ジョージ・ミルズがプライマリースクールに通い始めて一年程経った頃、父親の不在に書斎に侵入して、彼の持つ一眼レフカメラをこっそり拝借したことがある。父親の手に収まるその黒く角ばり、ところどころ銀の縁がきらめく無骨なカメラにジョージは憧れていたので、自身の小さな手には余るそれを抱えたときには、得も言われぬ高揚感を覚えたものだった。
 ジョージはそれを持って隣の家に住む二つ上の友人、ピーター・ドーソンのところへ遊びに行った。年の差があったとはいえ、ジョージにとって一番の存在といえば彼だった。ジョージを自宅に迎え入れたピーターもまた彼の持ってきた立派なカメラに興奮し、二人は手当たり次第に様々なものを写真に収めた。お互いはもちろんのこと、ピーターの父や兄の私物、ピーターの家の壁に一つだけ額に入れて飾られている亡母の描いた水彩画、家の脇を流れる水路に浮かぶドーソン家所有の小型遊覧船ムーンストーン号、隣の家の窓から顔を出して二人に挨拶をするハリエット夫人、防波堤の傍らにあるベンチに我が物顔で居坐る黒猫のケイト、道路の隅に落ちていた不思議な形の針金、彼らの上に悠然とたゆたう青空と雲。ジョージはとても楽しかったし、ピーターもまたそのように見えたのが彼には心底嬉しかった。
 しかしその日に限って仕事から早上がりしてきたジョージの父、ミスター・ミルズに見つかり、ジョージはこっぴどく叱られた。ピーターも一緒になって謝ったが、ミスター・ミルズは彼のことを一切咎めなかった。ミルズ家は父母ともにジョージの年上の友人であるピーターに優しかったし、甘かったし、弱かった。他方ジョージは、もう決してカメラに触るな、と言われて、泣きながら頷いた。翌日の学校でピーターが、あんなのひどいよ、とまるで我が事のように怒ってくれたことが、ジョージにはやはりとても嬉しかった。
 そのときジョージとピーターとが写真に収めたものたちは全てミスター・ミルズに取り上げられてしまったが、後日彼はそれらを全てプリントアウトして二人に見せてくれた。どれもぶれたり、ピントがずれてぼやけていたり、はしゃいでいたために本来の目的ではないものが撮れていたりと散々な有様だったが、たった一枚だけ、ジョージにとって完璧とも言える形で撮影されていたものがある。それはピーターを撮った写真だった。愛らしい子供が満面の笑みを浮かべて写真の中心に収まっている。きっとそのときに窓から射していたのだろう太陽の光がピーターの金髪や白い肌をふちどってきらめかせ、その少し赤らんだ頬を華やかに飾っていた。
 ピーターくんを撮るのだけは上手ね、と母親に言われ、うん、とジョージは子供の無邪気さで頷いた。
 こういうわけでその後もずっとジョージは写真とピーターのことが好きでい続けているし、お小遣いを貯めて買った自分のためのカメラで初めて撮ったのはやはりピーターの笑顔である。そしてその写真は現在もジョージのモバイルの壁紙に収まっていたりするのだが、それはピーターには秘密なのだった。

 一つ学年が上がったあるとき、当時ジョージの好きだった同級生のメグが最上級生のなかでも力の強い男子たちにいじめられていたのを単身助けたことがあった。ジョージは特別腕っ節が強いわけでもないので案の定返り討ちにあい、肩を掴まれてその辺に放り投げられ、髪の毛をむんずとひっぱられて首がもげるかと思ったものだが、そこへピーターが颯爽と現れて二人を助けてくれた。彼は喧嘩が強いことももちろんだが、加えて前年にセカンダリースクールに上がった彼の兄が地元では知らない者がいないほどの有名人――ピーターの兄のことは知っているが、どういう方面で有名なのかは当時も現在もジョージには教えてもらえていない――だったこともあって、その最上級生の男子たちはピーターに一発二発食らわされてあえなく退散していった。尻餅をついたままの己に手を差し伸べてくれる彼の後背から射す太陽があまりに眩しく、後光のようにも見えて、半泣きだったジョージはいよいよ本気で泣いたし、メグが無事だったことにもまた泣いたし、けれど己一人の力では彼女を助けることができなかった情けなさにまた泣いた。そんなジョージの頭をピーターは一所懸命に撫でて、抱きしめてくれた。もう平気だよ、と彼はとてもきれいに笑った。
 その言葉はその通りで、ジョージたちはそれから最上級生たちの報復を受けることもなく何事もない平和な日々を過ごした。それまで以上にピーターが、学年が上であるにも関わらず常にジョージやメグと一緒にいてくれたからで、恐らく誰にも手が出せなかったのだろうと思われる。ジョージたちのクラスは彼の親友でありハンサムな先輩、ピーターのヒーローっぷりが広まったこともあって、彼に守られるように穏やかなスクールライフを送った。ちなみに後にプライマリースクールを卒業して己とは異なるセカンダリースクールに進学することになったメグには、告白してみたものの、ジョージのことは大切な友達だと思ってるし、ジョージもほんとはそうでしょ? とあっさり言われ、しかもジョージもなんだかそれがしっくり来てしまって大きく首肯するに至り、こちらも結局何事もなく、それどころか十八歳になった現在でも彼女との心地よい友人関係は続いているのだから不思議なものである。
 ジョージは、先に進学していたピーターと同じセカンダリースクールに進学した。優秀で教師たちの覚えもいいピーターに比べてジョージはどちらかというと凡庸だったし、周囲からは一緒にいるピーターと比べられて、落ちこぼれだとすら言われることもあった。それを恥ずかしく、悔しく感じることもあったが、仕方のないことだと諦めている向きも確かにジョージのなかにはあった。そもそもピーターと比べることが――例えば自分より明らかに年長者であるような存在と比べることが間違いなのだ。ピーターにはピーターの、自分には自分のできること、すべきことがあるはずだとジョージは信じていた。
 少なくともジョージは幼少からずっと写真が好きだったし、セカンダリースクールに上がってからはたびたび学校の廊下に自身の撮影した写真を飾っては、僅かではあるが他の生徒や教師に、いいね、とか、素敵だよ、とか言葉をもらえる機会も増えた。特にピーターはジョージの写真を言葉を尽くして褒めてくれるので――君の一番のファンは僕だよ、と彼は言う――ジョージはそのことに満足し、喜ばしくも思っていたのだった。
 けれどあるとき、具体的に何だったのかは今のジョージには思い出せないのだけれど、生徒全員の前で表彰されて褒め称えられているピーターを見たとき、唐突に、それはもう唐突に、羨ましい、悔しいという気持ちがジョージのなかにふつりと湧いて出た。相変わらずピーターの上に太陽の光は射して、彼の美しい金の髪や少し赤らんだ白い肌を縁取ってきらめかせている。皆の尊敬の眼差しと万雷の拍手とを一身に受けて、ピーターが己を見て美しく微笑んでいる。そのことがどうしようもなく切なく、やるせなくなって、ジョージは泣きそうになってしまった。
 決して届くことのない好きな相手に嫉妬した経験は、ジョージにとっては今でも不意に思い出しては胸が張り裂けそうになるほどつらく、苦しい思い出である。


 ◇


 報道を学ぶピーターの進学先の大学と、写真を学ぶジョージの進学先の大学は程近くにあった。ピーターはジョージより二年早く都会に出てシェアフラットに住んでいたが、空きがあるからジョージも来なよ、と言われてありがたくそのフラットに世話になることにした。もう一人のシェアメイトはトミーといい、ギブソンという焦げ茶の猫を飼っている、寡黙でクールな、そしてしばしば情熱的な青年である。トミーとは大学も一緒で、彼は建築デザインを勉強しているということだった。よかったら君も建物の写真いっぱい撮って、と言われ、最近のジョージの被写体は建造物の割合が増えた。

 ジョージが都会に出てきてから、この街の南に足を運ぶのは今日が初めてだった。住宅街のなかにある彼らのシェアフラットから少し離れ港の近くまで来ると、空気感や吹く風もどことなく異なった風情を見せている。ジョージは港町で育ったから、その風に懐かしさを感じた。
 港の側にあるクイーンズ・パークのなかにも人の姿は多い。ようやく見つけた空いているベンチに坐って、ジョージは三十分歩いて疲れた足を伸ばした。自転車を買おうかな、と公園を行き交うそれらを見て思う。様々な人がジョージの視界を行き過ぎ、ふとそれを写真に収めたくてカメラを持ち上げファインダーを覗き込んだとき、その左の隅から大きな花束のかたまりを抱えた人がフレームに入ってきた。シャッターを切ったジョージは、彼自身の目でその花束のかたまりを追う。花の陰に見える黒いエプロンには白い文字でFlorist'sとあった。
 赤や橙、黄色に紫、白に緑。色鮮やかなその花束たちを見てジョージは、ピーターに似合うだろうな、と考えた。秋が深まると頻繁に着始める彼の兄からのお下がりだと言う赤いニットセーターには橙や白が合うな、スーツを着るときの白いシャツにはもちろん赤だ、夏の盛りに着ていた水色のバンドカラーシャツには紫がいい、彼にはなんでも似合う。ジョージはそう考えるのが自分だけではないことを知っている。
 ぼんやりと空想しながら花屋の様子を見ていたジョージと、そのベンチの前を通り過ぎようとした花屋の目が不意に合った。艶やかなブルネットの下に、まるで以前写真集で見た南極の氷山のような薄い青の瞳が見える。その目は、大きく丸く見開かれていた。
 彼はジョージの目の前で立ち止まった。え、とジョージがぽかんとその花屋を見上げると、彼は持っていた花束のなかから一本の橙の花を抜き取って、そっとジョージのほうにそれを差し向けた。
「…………えっ???」
「……すまない、受け取ってくれないか」
 アイスブルーの瞳が寂しげに揺れ、ジョージは思わずその花を受け取ってしまう。すぐにはたと思い出して、だめですよ、と言った。
「だってこれ売り物でしょ? どこかへ持って行くんじゃないんですか?」
「いや、引き取ってきたんだ。先方の都合で……でも、奇遇だった」
「あ、そうなんだ。いや、でも、すみません僕、今そんなに持ち合わせがなくて」
 花屋は首を振って、いいよ、と言う。
「そうじゃなくて、君にそのガーベラをあげたかっただけだから」
 それじゃあ、と小さく微笑んで去って行く花屋の後ろ姿をぽかんと見つめていたジョージは、しばらくそうして微動だにできずにいたが、ようやく手許の橙のガーベラに目線を落とすと、ええ? と誰にも聞こえないような不思議そうな声をあげたのだった。

 脈絡なく花を一本携えて帰ってきたジョージに、ピーターは面食らった。経緯というほどのものでもない経緯を聞かせると、変な奴なんじゃない、と彼が少しだけ気分を害したように言う。まあ確かに、とジョージは思う。
「あんまり知らない人から物もらったら危ないよ。最近物騒なの、わかるだろ」
「わかってる。ここんち花瓶ないよね?」
「昨日アレックスたちが空けてったサイダーの瓶しかないよ」
「…………」
 都合よくそのサイダーの瓶とガーベラの茎の高さに過不足はなく、ジョージはガーベラを一旦ピーターに預けて空き瓶を念入りに洗うことにした。
「なんていう花? 見たことはあるけど……」
「ガーベラ? って言ってた気がする」
「ふーん」
 瓶に水を溜めてがしゃがしゃ振りながらちらりとピーターを見ると、彼はなんのことはない表情をして指先でくるくる花を回している。蛍光灯が彼の面にたおやかな影を落とし、その着ている赤の濃いニットのセーターと橙のガーベラの鮮やかさに、ジョージは息を呑んだ。
 きれいだな、と素直に思った。
「ピーター、ちょっと待って。ちょっと待って」
「え? 何?」
「待って、待ってね。そのまま」
「何、何、何」
 瓶を雑にシンクに置いてばたばたとリビングルームに向かうジョージをピーターは呆気に取られたように見つめていたが、一眼レフカメラを片手に手招きする彼に首をかしげた。
「何何、どしたの」
「んー、こっちこっち、そこに立って」
「あ、久しぶりだなこれ。撮る気だな?」
「そうだよ、撮る気だよ」
 リビングルームの白い壁はピーターのまとう濃い赤を際立たせる。彼はごく自然に指先でガーベラの茎を摘むように持ち、その花を胸許に寄せた。無表情はすっかり和らいで、カメラを抱えるジョージを見つめる眼差しはやわらかく優しい。緩やかに弧を描く口許の赤の、なんと瑞々しく、健康的で、素晴らしいことだろう。
「ジョージに撮ってもらうの久しぶりだ」
 子供のころから、ジョージの知る“一番最初”からフォトジェニックなピーターを、確かにこれまでジョージは他の被写体と同じように何度も写真に収めてきた。そうして何度も繰り返してきたことなのに、いつも不思議と新鮮な気持ちになる。
 赤いニット、橙のガーベラ、光はきっと永遠に彼の味方だ。ジョージは祈るような気持ちでシャッターを切る。ほんの少しおこぼれをもらうくらいなら、こんな自分にも許されるだろう。


 ◇


 翌日、ジョージとトミーの通う大学では有名なプロダクトデザイナーを招いた講義が行われる予定だった。講堂周辺は大学内外から来たたくさんの人出で賑わっている。二人もまた、せっかくだし聞いておこう、というモチベーションで講義に参加するつもりでいたが、普段の大学からは想像できないほどの人だかりで揃って呆気に取られてしまった。
「……僕、やっぱりやめとこうかな」
「もー! トミーってそういうとこあるよね!」
 踵を返そうとするトミーの着ているパーカーのフードを引っ掴んだジョージが人だかりに向かって歩き出そうとしたとき、君、とどこかから声がかかって二人は同時に後背を顧みた。駐車場に停まっていたダークブラウンのバンから降りてきた黒いエプロンの男性が彼らのほうに向かってくる。
「あ!」
「え? 知り合い?」
 声をあげたジョージにトミーが尋ねると、知り合いっていうか、と彼は言葉を濁した。そうこうするうちに男性は二人の前に来るとほんの僅かだけアイスブルーの瞳と口許を緩めて、こんにちは、と挨拶した。
「こ、こんにちは。……えーっと、昨日はありがとうございました」
「いや、そんなことは……」
「…………僕、先に行ってるよ」
 難しい空気を敏感に察したらしいトミーがそう申し出るのを、ジョージは彼の服の裾を掴んで制する。
「ほら、昨日の花の人。話しただろ」
「ああ、サイダーのガーベラの」
「サイダー?」
 花屋が不思議そうな声を上げるのに、ジョージは気恥ずかしく思いながらも、うちには花瓶がなくて、と答える。花屋はおかしそうに微笑んだ。
「それはすまなかった。もしよかったらまた差し上げたいものがあったんだけれど」
「え? えっと……」
 困惑するジョージをチラリと見たトミーが、花屋に向かって、あの、と声をかける。
「どういったお知り合いで?」
「昨日、クイーンズ・パークで初めて会ったんだよ。偶然……」
「じゃあ、全然知り合いでもなんでもないんですね。それなのにそんなふうにされても、困るし、迷惑です。行こう、ジョージ」
 さっと腕を引いて歩き出すトミーにジョージも慌ててついていく。少しだけ振り返った彼は、寂しそうに微笑んで彼らを見送る花屋の表情にみぞおちが重くなった気がした。
「ごめん、ありがとう、トミー」
「ああいうときははっきり言ったほうがいいよ。ていうか、はっきり言うほうだと思ってた、君」
「僕も」
 そう返したジョージにぱちりと瞬いたトミーは、おかしそうに口許を緩ませた。そんな彼にジョージも小さく笑う。
「でもなんて言っていいかわかんなくてさ……もらった花がピーターに似合ってたから」
「何それ」
「今日は君に似合う花がもらえたかも」
 そんなのないよ、とトミーは彼には珍しく楽しそうに笑っているが、ジョージは、きっと彼には白い小さな花が似合うんじゃないかな、と思った。

 だが、彼との再会はそれからすぐだった。講義を聴き終えた二人はその足でWater's Edgeに向かい、そこで店内から出てくる花屋とばったり出くわしたのである。ジョージもトミーも、花屋も目を丸くしていた。
「あ」
「え」
「…………」
 皆が言葉を失ったが、次いで店内から出てきたWater's Edgeの店長に、何をしてる? と問われ、彼らは一様に焦った。
「いや、なんでもないです。ウィナントさん。ではまた」
 店長――ウィナント、そしてジョージとトミーに微笑みかけ会釈をして去って行く花屋に二人は言葉を返せずに、また、と手を振るウィナントの顔を見つめてしまった。
「君はミルクティーとチキンレタスでいいか? 君はいつも違うものを頼むな」
「あ、はい」
「僕はサーモンチーズとカフェオレ」
 ウィナントの後に続いて店内に入ってきた二人に、カウンターにいたフィリップはぱっと明るい表情になった。
「トミー、ジョージ! いらっしゃい」
「やあ、フィリップ」
「…………」
「トミーはいつものやつだ。ジョージはサーモンチーズとカフェオレ」
「OK。ちょっと待っててね」
 トミーが無言で小さく振る手に自身も手を振り返し、にこりと笑ってキッチンの奥に向かうフィリップを見送って、トミーとジョージはファンタジーの本棚の脇にある二人掛けの席に着く。トミーは本の背表紙たちに目線を向け、ジョージはカメラをいじり、ほら、とそれをトミーに見せて寄越した。
「昨日撮ったピーター」
「へえー」
 格好いいじゃない、とトミーが言うのに、そうでしょ、とジョージは笑う。まるで自分のことのように得意げな心持ちになって、複数枚撮ったそれらを全て彼に見せびらかした。
「ジョージの写真?」
 ミルクティーとカフェオレを持ってきたフィリップが尋ねるので、ジョージは彼にもピーターの写真を見せびらかす。フィリップもまた、格好いいね、と楽しそうに笑った。
「さっきの花屋さんにこの花もらったんだ」
「そうなんだ」
「ここのお客さん?」
 トミーが尋ねるのにフィリップは、お客さんだしお花買ってるんだよ、と店のドアを示す。確かにその傍らには様々な花の咲く鉢が置かれてあった。なんて名前の花屋? とトミーは重ね、フィリップは、オーチャード・プレイスの近くのFluff Florist's、と答える。そうして、もうちょっと待ってね、とフィリップは再びカウンターに戻っていった。トミーとジョージは目を見合わせる。
「結構距離があると思うけど」
「この店の前の店からの得意先だからな」
 続いてウィナントが現れ、二人の前にそれぞれの注文したベーグルサンドをテーブルに置いた。ありがとうございます、と言う彼らは、そのまま立ち去らず近くのテーブルから椅子を引いてきてその場に腰を下ろす店長の顔をまじまじと見てしまった。フィリップもまた同じようにトミーの傍に椅子を引っ張ってくるので、トミーは少し照れくさそうにする。
「えっと、なんですか?」
「君たちに少し相談があって……」
 ウィナントが言いかけたとき、店のドアベルが鳴った。四人が揃ってそちらに目を向けると、びっくりした表情のピーターが立っている。ジョージの面が途端にほころんだ。
「ピーター! 君も来たの」
「来たけど……え……? え? なんですか?」
 ピーターもジョージの傍に椅子を引いてきたことで二人掛け用の狭いテーブルが窮屈になってしまった。ウィナントが、場所を移さないか、と言ってカウンター脇の四人掛けのテーブルを示す。ピーターの注文――エビアボカドとストロベリージャムティー――を聞いて店長と店員がカウンターに戻っていく後姿を見ながら、ピーターは小さな声で二人に、どうしたの、と恐る恐る尋ねた。
「相談があるんだって」
「ふーん……?」
 程なくストロベリージャムティーを持ってきたフィリップはそのまま三人と共に席に着き、それからすぐにエビアボカドベーグルサンドを持ってきたウィナントもやはり改めて椅子を引いてきて一緒にテーブルを囲んだ。若者たちはとりあえずベーグルを食べ始めるが、普段と違ってどうにも不思議な味に思えてくる。
「相談と言うのは」
 彼らが食べ終えるのを見計らい、ウィナントは改めて仕切り直した。三人は一様に緊張した。
「俺の友人がジャズの生演奏をするレストランに食事をしに行って、いたく感激したんだそうだ。それで……君のところのカフェではそういうのはやらないのかと」
 ジョージは店内をぐるりと見回した。壁際やフロアにある本棚などの調度やライトのために、雰囲気や居心地はいいが、店の床のあちらこちらに落ちている犬用のボールやぬいぐるみ、小さなキャットタワーが目を引く。
「いいですね、素敵ですよ」
 ピーターが言い、ウィナントは、俺もそう思う、と答える。トミーとフィリップは同時に片眉を上げた。
「だが、そういうのはしたことがないから勝手がわからない。俺は音楽にも明るくないし……」
 いつもフラットな表情をしているウィナントのどこか悄然とした様子に、フィリップが切なそうに眉を寄せる。彼はそうして三人に、誰かいい人知らない? と問うた。
「アレックスに生演奏とかしてもらえないかな……」
「アレックスは……どうだろう」
 トミーが首をかしげる。彼らの友人、アレックスの所属するバンドHIGHLANDERSは、今冬にデビューアルバムを発売する予定でおり、現在は最終調整で忙しい。彼に声をかける難易度は友人たちにとっても僅かに上がっていた――例え、二日前に彼らのフラットでバンド総出の酒盛りをされていようとも。
「でも、訊くだけ訊いてみたら? あ、でも、お金ってどのくらいかかるのかな」
「相場もわからないんだ。ある程度までなら出せるが」
 ある程度って、と尋ねて返ってきた答えにジョージは、ワオ、と感嘆する。どうやらウィナントは本気のようだ。
「でもHIGHLANDERSってロックだから、こういうところには合わないんじゃない?」
「……アコースティックアレンジとか」
「インストの曲とかないかな」
 いつの間にかピーターはテーブルにメモ帳やタブレットを出して、書き込んだり情報を検索したりしている。
「レストランのジャス生演奏っていうより、イベントにしてしまったほうがスペシャルな感じがしていいかも」
「イベントか……」
 ピーターの言葉にウィナントは一つ首肯し、それがいいな、と返す。うん、とピーターもまた頷いて、若者たちを見た。
「そうすると、広くお客さんを集めて開催するのか、でもこのお店だと……」
「いや、客は多くなくていい」
 やけにはっきりとウィナントが言った。一斉にそちらを見る若者たちに彼は少しだけたじろぎ、君たちには来てもらいたいが、と続ける。
「もちろん来ますよ! ていうか、相談してもらったんだからお手伝いもしたいし!」
 やけに大きな声でジョージは言った。彼を振り返ったピーターがおかしそうに笑い、同意するように頷いてくれる。
「じゃあ、常連さんや店長のお知り合いの人たちを集めたパーティーにしましょっか」
 ペンでタブレットに書き込んだピーターは、ところで、とトミーとウィナントを交互に見た。
「僕、あんまり動物に詳しくないんだけど、動物って音楽は平気なの? ギブソンは平気みたいだけど……あいつあんまり参考にならないし」
「ふふふ」
 ピーターの言葉に、ジョージもトミーも、フィリップもおかしそうに笑う。ウィナントが腕を組んで、あれは猫ではないな、とぼそりと言うので、ジョージはいっそう笑ってしまった。
「僕もギブソンしか知らないから、わからない。犬のことならファリアさんに聞いたら?」
 Water's Edgeの常連の一人、ファリアは店の近所に住むブリーダーの男性である。以前トミーがギブソンを飼うことにした際に世話になり、その縁でフラットメイトのピーター、そして夏の終わりから都会に出てきたジョージも知り合った。ジョージはファリアの世話している動物たちのなかでもゴールデンレトリーバーのヤンが特に好きだった。ヤンもジョージに懐いてくれているので、どうもあまり動物に懐かれないらしいピーターにはそのたびにうらやましがられる。
「ペット同伴はどっちに転んでもいいように伝えないとね。メンバーにアレルギーの人がいたら……」
「そのときは折り合いをつける」
「猫は大丈夫みたいだけど……」
 ウィナントとトミーの言葉を聞きながら、ピーターはタブレットに次々メモを書きつけていく。ジョージが覗き込むと、パーティーの内容とHIGHLANDERSへの確認事項がつらつらと並べられていた。こういうのって時間はどのくらいなんだろう? 二時間? 三時間? 何時から始める? 食事の形式は? メニューは? 演奏時間はどのくらい? いくつかの検討材料を出し合い、各々の飲み物が三杯目のお代わりを迎えたところでようやく大筋がまとまり、栄えあるHIGHLANDERSとウィナントとの折衝役を任されたのはトミーだった。
 彼らが話し始めてからずいぶん時間が経っており、店の外は既に暗くなっている。三人が支払いをしようとカウンターに向かうとウィナントが、今日はいい、と言った。でも、と戸惑うジョージの目に、レジスターの脇にある小さなバスケットに入った白い花束が目に入る。
「これも花屋さんが?」
「それね、あげたい人がいたんだけど受け取ってもらえなかったんだって。だからここでもらってくれって」
 カモミールの花だって、とフィリップが言うのに、思わずジョージとトミーは互いに目を見合わせた。二人の様子を見たピーターが僅かに首をかしげ、もしかして、と何か察したように口を開く。
「あの花の人?」
「や、多分僕じゃない」
「あの人なんだね」
 ジョージは己の答えが的外れだったことに気づき渋面になった。こういうときのピーターはジョージに対し年上らしく教え諭すような物言いになることがあり、ジョージは大好きなピーターのそういうところはあまり好きではなかったので、そっとカウンターのバスケットに視線を逸らす。ピーターもジョージの様子を見てふとため息をついた。
「フィリップの知り合いだったの?」
「ん? お店で花買ってるんだよ。ここにもよく来てくれるし」
 ね、店長、と言われ、カウンターの奥に引っ込んでいたウィナントが、そう、と返す。
「なら、出自は明らかだけど」
 やけに仰々しいフレーズにそっぽを向いていたジョージは小さく笑ってしまった。そんな彼をピーターは呆れたように小突く。
「でも、昨日の君は知らない人から花をもらってるんだぞ」
「ピーターに似合ってたからいいでしょ」
「僕は関係ない、君のことだ」
「この花だってトミーに似合いそう。ねえ、僕、これもらってってもいいかな」
「え?」
「え?」
 急に己の名前が出てきてトミーが驚いた声をあげるのと、急に話を振られてフィリップが素っ頓狂な声をあげるのは同時だった。彼らはぱっと目を見合わせると数瞬置いてやはり同時に破顔した。
 いいよ、と言うフィリップからバスケットを受け取り、あとで僕に写真ちょうだいね、と続ける彼に頷き返し、ごちそうさまでした、と残してジョージはさっさと店を出る。ピーターが慌てて追ってきて――トミーはいつの間にかバタービスケットを注文していた――ジョージの空いているほうの手を取った。
「ジョージ、今回はたまたま知り合いの知り合いだっただけだ。それに、僕ら自身はその人のこと全然知らないんだよ?」
「そうかもしんないけど、もういいだろ」
「……ねえ、あのオレンジの花もこの白い花も、君に似合うと僕は思う」
 ジョージが振り返ったのを見てピーターは嬉しそうに笑う。街灯が彼の笑顔をきらきら照らしているのを見て、ジョージはどきどきした。
「きっと彼もパーティーに呼ばれるだろ? 今から知り合いになっておいてもいいんじゃないかな」
「今から?」
「正確には明日以降かな。今日は何作る?」
 ジョージは冷蔵庫のなかを思い浮かべる。トマト煮? とピーターが言うので、ジョージは、いんげんのね、と気安く返した。
 ピーターと少しばかりでも話していると、ジョージが抱えていたもやもやする気持ちはいつもこんな風にどこかへ行ってしまうのだ。


 ◇


 モバイルのマップアプリを頼りに、ジョージとピーターはクイーンズ・パークの傍を歩く。この公園の西にあるFluff Florist'sは、昨日見たバンのようなダークブラウンの壁の傍にとりどりの花が咲く店だった。
 通りに面したガラス張りのドアを覗き込むと、花の香りがぶわりと二人の体を包む。花屋に足を運んだことのなかった二人はぽかんと口を開けた。
「こんにちは」
 店の奥から声がして、一人の女性が現れた。ブラウンの髪の彼女はにこりと笑って、ごゆっくりどうぞ、と言う。ジョージが、
「あの、男の人、いらっしゃいますか。薄い青い目の」
 と尋ねると彼女は、ああ、と表情を輝かせ、配達に行っています、と返した。
「もうすぐ帰りますから少しだけ待っていてください。今紅茶を淹れますね」
 そこへ掛けて、とカウンターテーブルの傍らの椅子を示されて、ジョージとピーターは従った。ジョージはきょろきょろと店内を見回しながら、手元のカメラを親指でいじる。
「カモミールって春の花なんだって」
「そうなんだ?」
 ピーターが指差した壁のコルクボードには、カラフルな紙に手書きで書かれた様々な花の知識がピンで留められてあった。二人は立ち上がってそれを見に行く。ガーベラ、カモミール、アヤメ、バラ、アザミ、ラナンキュラス、オレンジ。
 ガーベラは春と秋に咲く花で、日向が好き。夏の暑さが嫌い。霜や寒さも嫌い。雨も嫌い。
 あなたは私の太陽。
 カタリ、と店の入り口から音がした。二人がそちらを見ると、アイスブルーの瞳の花屋もまた彼らを見ている。
「こ、こんにちは」
「……こんにちは」
 花屋はうっすらと口許に笑みを浮かべ、小さく会釈する。ジョージは彼のほうに歩み寄った。
「昨日はすみませんでした」
「いいや。僕も……怪しかった」
 だろう? と返されジョージは言葉に窮する。その様子にまた花屋は困ったように微笑んだが、その後ろから現れたピーターに目を丸くして、おや、と小さく口を動かした。
「初めまして、僕はピーター」
「あ、僕はジョージです」
「初めまして」
 三人は挨拶を交わし、ピーターは意味ありげな視線を花屋に向けたが、彼は微笑んでいるばかりである。
「…………あなたのお名前は?」
 ついにピーターは言葉にした。花屋は小首をかしげ、目線で店先を示す。
「Fluff Florist's?」
「好きなように呼んでくれ」
「あれ、おかえり」
 店の奥からティーポットと二つのカップを載せたトレーを持った女性が戻ってきて、花屋は、ただいま、と彼女に答えた。
「あなたも紅茶飲む?」
「ああ。あ、自分で持ってくるよ。あなたも飲むだろう?」
 なぜか店内の隅にある四人掛けのガーデンテーブルを花屋は指し、二人は女性に連れられてそこへ腰かけた。アプリコットハニーのルイボスティーだよ、と彼女が言い、好きです、とピーターがにこやかに答える。
 ジョージは花屋の行方を目で追った。音もなく早い足取りで歩いていく彼の背はしっかりとして、その面を見たときに感じるどことない儚さはかけらもない。
「ずっとこちらで?」
「んー、三年前からかな」
「ご出身も? えっと、お二人とも」
「私はね。彼はポーツマス」
「あの、お名前聞いてもいいですか?」
 ピーターの問いに、ミシェル、と彼女は答える。あの人は? と続けた彼に、私はケットって呼んでるけど、とミシェルは言った。
「私は?」
「ブランケットのケット。それに彼のご両親がアイリッシュだから、ケットシーにも掛けてるの。猫みたいでしょ?」
 そうかなあ、と目を合わせる二人の耳に、お待たせ、と言う花屋の声が届く。ミシェルの顔がそちらに向いたのを見計らって、ピーターはジョージの耳に口許を寄せた。
「やっぱりちょっと変だよ」
「……否定はできないかも……」
 花屋もガーデンチェアに腰を下ろし、彼らは揃って紅茶を飲んだ。優しい甘さに一息つき、ピーターは、今日の帰り買って帰ろ、とジョージに声をかける。ジョージも頷き、彼らは花屋を見た。
「実は年末に、Water's Edgeで店長さんのご友人や常連さんを招待するパーティーを企画してるんです。僕らの友達のバンドにも生演奏してもらおうと思って今お願いしてる最中で……」
 ジョージが話すのに、うん、と彼は相槌を打つ。
「それで、テーブルに飾る花のアレンジメントをお願いしたいんです。えっと、まだ詳細は決まってないんですけど……」
「うん。わかったよ」
 快諾されて二人は瞬いた。ほんとですか、と口にする彼らに花屋は微笑んで、昨日ウィナントさんから連絡が来てね、と種をばらす。
「僕にもぜひ来てくれと言われたんだけど、きっと君たちも来るだろうから、どうかなとそのときは返したんだ。でも、心配ない、と彼が」
 こういうことだったんだね、と花屋はアイスブルーの瞳を嬉しげに細めた。その表情にジョージは胸が詰まる思いがする。彼を悲しませなくてよかった、とジョージは心底そう安堵した。
 帰り際、花屋はジョージにアヤメの小さな花束を渡した。不思議そうな顔をする彼に、調子に乗ってしまった、と花屋は言う。
「季節外れだけど……ちょうど入ったんだ。よければもらってほしい」
「あの、すみません。さすがにお金払います。だって」
「じゃあ、僕と折半しようか。おいくらですか?」
 やけに明るい声で声をあげたピーターに花屋は戸惑いの表情を浮かべたが、ミシェルが横からからかうような声音で金額を言うので二人はそれぞれ代金を出した。花屋ははにかみ、そっとアヤメの花束をジョージに手渡す。ジョージもまたそれを丁寧に受け取ってお礼を述べ、互いのぎこちなさにおかしくなって笑ってしまった。

 彼らはFluff Florist'sを後にして、まっすぐWater's Edgeに向かった。ジョージの希望だった。コルクボードのノートを見ていた彼には、アヤメの花束を見たときにすぐに思い浮かべた顔があったのである。
 Water's Edgeに入ると、盲導犬を連れた老人を接客していたフィリップが二人を見て満面の笑みになった。
「いらっしゃい、ピーター、ジョージ!」
「ハイ、フィリップ」
 彼らは空いていた学術書の棚の傍にある二人掛けの席に着くと、顔を寄せ合ってメニューを覗く。今日はどうしようかと言っているうちにフィリップがテーブルまで来て、にっこりととろけそうな顔で笑って、ありがとねジョージ、とやはり甘い声を出した。
「壁紙にしちゃった」
 と彼はエプロンのポケットを二度叩く。そのなかには、つんと口を尖らせて顔を僅かに俯け視線を逸らす、カモミールの花束を持ったトミーが収まっているはずだった。
「今日は君のこと撮りに来たんだよ。あ、僕はメープルハニートーストとミルクティー」
「メープルハニーちょっとちょうだい。僕はチョコベーグルとカフェオレ」
「いいよ。じゃあカフェオレちょっとちょうだい」
「え、僕?」
 間の抜けた声を上げるフィリップに、ジョージは傍らの花束を示す。目を丸くした彼は、ええー、と照れたように口許をもごもごさせた。
「恥ずかしいな~」
「ふふふ」
 ちょっと待っててね、とフィリップは頬を掻きながらカウンターの奥に戻っていく。ピーターは半眼でジョージを見つめ、うっすら微笑んだ。
「ナンパみたいだったね。トミーに怒られるよ」
「フィリップの写真はトミーに送る。二人して壁紙にしたら面白いね」
 僕の写真の甲斐があるよ、と笑うジョージに、ピーターは、そういや君のは? と尋ねる。
「君の壁紙って何?」
「え? 秘密」
「なんで? いいじゃん見せてよ」
「やーだーよ」
 伸ばされるピーターの手をぐいと押しやってジョージはモバイルを隠す。ピーターに見られるわけにはいかないのだ。
「じゃあ僕の見せるから」
「別にいいって」
「こないだソファで寝てた君とギブソン」
 え、とピーターのモバイルの画面を奪ったジョージは、そのなかで口を開けて眠りこけている己と、その胸の上で同じように仰向けで眠っているギブソンを見た。
「何これえ、やめろよ」
「だって面白かったんだもの」
 けらけらと声を上げて笑うピーターを見るジョージの笑顔は強張る。面白ければよかったのに、自分のそれはどうしたって本気で本心だ。お待たせ、とフィリップが二人分の飲み物を持ってきたことで、彼らの会話は一時中断した。
「見て、ジョージとギブソン」
「ふはは、かわいい」
 二人してごろんてしてる、フィリップは指先でモバイルの画面をつつく。
「ね、フィリップ。今はいい?」
「君らのベーグルがまだだろ。もうちょっと待って、子猫くん」
 ジョージの鼻をちょんと抓んでフィリップはテーブルを離れる。ピーターは声を出さずに、ワーオ、と驚いてみせた。
「僕もあんなふうにしたらいいのかな」
「ピーターはしなくていいよ……」
 顔を手であおぎながら照れるジョージに、ピーターは目を細めた。
 そのうちフィリップがベーグルを持ってきて、もういいよ、とジョージにウインクした。僕が食べてからにして、とジョージがあしらうと、フィリップはやはり楽しそうに笑ったのだった。

「フラッフさんってそんなに情熱的な人だったんだね」
 指先で摘まんだアヤメを自身の口許に持っていき、フィリップの緑の瞳が弧を描く。背景にある学術書の本棚の固さとの不均衡さで、彼の表情はとても魅力的に見えた。ピーターが、フラッフさんって花屋? と訊くと、彼は軽く頷く。
「Fluff Florist'sの人でしょ」
「本名は知らないんだ?」
「さあ? 店長は知ってるんじゃないかな」
 フィリップの瞳がくるりと宙を游ぐ。
「パートナーがニックネームで呼ぶのはいいけど、初対面の僕たちにもファミリーネームすら教えないんだよ?」
「フラッフがファミリーネームなんじゃないの?」
 僕はイギリスのファミリーネーム詳しくないけど、とフィリップは言うが、ピーターは、そうかもね、と形ばかり納得した。
「でもフラッフとは名乗らなかった」
「……やけにあの人のこと気にするんだね」
 ジョージが言うのにピーターは慌てた。
「待てよ、君のことだってもう一度言わせるのか」
「僕は関係ないでしょ」
「それ本気で言ってる?」
 堂々巡りだ、と呆れたように手を広げてピーターは嘆く。フィリップは肩を震わせたが、ピーターに横目で睨まれてそれを収めた。
 ジョージが礼を言いカメラを下げると、フィリップはようやくと言ったようにアヤメをテーブルに置く。撮影した写真を見ながら沸く二人にピーターは嘆息し、肩を落とした。

 ジョージからフィリップの写真データを送られたトミーはぱちりと瞬き、それから僅かに眦をすぼませた。
 HIGHLANDERSは明日店に行くってさ、と言いながら、彼はモバイルをいじっている。ギブソンがソファに坐る彼の太ももに乗り上げて画面を覗き込んだ。
「にゃあ」
「フィリップ格好いいって?」
「うん。素敵だって」
 ジョージは頬をにやつかせた。甲斐があったな、と彼は思う。ギブソンがトミーに頬ずりするのを横目にジョージは自室に入り、急いでモバイルの壁紙をウェイマスの水族館で撮ったウミガメの写真に変えた。彼がモバイルを購入してから初めてのことで変更の手順すら覚束なかったが、泰然とした表情のそのウミガメだって初めてピーターと二人で水族館に出かけた日の思い出だ。
「ジョージ」
 二度、扉がノックされ、返事をする前にピーターが入ってくる。
「入っていいって言ってないでしょ」
「うん、ごめん。入っていい?」
「いーよ」
 歯を見せて笑うジョージにピーターもはにかんで、ベッドに坐る彼の隣に腰を下ろす。ジョージがモバイルを見せると、あいつだ、とピーターは嬉しそうに笑った。ジョージとピーターの思い出の共有はいつもこんな風で、それが今も変わらずにいることにジョージはたまらなく安堵する。
「なんだよ、全然出し渋る必要ないじゃん」
「だって面白くもなんともないし」
 そんなの気にするかよ、とぐいと肩を押してくるピーターの手をジョージはぺしんとはたく。彼はジョージの手をきゅっと握り、じっとその目を見つめた。
「過保護かな。迷惑だと思ってる?」
「……心配してくれてるんでしょ。わかるよ」
 ピーターはきゅっと唇を結んで目線をちらりと上に向ける。
「でも、心配する必要はないんだよな。もう知り合いだし、店長さんやフィリップも知ってる人だし、パートナーもいる人だし、ちゃんと職もあって」
「ちょっと」
 失礼だろ、と繋いだ手を揺らせば、ピーターは笑って顔を寄せてきた。整った顔立ちが間近にあってジョージの心臓はいっそう鳴る。
「僕は関係ないって言ったけど、あれ嘘だ。はっきり言うけど、僕はきっと、あの人に君を取られたくないんだと思う。君はものじゃないのに」
 ジョージは息が詰まった。ピーターが呟く、みにくいね、という声に言葉は返せず、ただその手を強く握りしめることで返事になればと彼は思う。ピーターは灰青の瞳を揺らして、ジョージを上目遣いに見た。
「……ごめん」
「なんで? ピーターは何も悪くない。そういう風に言ってもらえて、僕はすごく嬉しいよ」
 伝えたい言葉が走り出すように口からまろび出てきて、ジョージはつんのめりながらもなんとかピーターに告げる。
「でも、ちょっと心配過剰じゃないかな。あの人は僕のことどうとか思ってるわけじゃないでしょ」
 ピーターは瞳を潤ませ、泣きそうな表情でぼそりと言った。
「……君に傍にいてほしい。一緒に生きたいんだ」
 ジョージは顔を真っ赤にして、何度も頷いた。
「いるよ。生きるよ。君がもういいよって言うまで」
 どこへも行かないよ、ジョージが言うと、ピーターもまた頬を赤らめて嬉しげに笑った。それが見られただけでジョージの心は満足感でいっぱいになる。
 もういいなんてないよ、と言って、ピーターは鼻をすすった。


 ◇


 HIGHLANDERSの面々はウィナントの要望自体には快諾したが、彼らが問題にしたのはセットリスト――つまり、彼ら自身についてだった。彼らはロックを好むパブやヴェニューで演奏する音楽は作っても、カフェやレストランで演奏する音楽を作ってきたわけではない。不向きなのではないか、とHIGHLANDERSのドラマー、ロイドは言う。
「だって、俺たち、すげーうるさいよ」
「お、お前、うるさいって言うなよ」
 キーボーディストのギャヴィンが慌てたように彼の腕をごしごしこすり、やめろよ、とおかしそうにロイドはそれを振り払った。
「やっぱインストとか、落ち着いた曲とかもあったほうがいいだろ。いい機会だ」
 アレックスはそう言うと同席しているウィナントを見て、大体いつごろの日取りですか、と尋ねた。ウィナントが言うには、クリスマス以降になると皆故郷に帰省したり旅行に出かけたりもするだろうから、それより少し前、十二月二十日ころには、ということだった。
「……二ヶ月切ってるな……」
 ベーシストのザックの呟きに、バンドは水を打ったように静まり返る。ウィナントは不安げに自身の傍らに坐るトミーとフィリップを見た。二人もまた彼を見返し、同時に首を振る。
「やはり、難しかったな。無理を言ってしまってすまなかった」
「待ってください店長!」
 アレックスは大声をあげ、メンバーを見回した。
「一週間でなんとか一曲! がんばって作ろう! そんでそれを店長に聴いてもらってOKが出たら、残りの日数でコンセプトを合わせて四曲! ……あとカバー何曲か!」
 どうだ!? 勢い立ち上がり拳を握るアレックスを面々がぽかんと見上げる。半眼のトミーに気づいているのはフィリップだけだった。
「俺にそんな権限はないが……?」
「いえ、店長さんはクライアントですから。それにこのお店でテクノを流されても困るでしょ?」
 戸惑ったようにそう口にしたウィナントに、ギタリストのベンがにこりと微笑んで諭すように言う。ウィナントは困って傍らの二人を見た。トミーとフィリップはやはり二人して同じように頷くのみだった。
 彼はそれを見て、ならば、とバンドに向き直った。
「フィリップが聴いて、いいと思う曲だったら俺はそれで構わない。好きに作ってくれ」
「え?」
 急に話を振られたフィリップは、焦って一同をきょろきょろ見回した。全員の目が集まるなか、彼は頬を真っ赤にして、でも、と言い募る。
「僕、フランス人だから、イギリスの音楽に詳しくないよ……」
「関係ないだろ」
 すぐさま答えたのはアレックスだった。フィリップが瞬いて彼を見る。
「こないだ俺たちの曲好きだって言ってくれただろ。それでいいじゃん。それに俺たちだってダフト・パンクとか、フェニックスとかよく聴いてるし」
 フランスとかイギリスとか関係ない、もう一度アレックスはそう言ってフィリップに歯を見せて笑いかけると、バンドのメンバーに向き直った。
「よし、目指せモグワイだ!」
「理想が高すぎるだろ!」
 メンバーに口々に罵倒を受けながらおかしそうに笑っているアレックスは、フィリップが感極まって泣きそうな表情をしていることに気づかない。トミーがそっとその肩を抱いてさすってやると、彼は自身の顔を隠すようにトミーの肩に額を寄せ、トミーの友達はいい奴ばっかりだね、と囁いた。
 うん、と頷くトミーの表情は、何よりも優しく、穏やかだった。

 一週間後、晴れてフィリップのOKをもらった――彼はきっとどんな曲が来ても、いい曲だね、と言っただろうが――HIGHLANDERSが初めて手掛けた四分程のインストゥルメンタルナンバーのデモは、このところずっとピーターの部屋のなかに流れている。彼は今、熱心にパーティーのためのグリーティングカードの紙やインクの色を選んでいた。ジョージが撮影したウェイマスの浜辺の波打ち際の写真を使ったデザインは一昨日にウィナントの了解をもらったものの、せっかくだから紙やインクもこだわりたいというピーター自身の執念のために、彼の机の上はスペースもないほど散らかっている。
 この一週間でWater's Edgeに訪れた常連客やウィナントの友人知人らは皆、ぜひ参加したい、と期待と喜びをもって返答をくれた。事の発端であるウィナントの友人もまた、もちろん伺うとも、と答えたと、彼はいつになく嬉しそうにフィリップに語ったそうだ。
 波打ち際なら青だろう、とピーターは思う。彼はジョージの青く、冴えた海のような瞳の色が好きだった。あるときピーターがそれをジョージに伝えたら彼は、君もきれいな水色だよ、と嬉しげに言った。同じように水の色をしているのだから、二人して同じ景色が見られればいいのに、とピーターは思う。
 HIGHLANDERSの初めてのインストゥルメンタルナンバーはその冠されたタイトル――Beachのイメージとは全く異なる、暗く、重厚な音を鳴らしている。空は低く、海は澱んでうねり、白波が立っているかのような不安な曲調だ。ピーターの故郷であるウェイマスと彼らの故郷であるハイランドではきっと海の持つ意味も違うだろう。アレックスなどは、山しかないよ、と笑っていたが。
 バンドは活発で気のいいメンバーばかりなのに不思議とその紡ぎ出す音楽はどこか頼りなく、彩度があまり高くなく、不穏な印象の作品が多い。それでいて心配になるほど明るい楽曲もままあるのだから彼らの音楽づくりは奇妙だと常々ピーターは思っている。しかしそのギャップに心をくすぐられるのか、彼らのファンはまだデビュー前にも関わらず少ない数ではない。ピーターはあまり音楽に興味を持って聴いてこなかったので、トミーの繋がりでアレックスやHIGHLANDERSと出会えたことはとても新鮮で価値ある経験になった。何より、彼らはきっとこれから業界とのコネクションになってくれるかもしれない。
 ピーターには夢があるが、それにはジョージの存在が不可欠だった。そしてピーターはまた、パブリックでもプライベートでも彼と共に在りたいと思っている。ピーターだって愚かではないのでジョージが己を好いていることは知っているが、それとこれとは話が別だ。ジョージはジョージの夢を追うべきだ。それが何なのか、まだ彼は聞いたことがなかったが。
 Beachは最後の二十秒を、まるで迫りくる巨大な音の波のように盛り上がって、ふつりと途切れて、終わる。
「ピーター? いい?」
 ドアがノックされ、ピーターは肩を震わせて顔を上げた。いいよ、と答えると開いたドアからひょこりとジョージが覗いて、アプリコットハニーだよ、と歌うような声で言う。手招きすると彼は嬉しそうに室内に入ってきて、ピーターの傍に立った。
 渡されたカップを受け取って礼を言い、ピーターは机の上に彼の目線を促す。
「君はどれがいいと思う?」
「ピーターはもう決めたの?」
「悩んでる」
 五種類の紙はどれも白で、七種類のインクはどれも青だが、その手触りや濃度、色味が若干異なる。八割方これかな、と考えている仕様はアイボリーに近い白のエンボス紙とホライゾンブルーのインクだったが、どうにも最後の一手を決めかねていたのだ。
 もしジョージもまたそれを選んでくれたら、とピーターは思う。そうしたら迷うことなく八割の道を選べるのに。
 だが、机の上を矯めつ眇めつしていたジョージは、ピーターの考えていたものとは異なる仕様を選んだ。真っ白の縞のエンボスと、サックスブルーのインク。
「え? それ?」
「え? なんで? 僕はこれがいいけど、ピーターが自分の好きなの選びなよ」
「なんでこれ?」
「なんでって。なんとなくだよ。そんなら人に聞かないでよね……」
 口を尖らせて自分のアプリコットハニーをすするジョージから目線を逸らし、ピーターは今ジョージが示した仕様と、自分がいいと思っていた仕様を見比べる。
「……どっちもいいな」
「店長さんとフィリップに決めてもらえば?」
「んん、そうする」
 さっさと立ち上がって歩き出したピーターにジョージは慌てて、今日はもう閉まってるよ、と大声で言う。ピーターが時計を見ると時刻はすでに八時を回っていて、彼は面食らった。
「うわ、急にお腹空いてきた」
「ふはは、だろうと思って今トミーがあっためてまーす」
 紅茶を一気に飲み干したジョージはピーターの背中をぐいぐい押して部屋の外に連れ出す。音に気づいたのかキッチンから顔を出したトミーが、もうすぐできる、と言った。
「ごめん、僕らもう食べたんだ。早く呼べばよかったね」
「いいよ。僕こそこもっちゃったし」
 トミーは気遣うような目線でピーターを見、難しい? と尋ねる。ピーターは持ったままだった二枚のカードを彼に見せた。
「トミーはどっちがいい?」
「……こっちかな」
 彼が指差したのは、ジョージの選んだカードだった。
「うわー、そっか」
「君の好きな方にしなよ」
「それさっき僕が言ったよ」
 リビングルームのソファでギブソンと戯れながらジョージが言うので、トミーは苦笑するよりなかった。

 結局ウィナントはジョージのカードを、フィリップとそのときちょうど店に来ていたファリアはピーターのカードを選び、意見が割れてしまい唸るピーターにウィナントは呆れたように、どちらも出せばいいだろう、と助言した。
 後日、差出人であるウィナントとフィリップが図ったのかもしくはただの偶然か、ジョージにはピーターの選んだカードが、ピーターにはジョージの選んだカードが届いた。


 ◇


 HIGHLANDERSからデータで送られてくるデモをフィリップ宛に転送する作業が四曲目に至ったところでトミーは、アレックスにフィリップのアドレス教えようかな、とぼやいた。
「あれ、知らないんだ?」
「知らない……と思うけど」
 僕に内緒でお店に行ってない限りは、と口のなかでもごもご言う彼にジョージは笑う。勝手に教えるのはよくないんじゃない、と横からピーターが口を挟み、トミーもまたそれに頷いた。
「うん、やっぱやめとく」
 そうして彼はデモデータを再生した。光が瞬くような音がフェードインし、やがてアコースティックギターの弦が軽やかに爪弾かれる。ギブソンがトミーの坐るソファに飛び乗り、彼の持つモバイルの画面を興味深そうに覗き込んでいる。
「タイトルは?」
「Reflection」
 きれいな曲だね、とピーターは囁く。
 ジョージはそのきらめく風景にあるものは何かを想像したが、彼にとってはやはり海だった。水面に反射する光の粒は揺らめいて目映く、ジョージの目をくらませる。いつも思い浮かぶそのなかにはピーターの姿がある。ウェイマスの浜辺でいつか二人して遊び、波打ち際で転んでびしょ濡れになって笑いあった。街に寄り添うように浮かぶポートランド島、英国海峡の向こうにはフランスがある。夜明け前に港まで自転車を走らせ、防波堤の縁に坐って昇る朝日を二人並んで眺めたこともある。帰ったら互いに両親にひどく叱られたが、全てが楽しくて仕方がなかった。
「ウェイマスの海みたいだ」
 ピーターが言った。ジョージが驚いて顔を上げると、彼もまたジョージを見ていて、じゃない? と目を細めて小首をかしげる。ジョージは何度も頷いた。
「こんな感じのところなんだ?」
「んー、僕らにとっては海ってウェイマスの海だから」
「行ってみたいな」
 今度フィリップとアレックスと遊びに来てよ、ピーターがそう言うとトミーは嬉しそうに微笑んだ。
 HIGHLANDERSがトミーに送ってきた楽曲たちは、一番最初のBeachから比べると少しずつその曲調が明るくなっている。この調子だと彼らが提示したノルマの五曲目にはずいぶんと陽気な楽曲になっているかもしれないと思うとジョージはおかしかった。

 それからしばらく後、トミーのモバイルに五曲目のデモと、次はカバー曲! と意気込んだアレックスからのテキストが送られてきた日、ジョージがWater's Edgeを訪れると店の前にFluff Florist'sのバンが停まっていた。店内には当然花屋の姿があり、聞けば、当日のアレンジについての相談をしていたのだと言う。
「ウィナントさんは自分がやりたくていることなのに、何にでも“それでいい”って言うんだから、あまり当てにならないんだ」
 そんな風におかしそうに笑うのでジョージも一緒になって笑っていると、カウンターの奥からウィナントが、詳しくないから仕方ないだろう、と口を挟んでくる。
 花屋はジョージにスケッチブックを見せた。彼はそうして絵に描いてアレンジメントの発想を探っているのだと言う。色鉛筆で塗られた繊細な線の花々はジョージの目にはとても頼りなく、かわいらしく見えた。
「素敵ですね」
「本当に? 君が言うなら、いいか」
 紅茶でもどう、と言われ、ジョージは一つ首肯する。入り口脇の窓辺に近い二人掛けの席を腰を下ろして、彼らは一緒にメニューを覗き込んだ。
「店長、フィリップは?」
「買い出しに行ってもらってるんだ。ミルクが切れかけていたのを忘れていて……」
「そりゃ大変だ。ミルクティーが飲めなくなっちゃう」
 ジョージがストロベリージャムティーを注文すると、花屋も続けてストレートティーを頼む。彼はアイスブルーの瞳に窓辺に踊る光を反射させ、そうしてジョージを見た。
「元気そうでよかった」
「? そんなに久しぶりでもないじゃないですか」
「ああ……でもこのところすっかり寒くなってきたから」
 学校はどうだ、と尋ねられ、楽しいです、とジョージは返す。座学も実習も、ただ好きで写真を撮ってきただけだったジョージにとっては驚きと発見の連続だった。プリント技術のデリケートで緻密な手法、デジタル技術の小難しい用語の数々、写真の発展の歴史、世界中で活躍するプロフォトグラファーたち、現代に即したその活動の様々。万物に寄り添う数多のレンズが捉えた息を飲むほどの生と死の瞬間が、ジョージの心臓を鷲掴みにする。熱心に語るジョージを、花屋は穏やかな表情で見つめていた。
 ジョージは内心で決めていたことがあった。今回のパーティーではなんとしても皆の写真を撮らせてもらおう。そうしてそれを一冊のフォトブックにしてタイトルをつける。きっとジョージにとって素晴らしい思い出の一つになるだろう。
「あなたもパーティーに参加しますよね?」
「ああ、ぜひ。カードも届いたことだしね」
「ミシェルさんも?」
「彼女はリバプールの友人が訪ねてくるそうで、残念だけどと言っていたよ」
 そっか、とジョージは答え、それからいつの間にかテーブルに届いていたストロベリージャムティーを一口飲んだ。
「またぜひ遊びに来てと言ってたよ。紅茶を飲みに」
「ありがとうございます」
「社交辞令じゃないからね」
「あはは、わかってますよ!」
 花屋は軽く首をかしげて小さく笑う。そこへちょうどドアベルが鳴って、フィリップが現れた。
「やあジョージ、おかえり! 今日もお疲れさま」
「ただいま、フィリップ。君もお疲れさま」
「すんごい混んでたよ~。フラッフさん、お代わりは?」
 彼は首を振って席を立ち、奥のカウンターで会計を済ませるとジョージに微笑みかけ店を辞去した。しばらくして、フィリップがにまにまと笑いながらジョージの坐るテーブルに寄ってくる。後ろ手に何かを隠して。
「君、シフォンケーキも好きだったよね」
「え? うん。君の作るデザートは何でも好きだよ」
「じゃーん! フラッフさんから君にって」
 生クリームとラズベリーソースが添えられたシフォンケーキがテーブルに置かれ、ジョージは目を丸くした。なんで、と尋ねると彼は、さあ、と首をかしげる。
「君のことかわいがってるんじゃない?」
「ええ……なんで?」
 息子みたいとか弟みたいとか、そう言って軽やかにカウンターの奥に戻っていくフィリップの背を見つめて、ジョージは盛大に眉根を寄せた。

「フラッフさんは本当に変な人かも」
 唐突にそう言ったジョージにピーターは訝るような表情を返した。何かあったの、と尋ねる彼に、奢ってもらった、とジョージは返す。
「フィリップのシフォンケーキ。美味しかったけど」
「ふうん」
「でもここまでしてもらう理由がわからない」
 多分僕は彼に結構なツケがあると思う、と神妙な顔になるジョージの隣にピーターは腰を下ろす。
「本人に聞けば?」
「……んん、それが一番だよね」
「……迷惑だと思ってる?」
 ピーターの問いにジョージは渋面になる。
「正当な理由がなく心苦しい」
「仰々しい言い方だなあ」
 立ち上がったピーターはジョージの頭をくしゃりと撫で、紅茶淹れるね、と残してキッチンに向かった。彼と入れ違うようにひょろりとリビングルームに入ってきたギブソンが、当然のような顔をしてジョージの膝に飛び乗り、太ももの上でくるりと丸まる。
 ジョージがこのフラットに来たときには既にトミーの傍にギブソンはいた。彼らの出会いはトミーが大学に入ってから二週間目のことだそうで、そのとき偶然にピーターが実習の一環で地元のブリーダーであるファリアに取材をしていたため、彼とのコネクションを持っており、トミーとギブソンも世話になることができたのだと言う。
 尋ねたことはないが、トミーがギブソンを飼うことにした理由はきっと大それたものではないだろう。トミーとギブソンの関係性がそれを言葉にせずとも明確に表しているようにジョージには見える。目が合ったから、とかそんなところなのだろう。そしてきっとそれだけで、一人と一匹は互いの必要性を理解した。
 アイスブルーの瞳を持った彼と目が合ったとき、ジョージの心に特別な何かが去来したわけではない。
 どうぞ、と目の前に紅茶が差し出され、ありがとう、とお礼を言ってジョージはそれを受け取る。自分の分を手にピーターはまたジョージの隣に腰を下ろした。その親指がまどろんでいるギブソンの額をごしごし撫でる。
「トミーがギブソンを連れて来たときってどんな感じだったの?」
「どんな? 特別変わったことはないよ。飼いたいんだけどって。僕もいいよって。オーナーもいいよって」
 そんな感じだよ、ピーターは事もなげに言って紅茶を一口飲む。相槌を打ったジョージは、指先でカップの側面を小さくタップした。
「……理由がなくても奢ってもらえるうちは奢ってもらおっかな」
「それもどうかと思うけどね」
 ピーターはジョージの側頭部をやはりぐしゃぐしゃ掻き回し、そのまま彼の頬を軽くつねった。
「彼自身が好きでしていることだと思うよ」
 そうだったらいいな、とジョージは思った。ジョージの目には己と話している花屋の表情が、少なからず楽しんでいるようにも見えたので。


 ◇


 十二月二十日、パーティーの当日はWater's Edgeも臨時休業をして、朝からホールの準備に取り掛かった。大学がクリスマス休暇に入ったジョージ、ピーター、トミーの三人、そしてトミーに連れられてきたギブソンも参加したが、ギブソンは店内の椅子の上を陣取りあくびをしているだけである。トミーが椅子ごと移動させても平然として微動だにしなかったのには皆が呆気に取られた。
 パーティーに招待されたゲストはジョージたちやHIGHLANDERSのようなホストのフォローを担当する者たちの他には二十数人程度である。食事は配膳形式のため、ウィナントとフィリップの他にトミーもキッチンを担当し、配膳はジョージとピーターの担当になったが、ジョージは兼ねてからの希望を伝えパーティーの撮影も並行して行うことを快諾してもらった。
 午後には花屋もWater's Edgeに到着し、六卓あるテーブルの上にそれぞれアレンジメントの花を飾っていった。冬に珍しく太陽を遮るものがないほどの晴天で、柔らかい日の光が店内をも淡く照らし、それぞれの花を輝かせている。ジョージが手伝いがてらそれらを写真に収めていると、一通り仕事を終えた花屋が傍に来て、そっと一輪の赤いバラのつぼみを差し出した。
「えっと……?」
「どうぞ」
 花屋はジョージの着ているシャツの胸ポケットを示し、ここへ、と音に出さずに唇を動かす。ジョージが言う通りにすると彼は微笑んで、似合うよ、と言った。ジョージも思わず笑みを返すと、そこにピーターの彼を呼ばわる声がした。
「じゃあ、僕は一度店に戻るよ。ウィナントさん、また後で」
「ああ、ありがとう! また夜に」
 また後で、とジョージも彼に挨拶してからピーターの方へ向かう。彼は少しだけむつりとしていて、首をかしげるジョージの胸元を指差した。
「もらったの?」
「そう。君に貸そうか? ……でも、ポケットがないな」
「いいよ」
 そう言ってピーターは手元の皿からスープを掬ったスプーンをジョージの口許に持ち上げた。味見、と言われてぱくつくジョージに、おい、と笑いながら彼は首をかしげる。
「うん、おいしいよ!」
「ありがとう、ジョージ」
 ウィナントの返事に、他にも味見しますよ、と調子のいいことを言いながらジョージはキッチンに立つ三人の写真を撮ろうとしたが、彼らの身長差にその場から数歩下がらざるを得なくなってしまって躓きかけた。
 そのうちHIGHLANDERSの面々が来て、既に空けられていたバンドのためのスペースに楽器の設営を始めた。ジョージもそれを手伝っていると、アレックスが彼のポケットを示して、クールじゃん、とニヤリと笑った。
「だろ? でも君に貸してあげるよ。僕が今思いついたことが一番クールだ」
 ジョージはそう言ってアレックスにバラのつぼみを差し出すと、さあ、とカメラを構える。瞬いたアレックスはすぐにきりっとした表情になって、つぼみをマイクがわりのように口許に掲げて口を開けた。格好いいよ、と言いながらジョージはシャッターを切る。バンドのメンバーにもそれぞれ手渡して写真を撮った彼は、満足げに頷いた。
「その写真、後でデータもらえないかな。ブックレットに使いたいんだ」
 ベンが尋ねてきて、いいけど、と答えたジョージは首をかしげる。
「CD作るの?」
「うん。せっかくインスト曲作ったんだし、ミニアルバムにしてお店や他の人たちにプレゼントしようってことになってね」
「ワオ、いいね。僕ももらえる?」
「もちろんさ。全員のサインもつけようか?」
 それはいいかな、なんだと、と軽口を叩き合いながら、ジョージは傍らでHIGHLANDERSの楽器設営を不思議そうに眺めているギブソンの横にしゃがみ込んだ。
「ギブソンも楽器弾いてみたい?」
「にゃあ」
「キーボードなら弾けそうかもね」
「あー、いいかもな」
 会話を聞いていたアレックスが口を挟む。
「猫のためのピアノソナタ」
 ジョージは得意げに鍵盤の上を歩くギブソンを想像して、おかしくなって笑ってしまう。そんな彼を見上げたギブソンは、何がおかしいんだ、とでも言いたげにつんと澄ましてみせるのだった。

 ゲストのなかで一番にWater's Edgeに到着したのはファリアと彼に連れられたゴールデンレトリーバーのヤンとボーダーコリーのティム、そして彼の後輩であるコリンズだった。ジョージはコリンズとは初対面だったが、今年の初めから彼の勤めている出版社のロンドン支社に一年間赴任することになったために店に足を運ぶことができなかったのだそうで、ピーターとトミーに紹介してもらった。よろしく、と爽やかに笑う彼はジョージの目にはとても秀麗に映り、その金髪やファリアより高い背も相まってピーターと並んでいる様子がどうにも眩しく感じられて、そそくさとファリアの傍に移動してしまう。
 ファリアがちらりとジョージを見た。
「今日もカメラを持っているんだな」
「もちろんです。ファリアさんたちのことも撮っていいですか?」
「俺は…………」
 構わないが、と言いにくそうに答えるファリアににまにま笑って礼を言い、ジョージは早速ゴールデンレトリーバーのヤンにレンズを向けた。丸い目で見上げてくるヤンはかわいらしい表情でそのなかに収まってみせる。
「へえ、カメラ好きなんだ」
 コリンズが興味深そうに覗いてきて、ジョージはやはりどきどきしながら頷く。ピーターが横から、大学で勉強してるんですよ、と口を挟んだ途端、ほんとに、とコリンズの表情が明るくなった。
「もし写真集を作る機会があったら、うちも候補に入れておいてくれよ。無理強いはしないからさ。もちろんウェブ関係にも対応してるよ」
 そうして彼に渡された名刺はつるりとしたフィルムのような仕上がりで、ジョージは思わず、すごい、と口にした。ピーターも横から手を出してその名刺を指先で撫でる。
 続いてコリンズはホールでパーティーの開始を待っているHIGHLANDERSに足を向けた。
「君たちがHIGHLANDERSだね! ファリアから話を聞いたよ。僕はオクストンなんだけど、君たちはハイランドのどこから来たんだい? まさかサウスコーストでスコティッシュに会えるなんて」
「俺たちはインヴァネスが三人と、アバディーンが二人」
「都会だなあ」
 コリンズはそつなく全員に名刺を渡す。アレックスが首をかしげて彼を見た。
「オクストンってどこですか?」
「そうなるよね。エディンバラのまあ……南辺りだよ。あとで個人的に調べてくれ」
 そうしてコリンズはようやくカウンターの奥で待ち構えていたウィナントと挨拶を交わし、ファリアも手招いて歓談を始めた。よくしゃべる人だね、とひそりと話しかけるジョージにピーターは苦笑した。
 そのうちにゲストが一人また一人と店に来、花屋も現れて、最後に姿を見せたのが事の発端となったウィナントの友人であるボルトンだった。山高帽をたおやかに取り、やあ、良い夜だね、と微笑んで悠然と奥に歩いてくる、いかにも上品な壮年の紳士に、カウンターの傍に立っていたジョージとピーターはぽかんとする。
 ウィナントは両手を拡げて彼を迎えた。
「やあ、こんばんは、ボルトン。今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそお招きいただきありがとう」
 彼の後ろからフィリップがボルトンのコートとハットを預かる。ボルトンは目を細めて礼を言い、ホールを見回した。
「若者たちの姿も多いね」
「ああ。今日のパーティーは彼らに手伝ってもらったんだ。そっちにいるジョージとピーターがグリーティングカードの写真とデザインを。そしてトミーには……」
 ウィナントはバンドを呼び寄せる。HIGHLANDERSはボルトンのまとう雰囲気に、緊張した面持ちで招きに応じた。
「バンドも紹介してもらって」
 初めまして、とアレックスを皮切りに彼らはボルトンと握手を交わす。ボルトンは最後のロイドの二の腕を軽く叩くと、アレックスに向き直った。
「君たちはロックバンド? スコットランドの子たちなんだね」
「そうです、まだインディーズなんですけど……」
「私もトラヴィスはよく聴くよ」
 ウィンクされ、HIGHLANDERSは口をぱくりと開けたまま固まってしまう。ウィナントに促され彼に用意された席に向かうボルトンの背を見つめながら、ようやく動き出した彼らは顔を見合わせ、一様に、やばい、大変だ、と囁き合った。本番が始まるまではバンドもゲストと共に食事をすることになっていたが、ほとんど味を感じなかった、と後に彼らは語った。

 食事が一段落しHIGHLANDERSが動き出したことで、ジョージもカメラを抱えて席を立ち、ホールの隅に向かった。五人はそれぞれ演奏スペースに向かうと、ゲストたちの視線を受けてにこりと笑ったが、どこか固さが残っている。ジョージは苦笑しながら彼らの様子を写真に収めた。ピーターもまたジョージの傍に来て、楽しみだね、と囁きかける。ジョージがこくりと頷くと、するりとどこかからギブソンも現れて彼の足許に坐った。
「えっと……今日は、お招きいただきありがとうございます。ウィナントさん」
 アレックスが話し出す。カウンターの奥からトミーとフィリップも顔を覗かせて、楽しそうな表情をしている。
「僕たちはHIGHLANDERS。僕がアレックス、ベン、ロイド、ギャヴィン、そしてザック。名前の通りスコットランドのハイランド出身です。この店の常連で今日はキッチンを担当してるトミーから、この話をもらって、ぜひと。今日ここで演奏することもそうだし、この準備期間もすごく身になりました。とてもいい経験です」
 二ヶ月で五曲作ったのは初めてです、とアレックスは笑う。
「だけど、不思議と皆、曲が浮かんできたり、合わせたりすることができるもので。大変だったけど、とても楽しかった。こんな機会をくれたWater's Edgeと常連の皆さんに、そして今日僕たちの演奏を聴いてくださる皆さんに、心からお礼を言わせてください。ありがとうございます」
 そうして、ロイド、ギャヴィン、ザックの三人はまず演奏スペースから離れ、隅に置いている椅子に腰を下ろした。
「まずはカバーから……好きな曲で緊張を解かないと。僕とベンとでWonderwallのギターデュオ、それから僕以外の四人のHeima。こっちはボーカルなしで……アイスランド語は難しいですね。そしてカバーの最後は……Movingです」
 アレックスがちらりと目線を遣ると、ボルトンは嬉しそうににこりと笑ってみせ、小さく親指を立てた。
「では、始めましょう」
 二人が目を合わせ、同時に息を吸って弦を弾く。ジョージは思わず息を止めて彼らのデュオを見つめた。二本のギターが紡ぎ出すあまりにも有名なメロディーが、アレックスの真っ直ぐで、時に切なく響く歌声と調和して力強いメッセージを生み出す。ホールに響くのは紛うことなき誰かを思う歌だった。
 一曲目が終わると、ベンがリードを奏でるなかアレックスと入れ替わるようにロイドたちが席に着き、やがてベンのギターが確かな意図を以てメロディーを形作る。ロイドがブラシでスネアドラムを叩き、ザックのベースが胸を打つような穏やかな低音を奏で始めた。ジョージはこの曲を知らなかったが、ギャヴィンのキーボードが弾く丁寧な主旋律に聴き惚れた。ピーターがそっとジョージの耳許で、きれいな曲だね、と囁く。ジョージは頷いた。ただ、どこかそれだけではないように思えて、ジョージは少しだけピーターのほうに体を寄せた。後でアレックスにこの曲について尋ねよう、と思いながら。
 最後の曲はジョージも知っていた。いつだったかHIGHLANDERSが揃ってジョージたちのフラットを訪れた際に、やけにアレックスが三人に推して延々リピートして聴かせた曲だったからだ。彼の好みの曲調とは少し違うように思ったが、このアップテンポで前向きな音楽の何かがきっとアレックスの心を打ってやまなかったのだろう。繰り返される“and on”のフレーズ、この歌の主人公が進む道、4ピースの曲にキーボードアレンジを加えたHIGHLANDERSのスタイルでアレックスは心を込めて熱唱する。最後のワンフレーズを演奏し終えそっと顔を上げたバンドに、聴衆は惜しみない拍手を送った。
 頬を赤くしてぎこちない笑みを浮かべたアレックスの目線の先で、ボルトンはにこにこと満足そうに微笑んでいる。
「ありがとうございます。よかった……途中ちょっと間違えちゃったんだけど」
 アレックスはそっと人差し指を自身の口許に寄せて、知らないふりして、と声に出さずに口を動かす。
「じゃあ、ここからは僕らのオリジナルです。全部で五曲。タイトルは、Beach、Waves、Empyreal Fire、Reflection、それからPlaceです。聴いてください」
 ドン、とみぞおちを打つような重い音がホールに響く。ジョージにとっては何度もデモ音源で聴いたはずのその音が、実際に目の前で演奏されるととてつもない衝撃になった。
 独特の不穏な曲調は、直前に演奏していた明朗な音楽からは一転して、全く異なるジャンルのグループによるアクトにさえ思える。これを一曲目にフィリップに聴かせた彼らの内心をジョージが推し量ることはできなかった。バンドは一様に押し黙り、おどろおどろしい音楽を熱心に奏でる。彼らのなかにある浜辺は、きっとジョージの知っているウェイマスの浜辺とはまるで違っているのだろう。
 Wavesは、ドラムとベースによって淡々と一定のリズムが刻まれる上にキーボードと二本のギターが全く同じ音程のメロディーを重ねる。寄せて帰す穏やかな海ではない、常に足許に留まる潮の流れ。砂に囚われ動かすこともできない足に何かが絡みつくような不安。
 だが、その重く冷たい空気は、次のEmpyreal Fireによって払われる。ロイドのドラムは生き生きとスネアを鳴らし、二本のギターは若々しく勇壮なコードを進行させていく。キーボードが奏でるメロディーラインは、さながらこれが希望だと言わんばかりのピアノサウンド。真っ白な空を描き、横切る希望に思いを馳せて視界を下ろせば、その炎を浴びた景色のなかでReflectionが輝き出す。強く、しかし優しく瞬く光のなかに、ジョージはいつもピーターを見る。煌めきに愛され、誇らしく立つ無二の人。そろりと隣に立つ彼に目線をやれば、ホールの穏やかな光に照らされた彼もまたジョージを見ていた。やっぱりいい曲だ、と彼が小声で言い、ジョージも首肯する。
 そうして余韻を残すように全ての音がフェードアウトし、すう、とバンドの息遣いが聞こえたかと思うと、ドン、と全ての楽器が同時に鳴った。Beachのように恐ろしげな響きではなく、大きな拡がりで。彼らは意志をもってはっきりと明るく穏やかなメロディーを演奏する。光は暗い海に確かに注いで、全ての不安は払われたのだと言うように。
 小さく口を開けたまま微動だにできなかったジョージの手に、何かが触れた。そっと、持っていた――持っていたことすら忘れていた――カメラが取り上げられる。ジョージがおもむろにその行く先を見ると、ピーターが微笑みながら彼にレンズを向けていた。彼の指が動き、音もなくシャッターが切られる。
「ピーター?」
「うん」
 キーボードのストリングスサウンドがジョージの耳を柔らかく撫ぜる。ピーターの頬の縁を低く刻まれるベースが揺らして、彼はその灰青の目を細めた。
 Placeはゆっくりと、ひそやかに音の波を広げ、ホール全体を包み込んで、しなやかに空気に溶けていった。
 幾許かの静寂の後、ホールに万雷の拍手が沸き起こる。ゲストが皆立ち上がり賞賛の言葉を浴びせるなかにHIGHLANDERSも立って、一様に頬を赤らめて嬉しそうに微笑んでいた。


 ◇


 ゲストたちはほとんど店を辞去し、ウィナントがボルトンを彼の宿泊先のホテルまで送るために外出したため、若者たちとHIGHLANDERS、花屋、そしてファリアとコリンズが残って後片付けを手伝うことになった。コリンズはHIGHLANDERSに向かって、俺たちが片付けるからBGMがほしいな、と訴えたが、ファリアに諌められて残念そうに笑った。
「じゃあ、何か歌いますか」
 アレックスが彼の調子に乗って、ギターを仕舞いながら歌を口ずさみ始める。コリンズが嬉しそうに目を細めた。
「The Water Is Wideだ」
「んふふ」
 ギャヴィンが輪唱するように歌を重ね、次いでザックやベンが一度片付けた楽器を再び取り出して弾き出した。おい、と呆れたようにファリアが腰に手を当てる。
 カウンターの奥でフィリップがトミーに、この曲は? と尋ねた。
「スコットランドで生まれた曲だったかな」
「そうだったんだ。前にラジオで聴いたことあるよ」
 食器を重ねてカウンターに置いたジョージは、寄り添いながら会話する二人の様子ににまにまとにやける。トミーがそれに気づいて、何、と口許をもごもごさせた。
「ジョージくん」
 呼ばれ、ホールを振り返ったジョージの前に、花屋がそっと花を一輪差し出す。反射的にそれを受け取った彼が首をかしげると、オレンジの花だよ、と彼は言った。ジョージは促されるままその花弁を鼻に近づける。
「あ、ほんとだ。オレンジだ」
「だろう?」
 ピーターを手招きすると彼は不思議そうな表情をして歩み寄ってくる。白い花を差し出すと、彼はぱちりと瞬いて、いいにおい、と微笑んだ。こんな風な爽やかな芳香がピーターには似合うな、と思って、ジョージはオレンジの花を彼に手渡す。いいの、とピーターはちらりとジョージの後背に目線を遣った――彼にそれを渡した花屋のほうに。
「ジョージくんの好きにして構わないよ」
 慇懃に微笑みそう言う花屋に、気遣わしげな表情をするピーターはしかし、ありがとう、と言ってジョージの胸ポケットにそれを差す。
「僕の服、ポケットついてないから、預かってて」
「あ、そうか。うん」
 ジョージの胸ポケットで並んだ赤いバラのつぼみとオレンジの花はどことなくいびつな佇まいをしている。そのままホールの片付けに向かったピーターをしばらく見つめてから、ジョージは花屋に向き直った。
「あの」
「ん?」
「ずっと訊きたかったんですけど、どうして僕によくしてくれるんですか?」
 花とか、と自身の胸ポケットを示す彼に、花屋は少しだけ真顔になって、それからふと息を吐いた。
「ずっと昔、僕は君にとてもひどいことをしたんだ」
 アレックスたちが歌うスコットランドのフォークソングメドレーは二曲目のAuld Lang Syneに移り、コリンズの歌声やファリアの犬たちの唸るような鳴き声も混ざる。花屋の声が聴き取りづらくてジョージは彼に僅かに歩み寄った。
「君を傷つけて、それきりだった。……ずっと後に、彼らは元気にしているだろうかと、君たちの街に行ったんだ。ちょうど同じ時期に……そうしたら、昔の新聞がそこにあって、君が……」
「新聞?」
 ジョージは大きく首をかしげた。彼に、自身のことや何か功績めいたものや、あるいは事故のことで新聞に掲載された覚えはない。
「それ、違いますよ。僕じゃないです。だって、ピーターならまだしも」
「僕が何?」
 カウンターに食器を置いたピーターが話に入ってくる。ジョージが、己が新聞に載っているのを見たことがあるか、と尋ねると、彼は首をかしげた。
「んん……? 覚えてないなあ」
「だよね。君は弁論大会か何かで載ったよね」
「ええ? それももう覚えてないよ」
 ほんとに、とジョージはピーターにちょっかいを出す。やめろよ、と笑いながら手を弾かれて、ジョージは笑顔のまま花屋を見た。
「人違いですよ。でも、花もらったり、奢ってもらったりして嬉しかったです」
「…………そうか」
「あ、返したほうがいいですか……?」
 眉を下げてポケットにそっと触れるジョージに、花屋は虚を突かれたように目を丸くし、しかしすぐに嬉しげに笑った。
「君にあげたんだよ」
 その言葉を聞いて、ジョージは心の底からほっとした自分がいることに気づいた。

「ジョージ、いい?」
 フラットに帰ってきた三人はそれぞれシャワーを済ませて自室に戻った。少しして、ジョージの部屋のドアがノックされる。ピーターの声がして、ジョージは彼を室内に招き入れた。
 ピーターは勝手知ったるとばかりにジョージのベッドに坐りごろりと横になる。ジョージは苦笑しながらベッドに乗り上げて天井を見つめる彼の顔を覗き込んだ。
「店でさ」
 ピーターが口を開く。
「新聞の話、してたろ」
「うん。あれ? やっぱり僕、どっかに載ってた?」
「ううん、それはわかんないけど」
 思わず天を仰ぐジョージに体ごと顔を向けたピーターが、あのさ、とどこか深刻そうに声を発する。
「君の将来の夢って何?」
「え?」
 唐突に切り出された改まった話題にジョージは焦る。ピーターの眼差しは真剣で、ジョージは頬をかきながら唸った。
「ずっと写真を続けたいと思うよ。それに……世界中たくさんの……人の写真が撮りたい。いろんなところに行って、いろんな人の……簡単じゃないだろうけど」
 ピーターはジョージの言葉をじっと聞いている。ジョージが、君は? と尋ねると、彼は、うん、と小さく頷いた。
「僕も、世界中いろんなところに行きたいんだ。ジャーナリストとして。知らなかったこと、知ってるふりをしていたこと、いろんな記事を書いて……それで……」
 歯切れの悪い言葉にジョージは首をかしげる。ピーターに倣ってごろりとベッドにうつ伏せになると、ジョージは彼の顔をもっと近くから覗いた。
「それで?」
「……僕の記事につけるなら、絶対に君の写真がいい。君の将来の夢と、きっとぶつからないと思うんだ」
 僕ら、デュオを組まないか。ピーターは言った。
「二人で……君の目と、僕の目で、いろんなものを見よう」
 ジョージは息を詰めた。それはジョージにとっても素晴らしい発想のように思えた。ピーターと共に世界を回り、たくさんのことを経験する。互いの視点から異なるやり方で世界を表現する。
 彼はどきどきしながら、うん、と頷いた。
「いつかデイリー・エコーに載る?」
「もちろん。それどころじゃないよ、ガーディアンやタイムズにも、デイリー・テレグラフにもだ」
「一番最初に載るならドーセット・エコーがいいな」
 ピーターは少しだけ顔を持ち上げて苦笑する。
「なんだよ、いつものチャレンジングな君はどうしたんだ?」
「だって、緊張してるんだ」
「そっか。でも、僕がいるから平気だよ」
 ピーターはそう言ってにこりと笑った。ジョージは、己の影がピーターの面に掛かって、彼の灰青の瞳が濃く色づいているのを見る。蛍光灯の光の下でも、彼の金の髪は柔らかく輝いている。
 ――いつだって彼は、僕を励ましてくれる。

 後日、『Take Me Home: Music For Water's Edge』と題されたHIGHLANDERSが自主制作したミニアルバムがパーティーに訪れたゲストたちに届けられた。グリーティングカードと同じ二種類の用紙で作られたスリーブジャケットに使われているアートワークはこちらもカードに使用されたジョージの提供した写真である。当初ジョージはこの写真はウェイマスの浜辺のものだと断りを入れたが、アレックスたちは、それで構わないしそれがいいのだ、と言った。
 金の光を湛える浜辺、遥かに霞む水平線の向こうに、無窮の空が広がっている。


 ◇


「……地元企業の特集で、よりによってうちかい?」
 おどけてみせる花屋の表情に、そうですよ、とジョージは答え、その隣でピーターも頷く。
「Fluff Florist'sも地元の企業でしょ? それに、どちらかというと個人経営のお店のほうを取材したいんです」
「Water's Edgeは?」
「断られちゃいました」
 それだけは勘弁してくれって、とウィナントの声をジョージは真似てみせる。似てる、と花屋の隣でミシェルがおかしそうに笑う。その手にはジョージが彼女にプレゼントした、先日のWater's Edgeでのパーティーの様子を収めた小さなフォトブックがある。
 いつかのようにガーデンテーブルに四人で掛け、花屋が手ずから淹れたアプリコットハニーのルイボスティーを飲みながら、ピーターはくるりとスタイラスペンを指先で回した。
「じゃあまずは名前からですね」
「名前?」
 花屋はちらりと店先に目を遣り、Fluff Florist'sだよ、と言う。そうじゃなくて、とピーターは笑った。
「この店の男性スタッフさんの名前です」
 ぱちりと瞬いた彼に、ジョージが重ねる。
「あなたの名前を、教えてください」
 ピーター、ジョージ、そして楽しそうなパートナーの目線が彼に集まる。
 面食らった様子だった花屋はしかし、困ったように笑って、それから小さく、ゆっくりと口を開いた。
「僕の名前は――」


 ◇


 ジョージ・ミルズが生まれたのは、ピーター・ドーソンが二歳になって程なくのことだった。家族ぐるみで付き合いのあった隣家の家族に新しい子供が生まれたと聞いたピーターの母は、隣家の母子が帰ってくるや何もわかっていないようなピーターを連れてミルズ家に上がり込み、生まれたての乳飲み子がベビーベッドに寝かされているのを覗き込みながら、かわいいねえ、かわいいねえ、と何度もピーターに呼びかけた。ピーターにとって初めて見た自分より小さな子供だった。
 それからこれまで以上にドーソン家とミルズ家の付き合いは濃くなり、事あるごとに彼らは共に行動した。ピーターが五歳になって、ジョージが三歳になり、ピーターの母が病気で死んでしまったときもミルズ家はドーソン家の葬儀の手伝いを熱心に行った。きっと何が起こっているのか把握していないだろうとぼけた表情のジョージは、泣いてばかりのピーターの傍に寄り添って、小さな手のひらでピーターの指先を握って離れなかった。
 ピーターには少しだけ年の離れた兄がいて、母が死んでから兄は立派に父のサポートを努めた。そのときのピーターにはわからないことだが、彼はこのうえ学業でも優秀な成績を修めており、父はそんな兄のことをとても誇りに思って頼りにしていた。プライマリースクールに通い始めたとはいえ心細さが勝ってしまうピーターは、いつも遊びに来るジョージのことを心の支えにしていた。ジョージもピーターに懐いており、事あるごとに、ピーター、ピーターと舌足らずな声で彼の名を呼ぶものだから、ピーターは勝手に彼の庇護者であるかのように振る舞っていた。ミルズ家は頻繁に訪れるピーターのことを一切邪険にしなかったし、むしろピーターの父以上に甘やかしさえしていた。
 ピーターはプライマリースクールで覚えたことや、見たこと、聞いたことをたくさんジョージに話して聞かせた。ジョージはウェイマスの海のような青い瞳をきらきらと輝かせてピーターの話を体全体で聞いてくれるのだった。
 いつか、ジョージがもう少しだけ大きくなったころ、彼の父親のカメラをこっそり拝借してきたことがあった。実はそれはジョージが初めてした“悪さ”で、ピーターもそのことやカメラの重さに興奮した。二人は身の回りや家の周りの物事をたくさん写真に収め、案の定ミスター・ミルズに見つかって大目玉を喰らい、カメラや写真を没収されてしまうのだが、何よりもピーターを残念がらせたのは、後日見せてもらったそのとき撮影した写真のほとんどがまるで写真の体を成していないことだった。唯一きちんと撮られていたのはジョージが一番最初に撮ったピーターのポートレートで、彼はずいぶんとそれを気に入り、後でわかったことにはその写真を額に収めて彼の学習机の隅に飾ってすらいた。ピーターはびっくりしたが、それ以上に嬉しかった。
 あるときはジョージがプライマリースクールの上級生に刃向かって喧嘩しているのを助けたこともある。ジョージが放り投げられるのを目撃した彼は全身の血の気が引いて、すぐに彼のもとに飛んでいった。幸いピーターは生徒たちのなかでは背が高いほうだったし兄のおかげで少しばかり腕っぷしも強かったので、すぐに彼を助けることができた。ジョージは――彼が庇った別の女子生徒以上に――大泣きしていて、ピーターは一所懸命彼を宥めすかして慰めた。ピーターの腕のなかで丸まるジョージはとてもか弱く、いとおしかった。ピーターはそんな風にして、ジョージに対する庇護欲を増大させていった。彼に誇らしい己であることができるよう、学業でも、様々な自主活動の面でもはりきってすべきことをこなした。義務教育の間、ピーターが全校生徒の前で表彰された機会は一度や二度ではない。そのたびピーターは壇上からジョージの姿を探して、彼を見つけては微笑んでいた。

 ピーターがセカンダリースクールに上がってからジョージがプライマリースクールを卒業する少しの間だけ、彼らが共にいる時間が僅かに減った。少し待てばジョージも同じスクールに入ってくるのだからとピーターはのんびり構えていたが、とてもつまらなそうにしているジョージを見ているのは切なかったし、年の差が恨めしかった。
 だが、このころになるとピーターがジョージから教わる機会も増えていた。その多くは写真に関することで、ジョージが初めて買った自分のカメラでピーターを撮影しに来たときはたまらなく嬉しかったし、彼は一人でどこかへ遊びに出かけてはそのたびに撮影してくる様々な写真をピーターに見せびらかしてくれた。街を闊歩する猫たちや、飼い主の立ち話の合間に道路に寝っ転がる犬、捨てられたごみの様子を伺うカモメ。大あくびをする人、防波堤に佇む人、釣りをする人の背中、満面の笑みの乳飲み子や、勢いよく走って写真に残像を残す子供たち。ジョージの被写体は、動物や人が多かった。
 朝焼けを撮りに行かない? とあるとき彼は言った。覚えたての言葉を発する彼の頬は上気している。ピーターは一も二もなく頷いた。
 夜明け前にこっそり家を出て、まだほの暗く、街灯が燈る街を二台の自転車が駆け抜けていく。こんな風なひそやかな出来事にピーターはわくわくした。前を行くジョージの、ピーターのそれよりも小さな背中、風をはらんだ彼のシャツが大きくふくらんでいる。
 街の東の港に着いた彼らは細長い防波堤をどんどん先へ先へ進み、やがて波消しブロックもない先端まで来た。ジョージが恐れ知らずにその縁に足をぶら下げて坐るので、ピーターもどきどきしながらその隣に腰を下ろす。
 東の空には雲も多いが、海の縁に滲む光は遮られない太陽のものだった。どんどん赤くなっていく空を見ながら隣でジョージが、すごいね、と囁くように言った。ピーターもまた、うん、と小声で返す。静謐を静謐のままにしていなくてはならないような、そんな気がした。心地よいのはジョージがシャッターを切る音だけで、海の向こうから吹いてくる風の音もどこか煩わしい。
「きれいだ」
「うん」
 そんな言葉しか二人は発せられなかった。浮かぶ雲のふちが光によって彩られ、それはどんどん強くなっていく。空の色が濃い紫から冴えた青へと変わっていき、やがて平べったい太陽が昇った。
「空が海になって、島が浮かんでいるみたいだ」
 ジョージがそんなことを言った。え? と思わずピーターが彼のほうを見ると、朝焼けで顔を染めたジョージが、東の空を指差す。
 いくつもたなびく色濃い影をまとう雲はその際を明るく縁取られ、まるで高い山から眼下を俯瞰しているような風景が広がっていた。確かに空は海になり、雲は島になっていた。
「ほんとだ……」
 ぽかんとするピーターの耳に、シャッターを切る音が響く。なぜか不思議に思ってジョージを顧みると、彼はピーターにレンズを向けて笑っていた。
「ふふふ、口開いてるよ」
「おい、やめろよ」
 苦笑しながら肩をぐいと押すピーターに、ジョージは口許をむにゃむにゃさせて、やはりおかしそうに笑っている。
 もう、と嘆息しながら、ピーターは再び東の空に目を向けた。そこにはジョージに教えてもらった世界が広がっている。それは、今ここにいる二人しかまだ知らない、海と空の果てに出来た、新しい世界。
 隣に坐る彼は、もうピーターの腕のなかで丸まっていた小さな子供ではなかった。
 ピーターの心臓はばくばくと激しく音を鳴らした。彼の顔は曙光のためでなく真っ赤に燃えて、その熱は体のなかに、頭からつま先まで満ち満ちている。
 もっともっと、君の目が見たものを僕に教えてほしい。
 僕も、僕の目が見たものをありったけ君に教えたい。
 君と僕が見るたくさんの光を。
 そうして燃え始めたピーターの熱は、いつまでも冷めないでいる。