あるとき、揚州を流れる浙江の下流域に草賊が跋扈した。彼らは周辺にある城邑を次々と襲い、太守や県令を無惨に殺し、民衆を苛んだ。命からがら北へ逃げ延びた者たちは皆一様に怯え、あれは人ではなかった、と口々にそう言った。
 浙江より北百里ばかりに位置する呉郡は当時、勇猛果敢で名を馳せ小覇王とあだ名された若武者、孫策が統べており、折しも彼の父でありこちらも武勇の聞こえた孫堅が揚州を訪れている最中だった。当然のように父子、そして孫堅の次子であり孫策の弟である孫権の三人は意気軒昂に草賊征伐へと乗り出したのである。確かに彼らの強さは、特に孫堅と孫策のそれは、常人には持ち得ぬ一騎当千の剛力であった。
 しかし残念なことに、そして誰も考えつかなかったことに、“人にあらず”とは正に文字通りの表現であった。浙江に蔓延る邪悪の正体、それは仙女・妲己に率いられた妖魔の一団だったのである。殺せども殺せどもその数は減らず、そればかりか増えていくようにさえ見える妖魔の群れ。ついに戦士たちの剣は折れ、体は血にまみれ、捕らえられた孫堅と孫策とは妲己の高笑いと共にその身を仙女の妖玉の中へと幽閉されてしまったのだった。
 そして後には一人、孫権のみが残された。
「やっだあ〜、妖玉が一個足りないじゃない。でもお、あの二人と違ってあなたすごく弱かったしい、ま、いっか」
 纏う薄衣を風に遊ばせ、しなやかに肢体を翻して妲己は中空から孫権の目の前に降り立つ。その碧い双眸が絶望に打ちひしがれ見開かれるのを妲己はおかしそうに目を細めて見返した。
「よくも草賊なんてばかにしてくれたじゃない。ねえ、賊に殺される気分はどーお?」
「…………」
「やだあ口も聞けない? あっ、私が可愛すぎるのかな!?」
 美しさって罪ね、と妲己は鼻にかかる声でのたまい、妖魔に取り囲まれ呆然と膝をつく孫権の眼前にしゃがみ込むと小首をかしげた。
「ねえ、何とか言ってよ。面白くないなー。諦めるのってかっこ悪いよ? あんなに張り切って乗り込んできたじゃない。もっと気概を見せてくれてもいいんじゃないかな?」
「…………できない……」
 孫権の声が、かすれて落ちる。
「父も、兄もいなければ、私は……」
 顔を俯ける孫権は自ら首を差し出しているようにも見える。後背の巨漢の妖魔が、早く殺しましょうよ、と喚く。
 妲己は薄汚れた孫権の赤い髪を心底気の毒そうに見やった。
「あなたってほんと、可哀想な人ねえ。一人ぼっちじゃ何もできないんだ」
 妲己は立ち上がり、くるりと片足で回ってみせる。
「私も一人ぼっちじゃないけどさ、でも一人ぼっちになったってそんな弱音吐かないよ。あなたみたいな惨めな人、殺してもなー、つまんない」
「ええー、妲己様あ、そんなことないですよ」
「んもう、そんな野蛮なことばっかり言うから、賊なんて言われちゃうのよ」
 口答えする巨漢の妖魔に軽やかに歩み寄った妲己は、その顎をぱちんと指先で甘く弾いた。そうしてその足で孫権の背後から彼に歩み寄ると、そっと彼の背に寄り添い、ふわりと肩を抱いて耳許に唇を添える。
「ねえ、もうちょっとがんばって足掻いて見せてよ」
 たおやかな指先が孫権の顎をつと滑り、その両手が彼の輪郭をなぞって上に向かい、辿り着いた目許をそっと優しく覆い隠す。孫権の口が恐怖にわなないた。
「……な、何を……」
「さあ、変身して。新しいあなたを見せて!」
 刹那、ばちんとけたたましく何かが弾ける音がして、孫権の頭が揺れ、柔らかな指先に覆われていた視野が真っ白に染まった。孫権は叫んだかもしれなかったが、その悲鳴は彼自身には聞こえなかった。心臓が激しく鳴り、まるで体全体が膨張していくような感じがする。
 ごうごうと体内から吹きすさぶ烈風の音がする。それはともすれば氾濫する大河の濁流にも感じられる。嵐が来る。雷鳴が轟き、天地は動転した。

 ――地に倒れ伏していた孫権は、ゆっくりと瞼を上げた。まだ頭の中がわんわんと揺れているようだ。こみ上げる吐き気をどうにか諌めて、孫権は起き上がろうと手をついた。
「…………?」
 獣の手だった。それは孫家に馴染み深い虎の縞模様だったが、孫権の知る虎のそれよりも赤く、新鮮な血の色をしている。
「…………え……」
「おはよ、虎さん」
 絶句する孫権の傍らに歩み出てきたのは気を失うまで彼に寄り添っていた仙女である。孫権はぎょろりと碧い眼を妲己に向けた。にんまりと楽しげな笑みが視界に映る。
「さあ、これであなたはもう一回がんばるんだよ」
「私に……何を……?」
「あなたを変身させてあげたの」
 さあ立って、と妲己に手を――前足を引かれ、訳もわからず孫権は起き上がらせられてしまう。四つ足だった。妲己は懐から自身の持つ手鏡を取り出して孫権に見せる。
 紛うかたなき、赤毛の虎がそこにいた。
「うわあああ!?」
「ほーら、かっこよくなった! これであなたはもう一度、私を倒す機会を得たのよ。私のおかげでね!」
 感謝してよねーっ、と妲己は楽しそうに笑い、虎になった孫権の頬を撫でさする。孫権は必死に頭を振ってその手を振り払った。
「な、な、どういうことだ! 私をからかっているのか!?」
「あら? よくわかったじゃない。せいか〜い!」
 妲己の指先が孫権の鼻をつんと突く。孫権は思わず大きな口を開けてそれに噛みつこうとしたが、妲己はひらりと手を遊ばせて避けてしまう。
 孫権は唸った。喉から発せられる虎のような――彼は今まさに虎の姿をしていたが――その唸り声を聞いていると、まるで己が真に獣に身をやつしたかのような心地がする。孫権は慌てて怒りを鎮めた。
 妲己は首を振り悄然とする孫権の様子をしばらく眺めていたが、彼が己に何もしてくる様子がないのを見て取ると再びその前にしゃがみ込む。
「いい? あなたはこれからお友達を見つけて、私にもう一度戦いを挑むの。そうして激戦の果てに私を倒し、家族を取り戻す。どお? 最高に熱いお話じゃない?」
「……ふざけるな……!」
「えー、どうしてふざけちゃいけないの? 私が真面目にやったらあなた、今もう死んでるよ?」
 それにい、と妲己は淫靡に語尾を伸ばし、自身の周りにふわふわと浮いている妖玉の一つの表面を艶かしく撫ぜる。
「あなたががんばんないと、あなたのお父さんとお兄さんはずうっとこのまま。お父さんはね、燃え盛るお城に閉じ込めて出られなくしておいたわよ。火の粉に肺を焼かれながら出口を探して炎の中を彷徨い続けるんだろうなー。お兄さんはね、体を毒に蝕まれて、苦しんで気を失ってもそのたびに目覚めて絶対に死ねない。可哀想でしょ? 大変だって思うよね? だって家族だもんねえ?」
 孫権は開いた口が塞がらない。彼の愛する父と兄が正に今、悪夢に襲われている。全身を憤怒が駆け巡る。毛を逆立てその身を膨らませた孫権を、妲己は目を眇めて満足げに見た。
「その調子よ、虎さん!」
 妲己の指先がついっと中空を弾くように上向きに動き、それに呼応するように孫権の四肢が地面から離れる。
「何をする!?」
「なるべくここから離さないと、あなた一人ぼっちで死にに来ちゃうからだーめ。絶対にお友達を連れて、私のところへ帰って来てね。そしたらも一度、楽しく殺し合いましょ?」
 妲己は孫権を浮かせる指先を、腕ごと大きく振りかぶった。
「じゃあ、またね! 虎さん! 応援してるから!」
 石を投げるような動作で妲己は自身の前方へ腕を振るった。途端、孫権の体は青空に放り出され、遠くの雲を目がけて飛んでいく。
「うわあああぁぁぁぁ…………」
 辺りに絶叫がこだまする中、額に手を当てた妲己は眩しそうにその黒い点を見送った。


 ◇


 孫権が墜落したところは、彼には知りようもなかったが、浙江より直線距離で約二千六百里も北にある太行山脈の山中であった。
 しばらく気を失っていた孫権がようやく目覚めたころには周囲には夕闇が立ち込め、しかし彼にはどれほど日が経ったのかも察することさえできない。
 よろよろと四肢を使って立ち上がり、孫権は繁る木の葉の向こうの空を見る。視界の隅に夜の影が見えた。
 虎は主に夜にうごめく生き物である。すっかり宵の帳が降り辺りが漆黒に覆われても、孫権の碧眼は爛々と輝いて、彼には睡魔さえ訪れない。長いこと寝ていたからかもしれないな、と思う。
 孫権は妲己への復仇のために仲間を見つけなければならなかったが、これが簡単にいくはずがないというのにはすぐ気がついた。虎は群れることを嫌い、己の縄張りを固持したがる習性がある。しばらく山間を彷徨っていた孫権は何度か他の鳥獣と遭遇したが、ほとんどが孫権を見るなり一目散に逃げ出す中、虎は獰猛に余所から来た個体である孫権を苛烈に追い立てた。孫権もまた彼らを宥めすかし自身の力になってほしいと言葉で訴えてはみたものの、どうやら彼の言葉は――当然ではあったが――他の生き物には通じないようで取りつく島もない。また彼らは孫権の異質さを一瞥して理解したようで、凄まじいまでの敵意を剥き出しにした。確かに彼らの持つ黄金の夕暮れのような毛並みや瞳の色と違い、孫権のそれは暁紅の如く燃える赤毛と夏空のような碧眼だった。

 山に棲むありとあらゆる生き物に邪険にされ、孫権は消沈して失望に尾を垂れ下げ、俯きながらとぼとぼ歩く。ふと足元に咲く白い花が目につき、彼は少しだけ微笑んだ。虎の目線で見る草むらには小さな草花が月の光を受けてちろちろと輝いている。孫権は既に虎の振る舞いに慣れていた。
 ほう、とため息をついたとき、その耳にどこかで鳴った音が届いて、彼は顔を上げた。近くはないが、決して遠くでもない。山は歩みを進めるごとに深くなっていたが、孫権はじっと身を低くして忍び足で音のする方へさらに向かう。元より虎の体はこうした隠れ潜み生き物を付け狙うことに長けていたが、加えて孫権の身に纏う赤は宵闇によく馴染んだ。
 数間進んだところで彼は鼻を引くつかせた。――血の匂いがする。孫権のごく近くから。
 ふんふんと鼻を鳴らし周囲を探ると、二歩先の木の根が夜のためではなく黒ずんでいるのが見える。孫権はそうっと近寄り鼻を寄せようとしたところで、その黒が濃く濁った赤い色だということに気がついた。
 彼は注意深く周囲に視線を送り、異変を探した。果たしてそれは踏みしめられた花の上に、引きずられ千切れた草の上に、そうして転々と続いている――近くて遠い、音のする方へ。
 孫権はじっくりと進んだが、やがて聞こえてきた獣の唸り声にはっとなり、頭を上げて目を凝らした。四半里先の崖下、巨岩が転がるふもとに黒い影が見える。孫権はぐっと眉間を寄せてそれを睨みつける――三頭の狼がいる。そしてもう一つ、何かの気配が。だが、孫権はその正体に気づいていた。残された血の跡から発せられるその臭気、人が血を流している。
 孫権は後ろ足で勢いよく跳躍し、草むらから飛び出ると巨岩めがけて走り出した。獣の速さで足を駆る。風が孫権の肢体にまとわりついた。それすら孫権は切り裂いて疾走した。
 狼は生肉も屍肉も食う獣だ。だが孫権は、今は虎の姿をしているとはいえ人の心を持っている。生きていようと死んでいようと、人の体を獣に漁られることは――自他問わず――我慢がならなかった。
 突然背後の繁みから飛び出てきた赤毛の虎に狼たちは驚いた。惑乱して足をもつれさせた一頭に頭突きをしてその体を吹き飛ばすと、前足の鋭い鉤爪を振りかざしてもう一頭に襲いかかる。狼はすんででそれを避けたが、一息で彼らの獲物の前に飛び出で立ち塞がる虎の低い唸り声に多勢の利も忘れたか、いそいそと暗闇の森の中へと姿を消した。

 ふん、と鼻息荒く孫権は森林の向こうをしばらくねめつけていたが、気配が完全に遠ざかったのを察すると彼の後背を顧みた。生きていればいいが、死んでいたら何かの手向けを捧げなければ。己の太い前足でそんな繊細な作業はできるだろうか。
 しかし孫権の心配の甲斐なく、巨岩に背中からもたれかかり地面にだらりと足を伸ばしたその血まみれの人――壮年の男は息を切らして生きていた。まるでそうすることを定められているかのように、孫権の視野で月の光が男の輪郭を照らし出す。まともにしていたなら立派に整えていたであろう彼の口髭やあご髭は彼自身の吐いた血で固まり、黒い髪は艶なく土に汚れている。一見しただけで大柄だとわかるその体も赤く染まっていない箇所などないほどで、特に上腕部と脇腹のそれは随分と深いようであった。ただ、狼の噛み跡は見当たらないように孫権には思われた。
 彼は切れ長の瞳をいっそう細めて孫権を見た。
「……随分と珍しい色をした虎だ」
 低く寂のある声はひどく掠れていたが、孫権の耳にはとても魅力的に聞こえる。
「ありがとう、助かった……。礼と言ってはなんだが……」
 彼は、恐らくどうにか動かせるのであろう左腕を持ち上げ、その手のひらを伸ばして孫権を招くような仕草をする。
「お前が私を食べるといい……。腹が空いていないなら小分けにして取っておけ。決して美味くはないだろうが、腹の足しにはなる」
 体だけはでかい、彼はそう言って咳き込み、また血を吐いた。もしかすると喉も傷ついているのかもしれない。
 孫権は幾たびかふるふると大きく首を振った。その仕草を見た男の表情が僅かに揺らぐ。閉ざされかけていた目が見開いた。
「私はお前を食べない。ずいぶんひどい怪我をしているが、もう少しがんばれるか? 今薬草を持ってくる。先程そこらで見つけたのだ」
 男がぱくりと小さく口を開ける。孫権は振り返り一度その場を辞去しようとして思い直し、再び男を顧みるとその側に寄った。
「私のいない間にまた獣に襲われるといけないから、ちょっと失礼」
 そうして孫権は彼の喉許に後頭部をすり寄せた。己のにおいを彼につけるためだ。びくりと肩を震わせる感覚があったが、孫権は気にせず全身を使って彼にまとわりつく。その肩に虎の大きな前足をかけ頭上から面を見下ろしたとき、男が恐れのような表情で己を見ているのに孫権は気づいた。だが孫権の関心はそれよりも男の顔じゅうについた傷にばかり向いた。土まみれの擦過傷は見た目以上につらかろう、と孫権は気の毒に思う。
「痛かったろう」
 ぺろ、と孫権はその頬の擦過傷を舌で舐めた。虎の舌がざらついていることは知っていたので、なるべく先端を使って彼をこれ以上痛ませないように。
「あ、つ、……う……」
 男が眉根を寄せ、必死に顔を逸らそうとするのを追いかける。やめろ、と掠れ声で彼は訴えるが、孫権は構わずその鼻先をまた舐める。
「……ん?」
 一所懸命に彼ににおいを移していた孫権だが、ふと違和感を覚えて体を起こし、唾液まみれの顔を覗き込んだ。男は実に苦しそうに眉間にしわを寄せ瞳を潤ませていたが、先程まで顔じゅうを覆っていた赤い傷跡がほとんどなくなっている。首をかしげた孫権の仕草に男はいっそうしかめっ面になる。
「……もう、いい、やめろ」
「お前、傷は痛むか?」
 問われ、小首をかしげた男は、そういえば、と呟いた。
「顔の痛みは……わからない。不快感はある」
「ふむ……?」
 男の肩から前足を下ろし、孫権は彼の上腕部の傷に目をやった。そして彼の承諾も得ずそこへ舌を寄せる。べろん、と舐めると彼は竦み上がった。
「いっ……」
「ああ、すまない。優しくする」
「いや、いい、もういい、やめろ。……やめてくれ、頼む!」
 息も絶え絶えの男の制止も聞かず一心に孫権は彼の上腕部を舐め回した。彼が身じろぎせぬよう、その胸許に大きな右前足をかけて。
 ひとしきりそうして顔を離すと、孫権の予測通り彼の傷は目に見えて小さくなっていた。
 ――妲己め、孫権はすぐに察した。
「私が容易く死ねぬよう、私の体をいじったな」
「…………?」
「すまない。どうやら私の唾液には治癒効果があるらしい。もう右腕もさほど痛まないだろう」
 言われてみれば、と男は瞠目する。動かすこともままならなかった右腕を浮かせると、虎の赤毛に触れた。
 こくんと頷いた男に孫権は――虎の顔にはほとんど出なかったが――ほっとしたように微笑み、ならばと今度は脇腹の傷に目を向ける。視線の動きを見た男もどうやらそれを察したらしく、右手で虎の額をぐいと押しやり己の側から引き離そうとした。
「あまり体に負担をかけるな、傷に障るぞ」
「お前が今やろうとしていることのほうが!」
「聞いていなかったのか、治癒効果があると」
「聞いていたとも、薬草はどうした」
「恐らくこちらの方が有用だ」
 虎の力はあまりに強かった。いくつかの傷が癒えたとはいえ腹に力を込めることのできない男は糸が切れたようにぱたんと右腕を力なく落とし、しかし口だけは懸命に動かしている。
「やめろ……!」
「じっとしていろ」
 虎は左前足で彼の右手首を押さえつけ、左前足をその腰にかけた。