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樊城わくわくランチタイム(于禁と関興/樊城にて)


(于禁と関興/樊城にて)

 黴と湿った石のにおいの空間にひたひたと響く足音。腐りかけの木の扉が遠慮がちに開かれ、顔を覗かせたのは眠たげな表情の若者だ。
「夕餉……です」
「…………ああ」
 于禁は石牢のなかにあってこの青年の名を知っていた。関興、字を安国。現在荊州を守護する劉備の義弟、関羽の次男だという。初めて糧食を提供されたその日に彼が自ら名乗った。なぜそんなことをされたのかはわからないが、礼を失せぬあの軍神の教導の賜物かもしれない。
 普段は入ってきたときと同様に遠慮がちに出ていくのだがこの日は違った。彼は于禁の前に器一杯分の粥と何かよくわからない菜葉の和物を置くと、そのまま自身もそこに腰を下ろした。
 訝り、内心で嫌がったのは于禁である。彼は虜囚であっても“己の目的”のためにこの糧食を口にせぬわけにはいかなかったが、人から食事の様を注視される謂れはなかった。しかし、立場上こちらから咎めるわけにもいかない。
「…………」
「……おいしいですか」
 唐突な問いだった。于禁は眉間をぐっと顰め、不快だという表情を隠さずにおくが、関興はそれを気にしているふうには見えない。外見、声色、態度のすべてが彼は茫洋としている。
「……糧食に味は問われぬだろう」
「そうですか。……ご飯を食べるのは好きなんですけど」
 まさか、会話が続いてしまうとは。于禁は内心で拳を握るが、冷たいこの石牢に長くあって彼は未だに面倒見の良さを捨て切れてはいなかった。
「……誰が」
「あ……私です。好きなんですけど、忘れてしまうんです。今日の昼も、鍛錬に夢中になって、さっき……腹が減って倒れてしまって……兄にも嗜められたし、弟や妹にまで……情けないと思ってるんです」
 本当にそう思っているのか? と疑うほど、彼の反省は面には出てこないようだ。ぼんやりと一点を――于禁の手許にある粥の入った器を――見つめながら、彼は自身の思考の大河を泳いでいる。于禁はどうやらその様を岸辺に立たされ見せしめられているだけらしい。
「父上や、兄上や周倉殿のように体に肉をつけるには、ご飯も大事とは、わかっているんです。でも……どうしたらいいですか」
 ――見せしめですらなかったとは。彼はやおら大河の遊泳から上がって于禁の傍に立ち、前触れなく話しかけてきた。驚きに目を丸くする于禁の返答を彼はじっとして待っている。
 答えを返す義理など一切ない。そもそも、会話をする必要性すらない。己は虜囚で、相手はその世話人を任された青年である。そこに何らの繋がりもないのだ。
 だが、関興はひたすらに于禁の言葉を待っている。あの茫洋とした双眼で。
「……周りに目を向けるしかないだろう」
 于禁はそう言った。そうすると関興は小さく首肯し、それから、
「……私、こういう」
彼自身の顔の両脇に立てた両手を添え、くいっとそれを前方に動かした。
「性分らしくて」
「…………だろうな」
 そして今はそれが于禁に対して発揮されている様子である。于禁は深く嘆息し、関興を睨めつけた。
「改善したいのであれば無理にでも意識せねばなるまい。性分などと言ってはおれぬだろう。それで兄妹に厄介をかけているならなおさらだ」
「でも……どうしたら」
「……時刻を気にして、鐘の音で判断すればよい。必ずこの時刻に飯を食うと……今、私に定時の糧食を持ってきたようにできるはずだ。お前の耳にも穴は空いているだろう」
「空いています」
 そんな生真面目な返事は要らぬ、という言葉を于禁は粥と共に飲み込んで器を空にする。関興は中身のなくなったそれをじっと見下ろして、それから于禁を見た。
「明日から、お昼ご一緒していいですか」
「は?????」
「あ、ご飯です。私もここで食べます。それなら時間も守れるし……」
「ばかなことを申すな、貴様は」
「父上に許可を得てきます。では、また明日。おやすみなさい」
「おい!」
 勢いよく立ち上がり、空になった器を持ってさっさと出て行ってしまった関興に、于禁は開いた口が塞がらない。
 “こういう”性分にも程があるだろう……。
 ようやく于禁の内奥に去来したのは、そんな呆れにも似た感慨だった。

 黴と湿った石のにおいの空間にひたひたと響く足音。腐りかけの木の扉が開かれ、現れたのは低い天井のために腰を僅かに曲げた巨躯と棗色の強面である。
「于禁よ」
「…………」
 低く重厚な声が、無言を返し壁を見つめる于禁の耳に届く。
「このごろ、我が次男はよく食べ、よく鍛え、楽しげにしておる。飯を食うことを忘れなくなっただけでも喜ばしい」
「…………」
「……そなたのおかげだ。礼を言う」
 それだけ残し、関羽は石牢の扉を閉めて去って行った。足音がすっかり聞こえなくなったところで、于禁は背を丸めて頭を抱える。

 ――調子が狂う!

[樊城わくわくランチタイム おわり]