いたずら好きの仙人が山から下りてきて、中華のそこらじゅうの国で好き勝手に振る舞っているという噂は江陵にも届いていた。しかし、不審な人物を見かけたら必ず政庁に伝達するように、との触れが城邑全域に出されてもなお、仙人は当たり前のように江陵の政庁小門をくぐり抜け、我が物顔で回廊を闊歩し、政堂をふわりふわりとさ迷い歩き、そうして何の苦もなく君主の政務室前までたどり着くことができた。
 からり、とその扉が、何も知らずに開かれる。
「……何者だ、貴様は?」
 そうして一番最初に己に声をかけたその将軍に妖術を掛けると、仙人はおかしそうな笑い声を響かせて煙のように消えてしまった。

 ――于禁が、小人に変じた。
 その報を受けた于禁隊の副将――黄斉、字を韋衡――は飛ぶように政務室に馳せ参じると、まさしくその言葉通りの大将の姿を見て、糸が切れたように膝からくずおれた。
「なぜ……なぜ、我々の将軍ばかりこのような目に遭われるのですか……!!」
 体を折って顔を伏せ、床を拳で叩きつつ、腹の底から呪詛のように吐かれたその声を聞きながら、ちょうどその場に集っていた諸将は彼に掛ける言葉の一つも見つけられず、ただただ気の毒そうにその背を撫でてやるしかできなかった。


 ◇


「案ずるな。体が縮まったとはいえ、私の判断力はそのままだ」
 子供らしい高い声で、だが普段からの尊大な口調でそう口にしたのは当事者である于禁本人である。見た目の齢は十ほどか、君主である孫権をはじめとする諸将や麾下の兵士たちの惑乱を横目に、彼はずいぶん平然とした態度を取っていた。その理由も明白で、彼が口にした思考や判断力が“もともと”の己と一切差異が見られないことにある。
 この点は彼にとって特に重要であった。なぜなら彼には以前、原因不明の“病”のためにほとんど譫妄状態だった経験がある。あの忌々しい事件に比べれば、体が縮まったことなどなんの憂いがあろう。私は変わらず私の判断で兵を率い、軍務をこなすことができるのだから――ともすれば于禁は、彼の常からの自信に満ちた立ち居振る舞いに加え、子供の縦横無尽さ、無敵さまで備えてしまったかのように余人の目には映った。
「しかしですね、将軍――」
 黄斉が気遣わしげに言葉を発したとき、執務室の外から声がかかった。孫権が入室を促せば、龐統と朱然とが連れ立って室内に入ってくる。
「安心しなよ、于禁殿はすぐに元の通りに戻れるさ」
 龐統は開口一番にそう言った。
「どうやら最近噂になっていた、いたずら好きの仙人があれのようです! 商隊に話を聞いたんですが、他国でも妖術によって体を縮められてしまった者は少なからずあったようで、そのどれもが十日と待たず元の状態に戻っているそうですよ」
 朱然が得意げに言葉を継ぐ。「そうか!」と晴れやかな顔になった孫権は于禁の傍らにしゃがみ込むとその肩を抱いて「よかったなあ、戻れるぞ」と何度も彼を揺すった。
「孫権、子供扱いをしているのか」
 途端、むっと眉根を寄せて于禁は孫権の腕から逃れた。ぱちりと目を丸くする彼に、于禁は不愉快そうに口をへの字に曲げる。見慣れた口髭がないせいで、その表情は一層幼く見える。
「私の問題が解決するならばこの場はもう散会だ。既に日はあんなところまで昇っているぞ。調練に遅れが出てしまう」
「そうは言いましても、于禁殿」
 仁王立ちで腕を組む于禁の傍に今度ちょこんとしゃがみ込んだのは張郃だ。彼は軍内でも于禁と並んで特別上背がある将だから、身長が縮まってしまった同僚と目を合わせるにはこうするしかない。
「あなたは普段の防具も着られませんし、馬に乗るにもご苦労なさいます。合図も後方の兵士にまではなかなか届きづらくなるでしょう」
 ――現在の于禁は、普段から鎧の下に着込んでいる内着のみを上に羽織り、その袖を捲くっているだけの出で立ちである。袴は腰回りが浮くため紐を何重にも回して結んでおり、その裾も何度も折ってようやく足を出すことができている状態である。言うなれば、覚束なかった。
 于禁は眉間のしわを一層深くして、不満であるという内心を包み隠しもしなかった。その様に慌てた副将が無理に明るい声で、そうだ、とわざとらしく言う。
「うちの倅の着物でよければお召しください! だいぶ汚なくなってしまったので新調しようと、新しいのを買ったところだったのです。まだ綺麗なものですから」
「いや、それには及ばぬ。私にはこれで十分」
 すげなく返した于禁はどうやら皆が自分の心配をしているのだということに思い至って、さっさと子供の大股で歩き出そうとした。しかしその瞬間、折り上げた裾が解け、小さな足がつまずいてしまう。たたらを踏んだ彼は、すてん、となすすべなく床に転げたが、すぐに起き上がって諸将を振り返った。驚いて彼の傍に膝をついた諸葛誕をはじめ、皆、その様子をしっかりと見ていた。
「……ちがっ……!」
「やはりだめだな。黄斉、お前のご子息の着物をしばらく貸してくれ。すぐに服屋に于禁の着物を手配させるから、それが届くまでは」
「孫権、必要ないと」
「于禁」
 君主は、小さくなった大将軍をじっと見た。その声音の固さに、皆が彼にさり気ない目線をやる。
「わがままを言うんじゃない。子供ではないのだぞ」
「…………!!」
 途端、顔を真っ赤にした于禁はひどく怒ったような表情になったが、返す言葉が見つけられないのか口をぱくぱくさせた後は、ぎゅっとそれを引き結んだ。諸葛誕が慌てて孫権の前に立ち、彼を制するように両手を振る。
「で、では、では、私がすぐに使いを出させます。于禁殿、少々お待ちくださいね。副将殿、着物をお願いできますか」
「あ、ああ、はい! すぐに」
 こちらも忙しなく立ち上がった黄斉であったが、于禁の小さな手に小手を掴まれてぎくりと体を固くした。見下ろせば彼がそのきつい眼差しで己を見上げている。
「古いほうがいい。どうせ捨ててしまうところだったのだろう」
「ええ!? いや、ですが、将軍にそのような着物をお召しいただくわけには」
「命令だ」
「うぐ……」
 言葉に詰まった部下は上司にねめつけられてしばらく黙ったあと、諦めたように小さな声で「わかりました」と返事をして片膝をつき、拱手した。
 そうして目線の高さが同じくなり、その子供の顔を真正面に捉えたとき、黄斉の内心に不可解な感情が沸き起こった。
「――しばし、軍務を離れることをお許しください」
「わかった。すぐに戻るように」
 大きく頷いた黄斉は、今度こそ執務室を出て行った。
 ほんの僅か室内に降りた沈黙が、張郃のため息でかき消される。
「孫権殿、もう少しお言葉を選んでは?」
「…………」
 珍しくむっつりと表情を歪ませる君主を諸将は見つめる。于禁もまた孫権を見たが、すぐにばつが悪そうに目を逸らした。その様子に決まり悪くなった孫権は頭を掻いて、ごく小さな声で「すまない」と詫びを入れる。
「だが、今のお前の姿ではできないことも多いだろう。普段の身の丈とは違うのだから――あんまり無茶はしないでくれ。……子供扱いしたいわけではないのだ」
「…………わかっている」
 存外素直に于禁も頷いた。どこか悄然とした態度に孫権はくしゃりと表情を綻ばせて、「先程は大丈夫だったか?」と問う。こくりと頷く小さな頭に普段とは違う愛らしさを垣間見、注意深く接しないとまた彼を不機嫌にしてしまうな、と孫権は内心気を引き締めた。


 ◇


 副将に申し訳なさそうに渡された子供の着物を羽織り――まるで泥の中で遊んだような汚れがついていて思わず閉口したが――于禁はすぐに調練のために兵営に向かった。戸惑う将兵らをよそに普段通りの口調で軍務を進める彼であったが、やがて張郃が言っていたように指示や号令が後方まですぐに伝わらないことに不便さを感じ始める。同じことを副将に二度繰り返させることも手間だと考えた于禁は、軍の武器庫に以前依頼戦の報酬として得た迅雷剣があることを思い出した。時折朱然や龐統が副武器として使用する以外はほとんど仕舞われたままの武器はその刃の長さゆえ、恐らくは指揮棒として使えるのではないかと推測したのである。ちなみに彼の得物である三尖刀は重量がありすぎて子供の体では持てなかったため、事のついでに武器屋に鍛錬に出している。
「黄斉、しばしこの場を任せる。疾く戻るゆえ」
「え!? ど、どちらに?」
「武器庫だ」
「武器庫、わ、わかりました」
 足早に動き出した彼をそのときは見送った副将であったが、数瞬の後に「武器庫お!?」と悲鳴をあげて于禁の下へ飛んできた。
「おっお待ちください!! 誰か付き添わせますから!!」
「? 不要だ、武器を一つ取ってくるだけなのだぞ」
「危険です!!」
 そうして黄斉は、調練の手を止めて言い争う二人を見物していた兵卒の一人の名を呼んだ。呼ばわれた背の高い若い兵卒は肩をびくりと震わせ、慌てて走ってくる。
「程豫、将軍に付き添って武器庫に向かってくれ」
「は、はい! わかりました!」
 そうして己を不安げに見た程豫を于禁はじっと見たが、やがて小さくため息をついて、では行こう、と行く先を顧みた。ここで付き添いを断ってまた“ごねた”と思われては心外である。早歩きの于禁の後ろを若い兵卒は小走りでついて行った。
 副将はその背を見つめながら、はあ、と深く嘆息する。
「ふ、副将どの」
「ああ、ああ、続けてくれ。はあ……」
 無意識に何度も漏れるため息に、声を掛けた将は「お察しします」と渋面で頷いたのだった。

「う、于禁将軍」
「なんだ」
「ぶ、武器庫に何のご用ですか?」
 恐る恐る、といった風情で己に問う兵卒をちらとも見ずに于禁は「迅雷剣を探しに来た」と答える。
 連れ立って薄暗く埃臭い、狭い武器庫に入った二人は同じように小さく咳き込みながら、その壁に立てかけられ、或いは二つある木棚に積み上げられた武器群に目を遣った。
「す、すごくたくさんあるんですね」
「ああ、まだ放浪軍だった時分にこなした依頼戦で集めたものだ」
 我々は金を必要としていた、と于禁は言う。程豫は、うん、と大きく頷いた。
「えっと、俺、迅雷剣ってどういうものか知らなくて」
「刃が細長く、柄もやや長めで、持ち手が指を四本通せるように湾曲している。刺突のための武器であろうな」
「あ、お、俺が探しますから」
 武器庫を歩き回る于禁を制し、程豫は彼の前に立つ。その姿に于禁は眉を寄せた。
「用事があるのは私だ。なぜお前に代わりに探させねばならぬ」
「だって、えっと、危ないですよ。武器が倒れてきたら大変です。ほら、俺、結構背がでかいから、多分俺が一緒に来たのってそのためだと……思うので……」
 于禁の不満げな様子を見てとった程豫の言葉は徐々に尻すぼみになっていく。怯える彼に于禁はため息を飲み込んで、わかった、と答えた。
「頼まれてくれるか」
「! もっちろんです!」
 途端、ぴょんと飛び上がって嬉しそうにする彼に于禁は柄にもなくほっとする。程豫は彼の変化にも気づかず、武器庫を元気に彷徨い始めた。
 于禁はしばらくそれを入口の戸板の脇で眺めていたが、ふと見上げた視線の先、彼が屈みこんでうろうろしている木棚の上に探し物があるのを見つける。
「程豫」
「へあっ!!」
 身を低くしていた彼は、びくりと肩を震わせて慌てて立ち上がった拍子に鉄鎖につまずき、二の足を踏んだ。倒れ込みそうになる体を支えようと彼はがしりと木棚の端を掴んだが、結局、支えきることはできなかった。
「危ない!」
 叫んで飛び出した于禁だが子供の力で木棚を支えることはできないと判断し、あろうことか程豫と木棚の間に潜り込んで彼を庇おうとしたのだが、当然のごとくそれは叶わなかった。幸い、木棚にあったのは棍や双杖といった打撃や特殊系の武器が主で、切っ先のある武器はほとんど積まれていなかった――迅雷剣の他には。
 振ってきた武器から身を守ろうと抱き合い蹲る二人の顔のすぐ横に、ダン、と音を立てて迅雷剣が突き刺さった。
「…………」
「…………」
「…………怪我はないか」
「えあ、あ、は、はい……」
 自身の上に乗り上げている小さな于禁を見上げる程豫の目には涙が浮かんでいる。于禁が彼の上から慌てて退こうとしたそのとき。
「今の音はなんですかー!!!」
 ばあん、とけたたましく武器庫の扉が破られ――二人の様子を心配して武器庫の外にひっそり待機していた――副将以下十数名の将兵が飛び込んできた。彼らは床に散らかった武器郡、重なり合って床に伏している于禁と程豫、そして彼らの横に突き立つ迅雷剣を見、一様に青ざめた。哀れなほどに。
「これはどういうことだ程豫ーっ!!」
「あわわわ申し訳ありません! 申し訳ありません!!」
「謝って済む問題ではない!! 将軍の御身に何かあれば、いや何もなくとも貴様は重刑だ!!」
「そんな……!」
「待て、黄斉」
 がなり立てる副将を諌めようと于禁は立ち上がり、彼の傍に駆け寄った。そのぱたぱたとした足取りに、黄斉は確かに言葉を切る。
「これは私の責任だ。私が自ら迅雷剣を探していればこのようなことにはならなかったし、程豫の状況に対する気配りも不足していた。この者に非はない」
 咎は私が負う、と言って己を見上げてくる小さな上司に黄斉は口をわななかせる。そうして幾度か口を開いたり閉じたりした後、さっと跪いて拱手し、「どうか御身をお大事に」と思い詰めたような口調で言った。
「次からは我々にお申し付けください。御身に災難があっては、皆様に顔向けができませぬ」
 その言葉に于禁は眉根をしかめる。途端、跪く副将の後背にある将兵の群れがざわめいた。
「あれらは私の庇護者ではない」
「ええもちろんです。ですが今あなた様のお体は確かに弱っておられる。何かあってはまた皆様にご心配をかけることになります」
「そ…………」
 于禁は何か言おうとして、しかし黙った。今黄斉が口にしたことは于禁の弱みであり、ともすれば侮蔑にも受け取られかねなかったが、彼の真摯な眼差しが于禁に彼を責め立てることを諦めさせた。
「…………のように努める」
 最大の譲歩であった。子供が僅かに口を尖らせながらそれでも小さな頭を頷かせる様に周囲の空気がほころぶ――皆それぞれに、我が隊にもこういう柔らかさがもたらされることもあるのだな、と思いながら。
 ほっとしたように微笑んだ黄斉は、では、とこほんと一つ咳払いをして言葉を続けた。
「ただいまのことを孫権様に報告申し上げてまいります」
「…………何?」
「孫権様より直々のご通達で、もし何か変事があれば直接己に連絡するようにと」
「こたびの件はこれで収まったであろう。その必要はない」
「ええ、その通りです。ですが万が一のこともありますので」
 では、と一礼し立ち上がる黄斉の道を作る後背の将兵らの連携は実に見事で、さっと翻り足早に――それはもう足早に去っていこうとする彼を于禁が呼び止めようにも、その場に残る将兵らは于禁のための道を作ってはくれなかった。恐らく全ては仕組まれたやり取りであり、「待て」と叫ぶ于禁はいよいよ別の一人に跪かれ、ぐう、と唸って口をつぐんでしまう。
「将軍は救護室へ行きますぞ。一応です。御身に障りがあってはなりませぬゆえ」
「いや、私は……」
「ほら、程豫も早く立て。お前は丈夫な体だけが取り柄なんだから」
「うう、はい」
 半泣きの程豫に気を取られた于禁がそちらを見やると、目の合った彼はすっかり悄然としてしまっていた。案ずるな、と頷いた于禁に彼はいっそう目をうるませる。
 ようやく促されるように将兵らの合間を進み始めた于禁は、むつりとひどく不機嫌そうな表情をわざと作った。誰も怯んではくれなかった。


 ◇


 救護室への顔出しを終えた于禁はそのまま孫権の執務室に引っ立てられ、有無を言わさずそこに留まることを微笑を浮かべた室の主に強いられた。于禁隊の将兵たちはまたしても副将の指揮下で調練に励むこととなったが、以前は悲愴な雰囲気が漂っていたその決定もこたびに関しては一様に安堵の空気に包まれている。頼むからじっとしていてくれ、とは口に出さずとも皆が切望していることだった。
 相変わらず于禁は口をへの字に曲げている。
「…………」
「さて、于禁。私が怠けてしまわないように見張っていてくれ。空気があたたかくてどうにも気だるくてな……」
「子供ではないのだからそのくらい自分でどうにかすべきだ」
「ふふ、辛辣辛辣」
「…………」
 筆を動かし始める孫権を、于禁は横目でじっと見る。
 なぜだかいつもより彼の体が大きく見える。自身が縮んでいるからだろうか。そうして意識してみると、この室内にあるあらゆる全てが以前の己が見ていたものとは比べものにならないほど大きく圧倒的に感じられて、于禁は今更自身の体がずいぶんと小さくなってしまったのだと思い至った。
 外から淡く射す陽の光が孫権の赤い髪を縁取って輝かせているのがとても眩しかった。
「孫権、私に何かできることはあるか」
 ぱっと名を呼ばれた孫権が顔を上げ、その碧い双眸を丸くする。
「私を見ていてくれ」
「それはお前が自分でやれ。そうではなくて」
「うーん……」
 難しそうな表情をする孫権に、自分で探すか、と于禁は立ち上がるが、孫権の手元にある書簡は彼の決済を必要とするものばかりなので于禁に手は付けられない。そこではたと彼は、自身の決済すべき書簡について思い出した。この際に済ましてしまおう、と室を出て行こうとする于禁を孫権は呼び止める。
「どこへ?」
「私の室へ。まとめる案件があったかと」
「ん? 全て上げられているが」
「…………そうか」
 己の優秀さに感心する、などということはないが、またしても手持ち無沙汰になった于禁はそのまま室内をふらふらと歩き回った後、そっと孫権の傍に腰を下ろした。
「……なんだ」
「見張っている」
「そ、そうか……」
「中は見ない」
 わかっている、と返す孫権はしかし、どこか憮然とした表情になる。于禁は首をかしげたが、手が止まっている、と指摘するだけに留めた。

「孫権殿」

 不意に室外から声が掛かった。ほとんど同時に顔を上げた二人は、孫権の「中へ」と呼びかける声に同じような動作で居住まいを正す。
 入室してきた諸葛誕は、彼らが並んで坐っている姿にぱちりと瞬いた。
「すみません、緊急で上申が」
「なんだ?」
「城下で子供が行方不明になっていると……既に三名。報告を見ると三日前から一名ずついなくなっているものと考えられます」
 足早に室内を渡ってきた諸葛誕から書簡を受け取り、孫権はそれにさっと目を通すと傍らの于禁に手渡した。于禁もまた書簡を読み込むと、それを諸葛誕に戻す。
 そうして于禁と孫権とはほとんど同時に立ち上がった。
「城下に行こう。話を聞かねば」

 ――現れた江陵の主に、子を喪失した母親は縋りついて泣いた。彼女の肩を撫でさすりながら、孫権、于禁、そして諸葛誕の三人は辛抱強く三組の両親の訴えを聞いた。もう一人、年老いた学校の教師もいて、行方不明の三人の内一人はその弟子であるということだった。大切な子を預かっているのに申し訳ない、と彼はひどく消沈した様子であった。
 事情を伺えば、三人はどれも行方不明になったと確認できた時間帯は夕刻で、場所自体はまちまちである。東の市場の外れ、南東の教師の家の庭、城市を東西に渡る道路から南へ一本外れた通りの隅、人目があったかはわからないが、薄暮時ではそもそも彼我の区別があいまいであった。
「市場、通りの隅? 夕刻に子供がいる場所ではないな」
 目つきの鋭い子供の口からそんな言葉が漏れるのに老いた教師は瞠目している。そもそも江陵の主が子供を連れてきたことにも彼は首をかしげていたのだが――その目線に気づいた孫権はおどけて肩を竦めた。
 諸葛誕が厳しい表情で呟く。
「三日連続で立て続けに子供が失踪するということは、自然ではありません。何者かにかどわかされたと考えるべきでしょう。そして連続性を考慮すれば、何もしなければ今日の夕刻も誰かが行方不明に」
「すぐに城下に配備する兵を増やそう。市場警備も……学校は……五つあったな。そちらにも兵を回して……捜索隊は……」
「孫権」
 連れて来ていた数名の護衛に指示を出していた孫権は、于禁の呼ばわる声に彼を顧みる。
「捜索隊には我が隊を使え。私も指揮を執る」
「いや、お前の部隊は龐統の部隊と共に政庁の警護に当たってくれ。李君、すぐに政庁へ戻って――」
「孫権、聞け。私が陽動作戦を行う。それで下手人が罠にかかればお前たちは私の後を追ってくることができる。同時に下手人の潜伏先も明らかになる」
 孫権はひどく不愉快そうな表情をした。やはりな、とその口が動く。諸葛誕はその言葉を受けるもはらはらと二人を交互に見やるしかできない。
「だめだ。危険だ。今のお前は我が身もままならぬ状態であろう」
「もしこれがかどわかしなら、今最も危険な状態にあるのは遭難している子供らだ。我々の行動が下手人に知られればその身も危うい」
「于禁」
 孫権は慌てて立ち上がり、于禁の手を引いて両親たちから距離を取った。しゃがみ込み目線を合わせる彼を、于禁は顎をつんと上げて睨めつける。
「私が小人で幸運だった」
「ばかなことを言うな。……もし本当にそうなら、子供らが既に命を落としている場合も考慮せねばならない」
 声を潜めてそう言う孫権を、于禁は目を細めて見返す。「当然だろう」と子供の高い声で彼は答えた。
「ならば早急にその身柄を親許に返してやらねばならぬ。先に不審人物への目撃報告を城下に触れていたにも関わらずこのような凶事が発生したのはこの地を統べる我々の不始末だ。悪漢は処罰して然るべきだが我々にも咎はある」
 そうして于禁は上目遣いで孫権を見た。
「私の言をお前が容れてくれぬのであれば、私が自ら指揮を執る。……孫権、私は私にできることをしたい。お前の承認が必要だと言っているだけだ」
 于禁の鳶色の瞳がちらりと瞬く。
「……たのむ」
「…………ちょっと待ってくれ!!」
 急に大声を上げ頭を抱えてしまった孫権に、二人の様子を注意深く見守っていた兵や両親たちが驚く。「いかがされましたか」と離れたところから諸葛誕の声がかかり、孫権は唸った。
「この男は己が今どういう立場かわかっているのか? 己の以前の発言をすっかり忘れているのか? それともまったく瞭然としてなおかつそれを利用せんとしているのか?」
「? 何を仰っているのですか?」
 首をかしげるばかりの諸葛誕は孫権の懊悩に気づかない――甘やかしたくなる子供の態度にも。

 未の刻、于禁隊の副将以下精鋭が二十ほど集められたくだんの教師の邸宅で、彼らは陽動作戦を綿密に練った。下手人に企みを気づかれてはならず、しかし確実に下手人を追跡しつつ、かつ于禁の身に危険が及ぶことも避けなければならない。これは作戦を実行に移すうえで孫権の出した絶対条件でもあったが、先んじて武器庫に於ける間一髪の騒動を目の当たりにしている于禁隊は一同大きく首肯し全面的に同意を示して作戦任務に当たることとなった――頼むからじっとしていてくれという彼らの願いは叶わなかったが。
 三件の失踪事件は城市の東から南の地域で発生している。そのため作戦も東南地域で行われることになった。内容自体は実に明快で単純なもので、于禁が当該地域の道路を歩いて回り、事態の動向を“待つ”ことになる。
「まあ、雑ですよね」
 于禁隊の一人、波明が言う。別の一人、徐桓が彼を小突いた。黄斉が「やめろ」とそれを咎めるも、当然ながらその場にいた皆の耳にその言葉は入ったし、他ならぬ于禁が険しい表情で「仕方あるまい」と口にした。
「現状我々の手元にある知見のみでは後手に回らざるを得ない。敵があるのかも、敵の正体が何であるかも判然とせぬ段階では我々は受け身のままだ」
 ましてや、と彼は続ける。
「被害に遭っているのは皆子供、すなわち弱き者たちだ。もしこれが何がしか意思ある者の行いならば、その者は非常に悪逆で狡猾。必ず鉄槌を下さねばならん」
 ――その姿で言われても、と皆は思う。思うが口には出さない。
 必ず問題を解決しよう、と彼は言い、皆は応、と答えた。


 ◇


 江陵の邑々に空から夕闇が溶け落ちるころ、その子供は人気のなくなった家路を駆け足で急いでいた。足の悪い父親に言われて街外れの医者の家に母親のための薬を受け取りに行った帰りである。この薬は本当によく効いた。何せ、あの先生のところの薬だよ、と言えば途端に母親は喜んで、青白かった顔の血色がみるみる良くなる。その子供には未だ知り得ないことであるが、百病は気に生ずと古の書は語る。言葉を知らずとも、子供は己の経験からそれを知っている。
 いつかそれを医者に伝えたことがあった。そうすると医者はにっこりと真に嬉しそうに微笑んで、「そんなら私も幸いだよ」と返した。そうして続けた。
「君のお母上がもっと元気で幸せになれる方策を私は知っている。それは君にできることなんだが、どうだね、やってみないかい」
 子供は大きく頷いた。母親のためにできることがあるならなんでもしたかった。


 ◇


 はっと于禁は目を開けた。しかしその先の空間も真っ暗で、果たして己が開いているのか、それとも閉じているのかその判別がしばらく彼にはつかなかった。
 だが、どこかから漏れ出る光はあったようで、徐々に彼の視界もぼんやりと明るくなっていく。やがて、月の出ている夜の室内くらいには目が冴えてきて、于禁は己が壁に向かって転がされていることに気づいた。
 さて、全体己はどうなったのであろう。道路の曲がり角を曲がって以降の覚えがない。勢い、がばりと起き上がると頭がくらんで彼は唸った。そこへ小さく「静かにして」と声がかかる。振り返ると大きな丸い目を光らせた子供がいた。現在の于禁と同じくらいの年頃であろうか。彼の向こう、二丈もなさそうな物置程度の狭い部屋にもう三人、同じかそれより若干幼いくらいの男女の子供たちがいる。そして天井近くにごく小さな明かり窓が見え、実際に月の出ている夜なのだということがようやく于禁にも判ぜられた。
 ――四名? 彼は自身の作戦の初期段階がどうやら成功しているらしいことには気づいたものの、現状を内心で訝った。民から報告のあった失踪事件は三件、各一人ずつの行方不明者であったはず。既に今日もかどわかしが発生した後だったのか。
「……わかった、静かにしよう。そちらへ近づくが、構わないな?」
 そっと囁くように問いかける于禁に、子供たちは大きく首をかしげた。自分と同じくらいの歳の子供がずいぶんと偉そうな物言いである。
 于禁は四つん這いで彼らの傍に寄り、四人分の顔を己に向けさせた。
「私の身分を明らかにしよう。私は于禁、字を文則。孫権の軍で大将軍を任されている。今はこのようななりだがこれは神仙の仕業によるもので、私の正当性を貶しめるものではない。お前たちのご両親と教師より上申があって軍を挙げてお前たちを捜索していたところだ。幸いにしてお前たちは皆無事なようだ。あとは私と私の部隊に任せておけ。必ずお前たちを連れ帰る」
 小声でまくし立てる彼に、子供たちはただ困惑するばかりである。無理もない、と于禁は察するが、一人が「嘘つくなよ」と口にしたことで彼の勘違いが明白になった。
「大将軍はもっとでっかい、黒い壁みたいな人だよ。お前なんかちまちましてるじゃん」
「……ちま……」
「あたしは朱然様が好き。格好いいし、優しくて好き」
「僕は張郃様が……」
 彼らの話がどこかへ走り出そうとするのを于禁は両手を掲げて制する。
「わかった。それらは横へ置いておけ。朱然と張郃にはお前たちの好意を伝えておく。私が知りたいのはまず一つ、お前たちの名前だ」
 田憲、と呼ぶと四人の内で最も背の高い少年が、僕だよ、と答える。蘇雍、と呼べば四人いる内一人の少女が、あたし、と答えた。韓綝、と呼ぶと一番最初に于禁に静粛を呼びかけた少年が、僕だ、と手を挙げる。そうして于禁は彼らの奥、部屋の隅で膝を抱えているもう一人の少年に目を向けた。
「すまない、私の手違いで、お前の名前を把握できていなかった。よければ教えてほしい」
「…………」
 少年はいっそう膝を強く抱えたが、やがて小さな声で、李嬰、と答える。于禁は頷いた。
「うむ。李嬰だな。では次に、ここはどこかということ。その答えを知っている者は?」
 子供たちは黙って互いを見やる。韓綝が李嬰に、「君、一番最初にいたから知ってるだろ」と尋ねた。問われた彼はうっすらした月明かりの下で「知らないよ」と答えて首を振る。
「一番最初? お前がここに来てから経った時間は?」
「……わかんない」
「何度夜が来た?」
「覚えてないよ……」
 李嬰が眉根を寄せて口を尖らせた。「少なくとも三日のはずだ」と于禁は言ったが、彼はことりと首をかしげる。
 ふむ、と于禁はまた一つ頷いた。
「お前たち、腹は減っていないのか?」
 子供たちは皆ふるふると首を振る。
「飯は出るのか。誰が持ってくる?」
「知らない大人の人」
「この部屋は独立しているか? それともこの扉の向こうは屋内か?」
「うん。廊下があるよ……」
 腕を組む于禁に蘇雍が「ねえ」と問いかけた。
「大将軍は兵士の人たちとは一緒じゃないの?」
「うむ、それは私も気がかりだった」
 于禁としては真っ当な質問に真っ当に返したつもりだったが、子供たちはいっそう不審そうな表情をするばかりである。
「作戦では私の身に何か変事があり、間違いなくかどわかしであると判断された時点で二十余の精兵が敵の根拠地に踏み込む算段だった。しかし実際には私がただここにいるのみだ。私がここに来てどれほど時が経った?」
「あなたは夕方に来て、今は夜になった」
 田憲が答える。そうか、と短く答えて于禁はようやくその小さな部屋の扉に目を向けた。横に引けば容易く開くであろう木の板の扉だが、子供たちが誰もじっとして動く気配がないこと、そして于禁が目覚めたときに第一声で静粛を要求されたことを鑑みると、開けてはならないと脅迫されているだろうことは于禁の目には明白だった。
「大人たちは武器を持っているのか」
 問うと、子供たちは目を見合わせ、それから一様に首を振る。于禁は首をかしげ、自身の懐をまさぐった。幸い、目的のものは敵に奪われてはいないようである。
 ころりと彼がその手に落とした布包みを子供たちは覗き込む。開かれたその中には月明かりを受けて淡く光る両端が鋭く尖った棒のようなものが二本あった。
「何これ?」
「峨眉刺という。実際に我々が扱うものをさらに半分にして小さく新たに作らせたものだ。今の私の手にも扱えるように」
 その代わり無理な近接戦闘を強いられることにはなるが、と呟く于禁に、韓綝が「君がやっつけるの」と疑問を投げかける。当然だと言うように于禁は力強く頷いた。子供たちはやはり互いに目を合わせ、そうして于禁に向き直ると異口同音に「やめなよ」と言った。
「危ないよ」
「百も承知だ。しかし作戦が次の段階に移行していないということは外で何らかの変事が起きている可能性が高い。まず私が外の様子を探り、問題あらば適切に対処した後、お前たちをここから出す」
「危ないってば」
 言い募る子供たちには、于禁は一つ首肯しただけで応えぬことにした。峨眉刺を手の上でくるりと回し感触を確かめ、于禁は木の扉に耳をつける。外から物音は聞こえない。彼はちらりと横目で子供たちを見、その不安げな表情を見て取ると体全体で彼らに向き直った。
「よく聞け。これまでお前たちは艱難辛苦の中にあって本当によく耐えた。もう少しの辛抱だ。これから私が必ずお前たちを助ける」
 子供たちはこくりと頷く。
「うむ。では私がこの扉を出て以降は、良いと言うまで扉を固く閉めて決して開けるな。誰が来てもだ。私の声は覚えたな?」
「……うん」
 于禁も子供たちに首肯を返す。彼は「頃合いを見てその明かり窓に向かって叫べ」と言い、扉に向き直ると、その取っ掛かりをそっと引いた。ガタン、と扉は揺れるが僅かに隙間を空けただけでそれ以上開く様子がない。于禁は子供らをそっと振り返り、口許に人差し指を当て部屋の隅に行くように示した。子供たちが揃って部屋の隅の李嬰の傍に集まるのを見、于禁は扉を思い切り引っ張ってガタガタ揺らした。ほんの数秒そうしていると扉の外から「やめろ」と怒鳴り声が聞こえる。子供たちがびくりと肩を震わせて縮こまるのが視界の隅に見えた。耐えてくれ、と願いながら于禁はなおも強く扉を揺らす。
 ガン、と扉が外側から強く叩かれる。于禁は叫んだ。
「血を吐いた者がいる!」
 木の板が軋み、扉は于禁の力によってでないもので大きく揺れた。于禁はすぐさま手を離し、両手に峨眉刺を携える。彼は自身の現在の体が通れるまでの隙間が開いたと見るや駆け出し、そこに立っていた男を蹴った。不意を突かれた男がたたらを踏むが、于禁がその膝の内側に蹴りを入れるとぎゃっと唸って倒れ込んだ。胸に馬乗りになり男の目に峨眉刺の尖端を突きつけ「目を潰されたくなくば神妙にしろ」と言う子供に彼は激昂し、その腕を掴んで引き倒そうとしたが、子供の手がその喉元を殴りつけるほうが早かった。「扉を閉めろ」と怒鳴った于禁はその通り、小部屋の扉がガタンと閉まる音を確認し、彼は組み敷いている男の口を片手で覆うと躊躇わず左の肩口に峨眉刺を刺した。だが子供の小さな手のひらでは抑えきれず、男が咆える声が廊下に響く。
 一本の廊下がまっすぐ小部屋に向かって伸びているだけの狭い空間。扉の傍には燭台が頼りない炎を乗せて立っている。廊下の先に、灯りは見えない。
「助けてえ!!」
 扉の向こうから声が聞こえた。それを皮切りに次々と子供たちが「助けて」「ここにいる」と叫ぶ。男の目がぎょろりと扉を向くが于禁が峨眉刺を捻ったことで彼はまた唸った。再び口を開こうとした于禁はしかし、彼の振り回した腕に体を弾き飛ばされてしまう。どん、と尻餅をついた于禁が慌てて立ち上がろうとするも、「何をしやがる!」と罵声を上げてのしかかってきた男の手に手首を掴まれ床に組み敷かれてしまう。己の左肩から溢れる血が于禁の頬に降りかかったのを見た男が、ああ、と悲鳴を上げた。
「お前が汚れてしまったじゃないか! こんなことをするからだ……! どうしてじっとしていない!!」
 その物言い、見下ろしてくる必死の形相に于禁はぽかんとして男を見上げてしまった。この男は何を言っているのだ?
 ばたばたと廊下の奥から足音がする。現れた三名の男たちに于禁は焦った。目の前で己に覆い被さる男の胸に蹴りを入れなんとかその下から這い出した于禁は閉ざされた扉の前に立ちふさがり、峨眉刺を構える。
「素手で触れるなと言っただろう!」
「すまない、だがこいつが……」
 彼らは于禁の頬の血を見て青ざめた。じり、と于禁が摺り足で一歩後ずさると彼らもまた于禁から距離を取り、立派に髭を蓄えた壮年の男がまるで子供をなだめるように両手を前に出した。
「落ち着くんだ、悪いようにはしないから。その手のものをこちらに……」
 努めて物柔らかに接しようという態度がありありと伝わってきて于禁はわかりやすく眉をひそめた。自身の想定していた事態とは大きくかけ離れている現状が彼をひどく惑乱させたが、それを周囲の男たちに見せるわけにはいかなかった。何せ、閉ざされた扉の向こうでは子供たちが、何かわからない言葉で一所懸命に声を振り絞って外へ己の存在を訴えているのである。
「君たちのためを思って我々もやるのだ。今は奇異に映るかもしれぬが、すぐにわかる。君たちはこの天下のためになるのだ」
「…………よもや、貴様ら」
 徐々に于禁は理解し始めた。男たちの不可解な言動や行動――江陵に災いをもたらす者たちの言い分。
 彼は咄嗟に峨眉刺の尖端を己の喉元に向け握りしめた。はっと息を呑む男たちに于禁は確信する。
「邪教の信徒だな。子供らは贄か?」
 自分で口にしておきながら于禁はその言葉の邪悪さに息を吐いた。睨みつけた彼らはみるみる顔を赤らめ、一人は「違う」と怒鳴った。違わないだろう、と思いながらも于禁は自身に凶器を押しつける手を緩めない。その切っ先が首の皮に触れたとき、彼の背にしている扉の向こうから蘇雍の声が聞こえた。
「大将軍! 来るよ! 兵士さんたち来るよ!!」
 は、と于禁は息を呑んだ。バンバンと木の板を叩く振動が背中に伝わって、彼は口許を引きつらせた。
 于禁を取り囲む男たちは閉ざされた扉の向こうから聞こえるくぐもった声にめいめい険しい顔をする。髭の男は于禁を睨み、「官憲を呼んだのか」と低く言った。
「彼らが君たちに何をしてくれる。戦火は収めず拡げるばかり、飢えや渇きにあえぐ民の助けになることもない」
 男たちを見返した于禁は嘆息する。
「耳が痛いな。我々の不始末だ。貴様らのような悪人を跋扈させ、そればかりか厚顔に己の身勝手な正義を吹聴する愚さえ許した」
 子供が言うのに、彼らは眉根を寄せる。
「私がこの者らにできることと言えば、この部屋から出してやることくらいだ」

「よーし、そこまでだ、誘拐犯ども!!」

 明るい声が高らかに廊下に響き渡る。男たちが彼らの後背を振り返るのを見、于禁はようやく喉元から峨眉刺を僅かだけ離した。黒々としたその空間に灯りが燈った――朱然の携える火矢によって。
「さあ、神妙に縛につけ。この立派なお屋敷、燃やされたくなければな」
 朱然の笑い交じりの声が聞こえ、于禁の口許からもふと笑みがこぼれる。彼の声を聴いたことで緊張が緩み、于禁は自身が心底から安堵したことを理解した。
「では皆さん、どうぞこちらへ。でなければこちらから伺いましょうか」
 続けて聞こえてきた張郃のたおやかな声音に于禁は思わず苦笑した。きっと子供たちが喜ぶだろう、と。

 朱然、張郃に続いて現れたのは、于禁隊の精鋭二十名であった。彼らによって男たちが捕捉され引き立てられていく。残った黄斉ら数名が于禁の傍に駆け寄り、片膝をついた。
「于禁将軍、申し訳ありませんでした!!」
「謝罪は経緯を踏まえてからだ。その前にやることがある」
 え、と目を丸くする兵らを置いて、于禁は自身の後背を顧みる。木の板の取っ掛かりを引いて開けようとすれば、その扉は勢いよくバタンと閉められた。
「だめ! だめ!!」
「待て、どうした」
「いいって言われてない!!」
 子供たちの声に于禁はいよいよ表情をほころばせ、もういいぞ、大丈夫だ、と扉の向こうに声をかける。少し間を置いて、そろりそろりとその木の板が開かれた。于禁の背後から副将らもその様子を覗き込む。隙間から顔を見せた子供たちに彼らは一斉に歓喜の声をあげた。それらを制し、于禁は大きく扉を開けてやる。さあ、と促せば、彼らはおずおずと外へ出てきた。
「子供らの親たちは?」
「政庁に休ませております。すぐに向かいましょう」
 頷いた于禁は、田憲、韓綝、蘇雍が出てきたところで、于禁は部屋の中に踏み入った。
「李嬰」
 名を呼べば、暗い部屋の隅に立ち尽くしている子供が于禁を見やる。于禁はその傍に寄り、彼の手を引いた。
「さあ、行くぞ」
 李嬰は面に困惑を浮かべしばし動けない様子だったが、外から、于禁将軍、と声がかかるのに振り返った目の前の子供を見て、ほんとだったの、と小さな声を発した。李嬰を見た于禁は目を細め、謀ってどうする、とすげなく返す。ぐいと手を引かれ、最後の子供もまた部屋の外へ出た。
 于禁とその手を引かれた子供とは、黄斉らと共に彼らがが捕らわれていた屋敷の外に出た。振り返った李嬰が、先生の家、と呟く。
「…………申し訳ありませんでした。まさか、医者の家が根城とは思いもよらず……」
 黄斉が口惜しそうにするのを、于禁は首を振って止める。
「先に李嬰の親を探してくれ。ええと……」
 于禁と目が合った李嬰は瞬く。「黒髪に薄茶の着物だ」と言う彼に黄斉は拱手して一礼し、数人の兵を連れて駆けていった。代わりに程豫が彼らの傍らにつき、李嬰は背高の彼を見上げて驚く。程豫はぴょんとしゃがみ込むと李嬰の前髪をそっと撫でた。
「大変だったね。もう安心だよ。君の親御さんも俺たちが探すから、ちょっと休もうね」
 にっこりと笑った程豫を見た李嬰は俯き、そうして小さく頷いた。


 ◇


 子供たちを誘拐し監禁していた医者の家からは禁書とされていた邪教の経典が押収された。于禁がかどわかされた経緯については、医者によって調合された眠り薬を霧状にしたものに巻かれ、于禁と彼を密かに追っていた伍が昏倒してしまったことによる不手際だったことが明らかになったが、孫権の口添えもあって咎めはなく、また于禁もその責の所在を求めなかった。李嬰の父母についてはすぐにその居処には辿り着いたものの、彼らが生活上問題のある健康状態であることがわかると、江陵の政庁でその身柄を当面保護することとなった。
 罪人らは棒叩きの後に徒役の刑に処されたが、種々の事後処理に皆が追われている間に于禁の体はすっかり元の通りに戻り諸将を安心させた。最も、一番安堵しているのは当の本人であることは皆も承知している。こんな目に巻き込まれるのはもう十分だとは、誰しもが思っていることであった。

 黒い壁のような己の姿を、まるで心底奇怪だとでも言うように丸い目をして見上げてくる子供たちに于禁は据わりの悪い心地になる。斜め後ろに立つ程豫の吹き出す音が聞こえて、于禁はそちらをチラリと見た。同じく後背に控えていた黄斉に腕を叩かれた若い兵士は慌ててわざとらしく咳をする。
「ほんとに大将軍だったの?」
 蘇雍が言う。「そうだ」と于禁が答えると、子供たちは顔を見合わせ、それから「すごいや」とおかしそうに笑った。
 田憲が「あんなにちまちましてたのに」と言うのに韓綝が慌てて「失礼だぞ」と制する。それを見た于禁は彼らの前に片膝をついて、「構わん」と口にした。
「一人では何もできなかった。お前たちが懸命に叫んだおかげで私も助かったのだ。礼を言う」
 その言葉に、一番に反応したのは李嬰だった。くすくす笑い始めた彼は、皆の視線を一身に集めているのに気づいて恐縮し、だって、と口を開く。
「しゃべりかた、えらそう。ほんとにおんなじ人なんだもの」
「……ほんとだ!」
 弾かれたように笑い出す子供たちに、于禁は渋面になるが、やがて詮無きことかと表情を綻ばせる。
 はらはらしている黄斉と程豫の視界で、変わらず笑い続ける子供たちと、見えない将軍の面。
 ――何もできなかったなんてことはないのに、程豫はそう思う。降ってくる武器の雨からも、襲いくる悪漢の手からも、小さな体を使って己や子供たちを守ったこの将軍のことを。
 黒い壁将軍、と一人が言うのを聞いた程豫は、さもありなん、とまた笑いそうになってそれに気づいた黄斉にまた小突かれる。だって、と彼はごくごく小さな声で囁いた。

「大きくても小さくても、いつでも俺たちのこと守ってくれるじゃないですか!」
「…………まあ、確かに……」