「…………討逆様」
「うん」
「…………お話が違うようですな」
「うん」
 そうみたいだなあ、と張昭に答える孫策の声はどこかおかしそうだ。そんな彼に対し、暢気にしてはおれぬと咎めたのは朱治である。
 先刻、孫策の弟、孫権は一人の従者を新たに己の側につけると言って兄の寵臣たちの前に連れてきた。彼はその者が丹楊郡宣城県の出だとのたまったが、臣たちの内にかの者がまとう衣服についた紋様の由縁を知らぬ者はなかった――なぜならそれは丹楊郡南部の丘陵地帯に隠れ棲む宗民のものであり、数ヶ月前に孫策の宿将、程普の軍勢が彼らと衝突しその宗帥を斬ったばかりであったから。まさか彼に兄を、討逆将軍府を謀る腹積りがあるとは思わないが、ならばなぜ急に自身で側仕えを選んで連れてきたのか、そしてなぜその出自を偽るのかは明らかにせねばならぬとは、その場に集った全員の総意であった。
「とは言え、出自を偽るのほうは簡単だと思いますよ。単純明快、彼が山越では伯符、そして我々の許可を取り付けられない“はず”だからです」
 大仰な仕草で両腕を広げ、同意を得るように呂範が一同を見渡す。さもありなん、と頷き腕を組んだ孫河が困ったように眉をひそめ、上座で悠然と胡座を掻く孫策を見遣る。
 彼は大して驚いていないような風情である。それどころか困惑する臣らを楽しそうに眺めているようですらあった。
「では……なぜ唐突にご自身の従者として山越を連れてまいったのでしょうか。今までは給事も置かぬような有様でしたのに」
「あれは私に心配をさせまいとしているんですよ」
 張紘の疑問に答えたのは他ならぬ孫策である。その意を問う張紘の目線に、彼は眦をすぼめて微笑む。
「親兄弟、親類縁者にそれぞれ力が集まれば、同じだけ野心も集まる。膨れ上がればあとは弾けて離散の一途。そうして最悪殺し合い。こんなばかなことが歴史上何度も繰り返されてきたのです」
「伯符、お前たちは決してそうはならない」
 その言を咎めるように眉を顰めた孫河に、そうかもな、と答えて孫策は胡座を掻く膝に肘を置いて頬杖をついた。
 さて、何を隠そう兄たる己にも今回の弟の所業は不可解の一言に尽きる。宣城の戦いの顛末は報告を受けて知っているし、弟が捕虜にした山越をすべて解放してしまったことを非難するつもりもない――そういうやり方もあるだろう、というだけのことだ。己ならば、そして他の将たちならばそうはしないだろう手段を、弟は素知らぬ顔で選び取る。それはいつも孫策にとって素直な驚きと感心に繋がった。真似はしないが、という前提付きで。
 弟が連れてきた少年は、己の出し抜けの問いにも流暢に答えてみせた。他方、弟は実に心配そうに少年を見つめていたのだからお前は秘匿するつもりがあるのかとつい問い詰めたくなる。彼らの隠したい秘密が暴かれることがもしあるとしたなら、それは多分に弟のせいであるだろう。少年が口を開くまでの間は、ただ思考のための数瞬でしかなかった。
 そうして発せられた言葉は、彼の衷心からの言葉であったはずだ。少なくとも孫策はそう見ている。口達者な己の古馴染みならいざ知らず、年端もいかぬ山越の少年があれほど見事に繕えるとは彼には思えない。
 ――恐らく、“何か”があったのだ。そしてそれは大方、大したこととそうでないことの両面を併せ持っている。
「まあ、様子を見ましょうか」
 ふん、と鼻で笑ってそう言う孫策に、張昭はいかにも不服であると物申したげに眉根を寄せて見遣ってくる。
「何か起こってからでは遅いのですよ」
「例えばあの子供が私を殺すために権に取り入ったとかですか」
「そうは申しませぬ」
 強い口調で否定するのは張昭自身に思うところがあるからで、孫策はそれを否定するつもりもない。
 彼はニヤリと笑みを返して続けた。
「もし向かってくることがあるなら、そのとき殺せばいいだけのこと。ご存知の通り私は強いし、私の左右も精鋭です。ご心配には及びませぬし、あの子供一人の力で一体何ができましょう」
 それはそうでしょうが、と口にしたきり続く言葉を見つけられずに押し黙った張昭にチラリと目線を向け、まあまあ、と仲裁するかのように呂範が声を上げた。
「とりあえず彼については判断を据え置くということで。もしぼろが出そうなら私も少し構ってみるよ。お前の言う通り、彼一人で何かができるとも思えないしね」
「よろしく、子衡どの。それでは、まずはこの場は散会ということで」
「すみませぬ、殿。ひとつ」
 張紘が引き留めるのに皆が立ち上がりかけた腰を再び下ろす。どうしたかと首をかしげる孫策に彼は、武官の皆様には、と言った。
「どのようにご報告を? 特に程公とその麾下の将士らは先の征伐の功労者ですから、あの紋様についてもご存知でしょうし」
「うーん……」
 確かに、懸念があるとするならば血気盛んな武官たちである。特に弟は武官連中と交わることを好んでいて、日頃から暇があれば兵舎に入り浸っていた。必然的にあの少年は故郷の同胞を屠った者たちと頻繁に顔を合わせることになる。或いは少年の素性が心ない者たちに知られ、ひどい仕打ちを受けぬとも限らない。孫策が首長を務める府内にあっても、末端の官吏や兵卒らまでは注意が行き届かぬのが現状であった。
「権と共にあればある程度は安心だろうが、そうですね、程公以下、校尉、軍司馬までは伝えておいたほうがいいかもしれませんね。ああ、なんであの子供のためにこんなに気を回さなくちゃいけないんだろう」
 厄介だな、と心にもないような表情で孫策は言う。その様子を見て孫河は目を細めた。
「楽しそうだな」
「権の“悪巧み”をいつでも看破できる己の慧眼には我ながら感服するよ。ね、子衡どの」
「あはは、仲謀どのはそういうところは成長がないな」
 一年前の出来事を思い出して笑い合う二人に、朱治が呆れたように嘆息してからごほんと咳払いをする。
「では、私から程公に伝達してまいります」
「ありがとう、君理どの。あなたの言うことなら彼も聞き入れてくれるでしょう」
 そうして朱治が立ち上がるのに合わせて、その場は散会となった。


 ◇


 さて、一人になった孫策は彼の左右を伴い政庁に備えられた療養所に向かった。そこにはこたびの戦闘で人事不省の重傷を負い、未だ目覚めぬ周泰がいる。彼と彼の幼馴染である蒋欽とは孫策が袁術の下にいた頃に手ずから取り立てて育てた将で、今回の周泰の大怪我について孫策は非常に心配していた。他方、虫が知らせでもしたのか征西の軍勢の最も後方に連なっていた蒋欽が己の了解を得ずに部隊を取って返し、結果としてそれが宣城の戦闘で事なきを得るに繋がったことにはとても感謝している。ただ、独断専行であったため、この戦果を取り上げて昇進させるというわけにはいかなかったが。
 足早な孫策が向かう先から一人の衛士が走ってくる。彼は主君の姿を見とめるとぱっと晴れやかな笑顔になって、滑り込まんばかりの勢いで己の前に跪き拱手した。
 周将軍がお目覚めになりました、と衛士は上擦った声でそう告げた。随分と喜ばしい様子で、その気持ちは孫策にもわかる。ありがとうとその肩を撫ぜ、彼らは連れ立って療養所に急いだ。
 療養所の扉を開ければ室内には蒋欽もいて、二人して振り返って微笑んでいるのには孫策も思わず相好を崩す。しかしすぐに、全身に包帯を巻いた周泰の痛ましい様子に眉をひそめた。
 昇進を告げれば驚いた様子もなく淡々と礼をする彼に、さては蒋欽だなと孫策は察して彼をちらりと見遣る。小首をかしげて笑うのは、彼がしてやったりという気持ちを表に出すときの癖だった。
「――とは言えその怪我じゃ、一月ほどはかかるか」
「いえ、すぐにでも動けます」
 ――これだ。周泰はいつもそうして無茶をする。それだから満身創痍なのに、咎める己の言葉などまったく意に介さない風でまたすぐに怪我をするのだ。孫策は万感の思いを込めて彼の額をはたき、そのまま包帯に覆われた眉間に指を滑らせる。
 傷跡の感触が確かにある。
 思わずこぼれ出そうだった嘆息はどうにか飲み込んで、周泰に一月はじっとしているようにと訓戒を与え孫策は療養所を辞去した。
 回廊の途中で彼はようやく、すべきことをひとつし忘れたことを思い出した。周泰と蒋欽とに、弟の連れてきた少年について訊きたいと思っていたのだ。
 戻ろうかな、と立ち止まったところに、視界の向こうから歩いてくる噂の二人――弟と谷利とを見とめ、思い出すのが遅かった、と柄にもなく気恥ずかしくなる。
 彼の考えなど知らぬ弟は孫策の姿を見るや、討逆様、と走り寄ってきた。
「どちらへ?」
「もう政堂に戻るところだよ。療養所に行ってきたんだ。幼平が目を覚ましたぜ」
 孫策の言葉に彼はぱっと表情を明るくし、しかしすぐに眉を下げて唇を噛んだ。孫策は彼の頭をそっと撫ぜ、行って来たらいい、と口にする。
「…………はい。行って来ます」
「ふふ。おお、谷利」
 話の区切りに、まるで今気づいた風に声を掛ければ彼はぎこちなく拱手してみせる。その肩を叩いて、精が出るじゃないか、と笑いかけると、彼はどこかむっとしたように小さく口を尖らせてぺこりと頭を下げた。
「何度も言うようだが、権をよろしく頼むよ」
「…………無論です」
 そうして孫策は療養所に向かう二人と別れて、兵舎に足を運んだ。宣城で戦後処理をしていた将の一人が朱然だったことに思い至ったのである。
 孫策が兵舎に併設されている練兵所に姿を現すと、それぞれ鍛錬や勉学に励んでいた兵士たちが一斉に礼をする。そのなかに朱然を呼ばわれば、未だ少年らしさを面に残す小柄な将が人ごみの中から孫策の下へ駆け寄ってきた。
「何でしょう? 討逆様」
「ちょっと訊きたいことがあってな。こっちに来てくれ」
 孫策が練兵所の隅にある木陰に向かうのに、朱然は不思議そうについて行く。彼を手招いて並んで木の根元に腰を下ろすと朱然は少しだけはにかんで、もう何ですかあ、と上擦った声を上げた。
「谷利のこと、教えてほしくてな」
「え? 谷利?」
 驚いたように目を丸くした彼はすぐに首をかしげ、どういうことをですか、と逆に問うた。
「俺、あいつのことなんかほとんど知りませんよ」
「どうして権について来たのかも?」
「えっと……」
 朱然は地面に目を逸らし口を開いたり閉じたりしている。元より隠し事ができないたちの彼を助けるように、宣城の民と聞いた、と孫策が言えば、彼はほんの一瞬目を丸くして、それから何度か頷いた。
「なんか……そう、仲謀様の役に立ちたいって! そんで、仲謀様はほら……報告にもあったでしょう、ちょっと迂闊な奴……方だから、俺たちからも勧めたんです。ちゃんと左右に人を置くのがいいって」
 彼の言葉の端に見えた気安さに口許を緩ませて孫策は、それで谷利を、と問う。
「はい」
「それはなぜ? あいつ以外にも人はいる。我が将軍府には屈強な兵士たちが揃っている。あいつでなくともよかったはず」
 孫策の言を聞くうちに朱然は少しだけ寂しそうに眉を寄せた。それに気づいた孫策が思わず口を閉ざすのを見た彼が、認められませんか、と孫策に訴える。
「谷利はいい奴です」
「……先ほどはあいつのことを知らないと言ったのに?」
「いい奴なことは知ってます。それに谷利は、絶対に仲謀様を守るから」
 なぜ言い切れる、と目で問う孫策に、朱然は居たたまれなさそうに視線を地面に向けた。口を尖らせた彼はもうあまり己と会話を続ける気にはなれないらしい。
「……蒋別部司馬と陳校尉にお尋ねになってください。俺からじゃ上手く言えない。あいつがだめなら俺を仲謀様の給事にしてください」
「それはできない」
「じゃあ」
「お前も大概、意固地だな」
 あいつを罷免したりはしない、と安心させるように言い彼の肩に手を置けば、朱然はひとつ頷いて、よろしくお願いいたします、と深く頭を下げた。

 練兵所を去り、療養所に逆戻りする。恐らく一番話ができるであろう陳端が報告を終えてすぐに会稽の役所に向かってしまったことが惜しまれる。彼の帰呉は七日後の予定であった。
 再び姿を現した己に、療養所に一人残っている周泰が目を丸くした。
「う、動いておりませんよ」
「そのようだな。いや、それはわかっているんだけど」
 蒋欽の居所を尋ねると周泰は、厩舎に向かいました、と言う。入れ違いだったか、と思わず深く嘆息してしまった己に、彼は不思議そうに首をかしげた。
「いかがなさいましたか。あいつが何かしでかしましたか?」
「いや、あいつは何もしていないけど……ああ、幼平、そうか、お前も」
 胡乱な言葉を述べながら傍らの床几に腰を下ろした孫策を周泰はいよいよ訝る。しかし孫策が、今日権が連れて来た側仕えのことなのだが、と言うと彼は、ああ、とひとつ首肯した。
「やはり知っているか。お前は戦闘が終わってすぐに昏倒したということだったからよもやと思っていたのだが」
「いえ、そうではなくて……先ほど仲謀様が来られた際に紹介されて、これから勤めると言われただけで」
「ふうん?」
 孫策の相槌に彼は何を感じ取ったのか、ご安心ください、と口にする。
「仲謀様を頼むと重ねて言いつけてあります。彼は必ず使命を全ういたします」
「…………」
 生真面目な彼が如何にも真摯な表情を浮かべて言うのに孫策は、そうか、と微笑み返すだけに留めた。

 厩舎に向かう孫策は次第に苛々してきていた。大体、なぜ己があの少年のためにここまで方々を駆けずり回らねばならぬのだ。なぜこんな徒労を重ねて、何を知りたがっているのだろう。
 ――“不服従民”の子供が、なぜ弟を慕い付き従うようになったのか。
 山越は征伐すべき存在であり、敵対者である。それが孫策たちの共通認識で、武をもって従わせこそすれ、山越の側から共存を求めてくるなど及びもつかぬことであった。だが、あの少年はそれを成し得、そして弟はそれを受け入れている。このことは孫策の理解の範疇にない。
 宣城の戦後処理の報告によれば、陳端はともかく朱然もまた山越の者らと友好的に関わっていたという。先ほどの彼の様子は、ともすれば孫策の裡にある山越に対する憎悪を繊細に感じ取ったからなのかもしれない。
 弟の連れてきたあの茫洋とした少年に対する底知れない不安感。だが弟やその友人たちは、既に彼とは気安いやり取りをするまでの関係になってしまっている。
 目前の厩舎から蒋欽のおかしそうな高らかな笑い声が聞こえてきて、孫策は、ほう、とひとつ溜め息をついた。
「何がそんなに楽しいんだ?」
「あれ、討逆様! 狩りですか?」
 入り口から顔をのぞかせた己に、馬の毛並みを整えていた蒋欽が大して驚いた風もなく笑顔のまま声をかける。その隣に従兄弟の孫暠の姿があって、孫策は目を丸くする。ちょうど一緒になったんだ、と言って彼は蒋欽と同じように眦をすぼめて笑った。
「そっか、いや公奕、狩りじゃないんだ。ちょっとお前に話があって……伯皓、少しいいかな」
「いいよ。でも、私が聞けない話?」
 問われ、そうでもないな、と答えた孫策は彼らの囲む馬の周りに己も立った。
「伯皓はまだ会ってないかもしれないけど、こないだの宣城の後に権が一人、側仕えにするって言って連れてきた奴がいるんだ」
「へえー。なんでまた? どういう風の吹き回し?」
「ほら」
 そう思うだろう? と言って、孫策は蒋欽を見る。彼はというと目を細めて首をひねるだけだった。
「いいじゃないですか、いることのほうが当たり前でしょ?」
「なぜ急に、あいつを連れてきたのかってことなんだよ。お前は宣城の戦後処理でしばらくいただろう? 何があったのだ?」
 孫策の問いに蒋欽は、さあ、と返事をする。
「一度呉に戻って、また宣城に戻ったときにはもういましたからねえ。すっかり義封とも仲良くなっていたみたいだし……」
 そうしてちらりと孫策に送られた蒋欽の眼差しは、何か孫策の意図を掴み取りたいかのように見えた。
「困ることでもあったんですか?」
「いや……」
 言い淀んだ孫策を見ていた孫暠が、どこの出身なんだ? と尋ねる。ぱ、と顔を上げた孫策が蒋欽を見ると彼は顎に拳を当て、小首をかしげて微笑んだ。
「俺は確か宣城の子だって、聞いてましたけど」
「なら、出自だろう? 仲謀の側仕えにはあまりに身分が悪いと、そうだな、張公あたりが」
「あ、聞き捨てなりませんね、伯皓どの。俺は寿春のしがない小役人の家に生まれましたけど、こうして討逆様に取り立ててもらって……」
「ああ、すまない、悪かった悪かった。それならば違うな。何も問題はない」
 ニヤニヤと笑いながら詰め寄る蒋欽に、こちらも半笑いで両手を挙げて降参の意を示す孫暠。二人のやり取りを眺めながら孫策はふと、問題はない、とその言葉を反芻した。
 今の蒋欽の態度で、恐らく谷利の出自を謀る策は宣城の戦後処理に関わった将士の総意であるらしいことは察せられた。ともすれば彼、あるいは未だ話を聞けずじまいの陳端から出された策であるかもしれない。
 孫策は、そうせねば話をつけられないであろうと思われた己と将軍府とをこのとき初めて大いに残念に感じた。大概意固地なのは、一体どちらだというのか。
「……まあ、わかった。ありがとう、公奕」
「? いいえ、何のお役にも立てませんで。俺よりも義封や陳校尉が当時の状況については詳しいかと思いますよ」
 蒋欽の言葉に曖昧に笑みを返し、孫策はその場を後にした。

 政堂への帰途、過ぎかけた練兵所からわっと歓声が上がり、孫策はそちらに歩を進める。ひょこりと詰め所を覗けば、孫策に気づいた兵士の一人が拱手した。
「何をしているんだ?」
「孝廉様の新しい側仕えがどれほど戦えるのかと、陳別部司馬と打ち合いをしているんです」
「し、子烈と?」
 七尺七寸の身の丈は孫策麾下の将のうちでも高い方に入る陳武は、もちろん腕っ節にも相当の自信がある。率いる部隊も揃って屈強な精兵ばかりの彼を、確かに弟は周泰や潘璋と同じように特別に慕っていた。
 その彼と、未だ成長途中で上背も遠く及ばない谷利とが打ち合えば、この将軍府に来て早々の大怪我に繋がりかねない。
 焦って練兵所に顔を出せば、瞬間、ダン、とけたたましい音を立てて孫策の足許に転げてきたものがある。見れば、案の定谷利であった。
「谷利!」
「あ……?」
「討逆様!」
 中で打ち合いを観戦していたらしい兵たちが揃って礼をするのを制し、ひっくり返った谷利を助け起こせば、慌てて横から現れた弟がそれを手伝った。
「子烈、一体何をしてるんだ」
 木剣を片手に悠然と歩いてくる陳武に問えば、彼は首をかしげて、腕試しですよ、と明るくのたまう。
「仲謀様の側仕えになるなら俺に勝てなきゃ」
「待て待て、そんなら誰も権の側にはいられない」
 二人の応酬に、え、と素っ頓狂な声を上げたのは他ならぬその側仕えであった。
「この人に勝てなければ認められないと」
「権がそう言ったのか? 違うだろう。こいつに勝てる奴がそうそういるもんか、冗談を間に受けるなよ」
 床にへたり込んだまま信じられないような表情で己を見上げてくる谷利に、陳武は哄笑する。
「だが、強くなけりゃ戦闘で仲謀様を守ることもままならないのも事実でしょう。先の宣城では幼平ほどの武弁者があんなに深傷を負ったんだ、山越もただ抗うばかりでなくなってきているのは火を見るより明らか」
 その言葉に孫策は気取られぬよう谷利を横目で見た。彼の向こうにいる弟までもがはっとしたように谷利を見ていて、だからお前は、と思わず彼の肩を小突きたくなってしまう。
 そんな二人をよそに、唇をぐっと引き結んだ谷利は覚束なく立ち上がり、再び木剣を構えて陳武に対した。
「全くその通りです。子烈どの、俺に稽古をつけてください」
「利……」
 弟の情けない声音にちらりと振り返った彼は目を細め、見ていてください、と言った。
「この人に膝をつかせてみせます」
「あ、言ったな、こいつ」
 とんとんと木剣の刀身で肩を二度叩き、くるりと手首を捻ってそれを回すと、陳武はその切っ先を谷利に向けて身を低くした。彼の総身から放たれる威圧感に、谷利は唾を飲み込む。
 横から朱然が、骨は拾ってやるぞ、と囃し立てるのに平然と、ありがとうございます、などと返しているわりには全身が緊張しているようで、孫策はその様子がおかしくて笑ってしまった。
「もう少し弛緩して柔らかくいなせ。子烈の剣は重く強い。受けずに流すことを第一に考えろ」
「討逆様、贔屓しないでくださいよ」
「愛する弟の新しい側仕えだぞ。贔屓してやらないでどうする」
 それもそうですね、と言いながら構えを解かない陳武は、じりじりとすり足で練兵所の中央へ後ずさる。それに倣うように谷利もじっと彼を見据えたまま一歩、二歩、足を踏み出す。
 ふ、と彼が息を吸い込む音が聞こえた。
「あ」
 ――今ではない、と孫策が思うところで、谷利は勢いよく床を蹴った。


 ◇


 七日後の夕刻、陳端が会稽より戻った。当地での山越征伐の経過を見るための孫策の目としての訪会であり、帰還した彼はおおむね恙なく、という報告を携えていた。
 政堂での会見を終え、孫策は陳端を奥の政務室に招いた。張昭ら他の重臣は含めず、また左右の者にも退席させるという念の入れように陳端は目を細める。
 着席を促され用意された席のひとつに胡坐を掻くと、孫策はすぐ目の前にすとんと腰を下ろした。
「谷利のことですが」
「ああ」
 そう聞いただけで彼は得心したのかにっこりと笑み、よくやっていますか、とまるで親代わりかのような穏やかな声音で問うた。
「うん。初日に子烈に打ちのめされたくらいで、あとは何ともありませんよ」
「……なぜそのようなことに?」
 途端、怪訝な表情になる彼に孫策は苦笑を返す。
「あいつの冗談を間に受けたのです。己に勝てねば権の側仕えとしては認められぬと」
「はあ。殿、程公、元代どの……あとどなたが勝てますでしょうか」
 指折り数える陳端に孫策は大笑いし、笑顔のままに彼に顔を近づけた。
「権に谷利の出自を偽る策を献じたのはあなたですね」
 その言葉に、陳端も一層笑みを深める。
「策を献ずるなどと大仰な。物事を円滑に進めるための忠言に過ぎませぬ。それに、初めに思いついたのは公奕どのです」
 孫策の脳裏に蒋欽の小首をかしげた笑みが浮かぶ。呉郡へ帰還する一行と別れ谷利が彼の郷里に戻っていた頃、軍勢が休息を取った広徳県ではっと思い出したように蒋欽が発した「そういえば山越の側仕えって、皆さん怒りませんかね?」との一言から彼らは急いで一計を案じた。その後合流した谷利との摺り合わせの時が持てなかったことだけが心残りであったという。
「あいつは動じる様子はありませんでしたよ」
「ならばよいのです。孝廉様がそう口にすれば、皆様は異状を察して深入りせずにその場は置くだろうとは考えておりましたので」
「ああ、全く言う通りでした」
 恥ずかしそうに頭を掻く孫策に、陳端は居住まいを正して胸を張った。
「彼らの本拠は宛陵南部の丘陵地帯にある複数の集落から成る隠れた屯です。名は阜。人口は四千から五千程度かと思われます。周辺にもいくつか邑はあるようですが、虎の神を信仰する宗民が住まうのはこの阜屯のみです」
「うん」
「宣城の修復を手伝った者たちによれば、しばらく阜屯は静観の構えを取るであろうということです。無論、彼らの方からもそう働きかけると。捕虜にした阜兵の一人が宗帥の縁者であるということでした」
「わかりました。彼らは谷利がうちにいることも承知しているのでしょう?」
 彼は頷く。そのために孫権は谷利を一度郷里へ戻したのだと陳端が言うと、孫策は満足そうに二度首肯した。
「ならばこちらからも阜屯に手出しはしません。ただし、暗黙の了解ということで。お互い何か起きないとも限りませんしね」
「ええ、それがよろしいかと」
 陳端がそう返事をして、ふと室内に沈黙が降りる。
 何か言おうとしてか陳端が目を伏せるのを孫策は見ていた。しかし、彼は一向に口を開かない。
 孫策は、何も、と言った。
「何も、問題はありませんね」
 陳端は顔を上げ、目を丸くしてしばし孫策を見つめ、それからひとつ、頷いた。
「ええ。何も問題はありません」
 その答えに孫策は満足しておもむろに立ち上がり、暗くなりましたね、と呟いた。晩秋の日暮れは早く、政務室の北向きの窓の向こうは既に紺青の闇を湛えている。すぐに夜が来る。
「こんな夜に、彼は一人きりで歩いてきたのです」
 窓を見つめていた孫策の背に、ささやくような陳端の声がそっと触れた。顧みると莞爾とした笑みを浮かべた彼がゆっくりと揖礼し、失礼いたします、とだけ言って政務室を辞去していった。


 ◇


 将軍府の入っている城の北側には広い庭があり、府に詰める将兵たちのために開かれている。小規模な野外演習や馬術調練、或いは遊びなどに利用され、常から賑わいを見せる庭は孫策の政務室の窓からも見下ろすことができ、彼は特に将兵たちが楽しそうに騒いでいる様子を見ているのが好きだった。
 青天の下、若い将兵らの声に混じって弟の笑い声が窓から政務室に届いて、孫策は口許を緩めて向こうを覗き込む。
 庭では弟と朱然、門下循行であり弟の学友である胡綜、そして谷利とが陳武の指導を受けながら馬術の調練を行っている。陳武はすっかり彼らの兄貴分のようであった。
 弟と朱然は彼らが出会った頃より共に修練に励んできた仲で慣れたものだが、どうやら谷利は馬に乗るのはこれが初めてらしい。振り落とされないように背中に必死にしがみついているのに、馬はそれが気持ち悪いようで忙しなく首を振っている。結局谷利は転げ落ちてしまって、孫策は小さく笑った。
 弟が彼の愛馬で軽やかに谷利に駆け寄って行くのを見、孫策はいよいよ窓から身を乗り出す。
「おうい、谷利!」
 孫策の姿に気づいた五人が一斉に振り仰ぎ、陳武などは嬉しそうに手を振った。
「精が出るな、子烈!」
「ええ、教え甲斐があります!」
 彼に手を振り返し、孫策は尻餅をついたままの谷利に顔を向ける。
「権の馬術は見事なものだぞ! そんな様ではついて行くのも大変だな」
「討逆様、そのようなことは……利は今練習し始めたばかりなのですから、これから上手くなりますよ」
 なあ、と己の傍らに降り立って手を差し伸べる弟に戸惑いながらも谷利はそれを取る。助け起こされた彼は弟に謝意を述べると、ニヤニヤと口許に笑みを浮かべる孫策を見上げ、
「知っています」
と言った。
 ぱちりと瞬く孫策に、彼は今度、見ていましたから、と続ける。その言葉に、弟の馬術のことか、と孫策は得心して覚束なく頷き返した。なぜか、そうすることしかできなかった。
 ――彼は何を見たのだろう。
 彼の口ぶりから、今このときのことでないことは判然としている。であれば件の宣城の一戦だ。報告によれば、山越の宣城突入は南の城門からである。急報を受けた周泰はすぐに弟を北門から逃がし、弟は城壁伝いに城の西側へ出、そこで征西の軍勢から取って返してきた蒋欽の部隊と合流し、西門から本陣へ戻ったという。その時点で既に弟の騎馬は蒋欽の部隊の中にあり、彼個人を特定することは――ましてや敵である山越の目からは――困難であると思われた。
 では彼は、どこで、どのようにして――暗い闇の中をたった一人きりで進み続けるほどの勇気を得た“何か”を?

 不意に孫策は、今よりももっと幼く小さかった頃の己を思い出した。

「…………、……足に力を入れるな。初めは緊張するかもしれないが、それはお前だけではなく馬もそうなんだよ。背筋を伸ばして、柔らかく乗るのが肝要だ」
「! あ、ありがとうございます」
 孫策からの指摘に虚を突かれた谷利は、うろたえながらも頭を下げる。今俺が言おうとしていたのに、とおかしそうに陳武はのたまい、谷利に歩み寄ってその背を強く叩いた。
「さあ、もう一度だぜ」
「討逆様、見ていますか?」
 弟に尋ねられ、孫策は首を振る。仕事があるから、と言うと彼は残念そうな表情をしたが、すぐに明るく笑って頷いた。彼は振り返り、朱然と胡綜とが甲斐甲斐しく世話を焼く谷利と馬の方へと歩いていく。
 孫策は目を細めてしばらくそれを眺めていたが、谷利が馬の背にようやっと乗ったところで室内へと戻っていった。

 やがて冬の来たるを告げるであろう晩秋の太陽が、呉郡の城邑をさやかに照らしている。
 人々のさざめく声を遠くに聞きながら仕事を続ける孫策の坐する政務室に静かに落ちる影もまた、穏やかに揺らめいて輝いていた。