「絶対にだめです」
 三國市海洋水族館に勤める飼育スタッフの荀彧は、常になく厳しい態度でぴしゃりと言い切りました。彼の様子にその場にいる誰もが困惑しています。
「でもなあ……孫権殿だって、いっしょけんめ帽子を被ってマントをつける練習してきたんだぞ」
「マントではなくケープだ」
「細かい……」
 程普の横槍に韓当は肩を竦めます。劉備は「マントとケープは何が違うのだろう」と思いましたが、隣にいる関羽や張飛に尋ねられるような空気ではありませんでした。

 もうすぐ十月がやってきます。十月といえば? そう、ハロウィンです。
(え? 末日じゃないかって? いいのです)
 ここ三國市海洋水族館でも十月になると毎年ハロウィンイベントを開催してきましたが、今年はもう少しだけ規模を大きくしようという話になりました。そこで館内を“ハロウィンっぽい”装飾で飾りつけたり、魚たちの水槽に“ハロウィンっぽい”オブジェを入れたりするだけではなく、生き物たちにも協力してもらって、もっともっとこのハロウィンイベント期間を賑やかにしようということに決定したのです。

●決定事項
・館内全体(展示水槽、スーベニアショップ、カフェ)ハロウィン用の特別装飾
・夜間開館の実施、特別イベント『怪異夜話』の開催
・スタッフの制服の胸許に各種ハロウィンをモチーフにしたバッジを装着
・ゲストの仮装入場許可及びハロウィンフォトコンテストの開催
・蜀フロア、ユーラシアカワウソたちの展示水槽にかぼちゃランタンを飾り、植栽を装飾する
・蜀フロア、ペンギンたちのタグをハロウィン用にアレンジする
・魏フロア、オタリアたちの展示水槽に様々なハロウィングッズを入れる
・魏フロア、セイウチ許褚に吸血鬼ドラキュラ風マントを着せて行う『ハロウィンスペシャル写真タイム』
・呉フロア、カリフォルニアアシカ孫権に小さな魔法使いの帽子とケープを着せて行う『ハロウィンスペシャルおさんぽ』
・呉フロア、アシカショーにおけるスタッフの仮装、スペシャルプログラムの実施
・スーベニアショップ、ハロウィン特別グッズの販売、またスタッフの仮装
・カフェ「蒼天」、ハロウィンオリジナルメニューの提供、スペシャルポストカードの配布
●未決事項
・魏フロア、オットセイ・ゴマフアザラシ展示水槽内ケルププールのかぼちゃランタンによるライトアップ、及びオットセイ楽進、ゴマフアザラシ荀攸のかぼちゃランタンとのフォトサービス

「アシカはそもそも好奇心旺盛です。それに孫権殿は于禁殿をだしにすればたいていのことはしてくれるではありませんか」
「うっ……それはその通り」
 そうなのです。今回の『ハロウィンスペシャルおさんぽ』のために孫権と一緒に行った仮装トレーニングも、韓当は孫権に対して散々「すごく格好いいですよ!」「于禁殿も格好いいって!」「惚れ直すって言ってます!」と煽りに煽って調子に乗らせた結果の成功でした。言うまでもないことですがトドの于禁は一言も韓当の言うようなことを口にしていませんし、そもそも韓当はその時点で于禁と会話してすらいません。会話したところで于禁の言うことを理解できるかどうかというのもありますが(何せ于禁はガウガウとしか言いませんから)
「我が蜀の兄妹たちは時折外に出ておりますぞ」
 そこで助け舟を出すように関羽が口を挟みます。荀彧はちらりと涼やかに彼を見ました。
「ほとんどユーラシアカワウソ水槽前でお昼寝して帰るくらいですよね」
「……よくご存知ですな……」
「メディアが入っていたでしょう」
 関羽は大きな体を縮こまらせます。荀彧の指摘する通り、蜀フロアに暮らすゴマフアザラシの関興、関索、関銀屏の三兄妹はユーラシアカワウソの関平が大好きでしたので、展示水槽の外に出れば毎度ユーラシアカワウソ水槽前で三頭固まってまったりとした時間を過ごしているのです。その様子がSNSで話題となり、オンラインの動画配信メディアが撮影に来たこともありました。
 返り討ちにあった関羽を見かねた夏侯惇が腕を組みつつ、「しかし」と声を上げました。
「あまり箱入りにさせておくのもどうかと思うがな。外に出すにしろ、中に入れるにしろ……」
「その結果、満寵殿に後肢を噛まれてしまったのですが」
「いや、もう……その節は本当にすまん」
 過去の失態――もちろんオタリアの満寵に悪気はありませんでしたし甘噛みでしたが――を持ち出され、ついに夏侯惇も恐縮して引き下がりました。普段それほど彼と仲の良くない関羽ですら、さすがに同情の視線を送ります。“こう”なってしまった荀彧は、頭の回転の速さ、口の巧さ、頑なさも相まって――曹操が“マジ”にならない限りは――ほとんど無敵です。
「はっは、まあ、決まっていることは順次先に進めよう。何もそっちの展示水槽を装飾しないわけではないんだ。賑やかにはなるさ」
 事の成り行きを見守っていた孫堅がその場をまとめるように言い、「然り」と曹操も答えます。「それがいいですね」と劉備も賛意を示したことで、今回のハロウィンイベント企画会議の場は一時散会となりました。


 ◇


 鰭脚類アザラシ科は、北半球から南半球まで、特に海水温の低い地域を中心に世界各地の沿岸部に生息しています。一部の種を除いて基本的には単独行動の生き物であり、全般的な授乳期間の極端な短さが特徴です――なんと一番短いズキンアザラシはたったの四日で離乳します。
 餌を得るためや天敵から逃げるためなどの理由が考えられますが、視覚、聴覚、嗅覚といった感覚器官に優れ、またその丸々とした美しい流線型のフォルムは鰭脚類のなかでも特に泳ぎに適しています。どことなくぽやっとしているように見えなくもありませんが、少しの変化も厭う個体が珍しくないなど非常に神経質で警戒心の強いところが、アザラシ科によく見られる性格です。
 大陸東部に於いては渤海や黄海周辺にゴマフアザラシのコロニーがあることが知られていました。現在、三國市海洋水族館の魏フロアで暮らすゴマフアザラシの荀攸は、恐らくその辺りから遭難して沿岸南部に流れ着いたのであろうと推測されています。
 保護した時点で体中が傷つき骨の輪郭が皮から浮き出て見えるほど痩せ細っていた荀攸を世話したのが荀彧でした。点滴や水分補給を行い、チューブで魚のミンチとミルクを混ぜた流動食を与えたり、毎晩水族館に泊まって眠る彼の傍に寄り添ったり……献身の甲斐あり荀攸は元気を取り戻しゴマフアザラシらしく体も丸みを帯びていきましたが、様々な理由で野生に返すことができませんでした。そこで、すでに個体がその存在に慣れているであろうことを理由に、荀彧が本格的に荀攸の飼育を担当することに決まりました。
 荀彧はすっかり荀攸に愛着が湧いていました。その結果、“泣く子も黙る盲夏侯”も黙る、親ばかならぬ立派な飼育員ばかに成長してしまったのです。

「ああ、オットセイとの混合展示を最後まで渋っていたのもあれだったな」
 散会となりスタッフたちが辞去したカンファレンスルームに残っていた孫堅が言うと、曹操が頷きます。劉備も困ったように笑って、「今となっては素晴らしい展示方法なのですが……」と言葉を濁しました。先日から始まった、オットセイ楽進とゴマフアザラシ荀攸という異なる二種の鰭脚類の協力を得て行う、オットセイの属するアシカ科とアザラシ科の違いをお客さんに知ってもらう企画『ひれあし学びタイム』は、大人から子供まで幅広い年代が楽しく参加できるイベントになっています。
「おぬしら、見たことはないか。あやつのデスクトップの壁紙は楽進と荀攸のキスシーンよ」
「あはは、そうなんですか」
「どうせ蓋を開けてみたら『かわいい』しか出て来ぬのだから初めから受け入れてしまえばいいものを、変なところで意固地なのだ、あやつは」
 腰に手を当てて呆れたふうな様子の曹操に、まあなあ、と同意を示す孫堅の横で、劉備は顎に手を当てています。彼にはひとつ案があるようでした。
「海外のハロウィンイベントでのアザラシたちの様子をさりげなく見せてやったらどうでしょうか。気が変わる……というか、後押しになるかも」
「ほう」
 彼の提案に感心した曹操が「それでいこう」と計画に乗り、かくしてここに『荀彧への“アザラシとかぼちゃの組み合わせはかわいいぞ”アピール大作戦』が決行されることになったのでした。


 ◇


「あ、荀彧殿」
 荀彧が昼休憩でスーベニアショップに顔を出すと、ショップスタッフであり友人でもある郭嘉が彼を出迎えました。同じくスタッフである小喬、夏侯姫と共に、三人でカウンターの向こうにあるテーブルで面突き合わせて何かしている様子です。
「お忙しい様子ですね」
「そうだね、荀彧殿の手も借りたいかな」
「おいでよー」
 小喬に手招かれ荀彧がカウンターのなかに入ると、見て見て、と彼女がタブレットを差し出してきます。
「どれもかわいくて迷っちゃうんだ~! 荀彧様はどれがいーと思う?」
 見れば、画面には多種多様なハロウィングッズが並んでいました。どうやらイベント期間中にショップに搬入するグッズを選定しているようです。
 荀彧の目はすぐさま、灰色の毛でまろやかな造形に作られたアザラシのぬいぐるみを捉えました。頭のうえに同じように丸みを帯びたオレンジ色の顔付きかぼちゃが載っています。
 それはとてもかわいらしいぬいぐるみでした。
「…………」
「あ、やっぱり荀彧様はアザラシだよね」
「ぅあっ、いえ、そうですね。館内にいる生き物ですから……」
「ねーなんでアシカのぬいぐるみって種類が少ないのかなあ?」
 小喬の話がぽーんと飛んで、郭嘉と夏侯姫が苦笑します。
「あ、アシカさんたちは体がスマートなので……ぬいぐるみって難しいのかも、です」
「そっか~。カッコいいのも考えものだよね」
 小喬はそこでカウンター前にお客さんが来たことに気づいて立ち上がりました。夏侯姫がちらりと郭嘉を見、郭嘉はさっとテーブルのうえに置いていた自身のモバイルを手に取ります。
「搬入するグッズでディスプレイも決めないといけないしね。荀彧殿は海外の水族館や動物園のSNSは見てるかな」
「え、ええ、少しずつですが……」
「ほら、見てごらん。去年のやつ。かわいいよね」
 そう言って郭嘉が荀彧に見せたのは、アメリカ合衆国にある某動物園の公式SNSアカウントに投稿されていた、動物たちがかぼちゃを“やっつける”短い動画でした。ゾウが巨大かぼちゃを粉々に踏み潰し、カピバラが皮ごとばりばり食べ、トラが積み上げられたかぼちゃタワーをその爪で勢いよく薙ぎ倒します。
 そのなかに、北米大陸の沿岸でよく見るアザラシの種族、ゼニガタアザラシの姿もありました。展示場に置かれたかぼちゃを吻先でつんとつついたり、前肢で引っ掻いたりしている様子です。
「…………」
「今年はこういう動画も撮ってSNSや動画サイトに載せたいんだよね。いろいろ発信してると結構みんな生き物のこと覚えててくれるようになってさ」
「…………名案ですね」
「でしょう? ぜひ荀攸殿と楽進殿の動画も撮りたいな」
「…………検討します。では、私はこれで」
 立ち上がり、カウンターを出て行く荀彧に「午後もがんばってね」と声をかけた郭嘉でしたが、姿が見えなくなると夏侯姫、そして接客を終えて戻ってきた小喬と目を見合わせ、ため息をつきました。
「ど、どうなんでしょう? 今のは……」
「うーん……私にも判別がつき兼ねるかな……」
 そうです。彼らは『荀彧への“アザラシとかぼちゃの組み合わせはかわいいぞ”アピール大作戦』の仕掛け人でした。しかしどうやら手応えはいまいち感じられていないようです。
「でもー、なんでやだのかな? 見たくないわけじゃないんでしょ?」
「大方『荀攸殿の嫌がることはしたくない』というところだろうね。でも知ってる? 彼のモバイルの壁紙、荀攸殿と楽進殿のキスシーンなんだよ」
 郭嘉が言うと、小喬と夏侯姫はおかしげに笑います。
「それだって彼は最初反発してたのにね。どんなに渋ったところで結局『かわいい』には勝てないんだから、やるだけやってみたらいいんだけど……」
 変なところで意固地なんだから、とどこかで誰かが言ったようなことを郭嘉が言い、改めて素敵なハロウィングッズを探すために三人はタブレットに向き直るのでした。


 ◇


 午後の魏フロア、オットセイ・ゴマフアザラシ混合展示水槽のフィーディングタイムです。オットセイ楽進の飼育担当スタッフである曹休と共に展示水槽に入った荀彧は、プール際で並んで待っていた荀攸と楽進の姿に目を細めました。
「公達殿。お魚食べましょっか」
「よーし、楽進! 今日もトレーニングだ!」
 曹休と楽進がガラス面の向こうにいるお客さんたちに手を振ってアピールします。荀彧も荀攸にお手振りのハンドサインを送りますと、まんまるなアザラシの体の脇についている小ぶりな前肢がぱたぱたと上下に動きました。
「……はあ、かわいい……」
「それじゃあ荀彧殿、俺たちは始めるぞ」
「ええ、お願いします」
「楽進! プール!」
 曹休が指先でケルププールを示し、楽進が勢いよく水中に滑り込みます。そうして水中を飛んだり跳ねたり、茂ったケルプの隙間を縫うように泳いだり、陸場を走り回ったりの賑やかなフィーディングタイムが始まりました。
 曹休と楽進がお客さん向けにパフォーマンスをしている横でのんびり給餌をするのがアザラシ組の日常でした。これも“ギャップがかわいい”とお客さんたちにはそこそこ評判なのだそうです。郭嘉が言っていたことなので、荀彧が直接聞いたわけではありませんが。
 もちろん健康管理や馴致の一環でゴマフアザラシもトレーニングは行っており、ハンドサインに対応した水中からのジャンプなど多少のパフォーマンスであれば荀攸にもできます。ですがマイペースなところもある彼なので、荀彧も無理強いはしません。
「公達殿。べー」
 それに荀攸は、ハンドサインではなく声だけでもリアクションをしてくれるのです。ぺろりとピンク色の舌を出した彼に、荀彧はほうと嘆息しました。
「かわいいです、公達殿……」
 うっとりと呟く様子に、いつの間にか近くに来ていた曹休が笑います。
「荀彧殿は本当に荀攸殿が好きなんだな」
「ええ、もちろんです」
「でも今は楽進とちゅーだ!」
 少し茶色い毛足のオットセイがぴょこぴょこ駆け寄ってきて、吻先をゴマフアザラシに寄せます。二頭の吻先がくっついて、荀彧はやはり深くため息をつきました。
「かわいい……」
「よし! 楽進、荀攸殿も、かわいいぞ」
 そうして楽進が曹休の放り投げる魚をばくぱく食べていると、ガラス面の向こうに大きなオタリアが夏侯惇に伴われて現れました。くるくるした毛足の李典です。楽進を『おさんぽ』のお迎えに来たのです。
「荀彧殿、俺たちは『おさんぽ』してくる。こちらはよろしく頼む」
「はい、いってらっしゃい。公達殿も楽進殿に、いってらっしゃーい」
 ぱたぱたと前肢を振って荀攸は楽進を見送ります。そうしてひとりと一頭が展示水槽を後にし、荀彧はその場に正座しました。
「公達殿」
 両腕を拡げれば抱っこの合図です。もいんもいんと這って膝に乗り上げてきたまんまるボディを抱きしめて、荀彧はやっぱりため息。荀攸の顔が肩に触れる重みを感じて、いつもは嬉しいのに、少し切ないのです。

 荀彧だって、かぼちゃランタンと荀攸が並んでいるところを見たいに決まっています。前肢でかぼちゃを抱っこしたり、ランタンのオレンジ色の光が照らすケルプの森を自在に泳いだりする荀攸の姿は、かわいらしい、美しいなどという言葉では言い表せないほど素晴らしい光景でしょう。きっと荀彧が荀攸のために購入した一眼レフカメラが大活躍するはずです。
 だけど、荀彧には忘れられないことがあります。荀攸が本格的に三國市海洋水族館の飼育動物として飼育展示されることに決まり、少しのバックヤード生活を経て、今の水槽に一頭で初めてお引っ越しをした日――荀攸一頭ではつまらないだろうと考えた荀彧が、“よかれと思って”ブイや輪っかなどたくさんのおもちゃを陸場に置いてあげた日の翌朝、展示水槽に清掃のために入った荀彧が見たのは、陸場の隅っこでおもちゃの群れを睨んだままぴくりとも動かない荀攸の姿でした。それから一週間近く、バックヤードで生活していたころは順調だった給餌を拒絶される日が続き、荀彧自身もそのことが心配で眠れない日々を過ごして、ようやく少しずつ魚を口にしてくれるようになった日、彼は決めたのです。二度と荀攸が怖がったり嫌がったりするようなことはしないと。
 だから、どんなに自分が見たかったとしても、かぼちゃランタンなんてもってのほかなのです。

 楽進と曹休が『おさんぽ』を終えて展示水槽に帰ってきました。たったか元気に走ってくる彼を荀攸はキスで出迎えます。そうして、オットセイ・ゴマフアザラシ混合展示水槽のフィーディングタイムは終了しました。
 展示水槽を出てバックヤードに戻りながら、曹休が荀彧に「聞いたぞ。ハロウィンイベントの展示を渋っているそうだな?」と訊ねました。人聞きが悪いなと思いながらも荀彧が頷きますと、曹休は心配そうな表情になります。
「何が不安なのだろう? よければ俺に聞かせてほしい。共に同じ水槽を担当しているんだ。頼ってもらえると嬉しいのだが……」
 彼はとても実直で気の良い青年でしたので、その言葉を聞いて荀彧も苦笑を返しました。
「かぼちゃランタンなんて入ったら公達殿がびっくりしてしまいますので」
「なるほど……だが、楽進と一緒に少しずつ慣れていけばいいんじゃないか? 今からならまだ間に合うと思うぞ!」
「……そうですね……」
 そうこうしているうちに二人は調餌場に着きましたので、めいめい次の作業に入らなければなりませんでした。荀彧は曹休に「検討してみますね」と伝え、その場を辞去しました。
 入れ違いに魏フロアの副獣医である曹丕が調餌場に現れ、曹休は嬉しくなって彼に駆け寄りました。二人はこれから生き物の採血練習のための打ち合わせをする約束をしていたのです。
「子桓殿! お早いですね。今準備します!」
「いや、私が早く来すぎただけだ。ゆっくりでいい。今荀彧が出て行ったが、かぼちゃとアザラシの様子は見せたのか?」
「かぼちゃ? 何の話でしょうか?」
「何の……ああ、なるほど。いや、何でもない」
「えっ? 気になります、子桓殿!」
 寄ってくる曹休の頭を撫ぜ回し、曹丕はかれをいなしました。
 そうです、曹休は『荀彧への“アザラシとかぼちゃの組み合わせはかわいいぞ”アピール大作戦』の一味ではありません。彼はとても素直で嘘がつけない性格でしたので、余計なことを吹き込むよりも「同僚の荀彧に困りごとがある」と伝えるだけで、彼自身の善良さによって行動してくれることを期待されたのです。
 さあ、はたしてそれはうまくいったのでしょうか? お話はもう少しだけ続きます。


 ◇


 翌日、荀彧が館外の見回りのために『天河走廊』に出ると、ちょうど蜀フロアから出てきた関羽と鉢合わせました。「おや」と荀彧が目を丸くし、「おお」と関羽も驚きます。彼の足許にはゴマフアザラシの関索がおり、その背中にはコツメカワウソの鮑三娘がちょこんと伏せています――蜀フロアのゴマフアザラシ三兄妹はみんな見た目にはそっくりでしたが(もちろん、それでも見分けられる特徴がちゃあんとあります)、関索については同じ水槽で混合展示を行なっているコツメカワウソの鮑三娘が彼を気に入って傍から離れないために、もっとも見分けやすい個体となっていました。
「孫権殿につられてこちらまで『おさんぽ』ですか?」
「うむ、いや、この子たちにも接客をさせてみようと思ってな。関索は特に愛想が良いゆえ」
 荀彧にはよくわからないことでしたが、“きゅるんとまんまるのお目目で見つめられると老若男女のハートに花が咲く”と評判で、花関索のあだ名をつけられた黒い眼差しが見上げてきます。しゃがみ込み彼の後頭部を撫ぜてやると、鮑三娘が荀彧の手をはっしと掴んできました。
「ふふふ、あなたの関索を取ったりしませんよ」
 荀彧は鮑三娘の鼻先をつんと指でつつくと立ち上がり、では、と関羽に頭を下げてエントランスのほうに去って行きました。
「…………」
 関羽はしばらくその背を見つめていましたが、やがて『天河走廊』の隅に並んで立っていた魚類担当スタッフである劉禅と、『長江景』水槽担当スタッフである呂蒙に目を向けます。この場に居合わせてしまった二人もまた、関羽と荀彧のやり取りを心配そうに見守っていたのですが、荀彧がそれに気づくことはありませんでした。

 ぐるりと館外を一通り見回り、海の様子も確認した荀彧が魏フロアに戻ってくると、なぜかオットセイ・ゴマフアザラシ混合展示水槽の前に韓当とカリフォルニアアシカの孫権の姿があり、首をかしげました。普段の孫権はこの前を素通りしてその奥のトド展示水槽までまっしぐらですので、恐らく韓当がそう仕向けたのだろうと荀彧には察しがつきました。
 孫権は韓当の指示を聞いて、前肢を吻に当てたり、ぱたぱたと振ったりしています。そしてガラス面の向こうでそんな孫権を見つめていたのは、ずいぶん興味深げな表情の荀攸と楽進でした。
「韓当殿、こちらで何を?」
「うおっ、あ、荀彧。いやあ、そういやこいつらにちゃんと挨拶してなかったなあと思ってなあ」
 己の姿を見つけて寄り添うようにたゆたってきた荀攸に手を振り、荀彧は「なるほど」と答えます。
「うん、お隣さんだからなあ」
「いや……孫権殿のお隣さんではないですよね……」
 さては外堀を埋める気か……? と荀彧が訝ったところで、韓当は「それにしても」と言いました。
「結構人懐っこいじゃないか。孫権殿にもこうして寄ってきてくれるし」
「毎日のようにここを通り過ぎているでしょう。もう顔見知りですよ」
「はは、それもそうか」
 ごしごしと韓当に首筋を撫ぜられ、孫権は気持ちよさそうに目を細めます。
「でも、こうして挨拶したのは初めてなのに来てくれるんだ。警戒されていない証拠だ」
 荀彧の視界では、一旦呼吸のために水面に浮上した荀攸が再び潜水して己の隣に泳いできました。楽進はケルプの森をくるくると飛ぶように泳ぎまわっています。
「なあ……別に、平気だと思うぞ。俺は。一回やってみて、だめだったら少しずつ慣らしていけばいいんだし……あ! 孫権殿!」
 韓当の言を遮るように孫権が走り出しました。オットセイ・ゴマフアザラシ混合展示水槽に飽きてしまったのでしょう。一目散にトド水槽に向かっています。「すまん、それじゃあな!」と言い残して韓当も彼を追って去っていきました。
 残された荀彧はひとり――いえ、ガラス面の向こうでふわふわもちもち浮いている荀攸と、ひとりと一頭、韓当が残していった言葉について思いを巡らします。彼の言うことはつまり、荀彧の不安をどうにかやわらげようという試みでした。
「でも……」
 荀彧は恐る恐る荀攸を見ました。少し眠たげな黒い目が、彼の前に立っている荀彧の姿を映し出します。
 アザラシの目には色の判別をするための錐体細胞という感覚細胞がなく、彼らには世界がモノクロームに見えているといわれています。そんななかでも青い色だけは――人の目に暗い夜でもその色が見えやすいのと同じように――多少の判別がつくのだ、とも考えられています。
 もしかしたら今、荀攸の目には、荀彧のブルーな気持ちが見透かされてしまっているのでしょうか? そんな荀彧を見て、荀攸はどう思ったでしょうか?


 ◇


 さて、どういうわけか連日のようにたくさんのスタッフに、世界各地の水族館や動物園でアザラシがかぼちゃを抱っこしている様子や、アザラシがかぼちゃと一緒に並んで写っている写真を見せられている荀彧は、そろそろこの企みに気づき始めていました。大方あの上層部の連中が己にハロウィンイベントの企画を通させようと目論んでいるのでしょう。
 でも荀彧は、決して自分自身が荀攸とかぼちゃを近づけさせたくなくて拒絶しているのではないのです。荀攸が怖がってしまうといけないから、同じ失敗をしてしまうといけないから、しないだけなのです。だから、みんなの企みは荀彧には通用しません。

「おはよう、荀彧殿!」
「おはようございます、曹休殿」
 曹休は朝から気持ちの良い笑みで荀彧に駆け寄ってきました。
 調餌場は朝の喧騒に満ちていましたが、めいめいがてきぱきと仕事をしています。ひとり、練師だけは自身の担当であるカリフォルニアアシカの子供、孫尚香に足許にまとわりつかれて餌の準備ができないでいるようでしたが。
 彼女たちの様子に微笑みながら、荀彧と曹休は並んでカウンターに向かいます。すっかり慣れた手つきでふたりは楽進と荀攸、それぞれの餌バケツに魚を準備しました。
「荀彧殿、頼みがあるのだが」
「はい、なんでしょう?」
 展示水槽に向かう道すがら、もったいぶった様子で曹休が口を開きました。首をかしげる荀彧に、彼は真剣な眼差しを向けます。
「実は、かぼちゃの置物を買ってきたんだ。モールの雑貨屋で見かけて……プラスチックだし、転がしても落としても平気なやつだ」
「……はあ、それが?」
「楽進と荀攸殿を慣らしたい。荀彧殿も協力してくれないか」
 バックヤード、コンクリート造りの通路で立ち止まり、曹休はやや大きめな声で言いました。荀彧もまた同じように立ち止まって彼を振り返りましたが、言葉を返すことができません。
 曹休は続けます。
「以前の業務日誌を見ていたんだ。まだ楽進がこちらに来ていなかったころの……荀攸殿はおもちゃを怖がったんだな。あなたはそのとき、『おもちゃの導入を無期限に取りやめる』と書いていた。だから今回のことも渋っているんじゃないか?」
 荀彧は驚きました。まさか曹休が過去の業務日誌を遡って読んでいたとは、思いもよりませんでした。なぜ彼はそんなことをしたのでしょう――いえ、察しのいい荀彧にはその理由はすぐにわかりました――それは荀彧のためです。荀彧のために、彼はこんなことを口にしているのです。
「荀彧殿、俺は、あなたがそれを“失敗”だと思っていることはとても不幸なことだと思う。確かに、動物たちがご飯を食べてくれない日が続いたら、俺も恐ろしくなるだろう……。でも、そのときと今とじゃ、違うことがたくさんあるとも思うんだ」
「…………例えば、なんですか?」
「荀攸殿は当時、まだ展示水槽に入ったばかりだった。慣れない環境で、慣れないものを見たら、びっくりするのは当然だ。ましてやアザラシなんだから……でも、今は、ここが荀攸殿の居場所にちゃんとなっている。大好きな楽進も一緒にいる。それに、あなたもいる」
 曹休は荀彧に大股で歩み寄り、その手を取りました。
「あなたと荀攸殿には信頼関係がある! それなら、きっとできないことなんて何もないと俺は思うぞ!」
「…………曹休殿……」
 彼の情熱的な眼差しに晒されて、荀彧は顔が焼けたように赤くなりました。こんなにも真っ直ぐで、人の弱いところをためらいもなく突いてくるような相手に諭されてしまうと、なんだか頷かなくてはいけないような、そんな気持ちになってしまいます。
 それでもなお荀彧がためらっていると、曹休は彼の顔を覗き込むように上目遣いに見てきました。
「……だめだろうか……?」
「…………、……わかりました」
「! やった! ありがとう!」
 荀彧の完敗です。曹休は諸手を挙げて喜び、バケツを通路に置くと「すぐに戻ってくるから!」と言ってきた道を引き返して行きました。そうして二分と待たずに戻ってきた彼は、小脇に濃いオレンジ色をしたかぼちゃのオブジェを抱えていました。
「ほら、これだ!」
 得意げに顔のあたりまでそれを掲げて見せる曹休の頬も息があがって同じような色に染まっており、オブジェに彫られたかぼちゃの顔もまるで楽しそうに笑っていて――そのことがおかしくて、荀彧は笑い出してしまったのでした。

 かぼちゃのオブジェを陸場に置くと、オットセイの楽進がすぐに寄ってきてそれを吻先でつつきました。ゴマフアザラシの荀攸は普段は眠たい目をまあるく開いてプールのなかからそれを見つめていましたが、楽進が前肢で遊び始めたのを見て彼も陸場に上がって寄ってきました。
 そうして恐る恐るというようにかぼちゃのオブジェに吻タッチした荀攸に倣うように楽進も同時に吻タッチをしたので、曹休は「おお!」と嬉しげな声をあげました。
「どうだ!? 荀彧殿!」
「……かわいいです~~!」
「本当だな!」
 懐からモバイルを取り出して半泣きになりながらカメラモードで連写しまくる荀彧に、曹休も満面の笑みで同じようにモバイルを構えました。
 仲良しの二頭は前肢でかぼちゃのオブジェを転がし合い、ついにそれをプールに放り込んで遊び始めてしまいます。浮きつ沈みつするかぼちゃのオブジェと、飛沫を上げながらプールでじゃれ合う仲良しの二頭。荀彧のシャッターを切る指は止まりませんでした。
 二人はそれから、「まだ給餌が終わらんのか!?」と夏侯惇が展示水槽に怒鳴り込んでくるまでの間、心ゆくまでオットセイとゴマフアザラシがかぼちゃを“やっつける”撮影会を堪能したのでした。


 ◇


「結局文烈に任せておけば何とかなったではないか」
「変なことをしでかそうとしたのはお前たちだろう……」
 九月三十日。明日から始まるハロウィンイベント月間の準備のために臨時休館となったこの日、魏フロアの観覧エリアでは脚立に登った曹操と夏侯惇が、ガラス面へのガーランドの飾り付けを行っていました。彼らが見つめるオットセイ・ゴマフアザラシ混合展示水槽のケルププールでは、潜水服に身を包んだ荀彧と曹休が、ケルプの枝にLED電球の入ったカボチャ型オーナメントボールを取り付ける作業をしています。ボールに照らされてオレンジ色にぼんやりと光るケルプはどことなく神秘的で、ミステリアスです。
 作業をする荀彧にはぴったりと荀攸が寄り添って、ときどき一緒に遊びたそうにボンベを抱き込んだり、彼の腕に前肢で抱きついたりしています。何せなかなか荀彧がプールに入ってくることはないので嬉しいのでしょう。荀攸のまあるい頭を撫ぜる荀彧もまた、「水中眼鏡の向こうからでもデレデレしているのがよう見えるわ」と曹操に言わしめるほど雄弁な身振り手振りでした。
「ああ、早く作業が終わらないかと思っているな、あれは」
「まったく人騒がせなやつよ」
「荀彧もお前に言われたくはないだろう」
 そうして作業を終えた夏侯惇が脚立を下り、次に行くぞ、と曹操を促します。曹操も頷き、荀彧と曹休に隣に移る旨を伝えて、オットセイ・ゴマフアザラシ混合展示水槽前から離れました。
 途端にばしゃん! と水音が聞こえてきて振り返ると、さっそくふたりと二頭が遊び始めたのが遠くからも見えました。曹操と夏侯惇は目を合わせ、同時に肩をすくめます。それでも、こら、と水を差す気にはなれませんでした。心の重荷が取れた今、少しの間くらいは伸びやかに遊んでもいいだろう、と二人は背を向けて自分の仕事に戻って行きました。

 こうして三國市海洋水族館の館内は、すっかりオレンジ色と紫色と黒色に染まりました。隅々までハロウィンイベントの準備は万端です。
 期間中にはたくさんの催し物を予定しています。皆様のお越しをスタッフ一同お待ちしております!