「于将軍!! しばしお待ちを!!」
 つい、そんなふうな“昔の呼び方”が口からまろび出てしまうくらいには、孫権は動揺しながら靴を脱ぎ捨て玄関から暗がりのリビングルームに駆け込んだ。しかし時すでに遅く、客人である于禁のシルエットは低いリビングテーブルの上にある散らばった写真たちに目を落としてしまっている。
 ――遅かった……。
 呆然と扉の前で立ち尽くす孫権を振り返り、白髪の彼は小首をかしげた。
「どうかなさいましたか」
「え……あ、ああ……」
 この反応は一体……もしかして間一髪、見られていないのか? 孫権は恐る恐る「ご覧になりましたか」と口にする。于禁はマスクをつけたままの口許に手を遣り、それから、
「そうですね。お忙しいのは承知しておりますが、お時間を作って整理整頓をなさってもよろしいかと」
と答える。
「あ、はは……本当にそうですね。つい……」
 そうしてリビングルームの電気を点けた孫権は、于禁が再びテーブルの上に目線を落とすのを見る。
「ああ、やはり、私でしたか。上手に撮っていただけて嬉しいです」
「…………!!!」
 ――やはり見られていた……!
 孫権は膝からくずおれ、まるで処刑人に首を差し出すかのように床に両手をついた。
「本当に申し訳ありません!!」
「えっ? なぜ……」
「こ、このような……あなたの写真を……」
「仕事柄、そういうこともあるでしょう? それに、私も許諾していますから」
 同じように眼前に膝をついた于禁に肩を優しく撫ぜられても、そうじゃないんです、と孫権は叫びたかった。確かに己の現在の職業はフォトグラファーで、時折――冗談まじりや、趣味の撮影であると嘯いて――于禁のポートレートを撮影させてもらってもいる。だが、孫権はそれらの写真を本当に私的に溜め込んでは毎日のように悦に入ったり、ごく稀に些か口に出すのは憚られる私用に使ってもいるのだ。
 何も知らない于禁の目許は微笑んでいる。きっとマスクの下の口許だってそうだろう。穏やかで、しがらみのない笑みで。
 彼の写真を初めて撮影したとき、孫権の全身に喜びが満ちた。普段の生業として野生動物たちや風景を撮影しているときのえも言われぬ静かな興奮とも、雑誌用に人物モデルを撮影しているときの単純で真摯な感情とも、家族や友人を撮影しているときの愉快さとも異なる不思議な感情だった。
 ほしかったものが手に入った、と思った。
 “かつて”以上に深まった親睦ゆえに多少の調子に乗ったとしても于禁はある程度までなら孫権が彼の空間に踏み込むことを容易に許した。だがそれゆえに、孫権は飢餓感に苦しむことになる。
 もっと彼の深いところまで手に入れたい――それが未だ叶わぬゆえに、彼を映した写真を代わりにしているのだ。
 なんという羞恥心だろう。于禁の優しげな眼差しに晒されて、孫権は縮こまって消えてしまいたくなった。
「それにしても、まるで私ではないようです」
 于禁はいつの間にかリビングテーブルの傍に坐り込んで、しげしげと彼自身が映った写真を眺めている。そのうちの一枚を彼はそっと掴み上げた。
 ――ああ、その写真は先日、あわわ……!
 声にならない声が孫権の内奥に渦巻く。
「こんな、徒らに歳ばかり重ねたような男であっても魅力的に画面に映ることができる。プロとはすごいものですね。こんな言い方をしては失礼かもしれませんが……」
 その言葉に孫権ははっとなった。
「いえ、あなたが魅力的だからです」
 于禁がぱちりと瞬いて孫権を見る。
「お上手ですね」
「本音です。もしくは、私があなたを魅力的に撮りたいと願っているから、とも言えます」
 そこで于禁は少しばかり困ったように眉根を下げた。
「ありがたい話ではありますが……私はこんなですし」
「文則さん、すみません、こんなつもりではなかったのですが、でも聞いてください。あなたがどんなでも、私にとってあなたは魅力的なんです。どんなところが、と逐一説明して差し上げることもできますよ。もう“昔”じゃありません。ご自分を卑下なさらないで」
 孫権ににじり寄られて、于禁は思わず尻で後ずさった。すぐに、リビングテーブルに背中が当たる。孫権は彼の体を挟み込むようにしてテーブルの縁に両手をついた。
 于禁はいよいよ困惑して孫権を見上げる。“かつて”とは異なり顎髭のない広い喉許からゆっくり目線を上向かせれば、“かつて”と同じ爛々と輝く若い瞳がそこにある。
「あ、の、仲謀さん……」
「すみません、つい」
 口先ばかりそんなことを言いながら、孫権にはそこから退こうという意思がない。
「私は“あなた”を撮ったんです。私がほしいのは“あなた”ですから」
「え、と……その……」
「ずっと――そう言いたかったですよ」
 孫権の視野で、彼の影を被った于禁が気恥ずかしそうに瞼を伏せ、眦を赤らめながら頷いた。
 ほしかったのだ、手に入れたかったのだ――“かつて”も。そのことに気づいたのは、“今”になってからだったけれど。
 孫権はそっと彼に顔を寄せる。
「マスクを外してもらっても……?」
 答えはなく、しかし于禁はおもむろに、緊張に震える骨張った指で耳にかかった紐を外していく。白い不織布の下から現れた、確かな彼の相貌は――

(――ああ、“あなた”だ。もう一度、巡り会えた)


 ◇


 少しばかり俯き加減で、落ち窪んだ目許に影が落ちる。瞼のうえに木漏れ日が揺れて、彼は薄い唇にほんの僅かだけ笑みを乗せた。
 さらさらと葉ずれの音が二人の頭上で歌っている。
 ――ずっと見ていたい。
 そう思ったときには、彼はすでに顔を上げてこちらを見ていた。
「……いかがされましたか」
 彼の色の薄くなった目の裡に、黒々とした己の輪郭が映っているのを孫権は見つけた。
 ――焼きついてしまえばいいのに。
「いえ、将軍の御髪に葉がついておりましたので」
 そう嘯いてありもしない緑葉に右手を伸ばし、どさくさ紛れに彼の白髪にそろりと触れて、孫権は離れる。
「これは、お手間をかけました」
「そのように仰らず」
 深々と拱手され、孫権は苦笑する。下げられた頭からゆるやかに襟首に下りていくうなじにやはりまだらに光が踊り、目を細めたところで相手は顔を上げた。後ろ手に隠した右手の指をすり合わせ、孫権は表に笑みを浮かべてみせる。
 ずいぶんと細く頼りない髪の毛だった。己のそれは顎髭までいかつい癖っ毛なのでなおさら孫権はそう思う。戯れに親近監たちの髪をかき混ぜることもあるが、彼らもまたはりがあって元気な髪の毛の持ち主たちだ。
 ――千切れて飛んでいってしまいそう。
 草原や木々の間を渡る蜘蛛の遊糸ならまだよくて、彼の白髪は少しの厭わしさも残さずに風景のなかに消えてしまいそうだ。頬に触れたことすら気づかせぬまま。
 只今の立場が立場であるとはいえ、歴戦の勇将にするにはあまりに無礼な評であろう。孫権にも節度はあるので口にはしない。
 彼は――于禁は寡黙で、二人の間には孫権の努力がなければ会話の糸口がないことが多い。一方で表情にも大して出ないたちなのか、それについて于禁が煩わしさを感じている様子が然程見られないことは少しばかり助かる。孫権は彼に会いたくてここを訪ねるのであって、図太く知らないふりさえしていれば常に門戸は開かれているのだ。

 孫権は努めて笑顔をつくる。そうすれば彼の心も少しくらいはほころんでくれるのではないか、と企んでいる。いつもへらへらして能天気なやつめ、と思われようと構わない。もちろんそのように人を侮る人物ではないだろうことは、孫権とても百も承知だが。
「それで、珍しく利が焦るのが面白くて」
 大袈裟な身振り手振りで笑話を語れば、狙った通りに彼はやわらかく口許をゆるませる。
 孫権はその表情にしばらく話を止めてしまった。
「孫公?」
 低い声で心配そうに呼ばわれ、孫権ははたと我を取り戻した。
 時折こうして彼に見惚れることが多くなってきた。中年も半ばを過ぎ、刻まれた皺の数も少なくない相手の、ふとした仕草や表情が孫権にはとても価値ある魅力的なものに見える。うっとりと眦を下げていると、不意に于禁が視線をどこかへ逸らした。
「……あの、あまり、こちらをご覧になられると……些か困ります」
「あっ、す、すみません! 無礼を……いえ、将軍がとても好いたらしく見えまして」
 迂闊な孫権の言動に于禁がぱちりと瞬く。
「え?」
「あ、いえ、あの、人として、人としてです、はい。何も変な意味ではなくて」
 耳まで真っ赤にして狼狽えてしまった己に、于禁は切なそうに眦を下げた。
「おやめください。私はそうして仰っていただけるような人物ではありませんので……」
「そのようなことは……」
 ありませんよ、と続けた言葉は消え入りそうになった。于禁はその表情で――色の薄い瞳で孫権を見つめてして、彼の言葉を明確に拒絶してみせた。
 ――立場が立場。
 孫権は彼にそのことを引け目に思ってほしいわけでは決してなく、むしろここにいて安寧を感じてくれればとさえ願っているのに、他でもない于禁自身がそれを許さない。殊更に彼を咎め責め立てる男が己の幕下にいて、于禁が己の言うことよりも彼の言に同調する向きがあるのも孫権の気に食わない。
「……私の申し上げることを信じていただくわけには参りませんか」
 まるで恨み言のような声が口をついて出て、孫権は慌てて顔を上げた。于禁が目を細めて己を見つめ返している。彼は何も言わない。木漏れ日は彼を縁取ってひかめかせているのに、青白く削げた頬は微動だにせず、ただ眉尻だけを下げて、さながらわがままな幼児を「困らせないでくれ」と諭すように。
 一筋、二人の間に見えない線が引かれる。
 思えば孫権にとって、彼との逢瀬で感じていたものは常に喜びよりも慚愧のほうが勝っていたかもしれない。呉会を統べる若々しい権力者がひとりの老いぼれた降伏者の前に知らしめられる無力さとは、斯様なものであった。


 ◇


 疫病禍が小康状態になったころ、孫権は于禁に「夜のサンディエゴのビーチに行ってみませんか」と提案した。
「さすがに昼のビーチに行く気にはなりませんが、夜ならいくらかましなのでは」
「構いませんが……泳ぐのですか?」
 拒否反応を滲ませる于禁に孫権は「まさか」と首を振る。そして、モバイルに表示されている画面を彼に見せた。
「これを見に行きましょう」
 そこに映っていたのは夜の浜辺に青く光る波が打ち寄せる動画だった。于禁は驚いて孫権を見上げる。
「生物発光だそうです。プランクトンなんかが光ってるんだとか」
「すごい」
 食い入るようにモバイルを見つめている于禁に上々の反応を感じ取って、孫権はすぐにもホテルを取ろうと考える。写真家仲間にもらった情報なので、宿泊施設も彼に聞けば間違いはないだろう。
「あなたの…………」
 ふとそこで于禁が何か言った。
「ん? 何ですか?」
「あっ、いえ、何でもありません」
「え!? 気になりますよ!」
「なりません」
「えーっ!?」
 そんな一悶着があって一週間の後、二人はロサンゼルスの南百二十マイルに位置するサンディエゴの夜のビーチにいた。もう少し車を走らせればメキシコとの国境に差し掛かるこの大都市の沿岸は温暖な気候で、二人はTシャツにゆったりしたリネンパンツを合わせ、サンダルで砂を踏みしめる。少しくらいはいいだろう、と密やかにマスクを外して、お互いの顔を確かめて笑った。
 そして彼らは確かに、宵闇が黒々と広がる海で青く光る波を目にした。まるで何かの鉱石を砕いて溶かしたような明るいブルーグリーンの光が、人影のまばらなビーチに打ち寄せる。その穏やかな波濤のなかに、バイオルミネセンスに乗るサーファーの姿がちらほらと見えた。
「現実にこんな景色があるなんて」
「はは、そうですね」
「あなたでも驚きますか?」
「え? もちろんですよ。生まれて初めて見ました」
 並んで浜辺に立ち、寄せては還す潮騒に身を委ねれば、孫権はいつも自然のなかに身を置いて撮影しているときのようなちっぽけな気持ちになる。
 ――私は無力で、今ここに存在するすべてのうちでもっとも弱い。
「あなたの瞳の色に似ていると思ったんです」
 不意に于禁がぽつりとそう言った。思い掛けなくて孫権が横に立つ彼を見ると、闇のなかにはにかむような笑みを浮かべた彼がいる。その輪郭を青く縁取られて。
「……体に気をつけて行ってきてください」
 そうして于禁は再び海に顔を向けた。
 件の写真家仲間にそろそろ仕事に行こうと誘われて、孫権は三日後に東南アジアに発つ。久しぶりに野生のトラたちを撮影してくるのだ。旅程は半年を見ている。当然、その間は于禁とは離れて暮らすことになる。
「インスタ、毎日更新しますから」
「わ……わかりました。見ます」
 どうにもSNSをチェックする習慣が身につかない于禁は狼狽えつつも頷く。そういうところが孫権には彼らしく思えて好きなのだが。
「メッセージも送りますけど、返信は無理しないでくださいね」
「はい。わかっています」
「……一緒に行ってみませんかって言えたらいいんですけど」
「私にも仕事がありますので」
「はい……」
「……いずれ退職して、まだ足腰が丈夫だったら、ご迷惑にならなければ」
 孫権は勢いよく于禁を顧みた。表情を確かめる間もなく、その腕を引き寄せて強く抱きしめる。
「うぐ、ちゅ、うぼう、さん」
「嬉しいです」
「はい……」
「ずっと、こうしたかったです」
「これまでも……、……いえ、そうですね」
 何か言おうとしてやめた于禁の言葉は、恐らく「これまでもしていただろう」と続くのではなかったか、と孫権は考える。だが、彼は孫権の意図するところを理解してくれた。

 ――ずっと、こうしたかった。

 目頭が熱くなる。ブルーグリーンの光が反射する滴が孫権の頬を伝い、于禁のTシャツの肩を濡らしていく。ぐりぐりと目許をすりつけて、めいっぱい彼の体を己の涙で濡らしたい、と孫権は思った。
 ぽん、ぽん、と宥めるように背がたたかれる。
「……泣かないでください」
「…………や、です……」
「わがままですね」
「……もう……我慢しなくても、いいんですから」
 于禁の笑う吐息が孫権の肩口に優しく触れた。
 その距離に、二人はいる。青く光る潮騒のなかに、共に。

 同じ浜辺に、立っている。