「ピーター!」
 明るい声に名を呼ばれ、ピーター・ドーソンは振り返った。そこにいたのはブルネットの癖っ毛がふわふわ揺れる見も知らぬ小柄な少年で、ピーターは思わず首をかしげる。
「えっと、ごめん。ピーターって俺のこと?」
 ピーターがそう尋ねると彼はその青い目を小さく見開き、すぐににっこりと歯を見せて笑った。
「ごめん! 僕の友達にすごくよく似てたんだ。間違えちゃってごめんね」
「いや、いいよ。俺もピーターって名前なんだ。偶然だね」
「――そうなんだ」
 ピーターがそう返して口許に笑みを浮かべると、彼はぱっと頬を赤らめ、こくんと頷いた。
「そう。俺はピーター・ドーソンだよ」
「僕は……ジョージ。ジョージ・ミルズ」
 こっちに引っ越してきたんだ、と彼――ジョージは言った。ピーターが学年を尋ねると彼は、九年、と答える。
「そっか。大変だね、テストもあるし」
「うん、僕、勉強あんまりできないから……あ、君は?」
「俺は十一年。君、自分のことそんなふうに」
 言うなよ、という言葉は、ジョージの、じゅういち、という声にかき消された。
「それじゃ、君のほうが大変でしょ」
「うん、大変だけど、がんばらないと。それより君ね」
「がんばってね。じゃあ、バイバイ。引き留めてごめんね」
 ピーターの言も聞かず、ジョージは一方的に話を切り上げてさっさとピーターの前から走り去ってしまう。後に残されたピーターはぽかんとするばかりで、遠ざかっていくどこか愛らしい後ろ姿を見つめるしかなかった。

 ピーターが再びジョージと会ったのは、それから一週間後のことだった。友人たちと別れ帰路を行く己の少し前をあの日見つめた小さな後ろ姿が一人歩いていることに彼は気づき、そのやわらかく揺れるブルネットの放っておけなさも相まって、小走りでその背を追った。
「やあ、ジョージ」
 唐突に声をかけられた彼は弾かれたように俯いていた顔を上げ、そこにピーターの姿があることにひどく驚いた様子だった。
「ピー、あ、ドーソンくん」
「ピーターでいいよ。学校には慣れた?」
 隣に並ぶピーターにどぎまぎしながら、ジョージは質問に頷きを返す。
「ならよかった。もし何か心配なことがあったら、俺に訊いてくれていいよ」
「え? ……でも、君、いつも忙しそうだから……」
 尻すぼみになるジョージの声にピーターは目を丸くする。まるでピーターの様子を見ていたような口振りだ。ジョージは言葉を続けた。
「いつも君を見かけるときは、誰かと一緒にいるから」
 今も僕といるし、とジョージはおぼつかなく笑ってみせる。その表情にどことない距離を感じて、彼に初めて会ったときのあの明るい声色はなんだったのかとピーターは思った。
「みんなで勉強を教え合ったりしてるだけだよ。わからないところがあったらすぐに訊けるし」
「こないだ大きな声でフットボールの話してた」
「息抜きも大切だろ?」
 そう返すとジョージがおかしそうに笑ったので、ピーターはほっとして、少し低いところにある癖っ毛をくしゃりと軽く撫ぜた。
「ねえ、ところで、君の家はどこにあるの?」
「えっと、埠頭の近くだよ」
 ジョージの言うのにピーターは大袈裟に驚いてみせる。本当は、こんな海端の道路を歩いているからそうなのではないか、と見当をつけていたのだ。
「じゃあ、俺んちの近くかも。あ、もしかしてあのずっと空いてた家かな?」
 困ったように首をかしげるジョージは、きっとそうだね、と勝手に納得するピーターを上目遣いに見る。
「ねえ、ときどき遊びに行ってもいい?」
「え?」
 ピーターが尋ねると、ジョージはあからさまに狼狽え、どうして、と聞き返した。
「あ……だめかな? 親御さんがうるさい?」
「ううん、そんなこと、ないけど。だって」
 ジョージが背負っている鞄の紐をぎゅっと強く握った、ようにピーターには見えた。
「全然、友達じゃないのに」
「そんなこと言うなよ」
 ピーターは気安く彼の肩を抱く。
「君のピーターって、前の学校にいた子だろ? 似てる俺と一緒にいれば、もっと気楽に過ごせるよ」
 そう言って顔を覗き込んだら、ジョージの青い瞳が切なく揺らいだ。ピーターは、その表情に思いがけず心臓を高鳴らせる。彼のわなないた唇が、うん、と震える声で紡いだ。
「ありがとう……」
 その言葉にピーターは全身の血が急に巡って体じゅうがあたたまり、胸がどきどきし始めたことに気づいて、思わず目を逸らしてしまった。
 ジョージの家はピーターの家の程近く、三軒隣にあり、そして確かにピーターの考えていた空き家で、彼はすぐにも新しくできた年下の友人の家に上がりたかったのだが――初めての他人の家に上がるときの楽しみは何にも勝る、とはピーターの母の言である――ちょうど自宅から出てきた父に手伝いを頼まれ、あえなくこの日はまっすぐ帰宅することとなってしまった。
 年下の友人を紹介すると父はそのやわらかな面をほころばせて、息子をよろしく、と言った。ジョージは、僕のほうこそ、と返した。

 それからピーターは、学校や帰路に於いて、ジョージの存在を気にし、意識して探すようになった。一歩教室の外に出れば行く先々できょろきょろと周囲を見回して、あの小さな頼りないブルネットがどこかにいないかくまなく確認する。はたしてたくさんの生徒たちのなかにその姿を見出せば、駆け寄って肩を抱いたり、何の発展もない天気の話をしたりしたし、それができないときも大きな声で彼の名を呼び、手を振ってみせた。ジョージはいつもはにかみ、しかし嬉しそうにピーターに応えてくれた。自分の何でもない話に相槌を返す丸みを帯びたわずかに高い声や、小さく振り返される彼の愛らしい手は、ピーターの心を不思議とやわらかく締めつける。
 ピーターが見つける彼は、一人のときもあれば何人かの生徒たちと共にいるときもあったが、複数でいてもどこか距離を開けて行動していて、それが友人関係であるようにはピーターの目には見えなかった。そんななか、年長であるピーターがジョージの傍らで彼と親しくしていると、ジョージのクラスメイトたちは一様に目を丸くして驚き、その表情といったらピーターに得も言われぬ昂揚感と優越感をもたらすものだった。
 そして、いきなり現れたピーターの年下の友人を、当然彼の同年の友人たちは訝った。一人にはしきりに、誰あいつ、と詰められたが、ピーターは、近所の子だよ、と答えるばかりでその名や所以などを教えることはなかった。ジョージのことを友人たちに教えたところで詮無いことだとピーターは思ったし、何より彼を独り占めしたいという気持ちがどこかにあった。
 もちろんランチタイムは彼と共に過ごすことにした。初めてそうすることに――ピーターが一人で勝手に――決めた日、授業を終えてジョージのクラスの前で彼が出てくるのを待ち、ピーターの姿を見つけてひどく驚いた様子を見せた彼に笑いかけるのはおかしかった。どうしたの、とジョージは尋ね、一緒にランチ食べよう、とピーターは返す。ジョージはぽかんと口を開けていたが、やがておずおずと頷いた。そんな引っ込み思案な様子がピーターにはとても愛らしく見えた。
 普段校内や帰路で会うときとは少しばかりわけが違うので、ピーターはランチタイムのおしゃべりが自身の性格にそぐわず己の一方的なものになるのではないかと危惧したが、そのようなことはなかった。ジョージはいつも通りピーターの話題にテンポよく相槌を打ってくれたし、ときおり彼自身の思うことも口にしてくれた。共に過ごすランチタイムが数日も続けば、そのうちジョージのほうから様々な話題を振ってくれるようにもなった。
 ピーターはジョージの、おそらくは彼自身の性格や考えながら話すためにそうなるのであろう、どこかゆるく、穏やかな口調、単語の端々に聞こえるささやかな訛り、そして肝心なところで噛んだり早口になったりする欠点が、その声色とも相まってとても好きだと思った。耳なじみがよく、出会って少しも経っていないのにどこか懐かしい、あたたかくやわらかな陽だまりのような雰囲気は、ジョージの佇まいに似合っている。彼が己を見上げる上目遣いに映る空と海に似た青い色、特徴的な丸い形の鼻先と頬がほんのり色づく様、つんととがった唇の健康的な赤い色。すべてが愛おしく、ピーターの目にはあまりに魅力的だった。


 ◇


「なんだか最近、君らしくないよな」
 友人の一人、マットに言われ、ピーターはきょとんと目を丸くした。そう口にした彼はどこか不満げにピーターを見つめている。
「何?」
「別に……」
「なんだよ、わけわかんないの」
 ピーターがため息をついて再び机に広げていたコミック雑誌に目を落とすと、あいつなんなの、とマットはごく小さな声で言った。ピーターが再び目を上げると、彼はいっそう眉根をぎゅっと寄せている。
「ボーイフレンド?」
「何? 誰が?」
「“ジョージ”」
「ああ、ジョージか」
「君ってさ……」
 マットはきょろきょろと視線を左右に彷徨わせたあと、じっとピーターの手許のコミック雑誌に目を落として、ゲイだったの、とごく小さな声で問うた。
 ピーターはぱちりと長い睫毛が象る瞼を瞬かせ、それからふと視線を斜め上に向ける。
「うーん……そうなのかも」
「……ほんとに?」
「俺がゲイだったら、何か困る?」
 マットはむっと唇を引き結び、それから、困んないけどさ、と強い口調で言った。
「いつもニヤニヤヘラヘラしちゃってさ」
「……そんなに?」
 ピーターがびっくりして尋ねると彼は、自覚なしかよ、と呻いた。
「ジョイスと付き合ってたときはそんなふうにならなかっただろ」
「……なんでジョイスと付き合ってたこと知ってるの」
「ジョイスに聞いたんだよ」
 君は一言も言わなかっただろ、とマットはいらいらしたような口調になる。ピーターは、友人の誰にもクラスメイトのジョイスに告白されたことを言わなかったし、デートを重ねたことを言わなかったし、幾度かキスをしたことも言わなかったし、ペッティングはしたがセックスはしなかったことも言わなかったし、別れたこともすべて言わなかった。ピーターは、あまり学校では親密に会わないようにしよう、とジョイスに提案し、彼女は不承不承ではあったがそれに同意した。なぜそうしたかったのかはよく覚えていないが、おそらく少し面倒くさかったのだろうと思う。例えばこういうことがあると友人たちにからかわれただろうし、囃されただろうし、常から人に気を遣っていなければならなくなっただろう――それらはすべて起こらなかった過去だが、ピーターは確かにそう考えたし、あながち間違ってもいなかっただろうと思われる。
 現に目の前の友人は、なんだか少し面倒くさい絡み方をしてきている。
「もう終わったことなんだし、そんなに言わないでよ」
「だってジョイスがうるさいんだよ。ピーターはかっこよくて、クールで、気遣ってくれて、背も高くて、文句のつけようがないくらい完璧だったって」
「……付き合ってるの?」
「まだ」
 頬を膨らませたマットにピーターは苦笑する。
「俺くらいの身長のやつなんかいくらでもいるじゃないか」
「そこじゃないだろ!」
 小突いてくる友人の肩を小突き返し、がんばれ、と声をかけると、ようやく彼は不満そうだった面をゆるめて、君もね、とニヤリと笑ってみせたのだった。

 ピーターがミルズ邸に招かれるよりも、ジョージがドーソン邸に招かれるほうが早かった。ゲームがあるんだけどやってかない? などと、“クール”で“完璧”なピーター・ドーソンにしては下手くそな誘い文句だったが、ジョージはとても嬉しそうに頷いてくれた。普段の会話のなかで彼がビデオゲームに興味があるふうだったのはわかっていたので、兄が実家に残していった一世代前の機種でも利用できるだろうかと踏んだのである。プレイステーション3なんだけどいい? と尋ねたら、やったことないから何でもいいや、と返ってきた。ピーター本人もあまりゲームをするほうではなかったので――兄のプレイするFPSゲームを横で見ていたら画面の揺れで酔ってしまったほどだ――同じくらいの気持ちで臨めるだろうと思うとそれだけでも嬉しかった。
 学校から帰って来てばたばたと二人して上り込んだピーターの自室、椅子がないからと彼をベッドに坐らせて自身もその隣に腰を下ろすと、ジョージは、何のゲームする? といたずらっぽく部屋の主に尋ねた。いくつかあるソフトを彼に手渡しながら、君の好きなのをやっていいよ、と答えると、ジョージはそれらを矯めつ眇めつしながら唸る。
「君のおすすめは?」
「うーん……兄さんがやってて楽しそうだったのはこれとかこれだけど……あ、これはだめ。CEROがだめ」
「ええ、やらせてよ」
「だーめ」
「君ってけちだね!」
「何とでも言ってよ」
 ソフトを奪おうと腕を伸ばしてくるジョージの体を支えながら、ピーターはレイティングが年下の友人の年齢にそぐわないものを遠ざける。そうしながらも、くっついてくるジョージの体のあたたかさにどきどきした。いいじゃん、君以外誰も見てないんだからさ、なんて台詞がいやらしく聞こえるくらいには、ピーターには下心があった。ジョージは己と体をくっつけていてもなんとも思わないのだろうかと、そんなことばかりが気になる。
 兄の持っていたゲームソフトをレイティングで分けていったらジョージのプレイできるものはほとんど残らず、唯一残ったゲームはフットボールゲームでピーターはうんざりしたが、ジョージは実に楽しそうにそれをプレイしていた。どうやら彼がこのゲームをするのはまるっきり初めてだったようで、ネイマールやメッシ、クリスティアーノ・ロナウドがあっちこっち見当違いの方向にパスを出したり、前線から自陣へキラーパスを出したり、相手チームに合わせるクロスを上げたりするのがピーターにはいちいち面白くて、ジョージが真剣な横で彼は始終笑いっぱなしだった。
「おっかしいなー。アグエロってこんな選手じゃなかったよね?」
「俺の知ってるのはね!」
 ついに、そんなに笑うならピーターがやってみてよ、と押しつけられ、某選手を危険なスライディングで一発退場させてしまったときには今度はジョージが散々からかう番だった。
「あーあ! ファンに怒られちゃうよ。君も下手くそだね」
「なんだと!」
 笑いながら彼に抱きつき、ベッドに押し倒す。やめてよ、と高らかに笑ったジョージは、きょろりとその青い両目で自身に覆いかぶさるピーターを見上げた。ピーターは精いっぱい顔を引き締めて彼を見つめる。誰かさんが言うみたいな、“かっこいい”表情を。
「……君のピーターとは、よくゲームしたの?」
「うえっ? あっ、えっと……ゲームとかなかったから……」
「そうなんだ」
 彼の頬のすぐ脇に突かれた己の手、親指の丸い爪。少し伸ばせばきっと彼の耳朶をくすぐるだろう。ごく間近にあるその鼻先がほのかに赤く染まっている。
 どこかとろけたふうにも見える、やわい顔つき。誰のこんな表情もピーターは知らない。ピーターは自身の思い通りに親指でジョージの耳のふちをくすぐった。ん、とジョージは鼻から抜けるような声を出す。
 知らないことはたくさんある。ピーターは、己がジョージについて知らないたくさんのことを知りたいと思った。
 緊張をほぐすように、ピーターは取り留めのない質問をする。
「そういえば、君ってどこから来たの? 訊いたことなかったね」
「あ……僕はベルファストだよ」
「え!」
 何の気なしに尋ねた問いに思いも掛けない返答が来て驚いたピーターの体が弛緩した隙に、ジョージはひょいと上体を起こしてピーターの肩に手を乗せた。
「父さんの仕事の都合で」
「へ、へー……そっか……」
 相槌を打ちながら、ピーターは己がジョージを見る視線に新しい感情が乗ったことに気づく。今、目の前にいるこの魅力的な少年は、己のまるで知る由もない遠い土地から来たのだと思うと、ピーターにはそれがやけに奇妙で、また運命的でもあるように思われた。
 肩口から伝わるジョージの手のひらのやわらかなぬくもりは、彼がゲームに意識を向けたことですぐにピーターから離れていってしまう。次はどこのチームでやる? と嬉々として口にする彼の横顔にピーターはじっと視線を注いだ。
 先ほどまでピーターが発していた空気がわからないわけでもないだろうに、とどこか恨めしげな目つきになったのに気づいたのか否か、ジョージはそうっと、ごく緩慢な動きで瞬きをし、己を注視するピーターを横目で見た。どうしたの、と小さくその唇が動く。そうして、ピーターが答える前にジョージは自分で言葉を続けた。
「……ごめん、僕、迷惑だったね。君も勉強で疲れてるでしょ?」
「え? ……なんで?」
「さっきも……眠そうだったよ」
 ピーターが己の頬に手を当てるのと、ジョージが慣れない手つきでプレイステーション3の電源を切ろうとするのはほとんど同時だった。あ、と止める間もなく、テレビ画面が暗くなる。ジョージはさっと立ち上がり、僕帰るね、と自身をぽかんと見上げるピーターに笑いかけた。そのまま歩き出した彼を、ピーターは立ち上がって慌てて引き留める。
「待って。なんで? 俺は大丈夫だよ。それに、俺が君を誘ったんじゃないか。何も迷惑なことなんかない」
「そうやって君は言うけど、息抜きも大切でしょ?」
「君と…………」
 言いかけて、ピーターは口を開けたまま黙った。己がジョージといたいのは勉強や学校生活の息抜きのためなどでは決してなくて、ただジョージといたいがためだ。他の何かのついでや暇つぶしではない。
 それをどう言葉にしていいのか急にわからなくなって、ピーターは前髪をがしりと掻いた。
「……うん。ごめん。じゃあさ、あ、そうだ、君、何のメッセンジャーアプリ使ってる? よかったらアドレス教えてほしいんだ」
 しどろもどろにピーターが訊くと、ジョージは困ったように笑って、モバイル持ってないんだよ、と言った。
「え? それじゃあ、家の人と連絡取れないじゃない」
「父さんが家にいるときは借りるよ。でも、あんまり必要なくない?」
「そんなことないだろ。事故とか、外で何かあったときにどうするんだよ」
 やけに熱心に言うピーターにジョージは面食らったが、そのうち口角を上げて一つ首肯した。
「そうだね。……そしたら、父さんに聞いてみる」
「そうしなよ。そんで、俺に一番にアドレス教えてね」
 わかった、とジョージが答えて、二人はようやく連れ立ってピーターの部屋を出た。まだ両親は外から戻っていないようで、階下のリビングルームはしんと静まり返っている。あんなに賑やかだった自室との対比にピーターはひやりと寒気がした。
「じゃあ、また学校でね」
「うん。またね。気をつけて帰って」
「すぐそこだよ。あのさ、君って……」
 ジョージはピーターをちらりと上目遣いで見、やっぱいいや、と小さく言った。ピーターはむっと眉を寄せる。
「何? 気になるから言ってよ」
「……なんて言うか……すごく意外だった」
 それじゃあね、と、ジョージはそれだけ言い残して足早に玄関から出て行ってしまう。ピーターは閉じられたドアをぽかんと見つめながら、今ジョージに言われた言葉の意味を頭のなかでぐるぐる考えた。

 その晩、彼は、三軒隣で今も起きていたり、眠っていたりするかもしれないジョージのことを考えながら自慰をした。くっついてくる彼の体、肩に置かれた手、上目遣い、ほのかに染まるまろい頬、親指が触れたその耳のふちの固さ、甘くやわらかい彼の声。登りつめ、はあ、と吐かれた己の息の熱さと手のひらにまとわりつく濡れた感触に厭気がさす。
 今己のしていることは、本当にしてもいいことなんだろうか。こんなふうに考えることなんて今まで一度もなかったのに。
 すべてを片付け終え、眠りに就いて見た夢のなかで、ジョージは見慣れた地元の海を背に、己に向かって何か楽しそうに声をかけていた。色あせた映画のような空気感、彼の着る丈の短いベストはセピア色で、カラフルな柄が踊っている。
 腕を伸ばしてその癖っ毛をそっと撫ぜたら、ふわふわの感触が手に馴染んだ。


 ◇


 翌日から、なぜか学校や帰路でジョージに会う機会が極端に減った。彼の姿をほとんど見かけなくなってしまったのである。ランチタイムに迎えに行っても、彼のクラスメイトに、さっきどこかに行ったよ、と言葉をもらうばかりで、会話もしていない。一度遠くにあのブルネットを見つけて大声で名前を呼んだら、困ったように笑って小さく手を振り返すだけでそそくさと去って行かれてしまったので、さすがにピーターもこれは避けられているなと悟った。友人たちにもまた、ピーターがここ最近行動を共にしていた年下の友人といる機会を失ってしまっているらしいことを見て取られ、もう喧嘩したのかよ、とからかわれてしまったのは腑に落ちない。
 理由は判然としないが、あのゲームをした日、己は何か間違った態度を取ってしまったのかもしれない。いや、そもそもあんなふうに触らなければよかった。そうだ、訊くべきだったのだ――「触れてもいいか」と。そして彼の口から彼の言葉で許可を得るべきだったのだ。「いいよ」と。ピーターは己の過ちに人目も気にせず頭を抱えたくなった。そうして、こんなにも彼とのことを失敗したくないと考えている己がいるのに気がついた。
 消沈し、内心で大暴れしながら帰宅すると、キッチンからただよってきたカスタードの香りがピーターの鼻をくすぐった。覗き込むと母がいて、おかえり、とピーターの気持ちとは正反対の明るい声をかけてくる。
「何作ってるの?」
「タルト! 久しぶりに作りたくなったんだー。あたしの腕、全然落ちてなかったよ。そっちのはもうできてるから食べてどうぞ」
「ありがとう……」
 はたと、そこでピーターは思い至った。

 三軒隣のドアをノックする。ピーターは心臓の音が町中に響き渡りそうなくらいに緊張していた。誰が青はクールダウンの色だなんて言ったんだ、この濃い青の木の扉は一つも俺の気持ちを鎮めてくれないぞ、彼はらしくもなく八つ当たりをしながら、家のなかからの応答を待つ。
 少しして、扉がゆっくりと開いた。はい、と低い――ジョージのものでない声がする。俯きかけていた顔を上げて、ピーターはなかから出てきた誰かの顔を見た。
「君は……」
 その誰かは、玄関先に立つピーターの顔を見てずいぶん驚いたようだった。しかし他方のピーターもまた、彼のぱちりと開かれた薄い青い瞳を見て全身がぶわりと総毛立ち、背筋を冷や汗が伝うような、そんな心地を覚えた。厭だ、と思った。怜悧につり上がった眉、くっきりとした二重が鮮やかに象る目許、僅かに出た頬骨と、穏やかに膨らんだ唇。この男に“ここ”にいてほしくなかった。ピーターは見も知らぬ相手に対してそんな悪感情を抱いてしまった己が理解できず、言葉を発することもできなくて呆然と立ち尽くした。
 男が、彼もまたどこか恐る恐るというように口を開く。
「……ピーター、くん、だろう?」
「……あ……はい。……えっと、ジョージ、は?」
「今……買い物に行ってる。そのうち戻るだろうから……上がって待つか?」
 その申し出にピーターは胡乱に首を振った。彼は、持っていた母親の手作りタルトが山盛り乗った皿を男に差し出し、皆さんで食べてください、とからからの声で言った。男は少しだけ目許をゆるめ、やわらかい声で、ありがとう、あの子も喜ぶよ、と返す。
 ――あの子。ジョージのことだ。ピーターの胸はざわざわした。
「あの……ジョージのお父さん?」
 ピーターが尋ねるのに男はまた驚いた様子で、それから数瞬置いて、いいや、と否定する。
「あの子の両親の友人だ。理由があって一緒に住まわせてもらっている」
「……そ、そうですか。あ、それじゃあ、僕、行きます」
 ピーターは大きく会釈し、早足でミルズ邸の前から辞去した。三軒隣に立ち戻る己の背に、ありがとう、と再び言う男の声がぶつかる。振り返らず自宅に飛び込んだピーターを、母の声が迎えた。
「おかえり。ジョージくんいた?」
「いなかった」
「あなたは食べないの?」
 ばたばたと階段を上がるピーターに彼女は言う。あとで食べるよ、と答えてピーターは自室に入り、音を立ててドアを閉めるとくずおれるように膝を抱えて丸くなった。
 どうしてこんな厭な気持ちになるんだろう。ピーターは丸まって圧迫された腹のためでなく苦しくて、息を荒げる。みぞおちから怒りが――そして悲しみが込み上げてきた。ピーターがこれまで一度も経験したことのない、とても深い、深い悲しみが。
 自分の体に何が起こっているのか理解できなくてピーターは泣きたくなったが、涙は一つも出なくて、代わりにただ動物の呻き声のようなものが口からこぼれた。そして、しばらくそうしていた。

「ピーター! ジョージが来たぞ」
 父の声がして、ピーターは膝にうずめていた顔をゆっくり上げた。真っ暗な室内にくらんで目を細める彼にもう一度父が、ピーター、と階下から声をかける。一度上げた声は掠れて音にならず、ピーターは咳払いを二度してから改めて返事をした。
 階下に降りると、リビングルームのソファにちょんと坐っているジョージの後頭部が目に入った。声をかけると彼は勢いよく振り向き、ピーター、とあのやわらかい声で嬉しそうにその名を呼んだが、すぐに何か訝るような、心配そうな表情になった。
「どうしたの……顔、赤くなってるよ」
「え?」
 ジョージは焦ったように立ち上がり、ピーターの傍まで来ると、その顔にそうっと手を伸ばした。丸い指先が触れそうになって思わず身を引いた彼に、ジョージははっとして手を引っ込める。ピーターはうろたえた。
「あ、いや、ちょっと寝てたんだ。ごめんね。何だった?」
「そ、そうなんだ? 疲れてるよね。起こしちゃってごめん。あ! あのね、タルトありがとう。ピーターのお母さんすごいね。すごくおいしかったよ。さっき聞いたよ、カスタードも手作りなんだってね。あとお皿も綺麗な色で……君の目の色みたいで……すごく綺麗な色」
「え?」
 二人は顔を見合わせる。ジョージは、あっ、と言って恥ずかしそうに目を逸らした。
「ごめん、なんか、変なこと言った」
 その顔もまた赤くなっているのを見て、人のこと言えないじゃない、と思いながらピーターは口許をゆるませる。落ち込んでいた気分が上向くのを感じて、ピーターはやり場のない両手を己の腰に当てた。ジョージがピーターの顔を見ずに、それだけだから、本当にありがとう、と言って足早にドーソン邸を辞去しようとしたので、ピーターは彼の肩をそっと押して共に玄関先に向かった。
「散歩行ってくる!」
「はあい、行ってらっしゃい。あんまり遅くならないでね」
「気をつけて」
「あ、お、お邪魔しました!」
「また来てねー!」
 母がジョージにかける声が一回り高くなるのを聞いたピーターは片眉を上げるが、早く二人きりになりたくて急いで家を出た。ピーター、と不思議そうに己の名を呼ぶ彼に小首をかしげて笑いかけ、ミルズ邸とは反対の方角を指さす。ちょっと歩こうよ、と言うと、ジョージは控えめに頷いた。
 夏の終わり、秋の始まりの風が、柵の向こうで夕暮れに染まる水面を静かに撫でているのが見える。隣を歩くジョージのブルネットがふわりと揺れて、ピーターは夢の中で感じた彼の髪の毛の感触を思い出した。彼はきゅっと眉を寄せてしかめっ面をしている。鼻先に寄ったしわが妙に愛らしく見えてピーターは触れたくなったが、すぐに以前の己の過ちを思い出し、そうじゃないだろ、と内心で自身を叱咤した。
 ぐ、と握りしめた拳を腰の後ろに回し、ピーターは息を吸う。
「あの、さ……」
 隣人が言葉を発するのに、ジョージはぱっと彼の顔を振り仰いだ。
「こないだのこと、本当にごめん」
「え?」
「ほら、変なふうに触ったろ」
 あ、とジョージは呆気に取られたような表情になり、それから頬をよけいに赤くして首を振った。
「ううん、全然、変じゃないよ、平気さ」
「でもあれから、俺のこと避けてただろ?」
「それは……」
 ジョージは真っ赤になった顔をピーターからは見えないようにそむけてしまう。あの日触れた耳のふちもまた綺麗に色づいていて、ピーターはごくんとつばを飲み込んだ。
 彼のこの反応は、どうしたわけだろう。己はこれをどう読み解いたらいいのだろう。
「き、君が何かしたわけじゃないから、気にしないで」
 くしゃりと鼻先にいっそうしわを寄せ、振り返った彼は整った白い歯を見せて笑う。妙な笑い方だとピーターは思った。
 だってピーターは間違いなく何かをしたし、何かがしたかった。
 きつく握りしめた拳を開くことができなくてピーターは歯噛みする。
「……じゃあ、また、一緒にランチ食べてもいい?」
 そう尋ねるとジョージは、まるでピーターが初めて彼をランチタイムに誘ったときのように、小さく頷いた。ピーターは嬉しかったが、同時に自分のふがいなさに肩を落とす。人と関わることがこんなにも難しいことだなんて彼はこれまで考えたこともなかった。それでも、ジョージのこの“感じ”は特別だと思う。この、自分よりも一回り体の小さな少年は、他のたくさんの人たちは持っていない“何か”を持っているようにピーターには見える。そして、それが何なのかを己は知りたい。
 そうして、不意に、今日生まれて初めて感じたもう一つの“感じ”をピーターは思い出した。
「ねえ、ジョージ……訊いてもいいかな」
「うん? ……何?」
 打って変わって深刻な顔つきになったピーターにジョージは立ち止まり、そのひそめられた眉根を見た。ピーターは心臓をばくばくさせながら、訊きたくなくとも訊かなければならないことを口にする。
「あの、あの人は誰? タルトを持ってったときに出てきた人……。君のご両親のご友人だって、言ってたけど……」
 その問いにジョージはきゅっと唇を引き結び、それから、意を決して、といったようにゆっくりと口を開いた。
「あの人は、父さんと母さんの子供のころからの親友で、ずっと一緒にいる人。僕が生まれる前から、ずーっと一緒にいる人だよ」
 ちろりとその青い瞳がピーターの様子を窺うような上目遣いになる。ふうん、と答えるピーターに、ジョージは続けた。
「すごく優しい人だよ。僕も生まれたころからお世話になってるし……面白くて、いい人なんだ。あのね、ふふふ、母さんは、君のあしながおじさんだよって言うんだよ」
 おかしそうにジョージは笑う。彼はささやかな声で思い出話を語った。アーリーティーンのころからずっと共にいたジョージの両親とその友人は、ジョージが生まれてからぱたりと会わなくなった期間が三年ほどあったという。友人の仕事――彼は翻訳家らしい――が忙しくなったことが理由だそうだが、その間にも友人はミルズ家にたくさんのベビーグッズを送ってきた。新生児のころはタオル類やアフガン、スタイや帽子、乳児用衣類のハンガーなどが多く、大きくなるにつれてテディベアや様々な木製のおもちゃ、子供用のバスグッズやブランケット、絵本やレゴデュプロなどが増え、幼いころからジョージの周りにあるのはかの友人からのプレゼントばかりだったらしい。僕たち以上にあいつは君に投資してるよ、とは、彼の父の言だ。ジョージの三歳の誕生日に初めて二人は出会い、その後も友人の投資は続いていて、十二歳になったころには一度心苦しく思ったジョージがもうそういうことをしてくれなくてもいいと訴えたところ、ひどく悲しそうな顔をされ、さらにそれを両親に咎められてしまったため、結局は現在でも受け入れてしまっているそうだ。
 その話を聞きながらピーターは、ジョージがあまりにもかの友人のことを、いい人、優しい人、素敵な人と繰り返すものだから、嫉妬心がふつふつと沸いて仕方なかった。ずるい、という感情が浮かぶ――相手は彼の両親の学友で、一月前にその息子と初めて出会ったばかりのピーターとは共にいた時間が遥かに違うのに、それでも。ジョージの話を聞いたことで、ピーターのなかでかの友人の印象は、厭な感じのする人からいけ好かない奴に変化していた。
「……一緒に住んでるんだ?」
「うん。実は今、母さんはベルファストにいるんだよ。大きな仕事があってそれにかかりきりだから動けないって。僕は父さんについてきてこっちに来て……そしたら母さんが、あしながさんも連れてったらって」
 その呼び方に、ピーターは彼を好ましく思っていないのにも関わらずつい笑ってしまう。ようやく表情がほころんだ彼に、ジョージもまたほっとしたように口許を笑ませた。
「父さんは家事が不安だし、あなたは編集者とメールでしかやり取りしてないんだからどこでも仕事できるでしょって。ふふっ、おかしいよね。でもそれで、一緒に来たんだ」
「そうだったんだ」
 ピーターはほうと息を吐き、それからふと思ったことを口に出した。
「でも、そしたら、君はあっちに残ってることもできたんだろ? 友達もみんなあっちにいるんだし……君のピーターも」
 そこではたと言葉を切る。
「あ、いや、俺は君がこっちに来て嬉しいけどさ」
「……ほんと?」
 ジョージは徐々に濃くなっていく夕闇を面に乗せて、しかし目だけは光らせてピーターを見る。本当さ、とピーターが返すと、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「引っ越し先聞いて、行ってみたくて……だからこっちに来たんだ」
「そ、そうなんだ……? ウェイマスに?」
「……うん」
 ピーターはなんだか落ち着かなくて、いつの間にか開いていた手のひらをズボンでこすりながら、ジョージを見ていた。うん、ともう一度頷いた彼は、来てよかった、と言う。ピーターの口から、ほうとため息がもれた。
 転入先の学校で、ただ姿形が似ているだけの他人をあんなに明るい声で友人の名で呼ばわったくせに、離れていることがそれほどつらくないなんて、とピーターは心底意外に思う。自分だったら、ジョージと離れない選択肢があるならそっちを選ぶだろうな、と考えたが、それは内心に留めた。
 ジョージはちらちらとピーターを見つめている。ピーターの全身はかっかしてきて、顔じゅうが赤くなるのが自分でもわかった。今の自分は、ちゃんと息を吸って、吐いているのだろうか。どうしようもない気持ちになってがしりと頭を掻いた己を、ジョージは何を思って見つめているのだろうか。
「もう遅いから帰ろう」
 やわらかい声がそう言う。胡乱に頷いたピーターは、もと来た道を歩き出すジョージの背中を見つめた。
 その形が夕暮れの風で揺らいだとき、言葉がピーターの口をついて出た。
「君のことが好きだ」
 小さな背はぴたりと立ち止まる。ピーターにはそれ以上、二の句が継げない。振り返るジョージがまるでスローモーションのように、思わせぶりに見える。
「えっと……」
 その色の薄い肌が真っ赤に染まっているのを見て、ピーターは心臓を高鳴らせた。
「それって……友達としてって、ことじゃなくて、だよね?」
 窺うような青い視線にピーターは声も出せず、一つ首肯する。ジョージは下唇を食んで、小さく唸った。
「……やっぱり友達にこういうこと言われるのは、迷惑、かな」
 ようやくピーターはそう言葉にできた。するとジョージは思いきり首を振り、そんなことない、と叫ぶように言う。
「君にそうやって言われて嬉しくない奴なんかいるもんか」
「他の奴じゃなくて、君に言ってるんだよ」
「ぼ、僕だって嬉しいよ! すごく! だって……」
 ジョージはそうして、大きく息を吸った。
「だって、君にそんなこと言ってもらえるなんて……僕は、誰かにそういうこと言われるの、初めてなんだよ。まさかそれが君だなんて」
 彼は、感極まっているようにピーターには見えた。潤んだ青い瞳が、柵の向こうに満ちる水面に映る夕焼けを反射してきらめいている。
「君が僕にそんなこと言うなんて……」
 ジョージはほうと嘆息し、両手で口許を覆った。そのいたいけな様子に、ピーターの緊張は少しずつほどけていく。一歩、二歩、歩み寄ると彼はピーターを見て、はにかんだ。
「だ、だから、どうしていいかわかんないや……みんなよくこんなこと、平気でしてるよね」
「……うん。そうだね」
 空気を混ぜるような台詞に同意を返して、ピーターは彼に熱のこもった視線を送る。また一歩踏み出せば、ジョージは何度もピーターの顔とどこか下の方とを交互に見やった。
「君は、俺のことどう思う?」
「僕は……ピーターのこと……好きだよ」
 大きく頷きながらジョージは言う。それを聞いたピーターはまるで両足が宙に浮いたような、ふわふわした気持ちになった。俺はジョージのことを好きで、そしてジョージも俺のことを好きだなんて――それってすごく素晴らしいことじゃないか。口角をぎゅっと引き伸ばしてジョージを見ると、彼はやはり視線をあちらこちらにさまよわせながら、口を開いたり閉じたりしている。
「だ、だけど……それから、どうしたらいいかな。みんなきっと付き合ったりするんだろう? でも、その……僕たちってあんまり変わらない気がするんだ。だって、なんだか、君はいつも僕と一緒にいてくれる気がするし」
「確かに、それはそうかも」
 ピーターはふと中空に視線を漂わせ、ゆっくりとジョージにそれを戻す。緩慢に二度瞬くと、ジョージが息を飲むのがわかった。
「……俺は、君と、キスしたいって思ったりするんだけど……」
「きっ……!」
 変な声をあげて、すとん、とジョージはその場にしゃがみ込んでしまった。慌ててピーターも彼の前に腰をかがめると、ジョージは抱えた膝に乗せた頭をぶんぶん振っている。
「そんなこと君に言われると困るよ……」
「ご、ごめん。もう言わないから」
「うう、違う、そうじゃ、なくて……」
 ほとんど泣きそうな声でジョージはピーターの言を遮る。首をかしげたピーターを、彼はちらりと目線で見上げる。その目許が真っ赤に染まっているのがピーターにはたまらなく思えて、彼はすぐに表情を引き締めた。
 ジョージはしばらく呻き声のようなものをあげていたが、やがてぼそぼそと小さな声で、
「君って、僕の全然知らない君なんだね」
と言った。ますます首をかしげるピーターだったが、彼が伏せていた顔をようやく上げたことで思考は中断する。ジョージは涙目でピーターを見つめている。
「君といるとき、本当はいつも僕、すごく変な気持ちになってるんだよ。わけがわかんないんだ。これ以上なんて想像もつかない。心の準備ができるまで、ちょっと待ってもらえないかな……?」
「…………わかった」
 勢い抱きしめたくなる気持ちを懸命に抑えて、神妙にピーターは頷く。そうするとジョージが安堵した様子で嬉しそうに微笑んで、ありがとう、と言うので、やはりピーターはたまらなくなって、彼を抱きしめかけた両手を一所懸命に伸ばして立ち上がった。しゃがみ込んだままのジョージに手を差し伸べると、彼は自然な動作でそれを取り、ゆっくりと立ち上がってみせる。彼の指先は冷えていて、ピーターは自身の熱がじわりとそちらへ移るのを感じた。
 ゆるやかに弧を描くジョージの口許に目線を落としかけて、急いで彼と目を合わせ直す。ジョージはもう一度、ありがとう、と言って、ピーターの手を離した。
 ドーソン邸の前で別れる際、ジョージはピーターに、また明日ね、と声をかけると、ピーターの返事を待たずに走り出してしまった。慌ててピーターが、また明日、と叫ぶと、彼は軽く振り返って手を大きく伸ばした。その様子がおかしくて、ピーターは笑いながら家のドアを開ける。
 屋内へ入った彼は再び拳を固く握った。緊張のためでなく、決意のために。
 ありがちな青春小説の一節のように、“明日”を変えなければいけないのだと、彼にははっきりと理解できたのだった。


 ◇


 ジョージの言うように、ピーターとジョージが二人でいることは傍目には変わり映えのない日常だったが――なんだ、よりを戻したのか、と学友たちにはからかわれたものの――それでも僅かに変わったことが、ピーターが変えたことがある。彼は、日々の関わり合いのなかで少しずつジョージとの身体的な接触を増やしていった。「触っていい?」と尋ね、彼からの「いいよ」という許可を得て、もったいぶってその頰に触れることもあれば、気安く肩や腰に腕を回したり、からかうように鼻先をつまんでやったりすることもある。ジョージはすぐに彼の意図に気づいたようで初めのころは気恥ずかしそうにしていたが、そのうち慣れたふうに、もういちいち訊かなくていいよ、とおかしそうに言うようになった。
 その肩を抱きながら、君のピーターとはよくこうしてたの、と尋ねると、ジョージは少しだけ考えて首を振った。それ以上彼からは何もなかったので、訊かれたくなかったのかな、とピーターは反省する。友達の友達なんて気にかけたこともなかったのに、ジョージの言う“ピーター”のことは、ピーターの胸にやけに凝っている。同じ名前だからかもしれないし、似ていると言われたからかもしれないが、遠くアイルランド島北部の大都市にいる人間が、グレートブリテン島の南にある海辺の町に“いるはずがない”ことくらい、本当だったらジョージ自身もわかっていたはずなのだ。それなのに、あの声は――ピーターはそのことを思うと、胸がずきずきして居たたまれない気持ちになるのだった。
 毎朝の登校も共にするようになった。家が近所だと知っているのだから初めからそうすればよかったのに、そのことにすぐに思い至らなかった自分をピーターは悔やむ。だって、毎朝ミルズ邸から出てくるジョージの眠たげな青い目や、時折髪についている寝癖のかわいらしいことといったらないのだ。あるときはピーターが迎えに来る時間帯になってもミルズ邸に住む人たちの朝の準備が整っておらず、そのときが初めてピーターがミルズ邸に上がったときだったにも関わらず、家事の片付けやジョージの準備の手伝いなどをするはめになったのには笑ってしまった。聞けば、ミスター・ミルズも、その友人の翻訳家も、そしてジョージも揃って寝坊してしまったのだという。なぜそんなことに、と呆れながらピーターが尋ねると、引越し荷物のなかから久しぶりに出してきたボードゲームが異様に盛り上がったらしい。次やるときは俺も呼んでね、とジョージに確約させて、ピーターは彼と連れ立って慌てて学校に向かい、その日は遅刻寸前だった。
 ピーターの、それほど多くない好きなことのなかに、ジョージの身の丈に合わない大きめの制服の襟が着崩れているのを直してやることが増えた。彼はあまり見た目に頓着するたちでなく、朝から髪の毛をぴしりと整えるピーターとは違いゆるいブルネットはいつも手櫛でかき混ぜるばかりだが、その気取らなさや飾らなさがピーターは気に入っていた。彼が無意識に髪の毛をいじるのを見たピーターが同じように彼の毛先にそっと触れてみると、彼はきょとんと目を丸くしたあと、くすぐったそうに口角を上げるのだった。

 二人の関係性が僅かに変化してから程なく経ったある休日、ピーターがミルズ邸に遊びに行くとジョージは、モバイル買ってもらったよ、と得意げに両手で持ったそれをピーターに見せびらかしてきた。最新の機種ではないようで、なんで新しいのにしなかったの、とピーターが問うと、なんとなく、と適当な返事が来る。何が何だかわからないと言う彼にピーターは丁寧に使い方を教えてやった。メッセンジャーアプリは己と同じものをインストールさせ、早速アドレスを交換してテキストを送った。
『これで家にいても君と話ができる』
 素っ気ないフォントでも、ピーターの浮ついた内心を伝えるには十分だ。ミニテーブルを挟んで向かい側にいるジョージは恥ずかしそうに唇を噛んで、覚束ない手で返信する。
『ゆっくりになっちゃうけどごめんね』
『構わないよ。俺こそいっぱい送るかもだけど、無理して返さなくていいから』
『勉強の邪魔になるからそんなに』
『テキスト送ったり』
『しないよ』
「途切れ途切れになっちゃった……」
「ふふふ」
 ジョージが眉をひそめるのがおかしくて、ピーターは立ち上がって彼の隣に坐り直し、肩と肩とを触れ合わせるようにする。ピーターはそのまま、モバイルをいじってテキストを送る。
『君は邪魔になんかならない』
「ほんとに?」
「もちろん。そうだ、一緒に勉強しない? わからないところがあったら教えてあげる」
 ジョージは戸惑い、すぐ近くにあるピーターの目線から顔を背ける。
「でも僕、あんまり勉強できないから」
「君、初めて会った日もそう言ってたね。大丈夫だよ、俺結構教え方うまいって言われるから」
 得意げにピーターが言うと、ジョージはきょとんと目を丸くしたあと、破顔して、ほんと、と嬉しそうに応えた。
「ほんと。だから、あんまりそういうこと、言うなよ。勉強だけが全部じゃないだろ」
 そう続けたピーターを、ジョージは驚いたように見つめていたが、やがて目を潤ませて俯いた。ピーターが慌ててその肩を抱くと、ジョージは丸い手で一所懸命に目許をこする。やめなよ、とその片手を取ると、彼は小さく息を吐いた。
「ありがとう、ピーター……」
「ううん……」
 どうかしたの、とピーターは尋ねたかったけれど、また何も言われなくなってしまうことを考えて、口にはできなかった。その代わり、頭のなかをぐるぐると疑問が巡る。彼が勉強ができないことで、ピーターが気づかなかった何か差し障りのある事態がジョージの周りで起こっているのだろうか。何度か会ったことのあるミスター・ミルズはとても快活な人で大らかなように見えたし、その友人はジョージに対して過保護とも言えるような甘さがある。彼らのどちらとも、ジョージの成績に対して口うるさく言うような人物には見えない。それともまだ会ったことのない彼の母親がそうなのだろうか? だが、ジョージが話題に上らせる彼女は、ユーモアがあって優しげな人物だ。ジョージの周りにいる誰もが、こんなふうにジョージを泣かせるような人間だとはピーターには思えない。
「君って本当に優しい人だ」
 ジョージが嬉しそうにささやく。ふと目をやった赤らんだ彼の目許が扇情的で、そうかな、と答えるピーターの声は硬質になった。
 ――優しくなんかない、最低な奴って俺のことだ。ジョージが困っているのに、今、彼にキスをしたいと思う。慈しみたいのに、何も聞かずにその肌に触れてみたい。触れてみたい……
「……ピーター」
 ぽつりとジョージが己の名を呼び、ピーターははっと顔を上げた。ごく間近にあるその面がほのかに色づいている。
 どうしたの、と訊くと、彼ははにかんだ。
「君と……キスしてみたい」
「…………えっ」
 ピーターはあまりの衝撃にそれしか口に出せず、固まってしまう。ジョージは視線をきょろきょろさせながら、だめかな、と控えめに続ける。
「もしまだ、僕とキスしたいって思ってくれてるなら……」
「お、思う! 思ってるよ!」
 勢い込んで前のめりになると、ジョージはびっくりして上体を反らせた。ピーターは握ったままだった彼の手を取り直し、その指と指の間に己の指を滑り込ませた。
「でも、どうして、急に」
「だって……テキストじゃできないことだと思ったからさ……」
 ずいぶんと古風なことを彼は言う。ピーターは頬を赤くして、そっか、と頷いた。ジョージは唇をつんととがらせて呟く。
「僕って最低だ……君は気遣ってくれてるのに、優しい君としてみたくなって……」
 その言葉にピーターは天にも昇る気持ちになる。おんなじように思ってたんだ! ジョージと己の回線が正しくつながっているのに、ピーターは嬉しくてますます彼に体を寄せる。
「ジョージ、ごめん。俺もそうやって思ってたんだ。君を気遣いたいのも本当だけど、君とキスしたいのも本当なんだよ。最低だって言うなら俺のほうだ。だけど、こんなのいつもじゃなくて……優しくしたいのはいつもそうなんだけど……ああもう!」
 言葉にならなくて勢い顔を俯けたピーターのつむじに、ジョージはそっと唇を寄せる。ピーターは何度目かわからないほど驚いて、彼の顔を覗き込んだ。ジョージは口角をきゅっと上げて、ピーターを見ている。
「君ってそんなふうになっちゃうんだね……」
 からかうような色を含むその言葉にどうしようもなくなってピーターはジョージの鼻先に口づけた。
「君といるときだけだ」
「……うう……」
 真っ赤になったジョージに、じゃあ、キスするね、と宣言すると、彼は小さく頷く。そうしてピーターは彼の頬に空いていた他方の手を添わせ、目を伏せた彼の赤くつややかな唇に己のそれを寄せる。そっと触れ合わせると、まるで皮膚がくっついて離れがたいような気持ちになって、初めてするみたいにしばらくそうして動けなかった。
 ピーターはしかし、どうにか唇を動かして彼の赤いそれを口先でつまむようにする。ぽってりした下唇が見た目通りにやわらかくて何度も唇でついばむと、ジョージはおかしそうに口の端を上げ、所在なさげだった彼の自由な他方の手が己の肩に触れるのがわかった。
 舌はどうしよう。彼の唇を舐めてみたい。口内を味わってみたいけど、でもびっくりするかな。ピーターは、これがジョージのファーストキスなのだということに思いを巡らせていた。誰かから告白されることもピーターが初めてだったのなら、必定そうなるはずだ。だったらあまりよけいなことはしないほうがいいんじゃ……自分でもそれほど経験は多くないはずなのに、ピーターは彼の前では老獪ぶりたかった。結局、つんととがった上唇の先を舌先で舐めるに留めて唇を離すと、ゆっくりと瞼をあげたジョージは青い瞳を海のようにゆらめかせて、まるでシャーベットがとろけたみたいな光を湛えてピーターを見た。たまらなくなってもう一度だけ軽く口づけると、わっと彼は驚く。
「ふふっ」
「ぴ、ピーター……」
 惑乱する彼を抱き寄せ、ピーターはその額にも口づける。顔じゅう、耳から首までジョージは真っ赤になっていた。ピーターはそのこめかみに己の側頭部を寄せてこすり合わせる。耳許で、彼の髪の毛と己のそれが絡まり合ってしゃらしゃら音を立てた。
「ジョージ、君って本当に素敵だ」
「ピーターこそ……」
 甘やかな言葉のやり取りは確かにテキストでは経験できないもので、最新技術でも叶わないことがあるんだ、とピーターにはそれだけでも大きな発見であるように思える。
 二人で触れ合っている箇所からどんどん熱が滲んでくる。もう一度したい。何度でもしたい。そうして二人の顔が再び近づいたとき――

「ジョージ? いるか?」

 声が二人の間に割って入った。同時に部屋のドアがノックされ、彼らは弾かれたように距離を開ける。翻訳家の声だった。
「い、いるよ! どうしたの?」
「夕飯をどうしようかと……入っても?」
「えっと……」
 ジョージはピーターを見た。ピーターは思わず首を横に振ってしまう。この空気をあのいけ好かない奴――相変わらずかのミスター・ミルズの友人はピーターにとってこの評価である――に邪魔されたくない。ジョージは立ち上がり、彼のほうから部屋のドアを開けた。
「ああ、すまない……ピーターくん? 来ていたのか」
 ジョージの頭越しに目が合って、ピーターは小さく頷く。涼やかな目線が憎らしい。
「だったら、君も一緒にどうだ。ほら、タルトのお礼に」
「あ、うん。いいね! ピーター、今日、うちでご飯食べてってよ。おじさんのご飯おいしいんだよ」
 翻訳家の提案に嬉しげに振り返るジョージに、ピーターは逡巡し、それからこくりと首肯した。そうすると翻訳家はほっとしたように眦をゆるませ、よかった、と心底そう思っているかのような声音で言う。
「それじゃあ、君が好きなものを作るよ。何がいい?」
「え? えっと……」
 ピーターは翻訳家の様子に戸惑いながらも、ミートパイ、と答える。特別好きな料理ではなかったが、咄嗟に思い浮かんだのはそれだった。翻訳家は頷いて、じゃあそれにスープとサラダだな、と答え、ごゆっくり、とピーターに笑いかけて部屋の前を辞去していった。
 ぱたりと静かにドアを閉めたジョージは振り返り、緊張した様子でピーターを見た。ピーターもまた、ジョージをじっと見つめる。
「…………あの人、タイミング良すぎだ」
「ははっ、ほんとだね」
 恨めしげな声になってしまうピーターにジョージは笑って、再びその隣に腰を下ろす。互いに目を合わせると、今度は何も言わなくても、彼らはささやかに口づけを交わした。

 その晩、ミルズ邸でご馳走になったミートパイは確かにおいしくて、ピーターは釈然としない気持ちを抱えながら二度おかわりをした。ジョージもまたそうで、そんな二人を見ながら嬉しそうに目を細める翻訳家は、ピーターのなかでいけ好かない奴からわけのわからない大人に変化する。明朗で、息子のジョージやその友人であるピーターを正しく子供扱いするミスター・ミルズとは違い、翻訳家の態度はどことなく子供たちの様子を窺っているようにも感じられ、それは多分にピーターにとって“大人らしくない”ように見えた。
 玄関先で別れる際、ジョージは照れくさそうに、また明日ね、と言って微笑んだ。うん、と頷いたピーターは去り際のキスをしたかったけれど、さすがに他人の目があったのでそれは控え、代わりにジョージの丸い手をそっと握ってその手の甲をくすぐった。
「おやすみ」
「……うん、おやすみ」
 三軒隣に帰るだけの短い距離でも、ピーターは何度も振り返り、ジョージはそれをずっと玄関先に立って見送った。夜の闇のなかでも、家々から漏れる光がなくても、ピーターの目にはずっとジョージが輝いているように見えた。

 夢を見た。ピーターとジョージとは、船の縁に坐って笑い合っている。ジョージはいつかのような丈の短いベストを着ていて、九年生の今よりもずいぶん成長したように見える。
 そのうち彼は深刻そうな表情をして、君はすごいや、僕は全然だめだ、と言った。何がだよ、とピーターが問うと、テストの点数が最悪だった、と悄然とした様子で彼は答える。ピーターはその肩に手を置いて、軽く揉んでやった。
 今だけだよ、わかれば簡単さ。君はできるからそう言えるんだ。そんなことない、俺だって最初はわかんなかった。うそだ。うそじゃない。…………。
 なあ、ジョージ。そんなに難しく考えるなよ。世の中、勉強が全部じゃないだろ。だって、君は、君には――


 ◇


 秋休みにどこかに遊びに行かない? とジョージに提案されたのは秋の中休みの前の週だった。いいね、とピーターが答えると、彼はほっとしたように笑って、クリスマスの休みにはベルファストに帰省するんだ、と続ける。たっぷり年明けまで向こうで過ごすらしく、母親に会えるのは嬉しいけれど、君と離れているのが寂しい、と所在なげに呟く彼に、ピーターは思わず口許をゆるめてしまう。その丸い手を取って親指の付け根を優しく指先で押しながら、俺も寂しいけど、と彼はジョージに微笑みかけてやった。
「モバイルがあるから」
「……そうだね。様様だ」
 ジョージは感慨深げにそう言い、そっと覗き込むようにピーターの顔を見た。小首をかしげてみせると彼は、ううん、と何でもないように首を振る。ピーターには彼がどうしても何かを言いたげであるように見えてしまって、じっとその面を見つめた。
「……どこ行く?」
 彼はにっと笑ってそうピーターに尋ねる。拍子抜けしてしまって目を丸くしたピーターにジョージは、君のおすすめを教えてよ、と重ねた。
「おすすめ? うーん、どこだろうな……」
 困り果ててあちらこちらに視線をさまよわせるピーターを見るジョージの楽しげな瞳には、先ほどのような人を推し量る動機は見られない。ピーターはジョージが時折ああいう目つきをすることが気にかかっていたが、その理由を問うことはできずにいる。彼がいつかそれを受け渡してくれればいいのに、と思いはしても。
 ピーターは思いつく限り、ウェイマスやドーセットの観光名所を挙げた。それらのすべてにピーター自身が魅力を感じているわけではなかったが、ウェイマスに興味があって、ベルファストの慣れた生活や友人たちをさて置いてまでジョージがここへ来たのなら、その隅々を共に見て回りたいという思いがあった。ジョージの目から見るピーターの生まれ故郷のいちいちを言葉にしてもらえて、それを聞くことができたなら、きっとピーターには見慣れた街並みや風景が、まるで生まれ変わったように新鮮に感じられる気がする。
 うんうん、といちいち頷いてみせるジョージの様子を見ながら、ピーターには、彼を旅にいざなう己が愉快に思えてきた。
「そしたら、ノーズ・フォートに行って、グリーンヒル・ガーデンでのんびりして、ポートランドの灯台の下から海を眺めて、ビーチを歩いて……俺の家か、君の家に帰ろう」
 いたずらっぽく微笑むと、ジョージは破顔して、素敵だ、と明るい声で答えた。

 十日ある十月の秋休みの間じゅう、彼らが二人でいない日はなかった。ウェイマスの観光地に足を運び、繁華街に遊び、どちらかの自宅で勉強会を開き、それがミルズ邸であるときは翻訳家の手が空いていれば彼に学習の教えを請い、何度かは互いの家に泊まり、そしてときおり、キスをした。そうするたびピーターは、もっとジョージに触れたい、彼のもっと様々なところに触れたいと渇望するようになったし、ジョージの青い瞳にこもる熱で彼も同じ思いでいてくれているだろうことを察しはしたが、何せ彼はアーリーティーンだったし、ピーターには経験がなかった。ピーターがそれを“勉強”することはできても、ジョージと共に“実践”することはまだできない。彼のすべてに触れたいと思う気持ちは、彼を慈しみ思いやり、ピーターが持ち得るかぎりの倫理のなかで、傷つけず労わりたいと思う気持ちと等しかった。
 ピーターは、ジョージと共にいる夢を何度も見ていた。今の二人よりもやはり少し成長していて、そしていつも海の傍か、なぜか船の上にいた。初めのうちは彼との将来を望む己の願いが表れているのかと考えていたが、夢のなかのジョージはいつも何かしら――それは多くが学業や人間関係のこと――で悩んでいるふうで、ピーターはそれについて常に助言を与える立場であるようだったので、少しばかり事情は違うらしい。
 一番の違いは、夢のなかではピーターはジョージを、まるで“弟”のように思っていることだった。“他人”であるのに“家族”のようで、彼に対し、積極的に触れたいと考えたり、キスしたいと思ったりすることはない。懊悩する彼をしょうがない奴だと思いながらも頼られていることに満足し、表には出さないながらも彼が傍にやってくることを受け容れる。そんな斜に構えた振る舞い方が夢のなかでは当たり前だった。
 幾度か夢のことをジョージに言ってみようかとも考えたが、こんなことを伝えて何になるのだろうとも思う。だいいち、夢のなかの君はいつも悩んでいて、それで俺を頼ることに慣れているのだなんて、押しつけがましいことをどうして言えただろう。大体にして、今、己と彼とはそういう関係性にはないのだ。ピーターは彼のことを“弟”のようには思えない――

 そっと合わせていた唇を離すと、ジョージはその赤い唇を、やはり彼の赤い舌先でちらりと舐めた。ずん、と大きな音を立ててピーターの心臓は脈打つ。とろけた青い瞳はピーターを上目遣いに見、そうして彼は小さく微笑んだ。
 冬になり、一時的にではあるが離れ離れになる時が迫っている。ジョージは以前にも言っていたように父親の友人である翻訳家と共にベルファストに帰省するが、ミスター・ミルズは彼の仕事の関係もあってウェイマスのミルズ邸に残るらしい。それを聞いたピーターの父が、だったらクリスマス休暇中はうちで晩飯を食べるか? とミスター・ミルズに提案して、彼はというと諸手を挙げて泣きそうなほど喜んだので、子供たちは呆れて笑ってしまった。都会に出ているピーターの兄もこの時期はウェイマスに帰省してくるため、普段以上に賑やかなディナーになりそうだと思うと、その場にジョージがいないことはあまりにも惜しく、寂しく感じられる。
「……いつか俺もベルファストに行ってみたいな」
 ぽつり、言うはずのなかった言葉が口からまろび出て、ピーターは慌てて、いや、と取り繕うような声をあげた。しかしジョージが目を丸くし、じゃあ一緒に行く? などと軽くのたまうので困ってしまう。連れて行ってほしい気持ちと、心の準備がまだできないのが半々で、今じゃなくていい、と胡乱な返事しかできない。
「だって、家族団欒は邪魔できないよ。久しぶりにお母さんに会うんだろ」
「君が邪魔になるなんてあり得ないよ。それに、僕も君も何回お互いのディナーにお世話になってるのさ」
「それとこれとは話が別だ」
 冬になるまでの短い間に、約束通りピーターはミルズ邸のボードゲームのメンバーに仲間入りしたし、ジョージがドーソン邸に、ピーターがミルズ邸に世話になったことなどは両手では数えきれない。三軒隣の近所に住んでいても互いの部屋に寝泊まりする夜はまるで旅行の夜のように楽しかったし、休みの日には寝汚く午前いっぱいをベッドの上で二人してごろごろして過ごしたこともある。
 学校でも街中でも、ピーターとジョージが共にいるところを学友たちに訝られることはもうなくなっていた。ピーターは友人たちにジョージのことを紹介したし、ジョージは彼らと打ち解けた。人見知りで引っ込み思案なのは初めばかりで、少し会話をすればジョージは誰とでも仲良くなれるのだとピーターはこのとき気づいた。ピーターと喧嘩したら言えよ、俺が味方してやるから、などと言っていたマットの隣で、ジョイスが楽しそうに笑っている。

 ジョージと翻訳家がベルファストに帰省する前日の夜は、ドーソン邸でミルズ家の三人を招いたディナータイムが開かれた。この日のためにと翻訳家は手作りのベジタブルロールをドーソン家の人々に振る舞い、ピーターはもはや彼に対してその料理が素晴らしいという気持ちを隠すことはないし、翻訳家もまた彼の様子に満足しているようだった。
 酒が入ると普段以上に陽気になるミスター・ミルズは、物腰やわらかで酔っ払いを辛抱強く介抱してくれるピーターの両親相手に喋り倒し、翻訳家と二人の子供たちはいささかうんざりしながらリビングからキッチンへと場所を移し、ダイニングテーブルを囲みながら会話を楽しんだ。ピーターが彼らの故郷についていくつか質問をし、それに対しジョージや翻訳家が答えるささやかなやり取りが繰り返される。そのうち、僕トイレ、と言ってジョージがキッチンから出て行き、その場にはピーターと翻訳家の二人が残された。
 彼は伏し目がちに手に持っていたグラスのワインを一口飲むと、ふと小さく嘆息した。その様子を横目で見ながらピーターもまたサイダーを口にする。第一印象があれだけ悲惨だったにも関わらず、今このときのピーターは彼に対しての悪感情をすっかり全身から取り払ってしまっていた。少しの会話と食事を共にする時間でもわかる、確かに彼はジョージの言う通り、“いい人”であり“優しい人”であった。その眼差しの思慮深さや、ジョージに対する振る舞いの端々から感じられるいたわりや思いやり、ミスター・ミルズと会話するときのユーモアや知性が、彼の性質の善良さを引き立てる。
 一度、彼が翻訳したフランス語の小説を読ませてもらったことがある。最終試験の科目でフランス語も選択しているとはいえ、原文ではピーターにはまだわからない単語も多く、その物語は彼の翻訳からでしか読み取ることができなかったが、穏やかで知的な文章が内容を真摯に表現しているように感じられて、感嘆したものだった。
「君は……」
「え?」
 低い声がピーターに呼びかけ、彼は思考に耽っていた頭を上げた。薄い青の瞳がそっと窺うように己を見ていて、ピーターはそれを、ジョージもときどきする視線だ、とふと思う。
「何ですか?」
「いや、ずっとこっちに?」
「ん? ああ、そうですよ。僕はここの生まれです。あなたはベルファストがご出身?」
「ああ、そうだよ」
「ずいぶん遠くまで来ましたよね。慣れないことも多いんじゃないですか」
 ぎこちない会話だな、と内心苦笑しながらピーターが言うと、彼は小さく微笑んで、平気だよ、と口にした。
「君たちがいるから」
「よかった。お役に立てたなら」
「そうだ。ジョージが君といろいろなところに行きたがっていたよ。ウェイマスだけじゃなくて、サマセットや、ソールズベリのほうとか……もし君さえよければ俺が車を出すよ。君たちの試験が終わったら……」
 ぱちりとピーターは瞬く。ありがとうございます、と返すと彼は嬉しそうに笑い、またワインを一口飲んだ。他方、ピーターは彼の視界の外で片眉を上げる。――それって俺たちのデートは保護者同伴ってこと? 二人の関係を明らかにしているわけではないから友人同士としてなら仕方ないのかもしれないけど、と彼は少しげんなりする。
 もやもやとした気持ちを胸に抱えながらサイダーをぐいと飲んだピーターに、翻訳家がまた話題を振った。
「もう船には……乗っていないのか?」
「っ、え? 船?」
 思いがけないフレーズに咳き込みそうになって、ピーターは数拍置いて彼を見る。翻訳家は目を丸くし、それからさっと片手で口許を隠した。
「いや、なんでも」
「ウェイマスの人間がみんな船に乗るわけじゃないですよ。僕の兄なんか船酔いもひどいですし」
 笑って答えると、彼はほっとしたように目許を緩ませて、そうか、とだけ言う。しかし、ピーターの内心には拭いきれない違和感が残った。
 ――“船”は、ピーターにとって大した意味を持たない。海辺の町の埠頭の傍に生まれ育ち、確かに身近にはあったが、故郷を代表する風景の一つであるだけで、ピーター自身とはほとんどなんの関わりもなかったものだ――これまでは。
 何度も繰り返し見る、成長したピーターとジョージの夢の物語の舞台はいつも同じ船だ。こじんまりとした木造で、昔ながらの舵が船尾にあり、長く伸びた帆柱が空を背景に静かに風を受けて軋む。ウェイマスの船着き場のどこかを探せば当たり前にありそうな何の変哲もない白い船体が、まるで故郷であるかのような安心感を伴って、二人を乗せて波に揺れている。
 だからピーターは、翻訳家が何の脈絡もなく“船”と言ったことに疑念を抱いた。ピーターの知るかぎりドーソン家とミルズ家の関わりのなかで、船など一度として話題の中心になったことはなかったのだから。それはピーターのなかから去っていった悪感情をいたずらに呼び起こすものでは決してなかったが、しかし元来率直なピーターの本質がこの疑念に決着をつけることを望んでいる。
「あの――」
 口を開いたとき、リビングルームからジョージの明るい声がキッチンまで響いてきた。もう、父さん、うるさい!
 はっとなった二人がキッチンから顔を覗かせると、ピーターの父の肩に寄りかかっているミスター・ミルズの腕を引いたジョージが、困ったように彼らを見た。
「おじさん、もうそろそろおいとましよう。父さんべろんべろんだ」
「あ、ああ……本当だな。すまない、ドーソンさん」
「いや、構わないよ」
「え? もう帰るの?」
 ピーターが声を上げるとジョージはそちらに視線を向け、うん、と青い瞳を細める。ピーターはひどく残念に思った。二人きりで話す時間がまるでなかったし、明日からジョージは遠くへ行ってしまう。
 翻訳家の肩にミスター・ミルズを預けたジョージは小走りでピーターのもとへ来る。そうして、自身のパンツのポケットを二度叩いた。
「ときどきテキスト送ってもいい?」
「あ、当たり前だろ! それに俺は……」
 ぼそりとピーターが、毎日電話するつもりだったよ、と返すと、ジョージは途端に頬を赤らめて口許をもごもごさせる。そうして、小さく頷いた。
「うん、電話しよう……。あ、そうだ、ベルファストの写真も送るよ」
「え? 本当に?」
「うん。あんまりいろんなとこには行けないかもしんないけど……」
「いいよ、それでも。あ、君の写真でもいいんだよ?」
「えー? やだよ!」
 本音を紛らわせておどけて言うと、本気に取らなかったジョージは朗らかに笑った。ピーターは嬉しさと寂しさとが綯い交ぜになった笑みを面に浮かべ、それからジョージの向こうにいる大人たちを見た。彼らは子供たちの会話が終わるのを待っていたようで、ジョージは慌てて酔いつぶれた父親の隣で翻訳家と共に彼を支えようとしているピーターの父の下へ向かう。
「ああ、ジョージ、私がやるから」
「僕がやるから大丈夫! ごめんなさいドーソンさん、酔っ払いの相手任せちゃって」
「いいさ。明日の夕飯からは出す酒の量も減らすしな」
「あはは! よろしくお願いします」
 そうして三人はドーソン邸の玄関前で三軒隣の隣人たちを振り返り、別れの挨拶を述べた。ピーターはその間ずっとジョージを見ていたが、彼が目を合わせてきて、じゃあまた来年ねピーター、とずいぶん優しい声で言うのに、うん、と頷くしかできなかった。
 ミルズ家の人々がドーソン邸を辞去したあと、ピーターが名残惜しくその行方を見ていると、不意に後背から猫なで声に名を呼ばれる。振り返ると母がにまにまと笑みを浮かべながらこちらを見ていた。
「ジョージが帰っちゃってしばらく寂しいね」
「……うん、そうだね」
「んふふー」
 母は妙な笑い方をしながら軽やかにリビングに戻っていく。父がそれを横から小さな声で咎めるのを聞きながら、ピーターはぐっと眉間にしわを寄せた。


 ◇


『僕の母さん』
『ベルファストの街』
『ボタニックガーデン』
『僕のおじいちゃん』
『僕のおばあちゃん』
『雪が積もったよ!』
『おじさんと作ったスノーマン』
『スノーマン倒れちゃった…』

 ピーターは、ジョージから送られてくるたくさんのテキストや写真を見るたびに己の口許がゆるんでしまうのを抑えられない。行ったことのない街で、彼の半径一ヤードで起きる出来事がこんなにも楽しくておかしいなんて、とピーターは思う。離れていることは寂しいが、こんなつながり方も悪くないと思える。
 セルフィーが苦手なジョージ自身の写真は、彼のモバイルを借りた翻訳家の手によってたびたび送られてくる。そしてそのつどジョージもなぜか彼の写真を撮ってピーターに送りつけてくるものだから、ピーターのモバイルの写真アプリにはジョージと翻訳家の写真が交互にたまっていった。別にあの人の写真は要らないんだけどな、と思いながらも、ジョージが向けるカメラに映る翻訳家の表情がどうにも味わい深くて消せずにいる。細められた思慮深い薄い青の瞳は、わかりやすく充足感を表しているようにピーターには見え、彼のことがうらやましくなってしまった。――早くジョージが帰ってくればいいのに、と何度思ったか知れない。
 “ピーター”の写真が送られてきたことは一度もない。ピーターはそのことに安堵する一方で、なぜだろうと疑問にも思った。きっとジョージはベルファストに戻ったら、向こうでずいぶん仲が良かったはずの“彼”と再会するのだろうと考えて、ほんの少し陰鬱な気持ちになっていたから。日々に彼と交わされる電話やテキスト、送られてくる写真からは“ピーター”の気配を感じることは一切できず、数人の友人たちの写真が届いたこともあるが、名前はそれぞれ、ショーン、エマ、ロビー、ホリー、アントニアだった。
 ――君のピーターはどんな子?
 軽い気持ちで尋ねることができればいいのに、ピーターにはそれが難しい。何せ、己の中で身勝手に嫉妬が膨らんでしまった。ジョージの口から語られる“ピーター”像がどのようなものであれ、それが輝いているであろうことはあの明るい呼び声からも間違いのないことで、ピーターはその瞬間を想像するだけでも腹の底から冷気が喉までこみ上げてきて、耐え難い気持ちになってしまう。比べられる他者がいることはこんなにも恐ろしいことだったのだと、兄が都会に出て以来久しぶりに思い出したピーターは、今ならあのとき自分にいらいらした態度を取ったマットの気持ちもわかるな、と考えた。そうして、休暇で実家に戻ってきている兄に対して幼いころに抱いていたほうの嫉妬はすでに自身のなかからは消えてしまっていることにも気づく。少しは成長したということだろうか。それとも距離が開いたことで、物理的に考える時間が少なくなった結果だろうか。いずれにしても、“ピーター”に抱く嫉妬がピーターのなかから消えてしまうには、しばらく時を待たなければならないらしかった。

「おい、ピーター坊や。食事中にモバイルをいじるなよ」
 兄に指摘され、慌ててピーターはモバイルをポケットにしまう。父は呆れたように、もっと言ってやってくれ、と兄をけしかけ、母はというと相変わらずにこにこ――ともすればにやにやとも見えたが――としているばかりである。調子に乗った兄はなおも重ねて、時差なんかないんだから向こうも今はディナータイムだよ、などと囃した。連日ドーソン家の夕食の世話になっているミスター・ミルズからもたらされる様々な情報のために、ピーターの兄はすっかり彼自身は会ったこともないジョージの年上の友人を気取っている。
「早く明日になるといいな」
 ミスター・ミルズは爽やかに笑って事もなげに言う。ピーターは彼の手前、胡乱に頷くばかりだ。ジョージと翻訳家は明日、一月四日にベルファストからウェイマスに帰ってくる。待ち焦がれ、楽しみで仕方のないことは事実だが、それはあくまで近所に住む友人に久しぶりに会う喜びのためで――などと、己を繕ってみても詮方ない。本当は、すぐにも彼のことを抱きしめたくているのだから。
 食事を終え、バスルームから上がり、夜の挨拶もそこそこにピーターは足早に自室にこもった。早く世界を明日にしたくてベッドに転がり、モバイルのメッセンジャーアプリを立ち上げる。電話してもいい? と送ろうとして、でもきっと明日も早いだろうからやめたほうがいいかな、と思い直す。そうして指先を上げ下げしているうちに、ジョージのほうからテキストが入った。
『電話してもいい?』
 もちろん、とすぐに送って、早すぎたかな、と気恥ずかしくなっている間にも、彼からコールが入る。ピーターは慌てて電話に出た。
『ピーター、こんばんは』
 耳をくすぐるジョージのやわらかい声。ピーターは、こんばんは、と返事をして自身の胸に手を当て、一つ深呼吸した。昨日ぶりなのに、もうこんなにも嬉しい。
『そっちって今どのくらい寒い? どんな服着てったらいいかな』
「うーん、肌寒いくらいだけど……そっちほどじゃないよ。厚手のコートくらいでいいんじゃないかなあ」
『そっか。ありがとう』
 発展のない天気の話から、とりとめのない互いの話へ移る。ジョージが持ってきた一番の話題は、春休みの時期に彼の母親がウェイマスのミルズ邸を訪れるということだった。
『ピーターに会いたいって! 写真見せたら素敵な子だねって言ってたよ』
「あ、ありがとう……」
 そんなことを無邪気に言われて、ピーターは急に腹の底が緊張で締めつけられる感覚を覚えた。写真でしか見たことのないジョージの母親。懐の深さが画面越しにも伝わってくるような、ジョージによく似た大らかな笑み。
「お、俺も早く会ってみたいな」
『うん。ふふふ、楽しみだ』
 モバイルの向こうのジョージの吐息がピーターの耳に触れ、空気を揺らす。ピーターはうっすらと口の端を上げながら、俺も、とささやくように言った。
「ジョージ、明日は早いんじゃないの?」
『あ、そうだった。じゃあ……もう今日はおやすみだね』
「……明日には会えるんだから」
『……うん。そうだね』
 ジョージはそうして、また明日ね、と言う。ピーターも同じように、また明日、と返事をして、名残惜しく通話を切った。
 そのまましばらくぼんやりとしていたピーターは、やがて写真アプリを起動し、幾度か画面をフリックしてジョージが映る写真を表示させた。
 声だけじゃ足りないんだ――その姿かたちと、重みのある、肉の詰まった体を抱きしめて、そのふわふわの髪を撫ぜて、頬に触れたい。ピーターは空いている方の手をスウェットのパンツに差し入れ、アンダーウェアのなかにいる己のものに指を絡める。モバイルの画面のなかで笑っているジョージと目が合って、ピーターははあ、と息を吐いた。
「…………っ」
 何度も触れた唇の感触を思い出して、己の下唇を舐める。彼のやわらかく肉厚なそれに擬態できないできそこないの舌先で中途半端に気持ちを高ぶらせ、枕に顔半分を押しつけて、ピーターはいよいよモバイルを放り出した。
「ジョージ、ジョージ……ジョージっ……」
 ピーターは、己の体に手を這わせるジョージの丸く拙い指先を妄想する。おぼつかなくピーターの肩甲骨にその両手を添わせ、ジョージは体全体でピーターに抱きついてくる。ピーターはまず彼の腰に手を置き、それからすべらかな輪郭に沿ってその太ももをなぞり、そっと臀部を掴み上げるのだ――汗がにじんで吸いつく肌、胸許に唇を寄せればきっと彼はくすぐったそうに身を捩るのだろう。その悩ましげな表情と切なくひそめられた眉、色づく頬と丸い鼻、熱い吐息をもらす真っ赤な唇。ピーターは彼の体を持ち上げて、濡れてどろりとした未知の場所へ己の尖端を触れさせ――
「んうっ……」
 高まって吐き出されたそれを両手で受け、ピーターは長く息を吐く。サイドテーブルに放り投げられていたハンドワイプで後始末をし、むくりとベッドから起き上がった彼は、つきっぱなしだったモバイルの画面で笑っているジョージに目を落として、ああ、と嘆息した。
 ――俺はなんて身勝手なんだろう。

 ピーター、名前を呼ばれて振り返ると、ジョージがいかにも不機嫌そうな表情で、唇をつんととがらせて桟橋に立っている。どうしたんだよ、と尋ねると彼はいっそう口をへの字に曲げて、ずかずかと船に乗り込んでくるとまっすぐ階下に降りていき、今日ここに泊まらせて、と拗ねた声で言った。それだけでピーターは、父親に怒られたんだな、と察して彼を追う。船室を覗き込むと、彼は備えつけられているベッドの上で膝を抱えていた。
 ひょいとピーターがその隣に腰を下ろすと、ほうっといて、と彼はぶすくれた表情で言う。ピーターは返した。それは無理だよ、これはうちの船だもの。
 そうして肩に腕を回してそっとさすってやると、ジョージはまるでいざなわれるようにピーターの肩口に額を寄せる。ピーターの手は懸命に彼をなだめすかしてやった。
 君になりたかった、ジョージはぽつりとそう言った。ピーターはほんの少しだけ返答に困ったが、すぐに本音で彼に向き合おう、と決める。
 俺でいるのも大変だよ、そう言うと、ジョージは彼の青い瞳に不思議そうな色を宿してピーターを見上げてきた。
 本当に? 心底信じられないというような声音。ピーターは、うん、と頷く。
 だって、兄さんがいるもの。
 ジョージはしばらく黙ったあと、膝を抱えていた腕をピーターの胴に回して、ゆっくりとその背を撫ぜた。
 君のお兄さんのこと、知ってるし、すごい人だと思うけど、君は君じゃないか。
 そうだね、そうやって言えたら、どんなに楽だろう……
 彼はしばらくピーターを抱きしめていたが、やがて小さな声で、ごめんね、と言った。何が? と問い返したピーターに、彼はくしゃりと鼻先にしわを寄せて笑ってみせる。
 僕は君の友達だからね。
 それはずいぶんと優しい声で、確信をもって発せられた。ピーターは、彼を慰めに来たはずの自分が、知らぬ間に彼に慰められていることに気づく。そうしてジョージもまた、何やってるんだろ僕、と頭を掻いて、居住まいを正した。
 今日は帰る、でもいつかこの船に泊まってみたいな、今度はちゃんと遊びでさ。
 すっかり楽しそうにそう言う彼に、ピーターもまた笑みを返した。
 すごく楽しそうだ。でしょ? じゃあ、いつかね。うん、いつか。

 一月四日の朝。まだ夜も明けきらぬ時間帯にゆっくりと目を覚ましたピーターは、今しがた見た夢のことで静かに涙を流している自分に気がつく。
 空想のなかの物語なのに、その“いつか”は永遠に来なかったのだ、と体は知っているかのようだった。

 午後、ウェイマス駅のプラットホームでピーターは、電車が到着するたびに見知った顔が降りてくるのを今か今かと待っている。何度かジョージから現在地のテキストが送られていたにもかかわらず、予定よりもだいぶ早めに家を出てきてしまい、冬の寒気で頬はすでに冷え切っていた。
 吐かれる白い息が空気に溶けるのをじっと見上げる。今にも雪が降り出しそうな曇天が頭上に拡がっていて、ピーターはぐっと眉を寄せる。
 やがて、また一本の電車がホームに滑り込んでくる。モバイルの時計を見ると、ジョージと翻訳家が乗っているであろう電車はこれらしく、ピーターは坐っていたベンチから立ち上がって二人を待った。ぽつりぽつりと乗客が降りてきてはピーターの脇を通り過ぎて改札へ向かう。ピーターはじっと電車の降り口を睨んだ。
「あ」
 そのうち、人波のなかに待ち望んでいた顔を見つけ、ピーターの表情は明るくなる。他方、ジョージもまたピーターの姿を見つけあっと驚いた表情になり、彼は隣を歩く翻訳家の腕をぱたぱたと叩くと自分だけ先に駆け出した。
「ピーター! 久しぶり!」
「ジョージ、うん、久しぶり」
 ぴょんと飛ぶようにピーターの眼前まできたジョージは、すぐに彼の頬が冷気で真っ赤になっているのに気づき、そっと手ぶくろをつけた両手を伸ばした。
「寒いでしょ、早く帰ろ」
「うん、そうだね」
 添えられたジョージの手に上から自身のそれを重ね、すり寄るように頬を寄せると、ジョージは照れくさそうに口許をもごもご動かす。そっと合わせられた互いの双眸は青く幸福な熱を帯び、ピーターはジョージもまた己と同じ気持ちで、一週間と少し離れていた時間を切なく過ごしたのだとわかった。
「……早く帰ったほうがいいんじゃないか?」
 気遣うような控えめな声が、ぼんやりと見つめ合う二人の間に割って入る。翻訳家が複雑そうな表情をして、周囲の喧騒からずいぶんと浮く彼らを見ていた。

 ピーターの兄の喜びようといったらなかった。彼は弟が自宅に連れてきた年下の友人を見るなり両手を大きく広げ、君がジョージかあ、と高らかにのたまって、自身よりひと回りもふた回りも小柄な少年を強くハグした。ぐえ、と体のどこから出たのかわからない悲鳴をあげてジョージは彼に抱きつぶされ、ピーターが必死で兄の腕を解いてその身柄を保護するまで呼吸もままならなかった。
「よーし、じゃあ、俺の部屋に行こうか、ジョージ! 俺も明日帰るからさ、君と話がしたいんだよ」
 そうしてぐいぐいとジョージの腕を引いて階段を上っていく兄をピーターは慌てて追う。傍若無人な兄の前に特別の相手を連れて来てしまった恥ずかしさもあって、彼の語調は一段と強まった。
「ちょっと、兄さん、やめてよ! ジョージは長旅で疲れてるんだから」
「じゃあベッドでだらだらしながらでいーだろ? な? ジョージ」
「えっ、えっと、うん、僕は、大丈夫」
「ジョージに訊くのは卑怯だ! 断れないのわかるだろ!」
 兄の自室に入り、ぐいと腕を引かれて並んでベッドに腰を下ろす彼らの前に仁王立ちになり、ピーターは不機嫌を隠しもしないで兄を睨む。兄は弟のきつい視線も意に介さず、ジョージの反対隣を指で示した。
「坊やもそっちに坐りなよ」
「その言い方はやめてって」
「ディナータイムにモバイルいじってるピーターちゃん。君からのテキストを四六時中待ってるんだ、こいつは」
 兄に告げ口され顔を真っ赤にしたピーターを、驚いたようにジョージは見上げる。
「ピーターも?」
 その言い方が引っかかって片眉を上げると、ピーターが何か尋ね返す前にジョージは自分から、僕もなんだ、と頬を染めた。
「おばあちゃんに、そのなかにおいしいごはんでもあるの? なんて厭味言われちゃったよ」
「はは……」
 ――おんなじだった。ピーターは怒らせていた肩をすとんと下ろし、ジョージの傍に腰を下ろす。ふううん、といかにも面白がっている兄の声が聞こえてきたが、そちらを見る気にもなれずピーターは両手で顔を隠して俯いてしまった。
「さあ、聞かせてくれジョージ。君らはいつから?」
「えっと、何がですか?」
「お付き合いだよ!」
「お、おつきあい」
 ジョージはどもり、うろたえて、隣で消沈しているピーターを見た。
「お、教えてもよかったの?」
「違う、勝手に察したんだ。多分、みんな……」
 母のにやけた顔や、父の呆れたような表情、ミスター・ミルズはとぼけていてよくわからないが、おそらくその友人はすでに気づいているだろう。でなければ、頼んでもいないジョージの写真を毎日のように、わざわざ甲斐甲斐しく送ってくるはずがない。ちらりと横目でジョージを見ると彼は真っ赤になっていたが、おそらく自分もそんなようなのだろう、とピーターは自身の顔に集まる熱で悟った。
「そ、そっか……」
「恥ずかしがっちゃって、かわいいな〜」
 横から勢いよく抱きついてきたピーターの兄にジョージはまたしても悲鳴をあげる。兄さん、と鋭く声をあげてピーターはジョージに巻きつく彼の手を振り払う。ニヤニヤとおかしそうに笑む兄の顔つきは、幼いころからピーターをからかうときの表情と少しも変わりはない。
「で? いつからなの」
 パシンと手を合わせた兄にピーターは、九月の終わり、とそっぽを向いてつっけんどんに言う。
「ほーん。ね、ジョージ。君に質問していいかい?」
「僕にわかることなら」
「君にしかわからないことだよ。うちのピーターのどんなところが好きになったの?」
 ピーターはぱっと顔を上げ、ジョージと兄とを見た。ジョージはびっくりしたふうで、えっと、とおどおどしている。兄はそんな彼ににじりより、そっとその肩に手を回した。
「ピーターに聞かれたくないだろ、内緒で教えて」
 ん、と耳許を寄せてくる彼に、ジョージは恐る恐る口を寄せ、そっと丸い手で覆った。
「優しくて……面倒見が良くて、話すことが面白くて、笑顔が素敵で、はきはき喋って、背筋を伸ばしてすたすた歩くところ」
 聞こえた。そう言うべきか言わないべきか迷って、結局ピーターは口を噤むことにする。へー! と甲高い声で兄はさも驚いたふうに体をのけぞらせてみせ、しかし再びその耳許に口を近づけたジョージに、ん? と身を寄せる。
「でも、ときどき、そうじゃなくなるんだ。そういうところ」
「…………ふうううん、そお!」
 兄はすっかり楽しそうな表情でピーターを見ている。全部聞こえていたピーターはぐっと奥歯を噛みしめて彼を睨みつけた。ジョージはちらりとピーターを見、それから口の端を小さく上げる。
「そっかそっかあ。なんかいいなあ」
 抱き寄せたジョージの小さな肩をぐらんぐらん揺らしながら、兄は機嫌よく歌うように、うらやましいなあ、などと言ってみせる。
「ジョージ、ピーターのこと、よろしくね」
「あ、えっと、僕のほうこそ」
「よし、じゃあ、君たちもういいよ。あ、アドレスは教えて」
 同じアプリ使ってるだろ? とモバイルを取り出しジョージにも促す兄をピーターは咎めたが、ジョージは素直に彼にアドレスを渡してしまう。サンクス、と軽やかに言う兄に、ピーターは厭な予感しかしなかった。
 そうして兄の思うがままピーターの自室に帰されてしまった二人は、互いをちらちらと気にして目線を送る。そのうちピーターは、客人の背中をそっと押してベッドに坐らせた。
「…………」
 同じように隣に腰を下ろしたピーターは右手でジョージの左手をそっと取り、その手の甲を親指でくすぐるように撫ぜる。ジョージは、ふふ、と小さく笑って、彼もまた右手でピーターの左手を取る。
「ピーターだ」
「…………うん」
 そうして互いの手をすみずみまでいじりながら、ピーターはほっと息を吐いた。
「……ハグしてもいい?」
「……うん!」
 ピーターが尋ねると、頷いたジョージのほうから彼の胸に飛び込んできて、驚いたピーターは勢いに押されてベッドに仰向けに倒れ込んでしまう。ジョージの重みが体全体で感じられて、ピーターは彼の背中に手を回しながら、ああ、と内心で嘆息した。
 右肩に乗っているジョージのブルネットが視界の隅でふわりと揺れる。ピーターの背中とベッドマットに挟まれた彼の両手がもぞもぞ動いて、どうやら居心地のいい場所に収まったようで、それからぴたりと止まった。
「キスじゃないなって思ってたんだ」
 ささやくようにジョージは言った。ピーターはそっと癖っ毛に手を差し入れ、指でくすぐりながら髪を撫ぜてやる。ふふ、とくすぐったそうな吐息を鼻からもらし、ジョージは自らピーターの手に頭をすりつけるように動いた。
「俺も……」
 ピーターが言うとジョージはひょいと上半身を起こし、にっこりと嬉しそうに目を細めた。
「おんなじだ」
 うっとりと発せられたその甘い声に、ピーターも自然と口許を笑ませて、こくんと頷く。
 再び重なり合った二人はそれから、ジョージのモバイルに夕飯を告げるミスター・ミルズからのテキストが入るまで、黙ったままずっとそうしていた。


 ◇


 春休み、ピーターと学友たちはビーチに集まってバーベキューパーティーを開いた。試験が始まる前の最後のひと騒ぎと彼らは大いに盛り上がり、各々が持ち寄った手作りの料理も振る舞われた。ピーターのもとにはなぜかクレアが作ったナッツが大量に入ったブラウニーの一切れが渡され、不満を垂れると、将来は栄養士になるのだと言う彼女からつらつらとナッツの健康効果を並べ立てられ辟易するはめになってしまって釈然としない。だからどうしたんだよ、と口にはできずに、結局ピーターは本来のブラウニーが立てるものでない音を立ててケーキを咀嚼した。
「なんでジョージ連れて来ないの?」
「君たちがそうやっておもちゃにしようとするからだろ」
 からかうような問いにピーターが澄まして答えると、そんなつもりないよ、と学友たちは朗らかに笑う。うん、と頷くピーターもそれが真実であることをわかっているし、彼彼女らがちゃんとジョージと親しく接してくれていることも知っているが、今回はジョージのほうから遠慮の申し出があったのだった。そう伝えると彼らは心底残念がる。
「なんでまた。いいのに、いちゃいちゃしてくれても」
「いちゃいちゃはしないけどさ……。彼にも勉強があるし。それに今、ジョージのお母さんがベルファストからこっちに来てるんだ。せっかくだから家でのんびりしてるってさ」
 ふうん、と相槌を打ったアーロンが、じゃあこのあとそっちに行くんだ? と首をかしげる。しばらく黙ったあとに小さく頷いたピーターの肩を彼はぐいと抱いて、
「めいっぱい良い顔しないとなあ」
とにやりと笑った。ピーターもまた口の端を上げて首肯する。

 本当は、ジョージの母親、ミズ・ミルズがウェイマスに到着した一昨日のうちに彼女への挨拶は済ませていたし、その日のディナーもドーソン家とミルズ家で共にした。ミルズ邸でのディナータイムでは翻訳家が料理を手掛け、ミズ・ミルズは彼に、君の料理は久しぶりに食べるとすごく美味しい、などと褒め言葉なのか判然としないことを繰り返しのたまいながらポトフを何度もおかわりし、翻訳家は慣れたもので、はいはいどうも、とそれに適当に返事をしていた。
 彼女はミスター・ミルズと同じようによく笑い、快活で、ジェスチャーが大きな人だった。ドラマとフットボールの話題が好きで、ピーターの母親と二人して何代目のドクター・フーが好きかで盛り上がるころには、さほど詳しくない子供たちは早々にジョージの自室へと退散してしまっていた。
 階下の喧騒が僅かに遠い室内でジョージは恥ずかしそうに、うるさくてごめん、とぽつりと謝る。なんで謝るのさ、とピーターは彼の肩を抱いてなだめすかした。
「でも確かに、君のお父さんもお母さんも、明るくて元気な人たちだね。意外だったな。今はそうでもないけど、最初のころ君はちょっと大人しかったから」
 そう言うとジョージは唇をきゅっと結んで、それから、そうだね、と返した。
 ふとそこでピーターは、彼の周囲にいるもう一人の大人を思い出した。彼こそ物静かで、ジョージの両親に比べたら口数の多いたちではない。そうした温度差のある性質の人たちに囲まれ、育まれたことが、ジョージをこんなふうに形作ったのだろうか――ときに明るく笑い、ときにはかなげで、こんなに魅力的で、いつまでもピーターの心を捉えて離さないような。
「でもピーターも、お父さんがあんなに落ち着いた人なのに、最初のころはすごく……強引だったよ! 優しかったし、嬉しかったけど……意外だって言うなら君もそうだ」
「それは……き、君だからだよ!」
 思わぬ反論をされて咄嗟にした返事に、ジョージはぱちりと瞬いてみせる。
「それに、兄さんを見たろ。母さんだって君の前じゃ猫かぶってるけど、本当はおしゃべりが大好きなんだよ。君のご両親とすごく気が合うと思う」
「な、何それ」
 まくし立てたピーターに訝るような表情を浮かべたジョージは、変なの、と言って彼のベッドにすとんと腰を下ろした。ピーターもその後を追い彼の隣に乗り上げると、ぐいと体を寄せる。
「君といると変になっちゃうんだよ」
 ジョージは間近にいるピーターに緊張したようにうろうろと視線をさまよわせ、それから一つ首肯した。
「…………僕も」
 頬を赤らめるジョージに、うん、とピーターは頷いて、唇を寄せる仕草をする。前にもそう言ってたね、ピーターは心のなかでジョージにそう言葉をかけた。彼はそうっと瞼を伏せて、小さく唇を開けてみせる。いざなわれるままに口づけて、ついばみ、舌でくすぐると、ふ、と甘やかな息がもれて、二人は口づけながら笑い合った。

「……明日、ベルファストに行くんだ」
「え?」
 ピーターが言うのに、周囲の学友たちは一様に驚く。ダニエルが、それってジョージの前の家? と訊いてくるのに、ピーターは頷いた。
「ジョージと?」
「うん。ジョージのお母さんが帰るのについて行って、それで帰りはジョージと二人」
「明日行って、いつ帰ってくんの」
「しあさって」
「へえー……、……ベルファストってこっから何時間?」
 ひょいとピーターを解放して首をかしげるアーロンに、彼はこの数日、己が繰り返し頭のなかで反芻していたことを伝える。
「サウサンプトンまで電車で一時間半と、そっから飛行機で一時間半」
「三時間? 意外と近いんだね」
 ジョイスが言うのに頷いたピーターは、クレアから手持ちの皿に乗せられた二切れめのブラウニーを口に入れる。お土産よろしく、と学友たちが口々に言うのを聞き流していると、マットがそっと寄り添ってきて、首をかしげているうちになぜかハグされてしまった。何、と身を捩ると彼は感慨深げにため息をついて、すっかり君はそんな感じなんだね、と呟いた。いつか交わした会話を思い出してピーターが頷くと、マットはそれにも驚いたようにまじまじと顔を覗いてくる。
「……クレージー・イン・ラブってやつ?」
「ピーター、ビヨンセかあ」
 途端に起こった笑い声に自身も混ざりながら、ピーターは今しがたマットから言われたことを考えた。――すっかり俺はこんな感じだ。“クール”で“完璧”な、いつか誰かが言った“ピーター・ドーソンらしい”人間なんかどこにもいない。それでもピーターはそんな自分自身に満足しているし、そうした姿でジョージの隣にいる自分のことが好きだった。ジョージがピーターの傍にいて、ピーターのことを好きでいてくれるからだ。彼から向けられる視線や伝わってくる感情がピーターを誇らしい気持ちにさせる。そしてジョージにも、ピーターの傍にいることで自信を感じてほしい。少しずつ、そうなってきてはいる気がするけれど。

 ――春のベルファストは肌寒く、曇りの日が多くときおり雨が降って、ピーターが初めてかの地に足を踏み入れたときもそうだった。それでもピーターの目には見も知らぬ街は曇天にうっすらと射す光のために輝いて見えたし、ジョージが隣にいればいっそうそうなった。ジョージは彼の生まれ故郷をピーターに得意げに案内してくれ、そして、時間があまりないためにちゃんとした観光地に連れていくことができないことを申し訳なく謝った。ピーターは当然のように首を振る。むしろ彼が見たかったのは、ミルズ家の人々が以前住んでいた家や、その程近くにあるミズ・ミルズが現在暮らしている彼女の実家、その周辺、半径一ヤードの景色だった。ジョージが幼いころ、そしてウェイマスに来るまでの年月を過ごした街。あの家の人が飼っていた犬と仲が良かったんだ、あすこがエマの家で、あすこがロビーの家だよ、あすこのパン屋さんのソーダブレッドがおすすめで、あの公園で昔遊んでたとき、転んで頭を打って大泣きしたんだ――閑静な住宅街を所狭しと駆け回る子供たちのなかに、幼いジョージの姿をピーターは見る。
「……ねえ、“ピーター”の家はどこ?」
「え?」
 勇気を出してようやくその問いを口にできた彼に、ジョージはぽかんととぼけた表情をしたあと、あ、とうろたえ、それから小さく俯いた。
「……“ピーター”の家は、ここにはないよ」
「え? そうなの?」
「うん……」
 そうしてジョージはそっとピーターの顔を窺うような目つきになる。
「もしかして、彼も引っ越しちゃったの?」
「う、うん、そんなとこ……かな」
 歯切れの悪い言い方に、これ以上訊かないほうがいいのかな、と考え、ピーターは礼を言って少し黙る。“そんなとこ”とはどんなところなのだろう。ピーター自身は察しのいいほうであるし、疑問を疑問のままにしておくのが好きではなかったから、本当は“ピーター”についてもう少し情報を得たかったのだけれど、きっとそれをするとジョージは厭がるだろうとも同時に思って、ピーターは自身の気質よりもジョージの“隠し事”を優先した。ピーターに明け渡さない理由は気になったし、寂しくも思うが、ジョージに言えないこと――それは例えば彼が見ている夢のことや、彼がジョージとしたいと思っているいくつかのこと――があるのはピーターも同じことだった。
 散歩から戻った二人は、ジョージの母方の祖父母に迎えられた。じきにジョージの父方の祖母も訪れる予定だと言う。遥々よく来たね、と労われ、ピーターは感慨深く頷いた。
 その日の夕食の食卓にはたくさんの北アイルランドの料理が出た。何度か翻訳家の料理で食べたことがあるものもあったが多くはピーターが見たことのないもので、しかしどれも美味しく、空腹も相俟ってピーターは何度もおかわりし、ミルズ家の人々にずいぶん喜ばれた。
 ウェイマスってどんなところ? と尋ねられて、ピーターは彼彼女らに自身の生まれ故郷の話をした。ジョージの父方の祖母は、息子と孫が越した先だったからかピーターの話に頻繁に相槌を打ち、また彼女自身が調べたらしいウェイマスについての知識も披露してピーターを驚かせた。
 夕食とシャワーを終えゲストルームに上がった彼らは二人して一つのベッドに寝転びじゃれ合いながら、明日の予定について会話した。ピーター自身はミズ・ミルズの実家の近辺でのんびりするだけでもよかったが、それではつまらないとジョージは主張し、それならばベルファスト城と動物園に観光に行くことで話が決着した。早起きしようね、と言って夜十時過ぎに部屋の電気は消されたが、暗闇のベッドのなかでするキスは、普段とは違う緊張感と昂揚感を伴った。
「ねえ、そういえば、空港の名前、ジョージ・ベストだったね」
「うん。だって北アイルランドの英雄だもん」
「君の名前って彼から来たのかな。お母さん、フットボールの話よくしてたから」
「んー、聞いたことないや。でも、ベルファストにジョージの名前なんてたくさんあるよ。道にも、教会にも、市場にも入ってるし、そっちかも」
 くすくす笑うジョージの頬や髪をくすぐるように撫でながら、そうかなあ、とピーターは口許をゆるく微笑ませる。
「でも、俺にとってのベストのジョージは君だな……なんて」
「……君ってそういうことも言っちゃうんだ!」
 弾かれたように笑い出したジョージにピーターもまた破顔する。くだらないジョークのような本音でも、互いの耳は赤く染まり、ベルファストの片隅にある一軒家のゲストルームはあたたまる。二人は寄り添いながら眠りにつき、その日、ピーターは夢も見ないほど深く寝入った。

 翌朝、ベルファスト城と動物園に行く、とジョージが家族に伝えると、だったら私たちもついて行くよ、と母方の祖父母が申し出た。困った子供たちが互いの様子を伺っているのを横で見ていたミズ・ミルズが助け船を出すように、二人で行かせてあげなよ、と口を挟む。祖父はしかし、心底不思議そうに首をかしげた。
「でも、誰がお金や車を出すんだい?」
「あのねえ、この子たちもお金なら持ってるから。じゃあ送り迎えだけしてあげて。友達同士で楽しみたいのに、父さんたちがいたら好きにできないでしょ」
「まあ、それもそうか」
「あ、いや、えっと、でも、嬉しいです。ありがとうございます」
 好意を無下にできずに老夫婦にそう返すピーターにミズ・ミルズは、そういうのしなくていいんだよ、と呆れたように言い、ジョージはその間苦笑するばかりだった。
 結局、動物園の入場料や昼食代などと言われてジョージがお小遣いを多めにもらい、迎えの連絡を入れることにして、二人はベルファスト城まで祖父母に送ってもらった。城のパーキングから遠ざかって行く車を見つめ、彼らはほとんど同時に嘆息する。
「……ほんとごめん、ピーター」
「いや、別に、平気だよ」
 むしろ送りの車内でひたすら会話を続けていた彼の祖父母を見ながら、なおさらジョージに控えめな印象があることが不思議に思われたくらいだ。彼は恥ずかしそうにつんと唇をとがらせ、僅かに頬を赤らめて俯いている。その少し不機嫌をにじませた表情がピーターにはたまらなく愛らしく思えて、隣を歩く彼の後頭部をくしゃりと撫ぜた。
「俺は素敵な人たちだと思う」
「……ありがとう」
 ようやくはにかむように微笑んだジョージを見て、ピーターもまた満足げに頷いた。
 ベルファスト城ではちょうど結婚式が行われており、二人はその様子をぽかんと見つめながら、そそくさと城内に入った。学校の授業で一度訪れたことがあるというジョージはピーターをいざない、階段を上へ上へと登っていく。三階の一室に手を引かれて連れられたピーターは、ジョージが促すまま窓際に向かい、そうして外の景色を望んだ。
「わあ……」
 そこから見えたのはベルファストの街だった。空の青と海の青、街の緑。高速道路がゆったりと横たわり、三角屋根の家々が身を寄せ合って並んでいる。すごいでしょ、とジョージが得意げに言うのにピーターは頷いた。彼の丸い指先が視界のなかで南を示し、僕ん家はあっち、と言う。遠く木々が立ち並ぶ住宅街に目を向けたピーターは、この街でジョージが生まれ育ったのだ、と深い感慨を抱いた。
 ジョージは、これが見せたかっただけなんだ、と言い、展示って興味ある? と首をかしげた。その衒いのない物言いにピーターは苦笑し、しかし確かに貴族時代の調度や装飾品に好奇心はそそられず、彼らはそのまま城内から出る。円形の噴水をぐるりと回り庭のふちに立った彼らは、改めて木々の間から見えるベルファストの街を眺めた。
「都会だねえ」
「ふふふ」
 彼らはベルファスト城から動物園までを三十分かけて徒歩で移動した。タクシー使おうか、と提案するジョージに、のんびり歩きたい、と返したのはピーターだ。緑に囲まれた国道脇の道を進み、行きがかりで見つけたカフェで昼食を取る。
 会話のなかでピーターは、次のジョージの誕生日に何がほしいかを尋ねた。以前二人は誕生日について尋ね合ったことがあり、互いに祝い損ねたことを残念がって、来年こそはと意気込んだのである。春休みが終われば、ピーターの学年は中等部修了の最終試験で忙しくなる。その前に希望だけでも聞いておきたかったし、何よりピーターはジョージの喜ぶ顔が見たかった。
 はたして彼は驚き、嬉しさに顔をほころばせたが、何にも思い浮かばないや、と言った。それはジョージの心底から発せられた言葉のようにピーターのなかに響き、じゃあ考えておいてよ、と返しはしたが、確かに少し早すぎたかも、と内省する。
「僕、多分、ずっと思いつかないよ」
 そんなことをジョージが言うのでピーターは片眉をあげた。
「何かあるでしょ、思いつきなよ」
「無茶言わないでよ」
「いろいろあるじゃん。そりゃ、そんなに立派なものは買えないけどさ……」
「うーん……」
 ジョージは困ったように笑い、本当にないよ、と呟いて、サンドイッチを口に運ぶ。
「じゃあ、また一緒にご飯食べてほしい」
「そんなのいつでもできるよ。それに、絶対一緒に食べることになる」
「確かにそうかも。じゃあ、勉強手伝って」
「言われなくても」
「うーん……じゃあ、考えとくね。ピーター、ありがとう」
 頬をほのかに染めて満ち足りたように笑う彼にピーターは、まだ何もあげてないのに、と思った。
 動物園では、広い敷地内に悠然と遊ぶ様々な動物たちや鳥たちに二人は圧倒された。ミーアキャットへの餌遣りや岩場を歩き回るペンギンたち、アジアゾウやキリンの大きさに仰け反り、水辺に佇むフラミンゴの群れの鮮やかさに見とれ、マーモセットの叡智を秘めた深い眼差しに嘆息する。スーベニアショップではジョージがやけに真剣にライオンのぬいぐるみを見つめているのでピーターが横から、買う? と尋ねると、彼は慌てて首を振った。君に似てるなって思って、とよくわからない言い訳をされて、ピーターもまた同じようにライオンのぬいぐるみを睨む。赤いセーターを身にまとい、金色のたてがみをふわふわと空気に踊らせる二頭身のこのぬいぐるみがどこをどうすれば自分になるのだろうとピーターは首をひねった。
 たっぷり三時間弱も動物園を楽しんだ彼らが迎えのためにジョージの祖父母に連絡を入れると、車は十五分と待たずに動物園のパーキングに到着した。驚く子供たちに二人は、近くのマーケットで買い物してたの、と後部座席に積んだ買い物袋を示す。おかげでピーターとジョージは今晩の夕食の材料を抱えながら車に乗り込むはめになったが、出来上がった料理はやはり美味しかった。

 翌日の午後二時四十分発のフライトで、二人はベルファストを離れた。これから三時間をかけてサウサンプトンを経由し、彼らはウェイマスへ帰る。ベルファスト・シティ空港ではジョージの家族たちが総出で二人を見送り、ピーターなどはジョージの父方の祖母に抱きしめられ、また来てね、あなたは昔の私の夫みたいに格好いい人だわ、と言われてしまった。慌てて顧みたジョージはにこにこと楽しそうに笑っていて、ピーターは己の心配が杞憂になってしまったことにほんの少しだけ切ない思いをした。
 疲れが出たのかジョージは機内でも、サウサンプトンから乗ったウェイマス行きの電車の車内でもぐっすり寝入って、そのたびにピーターの肩にブルネットを預けてきた。ささやかな重みはピーターの心に充足感と多幸感をもたらし、彼もまたジョージのブルネットに側頭部を寄せて口許をゆるませる。そっとジョージの太ももに放り投げられた左手を取り、その指の間に自身の指を絡めれば、あたたかなジョージの体温でピーターの全身がぬくもった。


 ◇


 最終試験の結果は上々だった、とピーター自身は思っている。座学ではわからない問題がそれほど多くなかったし、実技にも不満点は少ない。特にフランス語はかなりよかったほうなのではないか、とピーターは内心自画自賛する。翻訳家の丁寧な指導のおかげだろうか、何より彼の明朗な教え方がピーターの学習態度には合っていた。ジョージの学年末試験の結果も悪くなかったとテキストが届いたし、あしながおじさん様様だな、とピーターは思う。
 試験結果の報告のために足を運んだ学校からの帰路、埠頭に差し掛かったとき、パンツのポケットから軽やかな音が鳴ってピーターはモバイルを取り出した。見ればジョージからのテキストで、お疲れ様、ゆっくり休んでね、とある。ピーターは口許をもごもごさせて、ありがとう、君もね、と返し、それからしばらく開けて、会いたい、と送った。ジョージからの返事はすぐに来た。僕も。
 思わずモバイルを握りしめ立ち止まったピーターが、どこにいるの? と返そうとしたとき、ふと視界の隅を見覚えのあるセピア色が横切った。
 顔を上げて振り返ったピーターの視界で、カラフルな柄が踊る丈の短いベストを着た青年が彼から走り去っていく。え、と息を飲んだピーターのことなど見もせず、青年は桟橋に降りて船着場に揺れるあの白い船のもとへ――気がつけば早回しのように世界が目まぐるしく動き、ピーターは突如、後背から何かに突き動かされたかのようにたたらを踏み、立っていられなくなって傍らの柵に手をついた。ざぶん、と激しい波音が耳の奥に響き、顔じゅうにまとわりつくような――彼がこれまで嗅いだこともない――重油のにおいと焦げくささに吐き気を覚える。荒れる波頭の映像と、目の前で何か会話をしているベスト姿の青年と、赤いセーターの青年の映像が被り、ピーターの頭は眩んだ。誰かの怒鳴っている声がする。青い瞳、濡れた青い服、汚れたカーキ、真っ黒なオイル、たくさんの人の怒鳴っている声が、悲鳴が、焦燥が――どうして血のにおいがするんだ? ピーターは柵についた己の手が濡れる感触に恐る恐る目線を下げた。そっと持ち上げた手のひらが赤い濁りに染まっている。
 海の映像が晴れ視界が鮮明になり、桟橋で会話していた二人の青年が白い船に乗り込むのが見えた。
 “ジョージ”! ピーターは叫んだ。行っちゃだめだ! 赤いセーターの青年が振り返り、“ジョージ”を咎めるような声をあげる。あれは、俺だ!
 ピーターは柵から身を乗り出し必死に彼の名を呼ぶ。誰か、遠ざかっていくあの船を止めてくれ! “ピーター”、彼を船から下ろしてくれ! 彼はその船に乗っちゃいけない。“ジョージ”は――君は――今日――あの海峡で――死んだんだ!!

 柵の脇で坐り込むピーターは、大丈夫ですか、と誰かに肩を叩かれ、大丈夫、と必死に答え震える足で立ち上がった。全身を渦巻く記憶の奔流に押され、ピーターはよろよろと手に持っていたモバイルに指を乗せる。“ジョージ”。
『今どこにいるの?』
 返事はすぐに来た。
『家にいるよ』
 ピーターはつまずきながら走り出す。そうして、次々と体のなかに流れ込んでくるたくさんの情報を処理しきれずに、彼はついに涙をこぼした。
 ああ、君は、いつもいつもままならない気持ちを抱えて生きていた。苦手な勉強、苦手な友人たち、苦手な両親との会話、自分が至らないせいだと君は言ったけれど、俺はそんなことないといつも返していた。君にそれがちゃんと伝わったかどうかはわからない。だけど俺は君が遣り切れない思いを吐露するたびに君を慰めたかった。だって君は、君は俺と“おんなじ”だった。俺を見てくれない父さん、俺に越えられない壁だけを遺して死んだ兄さん、俺は自分がままならないことを俺だけのせいにしたくなくて、“おんなじ”君を慰めれば俺も報われると思った。君は間違ってない、君は何も足りなくなんかない、君はがんばっているし、君はたくさんのものを持って、そして誰かがちゃんと君の努力を見てくれているんだ。それはすべて、俺が自分に言いたかったことで――誰かに言ってほしかった言葉たちだ。俺は、君を通して自分を見ていた。
 だけど――“俺”は“君”を助けられなかった。“君”を一人ぼっちで――

 それなのに、あのとき、君は俺を呼んだ。そうだ、あの日君が呼んだのは、確かに俺の名前だったんだ!

 目の前に濃い青の木の扉が現れる。ピーターは二度呼び鈴を鳴らし、そうする間にもジョージにコールを入れた。早く、早く出てくれ。焦るピーターの内奥など知りもせずに、扉の向こうからのんびりとした、はあい、という声が聞こえてくる。そうしてゆっくりとした動作で開けられた扉を強く押して、ピーターはミルズ邸に入った。
「ジョージ!!」
「うわっ、どうしたの、ピーター?」
 必死の形相で己を抱きしめるピーターに、ジョージは慌ててその背をたたく。
「君は……君は……俺が助けられなかったジョージなんだろ?」
「え……?」
 ピーターがジョージの顔を覗き込み、イギリス海峡で、と言うと、彼は息を飲み、愕然と目を見開いた。
「思い出したんだ。今日がその日だった」
「な、何を……言ってるんだよ?」
「ごめん……口にしていいことじゃないよな。だけど、君は……君は俺のこと覚えていてくれたんだろ?」
 俺の名前を呼んでくれた、そう続けると、ジョージは震える手で彼の胸を押してピーターからぎこちなく離れた。その顔が真っ白になっているのにピーターは気づき、どうしたの、と問いかける。
 彼の赤い唇が、そっと開かれた。
「ごめん、なさい……」
「え?」
 思いがけない言葉にピーターが訊き返すと、ジョージは一歩、二歩、ピーターから後ずさり、もう一度、ごめん、と口にした。
「ジョージ? ……何が、ごめんなんだよ? それを言うなら……」
「だって、君は、あの“ピーター”で、僕は“ジョージ”なんだ」
 ジョージの声が張り詰める。ピーターは、彼の青い瞳に涙がにじむのを見た。
「僕たち、友達だったんだ!」
 彼は叫ぶように言った。ピーターは目を見開く。彼の両目から大粒の涙が落ち、必死でそれを拭い真っ赤になる目許が痛々しくて思わずピーターは手を伸ばしてそれを制する。
「無理にそうするなよ、痛むだろ」
「ピーター、っ、ごめん、ごめん、友達でいなきゃいけなかったのに、僕は嬉しくて、やめらんなかった」
「待って、何のこと?」
「だって君は僕のこと好きじゃなかっただろ!」
 ジョージの悲痛な言葉にピーターは息を飲む。
 思い出したたくさんの記憶たち、そのなかで、ピーターはいつもジョージを“弟”のように思っていた。弱音を吐いて頼ってくる彼を、しょうがない奴だと受け容れ、その先で、同じように傷ついた自分を癒していた。それははたして、友情だったのだろうか?
「それなのにっ、君が覚えてないのをいいことに、僕はもう一度君と出会えて本当に嬉しかったんだよ。君とするキスが気持ちよくて、君が隣にいてくれることに一人で満足して……」
 とめどなく流れる涙はジョージの青白い頬に幾筋も線をつくる。
「自分勝手に、君と幸せになりたかった」
 すとん、とその言葉がピーターのなかに落ちてきて、彼は小さく、あ、と呟く。

 “おんなじ”だ。

「――俺もだよ、ジョージ」
 そっと彼の泣き濡れた頬に触れ、両手で包むようにすると、彼は睫毛をふるわせて青い瞳でピーターを見た。そのなかに自分の影があるのに気づいて、ピーターは懸命に微笑みかける。彼に安心してほしくて。
「ねえ、君を好きだって言ったのも、君とキスしたいって言ったのも、俺が先だよ。君のせいにしないで。いや、君のせいではあるんだけど……」
 ぐっと眉根を寄せて難しい顔つきになるピーターに、ジョージはぱちりと瞬く。
「あのころの俺たちと今の俺たちは、全然違うだろ?」
 は、と息を吐いた唇の色にピーターが欲情することを、ジョージはちゃんとわかっているのだろうか。
「君をハグして、君とキスをして、こうやって君の頬に触れたり、髪を撫ぜたり、本当は……それ以上のことだって一緒にしたい。今の君って、今の俺からしたらすごく魅力的なんだ。頭が変になるくらい、いつも輝いて、素敵に見えるんだよ?」
 途端にジョージの頬や耳に赤みが戻る。ピーターは小さく笑い、人差し指でそっと耳の裏を撫ぜた。
「ジョージ、もう一度、君と一緒にいさせて。友達じゃない、新しい形で」
「新しい形……?」
「うん。できれば、君とキスしたり、それ以上のことをできる形がいい」
「…………いいの……?」
 ジョージは震える声でそう言った。ピーターは目を細めて、うん、と頷く。
「どうやら、今の俺も、今の君も、それを望んでるみたいだよ」
 そっと鼻先をすり合わせ、額を寄せれば、ジョージは再び泣き出した。ピーターは微笑みながらその頭を自身の肩に寄せ、やわらかく、やわらかく、ブルネットを撫ぜてやる。
「うああぁぁ……!」
 嗚咽をあげるジョージを強く抱きしめて、ピーターはそのこめかみに頬を寄せた。

 俺のほうこそ、ずっとごめんね、“ジョージ”。
 こうやって真正面から“君”を見ることができるまで、長い時間がかかってしまった。

 ひとしきり泣いて泣き止んだジョージは僅かにしゃくり上げながら、ありがとう、とささやいて自分を抱きしめているピーターの背中を軽くたたいた。
「ん? まだいいよ」
「ううん、もう平気」
 そうしてにこりと笑う彼にピーターもまた微笑みかけ、その眦を親指で優しくさする。気持ちよさそうに細められる赤い目許にむずむずして、ピーターは彼に問うた。
「……キスしていい?」
「……へへ、うん」
 はにかんだ彼の目許に口づけ、まぶたをぺろりと舌で舐めるとジョージは驚いて肩を竦めた。にやりと口の端を上げたピーターは、眉間や頬、鼻先、こめかみに次々唇を寄せる。
「ぴ、ピーター……?」
「んー?」
「うう……」
 唸ったジョージは、頬をべろりと舐めるピーターから顔を離すと、勢いよくその唇に己のそれをぶつけた。ぎゃ、と叫んだ彼にジョージは鼻を鳴らし、そうして再び、今度はそうっとキスをする。ふ、と小さく息が漏れて、二人は互いの唇をついばみながら、ゆっくり離れた。静かに目が合い嘆息するジョージに、ピーターは微笑む。
 再びキスをしようか、そうピーターがたくらんだとき、カタリと彼の後背にある玄関のほうから音がした。
「あ……」
 ジョージがぽつりと声を発する。
「ただいま、ジョージ。ああ、ピーター、いらっしゃい」

 ――ぞわり、とピーターの背中が粟立った。ジョージが咄嗟に腕を掴んでくれなければ、勢いのままに振り向いて彼を睨みつけていたかもしれない。

「おかえり、おじさん! 僕たち、ちょっと外行ってくるね」
「ああ、気をつけて。二人とも試験お疲れさま」
 ありがとう、と返すジョージにぐいと強く腕を引かれて、ピーターは連れられるがまま彼の横を通り過ぎる。瞬間、その薄い青の瞳と目が合い、ピーターには自身の心臓が大きく一つ鳴るのがわかった。
 三軒隣のドーソン邸に飛び込んだ二人は、出がけだったピーターの母に訝られながら彼の自室に上がる。そこでようやく腕を解放されて、ピーターはジョージの肩をがしりと掴んだ。
「どうして……!」
「君も知ってるだろ、あの人は父さんと母さんの親友なんだよ」
「だからって、こんな偶然があるのか?」
 眉間に深くしわを寄せたピーターにジョージは、きっとあるんだ、と言う。
「だって僕は君にまた会えたもの」
「それはっ、そうだけど……」
「あの人は何も覚えてないんだよ」
「……え?」
 ジョージが言うのに、ピーターは驚きを返す。
「お願い、ピーターも何も言わないで」
 本当に“優しい人”なんだ、ジョージが重ね、その切ない声音にピーターはどうしようもなく口を引き結ぶ。それはピーターにもわかっていた。三軒隣の近所付き合いのためだけでなく、いつかの船の上で、彼が幾度も“ジョージ”を気に掛けていたことを知っているのだから。
 だからこそピーターの心は、違う、と叫んだ。
 覚えていなければ、“船”などと口にするはずがないのだ。
 頼むよ、とジョージは繰り返し言い、ピーターの手を強く握った。ピーターは頷いたが、それはうわべばかりだった。しかしジョージはピーターの反応にほっとしたように表情をゆるませ、じゃあ僕帰るね、とささやくように言ってピーターの手を解放し踵を返した。慌ててその後を追いながらピーターは彼に声をかけようとして、立ち止まる。
 怒りはないのか? 恨みはないのか?
 それを訊いてなんとするのだろう。あると答えられたとき、ピーターはどうすればいいのだろう。
「ピーター?」
 振り返ったジョージが小首をかしげる。そのあどけない表情にピーターは首を振り、何でもないよ、と苦笑交じりに返した。

 ピーターはそれから、ジョージの不在に翻訳家と話す機会を窺った。翻訳家は彼の仕事の関係もあり在宅していることが多かったが、ピーターの自由な時間に彼がミルズ邸に一人でいることは少なく、ピーターをやきもきさせる。そしてピーターが顔を出すたびに、翻訳家は優しく微笑んで、やあ、と面と向かって挨拶をする、そのことにピーターの疑念はいや増した。怯えてほしいわけでも、恐れてほしいわけでもなかったが、あの日震えていた“彼”との印象の違いがピーターにはどうしたって奇妙に感じられてしまう。
 そうして、今と、あの“当時”との違いを否応なく思い知らされた。まさにあの日、“戦争”が確かにピーターたちの傍らで呼吸をしていたのだ。ピーターはあの日の出来事を思い出してからというもの、たびたびそのことを考え、そしてジョージを失う恐怖を腹の底に凝らせている。
 ジョージも、彼も、皆そうだったのだろうか? ピーターはふとそんなことを考えた。今、普通に生活を送るあの体のなかに、彼らはいつもこんな恐怖を抱えていたのか?
「…………」
 それはどんなに苦しく、つらいことだろう。

 程なく、ジョージの学年でワーク・エクスペリエンスが始まった。ジョージは二人のクラスメイトと共にウェイマスにある小さなホテルでスタッフ体験をするそうで、あの掃除用具入れ押してみたかったんだ、とうきうきしてずいぶんと楽しみにしているらしい。他方ピーターは、ようやっとチャンスだ、と内心で頷いた。楽しんできてね、とうそぶく声がジョージに悟られないといい。
 午後三時半、学友たちへの挨拶もそこそこにピーターは足早に帰宅し、リュックを放り投げると三軒隣の濃い青の木の扉の前に立った。心臓を激しく鳴らしながら深呼吸し、呼び鈴を鳴らす。
 はい、と聞こえる声は穏やかで、ピーターは腹の底にたまった畏怖をなだめるように拳を握る。ゆっくり開かれた扉の向こうから、あの薄い青の瞳が現れた。
「やあ、ピーター」
「……こんにちは」
 微笑みに会釈を返し、そうしてなんと口にしていいかわからず彼の顔を見つめて黙り込む。翻訳家は首をかしげ、ジョージはまだだよ、と、君も知っているだろうと言いたげに口にした。ピーターは首肯する。
「……あなたに、用があって」
 そう言うと、彼は小さく目を見開き、それから体をずらしてピーターを屋内へ促した。
「……紅茶を淹れようか。コーヒーがいいか?」
「……いえ、要らないです」
 馴染んだはずのリビングルームがまるで知らない部屋のように感じられ所在無げにするピーターに、彼はソファを促した。おずおずと腰掛ける少年の差し向かいに男も坐る。
 ピーターは口を開いた。
「僕のこと……覚えてますよね」
 男は静かに頷く。
「…………ああ」
 ほう、とピーターは嘆息する。男は窺うような目線でピーターを見た。
「君も、ずっとあの子と俺のことを覚えていたのか?」
「……いいえ、少し前に思い出したんです。……六月四日に」
 問いかけに俯きがちにそう答えると、男は自身の口許を右手でそっと覆い、そうか、と呟いた。
 ピーターは彼にまっすぐ向き直った。深遠な薄い青の瞳がじっと己を見つめている。
 なぜ、とピーターは心底から思った。
「……どうして、ジョージの傍にいるんですか」
 ぱたり、彼は瞬く。
「どうしてジョージの前に現れたんですか」
「……屁理屈を、と言われてしまうかもしれないけれど」
 俺があの子の前に現れたんじゃない、あの子が俺の前に現れたんだ。彼はそう言い、静かに目を伏せた。


 ◇


 ――自分が、かつて自分ではなかったころ、人を殺めた人間なのだということはわかっていた。何度も夢に見た。あの広い海と狭い船のなかで、頭に白い布きれを巻いたあの少年がまだ彼よりもずいぶん小さく年若い子供を咎めるような目線で見るんだ。罪の意識に苛まれ、己は生きているべきではない人間なのかもしれない、と常に考えていた。それでも死ねなかったのはそれが恐ろしいことだと知っていたからだ。体の震えや冷たい水温は今でも俺を呪うようにその感覚を不意に蘇らせる。とても恐ろしい。そして俺は意気地がなかった。誰かといれば誰かに加害するかもしれないが、ここから消えることは怖くてできない。実の親にすら気味悪がられながら、俺はずっと一人でいた。
 パトリック・ミルズとエメリー・グリンヒルに出会ったのはアーリーティーンのころだ。二人は幼馴染だそうだがそれ以上に実に仲が良く、そのくらいの年頃だと男女が共にいるとよくからかわれたりもしたものだが、二人は一切そういった周囲の声を気にすることなく、自分たちは共にいたいから共にいるのだと、それは親愛の情として当たり前のことなのだと、そういう振る舞い方をしていた。
 俺に声をかけてきたのはエメリーが先だ。数学でパトリックがどうしてもわからない問題があるのだが、自分もどう教えていいかわからないからアドバイスをくれと。教えてやると、すごい、ありがとう、と二人は屈託無く笑った。そんな些細なきっかけで、二人は俺の生活に入り込んできた。初めは無視しようともしたけれど、パトリックもエメリーもどういうわけか意に介さない。頭のおかしな連中だと思ったが、同時に二人と一緒にいる空間を心地よく思っている自分がいることにも気がついた。……はたしてこれは俺が持ってもいい感情なのか? 俺は何度も自問しながら、彼らと共にいる時間を過ごした。
 悩んでることがあるんじゃないの、と俺に尋ねたのはパトリックだったが、エメリーも隣で頷いていたから、きっと二人して俺に訊いてみようと決めたのだろう。セカンダリーを上がって程なくの、十七のときだった。あの凄惨な夢を見ながら、彼らの優しさを常から甘受していた俺の口は、つるりと懊悩を外に吐き出してしまった。
 前世の記憶があるのだと。鮮烈に覚えているたった一つが。俺は人を殺した人間なんだ――どうして俺は悩まなかったのだろう、二人がこの告白を聞いて、俺から離れていくかもしれないと。今にして思えば軽率だったが、二人はしかし、俺が考えた通りの行動はしない連中だった。
 大変かもしれないけど、前世の君と今世の君は違う人だよ、とエメリーが言った。パトリックなどは、他に覚えていることはないの、全部今の君とは違うってこと証明してやるから、と言った。戦争中だった、と言えば、今はギリギリだけどまだ違う、と返ってきた。イギリス海峡を渡った、と言えば、ここは北アイルランドだぜ、と返ってきた。めちゃくちゃな答えだと思ったが、パトリックはずいぶん得意げに、それに前世の君の傍に僕たちはいなかっただろ? と言った。
 ――今でも一言一句思い出せる。パトリックはこう言ったんだ。君は人を殺して平気な人間じゃ絶対ないはずだ。それはきっと、戦争のさなかにいたとしても前世の君も同じだったはず。そうじゃなかったら今の君がそんなに苦しんでないよ。でももうずいぶんだと思うし、なんならほら、君がここにいるってことは一回死んでるだろ? だったらそれでもうチャラだ。前世の君のことは前世の君が引き取って、今の君の人生は今の君のものだよ。僕たちとこれからもずっと一緒にいて、笑って、遊んでくれる。もし君が何か間違いを起こしそうになったら、全力で僕らが止める。だってもう君の傍には僕たちがいるんだから。
 二人は俺を抱きしめて、一緒に泣いてくれた。傍目にはばかみたいな青春に見えたかもしれないが、俺にとってはこの上ない救済だった。パトリックとエメリーの俺を抱く力のなんと強かったことだろう。パトリックはこうも言った。これまでつらかったぶん、きっと良いことが君に起こる。子供じみた物言いだったし、子供ですらそんな戯言は信ずるに値しないと疑うだろう。だが俺にはそれでじゅうぶんだった。なぜなら、良いことはもう起こったのだから。
 その日も夢を見た。あの子がじっと俺を見つめている。背格好は、もうそのころの俺とほとんど変わりがなくなっていた。そして俺は、あの子が十七で命を落としたのだと悟った。あの子は俺ばかり先に行くのを咎めているようだった。そしてそれ以来、夢は見なかった。
 二人に子供ができたのは俺たちが二十四のときだ。俺も自分のことのように嬉しかったよ。大切な二人に新しい家族ができるのだから。出産が近くなるころには毎日のように二人の家に足を運んで家事を様々手伝った。料理の腕が上がったのもそのころだ。
 子供は無事に生まれ――その子の名前が“ジョージ”だと言われたとき、俺は心臓が潰れそうだった。君が、記憶のなかで、必死に呼んでいた名だ。愛おしげに赤子を抱き、微笑む二人を見ながら、俺は呆然としていたよ。あの日、俺が殺したあの子が、愛され慈しまれ、生まれてきたのだ、と思った。
 翻訳の仕事が忙しいことに託けて、俺はしばらく二人を訪ねなかった。不安が確信に変わるのが恐ろしく、俺はあれほど良いことがあったにも関わらず長じてなお臆病だったのだ。二人からは何度も連絡が来た。“目が開いたから早く息子に会いに来てくれ”とね。自慢の息子を見せたいと。俺も会いたかった。無二の親友たちの子供が俺にとって愛おしくないわけがない。だが、俺は自分で買ったベビーグッズをただ一方的に送りつけるばかりで、それからパトリックたちに会いに行くのに三年を要した。同じ街にいるのにだ。二人がジョージを連れて会いに行きたいと言っても、都合が悪いことにして会わなかった。あのころが、ティーンで俺たちが出会ってから最も長く会わなかった期間だ。
 ジョージの三歳の誕生パーティーでようやく訪ねた俺を、あまりにも長く離れていたのにパトリックもエメリーも一つも厭な顔をせず、そればかりか俺を心配してくれたし、再会を喜んで少し涙ぐんでもいたように見えた。ジョージの周りはお前が送りつけるベビーグッズやおもちゃやぬいぐるみであふれているんだ、とからかわれもしたよ。俺の胸は罪悪感でいっぱいになった。俺はこんなに素晴らしい人たちと共にいていい存在ではなかったんだ。
 案内されたリビングルームのソファの上で、俺が送りつけたブランケットにくるまれてジョージは眠っていた。そして枕元にはテディベアが。やわらかなブルネットはエメリーに似て、かわいらしい丸い鼻はパトリックに似ていた。今は閉ざされているその瞼の奥の目の色はどちらに似ているだろう。どんな声をしているのだろう。そんなことが気になる。俺はこんなにもこの小さな子供のことが気にかかるんだ。
 それからは、二人に――三人に会わなかった三年が嘘のようにパトリックたちの家に足繁く通うようになった。長く開いてもせいぜい一週間だ。出張で二ヶ月ベルファストを離れなければならなかったときなどは毎日のように電話をしたし、三人の家で仕事をすることもあったよ。パトリックもエメリーも、それにジョージも、俺が自分たちの家にいることを当然だと思ってくれていた。五歳にもなるとジョージは両親の見よう見まねでコーヒーや紅茶を淹れてくれるようになり、覚束ない足取りでリビングルームにいる俺にそれを持ってきてくれるんだ。たまらなく嬉しかった。そして、いつも思い出した。あの海で、あの船の上で、俺にあたたかい紅茶を差し出してくれたあの子のことを。ジョージは少しずつ、少しずつ、あの子に似てきていた。
 だが、あるとき――ジョージが九歳になったころのことだ。パトリックが俺に言ったんだ。ジョージが、あの子が、自分は俺に嫌われているのかも、と悲しそうにするのだと。そんなばかなことはあり得ないと言ったら、パトリックもまた、僕もそう言ったよ、と。あいつが君の写真を見てどれだけ嬉しそうにしているのか知らないのか、あいつが君にどれだけプレゼントを貢いでいると思っているんだ、親である僕たち以上かもしれないぞと。だがジョージは、おじさんはいつも僕が紅茶を持っていくと顔をしかめて痛そうな顔をするのだと言ったそうだ。
 ――顔に出ていたんだ。俺の罪悪感が。俺は全身が冷えて息が止まりそうになったよ。またあの子につらい思いをさせるのかと、どうして俺は繰り返してしまうんだと、そしてそれでもどうして離れられないんだと、死んでしまいたくなった。
 パトリックは震える俺の手を掴んで、ジョージに直接そんなことはないと伝えてやってくれ、と言った。俺は頷いたが、ただただ恐ろしくてならなかった。
 次の休日、パトリックとエメリーは俺とジョージとをポーターフェリーの水族館で置き去りにした。あとで迎えに来るからね、と言って。ジョージはずいぶん驚いたようだったが、すぐににっこりと笑って、よろしくお願いします、と言った。どう見ても気遣いの笑顔だった。俺は心臓が冷えてたまらなくなり、はぐれると困るからと言い訳してあの子と手をつないだ。あの子の手もひどく冷たかった。だが水槽を見ながら、なんとか普段遊びに行くときのように話しかけてやると、じきに嬉しそうに頬を赤らめて微笑んでくれるようになった。
 俺たちは話をした。君は、俺が君のことをよく思っていないと感じたかもしれない。本当にすまなかった。だが、そんなことはあり得ない。俺は君のことを、君のお父さんやお母さん、おじいさんやおばあさんの次に大切に思っている人間だ。つまり、君の家族以外の人間で君のことを一番大切に思っているのは俺なんだ。もし君が大変だと思ったとき、つらいと思ったとき、悲しいと思ったとき、もし君の家族に助けを求めることができなくても、俺が必ず助けてやる。君は俺を頼っていいんだと――俺自身があの子のことを頼っていることはさすがに言わなかったが――そして、君がもし君の家族にいたずらしてやろうとたくらんだときも、俺は君の味方をしてやると。俺が君を見るときつらい表情になるのは、俺が君からもらっているたくさんのものに見合う分だけ君に恩を返すことができているだろうかと不安に思うからだ。それは俺自身の気持ちの問題で、君はなんにも悪くない。君は俺のことを助けてくれた。俺も君に報いたいんだと――そう言ったところで、ジョージはぼろぼろ泣き出した。びっくりしたよ。泣かせるつもりなどなかったのに、俺が肩を抱いて揺すってやってもまるで泣き止んでくれない。どうしたんだと尋ねる俺に、かわいそうなくらいしゃくりあげながら、あの子は訊いた。
 僕は本当に、あなたのことをちゃんと助けられたの、と。
 はっとしたよ。それはまるで、あの子が俺にそう問うているかのようで、思わず俺の目からも涙が溢れた。俺は頷くことしかできなかった。
 “君”は、“俺”を、ちゃんと助けたんだ。どうかそれが“この子”に伝わればいいと、ひたすら願った。


 ◇


 薄暗い室内はそのまま静寂を表している。ピーターは、翻訳家とじっと目を合わせたまま逸らせないでいる。
「……ひとしきり泣き終えて目が合うと、あの子が笑うので、俺も思わず笑ってしまった。そうして、二度と同じ過ちを犯さないよう今度こそ誓ったよ。俺にはその責任がある。守るべきものが傍にあるのに、それを成し得ないのは、もう――」
「もう、うんざりだ」
 翻訳家はひたと見据えてくるピーターに目を丸くした。顔をしかめたピーターはもう一度、うんざりなんだよ、と繰り返す。
「今までジョージを守ってくれてありがとう。これからは僕がいるから、あなたはもう自分のやりたいことをしてください」
「……俺の?」
 彼はゆっくり二度瞬いて、それから小さく首をかしげた。
「彼が成長するのを見届けたいと思うのは?」
「…………」
 言葉に詰まったピーターはしばらく俯いて、勢いよく立ち上がった。驚く翻訳家をねめつけるように彼は見ると、また来ます、と大きな声で言った。翻訳家の背の向こうにある時計が、そろそろジョージの帰宅時間が近いことを示している。
 ああ、また来てくれ、と彼は返し、見送ろうとする素振りを見せたが、ピーターは、じゃあ、と別れの挨拶だけ済ませると大股でミルズ邸を辞去した。
「あ」
「え」
 ――が、ミルズ邸の前を走る道路に添う柵に寄りかかっているジョージの姿を見つけて、ピーターは思わず立ち竦む。ジョージは手許でいじっていたらしいモバイルをいそいそと仕舞い、僅かに剣呑な表情をしてピーターに手を振った。恐る恐る道路を渡って歩み寄るピーターを睨むように見、窓から二人が話してるのが見えて、と彼は固い声で言う。
「君に電話しようとしてたんだ……。ねえ、何の話してたの? あのさ、変なこと言ってないよね?」
 詰める物言いが確かにピーターを責めている。
「彼を混乱させたくないんだよ。だって、本当に優しい人なんだ。もうあの人は、僕には家族みたいな人だし……」
 ピーターは胡乱に頷き、ジョージの手を取った。
「ピーター?」
「俺んち、行こう」
「え? うん……」
 いくらか強引に腕を引くと、ジョージは不安げな表情をしながらもピーターについて来てくれた。
 三軒隣のドーソン邸に足早に入る。人の気配はなく、ピーターはジョージの手を握ったまま駆け足で階段を登り、自室に飛び込むとジョージの体をぐいと抱きしめた。
「わ、ちょっと……」
 物言わず彼の無骨な輪郭に両手を添えると、ジョージは一瞬驚いたように目を開いたが、すぐに小さく首を振った。
「厭だ、ピーター。僕の質問に答えて」
 咎めるような声にピーターは眉根を寄せ、ごめん、と小さく謝る。
「君の……小さいころの話を聞いてたんだ。本当だ」
「小さいころ……?」
「あの人が、どんなに、君のことを大切に思ってるか。三歳の君があの人が贈ったブランケットに包まれて眠っていたこととか、小さな君があの人に紅茶を運んでいたこととか、二人で水族館に行ったこととか……君があの人のこと大切に思ってるみたいに、あの人にとっても君は本当に大切なんだって……話して、ちゃんとわかった」
 神妙にささやくようなピーターの言をジョージは黙って聞いていたが、やがて、そっか、と呟いて一つ首肯した。
「うん、だったら、いいんだ。……ねえ、ピーター、君とキスしたい」
 小さく微笑まれ、ピーターはすぐさま彼の唇に口づける。その赤くやわらかな下唇を何度も食み、上唇を舐めた。そうしながらも彼の体を己のほうに引き寄せ、よたよたと覚束なくピーターは後ずさる。ジョージは青い瞳を潤ませ、侵入してくるピーターの舌に己のそれを絡ませた。
 かすかに水音が響くなかで、じきにピーターのふくらはぎに彼のベッドの縁が当たり、ピーターはストンとマットレスに腰を下ろした。うわ、と驚いたジョージの腰を抱いて彼のことを引き倒しながら、己もベッドに横になる。体勢をくずして目を丸くするジョージに、ピーターは小さく笑った。
「もう、んむ」
 二人してベッドに転がりながらまた口を合わせる。ジョージの整った前歯の裏、その凹凸を舌先で強くなぞっていく。互いの口許が唾液に濡れ、明かりの点いていない薄暗い部屋の窓から射す光に照らされてきらめいているのがいやらしくて、ピーターは心臓をばくばくさせた。
「は、ジョージ……」
「ピーター……はあ……ねえ、どしたの……?」
「……だって……」
 早く君とこれ以上のことがしたいよ、浮かされたようなピーターの言葉にジョージが唾を飲み込んだので、その喉仏の動きにピーターは目を惹きつけられる。
 彼は音を立ててジョージの鼻先に口づけ、それから窺うようにその双眸を覗き込んだ。
「あの人はもう、君の家族?」
「へっ? う、うん……だって僕が生まれる前からも、僕が生まれてからもずっと一緒にいるんだもん。他人っていうほうが変だよ」
「そうだよね」
 返ってきた答えにピーターはかすかに笑んだ。間近でその表情を目にしたジョージがたまらず体を竦めそうになっている。
「じゃあ、君の家族以外の人で、君を一番大切に思っているのは俺だ」
 ジョージ一人しか聞いていないような宣言でも、腹の底からピーターはそうのたまって、再び彼に深く口づけた。何度も角度を変え、味わい尽くすように、ピーターは唇と歯と舌とで彼をついばみ、愛撫する。ジョージもまたそれに応え、ピーターの舌を己のそれで懸命に追いながら、両手を覚束なく彼の腰に回した。
「ぴ、ピーター、僕、僕……」
「はっ……俺も……」
 直接的な言葉にせずとも互いに体を擦り寄せていればその変化には否応なしに気づく。ピーターはそっとジョージの股間に手を伸ばした。
「触るだけだから……ね、ジョージ……いい?」
 衝動を抑えてそっとそこをさすると、ジョージはもじもじと両足をシーツに擦りつけながら、こくんと小さく頷いた。彼は己の太ももに感じるピーターのやわらかな兆しに丸い指先を伸ばし、恐る恐るというように布越しに触れる。そんな触り方をされると困る、とピーターは思う。
 汚れてしまうといけないから、と二人は互いのパンツを性急に脱がせ合った。ぎこちない手つきで外されるベルトの金具の音が神経質に響く。つっかえながら脱がせたアンダーウェアの下から現れたその兆しに、ジョージがごくりと息を飲むのがピーターにもわかった。パンツをベッドから蹴り落としたピーターは彼が必要以上に己のものを気にしないよう、彼の顎のふちや首の付け根に何度もキスをしながら、同じく明らかにしたジョージの兆しにゆっくりと手をかける。ジョージもまた慌てて同じようにするので、ピーターはその拙い指先の感触にぞくぞくして、ほっと嘆息した。
 ジョージの頬に、鼻先に、目尻にキスを落としながら、優しく彼のものを擦り上げていく。はう、とジョージは切なく息を吐いた。彼はピーターに倣うように振る舞うのでおぼつかない動きだが、そのいとけなさにピーターは否応なしに高められてしまう。感じ入って上向いたピーターの顎に、ジョージはうんと首を伸ばしてキスをした。驚いたピーターが彼を見ると、へへ、と真っ赤な顔でいたずらっぽく笑うので、ピーターは悔しくなってその唇をべろりと舐め、口内に舌を侵入させてまた吸いついてやる。同時に手の動きを僅かに早めると、彼はぴんと足を伸ばして張り詰めた。
「ん、ピーター、んーっ……」
「ジョージ……ふうっ……」
 体を密着させようとすると不意に互いの尖端が触れ合って、ジョージは、ひゃあ、と色気のない声をあげて体を跳ねさせた。それがおかしくてピーターはいっそう彼にくっつき、互いのものを尖端から付け根までしつこく腰を動かして念入りに触れ合わせる。びく、びく、と揺れるジョージのやわらかな太ももに手を置いて揺らしてやると、彼もまた焦ったようにピーターの腰に手を添えたが、敏感な体が思うがままに動かせないようで、ピーターは眉を下げて感じ入るその表情に満足しながら、合わさった二人のものを一緒に握り、擦り上げる動きを早めた。
「あっあっ、んんんっ……はうっ……」
 ピーターの肩口に額をすりつけて、ジョージは何度も頭を振る。ギシリギシリとベッドは二人の動きに合わせてかしましく軋む。ピーターの他方の手はジョージの丸みを帯びた臀部を掴んで揺らしている。ジョージはすっかりどうしていいかわからないふうで、喘ぎながらピーターの腰に置いた手をさまよわせるばかりだ。だが、ピーターにはその動きがひどく心地よく、悩ましかった。
「っふ、ジョージ、ジョージっ……ん、きもちい……?」
「うん、うん、うん、すごい、ピーター、んん、ピーターはっ……?」
「うんっ……きもちいに決まってる……だって……」
 君とこんなふうに触れ合ってるんだもの、耳許でささやき、その耳朶を食むと、ジョージがいっそう切なく喘いだ。ピーターはジョージの足と己のそれを絡め、ますます互いを高めたくて揺れを大きく、動きを激しくさせる。汗を掻いて絡み合う互いの高ぶりが粘着質な音を立て、二人を追い詰めていく。
 ピーターとジョージは何度も口づけあい、舌を触れ合わせ、互いの唇を食んで、吐息と唾液とを分け合った。口の端から飲み込みきれないそれらをこぼしながらジョージが、好きだ、と息も絶え絶えに訴える。
「好きっ、ピーター、ん、うんっ……」
「ジョージっ……俺も……」
「好きだ、好きだった、はあっ、僕ずっと、ん、ずっと、ずっとっ、君に憧れてたっ」
「ジョージ、ジョージ、嬉しい」
「だけどっ……それは……あのころの君のことで……」
 は、は、とジョージは短く息を吐きながら、彼の限界が近いことをピーターに教えてくれる。その震える手が、切羽詰まるピーターの頬に置かれ、
「こんな君を見るの、初めてだ……」
感慨深げにそう言うものだから、ピーターは彼の濡れる唇に食らいついた。いよいよジョージに覆い被さり、ピーターは彼に何度も口づけながら己の頬に弱く触れるその丸い手を取り、指と指とを絡めてシーツに縫いつける。
「今の俺は? 君のことでっ、こんなにめちゃくちゃになってる今の俺のことを見て!」
「見てる、見てるよ、ピーター、君が好きだっ、僕は君のことが好きなんだ……!」
「俺もっ君のことが好きだ!」
 空間がなくなるほど密着し、体を激しく揺すり、二人はついに登りつめた。絡み合いくっつき合ったそれからほとんど同時に吐き出された二人の熱は混じり合い、互いの乱れたシャツを軽やかに濡らす。
 息を荒くしながら、ピーターはそっと彼を抱きしめるとごろりとベッドに転がる。汗がにじみ唾液まみれの顔じゅうにキスを降らせていると、ジョージはピーターの唇を懸命に追いかけて、ちゅ、と小さな音を立ててお返しとばかりに口づけた。微笑み合う彼らは互いに額を寄せて、また深い息を吐く。
「……あー、そっか、俺、自分に嫉妬してたんだ……」
 ピーターがぽつりと言うのに、ジョージは不思議そうに首をかしげた。ピーターは口許をもごもごさせながら気恥ずかしい気持ちを隠したくて、彼の鼻先に唇を寄せる。
「一番最初に会ったとき、君がピーター! って呼んだ声がすごく嬉しそうだったから……きっと前の学校ですごく仲が良かったんだろうなって」
「それで、妬いてたんだ? 知らなかったよ」
 ふふ、とおかしそうに笑うジョージはピーターにすり寄り、面白いや、とささやく。むっと口をへの字に曲げたピーターは彼の額を軽く小突いた。
「見せたくなかったもの。嫉妬してるなんて格好悪い……」
「格好悪くてもいいと思うけどなあ」
「本当に?」
「うん。だって、君って全然格好いいばかりじゃないよ。今だってほら、アンダーも履いてない」
「うわ……」
 渋面になるピーターにジョージは朗らかに笑う。そうしてふと自身のシャツに目を落として、うわ、と声をあげた。
「シャツ汚れちゃった」
「え? ああ……! ごめんジョージ!」
 慌て出したピーターに、ジョージはいよいよ声をあげて笑い出し、笑い事じゃないだろ、と髪をくしゃりと撫ぜられて、だって、と自身の口許を両手で覆った。
「君ってそんなふうになっちゃうんだね」
 そうして見た満面の笑みにピーターはたまらなくなって、彼を強く抱きしめた。

 着替えるものがないからとピーターのシャツを借りて着たジョージは恥ずかしそうに目を細め、ドーソン邸の玄関に立った。
「じゃあ……」
「うん……乾いたら持ってくから」
 ピーターの言葉に首肯して、ジョージは彼の手を取る。ピーターはどきりとした。
「ねえ、今度どこか遠いところに遊びに行こうよ。前にね、おじさんが、どこでも車出してくれるって言ってたんだ」
「あ……」
 彼の言うのに、ピーターは迷った。伝えようか伝えまいか――君の父親の友人は、ちゃんと“君”のことを覚えているのだ、ということを。
 しかし、迷って、彼はやめた。その代わりに、ジョージの申し出に頷いてみせる。
「うん。じゃあ、お言葉に甘えて……いろんなところに行こう」
「うん!」
 明るく返事をして、ジョージはドーソン邸の玄関を開けた。薄暗い室内に夕暮れの西日が射し込んできて、彼の輪郭を濃く鮮やかに照らす。ピーターは息を呑んだ。輝いているジョージは一歩外に踏み出し、振り返って微笑む。
「またね、ピーター」
「うん、また」
 ピーターも彼に続いて外に出る。三軒隣に軽やかに去って行くその後ろ姿は何度もピーターを顧みて手を振った。ピーターもそれに大きく手を振り返す。
 ああ、本当に――ずっと、輝いている。ピーターは、ジョージの言葉を借りて、夕映えの静謐な空気のなかに声を溶かした。
「君って……そんなふうになるんだ」
 知らなかった、と心がささやいて、ピーターの両目から涙がこぼれ落ちた。


 ◇


 穏やかに続く田園風景のなかを、その持ち主の印象にはそぐわない、こじんまりとした白のミニクーパーがゆっくりと走っていく。いかにもな安全運転は片道一時間半の道のりをたっぷり二時間かけて目的地まで向かう。
 先ほどまでモバイルでこれから向かう観光地とその周辺情報を検索して逐一ピーターに見せてくれていたジョージは、大きくあくびをしたかと思うとやおらピーターの肩にそのブルネットを軽く載せて、程なく寝息を立ててしまった。仕方ないな、と思いながらもそっとその癖っ毛に鼻先と唇を寄せれば、彼のにおいがふわりと香る。しばらく堪能してからふと目線を上げると、バックミラー越しに運転席の翻訳家と目が合った。
「あ、いや、すまない」
「……何がですか」
 眉をぐっとひそめながら尋ね返すと彼は小さく咳払いをして、邪魔をしてしまってすまない、とひどく申し訳なさそうに言った。
「そんなこと……車出してくれてありがとうございます」
「いや、それは構わない。遠慮しないでくれ、これからも」
 発せられた彼の言葉はずいぶんとやわらかく、温かさを伴っていて、ピーターはくすぐったい気持ちになる。もう一度、ありがとうございます、と返すと、目線をフロントガラスの向こうに戻した翻訳家は小さく一つ頷いた。
 彼のなだらかな肩から腕のラインは緩慢に握られたギアやハンドルに合わせて静かに動く。それは彼の性格のためよりも、責務のためであろう。ときおりバックミラーから覗く目線は優しげで、彼は彼自身の思う通り、そしてピーターがそう言った通り、彼自身のやりたいことをしているのだ、と理解できる。そうしてピーターはいつしか、自分自身も彼のあたたかな庇護の下にいることに気づいていた。それは居心地の良さと居たたまれなさが似たような比率で漂う空間で、ピーターは実はいつも複雑な気持ちになっている。“ピーター”に対して抱いていた嫉妬から解放されてから、今度は翻訳家に対する態度で彼は困っていた。
「……君たちは……以前から、そうだったのか?」
 遠慮がちに尋ねられ、ピーターは知らぬ間に俯いていた目線を上げる。翻訳家は視線を前に向けたまま、注意だけを後部座席に払っている。その輪郭に誠実な光を見て、ピーターはほっと息を吐いた。
「えっと、付き合ってるかって?」
「そう」
「以前っていうのは……でも、去年の九月の終わりごろからです」
「……早いな。引っ越してきたばかりのころだ」
 驚いたように改めて口にされると、確かにそうだな、とピーターは小さく笑ってしまう。ずいぶんと性急だったかつての己は、確かにジョージの言う通り、“意外”に見えただろう。
「でも、“その前”はそうじゃなかったです」
「…………そうか」
 数拍開けられた間が彼の遠慮をそのまま表現していて、うん、とピーターは首肯する。
「だから……僕は、前とは全然違う僕たちになるんだと思ってる。多分……ジョージは、ずっと前からそう思ってたんだろうな」
 そっと己の肩で安らぐブルネットに頬を寄せ、それからピーターはそっと視線を上げてバックミラーを見た。翻訳家の薄青の瞳が細められ、眦にゆるやかなしわが寄っている。
「あなたとも……そうなりたい」
「……君たちがそう望むなら」
「ううん。そうじゃなくて」
 ピーターはまっすぐに彼を見た。
「あなたにそう望んでほしい」
「…………」
 しばらく返事をしなかった彼は、やがてそっとウィンカーを左に上げて、道路わきに車を停めた。そうしておもむろにハンドルに顔を伏せ、黙り込んでしまう。ピーターもまた口を閉ざしてそれを見ていると、車の揺れが止んだことで覚醒したのか、ジョージが唸ってもぞもぞと体を動かした。
「ん……? 着いた?」
「ううん、まだだけど。彼がちょっと、ああ、目にゴミが入ったって」
「え、大丈夫?」
 思わず体を起こして運転席を覗き込んだジョージを翻訳家は片手で制し、大丈夫だから、と繕う。そうして目許をぐいと指先でぬぐった彼は、すまない、と謝った。気にしないで、とジョージは明るく笑う。
「ずっと運転してるとやっぱり疲れるよね、ごめんなさい。僕も早くライセンスほしいな……」
 そこでジョージははっと何かに気づいたような表情になり、期待のこもった輝く瞳でピーターを顧みた。
「ピーターはもう仮ライセンス持ってる?」
「一応ね。でも練習は全然してないよ」
 予想できた問いに苦笑しながら返し、でも練習しないとな、とピーターはぼやく。こうして誰かが運転する安全な車に乗って揺られていると、己も早く誰かと――それは得てしてジョージのことを示しているのだが――ドライブしてみたい、という気持ちになる。己の運転する車の助手席にジョージが、あるいはジョージの運転する車の助手席に己が坐る日が、いつか来るのかもしれないと思うと、ピーターはたまらなくわくわくした。
「だったら、俺が手伝うよ」
 運転席から声がした。見ると翻訳家が後部座席に体を向けて、その薄い青の瞳をゆるませて微笑んでいる。え、と戸惑ったピーターの肩をジョージが軽く叩き、それがいいよ、と嬉しげにフォローした。
「おじさん運転上手だから、きっと教え方も上手だよ」
「……それじゃあ……お願いします」
 空気に飲まれてピーターが軽く頭を下げると、彼は口の端をゆっくりとつり上げて、たおやかに頷いた。そうして前を向き、再びクラッチを踏んでギアを入れ、アクセルを踏み込んで静かに車を発進させる。その動きの滑らかさ、折り目正しさにピーターは見とれた。こんなふうになることができるのだ。
「車を運転するピーターって格好いいんだろうな」
 にまにまと赤い唇が笑む。その腕を軽く小突いて、ピーターは口をとがらせて前を向いた。もう三十分くらいだろう、と運転席から声がして、隣でジョージが、うん、と答えた。そうして彼は、座席に投げられたピーターの右手に彼の左手をそっと絡めてくる。目を丸くしたピーターがそちらを見ると、ジョージは口許にゆるやかな弧を描いて、再びピーターの肩にそのブルネットを載せた。
「どんなとこなんだろうね」
「さっきから、ネットで写真見てたじゃない」
「うん、でも実物がさ」
「そうだね」
 どんなふうなのだろう。ピーターも初めて向かう場所だ。当然、翻訳家もそうだと言っていた。
「楽しみだなあ」
 ジョージが言うのにピーターも頷いて、彼の髪に頬を寄せながら、フロントガラスの向こうに見える景色に目線を向けた。青空の下を、ピーターの知らない街並みや、田園風景が流れていく。
 つながれた片手同士、触れ合う肩と腕、寄せあった頭と頬でぬくもりを分け合いながら、ピーターは静かに息を吸って、そして吐く。穏やかに鳴る心臓の音が、ジョージの耳にも届けばいいのに。

 あのころは知らなかった、たくさんの景色を見に行こう。
 新しい俺たちで。