旦那様が忘れ物をしたから宮城まで届けてね、と母に言われ、司馬師は長子の責任感そのままに頼もしい表情で、はい、と高らかに返事した。玄関先で四つ下の弟は母に手を取られながら、いってらっしゃい兄上、ともう片方の小さな手を振った。美しい母、愛らしい弟に見送られ、大股で大きく腕を振りながら司馬師はずんずん道を進む。目に映る薄水色の空が眩しい、司馬師八歳の春二月。強い風は吹き切って、色鮮やかな花々が咲き始める。時に父の上司である人が、ずいぶんと高い地位に就いてしばらく経ったころ。

 宮城に続く門前までは母に連れられて何度か足を運んだことがあったので、司馬師は問題なく父の勤め先に着いた。緊張した面持ちで門前の衛士に事の次第を話すとどうやら既に母の根回しがされているらしく――幼い司馬師はそれをまだ疑わなかった――すんなりと子供一人を中に通してくれた。案内するかと尋ねられ、いいえと首を振る。いくら緊張していても、自力で事を成すのが男子の務めである。衛士は父のいるであろう政務室の場所を丁寧に教えてくれた。にもかかわらずあまりちゃんと覚えられなかった司馬師だが、せっかちな子供らしさで、ありがとうございます、と上ずった声で礼を言うと駆け足で教えられた方角へ向かった。


 ◇


 結果的に司馬師は迷った。迷ったといっても、大体の方角は合っていたはずだ、と彼は思っている。
 父はそのころ、上司の子息である副丞相の側近として宮城に詰めていた。彼はいささか気難しい人で、そのことで家に帰ってくるたび父が愚痴を言うのを聞いていたから、司馬師はそんな副丞相に仕える人たちに道を尋ねることも躊躇われてしまったのである。実際は幾人も司馬師に声をかけようとしてくれた官吏や女官たちがいたのだが、一目散に駆けて視界から見えなくなる子供のためには己の職務も疎かにできないでいたのであった。
 しかし、それをしてもなんら咎めを受けないような立場の人物が、ついに迷える司馬師の前に現れる。

「おやあ? なぜかこんなところに小さな子供がいるねえ」
 回廊の隅っこに縮こまって固まっていた司馬師の耳に聞こえてきたのは、いかにもうさんくさい壮年の男の声である。ぱっと顔を上げた司馬師は、紫色の頭巾を被った目つきの悪い髭面の男が己のほうへ歩いてくるのを見た。
 司馬師はひっと顔を引きつらせた。なにせ生まれてこの方人を騙くらかして生きてきたような悪人面が己の姿をその双眸に捉えているのである。
 慌てて立ち上がって逃げようとした彼だが、男の足は速く、その細腕でがっちりと襟首を捕まえられてしまった。
「うわああああっ、ごめんなさい、ごめんなさいい」
「ちょっ……泣くな! 喚くな! 取って食ったりするつもりはない!」
 こんなまずそうな子供、と叫んだ男に、司馬師はばたばたと振り乱していた四肢をようやく収める。静まったか、と男は後ろから司馬師の両肩に手を置いて、彼の後背に向かって声をかけた。
「許褚殿、ちょっとこの子供に、あんたの持ってる肉まんを分けてやっちゃくれんかね」
「子供お? ちょっともったいねえけど……そんならしょうがねえなあ」
 くるりと男の体ごと振り向いた司馬師の前に、のっしのっしと床を揺らして歩いてきた巨漢がしゃがみ込む。愛嬌のある顔に満面の笑みを浮かべて、ほら、よく噛んで食うんだぞお、と彼はほかほかと湯気を立てる、白くふわふわの肉まんを一つ差し出した。
 その白と巨漢の笑みが眩しくて目をしばたたかせる司馬師に、彼は再びぐいっと肉まんを押しつける。
「食べねえならおいらが食っちまうぞ」
「…………食べてもいいの?」
「当たり前だよ」
 恐る恐る肉まんを受け取った司馬師は、しばらくじっとそれを見つめ、それから勢いよくかぶりついた。
「おお」
「おっ、いい食いっぷりだね」
 大きいひとかたまりを小さい口いっぱいに頬張る司馬師を見ながら、悪人面と巨漢は嬉しそうに笑う。
 二口、三口と食べたところで、司馬師の目から涙がこぼれた。
「うええええ…………」
「賈詡、泣いちまっただよ」
「おいおい、泣くか食うかどっちかにしてくれ」
 悪人面の薄い手に肩を撫でさすられ、巨漢の分厚い手に頭をわしわしとかき混ぜられながら、司馬師はひたすらに食べて、泣いた。

 悪人面は名を賈詡、巨漢は名を許褚といった。
 ひとしきり食べて泣き終わった司馬師が己は父のところまで忘れ物を届けに行くのだと訴えると、ちょうど二人も副丞相のところへ向かう途中だったらしく、司馬師は彼らと連れ立って政務室へと向かった。
 まだそのときは賈詡や許褚の位の高さがわからなくて、男子たるもの大人と並んで歩きたいと意気込んで小走りになっていた司馬師を見かねたのか、許褚は司馬師の小さな手を取ってゆっくりゆっくりと歩いてくれた。賈詡もそれを見ると緩慢な歩みになり、司馬師の知らない父の仕事ぶりについてを語って聞かせてくれた。今はまだ副丞相付きで戦場に出ることはあまりないが、戦のつど開かれる軍議で見られる彼の怜悧さには感心するという。司馬師は父が褒められて自分のことのように嬉しくなった。
 そうして歩いているうちに司馬師は、隣でのんびりと笑っている許褚の手がまるで肉まんみたいにふわふわでやわらかいのに、その手のひらには傷や肉刺の痕がいくつもあるのがわかって、彼が立派な武人なのだと気づく。こんなに優しげで穏やかな男なのに、己の知らないところで彼は時に戦うこともあるのだと考えると胸がきゅうっとなって、司馬師は許褚の手をいっそう強く握りしめた。
 賈詡が事もなげに発した“戦”という言葉も、本来ならば司馬師の知る由もない残酷な一面を持っているものだ。それはいつか己の身にも降りかかってくるであろうが、そのとき司馬師はこの二人のように変わらず笑っていられるだろうかと、そんなことがふと心をよぎった。


 ◇


 副丞相の政務室に着くと、許褚と手を繋いでいる息子を目にした父が飛び上がって仰天した。すぐさま賈詡と許褚に平謝りに謝る父の姿におかしくなって司馬師が笑えば、お前も謝るのだ、と言われて許褚と引き離されてしまう。無理やり頭を下げさせられて憮然とした表情になる司馬師を見て賈詡は苦笑した。
「構わんさ。それよりもご子息は何やらあんたに用があるらしいが?」
「用……ですか?」
 父が見下ろすのに向かって司馬師は、母より預けられた小袋を懐から取り出した。首をかしげる父はそれを受け取り中を開いて、ああ、と一つ首肯する。
「薬だ。忘れていたか。師よ、届けてくれてありがとう」
 そうして頭を撫でられて、司馬師は嬉しくなる。いいえ、と得意げに首を振る息子を見て、父は改めて賈詡と許褚に向かって謝意を述べた。

「仲達」
 と、それまで黙っていた政務室の奥の卓に着いていた男が声を発した。その傍らにいた女がふふ、と笑って空気をかすかにふるわせる。
「その者が貴様の長子か」
 低く、あまり温かみの感じられない声。司馬師は己のことを言われているのだとすぐに気づいて、父よりも早く彼の前に躍り出た。
「司馬仲達の長子、師と申します! 父がいつもお世話になっております!」
「師っ、お前……」
「フ、利発で聡明そうだ。貴様のように狡っからくもないし」
「子供が狡くては大人の立つ瀬がないでしょう……いや、そういうことではなくて」
 慌てて息子を諌めようとその肩に手を置こうとする父であったが、副丞相が司馬師の前に歩み出るのが先だった。
「仲達の息子よ、名を師といったな。私は曹丕、字を子桓。お前の父を世話する者だ」
「は、初めまして……」
 眉間に皺を寄せ厳しい表情をして凛として立つその男――曹丕は、為政者の風格でもって司馬師を見下ろす。決して子供の目線に合わせてくれるわけではないが、その佇まいに司馬師の背筋も自然と伸びた。
「梨は好きか?」
「へっ?」
 思いがけない問いに、司馬師はすっとんきょうな声を上げてしまう。再度、梨は好きか、と訊かれ、こくこくと何度も頷くと、曹丕は口の端を上げて小さく笑んだ。
「そうか。私も好きだ。許褚よ」
「なんだあ?」
 彼は扉の脇にいた許褚を呼び、司馬師の頭にぽんと手を置いた。
「私たちが話している間、仲達の息子と私の庭でも散歩してくるといい。ちょうど梨の花が満開だ」
「おお! 咲いたのかあ。よし、おいら見てくるぞ」
 許褚は持っていた肉まんの包みを賈詡に渡すとのっしのっし司馬師に歩み寄り、ぱっと手を取った。
「司馬師、行くぞお」
「許褚殿、世話をかけて申し訳ない……愚息をよろしくお願いいたします」
 言葉の通りに申し訳なさそうな父の声と、行ってらっしゃいと見送る賈詡の声に手を振って、司馬師と許褚は連れ立って曹丕の政務室を後にした。

「許褚は、話を聞かなくていいのか?」
 二人は曹丕の政務室と私室を繋ぐ回廊を行く。ちょうど半ばに庭に下りる階段があるのだという。先ほどのことが気になった司馬師が尋ねると、いいんだあ、と許褚は笑った。
「おいら、難しいことはよくわかんねえから。おいらがすることは、いっしょけんめ曹操様を守ることだけだ」
 曹操様。副丞相、曹丕の父であり、時の皇帝より領地を与えられた公であり、司馬師の父の上司。許褚は、そんな貴人の傍らにある守護者なのだ。
「なんでおいらが呼ばれたのかわかんなかったんだけども、そっか、梨が咲いたのか。梨のことならおいらもわかる」
「許褚も梨が好きなのか?」
「好きだぞお。一番は肉まんだけども」
 その言葉に司馬師も体を跳ねらせて、私もだ、と高らかに言った。
「肉まんは素晴らしいな。白く豊満な見た目、芳醇な香り、ふわふわとした食感、噛んだところから溢れてくる肉汁……」
 あの素晴らしさを表現したくて母や書物から教えてもらったたくさんの言葉を並べ立てれば、許褚は感心したように嘆息する。
「司馬師は、子供なのに難しいこと知ってるんだなあ」
「……でも、さっき許褚にもらった肉まんが一番おいしかったぞ」
 司馬師が言うと許褚は目を丸くして、それから破顔した。
「おめえ泣きながら食ってたから、塩加減がちょうどよかったんだなあ」
「そ、そ、そんなことない!」
 顔を真っ赤にする司馬師を許褚は満面の笑みで見つめてくれる。恥ずかしくて口を尖らせて前を向いた先に回廊の手すりの隙間が見えてきて、司馬師はあっと言った。
「曹丕様のお庭?」
「そうだぞお。梨はな、ちょっとくせえ臭いなんだ。でもそれがうめえ梨をつけるコツなんだぞ」
 軽やかに階段を下りてさくりと草を踏みしめる。政務室と私室、そして回廊に囲まれた曹丕の庭には、今は春の花が色とりどりに咲き誇り、草木の美しい淡い緑がそれを引き立てている。
 雀たちの遊ぶ小さな池をぐるりと巡り、二人は庭の奥にある梨の木に近寄った。
「……うえ」
「な、くせえだろ」
 司馬師の鼻の位置で臭いのだから、許褚や曹丕のような大人たちはどれほどのものだろう。それでも何食わぬ顔で許褚は梨の花に顔を寄せる。彼は背が高いからすぐ届く。
「うひひひ、くせえなあ」
 許褚は徐ろに司馬師の背後に回り、両脇をひょいと抱えて肩車した。
「うわあ、許褚!」
「ほれ、嗅いでみろ嗅いでみろ」
「やっやめろ、やめて! くさいーっ」
 頭上でばたばた暴れる司馬師にけたけたとおかしそうに笑い、彼を抱え上げたまま許褚は歩き出した。
「ああ、あんずの花はもう散りかけかあ」
 散策しながら二人は曹丕の庭を彩る春の草花を見て回る。許褚が残念そうに言う目線には、まばらに白い花をつけた木があった。許褚はあんずの木に歩み寄る。
「あんずはいいにおいだぞお」
「ほんとか? ……ほんとだ!」
 許褚の頭の上から身を乗り出して白い花に顔を寄せる司馬師の表情がほころぶ。許褚からはその様子は見えないはずなのに彼は嬉しそうに笑って、そうだろお、と言った。
 あんずの実はそのまま食っても美味いが、甘く煮たのも美味いのだと許褚は言う。司馬師は、許褚と一緒にあんずの実を食べたくなった。
 そうして二人は、賈詡に政務室の窓から呼びかけられるまで曹丕の庭を楽しんだ。政務室に戻ると曹丕が無表情に、人の庭でくさいくさいと騒ぐな、とちくりと言う。司馬師と許褚は顔を見合わせていたずらっぽく笑った。

「さあ、師はもう帰りなさい。お前の母が心配する」
「えーっ……」
 散策の後、曹丕の妻――甄姫が手ずから淹れてくれた茶を飲みながら許褚や賈詡と歓談していた司馬師は、父の水を差すような一言に不満げな声を上げた。
「えーじゃない。まったく……普段はもう少し聞き分けがよいのですが」
 曹丕に向かってなのか、父はぽつりと愚痴めいたことを口にした。恐らく彼は息子が己の同僚たちと雑談していることをよく思っていないのだろう。職務のこともあるし、彼の仕える副丞相の手前もある――とはいえ、曹丕は何を言うでもなく許褚や賈詡と同様に司馬師のことは放任していたのだが。
 しかし父の様子を見てか賈詡も、おっと、と声を上げた。
「ちょっと長居しすぎましたかね。曹丕殿、申し訳ない」
「いや……構わん」
「許褚殿、そろそろおいとましましょうか」
「おお。曹丕殿、また来るなあ」
 席から立ち上がる二人に、曹丕は目を細めて頷き返す。父もすぐさまそれに倣うと司馬師の手を引いた。
「曹丕殿、私も愚息を門まで送ってまいります」
「いや、仲達よ。その必要はない」
 曹丕の言に、は? と父が訝るような不躾な声を発する。曹丕は父と手を繋ぐ司馬師を見、それから許褚を見た。
「許褚よ。父の下へ仲達の息子を目通りさせて知遇を得させよ」
「はい?????」
 司馬師は己の父がどこから出したかもわからないような声を上げたのに驚いた。きょろきょろと父と曹丕とを交互に見やる司馬師の横に賈詡がしゃがみ込んで、面白くなってきたねえ、と他人事のように言う。
「何を仰っているのやらわかりかねます。師はまだ八つの子供ですよ」
「貴様の息子だ、この魏の将来の一端を担うことに間違いはなかろう。父は賢明な子供が好きだから、早々に目通りさせておけば覚えもよい」
「私の息子は贈賄と縁故で出世するような凡愚ではございませぬ。師の今後は師本人の実力に任せます」
「父が適所を見誤るとでも? 先達の助けがあればこそ育つ人材もある。父の下で実力以上の力を発揮してきた将や官吏がどれほどいると思っている」
 貴様も例外ではないのだぞ、と言うと曹丕は席から立ち上がり、司馬師の傍らに立ってまっすぐに彼を見下ろした。
「仲達の息子よ。魏公に会いたくはないか?」
「ぎこう……」
 ――曹操のことだ。父の上司、曹丕の父、そして許褚が、“いっしょけんめ”に守る貴人。
「……会いたいです」
 司馬師の言葉に、曹丕は満足げに口の端を上げて笑み、他方父は、ああ、と嘆息してがくりと肩を落とした。
「では、賈詡、許褚。よろしく頼む」
「はいはい。任されましたよっと」
 賈詡は軽やかに返事をすると細い腕で司馬師を抱え上げ、許褚の両肩にひょいと足を掛けさせた。許褚のふわふわの手が司馬師の足首を支えるように優しく掴む。
「じゃあな、司馬懿。おいらたち曹操様のとこ行ってくるからな」
「…………もうどこへなりと連れて行ってやってください……」
 父の落胆したような口ぶりがおかしくて、司馬師たち三人は肩を揺らして笑いながら曹丕の政務室を後に、一路曹操のいる宮城へと向かった。


 ◇


 曹操が政務を執り行う宮城は司馬師の想像を絶して巨大で立派である。司馬師は口をぽかんと開けて、許褚の頭の上からそれを眺めた。小さな己の目線からは知る由もなかったその有り様に司馬師は生まれて初めてと言ってよいほど胸を高鳴らせた。
 賈詡と、司馬師を乗せた許褚とは広い階段を登って政堂へ向かう。彼らを怪訝な様子で見つめる周囲の目線に賈詡は気づいていたが、自分たちの会話で楽しんでばかりの許褚と司馬師は気づかなかった。
 そうして三人が衛士に挨拶をして政堂に入ろうとしたとき、ちょうど中から出てきた黒ずくめの鎧をまとった将が三人の姿を見とめた。
「おや、于禁殿」
「賈詡殿、許褚ど……の」
 賈詡に于禁と呼ばれた将が、許褚に肩車されている司馬師を眉を寄せて凝視する。司馬師はその鋭利な目線に射抜かれて息を飲んだ。
「こちらは司馬懿殿のご長子で、司馬師君ですよ。曹丕殿が曹操殿にも目通りしておけと言うので一緒に連れてきたんです」
「なるほど経緯はわかった。だがその態度は感心せんな」
 許褚より僅かに背の高い于禁の、その目線よりも司馬師は僅かに高いところから彼を見下ろしている。
「許褚殿は押しも押されもせぬ曹操殿の守りの要。その許褚殿の肩に乗るとは例え幼い子供とはいえ不敬が過ぎる。ましてや曹操殿に目通りするのであれば高いところから己より遥か高位の貴人を見下ろすような振る舞いは厳として許されない。司馬懿殿のご子息殿、誤りを犯す前に今すぐ許褚殿の肩から下りなさい」
 低く険のある声で説かれ、司馬師は血の気が引いた。慌てて許褚に下ろしてくれと訴えると、許褚はさして気にするふうでもなく司馬師をひょいと地面に下ろした。
 悄然とした態度で俯き、申し訳ありませんでした、と深々于禁に向かって頭を下げる司馬師に焦ったのは賈詡である。
「ま、まあまあ、お二人はすっかり仲良くなっちゃって、それでちょっと羽目を外しちゃったんですよ。あんまり咎めなさんな」
「賈詡殿、宮城内で礼を失するような態度を看過した貴殿にも責はある」
 ほらきた! と目を向けられた賈詡が内心で悲鳴を上げたことは司馬師には知り得ないが、彼は賈詡が咎められているのを見て焦って于禁と賈詡の間に割り込んだ。
「賈詡殿は私のことを慮ってくださっただけで、何も悪くありません。このようなことが二度とないよう気をつけます。どうかお許しください」
 重ねて頭を下げる司馬師には、于禁が眉間にいっそう皺を寄せ、真一文字に口を引き結んだ表情は見えなかった。
「……その言は子供が口にすべきではない」
 司馬師にはおどろおどろしく聞こえるその声で、于禁は言う。面を上げよ、と言われた司馬師がそうっと顔を上げると于禁はまるで睨みつけるように司馬師を見下ろしていた。司馬師には彼が真っ黒い壁のように思われた。
「宮城のような厳粛な場に於ける不適切な行動を慎めばそれでよい。許褚殿は気さくな方だからお前にも分け隔てなく接してくれたであろう。彼の好意はきちんと受け取っておくがよい」
 ぱちりと瞬く司馬師の後ろで賈詡と許褚とは顔を見合わせた。于禁は二人に向かって、曹操殿がお待ちだ、と言うと、拱手して大股にその場を後にした。
 その厳しい後ろ姿をしばらく見送っていた三人であるが、やがて賈詡が司馬師を見遣ると、彼は目を見張って小さく震えているのだった。
「……俺が悪かったよ。お前さんたちがずいぶん楽しそうだったし、子供と許褚殿のすることだから曹操殿もまさか咎めやせんだろうと思ってね。于禁殿がいらっしゃるとは……でも、彼の言うことも正しいんだよ」
「…………」
 言葉を発することもできず、こくんと頷くだけの司馬師の頭を、許褚がそっと優しく撫でる。
「ごめんな、司馬師。おいらのせいだあ。于禁はおいらたちのこと注意してくれただけなんだから、泣くことないんだぞ」
「う…………」
 そんなことをすれば余計泣くだろうに、と賈詡は思うが、やはり口にはしなかった。ごしごしと一所懸命に目元をこする司馬師の体を抱き寄せて己の腰あたりにしがみつかせると、曹操様のとこ行くかあ、と許褚は笑う。
 はい、と答える司馬師は、許褚の歩みに合わせて彼の太ももに抱きつきながらよたよたと歩き出す。顔を押しつければ熱いくらいの彼のぬくもりが感じられて、恐怖に冷えきっていた体がじんわりとあたたかさを取り戻してくるのがわかった。


 ◇


「戻ったか、許褚、賈詡よ。その子供は?」
 政務室で三人の入室を迎えたのは、髪を逆立て左目を眼帯で覆った男である。隻眼を眇めて己を見る、如何にも厳然とした彼に司馬師は思わず許褚から離れて背筋を伸ばした。
「しっ、司馬仲達の長子、司馬師と申しますっ」
「ん?」
 司馬師が必死の表情でそう告げるのに、細められた隻眼は今度は柔らかい空気をまとって子供の前に片膝をつく。ぽんと肩を軽やかに叩かれて、司馬師はきょとんと目を丸くした。
「そうか。司馬師、俺は夏侯惇という。父親に似て利口そうな顔をしているな」
 髭を生やした口許が優しい弧を描く。司馬師は、先ほどのことで沈んでいた気持ちが上向いて、心が温かくなるのがわかった――この人は、さっきの人より怖くない。
「曹操殿は?」
 賈詡が尋ねると夏侯惇はしゃがんだまま、引っ込んでいる、と政務室の奥にある扉を示して答えた。
「頭痛がひどいそうだ」
「ああ、大変ですね……実は、こちらのご子息を曹操殿に目通りさせてはと曹丕殿が仰られたもんで、それで連れて来たんですが」
「ほう?」
 そうして夏侯惇は司馬師の顔をまじまじと見た。司馬師が恥ずかしくなって唇を噛むと、夏侯惇の無骨な指先がその目元をそっと撫ぜた。
「あいつに泣かされたのか?」
「いや、それは……さっきそこで于禁殿に会って、……んまあいろいろあって」
 言い淀む賈詡の言に、それだけで事情を察した夏侯惇は目元に触れていた手で司馬師の頭を軽くさする。
「俺も人のことはとやかく言えんが、あれも融通の利かん男だ。悪意があるわけでは決してないから、どうか勘弁してやってくれ」
「い、いえ、私が悪いんです」
 司馬師の言葉に、賈詡と許褚が口々にそんなことはないと言う。その様を見た夏侯惇は苦笑して腰を上げると、さて、と空気を振り払うように声を発した。
「日もない中で悪いが孟徳はああだからな。賈詡、征西の件についてはまた――」

「儂がどうかしたか?」

 声がして、皆が奥の扉に目を向けた。夏侯惇よりも小柄だが貫禄のある佇まいの壮年の貴人が、微笑を浮かべて歩いてくる。
 許褚が嬉々とした声を上げた。
「曹操様!」
「孟徳。休んでいなくていいのか?」
「うむ、だいぶ良くなった……」
 大人たちの様子で、司馬師は新たに現れた貴人が誰なのかをすぐに察する。
 彼が魏公、曹操。父の上司であり、許褚の主人。
 曹操の強い双眸が司馬師を見た。
「で? 其の方は何者かな? 誰かに似ている気もするが……」
「あははあ、さすが、察しがいい。この子は司馬懿殿のご子息です。曹丕殿のところにお父上の忘れ物を届けに来ていたところに我々が行きあいましてね。曹丕殿が曹操殿にも会っておけと言うので連れて来たんですよ」
 ほら、と口上を述べる賈詡に肩を叩かれ、司馬師はしゃきりと背筋を伸ばした。
「司馬仲達の長子、司馬師と申しますっ。本日は、お、お目通りが叶って、こっ……光栄ですっ」
 必死にのたまって頭を下げた司馬師の後頭部に低い笑い声がこつんと当たる。
「立派だな。あやつよりよほど素直で気持ちが良い」
 そうして司馬師の目の前に立った曹操は、司馬師の頭をくしゃくしゃと撫ぜて上向かせると、ニヤリと笑った。それは、曹丕の見せる笑みに少しだけ似ていた。
「儂は曹孟徳。お主の父にはずいぶんと手を焼かされておる。お主からもよく言い含めてやってくれ」
「へ……」
 曹操の言葉に、司馬師は脳裡にたくさんの疑問符を浮かばせた。あれほど立派な父が、彼の上司にはなかなかに迷惑を掛けているようなのである。事の重大さに気づいた司馬師は、すみません、と再度勢いよく頭を下げた。
「ちっ、父がご無礼を……」
「司馬師、そう真面目に取るな。孟徳、お前も子供をからかうんじゃない」
「本当のことであろうが」
 呆れたように取り繕う夏侯惇に曹操は肩を竦め、彼が日頃政務を執り行っている卓に着いた。
「賈詡よ。征西に係る報告を聞こう」
「ええ」
 呼ばれた賈詡が曹操の下へ向かい、夏侯惇はというと司馬師の隣で、すまんがこれから軍議の準備がある、と申し訳なさそうに口にした。
「人を呼ぶからお前はもう下がって……」
「許褚よ。司馬師にお主の畑を見せてやるとよい」
 夏侯惇の言を遮って曹操が言う。急に名前を呼ばれた許褚は、うえっ? とまぬけな声を上げたが、それから夏侯惇と司馬師とを交互に見た。
「おいらは構わねえけども……でも、まだ種蒔いたばっかだぞお」
「よいではないか。報告を聞いたら儂も向かう」
 曹操の言葉に、許褚は司馬師を見下ろした。
「そんじゃあ司馬師、おいらと畑に行こう」
「は、畑?」
 貴人の守護者である許褚が、他方農事に従事しているらしいという事実に司馬師は驚いた。それは庶民や屯田兵たちのすることで、将軍たちのすることではないと彼は思っていたからだ。
 許褚のふわふわの手に手を引かれて司馬師は政務室を出る。
 すぐ目の前にあった回廊脇の段差から下に降りると、政務室に来たときには緊張で気がつかなかったが、庭の隅にいくつかの畝があるのが司馬師にも見えた。
「許褚、なぜ畑なんかやっているのだ?」
「おいら畑いじりが好きなんだよ。曹操様のところに来る前からもともとやってたんだけども、ここに来てからも畑は作っていいって曹操様は言ってくれただ」
 畝の傍に立つと許褚は一つ一つを指で指し示す。あれは葱、あれは大根、あれは蚕豆……
「葱入れた肉まんがすんげえうめえから、おいら自分でも葱育ててるだよ」
「!」
 その言葉を聞いて司馬師がぴょこんと飛び上がる。
「葱肉まん!?」
「そうだぞお」
「食べたい!」
「今は無理だあ。種蒔いたばっかだもの」
 そう言われて途端にしょぼくれる司馬師に許褚はおかしそうに笑う。
「司馬師も畑いじりしてみるか?」
「えっ? で、でも……」
 許褚に言われて司馬師は戸惑った。それは司馬師にとって、“副丞相に仕える父の息子たる己”がすべきことではないように思われた。
 だが許褚はそんな司馬師の思索など考えてもみないふうで、小首をかしげて、自分で育てた野菜はうめえぞ、と言葉を重ねる。
「自分で育てた葱入れた肉まんなんか最高だなあ」
「じゃ、じゃあ、やりたいっ」
 ――肉まんのことを言われては司馬師はなす術がない。それほど司馬師は肉まんが好きだった。それは許褚がそうであるのと同じくらいに。
 ただ、司馬師には一つ懸念があった。
「でも、許褚はこの畑を一人でやっているのか? 誰かと一緒ではないのか?」
 畑作りの大変さを思って尋ねる司馬師に、許褚は、そうだよ、と軽く頷く。
「今は一人だあ」
「そうか。なら、これからは私が手伝うぞ」
 司馬師の小さな両手が、許褚の大きな右手をぱっと掴んで上下させる。まるで握手をするように。
「そうして収穫したら一緒においしい葱肉まんを食べるぞ! そうだ、母上と昭にも食べさせてやろう」
「おう、そうだなあ。おいらもやるぞお」
 許褚が満面の笑みを顔に浮かべたので、司馬師も嬉しくなって笑った。
 こうして二人は友誼を結び、また司馬師は許褚の“仕事仲間”として曹操の許しを得、宮城に入ることを認められたのである。


 ◇


「あら、早起きさんなのね」
 朝もまだ明けきらぬ頃、司馬師が邸内をぱたぱたと走り回る音で起きたらしい、寝間着姿の母が浮かべる柔和な笑みに司馬師は慌てて、すみません、と返事をした。
「今ご挨拶に伺おうと思っていたのに」
「そんなの構わないわ。あなたずいぶんと忙しそうにしているもの」
 母は司馬師の傍らに膝をつくと、準備で手間取り乱れた襟元をその細い指で丁寧に整えてやった。司馬師が頬を赤らめながら礼を述べるのに笑みを返し、母はその前髪をそっと梳く。
「昨夜も言ったけれど、あなたがお手伝いしなきゃいけないくらいのお仕事が本当にお城にあるのかしら?」
 母は困ったように頬に手を当てて小首をかしげてみせる。実は、昨日宮城から戻ってきた司馬師は、明日から宮城で仕事を手伝うことになったと伝えたきり詳しい話を母にしなかった。父の休沐の日もまだ先だったから好都合である。何せ理由が畑いじりで、最終的な目的は許褚と共に肉まんを作り、それを母と弟とに食べてもらい、また己も許褚と共に楽しむことにある。
 司馬師は来るべきそのときまでこのことを内緒にしたかった。驚かせたかったのである。
「それは……でも……約束したので」
「まあ、どなたと? 旦那様はご存知なのかしら」
「いえっ、父上もお忙しそうでしたから。昨日父上の仕事ぶりを拝見させていただいてよくわかりました」
 大きく頷く司馬師に母も、そうなのね、と首肯してみせた。
「けど、どなたのところへお手伝いに行くのかは教えてちょうだいな。何かあったら困りますからね」
「ええと…………、許褚、殿のところです」
 それだけ言い置いて、行ってまいります、とそそくさと辞去する司馬師の背に、まあ、と驚いたような母の声が飛んできた。
「それでは、曹操様の護衛のお仕事なの?」


 ◇


 その日から、朝、許褚が宮城の門前に立っているところに司馬師が駆け足でやって来て、二人して連れ立って宮城に入っていく様子が見られるようになった。
 許褚の畑は他の庶民や屯田兵たちの作るものと違い、彼の職務上普段から曹操の傍近くにあらねばならないことから、彼の畑もまた曹操の控える室のすぐ近くにあるものだけでさほど大きくもなく、子供の司馬師が手伝うにも手軽な広さである。
 井戸から水を汲み、それを少し離れた畑まで運ぶ。許褚が太い腕で水桶をひょいと軽々持っていってしまうのが悔しくて、司馬師はあるときそれを許褚から無理やり預かったが、あまりの重さに一歩歩み出すのにも大変な時間を要した。そのときはそれでも水桶を返さなかった司馬師ごと抱えて畑に戻った許褚であるが、翌日彼は司馬師のためにふた回り小さな水桶を作ってくれた。そうして司馬師専用の水桶ができた。
 二人が柄杓で水をせっせと撒き、何度も井戸と畑を往復して一頻りその仕事が終わったころに、いつも曹操が顔を出す。彼は蓄えた立派な髭の下で口許に笑みを浮かべながら、精が出るな、と声をかけてくれる。時には曹操の一声で二人のためだけにこっそりと甘い菓子や茶が出されることもあった。司馬師は、肉まんほどではないにしても菓子も好きである。許褚と並んで回廊に腰掛けながらそれを頬張っている時間は、司馬師にとってはこれ以上なく満ち足りたものだった。

 しばらく経ったある日、蚕豆の畑から芽が出た。細長い緑色の芽を見た司馬師は飛び上がって喜んだ。許褚もまた共に喜んでくれ、二人は一層畑の世話に熱心に取り掛かった。
 司馬師が許褚の畑の手伝いをしていることはすぐに父の知るところとなったが、彼は深いため息を一つ吐いたあと、迷惑だけは掛けるでないぞ、と注意して看過してくれた。そもそも曹操や許褚が構わないと言うのだから己に何か言えることもないと彼は考えたのかもしれない。母や弟に内緒にしてくれと頼んだことも飲んでくれた。初めての男同士の秘密である。

 二月も終わりかけのころ、二人が休憩がてら茶を飲む横に同席していた夏侯惇が思い出したように許褚に声をかけた。
「許褚、征西の件は司馬師にちゃんと伝えたか?」
「あ!」
 彼の言葉に大声を上げる許褚に、司馬師は肩を震わせ、夏侯惇は呆れたように額に手を当てる。
「何をしている、出立までもう日はないのだぞ」
「畑いじりが楽しくて忘れちまってただよ……」
 情けない許褚の声に、そうだろうな、と夏侯惇は相槌を打つ。何のことかと司馬師が問うと、許褚は申し訳なさそうに司馬師の顔を覗き込んだ。
「おいらたち、もうすぐ西に戦に行くだ。曹操様が出るからおいらもいかなきゃなんねえだよ」
「戦……」
 また、司馬師の知る由もない、戦争の話。許褚や夏侯惇や曹操は当たり前のように知っている話だ。戦争について司馬師が知っていることと言えば、人が死に、城や町や田畑が荒らされることくらいのものである。
「……じゃあ、許褚の畑はどうなるんだ?」
 尋ねた司馬師に許褚はにんまりと笑いかけ、その頭を軽く叩いた。
「おめえに任せるだよ。野菜が採れたら全部おめえが持ってっていいだ」
「えっ!?」
 許褚の言葉に驚いて立ち上がる司馬師に、許褚はなおもにこにこと笑いながら、二言はないと言うように頷いてみせる。
「で、でも、許褚の畑だし……それに私はまだ勝手がわからないし」
「大丈夫だよ。いつもおいらが戦争に行くときは他の奴らに任せてたんだけども、司馬師もおんなじくらい手際がいいぞお。そいつらにも頼んでおくから、おめえが“畑督”になって見てやってくれな」
「畑督とは何だ、畑督とは」
 おかしそうに夏侯惇は笑い、司馬師の肩をぽんぽん叩く。
「任されてやってくれ。今回は漢中までの遠征になる……いつごろ帰ってこられるかはまだわからん」
 その言葉に司馬師は唇をきゅっと結ぶ。許褚としばらく会えなくなる、それは司馬師にとってとても寂しいことだった。
 だが、許褚は笑った。
「帰ってきたら、おめえの作った葱肉まん、おいらにも食わしてくれなあ」
「も、もちろんだ! うんと美味なる肉まんを用意してやろう」
 坐ったままの許褚の大きな膝に手を置いて、司馬師は、だから、と言った。
「――早く帰って来るのだぞ」
 司馬師の言葉には寂寞の念が込められている。夏侯惇はふと微笑んで隻眼を逸らした。それでも、許褚は笑って頷き、おいらたちがんばってくるぞ、と司馬師の肩を優しくさすってくれるのだった。

 そうして三日と経たぬうち、領主不在の宮城の差配を曹丕に任せ、許褚や夏侯惇たちを加えた曹操の軍勢は一路西へと出立した。


 ◇


「ああ、本当に子供が来ただよ」
 軍勢が発った翌日、いつも通り早朝から宮城に向かった司馬師は、門前に立つ二人の壮年の男を目にした。彼らは四つの目を司馬師に向けてぎこちなく微笑んでいる。
「お前たちが許褚の言っていた畑の世話人か?」
 尋ねれば、むっとしたような表情になった片割れの無精髭の男が頷く。
「そうだ。俺たちぁいつも許褚が戦争に行ってる間あいつの畑を見てやってんだ。お前さんが今年から加わる司馬師ってのか」
「うむ。許褚は私に“畑督”を任したのだ。だが私もまだ未熟な身の上。よろしく指導鞭撻を頼む」
「ずいぶん偉そうな童だぁな」
 ぼりぼりと胸を掻きながらもう一人の吊り目の男が笑い、そんじゃあ行くかと衛士に会釈をするだけでさっさと門をくぐっていく。衛士も慣れたもので礼を返すだけの様子を見、彼らは本当に許褚の仲間であるのだと司馬師は察した。

 無精髭は己を丁、吊り目は己を簡と呼べと言った。丁には左腕の肘から下がなく、簡は右足首が内側に変な風に曲がっており、それを引きずるようにして歩いていた。もともと彼らは二人とも許褚と共に戦う戦士だったが、かつて戦で負傷し、戦えぬ身となってしまったところに曹操より農夫として生きる道を与えられたのだという。
「…………そうなのか」
 己たちの傷跡を不安げに見つめてくる司馬師の目線に、丁は軽やかに笑う。
「もうなんともねえんだからそんな顔して見るなよ。俺たちや許褚はほんとは土いじりして食いもん作って生きていたいんだ。今の身の上で本望だぁな」
 左肩に水桶を二つぶら下げた担ぎ棒をひょいと抱え上げ、右手だけで器用に支えながら歩き出す彼に司馬師は目を丸くした。
「案外、身体のどこかがなくなっても生きていけるもんだ。夏侯惇殿を知っとるだろ。あの人ももうずっと片目がない」
「夏侯惇殿も戦で?」
「俺はそう聞いとるな」
 そっか、と司馬師は俯いたが、彼が見たことがあるのは活発に動き回る夏侯惇だけだ。許褚と畑仕事をしているとき、一番曹操の下に出入りしていたのが彼である。あるときは悠然と、あるときは肩を怒らせながら。
「それはいつごろ?」
「濮陽で呂布と戦ったときだったな。お前さん、歳は?」
「八歳」
「じゃあ、お前さんの生まれるずっと前のことだ」
 けらけらと笑う丁について行きながら、司馬師は己の生まれるずっと前のことを思った。
 丁が知っているということは許褚も知っているということだ。夏侯惇が片目を失うほどの激戦。呂布、という名に司馬師は聞き覚えがない。だがきっと凄まじい将だったのだろう。許褚はその最中にあってどんな働きをしただろう。彼は最初からずっと曹操の守り人だったのだろうか? 司馬師には見えなかったけれど、彼にも失ったものがあるのだろうか?
 畑に戻ると、簡が夏に蒔く作物のために土作りをしていた。彼は両手を使って丁寧に土と枯草やら藁やらを混ぜている。これは丁にはできない。丁は離れた井戸から重い水を軽々運んでくる。これは簡にはできない。
「おう、童っこ。お前さんも水を運んできてくれたな」
 簡は笑って司馬師の小さな頭を大きな手で撫でた。
「私は童ではなく司馬師だ! 二人ともさっきから!」
「ああ、すまんすまん」
 司馬師、と声を揃えて彼の名を呼び、やっぱり二人はけらけら笑う。司馬師は初めは悔しく思っていたが、じきに自分でもおかしくなって唇を噛んで笑い出した。

 司馬師と出会う前に許褚が植えていた蚕豆を収穫しても、許褚と初めて会ったときに彼が言っていた大根を収穫しても、許褚の知らぬ夏に植えた蕪や瓜を収穫しても、許褚は、曹操の軍勢は西から戻って来なかった。
 十二月、曹丕について宮城に残っていた父が司馬師の下に報告を持って来てくれた。一月遅れの速報だと言って。
 曹操の軍勢は“勝った”そうだ。漢中の張魯は戦わずに逃げたが、結局十一月に降伏した。今、彼らは帰途についているという。
 許褚が帰って来る! 司馬師は丁、簡と共に喜んだ。二人は司馬師の手を取って、彼がそうするように飛んでくれた。丁は彼の右手で司馬師の左手を握り、簡は飛べないから膝を屈伸させて。
 ちょうど葱も収穫し終え、許褚専用の貯蔵庫に――そんなものがあるのか、と司馬師はおかしくなったが――運び入れた。漢中から軍勢が戻るまでには二月ほどかかるという。それまでには取っておけるはずだから、今度は司馬師は少しずつ肉まんを作る練習を始めた。もちろん母と弟にも内緒で、許褚ごひいきの料理人と一緒に。
 十日も経てば慣れた手つきで皮を伸ばし種を作って包めるようになった。お上手ですね、と料理人が褒めてくれるのに気を良くして、司馬師はいくつも肉まんの試作品を作った。それを食べさせられるのはいつも父だった。


 ◇


 雨が降った。それは長く降り続き、司馬師たちが作っていた土をだめにした。許褚が帰ってきたときに問題なく播種できるように用意していた土だった。
 丁と簡がそれぞれ作っている畑も冷たい雨で台無しになりそうだという。しばらく彼らは許褚の畑に構えないと言った。だから、司馬師が一人で許褚の畑を世話をすることになった。

 以前、二人と交わした会話を何度も何度も頭の中に巡らせながら、司馬師はそぼ降る雨の中黙々と蚕豆を見て回り、畝の脇に水を排するための溝を懸命に掘った。蚕豆は先に植えておいて、葱や瓜はもう少し後でも――許褚が帰ってきてからでも――大丈夫だろうと二人は言っていたから、他に世話する作物がないことは幸いだった。
 畑仕事の合間に司馬師が、己は副丞相付きの官吏の息子だから、いつかは畑仕事から手を引いて兵を率いて戦う将にならねばならない、と言うと彼らは、そんならがんばれ、と激励をくれた。
「うちの倅共もこのごろは戦ごっことか言って二人して棒きれで戦っているから、お前さんが大きくなったら引き取ってもらおうかね」
「構わんぞ。だが、私もご子息ももっと強くなったらだ。私はまだ加冠もしていない身だからな。司馬師が字をもらったら、丁と簡の息子だと言えばそのまま召し抱えてやろう」
 そりゃ頼もしいや、よろしくな、と二人は口々に言う。司馬師はふんぞり反って、任せておけ、と胸を叩いた。
 許褚のように、夏侯惇のように、行きつく先はさながら曹操のように、司馬師もきっとたくさんの兵たちと共に戦場を駆ける将になるだろう。不思議と、父のように机上で謀計を練る策略家にはならないような気がした。それは父や、もしかしたら他の者たちのすることで、己がすることではないように司馬師には思えた。

 考え事をしながら雨の下に長らくいたから司馬師の体はすっかり冷え切って、しかし彼自身はそのことに全く思い至らないふうで、畑の傍に坐り込んだままずっと蚕豆を植えた畝を睨みつけていた。
「――何をしている?」
 低く、あまり温かみの感じられない声が頭上から降ってきて、司馬師はぱっと顔を上げた。笠を被って顔に影が差している男が己をじいっと見下ろすようにしている。輪郭はおぼろげで、彼の薄い唇が動くのだけが司馬師にわかる全てだった。
 空に顔を向けている司馬師の頬に雨粒が数滴当たり、頬を伝って流れ落ちていく。
「雨の日は排水対策をしたら、もうあまり畑には構わんことだ」
「でも……」
 男が一歩前に踏み出したことで彼の影が司馬師にも差す。司馬師の上から雨が降り止んだ。
「晴れて土が乾いたら、また世話をすればよかろう」
「こんなに長く降るのはなかったから、畑がだめになってしまいそうだ。……なぜすぐに止んでくれぬのだ」
「…………」
 俯きかけた司馬師の耳に、男が小さく嘆息する音が聞こえる。
「天の差配を恨むな。それは己の分を弁えぬ者のすることで、お前はそのような愚を犯す男ではない」
 もう一度、司馬師は顔を上げた。男の滲んだ口許がうっすらと笑みを浮かべている。
「雨は降るもので、そしてしばしば降り続くものだ。許褚も何度も畑をだめにしたが、そのたび何度も土を作り地を耕し種を蒔いてきた。お前もまたそうすればよい」
「許褚も……」
 あんなに畑のことに詳しくて何でも知っている彼でも、その営みを天の振る舞いに左右され、幾たびも失敗を重ねたのだ。
 そうだ、と男は頷いた。
「晴れればよいというものでもない。晴れ過ぎれば地は渇きひび割れ、作物は育たず人は飢える。全ては均衡で成り立っている。お前もその一つに過ぎぬ」
「……それは、あなたも?」
 司馬師の問いに男はふと面から表情を消したが、すぐに笑んで首肯した。
「均衡を崩さぬかぎり、天は万民を遍く生かす……貴人も庶民も差別なく。我々はその安寧の下に、己の成し得ることを成せばよい」
 つい、と男は顎を上げて、天を睨むような仕草をした。司馬師もつられて顔を上げる。曇天の僅かな切れ間から、薄水色の空が見えた。

「天がそれを許すかぎりは、お前も私も、どこまでも行ける」

 その言葉を聞いたきり、司馬師はひっくり返って気を失ってしまった。


 ◇


 真っ暗闇の中で司馬師はぱちりと目を開いた。
 視界の四方八方に広がる暗黒に思わず息を飲んだ彼だが、やがて、己の周囲に幾重も白い線が円を描いていることに気がついた。
 その一番手近な線に触れようとして、彼は恐る恐る手を伸ばす。指先がそっと線に触れたとき、突如として全ての線に丸い玉の光が一つずつ現れた。
「……!?」
 丸い光は線に沿って司馬師の周囲をぐるりと巡っていく。動きの遅いものもあれば、速いものもある。司馬師の手に余りそうなほど大きな光もあれば、片手でも包み込んでしまえそうなほど小さなか弱い光もあった。
 司馬師はびっくりしてその場から離れようと数歩歩いたが、円たちは司馬師を中心にして同じように移動する。彼の周りからは離れそうもない。
「…………」
 司馬師はゆっくりと歩き出した。
 まだ暗闇は続いていたけれど、この光たちがあれば恐ろしくはない。向かうべき方角もわからなかったが、己の行きたい方向へ行けばそれで正しいような、そんな気がする。
 小さな足は緩慢な歩みから、やがて速足になり、その内小走りになって、いよいよ大股で駆け出した。
 光の円たちも司馬師の周囲を巡りながら、一所懸命に“ついてくる”。さほど時を置かず、少しずつある一つの円が司馬師の速度から遅れ始めたように、その巡る線が司馬師の体に触れた。
 すい、と線は司馬師の鳩尾あたりをすり抜けて、彼の後方に飛んでいく。ぱちん、とその線を辿っていた小さな光が弾けて消えた後、線は円の途中から千切れ一縷の糸となって、風に吹かれるように真っ暗闇の奥へと流れてやがて見えなくなった。
 司馬師はそれを僅かの間見送ってからまた前を向き、暗闇の中を己の思う方へと走り出す。そうして、再び顧みることはなかった。


 ◇


 次に重い瞼を開けたとき司馬師の目に映ったのは、彼がいつも寝起きする寝所の天井だった。ぼんやりと半開きのままそれを見つめていると、そうっと視界に白く細いたおやかな指先が入り込んだ。母のものだった。
「あら、ようやっと起きたのね。お寝坊さん、あなたったら二日も眠りこけていたのよ」
 母のまろい声に視線をそっと動かすと、彼女は司馬師の顔を覗き込んでその額に手を当てた。
「熱は引いたのね。母を心配させるなんていけない子だわ。もうあんまり無理はしないでちょうだい」
「……申し訳……ありませ……」
「うふふ」
 喉が張り付いてろくに声も出せないまま謝罪を口にする息子に、母は額に当てたままだった手で彼の顔を優しく撫ぜる。
「あなたは昔っから手のかからない子だったから、世話が焼けて母は嬉しいのよ。このところはずうっと畑のことばっかり。あなたったら寝言でも許褚殿や畑のことしか口にしないんだもの」
 妬けちゃったの、ごめんなさいね、母は口許に莞爾とした笑みを浮かべ、事もなげに言う。
 けほん、と一つ咳をした司馬師の頭を相変わらず撫ぜながら、母は息子が“眠りこけていた”ときに起こったことの幾つかを聞かせてくれた。
 熱を発して倒れた司馬師を背負って来たのは父だということ。
 弟が司馬師の部屋に入りたがるのを押し留めるのが大変だったこと。
 曹操の軍勢はもう河内を過ぎており、数日中には帰還すること。
 司馬師が不在の間は、許褚の畑の面倒は彼の友人である“典さん”が見ること。
「典……?」
 聞き覚えのない名に疑問符を浮かべる司馬師を気にするふうでもなく、母は嬉しげに笑っている。
「お友達がたくさん増えたのね。母は嬉しいわ。あなたはきっと立派な男の人になるのね」
「…………はい」
 母の言葉に、司馬師は頼もしく返事をした。


 ◇


「許褚ーっ!」
 門前まで駆けてきた司馬師の姿を見止めた許褚が、おお、と嬉しそうな声を上げる。その大きな腹に飛びついて、司馬師はけらけら笑った。
 司馬師の頭を軽く叩きながら許褚は首をかしげて言う。
「風邪引いたって聞いてたけども、元気そうだなあ。おめえ、なんだか背えが伸びた気がするだよ」
「ふふん、一年も会わねばそう思うのは仕方のないことだ。ずいぶんと遅かったではないか。張魯とやら、それほど難敵であったか」
「そりゃあ大変だったぞお。でも、大変じゃない敵なんかいねえだよ。おいらもちょっとだけ曹操様の傍を離れて戦いに行ったんだぞ」
 許褚の言葉に司馬師はぴょんと飛び上がって驚いた。
「戦いに!? 怪我はなかったのか?」
「おう。どこもなんともねえだよ」
 彼はまるで己の息災を誇示するように、ひょいと司馬師を抱え上げるとその場でくるりと回ってみせる。ぶわん、と大きく振られた司馬師が悲鳴を上げるのに、許褚は、ひひひ、と喉を引きつらせておかしそうに笑った。
「きょっ、きょっ……許褚!」
 何度か彼の名を呼びようやく地面に下ろされて、病み上がりの頭をくらくらさせながら司馬師は彼の腹をぺちんと叩く。
「張魯との戦いのことを教えてくれ。どんな武功を立ててきたのだ?」
「んー、武功って程のもんはねえけども……そんなら、おめえの作った肉まん食いながら、話すだよ」
 いたずらっぽく許褚は笑い、司馬師の手を取った。
 ぱちりと瞬いた司馬師だが、すぐに満面に笑みを浮かべて大きく頷いた。
「労いにうんと美味いのを作ってやろう!」
 そうして、二人は連れ立って門をくぐって行く。
 目の前に凛々しく建つ宮城の背に、あの日、ひっくり返った目に映った薄水色の空がある。
 人は、一歩一歩先へ進む。
 種は土に蒔かれて、水と光を得、やがて芽を出し、茎をのばし、花を咲かせて、実をつける。
 雨はしばしば降る。そして、いつかは必ず降りやむ。

「そういえば、許褚、知り合いに典という者はいるか? 私の不在の間、彼が畑を見ていてくれたのだが」
「典? …………」
 しばらく黙り込んだ許褚は、ん、と小さく頷いた。
「そっか、面倒見てくれただか」
「礼を言わねば。彼はどこにいる?」
「今はここにはいねえだよ」
 許褚の声音に寂しげな色を感じ取って、司馬師は彼の顔を覗くように前に回り込む。その目線を受けて、許褚は歯を見せてにかっと笑った。
「また今度会ったとき、おいらが司馬師の代わりに言っとくだ」
「…………? わかった、よろしく頼む」
「おう。よおし、早く厨房に行くぞお! おいら腹減ったなあ!」
 大きく腕を振って歩き出す許褚にまた振り回されながら、司馬師も小走りでついて行く。

 薄水色がきらきらと輝く、司馬師九歳の春二月。
 天が許すかぎりどこまでも行ける――“彼”の言葉が、司馬師の中にいつまでも響いていた。