雨。
雨が降っている。蒿廬の屋根にばたばたと落ちる滴は打ち捨てられた草葺のそれに滲みて廬の裡にも降り注いでいる。
隣に眠る友は死んだように寝息も立てず、寝返りも打たずぴくりとも動かない。湿った泥から匂い立つ緑の気配が于禁の眠りを妨げている。
廬の隅でかさかさと音がした。鼠も虫も当然いるだろう。ここはもはや彼らの家だと言ってもいい。于禁らはただ郷里への帰路に間借りをしているだけなのだ。あまりに雨脚は強く、宵闇の深さもあって二人はそれ以上進むことができなかった。腕に怪我を負った友を早く村の医師に診せたいのはやまやまだったが、無茶をすれば共倒れになりかねない。今、これ以上彼らにできることは何もなかった。
雨。
雨の向こうから、ひたひたと近づいてくるものがある。于禁はごくりと息を飲んだ。開けたままの両目には廬の暗闇しか映っていないが、なぜか千里の先まで見えているような気がした。
暗夜の水溜りに足を浸しながら蒿廬へ向かって歩いてくるものがある。
于禁の体は動かなかった。首を回すことも、寝返りを打つことも叶わない。ただ眼球だけがぎょろりと周囲を見回すことができた。友もまた少しも動く気配が感じられない。常ならば何か音があればすぐ跳ね起きるような男なのにどうしてか愚鈍に眠ったままでいる。
足音はついに蒿廬の木戸の前で止まった。
トントン。
控えめに木戸が叩かれる。
于禁は全身が強張り背筋をぞわりとした震えが走るのがわかった。なぜか相変わらず己の体は動かせず、言葉も発せない。
トントン。
再び、木戸が鳴る。
于禁は息を潜め、気配を殺すよう努めて存在が去るのを待った。
「于将軍」
ささやかな呼びかけが、あった。
それは于禁の姓を呼んでいるようであったが、同時に于禁には馴染みのない言葉が付属されてもいた。
「于将軍。どうか、安んじて」
「…………」
声はいかにも穏やかな風情を崩さない。
いつの間にか自身の体が動かせるようになっていることに于禁は気がついた。恐る恐る起き上がり、ゆっくりと立ち上がる。
ほんの僅かばかりの木戸までの距離がやけに長く、短く感じられる。足許でじゃりじゃりと音が鳴るのも煩わしく、于禁はどうにかそっと木戸を引き開けた。
そこに立っていたのは真っ黒で背の高い人だった。黒いのは宵闇ではなく逆光の影のようで、人の後背からは光が線になって廬の裡に射し込む。その顔らしき箇所を見上げる于禁の肌は火傷のようにじりじりと痛んだ。
黒い顔についた口が開かれる。白い歯の向こうにある舌のうえに銀漢が揺れている。
「于将軍」
「……わ……」
于禁も恐々口を聞く。
「私は……将軍ではありませぬ。大した功も立てられず軍役を終えたばかりの……若輩の一兵卒にございます」
「いいえ、于将軍」
人は男の声をしている。口の上、目許と思しき部分には黒地に碧色の星々が渦を成してひかめいていて、于禁はどうしてか男が微笑んでいるのだと思った。
「太陽を連れてきましたよ」
男はそう言って、持ち上げた右手の甲で于禁の右頬にそっと触れる。
「泥がついてしまいましたね」
「…………」
「残りの帰路も、どうぞお気をつけて」
そうして男は恭しく拱手すると一歩退いた。于禁が瞬きをしたときには、眼前に友の顔があった。
「お寝坊さん、もう鶏が十回は鳴いたよ」
友はにこにこと微笑んで于禁を覗き込んでいる。
「見なよ、すっかり雨が上がってる。昼までには戻れるぞ」
友が開けたのだろう、半開きになった木戸からは朝の光が幕のように藘に射し込んでいる。于禁はむくりと起き上がり、うん、とひとつ頷いた。
草葺の屋根から軒先に滴る雨の名残が、光を纏っていくつも地面に落ちていく。于禁はその軌跡を目で追いながら、滴一粒一粒に映る碧の先に千里を見たような気がした。