孫権軍における月に一度の早会は、基本的には孫権の執務室で行われる。六月に一度の軍議と違い参加人数が少数であることも理由の一つだが、孫権自身があまり広い空間で対話することを好まず、また全員と同じ目線の高さでありたいと望んだためだった。
 この日、執務室を一番に訪れたのは于禁だった。普段であれば諸葛誕が誰よりも早く到着し、てきぱきと早会の準備を進めているところに于禁がようやく現れるのが常であったが、無理もない、于禁はここ数日続く朝の冷気に自然と目が覚めてしまったのである。
 前日までに執務室に届けられた文武それぞれの書簡に目を通しながら、政務、軍務、農事、公共事業や経済活動など、と大別していく。
「おお、于禁殿。おはようございます」
 静かな空間に、鋭く明朗な声が飛び込んだ。
「おはよう、諸葛誕」
「申し訳ない。私が一番に着いてあるべきだったのに」
 早速申し訳なさそうに眉を寄せる諸葛誕を、首を振ることで制する。
「私が普段より早く登庁してしまっただけのことだ。お前が己を咎める謂れはどこにもない」
「は……すみません」
「いや……、ああ、それよりこの、護岸工事とそれに係る農地拡大についてはどこに分けたものか」
 萎縮する諸葛誕の意識を逸らすように手に持っていた書簡を差し出すと、彼はふむ、と首をかしげながら本文に目を通した。
「公共事業でしょうか」
「わかった、ありがとう」
 それからも短く言葉を交わしながら仕分けしていくうちに、やがて張郃、孫権、朱然と相次いで登庁し、最後に龐統が現れた。
「いやお前さんたち早いねえ。刻限通りに着いたと思ったんだけど」
「最近は朝が冷えますからね、自然と目が覚めてしまいます」
 張郃が笑いながら言うのに于禁も頷いた。
「稲刈りもひと段落し、秋野菜も収穫し終えた。冬に向けて領内を査察し、問題になりそうな箇所があれば早急に解決に努めるべきであろうな」
「うむ、そうだな」
 孫権は文机に並べられた書簡の一つを手に取り、ためつすがめつした。
「ああ、大水も厄介だな……龐統、後で記録を洗っておいてほしい」
「はいよ」
「龐統殿、江陵も雪は降るんですか?」
 朱然が問う。龐統は荊州の出身であることもあって江陵の地勢や情勢には特に詳しかった。
「ああ、もちろん降るよ。近頃は特別寒いから、大雪になるかも知れないねえ」
「うーん、じゃ、雪も心配ですねえ」
「冬はまったく難儀だらけです」
 諸葛誕が眉をひそめて呟く。孫権が苦笑し、仕方がないさ、と言った。
「東部はここ江陵城を拠点に各地を見ていこう。西部は……」
「私が行こう、国境の様子も見ておきたい」
 于禁が名乗り出、孫権は頷いた。
「頼んだ。そうだな、諸葛誕も共に向かってくれるか」
「はい、了解しました」
 話が一段落し、次の書簡に手を伸ばす。大方の議論がまとまった数刻後、各自任された案件を手に五人は執務室を辞した。于禁と諸葛誕は書簡整理と軍備を終えたのち、明日の朝から江陵西部に発つ。
「于禁、少し待ってくれ」
 孫権が執務室の扉の影からひょこりと顔を覗かせた。于禁は諸葛誕を先に行かせると踵を返す。
「何だ」
「今宵、我が邸に泊まりに来ないか。酒は飲めないが、碁を打つくらいならいいだろう?」
「……構わんが」
 孫権の手がそろりと伸びてきて、于禁の小手に控えめに触れる。
「明日よりまた一月も離れてしまうから」
 ひっそりと笑った彼に、于禁はたじろぐ。動揺を見せないよう首肯してみせると、よかった、と声を弾ませた孫権の、小手に触れていた手が下がり于禁の指を小さく握った。
「お前の鎧は冷たいなあ。体だけは壊さないよう、気をつけてくれ」
「……無論だ」
 ならばよいのだ、と孫権は大きく頷き、于禁の腕を二度叩いて、一歩下がった。
「それでは、また後で。浮かれて仕事にならぬかもしれんがな」
「軍の首長が怠慢な態度では下の者に示しがつかん。いくらお前と言えど厳罰は免れんぞ」
「ふふ、怒られないように頑張るよ」
 口の端をニヤリと上げた表情は彼には珍しくて、于禁は眉根を寄せることで不満を表す。それを見た孫権はさらに一歩退き、改めて、では、と手を振った。
「……また夜に」
「……ああ」

 ◇

 冷たい男だ、と言われたことがある。より正確に言えば、この冷血漢め、である。孫権、そして龐統と出会うまで于禁がその身を置いていた、今は亡き国でのこと。
 軍規を遵守し賞罰を厳格に下していた于禁だったが、あまりにも法によって自軍を統べることを重く見る彼の態度が余人には理解されなかった。一人の兵士が、傷を負った彼の友のために奮戦し、しかし結果として彼の所属する隊の多くの兵士を危険に晒したことを于禁は咎めた。それを泣きながら庇った者が喉から絞り出すような声で言った。この、血も涙もない冷血漢め。
 血にまみれ涙をこぼせば己の視野が狭まるのは必然だった。燃え盛る都、崩落する宮城、降りかかる火の粉が閃く中にもあんなにはっきりと輪郭を保った孫権の熱い右手。
 差し伸べられたそれを握り返すことだってなかったはずだった。

 ◇

 資料室で江陵西部地域の地理や情勢についてまとめられた書簡を洗っていると、于禁と共に作業していた諸葛誕がふと口を開いた。
「于禁殿の故郷も雪が降りますか」
「ん……ああ、うむ。山が近く冬は雪深い」
 そうなのですか、と諸葛誕の声が弾んだ。
「私の故郷も山の多いところです。江陵西部も山間の土地ですから、我々は特に問題を理解することができるでしょうね」
 書簡に目を落とし要点を別の竹片に書き起こしながら、諸葛誕は大きく頷いた。
「適材適所とはまさにこのことですね。もしや孫権殿はそれも見通していたのでしょうか」
「さて……どうであろうな。少なくとも私では、山間部の村々に住む者たちの相談役にはなれない」
 その言葉に諸葛誕が顔を上げる。
「そのようなことはありません」
「民心に寄り添い、共に解決を図ろうと奮励するお前の態度は全く尊敬に値するものだ。孫権がお前を西へやる理由の一つはそれだろう」
 誰よりも先に早会の場を訪れ、逐一書簡に目を通して問題の把握に努め、或いは文官たちと議論し、必要さえあれば己の足でどこへでも出向く。行く先々で人の声を聴き、自身の目で問題を見つめ、それを明確な形にして孫権や他の将たちに提示する。彼の働きがあればこそ、問題解決の糸口も早々に掴めようというものだ。諸葛誕がいたことで、新しく国を興した孫権たちが統治者としての盤石な基礎を江陵に築くことができたと言っても過言ではない。
 呆気に取られていた諸葛誕が、頬を赤らめて顔を伏せた。
「……そのようなことは」
「ないとは言わせぬ。その行動と心意気は誇るべきものだ。だが、お前はそうしていつも賛辞に耳を塞ぐきらいがある」
「…………」
 普段から難しそうに寄せられた眉根に一層深く皺が寄る。首を傾げた于禁に、諸葛誕は、あの、と切り出した。
「ずっと……同じようにしてきました。前にいた国でも。ですが、主君に謹慎処分を言い渡され……あなた方に出会えなければ、あのまま腐ってしまうところでした」
「そうか」
「風の噂に聞いたのです。何者かが、主君に讒言したのだと。そうして……主君はその言葉を信じた」
 諸葛誕の声が、震えた。
「私は……信じて、もらえるでしょうか。皆様に、民たちに」
「……無論だ。むしろ、今更という表現を用いよう」
 于禁の硬質な声は室内にささやかに響き、ありがとうございます、と諸葛誕の小さな声が、資料室の机の上に落ちた。

 ◇

 夜、于禁が孫権邸を訪ねると、邸に勤める家宰たちには訪問にすっかり慣れてしまわれたのか「ああ、こんばんは」とやけに気の抜けた挨拶を返され、主人に確認を取ることもなく客間に通されてしまった。程なく孫権が現れ、二人は連れ立って寝室に向かった。
「孫権、お前のところの家宰は客人があればすぐに邸内に上げてしまうのか。何かあったらどうする」
「違う違う。お前だからだよ。約束があってもなくても、お前が来たなら中に上げてもてなすように言ってある」
「……何?」
「いつでも来てくれて構わない」
 先を行く孫権が振り返り、微笑む。于禁は己の顔に熱が集まるのがわかった。廊下の暗がりに心底感謝するような有り様だった。
 寝室には既に食事の用意がされてあった。膳の脇に少量ながら酒も置かれていて、それに気づいた于禁を得意顔の孫権が小突く。
「明日に響く量じゃないだろう?」
「……お前が飲みたいだけではないか」
 その通りだ、と彼は笑って席に着いた。于禁もそれに倣い、傍らの酒瓶を孫権に差し出すと、彼は嬉しそうに杯を傾けた。

 食事するときはお互いほとんど会話しないのが常だった。于禁はもともと口数の多いたちではないし、口に物を詰めたまま話すな、と苦言を呈すような人間だったから、孫権も自然と早く食べきってしまうようになっていた。酒をちびちびと飲みながら就寝前のまどろみの中で対話するのが何より楽しみだった。
 膳を下げさせ人払いをしてしまえば、もはや二人だけの空間だ。誘い文句こそ碁打ちだったが、部屋の隅に用意したそれに手を伸ばす気にはなれずに、二人は牀に並んで腰かけ、酒杯を傾けながらぽつりぽつりと言葉を交わす。
「そういえば諸葛誕が、自分が山生まれなのをお前が見越していたのかと感心していたが」
「ん? そうだったのか? 南海にいたじゃないか」
「やはりか……」
 惚けた物言いに于禁はため息で返す。孫権は哄笑した。
「民の声を聴くに諸葛誕ほど適した将はいない。お前は如何にも武人風情でしかつめらしい顔をしているから、民もお前相手では言いたいことも言えぬだろうと思っただけだ」
「だろうな。諸葛誕にはそう訂正してある」
 何よりだ、と孫権は頷き、それから于禁の顔を覗き込んで、でも私はお前のその表情が好きだよ、と言った。
「取り繕うな」
「まあ、今更だしなあ」
 すでに酒瓶は空になり、手の中で弄んでいただけの酒杯を孫権は傍らの卓上に置いた。そのまま于禁が持っていた酒杯も奪って卓に置いてしまうと、彼はその手を取って于禁の体を優しく押した。

 倒されるがままなのは于禁の意思だ。牀に横たえたその体に覆いかぶさるように、孫権は彼の顔の横に手を突く。心許なく揺らめく燭台の灯火で、孫権の赤い髪が一層燃えていた。
「皆で……様々な地へ行ったな。あの日、黄河を渡り……襄陽で朱然と再会し、漢中で張郃に、南海で諸葛誕に出会った。こうして拠って立つ地を得たかと思えば今度は江陵を東奔西走し……息つく間もない」
「だがその先にお前の望む世があるのだろう。そこに辿り着くまでは、立ち止まっている暇などない」
「そうだな」
 孫権の指先が、于禁の前髪をそっと梳く。
「……いつかまた我々が河を渡る時が来るだろう。その向こうに、お前のいた国は既にないが、私は……」
 撫でつける孫権の指を制した于禁は、ぐっと彼の肩を抱くと自身の横に寝かしつけるように引き倒した。
「わっ! き、急に動くな」
「やかましい。私は明日が早いのだ」
 後頭部に伸ばされた于禁の手が、孫権の髪を束ねていた紐を手早く取ってしまう。その頭を胸に抱き込むと、于禁は目を閉じた。どうにか身じろぎして首を上げ、夜と灯火の薄明りの中にぼんやりとしたその表情を見た孫権は、ふう、と一つ溜め息をついて彼の胸元に頬を寄せた。
「そうだったな……もう寝ようか」
「ああ……」
 そうして于禁は、すっかり黙り込んでしまった。

 孫権が息を凝らすと、顔の傍にある于禁の胸板、その薄皮と硬い骨の向こうにある心臓が、ささやかに脈打っているのが感じられた。穏やかに、一定の拍子を刻む鼓動。それに触れると、于禁が少し身じろいだ。
 空気が動き、静かな夜にほんの少しの騒がしさをもたらす。孫権の指先の温かさがそうさせた。
「……どうした、早く寝ないか」
 小さく、于禁が諭すように言う。孫権は弱く微笑んで、いよいよ心臓の上に手のひらを当てた。
「ここを……吸うていいか。ほんの少し」
「……なぜ?」
「まじないを。明日よりまた遠地へ出向くお前の五体が……私が傍になくても、ずっと温もっていられますように」
 二人の目が合う。孫権は孫権で、于禁は于禁で、お互いに切なさをにじませた表情を浮かべている。于禁は、己の胸の上に置かれた孫権の手の甲に、そっと触れた。
「そうだな……、……頼む」
 孫権は嬉しそうに笑った。むくりとその身を起こした彼は于禁の体を仰向けに寝かせ、ゆっくり、その胸元、ちょうど心臓の塊を感じられる場所に口付けた。
 恐る恐る、といったふうに、その後頭部を于禁の両腕が緩やかに抱きしめる。すっかり下ろされてしまった赤毛が、于禁の肌をくすぐっている。
 孫権の呼気が于禁の体を滑っていく。ほう、と、どちらのものとも知れぬ溜め息が、夜の薄い帳を揺らした。

 ほんの僅かとも、実に長い間とも感じられるような時間だった。孫権が体を起こす。これでよし、と彼は囁いた。于禁はそれだけで、心臓に火が灯るのを感じられる。
 伸び上がった孫権が不意に于禁に口付けた。虚を突かれて目を丸くする于禁に彼はいたずらっぽく笑いかけ、それからごろりと隣に転がった。
「腕を」
 言われて差し出した于禁の片腕が、孫権によって彼の肩を抱くように巻きつけられる。孫権の腕も同じように、于禁の腰元に抱きついた。
「……あたたかいな、お前は」
 于禁が言うと孫権は、そうかな、と答えた。
「お前も、あたたかいよ、于禁」