「隠れ処を買ったんですよ」
 いつもそうではあるが、殊の外楽しげな口調で満寵が言った。偶然彼の政務室を訪れていた賈詡と荀攸は同時に彼を見る。にこにこと嬉しげな笑顔がそこにあった。
「言ってしまったら隠れ処にならないのでは」
 荀攸がそんなことを言うので賈詡もおかしくて笑ってしまった。満寵は、そうだけどね、とやはり笑みを崩さないでいる。
「宮城ではできないようなことをするために買ったから。どれだけ汚しても壊しても私の隠れ処だから文句は出ないし、皆さんも試してみたい策や罠があったらいつでも使っていいよと言おうと思ってね」
「あははあ、そういうことでしたか。太っ腹ですね」
 散らかった机上からようやく目的の書簡を探し出した賈詡は、それを手でもてあそびながら嘆息する。
「そっちに煩雑さが押しつけられるなら、こっちはもう少し整頓されるかね?」
「いや、私的な隠れ処だからそれは保証できないな」
「…………」
 呆れたように半眼になった荀攸もまた目的の地図を探し当てたようだ。まあそのうち世話になることもあるだろうさ、と賈詡が口にすれば、宴会でもしようよ、と満寵が重ねる。それに賛意を示して、賈詡と荀攸の二人は彼の室を辞去した。
「隠れ処ねえ。荀攸殿にもそういったのがおありで?」
「いいえ」
 気安く尋ねれば、存外早く答えが返ってくる。
「俺は殿に戴いた私邸で事足りますので。ひとりではあまり大規模な戦術も弄しませんし」
「そうかい」
「賈詡殿は」
 荀攸は不意に賈詡の顔を見上げてきた。賈詡は内心そのことに驚きながら、応えて首を振る。
「俺も別にそういうのは、持ってませんねえ」
「そうですか」
 会話はそこで途切れた。荀攸が賈詡に苦手意識を持っていることもあるが、元よりお互い余人に対して必要以上に踏み込むことを好まぬ二人である。心地よい沈黙を伴いながら、そのうち彼らはそれぞれの政務室に分かれた。

 賈詡は宛城にいた。今は許昌――曹操の膝元に活動の場を移しているとはいえ、彼の姿がこの地にあることを宛城の人びとは特別不思議に思うこともない。
 馬から降り、少し狭い街並みをのんびりと賈詡は歩く。目的の建物が見えてきたとき、その玄関からひとりの男が外に出てきた。
「やあ」
「? ああ! 旦那様。おかえりなさいませ」
 携えていた布巾を小脇に抱え拱手する彼を片手を上げて制した賈詡は、玄関脇の馬立てに愛馬を絆して中に入る。もたもたと軍靴を脱ぎ捨て、ひやりとした廊下に歩を進め、正庁を横目に奥の私室へ向かった。どうせ賈詡と家宰のほかは誰もいやしないのに、賈詡は狭苦しい牀で横臥するのが何よりも好きだった。
 この家はまだ賈詡が張繍の世話になっていたころに彼から賜ったものだ。こう聞けば賈詡の脳裏には張繍の声で、私のほうが世話になっているというに、と笑うのが聞こえてくる。当然のように馬立てがあり、家宰も当時から変わらない。そのころには張繍の軍勢も宛城に拠ってしばらく経っていた。主人と、主人の父である先代の気質をよく反映してかこの軍には人柄が良いものが多く、領民にも彼らに対して好意を抱くものは少なくなかった。涼州にゆかりがあるために漢人のみならず氐族や鮮卑出身のものも属していたが、垣根はなく、彼ら自身も流れていたためか同じように流れものの賈詡が受け容れられるまでに然程時を要さなかった。そればかりか、主人のみならず将兵もまた少なからず賈詡を慕ってくれるまでになった。
 目を閉じれば暗い室には文字が満ちる。記憶が満ちる。笑顔が満ちる。あんなに居心地の良さを感じたことはなかった。ここにならずっといられるのかもしれない、と思った。打算で世を渡ってきた自覚はある。それだから常に余人に疑念を抱くし己の腹は明かさない。胡散臭さを武器にしてきたのに、かつて主人は、お前は本当に胡散臭くて頼もしいな、と朗らかに笑った。そうしてまるで子が親を慕うように教導を欲した。
 絆されたのだ。当たり前のように馬立てがある家に。それだのに居心地の良さを感じてしまった。戦いの最中、彼らとならば背を預けて戦うに足ると思えるほどに。
 主人の命がきちんとあって、敵に一泡吹かせられるなら、街も軍勢も惜しくはなかった。けれど今、主人は失く、敵にも敗北し、軍勢は取り込まれ、命を約束されて賈詡はひとり、この家にいる。
 ――だが、ああ、計を破られてよかったのかもな……

「おはよう、賈詡。よく休めたかい?」
「やあ、おはよう郭嘉殿。そうだね、あんたがいないだけで静かで楽だ」
「おや、心外だね。私はそんなに騒がしいかな?」
 休沐明けの宮城で朝の挨拶に混じる軽口。郭嘉に尋ねられた荀攸は、さあ、と短く返すのみだ。
「郭嘉殿の場合はご自身がというよりその存在でしょう。あなたは放っておかれない人だから」
「へえ、なるほど」
 満寵の調子のいい答えに享楽の才子はおかしげに笑って、ひょいと軽やかに賈詡の傍らに立った。
「ところであなたは休みの日にはどんなことをするんだい?」
「ん?」
 心底興味深げに顔を覗き込んでくるやわらかい瞳に謀りはない。そして、賈詡はどうしてだか、いつか己に向けられたかつての主人の笑顔を思い出していた。
「ふふ、言えないことか」
「……違うよ。勝手な想像をするんじゃない。あんたじゃあるまいし……」
「まったく、心外だなあ」
 いよいよ郭嘉は楽しげに、次いで満寵に、ところであなたは、と尋ねようとして、ああもうわかった、とすぐに自答した。
「残念、訊いてくれれば最新の罠をお見せしたのに」
「それは軍議の席で聞こうかな。荀攸殿は?」
「読書ですね」
 簡潔に答えて歩き出す荀攸に続く二人の背を見つめ、賈詡は口を開く。
「宛城に――」
「ん?」
 郭嘉が振り返った。
「私邸を持っててね。ゆっくりしたいときはそっちに行く」
「へえ。そうなんだ。それは自分で買ったの?」
「いや」
「……ふうん、それなら、我々が火計を阻止したことはいよいよ正しかったね」
 ゆるりと眼差しが細められ率直な物言いをされては毒気も抜ける。そうして先を行く三人の後ろに続きながら、賈詡は心から、そうだね、と頷き返した。