ピーターとジョージが共に暮らしているフラットのリビングの壁には、額に入った大きめのパズルが飾られている。海のなかに魚たちやカメやクジラ、たくさんの海の生き物たちが泳いでいる絵が描かれた千ピースのそのパズルは、プライマリースクールに進学したお祝いにと水族館のお土産コーナーでピーターが父親に買ってもらったものだ。ピーターはまだうんと小さかったジョージを誘って、一緒に作ろうよ、と言った。ジョージはもちろん何度も頷いた。ピーターと一緒に何かができることが彼には本当に嬉しかった。
 海中の絵はやはり青い面が多く、しかし海の生き物たちはファンタジックに色彩豊かで、二人はああでもないこうでもないと一緒に右往左往しながらパズルを組み立てていった。千ピースもあるうえに小さな子供たちのすることだから、一週間もかかったのではなかったかと彼らは記憶している。途中、ピーターの両親や年の離れた兄が、手伝おうか、と厚意で申し出てくれたものの、ピーターがぴしゃりとそれを断ったのでジョージは驚いた。ジョージと一緒に作るから父さんたちはだめ、と彼は言って、また子供部屋の床にばらまいたパズルのピースを探す作業に没頭したのだった。
 しかし一週間後、ようやく完成というところで二人は焦った。最後のパズルのピースが見当たらないのである。画面右下部を陣取るクジラの目の部分を切り抜いたそのピースを二人は部屋じゅう探した。机の引き出しを全部開け放ち、棚のなかの本をすべて引っ張り出してその奥を覗き込み、ベッドの下に潜っては反対側から出てくるを繰り返し、クローゼットの真っ暗闇に飛び込んで懐中電灯で四方を照らしても、パズルのピースは見つからなかった。ピーターは家族にピースの在り処を尋ね、一家総出で家じゅうを探し回ったが、結局クジラの目はどこにもなかった。
 最初に泣いてしまったのはジョージで、ピーターはというと彼の小さな体を抱きしめ目を真っ赤にして懸命に泣くのを堪えていたが、兄に肩をさすられるといよいよぼろぼろと涙をこぼした。二人で完成させるはずだったものが未完成のまま終わってしまうことは、幼い心をひどく痛ませた。
 しょうがないよ、と慰めるように兄は言った。しょうがなくない、と言い返したピーターは兄の腹を強か打ち、こら、と諌めた兄に軽々ソファにひっくり返されてしまってまた泣いた。ピーターの母の腰にずっと抱きついていたジョージは、ピーターの父から連絡を受けた両親が家まで迎えに来ると今度は自身の母親の足に抱きついてまた泣いたが、抱き上げられて背中を優しく叩かれているうちにすっかり寝入ってしまったようだった。
 そんなわけで二人のパズル製作は失意のうちに終わってしまったものの、ピーターの父が立派な額を買ってきてそのなかにパズルを収めてくれた。絵のなかを泳ぐクジラの目はそこだけピースの形にくり抜かれ、ピーターは、見えなくしてしまってごめんなさい、と心のなかで何度も謝りながらそのパズルを部屋に飾った。

 クジラの目は海中で青く光って見えるそうだ、と教えてくれたのは、今日ピーターとジョージの部屋に遊びに来た男だ。いつのことだったか、果たしてどのような脈絡だったのかは覚えていないし、男は特別海洋生物学に詳しいわけでもないようだから雑談だったのだろうが、そのとき二人の内奥に去来したものは確かに同じクジラのイメージだった。
 あれから長じて二人は地元から一時間半の距離にある都会でフラットをシェアすることになり、引っ越して来てすぐの殺風景なリビングに真っ先に額に入った未完成のパズルを飾ったピーターにジョージは苦笑したのだった。彼は言った、結局見つかんなかったね、と。引っ越し作業で部屋をすっきり片付けたのに、欠けたピースはやはりどこにも見当たらなかった。もしかして最初からなかったんじゃないかな、とずっと考えていたことをそのときピーターは口にした。買ってもらったあのパズルはいわゆる不良品だったのではないかと。千もピースがあるのだから業者側もそんなミスをすることがあるかもしれない。そうなのかなあ、とジョージは返した。だとしたらどれほど切ないことだろう。
 二人が男と出会ったのは街中の図書館、そしてパブでのことである。その日の昼に、調べものがあったピーターと付き添いのジョージが資料の所在を尋ねた相手が図書館スタッフとして勤めているその男であり、さらに同日夜にパブで再会したというのが事の次第だ。彼の印象的な薄青の瞳を覚えていた二人はちょうどいい感じに酒精が入っていたこともあり、一人で飲みに来ていたその男に絡み、何度も機嫌よく乾杯を繰り返して、どういったわけか互いに連絡先を交換してその日は別れた。それから何度か図書館に足を運ぶ機会やパブで顔を合わせる機会があったことでいっそう懇意になり、三人でパブに飲みに行く回数も増え、そのうち自然、どちらからともなくピーターとジョージは、今日は宅飲みにしないか、と二人のシェアフラットに男を誘っていた。

 案外きれいな部屋じゃないか、と開口一番男は言った。失礼な、どういう部屋だと思ってたの? などと二人はおかしげに返してみせる。男が言い訳するには、酒精の入った奔放な君たちしか知らないから、ということだった。その言にピーターは、名誉挽回だね、と適当なことを返す。どうせこれから改めて酒精が入るのだから同じことではあったのだが。
 リビングに通された男はしばらくきょろきょろと興味深そうに周囲を見回していたが、やがて壁にかけられた額に入ったパズルに目を留めた。しげしげと物珍しそうにそれを眺める男に、酒肴をテーブルに置いたジョージは、僕らがちっちゃいころ二人で作ったんですよ、と得意げに言う。そうなのか、と返した男は、画面右下部のクジラの目許、欠けたピースを見やった。
「ああ、そこ、なかったんです。なくしちゃったみたい」
「ん? これじゃないのか?」
 ジョージの言に、男は背を丸くしたと思うとフローリングに敷かれたベージュのカーペットの表面から何かをひょいと取り上げた。えっ? と素っ頓狂な声をあげるジョージを訝ったピーターもキッチンから戻って来、二人して男の持っている何かを覗き込む。そこにはパズルのピースが一欠けら摘ままれてあった。くるりと男は指先でそれを回す。思慮深いクジラの目が世界を――二人の顔を覗いた。
 ピーターとジョージとは驚いて互いに顔を見合わせ、それから同時に男の顔を見た。二人の様子に目を丸くした彼は、ここに落ちていたけど、とまるで取り繕うように言う。しかし、二人がこれまで暮らしてきたこのフラットのリビングではパズルのピースを見かけたことなど一度もなかった。カーペットは何度も掃除し、窓から干したり、洗ったりもしたけれど、これほど大きな落とし物が出てきたことはない。
 当てはめてみよう! と二人は慌てて額を下ろし、リビングテーブルにパズルを広げる。男からピースを受け取ったピーターは、恐る恐る、盲目のクジラの目許にそれをはめ込んだ。ぱちり、と軽やかな音を立ててピースは隙間なくパズルにはまり、クジラの青い理知の瞳は月夜の海のように輝き出した。
「…………」
「…………」
「なんだ、よかったじゃないか。見つかって」
 絶句する二人をよそに、男は薄青の瞳を細めてまるで我が事のように嬉しそうに笑っている。リビングライトに照らされた彼の双眸の色がクジラの放つ光に似ていて、腰が抜けた二人は揃ってリビングにへたり込んでしまった。