「あれ?」
 政庁の各所から集められた書簡を逐一精査していた孫権が、不思議そうに上ずった声をあげた。その場にいた于禁、そして龐統が卓上から顔を上げ彼を見る。
「于禁、軍団の再編成についてはどうなった?」
 提出していたか? とがらんがらん音を鳴らしながら卓上を漁る孫権に龐統が「そんなことしていたらまた見えなくなるじゃないか」と苦笑交じりに諭す。
「これは、違うし……これは……これは補充か。……于禁?」
 返事のないことを訝しんだ孫権が彼を見遣ると、于禁は戸惑ったような表情で孫権を見ていた。
「…………、……すまない。なんのことだったか」
「え?」
 孫権と龐統が、全く同時に素っ頓狂な声を上げた。


 ◇


 于禁がよく物を忘れるようになった。始めは軍団の再編成案の提出を忘れ、その次に彼の得物である三尖刀の保管場所を忘れ、その次に政庁の書庫の位置を忘れた。
 そう聞いた始めのころは、朱然などは「おい、しっかりしてくれよな」と面白半分に茶化していたものだが、あるとき調練の刻限になっても姿を見せず、不安になった副将が大将軍の執務室へ様子を見に行くと、彼が席に着いて筆をとったまま虚ろな表情で俯いているのを見た、という報告を受けたときにはこれはまずいと誰もが思った。

「呆けたのか?」
「まさか、年寄りでもあるまいに……」
 朱然と孫権の遣り取りを、諸葛誕が眉根を寄せて聞いている。
 于禁のことは一旦邸宅に帰らせて、彼の軍団は一時張郃の指導のもとで調練に当たらせることとなった。そう伝えれば、常ならば心底厭そうな顔つきで「私の軍団に余計なことを吹き込まぬように」だとか口うるさく言ってみせる彼が、ただ一言、至極言いにくそうに「承知した」と応えて歯噛みするのを見たときには、さすがの張郃にもそれ以上返す言葉を見つけることはできなかった。
「医官は付き添わせているが、ちゃんとした医師を探したい。手配してもらえるか」
 孫権が言うのに諸葛誕は首肯する。朱然が困ったように頭の後ろで両手を組んで伸び上がった。
「でも、少し前まではなんともなかったろう。急におかしくなった」
「そうだねえ……、……気になるね。文献を当たってみるよ」
 龐統は時が惜しいと言って足早に政務室を後にした。
 孫権はその手に、于禁が書き残していた軍団の再編成に係る書簡を持ちながら、顎に手を当てて唸る。
「于禁に再編について打診したのは二十日前だ。そしてこの内容はほとんど仕上がっている。ということは本当に、ここ数日前から物忘れをしてしまったんだ」
 どういうことだ、と絞り出したような声は政務室にささやかに響く。朱然が彼を横目で見ながら、会ってなかったのか? と出し抜けに問うた。孫権は一つ頷き返す。
「この案件があったから……始末をつけたら、会うつもりで」
「そっか」
 大変だな、とぽつりと返して朱然もまた考え込むような表情をしたが、すぐに彼の逆立てた髪をがしがし掻いて勢いよく立ち上がった。
「ない知恵絞って考えてても埒はあかないしな! 俺も江陵の知恵者を当たってきます」
 孫権の返事を待たずにばたばたと出て行く朱然の背中に慌てて「頼む」と声をかけた孫権は、残っていた諸葛誕を側近くに呼び寄せると于禁の残した軍団編成の表を彼に渡した。
「この続きを任せてもいいだろうか。見たところほとんど仕上がっているようだから、あとは詳細の確認と細かな手直しがあれば、それくらいで済むはずだ」
「……はい、わかりました」
「経過を見てからになるが、必要があれば一時于禁を大将軍から免官し養生に当たらせることになる。代行として張郃を立てるつもりではあるが、お前にもその補佐を頼む」
 はい、と頷いた諸葛誕はしばらく自身の手元にある書簡を見つめていたが、やがて顔を上げると、あの、と言った。
「孫権殿は、どうか于禁殿のお傍にいてやってください。こちらは我々でなんとかやり繰りしますから」
 その言葉に目を丸くした孫権だったが、すぐに困ったように笑って「そういうわけにもいくまい」と応える。
「いえ、きっとそれがいい。一番今の境遇を不安に思っているのは于禁殿のはずです」
「…………そうだろうとも。では、そうだな、できる限り于禁の傍にいるよう努める。日中は無理でも、毎夜彼を訪ねよう。諸葛誕、政務はよろしく頼んだぞ」
「はい」
 力強く頷いた諸葛誕は、そうして大股で政務室を辞去した。一人残された孫権はしばらくじいっと押し黙っていたが、ふう、と長くため息をつくと卓に突っ伏した。
 何気ない日常、何気ない問いかけのはずだった。少し、彼らしくないな、なんて軽い気持ちで。
「…………、……于禁……」
 呟いた声は彼の赤い着物に滲んで、誰にも聞こえることはなかった。


 ◇


 夜半、孫権は于邸を訪ねた。本当は、諸葛誕から言われなくてもそうするつもりだった。
 于邸の家宰は彼の主人に似て愛想のない初老の男だったが、孫権の友人たちのように孫権と于禁との関係を承知していて、己が唐突に連絡して邸宅を訪ねても無言で邸に上がることを促してくれる。
「于禁はもう休んだか?」
「わかりません。室からは出てきておりません」
 早口でぶっきらぼうな返事の、その片隅にどこか心配げな色を見つけて、孫権は彼を安心させるように「今良い医者を手配しているから」と言葉を重ねる。家宰は小さく頷いただけだった。
 于禁の私室の外には二人の医官が立っていた。日暮れまで于禁の診療をしていたが、孫権来訪の報を受けて容態の報告のために残っていたのだと言う。
 彼には若干発熱の症状が見られたが苦しがる様子はなく、今のところ受け答えもはっきりとしているが今後はどうなるかわからないらしい。何せ医官たちにとっても初めて目にする症状だった。単なる呆けならばいざ知らず、未だ若々しく活気に溢れ、つい数日前まではきびきびと檄を飛ばして兵たちを教導していた男が“こう”なるというのは話にも聞いたことがない。
「ただ、ご本人が一番……そうですね、口惜しそうにしております」
「口惜しい?」
「なぜ己がこんなことになっているのか理解し難い苛立ちゆえかと」
「なるほど」そう言われれば実に彼らしくて、孫権は場違いにも小さく笑みを浮かべた。「きっとそうなのだろうな」
 そうして孫権は医官たちにしばらく于邸に詰めるよう依頼し、隅に控えていた家宰にもその旨を承知させた。もとより彼は否とは言わない。
 医官たちと家宰が連れ立って于禁の私室の前から辞去するのを見届け、孫権はゆっくりとその扉を二度叩いた。
「いいだろうか」
 声をかければ、少しの間の後に「構わん」と声がする。
 足音を立てないようにそっと中に入れば、牀に腰掛けている于禁が手に持っていた書簡を傍に置いて、孫権に目を向けた。
「…………、……すまない」
 なんと言葉を掛けようか孫権が迷っているうちに、于禁が先にそう口にしてしまう。
「何もお前が謝ることはない」孫権は大股で彼の傍まで歩み寄ると、その隣に腰を下ろした。「もうそんなことは言うんじゃない」
「…………だが、軍務に支障をきたしてしまった」
 許されることではない、彼がそう続けるのに、思わず孫権はその口に口づけをして笑った。
「確かにお前は唯一無二だが、お前の不在を補うために将兵の別なく皆が奮励努力している。お前に非がないことで、もう決して自分を責めるんじゃない」
 それは、あまりに内省的な彼のために孫権が言いたかったことであり、言わねばならないことであった。于禁は口許に手を当てて、一つだけ頷いた。
「しばらくお前には邸宅で養生してもらう。その間に皆が解決策を見つけるから、安んじているといい。お前はきっと働きすぎて疲れたのだ」
「そんなことは……」
「ないとは言わせんぞ」
 孫権がまた彼に顔を寄せて口づけをしたそうな素振りをすると、彼は顔をしかめて「真面目な話だ」と咎めるような声をあげる。
「そうだとも。私も日中は時を見つけて顔を出すし、夜は毎晩お前を訪ねに来るからな。もちろん布団に入って構えてくれていてもいいが」
「孫権!」
 いよいよ彼は怒りに頬を赤らめて声を荒げる。あはは、と声をあげて笑った孫権は、于禁の腕を引いて牀に一緒になって横たわった。
 于禁はじっと己の横にいる孫権を見つめていたが、やがて意を決したように口を開くと「私に構わなくていい」と言った。
「皆には皆のすべきことがある。一人の病人にかまけている暇などない。派遣してもらった医官二人で十分だ――一人でもいいくらい」
 それを聞き、孫権は体を起こして于禁に覆いかぶさる。
「そんなわけにいくか。言っただろう、お前は唯一無二だと。お前には早く快復してもらわねばならん。お前のためだけではない、私たちのためにも」
 わかっているだろうに、と孫権は目を細めて首をかしげる。眉根を寄せてぐっと痛みを堪えるような表情をした于禁を見て取ると、孫権はその口の端に今一度口づけを落とした。
「なあ、于禁。お前が必要なのだ。私にも、龐統にも、朱然にも、張郃にも、諸葛誕にも、そして我が軍のすべての将兵たちに。どうか私たちを見捨てないでくれ」
「……そのような、つもりなどない」
 ようやく、于禁の表情がやんわりとほぐれる。孫権はほっとして、また彼に口付けてからその横にごろんと寝ころんだ。
「さあ、もう寝よう。疲れをゆっくり癒すのだ」
「…………、……ああ」
 応え、于禁はごくごく小さな声で「ありがとう」と孫権にささやいた。孫権はそっと于禁の手を握り返してそれに対する返答とした。

 ――室内に、朝の光が差し込んできて牀の天蓋の布を柔らかく照らしている。
 そうっと起き上がった孫権は、未だ眠りの淵にいる于禁を起こさぬようおもむろに牀から降りた。彼はそろそろ仕度をして登庁しなければならない。
 うんと伸びをして于禁の私室を何気なくぐるりと見渡した彼の視界の隅に、何か見慣れないものが目に入った。于禁が普段使っている壁際に設えられた卓の傍の床に、小さな匣が落ちている。
 孫権の手で包み込んで隠してしまえるほどの大きさのその匣には継ぎ目がなく、ざらざらとした手触りが孫権を奇妙な気持ちにさせる。それは、人の肌によく似た色をしていた。
「…………?」
 両手の指先でそれを弄びながら矯めつ眇めつしていた孫権は、その匣を何気なく耳元で振ってみた。
 ――たぷん、と、水の音がする。
 また、二、三度振ってみる。たぷん、たぷん。
「…………」
 孫権は、于禁が牀の上で身じろぎして我に返るまでその匣から聞こえる水音に耳をかたむけ続けた。なぜだか不思議とその音が、孫権の心を捉えて離さなかったのだ。


 ◇


「なかなか見つからないね」
 龐統の言葉に、執務室に集まった孫権たちは一様に落胆する。これくらいかね、と彼が懐から出したのは一編の怪異譚だった。夜道で異界の者と問答した男がすっかりその記憶を奪い去られてしまうという内容である。
「異形……もしそうなら、城邑で似たような事例があるやも知れぬ」
「それなんですけど」
 朱然が挙手して彼が昨日城下で調査してきた結果を告げる。とは言え、老人の痴呆症状の他は取り立てて参考にできる事例はないということだった。それを聞いた張郃は困ったように眉根を寄せて小首をかしげる。
「さすがに于禁殿とお年を召した方々を一緒くたに考えてしまうわけにはいきませんね」
「そうだな、もう少し別の症例を……」
 議論を詰めた一同は、それぞれの政務や軍務の合間を縫って解決策を模索することとなった。
 去り際、諸葛誕は于禁より引き継いだ軍団編成案を孫権に提出した。その仕事の速さに思わず孫権が彼に詰め寄ると、諸葛誕はほとんど精査の必要がなかった旨を告げる。
「于禁殿の的確な仕事のおかげです」
「…………そうか……」

 孫権は、自身の懐にそっと手を遣った。そこにはあの小さな匣が隠されている。
 ――持ってきてしまった……
 目覚めかけた于禁に驚いて、孫権は小さな匣を“思わず”懐に入れてしまったのである。そそくさと于邸を辞去してしまった孫権だが、すぐに彼には後悔の念が押し寄せた。この匣は于禁のものなのだから彼に返さなければならないのに、全体どうして自分は手放し難く思ってしまうのだろう。
 孫権は、懐からあの匣を取り出して己の耳許に寄せ、また軽く振ってみた。
 ――ぱたん。
「…………あれ?」
 ――ぱたん、ぱたん、……ぱたん。
 孫権の鼓膜に、今朝とは違う水音が響いた。満々と湛えられた水の揺らめきではない、乾いた地面に今降り出した雨が軽やかに打ちつけるような、音。その音色が心地よくて、孫権は瞼を伏せる。
 ――ぱた、ぱたん、ぱたん、ぱた……
 やがて、ザア、と雨が降り出した。
 孫権は、その中に立つ于禁の姿を夢想した。雨の線が覆い尽くす視界、けぶる風景のなかで于禁の漆黒の鎧だけがはっきりとした輪郭を持っている。彼の濡れた黒髪の美しさ、まつ毛についた水滴までもはっきりと見えるようで、孫権は目を凝らした。
 ――その口が、何か言いたげに動いたような、そんな気がした。

「――孫権殿!」

 やにわに鋭い声が執務室に飛び込んだ。は、と勢いよく顔を上げた孫権が咄嗟に懐に匣を隠し返事をすると、「失礼いたします」と先ほどの声とは打って変わって柔らかな声の張郃が入室してくる。
「何度かお呼びしましたが、返事がありませんでしたので」
「あ、ああ、そうだったのか。すまない」
「もしや、お休みでしたか?」
 からかい混じりに問われ、焦って孫権は首を振る。ふふ、とおかしそうに張郃は目を細めて口許に弧を描いた。
「冗談ですよ。ですが、于禁殿が休職されている今、あなたにも倒れられては困ります。于禁殿を気にかけるのはよろしいのですが、どうか何よりご自愛なさってください」
「ああ……ありがとう」
 張郃が持ってきた案件は、今日の調練の内容、そして于禁の副将が“張郃の手を煩わせるわけにはいかない”という言葉とともに自主的に立案して持ち込んだ今後の調練予定についてであった。かの部隊はその率いる将軍に似たのか非常に自律的である、と張郃は述べる。
「私は何も構いませんと言ったのですが……副将殿ばかりか軍団長、一般の兵卒たちからもそのような声が上がりましたので、一度孫権殿のご意見を伺うと言って引き取ったのです」
「うむ……内容に目立って修正すべき点は見当たらないが……普段の調練の内容をよく踏襲しているのだろうな」
 ええ、と張郃は相槌を打つ。
 もう一度書簡に目を通し、孫権は一つ頷いてそれを巻き戻し、張郃に返した。
「この内容であれば文句はあるまい。不測の事態にも皆が責任感を持って動いている、我が軍にとってこれほど頼もしいことはない」
「まったくもってその通りですね。では皆に通達してまいります」
 そうして張郃が執務室を辞去すると、孫権は恐る恐る己の懐に手を遣った。
 あの小さな匣、今は何も聞こえないが、今このときもそのなかに安らかな水音が流れ、響いているのだろうか。全体どうして于禁はこんな素晴らしいものを持っているのだろう。そしてどこで手に入れたのだろう。教えてくれてもいいのに――


 ◇


 その夜、于邸を訪れた孫権は、二人の医官から今日の診察結果の報告を受けた後、于禁の私室へ上がりこんだ。
 今日は、医官たちの名を忘れたということだった。昨日今日ですから覚えられないのも無理はない、などと一人は言っていたが、彼は于禁が戦闘で傷を負うたびにその治療に当たっており、以前には于禁より手際を褒められてもいたのだ。彼の表情は、おかしそうな声音とは程遠く強張り、笑ってなどいなかった。
「今日よりお前の部隊は、副将の指揮のもと自律して調練を行うということになった。まったく誰かさんに似て責任感が強いのだから」
「そうか……」
 孫権の言葉に答える于禁は、どこか悄然として孫権を焦らせる。彼は慌てて――まるで偶然であるかのように、今思い出したかのように――懐からあの小さな匣を差し出した。ほんの少しばかりの名残惜しさを押し込めて。
「そうだ、この匣、卓の傍に落ちていたんだ。お前のだろう?」
「え?」
 孫権に差し出された手のひらの上を、困ったような表情で于禁が見つめる。
「不思議な意匠の匣だな、継ぎ目がないとは、一体どうやって作られたものだろう。それに心地よい音がする。こんな素晴らしい宝物を持っていたならこっそり教えてくれてもよいのに」
「孫権、何を言っているのだ?」
「ん?」
 訝るような于禁の声に、孫権はきょとんと目を丸くする。
 于禁はそっと孫権の手――その指先に触れた。
「この上に、何かあるのか……?」
「え……」

 見えないのか?

 孫権は、己の手のひらにある匣を凝視した。ざらりとした肌色の小さな匣は平然としてそこにある。于禁の指先がそろりとその匣――があると思われる場所――を撫ぜようとして、躊躇うように引っ込められた。
「……おかしなことを言わないでくれ」
「あ、ああ……すまない。私の勘違いだった」
 于禁の言葉を受けて孫権はその匣をさっと懐にしまい込むと、急に胸に湧き上がってきた不安を振り払うように于禁の腕を取って横になる。
 ぴとりと彼の体にくっついてその肩に額をつければ、于禁はぴくりと身じろぎして彼の頬を孫権の頭頂部に寄せた。
 その仕草がまるで幼い子供のようで孫権は鼻がつんとなる。

 いつか彼は、私のことも忘れてしまうのだろうか。
 そのとき私は、自失せずにいられるのか。
 慣れた体温なのにあまりにも心許なくて、孫権は一層彼に寄り添った。


 ◇


 翌日、早会を終えてすぐに執務室を辞去しようとする龐統を孫権は呼び止めた。どこか煩わしそうに振り返った彼に口先ばかり謝りながら、孫権はあの小さな匣を取り出して彼に見せる。
「これが見えるか?」
「……? おかしなことを言うねえ、その匣だろう?」
「そ、そうだ」
 明らかにほっとした様子の孫権を龐統は訝る。慌てて孫権は、于禁の部屋に落ちていたものなのに彼には見えなかったのだということを伝えた。
「ふうん……見えない、というのは気になるね。見たところ蓋もついていないようだけど、これは何に使うものなんだい?」
 少し借りていいかね、と龐統は孫権の返事を待たずに匣を摘み上げ矯めつ眇めつしている。孫権は己の心に湧き上がってきた拒否感に見て見ぬ振りをして「わからんのだ」と答えた。
「ただ、その中から水音がする。それも一定ではない。あるときは器に満々と湛えられた水の、その水面が揺らめくような音が。あるときは雨の音が」
「それは、おかしな話だね」
 龐統は孫権に言われた通りその匣を耳許に持っていく。しばらくして、彼は首を傾げて孫権を見た。
「何の音もしないよ」
「そんなはずは……少し振ってみてくれ」
「こうかい」
 二、三度、龐統は匣を小刻みに振った。そうするとだんだん彼の表情が怪訝なものに変わっていく。孫権はささやき声で「聞こえるだろう」と尋ねた。
「聞こえるがね……水音じゃあないようだ」
 何か硬い石か鉱物を打つような音がする、龐統はそう言って匣を孫権に返す。「石?」それを受け取りながら孫権は首を捻った。
「なんだろうね、こもっていてよくわからなかったよ」
 孫権もまた匣に耳を寄せる。
 ――どう、どう、と、川が力強く流れる音がしている。
 彼の表情の変化を見た龐統が眉をひそめた。
「……一体その匣はなんだい。持っていて害はないものなのかね」
「わからん……だが、悪いものではないように思う」
「それは願望でしかないよ、孫権殿」
 龐統はすっと手のひらを孫権に差し向けた。
「貸しな。道具屋に見てもらってくるよ。古物に詳しい男がいたはずだ」
「…………」
 孫権の逡巡を見て取った龐統は半眼になり、「魅入られてるよ」と鋭い声で忠告する。
「得体の知れないものをいつまでも持ってちゃいけないよ。于禁殿のところに落ちてたなら、于禁殿の病の原因はこれかもしれないしね」
 口を引き結ぶ孫権に、龐統は再度己に寄越せと急かす。
「いや、道具屋へは私が行こう。龐統も己の任があるのだし」
「孫権殿」
「それよりも、先を急いでいたのだろう。引き止めてすまなかった」
 呼び止めておきながら突き放すような言い方をする孫権に、龐統は呆れたように長い溜息をつく。
「……本当にちゃんと持っていくんだろうね」
「信じてほしい」
「……はあ、具合が悪くなったときはちゃんと言うんだよ」
 もちろん、と首肯した孫権に龐統は重ねて念押しし、執務室を後にした。
 それをじっと見届けていた孫権は、執務室に静寂が満ちるとようやく自身の卓に落ち着き、匣を両手でもてあそぶ。
 手放し難かった。それどころか――龐統がこれをほしがったようにさえ思ってしまった。
 孫権は匣をそっと耳に近づける。何か壁のようなものを隔てた向こうから聞こえてくるような、そんなこもった雨音がした。

 政務の合間を見て、孫権は二人の護衛を伴い街中の道具屋へ向かった。
 口許に豊かな髭を蓄えた道具屋の主人は孫権の言と匣の意匠を見て、まるで奇っ怪なものを見たとでも言いたげに眉をひそめる。
「継ぎ目が全くないというのが……それにお話を聞く限りでは中も空洞なわけではないでしょう」
 無骨な指先が匣に遠慮がちに触れ、くるくると回している。
「かつて費長房は薬売りの仙人に連れられて壺の中に入り、そこで酒食を楽しんだといいます。匣であれ壺であれ容れ物の中に異なる天地が存在し、我々がそれに干渉できるというのは、先達の残した文献から見てもあり得ない話ではないはずです」
 わけ知り顔の道具屋は、つつ、と匣の縁をその指でなぞった。
「ただ、壺であればその口があるように、我々がこの中に恐らくあるであろう異なる天地に触れるためには、この匣に、いわば匣らしく蓋がなければならない。天蓋ですね。これにはそれがない」
 道具屋は孫権に匣を返すと、言いにくそうに「それになんだか」と付け加えた。「気味の悪い見た目ですよ。手触りも色も、なにやら人の肌を切り取って貼りつけたみたいです」
 言われ、孫権は手の中にある小さな匣に目を落とす。己はそうは思わなかったのだ。そして龐統はこの匣を“得体の知れないもの”と表した。
「…………そうか。わかった、ありがとう」
「いいえ、お役に立てずすみません。ただそういうのはしばしば持ち主に害をなしますから、何かある前に捨ててしまうのも手ですよ」
 忠告痛み入る、と笑い返し、鑑定の代金を道具屋に渡すと一行は政堂へ戻った。
「…………孫権様」
 道中、護衛の一人に声をかけられ孫権は振り返った。彼は至極困惑したような表情で孫権を見ている。
「あの……その匣、本当に捨てちゃったり、壊しちゃうわけにはいかないんですか。だって……」
「……いや、この匣が今回の事象の要因となっているという確証が取れたわけではない現状で、不用意な行動は逆効果を生むことにもなりかねん。諫言は受け止めよう、だが……もう少し、様子を見たい」
 殊勝な様子の孫権に、護衛は「わかりました、すみません」と返してまた黙った。
 視線を前方に戻した孫権は、きゅっと口を引き結ぶ。
 少し腹が立っていた。道具屋の主人にも、護衛たちにも――あるいは龐統にも、あの心に染みる美しい音を奏でるこの匣をないがしろにされたような気がして。


 ◇


 その夜、于邸を訪ねた孫権に、詰めていた医官が恐ろしいことを口にした。
 曰く、将の皆様のことがわからなくなっている、という。
「…………待ってくれ。“わからない”? 忘れたわけではないということか?」
 激しく打つ心臓をどうにか押さえつけながら僅かに震えた声で孫権が問うと、「その通りです」と一人が頷いた。
「例えば、張郃様のことは些かの齟齬は見られるもののさほど于禁様と我々との間に相違は見られない……と思うのです。少なくとも私はそう判断しております」
「張郃……」
 孫権がぽつりとその名を呟く。はい、と返事をして医官は続けた。
「龐統様については全く異なっております。彼は、龐統様がなぜ軍内にいるのか理解できないといった風でした。朱然様についても似たような印象をお持ちのようでしたが、“名は聞き覚えがあるが”というような仰り方をなさっておりましたね。そして……諸葛誕様のことは、一切存じ上げない様子でした」
 孫権は思わず口許を手で覆った。そんなことが、と絞り出すような声に、医官は取り繕うように言葉を重ねる。
「ただ、それは問診を始めた最初のうちのことで、次第に思い出した……というよりは……違うことに気づいた……というような様子で、……困惑されておりました。その後、少ししてまた熱を発されて、呼吸がお乱れになりましたので、薬を処方してお休みいただいております。まだお眠りになっておりますので……」
「そうか……」
 そうして孫権は、彼にとってあまりに身の毛もよだつような問いかけをした。
「……私……のことは」
 医官はその問いが来るのを知っていたかのように孫権の顔をじっと見返したが、やがて下唇を噛んで首を振った。
「……お尋ね申し上げることが、できませんでした。私どもも皆様が相並び立ち、まっすぐ大志へ向かって歩んでいく様に感銘を受けて軍に参じております。このようなことになってしまって……于禁様の口から、あなた様のことを聞くのが、恐ろしくて仕方ありませんでした」
 どうかお許しください、と二人の医官は深く頭を下げる。彼らに顔を上げさせた孫権は、「良いのだ」と言ってその肩を優しく叩いた。
「自分のことだ、自分で聞こう。お前たちも今日は休め。職務だからと言って……つらい思いをさせてしまってすまない」
 その謝辞に二人は何度も首を振って「構わない」と答えた。これが己の職務であり、責任と誇りとを持っている、そのことも、かつて于禁の姿から教えられたのだ、と。

 そっと于禁の私室の扉を開けて中に入った孫権は、牀に死んだように横たわって深い呼吸を繰り返す彼の姿を見た。今は薬が効いて、安寧のうちにあるらしい。
 孫権は、懐に入れていた小さな匣を于禁の卓の上に置くと自身も牀に乗り上げ、彼の隣に寝転がる。なるべく肌が触れ合うように寄り添えば、いつもより冷たく感じる皮膚に当たって心臓がどきりと音を立てた。
「…………」
 目頭が熱くなり、鼻がつんとする。涙がこぼれた。苦楽を共にしてきた仲間が、そのこともまったくわからない風で、もしかしたら己のことすら定かではないかもしれない。
 きっと一番恐ろしいのは于禁なのだろう。それでも、己が悲しいと思う心を諌めることはできなかった。

 黄河の北にある亡国で、その国の大将軍として仕えていた于禁、そして放浪者であった孫権と龐統の三人が出会った。国が内乱によって滅んでからは、むりやり放浪軍に引き入れた于禁も加えて旅を始めた。襄陽では孫権を探して東奔西走していたと言う故国の将、朱然と再会し、次に向かった漢中では国を追われた張郃に出会い、彼と共に逃亡するうちに向かった南海で、君主によって謹慎処分に処されていた諸葛誕を半ば強奪するような形で仲間に引き入れた。
 そうしてようやく辿り着いたこの江陵の地で、ついに六人は宿願に向かって進み始めた。
 あの日々を、失いたくない。于禁のなかから失わせたくない。
 ――“ずっと共にあることを望んでいた”のだ。

 ころり、と孫権の手許にあの小さな匣が転がり落ちてきた。孫権はそのことを一切不思議に思わなかった。ただあの心地よい音を、憂悶のうちにある于禁にも聞かせたかった。
 そっとその匣を于禁の耳許に寄せ、軽く振ってみせる。
「聞こえるか? 于禁……」
 孫権の吐息が彼の肌に触れるほど側近くまで顔を寄せ、問いかける。
「私はこの音たちが好きだ。お前はこの室で、実に素晴らしいものを私に見つけさせてくれたんだよ。お前には見えなかったが……音は聞こえるだろう?」
 囁くような声は于禁には届かず、彼の伏せられた目はそのままだ。だが、少ししてその眉間に深い皺が寄せられた。
「于禁?」
「…………、…………」
 小さく開かれた口から、は、と息が漏れ、その唇が微かに動いた。
「どうした? 于禁」
「…………、……め、てくれ……」
「え?」

 ――やめてくれ。
 ――どうか。

 ぱっと孫権は于禁から体を引き剥がした。苦しそうに呻く于禁の腕が不意に伸ばされ、離れていく孫権の体に触れる。
 その瞼が持ち上げられて、孫権の姿を視界に映したとき、彼は目を見開いた。
「そん、け、…………」
 その様を瞠目して見ていた孫権には、彼の表情の変化がすぐにわかった。さっと青ざめた彼は、明らかにわななき、狼狽えたのだ。
「于禁」
 孫権はまっすぐに彼の名を呼んだ。
 その声にたちまち起き上がった于禁は、違う、と叫んだ。
「違うんだ、こんな……! 私は、こんな風になるつもりは」
「うん、わかっている」
 孫権はそっと彼に腕を伸ばし、その体を抱き寄せる。
「どうしたんだ?」
「…………、……言えない……」
「私が知りたいのだ、教えてくれ」
 彼の肩口にそっと唇を添えながら、孫権は彼の背を柔らかくさする。
「教えてくれ、于禁」
 常ならぬ彼の焦燥した様子に、どうしてもその理由を聞くまでは引き下がるわけにはいかない孫権はよりしっかりと于禁を抱きしめる腕に力を籠める。
 何を言われても平常心でありたくて、そうした手前もある。
「…………お前が……」

「お前が、そこにいることが……つらくて……、……悲しくてならなかった…………」

 ――想定していた以上の衝撃が、孫権の全身を打った。
 恐るべきことに、己の存在そのものが、彼の心を悲しませたのだ。

「…………、……そうか……」
「すまない、すまない…………」
 繰り返し、于禁はそう口にした。やめてくれ、と言葉には出せずに、孫権は彼に頭を摺り寄せる。
「謝らないでくれ。どうか……」
 ――やめてくれ、どうか。
「私なら大丈夫だ。お前は気負いすぎるから……その方が心配だよ。眠ろう……起こしてすまなかった」
 優しく労わるように于禁の体を牀に倒せば、彼は困惑したような瞳で孫権を見上げている。孫権はにこりと微笑むと、彼の隣に自身の体を横たえる。
「孫権、これ以上は、もう……私のことなど」
「おやすみ、于禁。大丈夫だ……明日は、きっと、よくなる」
 于禁の言葉を強く遮って、孫権は目を閉じた。息を詰めた于禁がそっと己の手に彼の手を寄せるのがわかる。
 ありがとう、と、小さな声で彼が言った。
 それだけで孫権は心が少し楽になった。


 ◇


 寝所を共にした翌朝は、本当ならいつも于禁が先に目覚めていて、頃合いを見て己を起こしてくれていた。
 僅かに開かれていた窓の隙間から差し込んでくる朝焼けに無防備に照らされた天蓋の、柔らかな揺らめきの中で孫権はまどろむ。隣で于禁の立てる小さな寝息を聞きながら、何度か瞬いて、ようやく彼はゆっくりと体を起こした。
 見下ろした彼の黒い髪が、孫権の挙動でさらりと流れる。頬に指先を触れさせれば、僅かに低い体温からも彼の生命を感じて、覚えず孫権の口許に笑みが浮かんだ。
 例え彼を悲しませ、そのために己が傷つくことになっても離れることができない、孫権は己のわがままさに呆れるばかりである。
「…………」
 孫権はそっと彼の胸元に耳を当てるように折り重なり、目を閉じた。

 ――ぱたん、ぱたん。
 ――ぱた、ぱたた、……ぱたん。

 不意に、いつか聞き覚えのある、雨音が聞こえてくる。
「…………え……?」
 思わず顔を上げた孫権は、于禁の胸元に恐々手を伸ばした。その寝衣の襟元、胸板の真ん中あたりに指先を置くと、抵抗なく布が沈む。
 孫権の手が、緊張と少しの恐怖に震えた。彼は息を呑み、ゆっくりその襟元を解いていく。

 開かれたその胸元に、小さな四角い空洞があった。

「…………なんだ、これは……」
 孫権の手のひらよりもさらに小さく覆い隠してしまえるほどの小さな空洞なのに、その奥にはまるで深淵とも思えるほどの暗がりがある。孫権はごくりと唾を飲み込んだ。この空洞から、あの雨音が聞こえてきたような気がしてならなかった。
 ゆっくり、緩慢な動作で、孫権はもう一度その空洞に耳を寄せる。――どう、どう、と、あの、力強く流れる川の音が!
「ああ……!」
 ――なんということだ。
 孫権はわかってしまった、否応なく。あの小さな匣は、この于禁の胸に出来た空洞から抜け落ちたものなのだ。
 あの匣は、一体どうしただろう。昨晩于禁の耳許で聞かせてからは……きょろきょろと視線を彷徨わせる孫権の目に、于禁の頭のすぐ横に転がっているあの匣が目に入る。掴み上げ、空洞の上に持っていけば、まさにぴたりと当てはまる大きさだった。
「…………」
 だが、孫権は少しためらった。もしかしたら、もう二度とあの心地よい音たちを聞くことができなくなるかもしれない――
 彼はすぐに頭を振った。そんなばかなことを考えている暇はない。
 ぐっと匣を于禁の胸の空洞に押し込める。そうして指先でそっと撫でつければ、不思議なことに匣と空洞の隙間は次第に肌に溶けあい、そのうちすっかり于禁の胸板になじんで、空洞があったこともわからなくなってしまった。
「…………う……」
 呻き声がして、孫権は顔を上げた。于禁の眉間に深い皺が寄り、はあ、と苦しげに息をしている。
「……ッゲホ、ゲホ! が、はっ……」
 途端、激しく咳き込んだ于禁は、数瞬息を詰まらせたかと思うと、びしゃりと大量の水を吐き出した。
「……!? 于禁!! 大丈夫か!!」
「はあっ……はあ……」
 急いで于禁を抱き起こしその背中をさすってやると、彼はまた二、三度咳き込んだが、今度は深く長い息を吐いて、孫権の肩に寄りかかった。その体があまりに熱く感じられて、孫権の目じりに思わず涙が溢れてくる。
「于禁……」

「――いかがされましたか、孫権様」

 不意に室の扉の向こうから声が掛けられて、孫権はたじろいだ。于邸の家宰が騒ぎを聞きつけたのだ。彼の行動はあまりに早く思われ、きっと何があってもいいように于禁の室のすぐ傍に控えていたのだろうと孫権には察せられた。
「……いや、于禁が咳き込んだものだから、少し動転してしまった。今は落ち着いている。騒がしくしてしまってすまない」
「医官の皆様を、お呼びしますか」
「ああ、いや、そうだな……頼んでもいいか」
 はい、と家宰の返答と同時に、于禁が孫権の手を掴んだ。
「!」
「なんだ……騒々しい」
 どこか不遜ささえ感じられるその声音に、孫権はどきりとする。
 于禁はおもむろに顔を上げると、起き抜けの鋭い目つきで孫権を見た。
「なぜ、私の室にいるのだ……孫権。会うのは軍再編の始末をつけてからという話であったであろうが」
「え?」
 素っ頓狂な孫権の声に、于禁は一層訝るような瞳で孫権を見返す。心底不思議でならないと言いたげな孫権の表情を見て取ったのだろう、于禁は首をかしげて彼の上目遣いに覗き込んだ。
「……何か、あったか?」
 あったとも、とは、孫権は口に出せなかった。


 ◇


 于禁の症状に改善が見られた、との報告は医官づてで軍全体にもたらされ、将たちを始め于禁の部隊の兵士たちもこぞって彼を見舞いに于邸を訪れた。さすがに大勢を中に上げるわけにはいかないからと家宰が遠慮を申し出ると、于禁隊を代表して副将が万感の思いを込めてしたためた書簡を彼に預け、いつ于禁が軍務に復帰してもいいようにと皆勇んで調練に戻って行った。
「何と書いてあるんだ?」
 面白半分に朱然が尋ねると、憮然とした表情で「心配したとそればかり書いてある」と于禁が答える。

 于禁は、彼が病牀に着く数日前から今までの記憶をほとんど覚えていない、と言った。始めのころは時が経っていることすらわからない風で、孫権や龐統らに仔細を聞かされてようやく事の重大さを理解したようであった。
 容態が快復したとはいえ、予後観察のため于禁には十日ほどの休沐を与えてある。記憶の齟齬を辿るため医官の問診を受ける傍ら、張郃や諸葛誕らから不在の間の政務や軍務に関する報告を受ける于禁は真剣な表情で、遅れを取り戻すことに熱心だった。
「私が不調のうちは、本当に世話になった」
 ――しかし、彼の者の名を呼び、真摯な言葉でそう声をかけた医官が泣き出してしまった理由は、于禁にはずっとわからない。

 十日後、于禁が久しぶりに登庁してきた。
 我先にと駆け寄って行く于禁隊の将兵たちに負けじと、朱然や諸葛誕もおかしそうに笑って彼に走り寄る。
「皆さんお元気になってよかったですね」
 張郃が笑い、龐統が「まったくだねえ」としみじみ頷く。
「健康が一番だよ、あっしも気を付けようかねえ」
「本当ですね。全く于禁殿に騒がせられるとは思いませんでしたよ」
「……貴殿らが勝手に騒いだのであろう」
 眉根を寄せて心底厭そうな表情をする于禁に、「かわいくないですねえ」と張郃は呆れたように、しかしその口許には秀麗な笑みを浮かべて言う。
 はあ、と長い溜息をついた于禁は、すい、と視線を動かして彼らの後ろに泰然と控えている孫権を見た。その視線に応えるように孫権も微笑み返し、ようやくとその喜びのひと塊へ向かって歩き出す。

 あの匣を唯一見せた龐統にだけは、事の顛末を説明した。彼はしばらく難しい顔をして考え込むようなそぶりをしていたが、やがて、まるで癖のようになっている帽子に触れる仕草をすると「不思議なこともあるもんだね」とだけ言った。孫権は、それに対し神妙に首肯するに留めた。

 あんなにつらく悲しい夜が、己の裡にだけ残されたことに、孫権は心底安堵している。
 ただ、叶うならもう一度、あの優しい水音たちを聞きたかった。