あるとき、中華に平穏が訪れて、誰も彼もが生きることの喜びと、死することの尊さを知った。
 心のどこかが知っている、彼の死にざまも、彼女の生きざまもすべてが天に高く昇って、そうして英雄たちは互いに手と手を取り合った。目の前のこの人のぬくもりも、思えばこれまで、そうとわかっていたはずなのに、初めて感じるものだった。
 それでも、人の心に暗鬼は巣食う。いつまた来るともしれない乱世、はたまたそれを転ばぬ先の杖と呼ぼうか、提案したのは特別頭のいい者たちだった。

 ――それでは、こうしましょう。定期的に互いの領内で酒宴を催しましょう。
 ――開催地には全ての君主とその家族や縁者を招いて、主人が盛大にもてなす一方で。
 ――それ以外の国には互いの藩屏たる将たちを派遣し、彼らもまた共に酒を酌み交わせばよろしいではありませんか。
 ――まあ、皆様方のことですから盃で殴り合っても致命傷には至るのでしょうが。

 柔和な笑みを浮かべる軍師に、皆が肝を冷やした日から二年の後。
 今年の夏の酒宴は、曹魏の首都、許昌での開催である。


 ◇


「何か……空気が悪いように思うのだが」
 宴会の場に招かれた君主の一人、劉備は、席に着く前から既にその場に漂う不穏な空気に常ならず引きつった笑みを浮かべた。その言葉に応えて彼の斜め後ろに控える義弟たちが言う。
「やはり兄者もそう感じられますか。いささか……緊張しているように思われますな」
「けっ、うめえ酒も不味くなっちまうぜ」
 気取られぬようさっと周囲を見回す関羽、心底苛立たしそうに小声でぼやく張飛。劉備は困ったように小首をかしげ、いかがしたものだろうか、と二人を交互に見る。ふむ、とその壮麗な髭を撫でながら、関羽は一つ頷いた。
「兄者、宴席にて拙者が曹操殿に探りを入れましょうか」
 その申し出に劉備はぱっと目を輝かせる。
「おお! そうだな。雲長であれば曹操殿も心を開かれるだろう。頼まれてくれるか」
「無論。では義弟の武運をお祈りくだされ」
 大仰な物言いに劉備と張飛とは吹き出した。そこへ目ざとくやってきた宴の主人である曹操に三人が慌てて礼をすると、彼は不思議そうに目を細めて首をかしげただけだった。

 宴は恙なく開催され、曹操は列席する客人たちに酒を注ぐために彼の護衛である典韋と許褚とを連れて忙しなく――と言うには堂々たる所作であるが――動いている。時が経てば劉備たちにも少なからず状況は見えてくるもので、どうやらなかでも特に機嫌が悪いのは孫呉から招かれた客人の一人、孫権であるらしかった。張飛と肩を並べるほどの酒好きであるくせに、彼が先ほどの乾杯で飲んだふりをしているのを劉備は見てしまったのである。
 そのことは己の左隣りに坐る関羽も察したようで、今彼は頭の中で如何にして曹操の逆鱗に触れぬように事の次第を聞き出そうか苦心しているに違いない。ただ、劉備は関羽の懸念については心配していなかった。彼の愛する二人の護衛と、彼の横恋慕する己の義弟に囲まれていれば、曹操とて事を荒立てたりはすまい。
 そうして、いよいよ関羽が盃を交わす番である。卓を挟んで目の前に胡坐を掻いたかつての恩人でありかつての宿敵は、この平穏な治世になんとも不釣り合いな情けないような表情をして、義弟を見た。
 彼の差し出す酒を盃に受けながら、関羽はおもむろに口を開く。
「曹操殿」
「む? 関羽よ、どうした」
 声をかけられるとは思っていなかったのか、曹操の手がわずかに震えた。
「曹操殿はこたびの宴、あまり気乗りがせぬようにお見受けしますが」
 その問い掛けに、ほう、と一つ曹操は感心したように息を吐くと、ちらりと隣の劉備を見た。劉備は思わず目線を逸らしたが、その先にはやはり仏頂面でどこかを見つめている孫権がいてまたしても居たたまれなくなってしまう。
「ふん、義兄にでも探りを入れてこいとすがられたか?」
「兄者の心痛は我が心痛。このままではせっかく曹操殿がご用意くださった酒の味もわからぬまま、蜀に帰ることになりまする」
「……くだらぬ話よ。近う寄れ。儂に酌をせよ」
 曹操はそう言って彼の抱えていた樽を関羽の方へ押し出した。
「……では、失礼いたす」
 酒を汲み、曹操の差し出す彼の盃に注ぎ入れれば、彼はまなじりに皺を寄せて少しだけ嬉しそうな顔をした。ほっとしたのは隣でその様子を横目に伺っていた劉備であることは言うまでもない。
 曹操は、肩越しに軽く顎をしゃくるような仕草をした。
「あすこにおるであろう。虎の子倅」
「はあ」
 やはりか、と義兄弟たちは声に出さずに言う。
「あれがな、宴の前に私的に会見したいと申しおってな」
「はあ」
「会ってみれば不遜も不遜、儂の将を一人、己がもとに迎えたいとこう申す」
「それは……」
 乱世を収束させたその場で互いに交わした誓約を破るものか、と関羽が表情を強張らせれば、曹操はそれを察して緩やかに首を振った。
「違う。矛や楯としてではない。もとというのは、そうだな、語弊があった。言うなれば虎の安らぐ木陰がほしいとのたまうもので、私的な交際をしているのだと」
 は、と目を見開いたのは関羽ばかりではなく、聞き耳を立てていた劉備と張飛も同様である。
「それは……その……」
「言いづらいか。断袖よ。さても、南方ではことさらその気がある者が多いとは聞くが、まさか虎の子倅が、あろうことか儂の将を相手に選ぶとは思わなんだ。我にもなく横に控えさせていた張遼をけしかけ怒鳴りつけてしまった」
 そのときのことを思い出しているのか、曹操は口許におかしそうな笑みを浮かべたが、やがて反応に困っている様子の関羽をじっと見て、すまぬな、と口にした。
「それでまあ、こうなった。お主にはとびきり美味い酒を楽しんでもらいたかったが」
「ああ……いえ、構いませぬ。しかし、張遼が相対したとあっては、孫権殿も生きた心地がしなかったでしょうな」
 笑い交じりに言う関羽に、曹操もまた、ふ、と微笑む。
「はて、どうであろうな。もっと恐ろしい男を木漏れ日とまで言い放つのだから。まあ……それでも張遼は特別か」
 関羽はその言葉に目を丸くした。劉備もいよいよ聞き耳を立てているふりをやめて、穏やかに口を挟んできた。張飛までもが身を乗り出して話に入ってくるそぶりを見せている。
「もっと恐ろしいというのは、孫権殿の断袖のお相手でしょうか」
「ふ、無論よ。儂もその名を耳にして肝を冷やしたわ。濡須で見せた豪胆さ、虎の牙は抜かれてはおらなんだ」
 どこか楽しそうな気配まで漂わせ始めた曹操に義兄弟たちは互いにほっとしたように微笑み合った。緊張の解れたらしい関羽が彼の髭を撫でさすりながら、はて、と思考するように小首をかしげてみせる。
「張遼以上となると……まさか夏侯将軍らではございませんでしょうから」
「冗談がうまいのう」
「いや……となると」
 密談をする彼らの誰もの脳裡に、ある一人の武将の姿が思い浮かんだ。
「……真にございますか」
「ふん、偶然とはいえ蜀に遣いに出しておいてよかった。しばし留まる旨の書簡はすぐに出させた。僅かの間であるがあれを預かってくれ。今あやつを虎の子倅に会わす訳にはゆかぬ」
 そこでようやく曹操は注がれた酒を一気に飲み干した。それを見た関羽が焦って己も盃を空ければ、曹操は一息ついて目を伏せる。
「儂とて儂の将は愛おしい。矜持もある。あの子倅に、みすみすくれてなるものか」
 関羽の目の前から立ち上がり、今度は劉備の前に腰を下ろした曹操は、その手に持った酒瓶を差し出しながら、劉備の目をまっすぐに見て言った。
「よろしく頼んだ」
「……ええ、わかりました」
 その様に、関羽、そして張飛も呆気に取られた。
 まさか曹操が己の義兄に対して「よろしく」などと伝える日が来ようとは、かつては思いもしなかったのだ。


 ◇


 蜀の地では、劉備の留守を預かり、魏と呉より派遣された将たちを持て成す主人である諸葛亮が、飄々としたその面を羽扇で優雅に隠しながら、その内心ではさてどうしたものかと思っていた。
 曹魏より来訪したのは、夏侯淵、于禁、郭淮の三名、孫呉よりは、韓当、凌統、丁奉の三名である。当初はこの顔ぶれで果たして宴席が盛り上がるものだろうかと不安げだった蜀の面々――特に諸葛亮の補佐を任された関平などはだいぶうろたえていた――であったが、夏侯淵や凌統、韓当らの気さくな佇まいや、郭淮、丁奉らの細やかな気配りでその懸案は払拭され、また一番の気がかりだった于禁の態度も、当人が一番自覚しているのか、或いは思うところでもあったのか軟化したふうで、宴は終始和やかに進んだ。
 通例であれば、この“定期宴会”の期間に各地を訪れている将たちはそれぞれ十日から一月ほどは当地で過ごし、情報交換や共同訓練等を経てその後各々の故郷に帰還することになっていたが、その予定が覆されることになったのは、客人たちが蜀の地へ来てから八日目のことであった。
 許昌より出された早馬が蜀将、そして魏将たちの下へと書簡を届けた。用件はどちらも同様のもので、魏将たちをそのまま二月ほど蜀に留め置き、互いに研鑽に励んでほしいというものである。
 当然のように皆は訝った。誰からともなく「何かあったのだろうか」と口にし、しかし思い当たる節はない。例えば北方より異民族たちが襲来してきたのであれ、首都で反乱が起こったのであれ、魏将たちの早急な帰還を求めこそすれ、そのまま蜀に留まれというのでは話が合わない。
 或いはよもや蜀の地で謀略の兆しが見られたかとの疑念も起こったが、益州全体に用間の網を張り巡らす諸葛亮にはっきりと「その線はありません」と言い切られては誰もが黙るしかなかった。
「では、一体、何があったと言うのでしょうか……」
 政堂に集った全ての者の気持ちを郭淮が代弁したとき、扉の向こうから声がかかった。
「許昌より書簡が届きましてございます!」
「書簡……またしても、ですか」
 お入りなさい、と諸葛亮が声をかければ、入ってきた伝令兵が「呉将の皆様宛てに、孫堅様からの書簡でございます」と言葉を添える。ぴくりと片眉を上げた諸葛亮は、互いに目を見合わせて首をかしげている呉将たちを見遣った。
「お聞かせいただけますか。恐らく我々、そして魏将の皆様の下に届いたものとは内容が若干異なっておりましょう」
「韓当殿、読んでくださいよ」
「お、俺がか?」
「だって、一番年上でしょうよ」凌統が急かすのに、韓当は渋々といったように緩慢な動作で伝令兵から書簡を受け取ると、やはりのろのろとそれを開いた。
「…………」
 なんて書いてあるんです、とにじり寄る凌統、無言で書面を覗き込んでくる丁奉を、韓当は困ったような表情で交互に見た。
「どうされましたか?」
「ああ、いや、ええと……」
 諸葛亮に尋ねられ、韓当は頭を掻く。
「呉で問題でも起こったのか?」
 問いかける夏侯淵に首を振り、そうではないみたいだ、と韓当は弱弱しい声で言った。
「何と言うか……呉が……というよりは、孫権殿が」
「孫権?」
 声を上げたのは于禁であった。
「曹操殿を、怒らせたみたいです……」
 その言葉が発されたときの政堂の空気を、這う這うの体で現場から脱出してきた伝令兵はこう語る。
 まるで、氷の大地に閉ざされたかのようであった、と。


 ◇


 お前が悪いぞ、と父に、さすがにだめだぜあれは、と兄に、兄様にしては珍しくやりすぎたんじゃない? と妹にそれぞれ言われ、孫権はついに充てがわれた室に閉じこもってしまった。
 唯一入室を許された――らしい、少なくとも普段通り室に入る彼に孫権も普段通り何も言わなかった――周泰であるが、彼としても内心では孫権が判断を誤ったな、という気持ちではいる。常ならば慎重すぎるほど慎重にものを考えことを運ばせる孫権が、どうしてあのような無謀な策に出たのか、周泰にはそこのところがわからない。
 青天の霹靂に度肝を抜かれた曹操たちとは違い、孫呉の諸将は皆少なからず孫権と彼の断袖の相手――于禁との関係を承知していた。それは孫権があけすけにものを言うたちだからではなく、端から見ていてわかりやすい、というのが一番の理由である。

 二人が知り合うきっかけも孫呉にあった。“定期宴会”の最初の開催地はどこにしよう、という話になったとき、公平を期すためにくじ引きを行った。それで、孫権が当たりを引いた。
 酒好きの孫権はせっかくだから宴席にも力を入れようとはりきり、結果として成功を収めたものの、やはりというかまだ互いの関係性やその場の空気に馴染めぬ者は少なからずあって、その中の一人が曹操が護衛として連れてきた于禁であった。
「今この時ばかりは任を忘れ、気を楽にせよ。そういう場だ――最も、おぬしには少々厄介であるかもしれぬがな」
 己の人となりをよくわかってくれている主であるが、だからこそ苦笑して于禁を宴席に放逐した。于禁自身も曹操が楽しく酒を飲む場を邪魔したくはないと思ったから、宴会場の外の張り出しに設えられていた宴席の隅にあった床几に腰を下ろしてぼんやりと外を見ていた。己の他には誰もおらず、酒宴の賑々しさもどこか遠い。
 手持ちの酒を、みっともないとはわかっていながら己の他に誰もいないのだし、とちびりちびりと飲む。見上げた宵闇は、許昌の空とも、故郷の空とも違う、稜線が仄明るく滲む江東の空だった。
「一緒に坐ってもいいか?」不意に声をかけられ、于禁はぱっと振り返った。赤い髪をかがり火にきらめかせて、一人の男がすぐ近くに立っている。
「……構わないが」
「ありがとう」
 宴席の主人であるはずの孫権がなぜここにいるのか、于禁にはわからない。于禁の横の床几に腰掛けた彼は、なぜか持参していたらしい酒瓶の口を于禁にそっと向け、小首をかしげた。
「いや、すまない。これ以上は」
「ふふ、酒ではなくて茶だ。よかったら」
 差し出された酌を拒否するという、あまりにも礼を失した行為を咎めもせず、孫権は笑う。他方、于禁は目を丸くした。
「お前は飲んでいないのか」
「飲もうと思ったが、止められた。気安い呉将たちの間柄であればともかく、こういった場に私の酒癖は向いていない」
 部下を斬ろうとしたこともある、と笑いながら言う彼に、いよいよ于禁は眉を顰める。その様子を見て取ったのか彼は慌てて、「そういうことがあってからはもう、度を越した酒は飲まない」と繕った。
 相槌を返し、于禁はわずかに残っていた酒をあおって盃を空けた。そっと孫権の方へそれを差し向ければ、彼は嬉しそうに笑って酒瓶入りの茶をなみなみと注いでくれた。
 互いに何を言うでもなく黙っていたから、耳の向こうで鳴る夜の音や、彼我の息遣いが聞こえる。かすかに風が吹くとき、髪が揺れて柔らかくさらさらと流れる音まで。
「調練は絶えずしているか?」
 ぽん、と投げかけられた言葉は、会話を始めるにしてはいささか“微妙”なものであったが、于禁は一つ頷いた。
「各勢力の和平締結が成り、群雄たちもそれぞれ所領に落ち着いたとはいえ、憂慮がないわけではない。北方の騎馬民族、西部の羌や氐、荊州の蛮、お前たちのところにも」
「ああ、山越がいる」答えた孫権は、于禁から目を逸らして自身の持つ盃に視線を落とした。「やはり、完全なる平穏は難しいのか」
 于禁は言葉を返さずにただ茶をあおる。武将たる己に、その懸念に対して掛けてやれる言葉などはそもそもないのだ。完全なる平穏が訪れれば、己の持つ武器は存在する意味を亡くす。それは己の身の終焉をも意味していると于禁には感じられた。
「皆の武芸を垣間見ることのできる機会もあればいいな」
「…………」
「そうは思わないか?」
 不意に尋ねられ、答えを求められているとは思わなかった于禁はたじろいだ。孫権の碧い瞳がかがり火を反射して、輝きながら于禁を見ている。
「――そう、だな」
 言葉を返せば、孫権は嬉しげに笑って頷いた。

 充てがわれた室に備えつけられている牀に横になってふて寝の真似事などしていた孫権だったが、やがて前触れもなくむくりと起き上がると、扉の脇に控えていた周泰をじっと見た。
「私が悪い」
 そう言われても、そうですねとは周泰には言えない。
「実は……独断だから于禁も知らない」
「それは……」
 衝撃の事実に思わず周泰も口を挟んでしまう。孫権はばつの悪そうな顔をして俯いた。
 実はすでに在蜀の呉将たちに宛てた書簡が孫堅より出されている。曹操が蜀、魏の将に宛てた書簡を出したと知り、恐らくその内容は事情にまでは触れられないだろうと踏んだからであるが、まさしくその通りであった。
 さて、かの男はどういう心境でいるだろうか。孫権の暴挙を目の当たりにした呉将たちの心配はそのことである。曹操の出方よりも于禁の発する怒りがよほど恐ろしい。
「……孫権様、なぜ……」
 言葉数は少なくても、それだけで周泰の疑問は孫権に通じる。彼は口を尖らせて、ただ言っておきたくて、と口にした。
「曹操は于禁にとってその命を賭すに足るすべてだ。そのことは私もわかっている。だから、…………」孫権は黙り、はああ、と長いため息をつく。「嫉妬したんだ」
 だろうと思いました、と周泰は思っても口にはしない。


 ◇


 とりあえず落ち着け、と夏侯淵に言葉を尽くして諭され、ようやく冷気を引っ込めた于禁は額に手を当てて深いため息をつくと、それから韓当たちを見た。
「一体どういった経緯があったのだ」
「いや、なあ、その前に、なんでお前さんが孫権のことでそんなに気を荒げるんだ?」
 夏侯淵に問われ、于禁は言葉に詰まる。
 事情をある程度知っている呉将たちはともかく、魏、そして蜀の将たちは状況についていけない。凌統は冷や汗を流しながら于禁を見返す。これまで同僚たちに彼らの事情を大っぴらにしてこなかったのなら、不測の事態さえなければこれからだって彼はそうするつもりだっただろう。元より限りなく私的なことだし、彼の性格上無理からぬことだ。その姿勢を咎めるつもりは毛頭ない。
 それでも于禁が、孫権のしでかしたことに対して平静さを失うほどには、彼にとっても己の主はかけがえのない場所に置かれているのだろうと思うと、それは凌統にとって喜ばしいことであった。
 ――こんな形でなければもっとよかった。
「夏侯淵殿、私とあれとは少し前から、私的に交際しております」
「へえ、そうだったのか! お前さんたちの気が合うとは少し意外だけどよ、仲良きことは美しき哉だぜ」
 なあ郭淮、と話を振られ、郭淮も首肯する。「張郃殿もそう仰りそうですね」などと付け加えながら。
 やけにあっさりと夏侯淵と郭淮は受け入れてしまった。そういうことだったのですか、と隣で聞いていた諸葛亮も得心している。
 こんなもんなのか? と凌統は首をかしげたが、于禁の言い方もどうとでも取れるような言葉を選んでいたように思う。単なる友人関係だと考えたのかもしれない。
「んじゃま、改めて韓当。なんだって孫権はうちの殿を怒らせたんだ?」
「それが、詳しい事情まではわからないのだ。宴会の前に私的に会見を持ったそうなんだが、ああ、ええと、この書簡は大殿から出されたものでな、大殿も中には居合わせておらなかったようだ」
 ただ、曹操の怒鳴り声が聞こえて――まるで殿中に轟き渡るような怒号、と書いてある――慌ててその場に駆けつけてみれば、孫権が荒れた歩調で退出して足早に遠ざかるのが見えたという。その上続けて室内から出てきた張遼には、どうにも困ったような表情で「ご子息を努努甘やかされますな」と釘を刺されたらしい。
「……彼は何をしたんですか……」
 いよいよ諸葛亮までもがそんなような声を出した。さすがの彼も呆れているようだ。
「しかし、それが原因で魏の皆様がしばらく留め置かれることになったのでしょうか」
 丁奉の言葉に諸将はようやく本題を思い出し、各々思い思いに首をかしげる。
「何を言って、あるいは行えば、曹操殿はそんなにお怒りになるのですか?」
 諸葛亮の斜め後ろに静かに控えていた関平の疑問に、夏侯淵はさらに首をひねる。曹操の挙兵以前から彼と行動を共にしていた夏侯淵がこの場にいるのは、どうにか事態を把握したい一同には僥倖であった。
「いやー、ああ見えてうちの殿は子供っぽいところがあるからなあ。結構しょうもないことかも知れねーなあ」
「それってうちの殿もしょうもないってことですか?」
 凌統が言うと、于禁と丁奉を除くその場にいる皆が苦笑した。
「自分のものを取られると結構根に持つんだよ、うちの殿。惇兄がよ、前に殿の取っといた肴食べちまってよ、もう一月ぐらいずっと言われてたこともあるんだぜ」
 思い出したように膝を叩いて夏侯淵は笑う。ようやく、于禁もつられて小さく笑った。その様子を想像したのかも知れない。
「なるほど、曹操殿がお持ちの何かを孫権殿がほしがったとか」
「そんなに面白そうなもの持ってるんですか?」
 諸葛亮、関平に続けて、夏侯淵は「いんやあ、俺はちょっとわかんねえな」と言う。
「そんな大層なお宝を殿が持ってるって、孫権が知ってるなら俺だって知ってるはずだけど」
 それもそうだ、と一同は大きく頷く。
 結局その日は答えは出ずに、それならばまずはいつも通り一月は皆に蜀に滞在してもらい、互いに研鑽に励もうということで落ち着いた。その間に状況が変わるかもしれないし、あるいは詳細な事情を知ることさえできれば対応も変わってこようというものである。
 そうと決まれば、皆の心は明日を待ち侘びる。何せ、その場に集まる誰もが音に聞こえた勇将ばかりであり、彼らとの手合わせもまた“定期宴会”期間の楽しみの一つであるのだから。


 ◇


 鉤爪と龍槍が打ち合う音が高らかに城内に響く。
 模擬戦と称して張郃と趙雲が手合わせをする晴天の下の闘技場には大勢の将兵が詰めかけていた。円陣の後ろに並ぶ者たちには戦いの有り様が見えず、その場の熱気を感じるよりないほどの人だかり。
 その最中にあって床几に腰かける曹操の横には、感心した様子で同じく観戦している袁紹がいる。二人が攻撃を繰り出すたびに、おお、とか、いけ、そこだ、とかいちいち騒ぎ立てる様は、猛将たちの戦いに熱狂する将兵らと然程変わりがない。彼はどちらかと言えば張郃を贔屓して観ているらしいが、それは曹操には関係のないことだった。

 何が面白いのか――はたまたいつもそんな表情をしていたかもしれないが――目を細めて笑いながら曹操の下を訪れた袁紹は、「孫堅のところの次男坊に配下を取られたそうではないか!」とぬけぬけとのたまった。「取られておらんわ」と返した己については、果たしてこの返しでいいのだろうか、と後で自問自答することになってしまって腑に落ちない。
「そう気落ちするでない。古来より将はより良い主の下へと向かうものなのだ。お前は自信家で腕も立つが、欠けたるところのない者などおらん。まあこれを機に――」
「だから、取られてはないと言っておろうが」
 さすがに腹が立ったので言葉を遮るようにいささか乱暴に口を挟めば、そうなのか、面白くないな、と袁紹はやはり笑って、彼自慢の口ひげを撫でつけながら言った。面白くないのは曹操の方である。
「では、どういった事情があったのだ? この私がお前の愚痴を聞いてやろう」
「…………」
 黙りこくって政務のために書簡に目を通す曹操の卓の前に、袁紹はすとんと腰を下ろして首をかしげた。
「ほら、言うてみよ。話せば気が楽になる」
「もう別の者に話した」
 曹操の言葉に袁紹は「そんなわけがあるか」とはっきり返した。
「誰に何をだ。本当のところを話してまだそんな顔をするのか。何に得心しておらんのだ」
 おぬしに何がわかる、と言いたくて、曹操はしかし何も口にしなかった。彼の言葉は確かに己の真実を突いていたからだ。
 得心していないのだ。孫権がなぜ、曹操にしてみれば唐突にあんなことを言おうと、言わねばならぬと思ったのか。
 耳をかたむけてみればなるほど彼の言う通り、この上なく私的な話であった。自分たちのいいように勝手にすればいいのに、いちいち巻き込まれて心に荒波を立てられた曹操にしてみればたまったものではない。ましてや己の愛する将の一人もその片棒を担いでいるなどと。
「愛する者を奪われようとして、おぬしは平静でいられるか」
「なんだ、お前が私にそれを言うのか?」袁紹は笑っている。「つまらぬ話よ。取られたくないのであれば敵をこてんぱんに打ちのめしてやればよいであろうが」
 そうすれば、お前の心の靄も晴れよう。
 旧友はそう言って大仰に手を叩くと、曹操に武将同士の模擬戦のことを提案したのであった。どさくさに紛れて孫権を打ち負かしてやればいいと。

 張郃と趙雲の打ち合いは、僅差で趙雲が勝利した。しかし一歩油断すれば間違いなく張郃が勝っていただろうというほどの熱戦であったことは言うまでもない。互いの健闘を称え手を取り合う二人の様子に、袁紹は彼のもう一方の隣にいる劉備に、お前の武将も素晴らしいな、などと惜しみない賞賛の言葉を浴びせている。劉備は照れくさそうに笑うばかりだ。
「ほれ、曹操。孫権を誘ってこい」
 そうして曹操のほうを振り返った彼は、己の肩を叩きながら小声で言う。曹操はものすごく厭そうな表情を作ってみせた。なにしろ彼の言う通りにすれば、とてつもなく気持ち悪い絵面になることは間違いなかったからだ。
 だが、急かす袁紹を劉備が遮った。
「袁紹殿、さすがに主君たる者同士でぶつかり合うのは、いささか都合が悪いのでは。どちらが勝ちどちらが負けても角が立つ。我々の誓約が揺らぐことにもなりかねません」
「ふむ……まあ確かに、そう言われればそんなことも」
「…………」
 うんざりとした目線で二人の掛け合いを見ている曹操を尻目に、劉備は続ける。
「どうでしょう。ここは私の義弟たちや許褚殿や典韋殿、張遼殿や、孫呉の太史慈殿、甘寧殿の武勇などをお目にかけては」
「おお、それは妙案!」派手に音を鳴らして床几から立ち上がった袁紹は、劉備を連れて件の猛将たちの下へと勇み足で向かってしまった。
 残された曹操は、二人分の空間の向こうにいる若い君主を見る。彼は隣にいる彼の父と何事か会話しながら、時折曹操のいる方を気にするそぶりをしている。
 数日もすれば怒りも驚愕も収まる。何をそんなに心を荒げていたのだろうと思うほどに。そもそも己は、大して怒りなど覚えていなかったかもしれない。
 見る目のある男だ。己の将は優秀な者たちばかりだからますます鼻が高いし、その彼らを率いる立場である己が誇らしく思える。孫権が目をつけるのも当然だ。
 もしかしたら孫権が孫権でなくとも、于禁が于禁でなくとも、曹操はそう思ったに違いなかった。
 おもむろに立ち上がり、緩慢な動作で己の目の前に立つ曹操を見て孫権は目を見開き、ごくりと唾を飲み込む。
「孫権よ、ちと儂と話をせぬか」
「は……話、とは」
「碁でも打ちながら、どうだ。そう怯えるな、取って食おうと言うのではない」
 物言いたげに己を見上げてくる、孫権の隣にいる彼の父に目線を投げかけ笑ってみせると、孫堅は「お手柔らかに頼む。大事な息子なんだ」とおどけるように言った。
 そうして闘技場を去ろうとする一行――二人の君主と、彼らの護衛たち――を、袁紹が目ざとく見つけた。
「なんだ、見ていけばいいのに」
「今はよい。また後日見せてもらおう」
「わがままなやつめ」袁紹は腰に手を当てて彼の後ろにいる劉備を振り返った。「そう思わんか」
 そうですね、とは劉備は答えられずに苦笑を返すに留めて、その場を去っていく後ろ姿を見送った。


 ◇


 在蜀の将たちは、ここぞとばかりに連日模擬戦の予定を組んだ。蜀外からの客人、そして諸葛亮、関平の他に蜀に残って二人の手助けをしていた将たちも加わり、皆して思う存分に体を動かした。
 客人たちのほとんどが旋風武器の使い手であったこともあり、唯一の軽功武器の使い手である凌統が「これは俺の速さの見せ所ですかね」と調子に乗れば、夏侯淵が彼の鞭箭弓の特性を活かした遠距離攻撃で翻弄し、郭淮と韓当の戦いなどは、いちいち咳き込む郭淮を気にして思うように振る舞えない韓当に「お気になさらず」「いつものことで」とか言いながら連弩砲を打ち込む郭淮に皆が引き気味であった。あれを賢いと呼ぼうか、狡いと呼ぼうかは人によって判断が分かれるところであろう。
 飛び入りで参加してきたのは、諸葛亮と共に劉備の留守を預かる劉禅と星彩である。無表情のなかにも興奮を滲ませる星彩とは違い、劉禅は温和な表情で――もしかしたら彼もまた無表情と呼べたかもしれない――いかにも自分はただの付き添いなのだという態度を崩さなかった。
 星彩は于禁と対峙した。常に盾を構えながら身軽な動きと手数で攻撃してくる彼女に于禁は常に距離を取って立ち回るが、突き出しや盾による突撃には不意を打たれたたらを踏むような場面もあった。試合自体は于禁が勝利を収めたが、動きに見どころがある、と言う彼の言葉に星彩は顔を引き締め、精進します、と頼もしく返した。

 今は丁奉と劉禅が試合をしている。丁奉の重い攻撃を軽くいなす劉禅の武器に皆がどよめきながらも、丁奉はその動きから着実に対策を練ってきているようだ。
 床几に腰かけ足を投げ出して、どこかくつろいだような様子で試合を観戦している凌統の横に、関平が「失礼します」と一声かけてから並んで坐った。あいよ、と応えながら居住まいを正す凌統に、関平は小さく首を振りながら、そのままで、と言う。
 彼はきょろきょろと周囲を見回し、その場に集う皆が丁奉と劉禅とに注目していることを確認して、小さな声で凌統を呼んだ。
「あの……一つ気になることが」
「ん?」関平の、深刻ではないながらも周りを憚るような様子を凌統も気遣って、少しだけ彼に身を寄せる。「どうしたんだい?」
「孫権殿と、于禁殿とは、恋人同士の間柄ということでよろしいのでしょうか」
 凌統は思わずむせた。関平が慌てて背をさすってくるのに礼を言いながら、涙目で彼は関平を見遣った。
「そ、そういうことだよ。今更かい?」
「いえ、ただの確認で……! 申し訳ありません」
 一頻り咳き込んでようやく落ち着いた凌統に、本当にすみません、と関平はなおも謝罪する。それを制しながら凌統が首をかしげてその先を促すと、関平は神妙な表情になった。
「そのことでもしかして、何かあったということはないでしょうか」
「何か……かい?」
 問い返す凌統に関平は一つ頷く。
「夏侯淵殿が仰った、ご自分のものを取られるとお怒りになる曹操殿。そのご自分のものというのに、将兵らも含まれているのではありませんか? あるいは将兵とは、君主にとっては民と等しく宝なのだと、劉備様も仰っておりました」
「ちょ、ちょ、待ってくれよ。そうしたら本当にとんでもないことをしてるんじゃないか、うちの殿は」
「いや、でもそれとこれとは話が別ということも」
「それとこれってどれとどれだい」
 急に騒ぎ出した二人の下へ、その様子を訝しんで足を向ける者がある。
「ま、待って、関平殿。さすがにこれは于禁殿に知られちゃまずい。公私混同なんてあの人の一番嫌うところだろ」
「わかりました。それにこれはただの拙者の憶測です。何が真実か、まだわかったものではありませんし」
「公私混同?」二人の後ろから影がかかり、低く硬い声が頭上から降ってくる。「何の話をしている?」
 恐る恐る、ゆっくりと背後を見上げる二人の視界に、于禁の眉根に深く刻まれた皺が映る。
「私の名が聞こえたように思ったが……」
「あ、いや、その……」
 どぎまぎする凌統に目を細めた于禁は、そのままちらりと関平へ視線を動かした。ヒイ、と肩を竦ませて固まる彼に、腹の底からため息がこぼれる。
「怪しからぬ話は人目につかぬところでせよ。私だっていちいち咎め立てしたりなどせぬ」
「いや……ちょっと、ちょっと待ってください!」
 言い置いてその場を立ち去ろうとする于禁の鎧の紐を、凌統は急いで掴んだ。
 彼がもしかして何か誤解をしているのなら、それは解いておかねばならない。凌統と関平とは決してそれを意図してこんな会話をしていたわけではないのだ。
「于禁殿、俺たちはうちの殿がなんで曹操殿を怒らせたのかって、そういう話をしていたんです。だって本当に、遺憾ですからね、こんな、だってねえ、もう」
「何を言っているのだお前は……わかった、わかったから」
 必死にすがる凌統の指を一本一本引きはがしながら、于禁は呆れたような声を出す。
「于禁殿は、どう思われますか? なぜ孫権殿は、曹操殿を怒らせてしまったのでしょう」
 どうにか凌統の指を全部振り落とした于禁に、横から凌統への助け船を出すように関平は声を上げた。彼を見た于禁はやはり呆れていて、「知らぬ」とぶっきらぼうに返す。
「その……もし、もしですよ。孫権殿が公私混同していたとしたらどうします?」
「厳罰に、処する」
 重々しい一言が発せられた。ですよね、とは凌統と関平の総意である。


 ◇


「曹操殿、こちらでしたか……っと、おやあ、これは失礼」
 応接室に顔を覗かせた賈詡は、曹操と孫権が対局しているのを見て一歩退いた。室の扉は開け放されており、外に守衛もいないものだからそのことについて苦言を呈そうと思ったものの、なんのことはない、護衛たちは三人揃って興味深そうに盤面を見つめているのである。
「構わぬ。それよりもよいところへ来た」
 室内から手招きされて、賈詡は顔を引きつらせながらも中へ入る。
「いやあ……俺はちょっと伺いたいことがあっただけなんですけどね……」
「なんだ?」
「ああ、いつだったか曹操殿と郭嘉殿が、酩酊戦とか言って打ってたときの棋譜をお客人に見せたくて。どこにあるかわかります?」
「棋譜?」首をかしげる曹操はしばらく目線を中空に漂わせた後、賈詡に目を合わせた。「残っておったか?」
 あったはずですけどねえ、ともごもご返事をしながら、許褚たちと同じように賈詡も盤上に目をやった。
 曹操と賈詡とが会話をしている間にも、顔を上げずに長考していたらしい孫権が、ようやく「ここだ」と言って石を盤上に置く。
 賈詡から見れば劣勢のなかでどうにか繰り出された凡手に過ぎない。
「戦績は?」
「儂の五戦五勝だ」
 さほど間を置かずことも無げに曹操が石を置けば、くう、と唸りながら孫権はまた長考の姿勢になる。
「ふうん、お前さんは下手くそかい?」
「う……そんなつもりはなかったんだが。いや、確かに父上や兄上に勝ったことはないが、凌統や朱然になら何度か」
「まぐれであろうな。でなくばそやつらも同程度か」
 あるいは接待か、笑いながら腕を組む曹操は、はて棋譜とな、とまたしても視線を彷徨わせた。
「賈詡、おいらも手伝うかあ?」
 許褚が言うのに少し心引かれる賈詡であったが、さすがにそれはできないと辞退する。もしかしたら彼は少しこの対局に飽きているのかもしれなかったが、曹操の手前、賈詡にはどうすることもできない。
「よし、ここ」
 ぱちり、と石を置いた孫権を賈詡は見た。悪手である。はあ、とため息をついた彼は、一つの交差点を示した。
「こっち、こっちに置いてごらん」
「む? 賈詡よ、打ち直しは無効だ。手出しも無用」
「曹操殿、いいじゃないですか。正直手応えもないでしょう? それに俺程度が手出ししたところであなたの六勝目は揺るぎませんよ」
 笑う賈詡を曹操は目を細めて見つめていたが、やがて「よかろう」と言って孫権に目をやった。
「儂の軍師がおぬしを補佐する。異論はないな? せいぜい一勝をもぎ取ってみよ」
 きょろきょろと二人を交互に見ていた孫権だが、やがて苦虫を噛み潰したような顔で頷き、賈詡に「よろしく頼む」と声をかけた。
 軍師は、肩を揺らして哄笑した。
「あっははあ、頼まれましたよ、孫権殿。安心してくれ。俺はちょっとくらい劣勢であるほうが、燃えるたちなんでね」

 しばらくして、応接室に郭嘉、蜀からの客である龐統と法正、呉からの客である周瑜と呂蒙が現れた。いつまで経っても参謀室に戻らない賈詡に、どうやら郭嘉が何か面白そうな事態を予感したらしい。
 それは的中していた。
 彼らが応接室で目にしたのは、厳しい表情で腕を組み盤上を睨みつける曹操と、飄々とした顔で頬杖を突きながら成り行きを見つめている賈詡、そして呆然としたように曹操を見ている孫権である。
「曹操殿、孫権殿、失礼いたします。賈詡、面白そうなことをしているね」
 悠然と歩いてきた郭嘉と彼の後ろに続く一行を賈詡はニヤリと笑って迎えた。
「やあ皆の衆。悪いね、帰るのが遅くなって」
「構わないよ、棋譜は私が見つけてしまったし」
「そうかい」首肯して、賈詡は曹操へ視線を戻す。
 一行は対局を囲んで、盤面を覗き込んだ。
「酩酊した棋譜も面白かったけど、こっちもなんだか、面白そうだねえ」
「孫権殿、これは一体?」
 困ったような表情で己を見る周瑜に、孫権は事の次第を話した。曰く、五戦五敗のあとの一勝のために魏の軍師を雇ったと。
 周瑜は笑った。
「素晴らしい手並だ、賈詡殿」
「おお、周瑜殿にそう言われるとは、嬉しいね」
「だが、何やら余計な手も多いように見えますが?」
 法正が目ざとく言うのに、それは孫権殿、と賈詡が答える。名指しされた人物は肩をすくめた。
 孫権と賈詡に対面する曹操の後ろに回り込んだ郭嘉は、龐統を手招いた。
「どう見る?」
「ううん、そうだねえ……あすこかね」
 龐統の指が盤上のどこかを示し、なるほど、と郭嘉は頷くが、次いで別の場所を彼の指で示した。「私は、そっちかなと思うんだけど」
 彼らが密やかに交わす会話に、周瑜と法正も混ざる。呂蒙はその場に留まったまま、難しい顔で盤面を見つめている。
「どこだ?」
「そこ」
「ああ、いい手だな」
「俺としてはそっちかと思うんだが」
「なるほど、そうすると白がこっちに」
「いや、それでは黒が」
「おぬしら、人の後ろでやかましい」
 ようやく腕を解いた曹操が盤上に石を置くと、軍師たちは一様に「おお」と声を上げた。
 彼らの様子にうんざりしたような表情を見せたのは賈詡も同じである。
「ちょっと、静かにしててもらえるかね」
「面白い手を打たれたら、それは無理だよ」
 笑ってのたまう郭嘉に、長いため息をついたのは誰であったか。

 曹操と孫権の話は、一局目が終わらぬうちに済んでしまった。
 なぜあのようなことを儂に申した、と曹操が問えば、孫権はただ、嫉妬したのだ、と答えた。
 曹操はそれだけで、いとも容易く得心してしまう。なんのことはない、その辺の街中を当たり前のような顔で歩いている感情だ。
「私的な会見、とは随分仰々しかったな。次からは、そうだな、義父に会いに来たとでも言え」
「……義父とは呼びたくないな……」
 いかにも面倒くさそうに言う孫権に、曹操は小さく笑った。
 彼らの話は、それだけで終わった。
 あとは外で待っていた護衛たちをそば近くに呼びつけて、彼らも交えて歓談しながら思うがままにひたすら碁を打った。ただ、もしかしたら、いつになく真剣に対局に向かっていたかもしれない。
 賈詡が入ってくる少し前、曹操はぽつりと口を開いた。
「そろそろ皆には帰還するように伝令を出そう。おぬしもあやつに会ってから帰るといい」
「……いいのか?」
「会いたくないのか?」
 会いたい、と孫権は答える。曹操はやはり、口に弧を描いて、続けた。
「あれだ、泣かせたら承知しない、というやつだな」
「想像もつかないな……」
「あやつに何かあったら、張遼がお前のところに行くぞ」
「や、やめてくれ」
 ――結局、蜀にいる魏将たちの滞在が延びることはなく、客人たちはそれぞれ一月の後に彼らの故郷への帰途に着いた。

 参った、と曹操が天井を仰いで呟く。
 満足そうに膝を叩いた賈詡は、孫権が差し出す手のひらに己のそれをパシンと合わせた。


 ◇


 目の前に現れた孫権は、はじめはぱっと晴れ渡るような笑顔だったが次第に意気消沈したような表情になり、于禁の顔を上目遣いに見た。
 きっとこれから己の怒りを受ける事態になるのであろうことにようやく思い至って、覚悟しているのかもしれない。
 諸将の帰還を自ら出迎えた曹操は、その後個別に于禁を呼びつけて、自分たちの事情を知った旨と、己からいろいろ言っておいたからあまり咎めないでやってくれとわざわざ伝えるまでした。
 曹操に言われてしまっては従うよりない。気恥ずかしさと申し訳なさで、于禁は声も出せず神妙に頷くしかできなかった。

 それでも、実際に彼に会ってその顔を見てしまえば、何をしているのだお前は、とか、立場にふさわしい行動を心がけよ、とか、いろいろ言いたいこともあったのになぜかそれがすべて引っ込んでしまう。
「……この、ばかたれが」
「……すまん」
 むき出しの額に軽く手刀を食らわせて、于禁は笑う。
 ぱちりと瞬いた孫権は、痛まない額を押さえて小首を傾げた。

 彼の碧い瞳が日の光を反射して、輝きながら己を見ている。