おばあちゃんが死んだ。僕が十三歳のときで、おばあちゃんは七十五歳だった。階段で転んで頭を強く打ち、くも膜下出血になったことが死因だそうだ。倒れているおばあちゃんを一番最初に見つけたのは僕で、一所懸命呼びかけたけどおばあちゃんは、うう、と唸ったきり応えなかった。病気もなくかくしゃくとしていた人だったから、急の訃報を受けた親戚やおばあちゃんの知り合いはみんな驚いていた。
 その一月前に同じクラスのエイミーのおじいちゃんが、それより半年前にケントのおばあちゃんがそれぞれ亡くなって、二人はそれなりに悲しんで泣いたようだったから、きっと僕もそうなるだろうと思っていたのに全然そんなことはなくて、涙の一滴も出なかった。父さんや母さんは葬儀の準備をしながらほんの少し悲嘆に暮れて、あとはもう平気な風をしていたので、僕は僕の振る舞いが間違いではないのだろうと考えてほっとした。おばあちゃんのことは大好きだった。
 おじいちゃんは僕が生まれる前にもう死んでいたので、いよいよ我が家は核家族になった。人が一人減って三人ぽっちになった家はずいぶんと寂しく、寒々しく感じられる。
 それよりもう少しだけ小さいころ、僕はおばあちゃんに、僕は十七歳で死んじゃったんだよ、と言ったことがある。船の上の事故で、暴れる兵隊さんに押されて階段から落ちて頭を打って、目が見えなくなって死んだんだよ、と。近所で飼われていた、僕の可愛がっていたラブラドールレトリーバーのテオが死んだときのことだったと思うけれど、僕が十七歳で死んだということはそれよりもずっと前から頭のなかにあったことだった。母さんが言うには三歳のころの僕も似たようなことを言っていて、困ったものだと咎めたそうなので、それから口にすることは控えていたのだと思う。子供の僕は母さんを困らせたくはなかった。
 おばあちゃんは、そうなの、かわいそうに、と言った。そして、大丈夫よ、これからあなたはもっともっと生きるからね、と笑った。もっとってどのくらい? と僕が訊くと、そうねえ、八十年は余裕ね、とおかしそうに続けた。
 おばあちゃんは八十歳まで生きられなかった。十七歳の僕と似たような死に方をした。

 僕は明日、十八歳になる。

 今日は一日じゅうずっと起きていようと決めていた。明日の授業中に寝てしまうかもしれないけど、十七歳の僕が見られなかった景色が見たかった。
 本当は、世界じゅう誰の上にも降る一日一日がすべて新しく見たこともない一日なのに、僕はそんなふうに考えたことが十七歳になるまで一度もなかった。十七歳で死んだ僕のことをふと思い出して初めてわかったんだ。
 日付が変わると同時に友達から来たいくつかのテキストに返事をして、僕は窓辺に置いた椅子に腰掛ける。東向きの僕の部屋の窓からは真っ暗な空しか見えない。
 モバイルの明かりに煌々と照らされて僕はじっと待つ。暇つぶしにはウィキペディアがおすすめだよ、そう教えてくれたトムもきっと今はもう眠っている。
 ほんの少し窓を開けたら、遠くから風に乗ってさざ波が聞こえた。静かな夜にもどこかで音は鳴る。誰も聞いていなくても。
 僕のため息は誰にも聞かれず溶けていく。
 若いころ、真夜中に浜辺を散歩したことがあったの、おばあちゃんは僕に言った。世界にあたし一人しかいないみたいでとてもわくわくしたのよ。砂を踏む音が変に響いてどきどきもした。今は海もあたしのためだけに寄せては還している。一滴残らずあたしだけのものよって思った。でもね、そうやってどこまでもどこまでも歩いていたら、ポートランドが見えてきたの。ポートランドの灯台の光が。それから、海を行く船が。不思議なんだけど、そのとき急に世界を手放した気持ちになったわ。あたしだけのものじゃないんだって、どうしてそんなこと思ったんだろうって。そうしたら急に家に帰りたくなってね。早足で帰ったわ。何度も何度もあの灯台と船を振り返りながら。心の底から航海の無事を祈った。どうかあの船が無事に目的地まで着けますようにって。
 あの船はどこへ行ったのかしら。きっと、あたしの全然知らないところね。

 ――僕の待ち望んでいたものが来た。新しい一日だ。東の空がどんどん明るくなって、本当はいつの間にか雲が少しだけ晴れていたんだとわかる。黒くのっぺりしていた空がどんどん立体的になっていく。
 僕は、深くため息をつく。
 十七歳の僕、君が見ることができなかった十八歳の夜明けは、こんなにも真っ赤に燃えているんだよ。
 君がここにいられたらどれだけよかっただろうと思う。

 僕は鼻から息を吸いこむ。そして吐き出す。
 今日から僕が始まっていく。十八歳からの僕が。
 誰かのために泣くことができなくても、おばあちゃんの言うとおり、八十歳までは生きていこう。もう少しがんばれそうだったら、もう少しがんばろう。そうしてちょっとずつ生きていこう。ときどき、誰にも聞かれないようなため息をつきながら。

 真っ赤な朝焼けが僕の上に迫ってくる。まるで僕を飲み込もうとしているみたいに。

 ああ、僕は、君の全然知らないところへ行くんだな。
 そう思ったら、なんだか涙があふれて、止まらなかった。


 ◇


 真っ暗闇、揺れる世界。いつだったか僕は、僕が死んでも多分誰も悲しまないんだろうな、と思ったことがあった。僕の人生に大した意味なんてないんだろうな、と。
 遠くから声が聞こえる。沈んでいる僕の耳に、慣れ親しんだあのほんの少し低い声が、どこか嬉しそうに響いているのが届く。スピットファイア、とその声は言った。あのとき飛んで行った三機かな。その声の見ている景色はどんなに心踊る様子なんだろう。
 真っ暗闇にいる僕にはもうなにもわからない。何度か瞬いてみてももう何も変わらない。あの声が見ている景色を僕はもう見ることができない。
 ああ、痛い。痛い。痛い。ひどく痛い。こんなに苦しいのにもがくこともできない。僕の体のどこが痛いんだろう?
 父さん、僕、父さんの望むとおりの人間にはちっともなれなかったけど、僕の好きな人たちのほんの少しの手助けをして、僕はこれで満足なんだよ。僕は僕のなりたいものにもなれなかったけれど、寒さで震える人のためにあったかい紅茶を淹れることができた。僕の存在はいつも他の誰かより軽かったし、僕がいなくなってもきっと誰も気づかないだろうと思っていたけど、僕が死んでも誰も泣かないだなんて、僕はもう死ぬのに何を心配することがあるんだろう? だってもうそんなの僕には関係ないのに。いつだって誰にとっても僕が関係なかったみたいに。
 声が聞こえる。誰かが何かを言っている。僕にはもう何もわからない。何も。
 どうして僕はこんなところで一人でいるんだろう? どうして誰も僕の隣にいてくれないんだろう? そこに立って僕を見下ろしている黒い顔の人は誰? どうしてその人は僕の傍に寄り添ってはくれないの? 僕はこんなに寒いのに。僕はこんなに苦しいのに。苦しい、痛い、痛い、痛い、痛い、死にたくない、死にたくない、死にたくない! 痛い!
 苦しい、苦しい! 声をあげたいのにちっともできない! 体を少しも動かせないんだ!
 神さま!
 僕は不出来であなたみたいに父さんの望むような立派な人間にはなれなかったけど、それって僕がここで一人ぼっちで死ぬ理由になる? もし僕が誰よりも大きく強い体で、自分勝手に誰かの役に立ちたいなんてわがままなことを思わない善良な人間だったら僕はまだ生きていられたの? 父さんは僕を怒鳴ったりしなかった? 母さんは僕を諦めなかった?
 本当はこんなことで満足なんてしてないんだ。
 痛い、痛い、痛いよ神さま。怖いよ。僕は初めて死ぬんだ。生まれて初めて。こんなに怖いことだなんて知らなかったんだよ! 誰か僕の傍に来て。怖いんだ。僕は一人ぼっちで死にたくない! ピーター、ドーソンさん、あの兵士でもいい、すれ違った駆逐艦に乗っていた誰かでもいい、父さん、母さん、ウェイマスの町の僕が知らない誰かでもいい、犬でもいい、猫でもいい、鳥でもいい、誰か僕を一人にしないで! 寂しい、苦しい、痛い、死にたくない!
 僕はわかったんだ。僕が死んで誰も泣かなくても僕が泣く。僕だけは僕の手を取って、君は一人じゃないんだって言ってやる。だけど僕の体はもう動かない。自分で自分を励ますこともできない。本当の一人ぼっちだ。寒々しい真っ暗闇、水しぶきの一つも聞こえない、もう揺れを感じることもなくなった世界で、僕はたった一人で死んでいく。怖い。痛い。苦しい。寂しい。こんなことがわかったからには僕はもう二度と誰も一人で死なせない。今決めた。僕はもう二度と誰かを一人ぼっちにしたりしない。
 神さま、神さま、あなたみたいにいつか僕を生まれ変わらせて。僕はきっと正しい人間になる。正しくなくても優しい人間になる。僕は誰かに望まれたかった。誰かに関係して、誰かに諦めないでほしかった。なりたいものになりたかった。誰かに笑われたり軽んじられたりしたくなかった。だって僕は僕でせいいっぱい生きたかった! 生きたかったんだよ!
 神さまお願いします、もう二度とわがままは言いません。父さんや母さんに文句を言ったりもしません。先生を睨んだりもしない。誰かの役に立ちたいなんて言わない。僕は僕の領分できっと僕にできることをします。何も高望みはしないから。

 ああ、でも、世界が遠くなっていく。


 ◇


 頭の上でカーテンみたいな赤い光が揺れている。
 僕がいるところよりもずっとずっと先に小さな光の粒がある。
 僕は僕の両足で立っている。

 そうしたいわけじゃないのに僕は光に向かって歩く。そうしなくちゃいけないんだ。もうこれきりだ。もうどこも痛くない。
 痛くないのに涙は出る。両目が熱くなってぼろぼろ泣きながら僕は歩く。
 光がどんどん近づいてくる。
 まるで僕を迎えに来たみたいに。

 なんて眩しくてあたたかいんだろう。
 僕の体は少しずつほどけていく。
 優しい光が僕に触れる。
 涙が少しずつ乾いていく。

 ああ、どうか、
 どうか怖いことのすべてがここで終わって、
 誰も震えることのない世界が来ますように。

 これから先も続いていく誰かの人生が、
 どうか無意味なものでありませんように。