孫権が頭を抱えている。とは言え、このところはそうでない日がないというくらいのものである。
 今、張昭は評定の間から離れており、程普は兵を率いて丹楊郡南部の不服住民の征伐に赴いている。この場にいるのは孫権とその側仕えの谷利と朱桓、主記室史の歩騭、字を子山、主簿の顧徽、字を子歎、そして従事中郎である厳畯、字を曼才、加えて討虜将軍府の軍事の中枢を司る周瑜と孫河の二名である。彼らは、討虜将軍麾下にある軍団の編成について意見を交わしていた。
 孫策の死後、呉郡から去る者は士大夫層や民間人に留まらず、軍中からもあった。少なからぬ人数が将軍府から離れ、また孫暠の叛乱未遂があったことで率いる将を失って路頭に迷う軍団までも出て来てしまった。ひとまず孫暠の軍勢は彼の弟である孫瑜の麾下に組み込んだものの、そうすると今度は誰それの軍は兵数が多い、誰それの軍は兵数が少ない、あすこはやる気がある、あすこは無精な奴が多い、というような種々の問題が発生する。
 更に、軍勢を率いる将軍本人の性格に影響されてか軍によってその性質が異なることも間々あり、相性も考慮に入れなければならない。現につい昨日、潘璋――字を文珪、故郷の東郡発干で問題を起こして南に出奔してきた人で、腕っぷしは強いがその性質に些か問題が多い若い将――の麾下兵の一人と、董襲――字を元代、会稽郡余姚の人で、その八尺の身の丈の通りに大らかな性格の壮年の将――の麾下兵の一人が詰め所で軍法の解釈の些細な違いで衝突しており、張昭が席を外しているのも正にその当人たちと将二人に訓戒を与えるためであったりする。
 だからと言って各軍から上がってくる将兵の功績報告に賞罰以外の目的で逐一目を通しているとさらに悩ましい。懸案が増えてしまうのである。彼の戦功は目覚ましいからこっちの軍に入れて試してみようとか、彼は最近伸び悩んでいるからこっちの軍で鍛え直してもらおうとか、余計な考えが浮かんでくる。
 そういう深みにはまって、孫権はここ数日思い巡らしているのであった。

「新参の将のこともあるからなあ」
 ついに胡坐を掻いた膝に頬杖を突いた孫河が言う。周瑜が抱えた書簡を漁りながら彼に答えた。
「徐文嚮どのについてはまずは兵五百というところで良いのではないでしょうか。そうですね……孫伯皓どのの軍勢から籍を移しても今回は問題ないかと」
「うむ。異論はない」
 歩騭は会話の流れを見てすらすらと内容を竹片に書き取っていく。問題は古参の将たちである。孫権は少しだけ言いにくそうに、どうしても、と口にした。
「翊の下には、徐令功、孫公崇、傅仲進の三人は付けてやってほしいのです」
「ええ、それは構いませんが」
 首をかしげながら理由を尋ねる風な周瑜と、ああなるほど、と得心がいった孫河の反応はそれぞれだった。
「彼らは翊の良き友人たちですので。共に研鑽し、その……きっと行く行くは討逆様と公瑾どののような素晴らしい戦友になるでしょう」
 孫権の言葉に、周瑜は真顔のまま耳を赤くした。からかうように笑う孫河をチラリと横目で見遣った彼は、それで他の皆様はどうします、と話を逸らす。
 ううん、とまた一同が首をひねり出してしまったとき、それまで孫権の左斜め後ろでじっとしていた朱桓が、あのう、と手を挙げた。
「直接見て決めた方が早いですよ」
 その言葉に、その場にいた全員が朱桓を向き、孫権などは目を丸くしている。
「と、言うと」
「閲兵です。討虜様がこちらに開府されてからまだなさっておりませんよね? この機会にせっかくですから、皆を集めてぱーっとしちゃいましょうよ」
 腕を広げて一際大きな声で言う朱桓に、谷利はなんとなく彼の真意を察する。――彼は恐らく、大軍勢の前に誇らしく立つ孫権の姿を見たいだけだ。
 その企みに乗ろうと谷利もひとつ頷いて、それは素敵ですね、と同意するように小声で言うと、彼は口の端をにんまりと上げて笑った。我が意を得たり、と言いたげである。
「ああ、それは悪くない」
 周瑜も賛同の意を表した。続いて孫河も、確かに閲兵はしておいた方がいいやも知れぬな、と腕を組んで頷く。
「だが、地方に遠征している軍をそのために帰還させるのは難しい。討虜様、今回は呉に駐留している各陣営に赴かれる形に留めてもいいのでは」
「ええーっ! それじゃ意味ないんですよ!」
 話が己の意図する方とは違うところに進みかけていることに思わず声を上げる朱桓だったが、それはどういうことか、と孫河に一睨みされてしまい、萎縮して孫権の背の後ろに隠れてしまった。盾にされていることに気づかない孫権は苦笑して、その場を取り繕うように声を上げる。
「私は構いません。このところ政庁に詰めっぱなしで、兵舎にも遊びに行けませんでしたし……息抜きにもなりそうだなあ。休穆どの、ご提案をありがたく容れさせていただきます」
「……それはよかったです……」
 悪巧みとはなかなか成功しないものである。

 その後、谷利と朱桓は呉城内を駆け巡り、在呉の軍勢が駐留する陣営に兵営観閲の通達状を届けて回った。面白がりのふしがある孫権は、いきなり顔を出して驚かせてやりたい、などと主張したが、その場にいた全員に加え途中で戻って来た張昭にも却下されてあえなく撃沈した。
「敢えて準備期間を設けることでその意気を量るのです。頭数を減らすことは本意ではないですし、もしいきなり訪れて本当にやる気のない様子を目にしたとしたら、あなた様とて気分が悪いでしょう?」
「……それもそうですね」
 周瑜がたしなめるのに、孫権は口を尖らせながらも素直に従った。


 ◇


 呉城内の兵営観閲は三日に分けて行われることになった。各軍の普段からの様子を検分すると共に、武器や防具、旗や馬の具合はどうか、休養は十分に取れているか、軍法は行き届いているか、そしてこればかりは抜き打ちで兵士たちに、将の行いはどうか、賞罰はきちんとしているか等を尋ね、軍全体の状態を把握し、必要があれば改め、統廃合のための拠り所としていくものである。

「やあどうも、我が君」
 通達から五日後、観閲に向かうために小門前に集う一同の前に現れたのは、いやに笑顔を浮かべた賓客の魯粛と、その彼にどうやら引きずられて来たらしい同じく賓客の諸葛瑾であった。ぱっと表情が明るくなる孫権に対し、張昭の機嫌は一息に急低下し、周瑜はそんな張昭の隣にいたためか笑みが引きつってしまう。
「子敬どの、子瑜どの、いかがされたのですか?」
「いやいやそんな、しらばっくれないでくださいませ。閲兵に行くんでしょ? 我々も随行させてくださいませんか?」
「え、わ、私は……ああ、いや、私も……」
 ああぜひ、どうぞどうぞ、と調子のいい孫権は、相変わらず張昭と周瑜の異変に気付かない。朱桓は思わず肩を竦めて谷利にすり寄り、谷利はと言うと、もはや致し方なし、と諦めたように首を振るだけだった。

 一行が初めに向かったのは破賊校尉、凌操、字を義節の陣営である。衛士が開けた陣門をくぐり彼らが中に入ると、乱れなく隊列を組んで並んだ軍勢が戟を携えて敬礼していた。
 おお、と孫権が感嘆の声を上げる。軍勢の前に背筋を伸ばして立つのは、この軍の将を勤める凌操である。彼は孫権が前に来ると、折り目正しく跪き、拱手して首を深く垂れた。
「孫討虜様、お出でいただきありがとうございます」
「いいえ、いいえ! さすが義節どのの軍です。素晴らしい……!」
 孫権の、兵士たちを見つめる碧の瞳がきらきらと輝いている。将軍府に於いて政務にかかりきりになってからというもの、孫策の生前はしょっちゅう足を運んでいた詰め所にも顔を出せなくなり気鬱だったところに見た気概溢れる愛すべき兵士たちの姿は、孫権にとって励みとなった。
「討虜様に於かれましては、日々ご苦労なことでございます。我々の勇武で少しでもお力添えできたらよいのですが」
 凌操の言葉に、孫権は首を振る。胸が詰まりそうだ。慈しむような目で凌操は孫権を見る。彼もまた、孫策と共に昏い闇の中を馳せて来た戦士の一人だった。
「……そ、そうだ。何か軍事でご不満なことはございますか。武器が錆びたりとか、馬が病気になったりとかは」
「殿、それは我々から凌校尉に伺います。どうぞお心のまま観閲なさってください」
 周瑜が後ろから孫権に声をかける。凌操は、そうですね、と頷くと、隊列に向かって手招きした。見ると、一人の少年兵がぎこちなく駆けて来る。
 凌操の隣まで来た彼は、まだ孫権の胸元ほどもないような身長で、一所懸命に背筋を伸ばしている。ぐっと主君を見上げ、それから跪き手を組んで頭を下げる彼の目は凌操にそっくりだ。
「討虜様、これは統、先日字も与えまして公績と申します、私の倅です。こたびより従軍させることになりましたのでお目通りをと思いまして。統」
「は、はい! 孫討虜様! 俺は凌操の息子、凌統、字を公績と申します! どうぞよろしくお願いいたします!」
 子供の高い声が緊張して上擦っている。まだ、孫権の末弟、孫匡くらいの齢だろうに、その組まれた手の甲にはいくつか擦り傷がある。
 孫権は凌統の前にしゃがみ込むと、彼の手を取って微笑んだ。
「お前のような頼もしい若武者がこの江東を背負って立つのだ。こちらこそよろしく頼むぞ、公績」
「は……はい!」
 そうして孫権は凌統を先導役に側仕えの二人を引き連れ、凌操の陣営を見て回った。隊列は解散させ各々の役務に帰らせたが、調練をする者たちは皆生き生きと伸びやかで、事務に当たっている者は――やはり机仕事には些か不慣れな者は多いものの――真剣に取り組んでいるし、厩舎で馬の世話をしている者はよく世話をして馬たちもどこか気分が良さそうに見える。
「お前のお父君の軍は素晴らしいな、公績」
「! はい! 皆様とてもお強くてお優しくて、素晴らしい人たちです」
 己の好いている者を褒められれば誰だって嬉しい。凌統は上気する頬に満面の笑みを乗せて孫権を見上げた。それに応えるように目を細めて笑い返す孫権は、傍らの馬の首をそっと撫でた。
「いつかお前もこんな立派な馬にひょいと乗って、広い江東の大地を疾駆するのだろうな」
 それを聞いた凌統は今度もじもじと恥ずかしそうに俯いてしまう。首をかしげた孫権がわけを尋ねると、実はつい昨日も転げ落ちてしまったそうで、この手の傷はそのときしたたか地面にぶつけてできたものだと言う。
「あはは、大丈夫だよ。誰でも初めはそうだ。ほら、そこの黒い男も最初は転げ落ちたり馬に引っ張られたりしていたものだが、今ではすっかり立派な乗り手になった」
 急に話を振られた谷利は、凌統の驚きの目線を受けて慌てて頷いた。彼は、でしたら俺もがんばります、と傷ついた手をぎゅっと握って拳を作る。
「我が君の傍を守って馳せる将になります」
 いたいけな顔に浮かべた決意は少年を少しだけ大人びさせた。孫権はその頭を撫でようとした手を思わず引き、彼と同じように拳を作ると、それを凌統の目の前に持ってきた。
「?」
「私の拳に、お前の拳を当ててごらん」
 首をかしげた凌統がそっと彼の大きな拳に自身の小さな拳を当てると、孫権は合わせたところをぐっと強く突き出した。
「きっと強くなるぞ、公績。お前だけじゃない、私も共に」
「――はい、お供いたします!」
 高らかに凌統は叫ぶ。その姿に頼もしさを感じて、孫権はまた口許をほころばせた。


 ◇


 次に一行が向かったのは揚武都尉、董襲の陣営である。董襲は、孫策が会稽に至った際にその入り口である高遷亭まで出てきて迎えた人物で、後に門下賊曹となり孫策の身辺警護を務めていた。
 数千人の兵士を預かる董襲の兵営はその兵数にも関わらず、孫権を前にして凛とした静謐さを保っている。その有様には、“外に出られて兵たちに会えて浮かれ半分”な孫権も身が引き締まる思いだった。
「討虜様、過日はうちの兵士がご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
「へ? あ、ああ、いや、私は気にしておりません。むしろ頼もしい限りでしょう、軍法の解釈違いで討論とは。意気軒昂の証左です」
 既に先日、今孫権の後ろに控えている張昭からたっぷりと訓戒をいただいたのだろうに、董襲はなおも神妙な顔つきで孫権にまで謝意を示してくれる。そのことが嬉しくて孫権は大きく首を振った。それよりも、早くこの見事な董襲の軍勢を観閲して回りたい。
 浮き足立ったような孫権の様子を見て苦笑した周瑜は、董襲を促して兵を解散させると審訊を始めた。

 今度は魯粛と諸葛瑾も孫権の傍について観閲の供をした。兵士たちが各々の役務に励む中を歩いて回りながら、しみじみと魯粛は言う。
「いや、素晴らしい限りです。先程の凌校尉の軍営もそうでしたが、戦巧者というのはああいうものなのでしょうな。わたくしも故郷にいた頃は邑の若い衆を集めて武芸や兵法など学ばせておりましたが、どこか付け焼刃のようなものでした。やはり戦を生業とし、常に戦場に立ってきた者たちは違いますね。将兵の別なく、こう、彼らの持つ空気が違う」
 魯粛が大いに頷く視界の向こうで、数人の兵士が何かを話して楽しげに笑い合っているのが見える。それを見つめながら、諸葛瑾が嘆息した。
「ああいう風に楽しげなのもとてもいいですね」
「そうですね……。彼らはいつも望まざる決死の下にありますから。ですから我々が出来得る限り彼らの生を尊ばなければ」
 この観閲はひとまずそれを見極めるためのものだ。兵士たちの生命を脅かす要素が、よもや軍の中にあってはならない。錆びた戟も、走れない馬も、能のない将も、戦場には不要なものだ。
「――私が無能でなければよいのですが」
「おや、張公と周公瑾を傍に置いたままでは無能の振る舞いはできませんよ」
 おどけたように言う魯粛に、孫権は思わず笑ってしまう。皆様方もですよ、と後ろの朱桓が彼の言葉を継いだ。
「それに俺と谷利もいるんですからね」
 ぐっと谷利の肩に腕を回した朱桓は、忘れないでくださいよ、と胸を張る。谷利も頷けば、孫権はどことなくほっとしたように笑って、ああ、と応えた。


 ◇


 この日最後に訪れるのは潘璋の陣営である。彼は凌操や董襲よりもまだ年若く、率いる兵馬も千に満たない。しかしこの軍は将軍府の管轄の中でも特殊で、呉邑内にある大市を監督する部隊としての機能を持っており、その実績というのも彼の軍勢が大市の取り締まりに就いた途端その月から強盗や殺人の類いがほとんど断絶したという報告があるほどだ。
 ――張昭曰く、より大いなる無法が惰弱なる無法を駆逐しただけのことに過ぎぬ、とも。
 孫権たちの一行が陣門前に来ると、衛士の一人がぱっと飛び上がり陣内に向かって、来られました、と大きな声で叫んだ。
「討虜様、ようこそお出でくださいました!」
「さあ、どうぞどうぞ中へ」
「へ? え? え?」
 衛士たちがわらわらと孫権の傍に集まってきてその手を引いて行く。おい、と怒鳴る朱桓と谷利が慌てて追いかけて走ると、連れて行かれた孫権が陣門をくぐった瞬間、兵営に太鼓と鉦鼓――銅鼓や指笛まで――の音が響き渡った。
 驚きに目を見開く孫権の前に潘璋が飛び出て来てその手を取り、ようこそ大将! と満面の笑みで彼を出迎えた。
「な…………」
 そこへ追いついてきた一行の一人、言わずもがな張昭が、口を戦慄かせる。
「何をやっておるか潘文珪ーーーーっ!!!!」
「うわっ張公! いたのかよ!」
 潘璋の言葉に、おったわ! と目を吊り上げる張昭は、孫権の手を取る潘璋の手を叩き落とし、その前に進み出た。
「つい先日与えた訓戒の意味も解せずまた貴様はこのような愚挙に走りおって!」
「ちょちょちょ待って、理由を聞いてくれよ、理由を!」
 両手を体の前に掲げて張昭の勢いを遮りながら潘璋は言い募る。なんですか? と孫権が尋ねるのを咎めた張昭だったが、潘璋が身を乗り出すのに押し出されてしまった。
「あのね、最近大将、全然詰め所にも顔出さないって陳将軍が言ってたんです。遠目で見ても元気ないみたいだったって」
 呉の城市警備を勤める軍の将である陳武と市場を統括する潘璋とはその職務上連携を取ることも多い。その場で何かやり取りがあったのだろう、快活な陳武の笑顔を孫権は脳裏に思い浮かべる。
「だからまあ、ちょっとでも賑やかにできたらって思ってさ。元気になってよ大将、討逆様のことは残念だったけど、俺たちがついてるからさ」
 にか、と潘璋が歯を見せて笑う。その明るい表情に孫権はしばらく言葉を返せなかった。
 潘璋は、孫権が初めて地方県長を務めていた頃にその下を訪れ、任用した一番最初の人物である。家計が圧迫されようと放蕩三昧で常に債主に追われているような有り様だったが、そのたびに出世払いで返す、とのたまっては豪快に笑っているような男だった。それが若い孫権には魅力的に見えて、孫権は彼のことがとても好きだった。
「……ありがとうございます、文珪どの」
「んふふ、いーっていーって。さ、好きなだけ見てってくれよ」
「心行くまで粗を探して晒してやろう」
 張昭の言葉に、やめてくれよ、と潘璋は肩を竦める。その二人の様子に孫権はまた笑って、彼の言う通りに心行くまで軍営の観閲を楽しんだ。


 ◇


 三日に及んだ観閲も、次の呂蒙の陣営で最後になる。
 この三日間の閲兵の中で、やはり軍団の長としてふさわしくない者、寡兵のため軍団として運用するにはままならない部隊も少なからずあった。武装や軍規に関する課題も多く出て来ており、しばらくはまたこれら諸問題の解決に努めなければならなくなる。
 兵士たちにたくさんの勇気と励ましをもらった。何度も死地に身を置きながらそれでも笑って孫権を迎えてくれる彼らに、己も一所懸命に応えたいと願う。

 別部司馬である呂蒙の部隊もその性質上兵数は多くなく、この観閲の目的からすれば真っ先に統廃合の検討対象となる部隊である。
 張昭は、呂蒙が元々孫策の側仕えだった経験と彼自身が呂蒙を推挙していることから、呂蒙の部隊に対してはどうも贔屓がちに見ているらしい。それは孫権も同様で、彼には詰め所で構ってもらったり、昨年には彼の護衛で共に許に遠征したりしたよしみもあって、このまま別部司馬として続投させたいという気持ちでいる。
「彼の実力がそれにふさわしいものであればね」
 対して周瑜や孫河は冷静である。こういったことに関しては、実際に戦場に立つ彼らの判断以上に頼れるほどのものはない。

 しかし、陣門をくぐった一行が見たものは、一様に赤い着物と脚絆をまとい、誇らしげに戟を構えて整然と立ち並ぶ呂蒙の部隊だった。
「し、子明どの、この有様は」
 ぽかんと口を開けた孫権が尋ねると、はい、と元気よく返事をした呂蒙は心なしか胸を張って言った。
「見目で敵を威圧し戦意を削ぐものです! 常に結束して事に当たり、息を揃えることが戦場での勝利を確実にするものと心得ます!」
 彼の言に、周瑜も思わず笑みをこぼす。
「よほど自隊を吸収されたくないと見える」
 笑ったまま小さな声で言う彼に孫河も頷く。呂蒙は弱年の頃から出世欲があった。加冠してすぐに彼の姉婿の率いる兵団にこっそり連なり、それが露見してひどく叱責された折にも頑として引き返すことはなかったという無茶な逸話を持つ若者で、孫策が彼を側仕えに迎えたのもそういった性格を気に入ったためであった。
「浅慮だなあー」
 ぽん、とその中に、一言放り投げられた。振り返ればにやついている魯粛がいる。
 むっと口をへの字に曲げた呂蒙が、何がですか、と苛立たしげに言い返す。
「あなたは戦場に立ったことがありますか! たった一人足並みが揃わないだけで百人千人の兵士の命が危険に晒されるのです」
「まあ殺し合いをしたことは幸いまだないがね。そのくらいは知っているよ」
「書物の上の戦争を知っているだけで物を申さないでいただきたい!」
 詰める呂蒙に魯粛は片眉を上げた。
「蛮勇だな。戦場に立つ前に出来ることが書物には載っている。上古から父祖たちが繰り返してきた戦いの歴史を知り、そこから学び取るのだ――如何にして戦争が避けられ、そして如何にして戦争は避けられぬものになるのか」
 二人の言い合いに呆気に取られている周囲をよそに、魯粛はさらに言葉を重ねる。
「討虜将軍が模索しているのはなるべく兵士たちを危険に晒さずに済む道だ。お前は戦って勝つことしか考えていないから見えていないようだがね。お前の率いる兵士の命はお前のものじゃない」
 呂蒙は顔を真っ赤にして、歯噛みした。慌てて孫権がその前に歩み出で、呂蒙の手を取る。
「魯子敬どのの仰ることも理のひとつ。あなたの仰ることも理のひとつ。これほど見事で、美しい軍を目にすることができる私は幸せ者です」
 孫権の顔を見つめる呂蒙に、彼は微笑みかけた。
「ありがとうございます、子明どの」
「…………、いいえ……」
 その様子を半眼で見ていた魯粛は、ぐい、と後ろから強く腕を引かれてたたらを踏みながら振り向いた。眉をぐっと顰めた周瑜が、あまり余計なことをするな、と声には出さずに口を動かす。魯粛は肩を竦めてため息を吐くと、はいはい、と返事をした。
「皆様方が妙にあれに目をかけているようだったから」
「あなたより古参ですし、討逆様、討虜様とも関わりの深い将ですからね」
「そうかい」
 周瑜に解放された腕を組み、魯粛はため息を吐く。
 観閲に向かい出す孫権とその側仕えたちを見送った呂蒙は、張昭と、魯粛の隣に立つ周瑜に目を向けた。魯粛を一睨みすることも忘れずに。
 ふん、と鼻を鳴らした魯粛は、孫権の後を追うために歩き出す。別に彼だって兵士を嫌っているわけではないのだ――ただ単純に、あの若者の物言いが気に入らなかっただけなのである。


 ◇


「あれ、結局呂子明どのの隊は増員ですね」
 ちらりと通達を覗き見た朱桓が言うのに、孫権は首肯した。
「ええ。ああいうのを見せられたら応えないわけにはいきません」
「魯子敬様が妙に詰めたときはどうなることかと思いましたよ。機嫌が悪かったんですかねえ?」
 首をかしげる朱桓に、そうは見えませんでしたが、と谷利が口を挟む。
 しかし、孫権はもの言いたげに渋面になる。谷利が孫権を呼ぶと、彼は苦笑した。
「私も初めに彼に会ったときには、ああいう風に追い詰められたからね。魯子敬どのには何か思うところでもあったのだろう」
「ああ……」
 そう言われてみれば、なんとなく思い当たるふしもある。同時に頷いた谷利と朱桓とは、書簡を束ねる雑務を再開した。これを呉邑にいる諸将の陣営に届けて、今回の観閲は仕舞いになる。
「でも、三日間楽しかったなあ。今度は全軍を集めて大々的に閲兵式をしましょうね、我が君!」
「…………」
 どうやら野望をあきらめてはいない様子の朱桓に、谷利は呆れたような目線を向ける。孫権は彼の言を受けて、そうですね、と笑って言った。
「そうだ。そのときは休穆どのも将として並んでみませんか?」
「えっ?」
 きっと格好いいんだろうなあ、と楽しげな孫権を見て、朱桓は顎に手を当てて考え出す。その様子に、谷利も思わず笑みをこぼした。