すみません、と声を掛けられて顔を上げた荀攸は、表情には出さず内心で驚く。そこにいたのは彼が好みだと思っていた男性利用者だった。荀攸がカウンターにいる間に確認する限りでは男性の図書館の利用頻度はそこまで高くはないが、一度閲覧席で友人と会話していた彼に「図書館ではお静かに願います」と注意したことがある。その際に心底恐縮そうにしていた彼の好青年然とした姿を見て好感を抱いたのだが、我ながら可笑しな動機だな、と荀攸は思う。
「はい、なんでしょうか」
 常から抑揚のない声はこんなときにも冷静だった。怪しまれても困るので荀攸は己の不精な表情筋に救われている。
「あ、その、姪に読んであげる本を探していて……どういうものがいいのかわからなくて……」
 悩ましげに寄せられる眉に荀攸はふと見とれた。爽やかな好青年の面に乗る憂悶はこちらにも同じように懊悩せよと乞うかのようで、いささか居たたまれない気持ちになる。
 ひとつ、首肯。気を取り直して問い返す。
「姪御さんはおいくつでしょうか」
「えっと、三つになります」
「わかりました。では、…………」
 荀攸は周囲を見回し、他に貸出カウンターやレファレンスサービスを利用しようとしている客もいないようなので、席を立った。不思議そうに目を丸くした男性に手のひらで促す。
「直接見て探したほうが早いかと。こちらです」
 もうひとつのカウンターに掛けていた同僚の賈詡に離席の断りを入れ、荀攸は男性と連れ立って低年齢向けの絵本を並べた書架に向かった。防犯管理上カウンターの正面になる場所に位置している背の低い書架は、賑やかなパステルカラーのカーペットの上に円形に連なって子供たちの相手をしている。
 目当ての一角にはちょうど人影もなく、二人は並んでその前にしゃがみ込む。思った以上近くに彼の存在を感じて、荀攸は少しばかり後悔した。彼が外套を羽織っていたために見た目には気づかなかったが、殊の外体格がいい。清潔な香りもする。
「あの……?」
「あ、ああ、この辺の絵本が大体三歳から四歳の幼児向けになります」
 ぱたぱたと本の表紙を手で次々示しながら平静を装う荀攸は、彼の姪が興味を示す事柄などを尋ねる。物語の姫や民話の妖怪、教育番組に現れる恐竜、海外のアニメーションに出てくる妖精や怪獣なども好む多趣味な少女だと楽しげに伝えてくる男性の様子から、心底彼女を可愛がっているだろうことが察せられた。
 とはいえそこまで守備範囲が広いと薦める絵本も悩みどころだ。ましてや、相手にされないとはいえ好みの男の心象を悪くするのも本意でない。定番の童話や現代向けに再編集された寓話集、怪獣を主人公にした絵本を挙げながら、そうだ、と荀攸は思い至る。
「物語だけではなく、図鑑などもどうでしょうか。こちらに……」
 そうして男性の前にある本棚に伸ばした荀攸の手に、彼のごつごつした手が不意に重なった。
「えっ」
 荀攸は思わず声を発して相手を見た。彼のほうも荀攸を見ていて、顔を真っ赤にして少し驚いた様子でいる。なぜあなたが驚いているんですか、と荀攸は言いたくなった。どうしたって偶発的に重なるようなものではなかった。
「あっ、の、えと…………」
 彼は言いにくそうに口をもごもごさせ、しかし重ねた手で間違いなく荀攸の手を握った。それだけで荀攸の心臓が爆発しそうになる。一体何が起こってる?
「め、姪に読む本を探しているのは本当で、その、あなたから薦められた本、全部借ります。それで、あの、もうひとつ訊きたいことがありまして」
「な、なんでしょう、か……」
 小声で密やかに、つっかえながらも述べ立てる彼に、荀攸も素直に答える。もう、何がなんだか、わからない。
「あっ、あなたを食事に誘うには、どうしたらいいでしょうか…………」
 彼の潤んできらめく瞳に見つめられて、ついに荀攸はカーペットの上に尻もちをついてしまった。慌てる男性に握られたままの手が汗ばんで、熱を持っている。
「だ、大丈夫ですか!?」
 ああ、大きな声は出さないでほしい。お静かに、と口にすることもままならない荀攸の体の中で、血が囃すように沸き立ちながら暴れていた。