「私の器は小さいので」
 諸葛誕の話はそんな切り出し方で始まった。思いもかけない言葉に夏侯覇も押し黙ってその先を待つ。
「司馬師殿からたった一言労いをいただければすぐに満杯になってしまいます」
「…………足りなくねーの?」
「じゅうぶんです」
 夏侯覇の差し向けた酒瓶の口に、諸葛誕も己の杯を乾かして応える。なみなみと注がれた清酒はその黄色味を帯びた表面に夜の灯りを反射させてきらめいた。
 偶さか空けきらない酒があり、偶さか見かけたのが諸葛誕だったために酒席に誘ってみたものの、なかなかどうして興味深い話が聞けた。全体彼は何が“じゅうぶん”なのだろう。薄まりきった酒とはいえ、この杯はもう何度も受けているのに。
「ひと口で乾いちまうだろ」
「少しずついただきますから」
「ちびちび飲むなんてみっともない」
「次にいつあるかわからない水場のために、水筒をすぐ空けるわけにいきますまい」
 諸葛誕はぐいと酒を呷る。普段の佇まいからはあまり想像のできない気前の良い飲みっぷりだったが、顔にはさほど出ないたちなのかその面は白々としている。
「水場の例えが出てくるならじゅうぶんとは言えねーだろ」
「……失言でした」
「はは、素直」
 常からわかりやすい態度の彼ではあるが、酒精のためにいっそう心持ちが大らかであるらしい。わかり難いよりはよほど付き合いやすいので、夏侯覇はこの人物がそこまで苦手ではない。
 諸葛誕の尊敬する相手、司馬師は別だ。あれほどわかりやすい人物もないが、その明快さゆえに恐れを差し引いては付き合えない。典雅な容貌からは及びもつかぬ彼の本質とは、すなわち剛毅果断で苛烈、重量のある熊や何かが山野を猛進するが如きである。その爪の鋭さに夏侯覇は日頃から震え上がってばかりなのに、この諸葛誕という生真面目な将はほとんど司馬師に心酔してしまっている。
 司馬師の弟である司馬昭などはその様を狗と称した。だが夏侯覇はここに来て、はたして狗には信仰があるだろうかということを疑っている。もしも渇いた獣だったなら、きっとそこにわずかばかりの水が入った器があればすぐに飲み干してしまうだろう。
「ですが、本当にじゅうぶんなのです」
「うん、それはわかってるよ」
「よかった」
 諸葛誕はそうして再び杯を空け、これ以上は結構と言って夏侯覇を見た。夏侯覇も頷き、自身の杯に少なくなった残りを注ぐ。何日も空けきらなかった酒瓶でも、余人と飲めばむしろ足りないと思えるほどだ。
 そんなふうに手に余るもの、必要のないものばかりを数多懐に抱え、本当に必要なものは満足に得られずに生きることが幸福ではないような気がするのは、お節介だが夏侯覇の経験則に基づく勘だ。それでも彼は、本当なら、人は生きていれば本当に必要なものを少しずつでも得る機会にまみえることができると考えている。そうして生き長らえていくのだと。
「夏侯覇殿は」
「うーん、俺は……認められて、安心したいし、安全でありたいよな」
「ええ、そうですね」
「正直自分の器がどうとかは考えたこともなかったし」
「はい」
「そんなことどーでもいいと思ってるし、あ、だからって諸葛誕殿の言うことに納得してないとかそういうことじゃなくて」
「わかっています」
 彼はそうしてへらりと下手くそに笑った。ここでようやく夏侯覇は、酒精が彼に与えた影響の一端を見ることができた。
「私だってありもしないものをあればいいのにと思っているだけです」
「んふふ……そかそか」
「ええ」
 そうして二人は、顔を見合わせて笑った。

 夏侯覇はうんと昔、近所で見かけた野良猫を餌付けして懐かせたことがあった。出会ったときは腹の骨が浮き出るほど痩せこけていた野良猫は、夏侯覇がこっそり厨から失敬してくる残飯を食べて肉がつき、“猫らしく”なった。
 あるときその行いが父に見つかったが、父は息子を咎めなかった。ただひと言、お前はその猫の命に責任があるんだぞと言った。
 自分で食う飯も自分で賄えねえほど弱い生き物だったとしても須らく死すべしなんて俺は思わねえよ、それでもその命はお前が生かした命だ。
 己の腕のなかでごろごろと丸まる猫の重みを、夏侯覇はそのとき初めて理解した。
 少し後、中原の広域で旱魃があって不作になり、将軍位の家の食卓ですら並ぶ食事の量が減って、そこで夏侯覇は己もまた弱い命なのだということを思い知った。己は、自分が口にする飯を自分で賄うことができない。
 生かされている。
 ――生かされている。

「諸葛誕殿はさ」
「はい」
「どうやって、そういう……の、わかったの? 今まで、生きててさ」
「私は司馬師殿と出会ってすべてが変わりました。はじめは遠くから見ているだけでしかなかった彼のほど近くにつけるようになってからは、常に研鑽を重ねていますが、その……人には天井があるのでしょうね。低すぎる己のそれに辟易してばかりです」
 答えは早い。夏侯覇は感心した。
「俺は、天井が低いほうが落ち着いて好きだけどな」
「そうですね。私もたまに狭いところに挟まりたくなるときがあります」
 それを聞いて夏侯覇が大笑いすると、たまらず諸葛誕も破顔する。この日のささやかな酒宴はそれで散会となった。

 翌日の夏侯覇は休沐だった。吹く風もすっかり秋らしくなった街を当て所なくふらふらしていると、前方に見慣れた姿の、しかし気安い佇まいを見つける。向こうも不意に夏侯覇に目線を向けてきて、素知らぬふりをして立ち去るわけにはいかなくなってしまった。
「司馬師殿、こんなところでめずらし……くはないか……あなたも休沐だったんですね」
「ふ、常連だ。秋は肉まんがうまくなる季節ゆえ、な」
 あなたにとってはいつもそうだろうに得意げに言うことだろうか、と夏侯覇は内心で呆れる。通いの肉まん屋の主人は朗らかな笑みを浮かべて、いつもありがとうございますとのたまった。
 ついでに夏侯覇も肉まんをひとつ買って、そのままなんとなく連れ立って歩く。己よりも上背のある年下の男の隣に並ぶのがなんとなく気恥ずかしく感じられてしまうのは、自身の内奥に凝るみっともない矜恃ゆえで、本当は誰もそんな瑣末を気にかけてなどいないことも夏侯覇は知っている。
 ふと、司馬師の足許に茶色い毛玉がまとわりついた。見れば野良犬が丸い目を輝かせて彼を見上げている。
「肉まんの香につられたか、ものの良し悪しは知っているらしいが、貴様にやる分はひとつもないぞ」
「司馬師殿、いくつ買ったんです?」
 二段重ねの蒸籠にそれとなく目線を向ければ、相手も当然のように応えを返す。
「八つだ」
「…………俺のちょっとやるよ、わんこ」
「夏侯覇」
 腰を屈めようとした夏侯覇を司馬師が制した。
「餌付けして懐かれては困るだろう。与えぬのも優しさだ」
「…………」
 その言葉はもっともで、恐らく幼い己に対して父もそう言うつもりがないわけではなかったのだろう、と夏侯覇は折に触れて考えている。それもそうですねと腰を上げた彼は通じているかもわからない謝罪を野良犬にして、少し先にいた司馬師の横についた。
 ――でも、あなたは餌をあげているじゃないですか。
 夏侯覇はそんなことを言おうとしてやめた。
「昔、父に」
「夏侯淵将軍か」
「はい。野良猫に餌付けしてるのが見つかって、でも父は俺を咎めませんでした。自分で獲物も取れないような弱い命でも死ぬべきとは思わないが、俺にはその猫の命に責任があるって。……司馬師殿は、どう思います?」
 尋ねると司馬師は少し黙り、
「私はこの肉まんの、肉も、野菜も、餡も、皮も、己の手ずから作ったわけではない。お前が飼っていた猫と私の間に違いはないな」
と答えた。夏侯覇はほっとする。彼と――ほんの少しばかり苦手に感じていた彼と己との間に共通点を見つけたからだ。
「そうですか」
「ああ」
 そうして私邸に戻ると言う司馬師と別れ政庁に向かっていた夏侯覇は、政庁の門脇で何やらぐずついている数人の農民の姿を見つけた。その手に籠を抱え互いに押し合いへし合いしている様を彼は訝る。
「おーい、何やってる? 俺は夏侯仲権将軍だ」
「あ、しょっ、将軍様! いえ、我々は怪しい者ではなくて」
「いやいやいや、どう見ても怪しいよなあ」
 夏侯覇に迫られた農民たちは葱や蕪の入った籠を楯にしながら、諸葛将軍に、と口走る。
「ん? 諸葛誕殿か? それとも」
「あっ、あの、はい、諸葛誕様です。春に、新しく耕した土に蒔いた種で野菜が採れましたので、将軍にお渡ししたかったのです、そのときに楽しみだなと仰っていただいたものですから、でも」
「きっと覚えてないだろうって……」
 ひとりが悄然と言うのに、他も肩を落として頷く。その様子を見て夏侯覇ははっとした。
「あいつは絶対に覚えてる」
「えっ」
「呼んできてやるよ。そこで待っててな」
 そうして夏侯覇は走り出す。それは諸葛誕に対する期待であったし、信頼であった。息を切らして辿り着いた諸葛誕の政務室で衛士に話をつけ、訝られながら室内に通されると、在室していた主が驚いたような声をあげる。
「どうなさったのです、夏侯覇殿。休沐では」
「政庁の前にお前に用があるって連中が来てる。農民だ。ちょうど行き会ったから呼んできてやるって言ったんだ」
「私に用? その者らの名は」
「あ……聞き忘れた……」
 頭を掻きながらぼやく夏侯覇が、
「春に蒔いた種から野菜が採れたんだって」
と添えると諸葛誕は、おおと途端に目を輝かせて椅子から立ち上がった。その様に今度は夏侯覇が驚く番だった。
「とすれば尹たちですな。春先に、初めて耕す土だからと不安げにしていたのです。無事に収穫できたのだな」
「あ、そう、みたいだな……」
「夏侯覇殿、ありがとうございます。すみませぬ、私は少々部屋を空けますので」
「あ、うん。俺も行くよ」
 そうして連れ立って室を出た二人であったが、諸葛誕は室外の衛士たちに、外出するが程なく戻るゆえお前たちは中で休んでいてくれと言葉を添えた。恐縮する衛士たちに夏侯覇が、休んでてやれよと重ねてやって、彼らはようやく室内に入る。それを見届けた夏侯覇と諸葛誕は足早に門前に向かった。
 約束通り諸葛誕を連れてきた夏侯覇に農民たちは深く感謝し、それ以上に頬を紅潮させながら諸葛誕に籠ごと野菜を差し出した。改めて覗き込んでみればずいぶんな量の葱の束と蕪が入っていて、喜ばしく受け取る諸葛誕の面には一片の曇りもない慈しみの如き笑みが浮かんでいる。それを横目で見ながらひっそりと立ち去ろうとした夏侯覇に、諸葛誕から声がかかった。
「夏侯覇殿、よろしければ少しもらってください」
「え? でも……それはお前にってみんなが」
「皆、いいだろう?」
 問われ、農民たちはこくこくと何度も頷いた。遠慮がちに葱と蕪を数束受け取る夏侯覇に、こういうものは皆で分け合うべきですので、と諸葛誕が言う。
 夏侯覇はふと昨晩の彼の物言いを思い出した。彼の器の大きさを――ああ、きっと、こんなにたくさんの野菜は載せきらないのだろう、と。
「ありがとな。今日食べるよ」
 農民たちは照れくさそうに笑って、何度も頭を下げながら足早に門前を辞去した。夏侯覇は諸葛誕にも別れを告げ、一日ばかりの休沐で戻るつもりのなかった私邸への道を急ぐ。手に持った野菜が熱で萎れてしまわないうちにこれらを料理してやらねばならない。

 翌日は登庁直後からなんとなく忙しなくて、ようやっと夏侯覇が一息つけたのは未時も終わりかけのころだった。駆け足で諸葛誕の政務室に向かい、在室していた彼に昨日の野菜は炒めにして家族と家宰も共においしく食べたと伝えると、私も同じですと嬉しげに返してきたので夏侯覇は満足してそこを辞去した。そしてしばらく行った棟の曲がり角の先から香ってくる、覚えのあるにおいに気づいたのは、そこで現れた影とぶつかりそうになってからだった。
「うわっ! と!」
「む、すまない……夏侯覇」
「ああ、司馬師殿。こちらこそすみません」
 いいや、と司馬師は首を振る。その腕のなかには、まるでそうであるのが当たり前のように二段重ねの蒸籠が鎮座していて夏侯覇は笑ってしまった。
「また八つも食べるんですか」
「うむ。昨晩、諸葛誕がわざわざ我が邸に野菜を裾分けに来たのでな。肉まん屋に頼んで特別に作ってもらった……大きく切った野菜の入った肉まんは食感が格別で」
「あー! ですよねー! わかります!」
 長くなりそうな話を同意で遮ると、司馬師は大きく頷き、それから少しばかり迷うそぶりを見せた。おや、とまたたいた夏侯覇に、
「ひとつ食うか」
と彼が問う。慌てて夏侯覇は首を振った。
「いやいやいや、それは司馬師殿が召し上がってください。俺はこの後すぐまた調練だし、好きな人が食べるのが一番いい」
「ふむ、同意見だな」
「あはは! それじゃあ、俺は失礼します」
「ああ。励めよ」
「どうも!」
 ぺこりと会釈して夏侯覇は足早にそこを離れる。
 ああは言ったが、司馬師の向かう先にあるのは文官らの集う政務室の他は諸葛誕の政務室のみだ。諸葛誕から――昨日の己と同じように――野菜を裾分けしてもらったのなら、彼とてその返礼に肉まんを裾分けするつもりでもあるのだろう。そういうときに独り占めはしない人であるはずだ。
 それとも――やっぱりそうじゃないですか、とでも言うべきであろうか。
 夏侯覇は諸葛誕の小さな器に肉まんがひとつぽつりと載っているのを夢想する。それは間違いなく、諸葛誕という存在が誰かの心のどこかを占めている証で作られたものだ。
 そして彼が心から、己はこれで“じゅうぶん”なのだと浮かべる笑みのことを思って、涼しくなる季節の最中にもほっと温まる心を感じた。

 それは、ある秋の、たった数日の出来事だった。

 司馬師の訃報が蜀にもたらされたとき、夏侯覇はかつて故人と、そして諸葛誕と交わした会話を思い出し、すでに離反した国の人だというのに彼のことが少しばかり気がかりだった。
 三年の後、その気がかりは現実のものとなり、寿春に於いて諸葛誕が反逆し籠城の末に攻め滅ぼされたと聞いたときは、ああやっぱりかと彼は思った。
 だめだったんだな、と。
 生かされなかったのだ。ほんの小さなそれをすら満たすに能うものは最早天下になく、器は乾き、喉は嗄れて皮膚がはりつき、骨は浮き出て、飢えて、吠えて、やつれて死んだのだ。
 なんという恐ろしいことだろう。彼の生き方は夏侯覇には到底真似できないもので、夏侯覇はたとえ戦場に身を置いていようとどうしても己の命が大事だし、己の安心が第一だった。
 それでも、あの秋の日にそれぞれ見た二人の姿は、その輪郭は、夏侯覇の脳裏に不意に蘇る。そして彼らが己の――誰の手も届かないところに去っていってもう二度と誰の許へも戻ってくることはないのだと思うと、そのことはなんとなく心安く感じられて、夏侯覇の口許には自然と笑みが浮かぶのだった。