※一部にデートDVを想起させる表現がございますので閲覧にはご注意ください。


「公達殿に恋人が!?」
「荀彧殿、図書館ではお静かに願います」
 失礼、と慌てて口許に手を当てた荀彧はしかし、その高い上背を屈めてカウンターの向こうにいる賈詡に詰め寄った。
「どういうことでしょうか。私は何も伺っておりません」
「いやあ、ま、恋人と言っていいかどうかも怪しいし、まだ一週間経ってないですしね……。荀攸殿も保育園児じゃないんだから、連絡帳に書かなくてもしょうがないさ」
「あの男と別れさせてからお相手はいらっしゃらなかったはずですから、まだこちらに報告すべきではないと踏んだのかもしれませんね……」
 荀彧がぼやくのに、賈詡は彼独特の笑い方で応える。
「あんたの心配もわかるがね……」
「当然です。それで? お相手はどういった方なのです」
 さらに詰め寄ってくる荀彧から体を逸らして距離を開けながら、守秘義務があるんでね、と賈詡はのたまった。話を投げたのはそちらではありませんか、と荀彧も思わず咎めるも、すぐに怜悧な瞳を眇めて賈詡を見下ろす。
「ですが、今の言でこちらの利用者の方というのははっきりしました」
「……クソッ、しくじったな」
「珍しく口を滑らせましたね。あとは公達殿に直接伺います。情報提供をありがとうございます」
 にこりと品良く微笑み、借りた書籍をトートバッグに仕舞った荀彧は悠然とカウンター前を去っていく。賈詡はその背を見つめながらげんなりした。彼の歩みは現在書架整理に従事している話題の人物――荀攸の居処をはっきり捉えているようだった。

「公達殿」
 荀彧が声をかけ隣にそっとしゃがみ込むと、書架の前に同じように屈んで蔵書を片付けていた荀攸がそちらに面を向けた。
「文若殿、いらしていたのですね」
「はい。ちょうどこちらに来る用事がありましたので、借りたい本もありましたし。お仕事お疲れ様です」
 ありがとうございます、と微笑む口許は穏やかだ。図体の大きな男が二人して縮こまっている通路には和やかな空気が流れる。荀彧はそのまま荀攸の作業する手許を眺め、荀攸は彼の視線を意に介さず己の仕事を続けた。
 荀彧は荀攸の長い袖の下に隠れた、消えずに残る痣のこと、その体に刻まれた傷のことを思う。もともと線の細かった彼がいっそう痩せこけ、昏倒してしまってからようやっと気づいたその危機に荀彧は己を叱責し、また人生でこれ以上はないと言っていいほどの怒りを初めて他者に向けた。旧い友人に掛けられた「それでも人を殺してはだめだよ」という諫言をどうにか聞き入れるので精いっぱいだった。荀攸の外傷が快復するまでには一月を要し、精神面の傷は完全に治るとは言えないだろう。
 だが、彼の事情を知っている賈詡は今回の“恋人”の件についてそこまで心配している様子もない。そしてそのことは荀彧を少しばかり不安にさせる。
 人は見た目に拠らないものだ。穏和だと言われることの多い荀彧だって人を殺したいと思ったし、一見すれば朴訥な印象の荀攸は後戻りのできなくなる一歩手前まで問題を溜め込んでしまった。傍目には胡散臭いと思われがちな賈詡はその実内面は優しさに満ちて面倒見が良く、荀攸を追い込んだ男だって初めて出会ったときには気のいい好漢に見えていたのだ。
 ――それとこれとは話が別だ。
 荀彧が意を決して口を開くのと、荀攸がおもむろに立ち上がるのは同時だった。
「文若殿? 俺は戻りますが……」
「っ、あ、ああ、はい。では私も……」
 出鼻をくじかれ、荀彧も彼に倣い立ち上がったとき、書架の端に一人の青年が立っているのを見つけた。少し困惑したような表情でこちらを見つめている彼に荀彧は、書架を占領してしまったか、と申し訳なさを覚える。軽く頭を下げ青年の横を過ぎようとすると、後背にいた荀攸が「楽進殿」と口にして前に歩み出た。その声色がずいぶんと明るくなるのに、え、と荀彧は少し低いところにある彼らの顔を見る。
「こんにちは。今日も来館していたんですね」
「こ、こんにちは。えっ……と……」
 そうして楽進殿と呼ばれた青年もまたちらりと上目遣いに荀彧を見上げる。その視線に気づいた荀攸がごく自然な態度で荀彧を彼に紹介した。叔父と甥の関係であると言うと彼は驚き、そのことに荀攸が苦笑する。その反応自体はこれまでも経験したものだった。
「文若殿、こちらは楽進殿です。先日知り合いまして……」
「そうでしたか。公達殿にご用でしたら、私はこれで」
 にこやかに振る舞い一礼する荀彧に、楽進もほっとしたような笑顔を向けて会釈を返してくる。荀攸からの別れの挨拶を背に受け、二人から離れて図書館を辞去する間際、荀彧は賈詡のいるカウンターをちらりと見た。賈詡もまた横目で、立ち去ろうとする荀彧を見ていた。
「…………」
 館外に出、スロープを下りながら外套のポケットからモバイルを取り出し、荀攸宛にメッセージを送るかどうか思案する。
 問いただすことも未遂に終わり、目に見える成果はなかったが、察しの良い荀彧には難なく理解できた。間違いなくあの青年が大切な甥の“次の相手”だ。見目はいかにも好青年然としていて、なるほど甥好みの風情である――つまり、荀彧にとっては警戒対象だ。
 思いをかけ、入れ込んだ相手に傷つけられ、酷い目に遭わされてなお、大切な甥は他者に恋することを辞めなかった。確かに心は止めようがないだろう、荀彧が人を殺したいと思う気持ちを止められなかったように。
 ――どうしたらいい。
 ざわざわと腹の底に巣食う黒い虫たちがある。あんな恐怖は二度と経験したくないのだ。


 ◇


 翌日夜、荀彧と荀攸は夕食を共にすることになった。結局荀彧は甥に対して「近々一緒に食事をしないか」とメッセージを送り、荀攸は当然のように「ではすぐにでも。明日の夜はいかがですか」と返してきた。「おいしい蜜柑をいただいたのです」と付記して。
 夕食自体は知人の店からテイクアウトした惣菜を並べたが、彼らは共に食事をとることができるならその内容は問わない間柄だった。少量のアルコールも入り荀攸は普段から眠たい目をいっそうまどろませて、無表情のなかに上機嫌をにじませながらもらいものの蜜柑を剥いている。
 一方荀彧はというと、
「文若殿もお会いしたでしょう、楽進殿。彼がくださったのです」
という一言で一気に酔いが醒めた。そうしてすぐに頭を回転させ始める。どう訊ねるのが一番“良い”のか。
「そういえば、」
 だが、すぐに荀彧は思い直す。結局率直に問うのが一番だ。
「彼とはどういったお知り合いですか? 私よりも年少の方とお見受けしますが……」
「いえ、文若殿よりも年上ですね。俺よりは下ですが」
 その言葉に荀彧は素直に驚いた。若々しい印象だったから、まだ大学を上がりたてかそのくらいなのだろうと勝手に想像していた己が気恥ずかしくなる。
「運動をしている方なので代謝がいいのかもしれません」
「ああ……なるほど」
 感心してから、いやそういう問題ではない、と荀彧は気がつく。話が変な方向にずれるのを防ぐ目的で口を開いた荀彧は、直後荀攸から、
「彼とは交際前提の友人の間柄です」
という言葉を聞かされて、そのまま“開いた口がふさがらない”状態になってしまった。
「先日、食事に誘っていただきまして、夕食の場で『交際をする前提で友人になってほしい』と申し出られました。俺は……その」
 荀攸はそこでちらりと気恥ずかしそうに上目遣いに荀彧を見た。
「ああいった方が好みなので」
「…………」
「以前から来館する彼を見ていましたので……」
 彼はそこで黙った。
 ――それで終わりなのか?
 荀彧は何と返していいかわからず、俯いて蜜柑の皮を剥く荀攸の前髪を見つめ返す。他に何かないのか? 荀彧が言葉を繋げても不自然ではないような、もう少し何か……
「『まともにセックスできないかもしれません』と伝えると心底驚かれて」
「ヴッ……え?」
 不意に続けられた単語に瞠目する荀彧に目を合わせようとしない甥は、ぽつりぽつりと先を進める。
「『自分は交際に性行為が必ず伴うとは思っていなかった』と仰られました。……俺こそ……そんなことを考えたことがなくて……俺は……」
 ぱたり、と荀攸の目から滴がこぼれた。彼はそれを拭う仕草をするが、次々とあふれてくるのか袖が濃く染まっていく――彼の長い袖が。
「ま、まだ出るのか。そのときも彼の前でみ、みっともなく、泣いてしまって、お、俺のしてきたことは交際では、なかったのかもしれないと」
「公達殿」
 蜜柑を放り出して席を立った荀彧は急いでテーブルを周り、彼の坐る椅子の傍らに膝をついた。見上げると歪んだ眦が赤く染まっている。
 ――飄々としているように見えて、その実。
 甥の小さな膝に手を置くと、彼はそっと荀彧の頬に手を伸ばす。そうして、どこかちぐはぐな笑みを浮かべた。
「……なので、少しでも“まし”になりたくて、彼の申し出を受けることにしました。好ましい方ですし……交際前提とはいえ……どうするかは未決定ですが、文若殿、ご心配なく」
「……彼は、あなたの涙を止めてくれましたか」
 問いかけが口からこぼれ出て、荀彧は動揺する。それは相手も同じだったようで荀攸は小さく目を見開いたが、もう一度目許をぐいと袖で拭うと、照れくさそうに笑ってみせた。
「いえ、一緒に泣いてくれました」
 ――思いもかけない、言葉が。
「なので、ふたりで泣いて、各々どうにか泣き止んで……ふふ」
 いよいよおかしげに笑い出す荀攸につられて荀彧もへらりと笑う。荀攸の細い指先がそんな荀彧の頬をむにりと撫ぜると、ほのかに蜜柑が香った。


 ◇


「あ」
「あ」
 階段を上る荀彧と階段を下ってくる楽進は鉢合わせ、お互いに声を上げた。荀彧が頭を下げると相手もまた「こんにちは」と明るく挨拶を返してくる。
「……公達殿にお会いしてらしたのですか?」
「へ。あ、そうです! あっ、ですがちゃんとセンターに用事も……あの、不審なものではありません……!」
 唐突に身の潔白を訴えられて、荀彧は思わず笑った。存じ上げていますよ、と答えると、恐縮です、と彼はまた頭を下げる。
「交際されていると伺いました」
「いえ、まだ交際には至っていません! その、私はもちろん、荀攸殿とそういう関係になれたらと、思っていますが」
 顔を真っ赤にしながら楽進は荀彧をまっすぐに見つめてくる。その真摯な態度をして彼は荀彧に、なるほどこういう姿勢が、と思わしめた。
 それ以上特に広げたい話題も見つからず、現在“交際前提の友人関係”にあるからといって甥の許可なしに彼についての情報を吹聴するわけにもいかない荀彧が「では」と言ってその場を辞去しようとしたときだった。
「あの……!」
 楽進が声で引き留めてきて、荀彧は今一度彼を振り返る。首をかしげると、楽進はやはりあの真摯な眼差しで荀彧を見返してくる。しかし彼はそれから続ける言葉を見出せなかったのか、やがて、いえ、と首を振った。
「すみません。お引き留めして恐縮です」
「いいえ。……公達殿のことでしたら、いつかはあなたにもお伝えできるときが来ると思います」
 ぱちりと瞬いた彼に荀彧はにこりと品良く微笑み、改めて一礼するとその場を歩き去った。

 荀彧が姿を見せると、カウンターにいた荀攸が普段の無表情に親しみを込めて僅かに口許を笑ませる。
「こんにちは、文若殿」
「こんにちは。先ほど外で楽進殿と会いましたよ」
 トートバッグから書籍を出して手渡しながら荀彧が言うと、荀攸も眦を細めて、はい、と答える。
「――あの方は、良い青年ですね」
「……文若殿、彼はあなたより年上だと申し上げたと思いますが……」
「あ、」
「ぶふっ」
 虚を突かれて言葉を切る荀彧に、隣のカウンターで作業をしていた賈詡がたまらずといった様子で吹き出す。思わずちらりとそちらを流し見ると彼は、おっと、とわざとらしく口にして両手を顔の脇に挙げた。
「あははあ、失敬失敬」
「……いえ、今のは私も失礼でしたから……」
 苦々しく口にする荀彧の視界で、荀攸が心底から楽しげに笑っている。それを見ながら彼は、こんなふうに、とふと思った。
(少しずつ、“まし”になっていくのだろう、すべてではなくても、いくつかのことが)
 そのことを思うと、己の腹の底に巣食っていた黒い虫たちの動きもやはり少しは“まし”になっていくように感じられて、荀彧もまた二人のように笑みをこぼしたのだった。