三國市海洋水族館の三つに分かれているフロアのうち、派手なパフォーマンスと軽妙な掛け合いで人気の海獣ショーを持ち味にしている呉フロアには、このショーの立役者である孫策という名のカリフォルニアアシカが住んでいます。彼はこの水族館で初めて生まれた第二世代のアシカで、野生出身個体である両親の気質を引き継いでとても元気で豪胆、また飼育スタッフたちからはたいそうかわいがられたために尊大でピーキーな性格に育ちました。
 子供のうちはそれでもよかったのですが――こう言うと古株のスタッフである程普は「よくない」と言いますが――、長じるにつれ普段の健康管理やトレーニングなど、孫策が言うことを聞かずわがままに活動すると困ってしまう場面が増えてきました。飼育スタッフたちは孫策を優しく厳しく指導しますが、彼はなかなか指示を聞いてくれません。気ままに振る舞い、怪我をしてしまったり、飼育スタッフが一瞬目を離した隙に他の生き物たちの餌を食べてしまったりしたこともあります。
 飼育スタッフたちが頭を悩ませていたころ、ひとりの海洋生物学を学ぶ大学生がインターンシップのために三國市海洋水族館にやってきました。彼は名を周瑜といい、利発でよく働く青年でした。
 周瑜はインターンシップ業務のなかで孫策をはじめとするカリフォルニアアシカたちの世話も経験することになったのですが、彼と孫策は初めて出会った日からまるで惹かれ合うように意気投合しました。周瑜の指示ならばよく聞き分ける孫策に、飼育スタッフたちはとても驚き、そして頼もしく思いました。ひとりと一頭のあいだに強い信頼関係が生まれるまでに時間はかからず、孫策はそれまでのように傍若無人に振る舞うことはあまりなくなりました。
 インターン期間を終えた周瑜はそのままアルバイトスタッフとして三國市海洋水族館に勤め始め、大学卒業後に正式な飼育スタッフとして採用されることになりました。そうして、百の芸を披露する天才アシカとして有名になった孫策の相棒として、今日も水族館の名物、海獣ショーを盛り上げているのです。


 ◇


 アシカの孫策には弟と妹がいました。弟は孫権、妹は孫尚香といい、どちらもまだ子供のアシカです。孫権は母アシカから育てられましたが、孫尚香は事情があって人工哺育になったため、とても人懐っこく成長し、まるで在りし日の孫策のような気風を漂わせています。彼女は今はまだ人工哺育スタッフと共にバックヤードで生活しています。
 一方孫権は、他の鰭脚類の幼獣たちと一緒に『鰭脚公園』で暮らしています。あの天才アシカ孫策の弟というだけあり、将来は兄弟でショーをすることもあるのでは? とお客さんたちの間では目されています。
 そんな期待とは裏腹に、孫権はマイペースで少し引っ込み思案なアシカでした。兄や妹ほど好奇心旺盛ではなく、エンリッチメントのためのおもちゃに対しても一週間は遠巻きにして近づかないほど怖がりです。飼育スタッフとのトレーニングには真剣に臨みますが、なかなか指示通りのことができないことも多く、担当である韓当と粘り強く練習する日々を送っています。ですが、お客さんたちから「お兄さんみたいに立派にならないとね」という声をかけられながらトレーニングをしていると、なんだか孫権の頭が垂れて目はしょぼくれ小さな耳たぶがぺたりと下がってしまうような、そういうふうに韓当には見えていたのも事実でした。
 あるとき韓当は考えました。外の世界に出て様々な刺激を体験すれば、“あんなふう”になることも少なくなるんじゃないか?
 そこで韓当は、これまで以上に孫権を展示場の外へ連れ出す『おさんぽ』の回数を増やすために、フロア長である孫堅の了承を取りつけました。今までの『おさんぽ』では呉フロア内の限られた場所までしかひれを運んでいませんでしたが、今後は孫権の気が向くところどこへでも向かいたい所存です。結果として水族館の外に出ることになったとしてもそれはそれで目立てるし、と韓当は考えています。
 早速翌日から新しい孫権の『おさんぽ』が始まりました。給餌用の魚を入れたバケツを提げた韓当が展示場から観覧エリアに出る扉を開けると、孫権はぴょこぴょこと歩いて出てきます。ここまでは毎日のことなので、通りがかったお客さんも楽しそうに小さく歓声を上げてくれました。
 さあ、いつもならばそこで韓当が「じゃあ行きますか」と促して『おさんぽ』ルートへ向かうよう孫権の背中を少しだけ押すのですが、今回はそれがありません。不思議そうに孫権は韓当を見上げました。
「孫権殿、どこに行きたいですか?」
 韓当は訊ねます。孫権はしばらくじっとしていましたが、たっぷり時間を置いた後、ぴょこぴょこと観覧エリアの順路を逆走するように歩き出しました。
(おっとお?)
 驚いたのは韓当です。彼ははじめから孫権が自分の意思でどこかへ向かうことができるだろうとは思っていませんでした。戸惑うそぶりを見せて動く様子がないようなら、最初は韓当が促して、数ヶ月ほどかけて行ける場所や距離を増やし、孫権の“お気に入り”を見つけていくことができればと考えていたのです。
 しかし、生き物が思い通りにならないのは飼育の常。積極性の片鱗も見え始めたのだろう、何かあれば自分がきちんと対処すれば良いのだと韓当はひとつ頷き、孫権の後に続いて歩き始めました。

 三國市海洋水族館は、ロビーから入場ゲートを通過するとフットライトとクラゲの展示水槽が照らす二十メートルのエントランスパッセージを経て、壁面から天井までを覆う巨大な二重回遊水槽フロア『天河走廊』に出ます。そこから地元や国内の固有種などを飼育する水槽が張り巡らされた通路によって順路は三つ叉に分かれており、体の大きな鰭脚類の行動展示が主の魏フロア、ペンギンやカワウソ、爬虫類や両生類など水の周縁の生き物たちを展示する蜀フロア、オットセイやアシカなどのショーパフォーマンスが主の呉フロアの三つに続いています。
 孫権は、自分の暮らす呉フロアからなんと一息に『天河走廊』まで出てきました。普段はここに海獣たちがひれを運ぶことはないだけに、居合わせたお客さんたちは目を丸くして孫権のほうにカメラやモバイルを向けます。
「ああ、カメラのフラッシュにご注意ください。ああ、すみません、『ひれあしタッチ』ではないので、お手を触れないようお願いします」
 水槽からの自然光と床面の灯りだけが照らす『天河走廊』の端っこで立ち止まりきょろきょろと周囲を見回す孫権を見守りながら、韓当はお客さんたちに注意深く声をかけます。ひとりのお客さんが「この子のお名前は?」と訊きました。
「アシカの孫権殿ですよ。オスですがまだ子供なので“こぶ”がないんです」
「あ、孫策くんの弟くんですね! まだちっちゃくてかわいいですね〜」
「ええ、かわいいでしょう、ふふ。あ、孫権殿!」
 韓当とお客さんが話している間に孫権は次の行先を決めたようで歩き始めてしまいました。失礼します、と断って韓当が彼に追いつくと、孫権が向かったのは魏フロアの入り口です。
(だ、大丈夫かあ……?)
 魏フロアで暮らしているのは、トドやセイウチ、オタリアといったアシカよりもはるかに体の大きな鰭脚類たちです。特に呉フロアにはトドやセイウチは暮らしておらず、孫権と一緒に暮らしているオタリアたちもまだ子供で体も小さいため、もしこの先で『おさんぽ』中の個体に会うことがあれば、怖がりの孫権はパニックになってしまうかもしれません。もちろん、ここで飼育されているトドやセイウチたちは物静かで飼育スタッフたちの指示をよく聞く個体ばかりでしたが、魏フロアでもまたアシカの飼育展示が行われていないのは事実でしたから、相手も初めて見るアシカにどういった反応を示すのかは未知数です。
 ですが韓当は、せっかく孫権が自分から動いてくれているのを邪魔することもしたくありませんでした。そこで先ほどよりも孫権に近づいて、何かあったらすぐに彼が逃げられるように万全の準備を整えることにしました。
 平日の昼ということもあり、観覧エリアにお客さんの姿はまばらです。壁に備えつけられたプレートを見る限り、幸い現在はトドフィーディングタイムの終了間際であり、次のイベントであるオタリアの『おさんぽ』まではブランクがあるようでした。腕時計を確認して、オタリアの『おさんぽ』が始まる前にこの場を離れられればそれがいいな、と韓当は当たりをつけます。特にオタリアの飼育担当は魏フロアの副フロア長のひとりであり程普と同じくらい厳しい夏侯惇でしたし、オタリアのうち一頭はいたずら好きと評判の満寵ですから、きっとまだ子供の孫権にちょっかいをかけてくるに違いないのです。
 魏フロアに入ってすぐにはオットセイとゴマフアザラシの混合展示場があります。この時間は給餌後のおひるねだったようで、奥の陸場に小さく重なったまあるい山がふたつ見えるだけでした。孫権はつまらなそうに先へ進みます。
 次がオスのトド二頭が暮らすトド展示水槽です。二階層に分かれていて、上階では陸場と一部水中での行動、そしてスロープを降って向かう下階では水中での行動を観察できる造りになっており、水場と陸場を含めたその広さは水族館随一といってもいいほどです。
 孫権はそんなトド水槽前で立ち止まりました。韓当もその隣に立ち、彼が物珍しそうに視線を送る先を見ます。奥にある岩礁を模した陸場に、魏フロアのフロア長でありトドとセイウチの飼育担当を兼ねる曹操、そして先ごろ新しく飼育スタッフとして採用された賈詡がいました。曹操の前に控えているのは、二頭いるうち比較的毛色が暗く、トドにしてはやけに目つきの鋭い個体です。
「ああ、確か、あちらが于禁だったかなあ。で、あちらが典韋」
 新参である賈詡を吻先で小突きながら魚をもらっている、毛色のやや明るいまあるい目のトドに、韓当は悪いと思いながらも笑ってしまいます。新人のうちは誰だって生き物に振り回されながら、生き物との距離感を掴むために奮励しなければなりません。周瑜と孫策の関係は特別中の特別なのです。
 韓当がそんなことを考えている間に、孫権はガラス傍に置かれた子供用の台座の上にのしのしと上がっていくと、ガラスにぺたりと前肢をついてもたれかかってしまいました。どうやらずいぶんとトドたちに興味津々です。
 そして、そんな展示ガラス前の様子に曹操が気づきました。ヒトの頭と子供のアシカの頭が並んでいる様に彼は目を丸くし、それからすーっと細めて口許を笑ませました。
 曹操が于禁に指示し、于禁は展示ガラス面傍に造られた大きな岩の飛び込み台にひょいひょいと軽やかに登っていきます。そうして、アシカもヒトもぐいと見上げなければならないほど高い岩場の上にトドの巨躯が君臨しました。
 ピィ、と甲高く、分厚いガラスを隔てても聞こえるほどのホイッスルの音が鳴りました。その瞬間、空を背に于禁が水面に向かってその巨躯を踊らせました。
 ドオン! とけたたましい音と共に、激しく水飛沫が上がり水面が波打ちます。ガラスにびしびしと打ちつける水滴と水面の向こう、深い水の底から于禁が鋭く孫権を睨むように泳ぎ来たかと思うと、ぐわんと体を翻して陸場まで去っていきました。
「!!」
 孫権が台座からなだれるように転げ落ち、驚いたのか、ひとつ声を上げました。
「そっ孫権殿ー!? 大丈夫ですか!?」
 慌てて韓当は傍らに屈み込み孫権を撫でさすります。アシカ科の生き物たちはみんな体が柔らかいですし、今の于禁のように力強く水面に飛び込むこともありますので高いところから落ちることに関しては大したことではありませんが、それよりも今の曹操の指示と于禁の行動は、まるで子供のアシカを怖がらせるようではありませんか。
「なっ、なんてことするんだ、曹操! ひどいじゃないか……!」
 むくむくと怒りが湧いてきた韓当は、展示場にいる曹操に向かって「こら!」と口をぱくぱく動かしました。それを見た曹操はおかしそうに笑いながら、于禁に向かってガラスを指さします。するとまた于禁が水に入り、すいーっとひとりと一頭の傍まで泳いできました。孫権を庇おうとした韓当でしたが、するりとその手をすり抜けて孫権は再び、今度はあわあわと焦りながら不器用に台座を登ったのでした。
 ガラスを隔てて孫権は于禁と向かい合います。ぺったりと前肢で寄りかかり、吻先をガラスに熱心にくっつけて、その表情は真剣そのもの。
 ピィ、とまたホイッスルが鳴り、于禁がゆっくりとガラス面を離れたときでした。
「アゥ!」
 孫権が強く鳴きました。その声が聞こえたのか、于禁はぐるりと首を巡らし孫権に視線を向けましたが、止まらずに泳ぎ去ってしまいます。
「アオッ!」
 もう一度孫権は鳴きましたが、今度はもう陸場に上がってしまった于禁には聞こえなかったみたいでした。曹操の手ずから最後の魚をもらい、給餌終了のハンドサインと共に、于禁は岩場の陰に拠って一息つくようです。
 孫権が吻がつぶれるほど食い入るようにガラスの向こうを見つめていると、曹操が展示場と観覧エリアをつなぐ扉から出てきました。すかさず韓当は彼に詰め寄ります。
「曹操! さっきのは何だー! うちの孫権殿を驚かせやがって!」
「ふはは、珍客だったゆえ、つい、な。おぬしらこそ何をしておるのだ」
 曹操は韓当と孫権を交互に見ます。『おさんぽ』だ、と韓当が言うと、曹操は片眉を上げました。
「ほう。大型鰭脚類の住処に足を踏み入れる勇敢さは認めよう。どうだ、孫権よ」
 ヒトの会話など素知らぬ顔の孫権に曹操は声をかけます。孫権は自分の名前がわかっているので、呼ばれてきょろりと目線だけを曹操に向けました。
「わしのトドたちは美しかろう? この後セイウチの給餌もあるが、見ていくか?」
 孫権はぷいとそっぽを向いて、またガラスの向こうに熱視線を送り始めました。
「ふむ、つれない男よ」
「ははは。ざまあみろだ」
「また今度、だな」
 そうして曹操は韓当の肩を軽く叩くとトド展示場内に戻っていきました。
 それからしばらく孫権はじっとして動きませんでした。ガラスのずっと向こうの陸場では、トドの于禁がすっかりおひるねの体勢です。少し離れたところでは相変わらず賈詡とトドの典韋がやり合っていて、その横で曹操が何か口を挟んでいるようでした。
 韓当は腕時計に目を落としました。もうすぐオタリアの『おさんぽ』の時間が始まってしまいます。
「孫権殿、そろそろ帰りませんかね」
 首許を優しく叩いて促しますが、孫権は微動だにしません。韓当はどうしたものかと頭をかきました。この様子は好奇心というより、なんだかご執心に近いように思えます。それほどトドのダイブが珍しかったのでしょうか?
「孫権殿〜、早くしないと……」
 韓当が言いかけたときでした。
「韓当、ここで何をしている」
「ガォッ!!」
 強い鳴き声に振り返ると、魏フロアの副フロア長である夏侯惇が二頭のオタリアを引き連れて歩いてくるところでした。毛並みがツヤツヤの一頭が徐晃で、毛並みがぼさぼさの一頭がくだんの満寵です。もう一頭、毛質がややくるくるしている李典というオタリアもいますが、彼は別の曜日にオットセイの楽進との『おさんぽ』を控えているので今日はお留守番のようです。
 さて、一声大きく鳴いたのはやはりというか、満寵のほうでした。
「ん? その幼獣は孫権か」
「あ、ああ……」
 そろりそろりと韓当が後ずさると、いかにも黒い目をきらきらさせて「なんか変なの見つけた!」と言いたげな満寵が、のしのしとすごいスピードで近寄ってきました。アシカ科の仲間たちは前肢と後肢の両方を移動に使えるので、ああ見えて陸上でも意外と動きが速いのです。
「ガウアゥッ!」
「ウェエ〜〜ッ!!」
 満寵の嬉々とした大きな鳴き声に驚いた孫権はまたしても台座から転げ落ち、今度はすさまじい勢いでトド水槽前から逃げ出しました。
「こら、満寵!」
「すっすまん夏侯惇、俺たちはもう行くからな!」
「い、いやこちらこそすまん……?」
 珍しい夏侯惇からの謝罪を背に、韓当は一目散に逃げる孫権を追います。『天河走廊』でやっと彼を捕まえると、すっかり怯えきった孫権は両の前肢と顎を使って韓当の足に一所懸命抱きついて離れなくなってしまいました。韓当は彼の小さな頭を撫でてあげます。
「怖かったですな。びっくりしましたなあ。もう大丈夫ですから、帰りますか」
 韓当は気合を入れて孫権を引っ剥がすと、その背を押して、ときには餌のイカで釣って帰路を歩かせました。はじめての遠距離の『おさんぽ』であることを考慮して、大好物のイカを奮発していたのです。
 努力の甲斐あり、孫権はなんとか自分の住処である『鰭脚公園』に戻ってこれましたが、展示場内にとぼとぼと帰っていく背中はそれはそれは落胆したものでした。一緒に暮らしている友達のオットセイ、朱然が孫権の帰宅に駆け寄るのにもろくに反応していません。
(これは、しばらく無理かもなあ……)
 韓当は自分が大失敗をしてしまったと思いました。あんなに恐ろしい目に遭っては、孫権は通常の『おさんぽ』さえ当分は嫌がるかもしれません。こんなはずではなかったのに、あのときああしていれば、と後悔の念が押し寄せますが、それでもその大半は孫権自身の意思で起こした事象です。野生下のアシカに起こる出来事は、そういう――ときには命の危険に関わるほどの――刺激の繰り返しなのです。飼育下にいる孫権が自分の意思で行えることは、実はそう多くはありません。
(元気になったら、またいろんなところに行くだろ。孫権殿ならきっと大丈夫だ)
 韓当はそう自分を納得させ、遠くの陸場でしょぼくれる孫権の小さな頭に手を振って、『鰭脚公園』を離れました。

 二〇■■年■月■日、記:韓当。
 【カリフォルニアアシカ】孫権、初めての遠方へのおさんぽ。自分の意思で魏フロアに向かうも、トド水槽観覧中にオタリアのおさんぽに遭遇し、驚いて逃走。帰路、意気消沈した様子だったが餌は完食。しばらくおさんぽは様子見かもしれない。


 ◇


 翌日、朝の餌づくりを終えた韓当が清掃のためにバックヤードから『鰭脚公園』に入ると、普段孫権と朱然が休眠をとる岩場に二頭の姿がありませんでした。驚いた彼が周囲を見回すと、
「オゥッ」
という声が聞こえます。毎朝、孫権が韓当に対して発する鳴き声です。韓当はこれを「おはよう」だと解釈しています。
 声のするほうを見るとガラス面、観覧エリアに出る扉の前に孫権と朱然がいました。孫権はしきりにドアノブに吻を寄せようと首を伸ばしていますが、朱然はまだ眠たそうに目をとろんとさせて、孫権の背中に顎を乗せています。
「孫権殿、おはようございます。朱然も起きろよー。孫権殿、『おさんぽ』はまだですよ」
 内心慌てながら韓当が二頭に歩み寄ると、孫権は小首を傾げて彼をじっと見上げてきました。
「……そんな目で見てもまだなんです!」
 誘惑を振り切り、韓当はデッキブラシとホースを掴みます。清掃を始めた音にようやく目の覚めたらしい朱然が、デッキブラシを相手に戦いを挑んできました。彼に応戦しながら韓当はぼんやり思います。
(平気なんだなあ……)
 韓当は孫権のことを、“孫策と違って”臆病なアシカなのだと思っていました。実際彼はときどきそうした態度を見せていましたので、必ずしも間違いではないのでしょう。
 それでも、ときにはヒトの想像を超えて、勇敢で大胆だったり、慎重で繊細だったりする振る舞いをします。昨日まで怯えていても今日は平気だったり、昨日まで平気だったのに今日はだめになってしまったというようなことは、何もアシカの孫権に限ったことではなく生き物を飼育するうえでは本当によくあることです。
 韓当はそのことを失念していた己を少しばかり気恥ずかしく思いました。そうして、今日の『おさんぽ』はきっと昨日より楽しくなるだろうと思いました。韓当はこの三國市海洋水族館に勤めるスタッフのなかでは古株ですが、そんな彼でも一歳と少しのアシカによって新しい世界を見せてもらうことがあるのです。

 さあ、いよいよ午前のフィーディングタイムと『おさんぽ』の時間。「待ち兼ねたぞ!」と言わんばかりに、扉の鍵を開ける己の傍にぴったりくっついてくる孫権に韓当は苦笑いです。
 扉が開くやいなや足の間を通ってぐいっと飛び出す孫権に韓当は慌てて鍵を閉め、彼の後ろを追いました。まるで飛ぶように駆けていくその背はお客さんたちに脇目も振らずまっすぐに魏フロアに向かっていきます。
(お、おいおい、本気か?)
 昨日はあんなに怯えていたにも関わらず、孫権はぴょうと魏フロアの入り口通路までやってきました。そこで立ち止まって中を覗き込むような仕草をしているのは、恐らくまたあの面白がりのオタリアがいないかどうか確かめているのでしょう。幸い韓当は今日のイベントにオタリアの『おさんぽ』がないことを知っていますので、孫権の小さな頭を撫ぜて「大丈夫ですよ」と声をかけてあげます。そうすると孫権は安堵した様子で韓当の手のひらに吻を寄せ、またたったかと走り出しました。
 辿り着いたのはトド展示水槽です。展示場内にはまだ飼育スタッフの姿はなく、二頭のトドたちは思い思いに水中を泳いでいるようでした。
 孫権はぴょんと台座に乗り上げ、ガラスに吻をくっつけてトドたちを見つめています。孫権と韓当の姿に気がついたトドの典韋がガラス面に寄ってきました。
「オゥ」
 孫権が一声鳴くと、典韋も「グァ!」と鳴いて底に沈んでいる于禁のほうへ去っていきます。韓当が見下ろす視野で二頭は吻をくっつけ合い、于禁の目線がちろりとガラス面を向きました。
「オゥッ!」
 孫権が再び、今度はいっそう力強くは鳴きます。于禁はしばらく水底をゆったり泳いでいましたが、典韋に吻先で首許をつつかれ、ようやく水面まで上がってきました。
 鋭い目つきでトドの于禁はじろりと孫権を睨みつけます――少なくとも、韓当にはそう見えました。そうして、数秒も留まらずに奥の陸場近くまで泳いでいってしまいました。
「ァゥ〜……」
 どこからしぼり出したんだ、と韓当が思うような弱々しい鳴き声が孫権の口から発せられます。小さな頭ががくりと垂れ下がりましたが、すぐに彼は顔を上げると、また熱心に于禁の泳ぐのを見つめるのでした。
 ここに至っては韓当も悟らざるを得ません。どうやら孫権はあのトドの于禁を気に入ったようです。一番最初に曹操と組んで――という言い方は于禁に対して少々意地悪ですが――孫権を驚かせた相手だというのに、ずいぶんな入れ込みようです。
 どうして? と考えることは、この場においては無意味なものかもしれません。まったく不思議なことが生き物の世界にはたくさんあふれているのです。
 孫権はそれから台座を降りて、トド水槽前を右に左にうろうろしていました。これは于禁の泳ぎと連動していましたので、韓当と一緒にときどき通りがかるお客さんたちもおかしくて笑ってしまいました。
 そのうち『おさんぽ』の時間も終わりが近づき、さすがに生き物の都合ばかりではなく担当飼育スタッフの都合も聞き入れてもらわなければならない段階に来ました。「俺もしなくちゃいけないことがあるんです」と必死に訴える韓当に対してもしばらく動くのを渋る様子を見せていた孫権でしたが、そこでガラス面近くまで泳いできた于禁が「ヴァ」と鳴いてひと睨みすると、名残惜しそうに帰路に着き始めたのには何度目かわからないほど驚かされました。于禁は「自分の住処に帰れ」と孫権を諭してくれたのでしょうか? そうなら韓当にとってこれほど頼もしいことはありません。
 韓当はせっせと孫権に魚を与えながらなんとか『鰭脚公園』まで帰ってきました。出迎える朱然と吻先でタッチし合いながら孫権は韓当を振り返ります。この後は少しのトレーニングを済ませて、各々の仕事に戻ります。そして、孫権は実に元気にトレーニングをこなしてくれました。

 翌日も、その次の日も、韓当が休みで別の飼育スタッフが担当する日も、孫権は『おさんぽ』で観覧エリアに出ると魏フロアのトド展示水槽前に出向きました。そのうち水族館の広報スタッフである夏侯淵が「ブログとSNSに載せたいから」と言って何枚か写真を撮っていきましたが、
「そっぽ向くわ動き回るわで向いてねえな〜。ま、うちの連中はそういうとこがいいんだけどな」
とケラケラ笑いながら事務所に戻って行ったので、もしかしたら大した反応はもらえないかもしれません。
 孫権はそんなことなど知る由もなく熱心に于禁を見つめています。于禁は――韓当の目から見て――少し迷惑そうにしながら、彼の普段通りを過ごしています。
 ガラス面にぺったりと前肢でもたれかかり、その向こうを見つめたままじっとして動かない孫権の隣に韓当も腰を下ろします。まだ小さく幼い横顔に目を向け、韓当は言いました。
「孫権殿、俺はですな、命の価値っていうのはなにも、何か立派なことや世間の役に立つことができるかどうかで決まるもんじゃないと思ってます」
 ぽつりとこぼされた言葉にもまるで孫権は興味を示しません。
「とびきりかわいかったり、芸達者だったり、共感を得られて、人間の暇を潰せるような……そういうののほうが目立って、もてはやされますけどね。そんなのなくても、あなたがあなたなら……」
「オゥッ!」
 韓当の言葉を遮るように孫権が鳴きました。瞬間、ガラス面の前を于禁の巨躯がぐわりと勢いをつけて泳ぎ過ぎます。その背を追いかけて孫権はたったか走って韓当の傍から離れていきました。
 韓当は苦笑して、ゆっくり立ち上がります。
「そんなこと、あなたには関係なかったですなあ」
 バケツを提げて韓当も歩き出します。そろそろ『おさんぽ』の終わりの時間です。また明日も孫権はきっとまたここを訪れるのですから、今日のところは勘弁してもらわなければなりません。
「ほら、孫権殿」
 そうして韓当が帰宅を促そうとするとたいていガラス面には于禁が近寄ってきて、一声鳴き孫権をひと睨みして去っていくのが日常になりました。そうするとひょい、と孫権は片方の前肢を上げた後、ぴょこぴょこと帰路に着くのです。韓当も于禁に手を振り彼の後ろに続きます。そのころにはもう于禁はひとりと一頭に背を向けて奥の陸場に向かっていました。
「孫権殿、たまには別のところに向かってみるのも楽しいと思いますよ」
 韓当は孫権に声をかけますがもちろん返事はありません。
「蜀のカワウソとかペンギンもかわいいと思うんだがなあ」
 我関せずの孫権は振り返り、ぐいと首を伸ばしてきました。『天河走廊』の隅っこで少しだけ給餌の時間です。韓当のハンドサインにポーズを返す孫権の様子をお客さんたちが楽しげに見ています。
「……あ、于禁と一緒なら行きますか?」
 思いつきだった韓当の発言に孫権はすぐに反応し、太もものところに吻先をくっつけてきました。さらには噛もうとするので、韓当はおかしくなって笑いながら彼に手のひらを差し出して制します。孫権は素直に吻先でタッチしてくれました。
 なんだか、アイデアがたくさん浮かんできます。いろんなことを孫権としてみたい、と韓当は思いました。新しいことをたくさん経験してほしい、飼育下でもせめて豊かな生活であってほしい。そしてもしそれを孫権が喜んでくれるなら、これほど素晴らしいことはありません。
 韓当はひとつ頷き、また孫権に帰宅を促しました。孫権も彼の横についてたったか歩きます。それはまるで向かう先に何か楽しいことが待っているかのような、うきうきした“ひれあし取り”でした。