響く。
「……俺はなんか、そういうの、ないんですよね。多分、孫権殿がいればいいみたいで」
「多分ってのは何だい、自分のことじゃないのかい?」
「そうなんですけど……」
 言い淀む朱然に、龐統は微笑んで――口元は隠されていたが朱然にはそう感ぜられた――いいことじゃないか、と言った。
「欠けるところのないものはそれだけで強いだろう。お前さんの力は、これからもずっと頼りにさせてもらうんだからね」
 首肯して、朱然は前を向いた。
「うらやましいねえ」
 耳に届いた龐統の言葉に改めて振り返ると、龐統はまっすぐに朱然を見つめ、もう一度、うらやましいよ、と言った。
「こういうとき張郃殿なら、美しい、って言うんだろうけど」
「美しい……ですか」
「あっしの言葉じゃ、眩しい、ってところかい。いやいや、若いってのは、素晴らしいねえ」
 そのとき、木々の茂りが途切れ、朱然の真上から陽の光が射し込んできた。耳飾りに反射されたそれが、龐統の幅広の帽子に隠された顔も明らかにする。
「龐統殿は、」
 朱然は少し大きな声で、龐統を呼んだ。
「もし自分が心を寄せる相手が、自分じゃない誰かのことを好きだったとして、そういうときどうします?」
「どうしたんだい、急に。惚れた腫れたの話題ならお門違いだよ」
「例えばの話ですって!」
 まるで張郃と同じようなことを言う。げんなりした様子の朱然を見て肩を揺らした龐統は、さて、どうしようかね、と呟いた。
「本当に似合いの二人なら、どうやらあっしの出る幕じゃないようだからねえ」
「自分の方が、ってなりませんか」
「なれないかもね」
 ならない、ではなく、なれない。龐統は肩を竦める。
 朱然の心には龐統の言葉が引っかかった。
「似合い……似合いは似合いなんだよなあー……」
 その呟きはあまりに小さくて、龐統には唸り声にしか聞こえなかったようだ。

 ◇

「孫権殿は、その人と婚姻するつもりでいるんですか」
「へっ?」
 政務の合間の息抜きにと、人払いをした孫権の執務室で茶を飲みがてら寛いでいた朱然からの問いに、孫権はこぼれんばかりに目を見開いた。
「きゅ、急に何の話だ、婚姻とは」
「好きな人ですよ。前に言ってた」
 その言葉に得心したのか孫権は、ああ、と相槌を打って、それから、どうだろうかなあ、と首を傾げた。
「できないんだろうなあ、きっと」
「できない……? そんなことないでしょ、あなたが言うなら皆喜んで頷きます」
「うん、まあ、それも先方の都合だよ」
 ますますわけがわからない。いぶかる朱然の表情には目もくれずに、孫権は傍らに置いていた読みかけの竹簡で口元を隠した。まなじりが、明らかににやにやしている。
「婚姻とはいかずとも、生涯添い遂げられたらと思うけどなあ」
「……いや、いやいや、孫権殿、仰ることがあまりにも不明瞭です」
 孫権の前にある文机に両手をついて、朱然は身を乗り出した。思わず上体を逸らす孫権を睨みつけるようにすると、彼はいよいよ竹簡で顔を覆い隠してしまう。
「吐けって! 誰のこと言ってるの? 俺の知ってる人?」
「う……知ってる。いや! だめだ。迷惑をかけることになってしまう」
「かかんないって! 知ってるってことは……誰だ? さっぱりわかんねえ」
 姿勢を正して頭の上に手をやる朱然に、孫権は困ったような表情を浮かべた。
「どうしてそんなに気にかかるのだ。今までこういった話はお互いしてこなかったろう」
「最初に言い出したのはそっちじゃんか。それに……」
「それに、何だ」
「……お前のこと、好きな奴がいるんだって言ったら、どうする?」
 朱然が孫権を見やると、彼は目を丸くして、それから頬をかいた。
「それは……ありがたいが、困ったな。私には好きな人がいる」
「そう、だから、はっきりしてほしいんだよ。このままじゃそいつはいつまでもずっと、報われないままお前を慕うことになる」
 朱然の眼差しは真剣だ。孫権は顎に拳を当てて思案し、それから、

「于禁だ」

 と言った。
「…………、…………んっ?」
「だから、于禁だ。私の好きな人」
 照れ臭そうに頬を赤らめ、それでも気まずい気持ちはあるのか少し視線を斜め下に向けた孫権が、言う。
「お前が『奴』とか『そいつ』なんて呼ばわるのはきっと婦女子ではないんだろうなと思ったから。……断袖だろう。私は于禁以外と交わるつもりはないし、于禁でないのであれば誰もいらない。その者の気持ちは嬉しいが、諦めてくれと伝えてくれないか」
 下げていた視線を戻し、孫権は朱然をまっすぐに見つめた。
「……それから、このことは、誰にも内緒だぞ」
 しー、と口元に無骨な人差し指を持っていく孫権は、いかにも恋する男の風情である。朱然は諸手を挙げて喜びたい気持ちをどうにか押さえ込んで、勿体ぶったように、はい、と大きく頷いた。

 すべて、ここまですべてつながった。残るは彼らの手だけだ。そしてそれは、必ず本人たちの気持ちでつながれなければならない。

「そ、それじゃあ、俺はそろそろ行きますね。その于禁に叱られるんで」
「ああ、そうだな。またいつでも休みに来い」
 忙しなく立ち上がり扉に向かうと、朱然が開けるよりも早く外から声がかかった。
「孫権殿、ちょっといいかい?」
「ん? 龐統か。いいぞ」
 失礼するよ、と扉を開けた龐統は、目の前に立っている朱然を見て目を丸くした。
「おや、驚いたね。朱然殿も怠慢に罹患したかい?」
「してませんて! それじゃあ俺はこれで」
「ああ、待ちな」
 辞去しようとした朱然を龐統が留める。
「急ぎじゃないなら、朱然殿も聞いとくれ。南で用間してもらってた連中から報告が届いてね」
 神妙な目線。朱然は首肯し、ゆったりとした室内に向かう龐統の足取りについて行く。
「武陵の凌統軍が国境近くの川向うに布陣しているそうだ。規模は大きくないが、放っておくわけにもいかないしねえ」
「うむ、万が一の襲撃に備えねばならん。于禁は堅守と金城鉄壁を持っていたな、それから諸葛誕は鶴翼陣。そして――朱然、向かってくれるか」
「はい」
 龐統が懐から地図を取り出し文机に広げる。江陵南部の川をなぞるのは、孫権の恋する人差し指だ。
「決して川は渡るな、追撃は禁ずる。他は現場で判断してくれて構わない」
 よろしく頼む。その言葉を合図に朱然はぱっと立ち上がった。

 兵舎に向かう最中に見かけた諸葛誕に出立の旨を伝え先に小門へ促すと、朱然は足早に于禁を探し求めた。政庁から資料室のある離れへ向かう回廊の途中で、数名の兵士たちに付き添われながら項垂れた様子で歩く一人の兵士と、一人の文官を見かける。すれ違いざま拱手して会釈する彼らを手で制し于禁の所在を尋ねると、付き添いの兵士の一人が言いにくそうに、資料室です、と告げた。
「……于禁、いるかー?」
「何だ」
「ああ、よかった」
 辿り着いた資料室の入り口から控えめに声をかける。先ほどの兵士たちの様子が気がかりだったが、予想に反して室内にいた于禁からの返答は、いつもの低く硬質な声だった。
「武陵の凌統軍がうちの南の川向うに布陣してるらしい、襲撃があるかもしれないから備えてくれとさ。俺とあんたと諸葛誕で」
「わかった」
 読んでいた竹簡を手早くまとめ棚に戻し、于禁は大股で歩いてくる。
「なあ、さっき、妙~な空気の連中とすれ違ったんだけど……何かあったか?」
「…………」
 おや、朱然は首をかしげる。于禁が言い淀んだ。あの、于禁が。
「……あったのか」
「彼の者ら二名が公共の場に於いて道義にもとり不健全な行為に及ぼうとしていたがゆえ、咎めた。訓戒の後、一月の謹慎処分を与えてある」
 早口だった。急に頭に流れ込んできた文言を元に朱然はなんとか得心しようとする。
「…………、……そりゃまた」
 なんとも間の悪い、とは朱然は口の中で呟くに留めた。その場に居合わせた于禁の心境や表情のことを考えると、えも言わず胃が重くなるような気がする。と同時に少し興味も湧くが、この場には適さないとその考えを振り払った。
「ま、まあまあ、始末がついたならいいんだ。とにかく出立だ。諸葛誕に言って兵たちには先に準備をさせてるから、行くぞ」
「ああ」
 歩き出した于禁の少し後ろで、朱然はふと思い出したことを口にした。
「それって兵と文官の二人?」
「…………そうだが」
 なぜ蒸し返す、と言わんばかりに于禁から無言の威圧が来るが、なあんだそっか、と急に晴れ晴れとした気持ちになった朱然には通じない。
「いや、俺ここに来るまでに二つくらい勢力渡ってきたけどさ、どっちも文官と武官の仲ってギスギスしてたから。お互いがお互いを見下してるって言うかさ~」
 歩みを止めないままに朱然は続ける。
「見た感じ二人ともがっかりしてたから、ちゃんと好き合ってる連中なんだろうな。ま、あんたは気まずい思いをしただろうが、今回はお勉強ってとこか」
「……他人事だな」
「すみませんね」
 会話をする間に、二人は出立の用意を整えた兵士たちの集う小門前に着いた。諸葛誕が既に点呼をまとめ終え、あとは于禁と朱然の到着を待つばかりだったようである。
「待たせてすまなかった。それでは出立する」
「今回は徹頭徹尾防衛の構えを取るからな。追撃は厳禁、とにかく相手の調子には乗るなよ」
 兵士たちの威勢のいい返事を背に、于禁、朱然、諸葛誕の三人は、馬の鼻先を南へ向けた。

 ◇

 結局両軍ともぶつかることはなく、凌統軍は撤退していった。敵の総大将が鄧艾であったこともあり、地形の確認とこちらの出方の探っていたのだろう、と判断し、入れ替わりで一般将を三名南部の守備に就かせ、一月後、朱然ら三人の将と兵士たちは都城に戻ってきた。
 君主の執務室に於いて経過報告を終えると、孫権がほんの少しばかり得意げに鼻を膨らませて、お前たちに報告がある、と言った。
「お前さんたちが南を張ってくれてる間に、こっちでも進展があったよ。これから、王元姫軍と治水や水運を通じて協力していくことになったのさ。灌漑技術の相互指導なんかも積極的にやっていくことになるし、農作業も円滑に進むだろう。すべきことは増えるが、その分見返りも大きいよ」
 龐統の言葉に、朱然たち三人は互いに顔を見合わせた。その横に控えていた張郃が続ける。
「ここ江陵が中国のほぼ中央に位置する、その地の利を活用するのです。人の往来を増やし、都市が賑やかになれば、それだけ人の心も集まるでしょう」
「あっしも外とのやり取りを頑張るからさ、まあ、各々方、頑張っていこうよ」
 ねえ? 問い掛けに、頷かない者はなかった。

 ◇

 さらにその一月後、政庁内に敷かれていた質素倹約令が――大方の予想に反して随分と早く――ついに解かれることになった。満面の笑みを浮かべた孫権が、于禁と二人きりで酒を交わす約束をした、と弾んだ声で教えてくれたから、大概あの堅物もほだされたのかも知れないな、と朱然は考える。

「禁酒法が出されたころ、自分ではそんなつもりはなかったのだが、どうやら随分と落ち込んでしまったようでな。恐らく見かねたんだろう、于禁が碁をしようと誘ってくれて」
 自覚がなかったのか、と朱然は表情には出さずに呆れかえる。すっかり日課になってしまった孫権の執務室での休憩中、彼は大切な思い出を自慢する子供のように、朱然に語った。
「ここに打てば局面は于禁の有利に運ぶというのに、于禁はそこに打たなかった。そんなことが何度も続いた。私でさえ気づくのだ、于禁が気づかぬはずがない。そうこうしている内に、すっかり盤上が石で埋まってしまって……」

 困ったな、と孫権が顔を上げると、于禁はじいっと孫権を見つめていた。ぱちり、と目が合い、その双眸が大げさに逸らされる。
『……ど、どうした?』
『…………、いや…………』
 于禁は、ふう、と息を吐いた。
『……お前との間に酒のないのが不思議なことだ。……誘いに乗ってもらえるとは、思わなかった』
『……そうか? 私は、酒肴のあるなしで付き合いを決めたりはしない。せっかくお前が誘ってくれたのに、断るなどと思いもよらないよ』
 それは孫権の心からの言葉だったが、少しだけ于禁の肩が震え、そうなのか、と彼は呟いた。
『だがもしお前が、私とお前との間に酒が必要だと言うなら、法が解かれた暁にはとびきり美味い酒を用意しよう』
『……ふふ、そうか。無理にとは言わないが、それは、楽しみだ』
 真実の言葉を、于禁はどう受け取ったのか。ただ、彼はおかしそうに微笑んだ。それだけで孫権は嬉しくなる。
 燭台の灯火で白と黒の盤上が揺らめく、とても美しく、穏やかな夜。

「ほんの少しだけ、そのとき期待したんだ。私の好きな人も、私と同じような気持ちを私に対して抱いてくれてやしないかと」
 なかなかどうして、人の心など難しいものだなあ、と言う孫権は実に楽しそうだ。本人はまだ片恋のつもりでいるくせに惚気られているのだ、と朱然はとうに気づいている。諸葛誕は、最近お二人がお話されているのを見るとどうにもくすぐったくなってしまうのです、と口にしていたし、張郃はからかっているのか真剣なのかよく二人に対して、いっそう美しいですねえ、とか口走っていた。龐統が何も言う様子がないのが最も恐ろしい。

 さて、異色の策略家は思考を巡らす。なかなかどうして人の心など難しいものだ。本人たちに任せようと思ったのに、これではまるで牛の歩みではないか。

 それでも互いの気持ちを他人の口から発するのは憚られて、碗の中に残っていた茶を一口で飲み干すと朱然は立ち上がった。
「いい加減あんたら、どうにかなっちゃってもいいんじゃないですかねえ」
「なれるかなあ、于禁ほどの堅物を相手に」
「今更でしょ」
 大きく伸びをして、じゃあ、俺はこれで、と朱然は孫権に会釈する。うん、と頷く孫権が手を振るのに自分も振り返して、朱然は軽い足取りで執務室の扉を開けた。
 視界の隅に、青黒く大きな影が映り込む。

「…………、…………何やってるんだ?」
「……………………」

 いつぞやの自分の姿を思い出して、朱然は半笑いだ。
 眉間の皴がいつもより深い、于禁の顔が赤く火照っている。
「どうした、朱然?」
 孫権の低く丸い声が、やけにのん気に響いた。