『――今から四十一年前の今日、宇宙に向けて放たれた地球のメッセージ。一九七七年にアメリカ合衆国のケープ・カナベラル空軍基地から発射された二機のボイジャー探査機は現在、一号が地球から約二〇八億キロメートル離れた地点に、そして二号は約一七四億キロメートル離れた地点にあり、今も時速四万八千キロの速度で、遠くへ、遠くへと離れて行っています。地球から冥王星までの距離が約四十八億キロメートルですから、ボイジャーたちがどれほど遠くにいるのかおわかりいただけると思います』
 優しく響くピアノ音楽と共に、低く、あたたかな声が穏やかに語り始める。ささやくように、呼びかけるように。
 半球のスクリーンに映し出される宇宙空間を表す漆黒の画面には、次第に星の粒が無数にあふれてくる。白、赤、黄色、青、緑、橙。そのなかをまっすぐに泳いでいく二機の宇宙探査機。鈍色のパーツが恒星の光を反射して、輝いている。
『ボイジャーたちの目的は、この広い宇宙に数多ある未知のものを探査すること。今ではよく知られた土星の環や海王星の色も、我々はボイジャーによって撮影された写真を受け取って初めて、それが確かにそうであると知ることができたのです』
 スクリーンいっぱいの暗黒にぼうと浮かぶ、ベージュの星と真っ青な星。その海よりもあまりに濃い青はかつて人々を畏怖させ、そして昂揚させた。あの大暗斑。どうしてか今は消えてしまったらしい、すべてを飲み込むような深い深い淵。
 そうして、これまで二機のボイジャーが撮影したいくつかの写真が画面に映し出される。迫りくる木星の威容、土星の環の外側をぐるりと巡り、のっぺりした白い天王星の脇を過ぎて、夜の水辺のような海王星へ。スクリーンは暗い闇のなかへ放たれる。ボイジャーが見ている風景。そのなかにぽつんと、小さな二つの光が浮かんでいる。
 声はささやく。
『ボイジャーの打ち上げより五年前、別の二機の宇宙探査機が宇宙に向けて出発しました。その名をパイオニア十号、そしてパイオニア十一号。パイオニアたちはそれぞれ、木星、土星の探査を目的としていましたが、特に十号は一九七二年からごく最近の二〇〇三年までの長期に渡り地上に信号を送り続けました。このパイオニアたちには惑星探査のほかに、もう一つの目的がありました。それが、地球外に存在する生命体の探査です』
 二つの光のうちの一つに画面が近づいていく。それは機械の姿をしていて、その体内にくくりつけられた金属板にカメラはゆっくりズームしていく。放射状に伸びるいくつかの線と、その隣に描かれた男女の裸体、また板の下部には直線状に並んだ複数の円。
『これが、宇宙探査が始まってから最初に地球から地球外へ向けて発せられたメッセージです』
 ゆっくりと画面はパイオニアの体を離れていく。パイオニアは宇宙空間をどんどん遠ざかり、やがてたくさんの星々の輝きに混じってついにはどれがそうだったのかもわからなくなってしまった。
『そしてパイオニアから五年後には、もう少し多面的で、より自然的なメッセージを携えた宇宙探査機が造られました。それがボイジャー探査機、一号と二号です。こちらをお聴きください』
 飛び去って行く飛行機のエンジンのような、あるいはサイレンのような音が場内全体に響き渡る。三十秒間流れたそれが終わると、声は静かに言う。
『“天球の音楽”。ボイジャーたちに搭載されたゴールデンレコードに収録されたこの音楽は、ヨハネス・ケプラーの著作「宇宙の調和」に著された譜面から編曲されたものです。そして紀元前、ピタゴラスが発想した天体の運行と共に奏でられる音楽は、科学が存分に発達した現在、ついに我々の耳に実際に聴こえるようになりました。空気のない宇宙空間にも音波はあり、機械がそれを聴いたのです。太陽にも、木星にも、そして地球にも音はあります。だとすれば宇宙とは、どんなに賑やかで騒がしく、そして静謐であることでしょう』
 スクリーンはボイジャーの体を映し出す。大河の雄大な流れに乗るように、風に背を押されるように、確かに前へ前へと進んでいく宇宙探査機の眼前には、とっぷりと湛えられた暗黒と、燦然と輝く星々の景色が広がっている。
『ボイジャーたちの観測機器が稼働を停止するのは遅くとも二〇二五年から二〇三〇年までには、と言われています。しかし、地上での信号受信を終えてからも、そしてもしかしたら、地球から我々人類がすっかりいなくなってしまってからも、ボイジャーたちは宇宙空間をどこまでもどこまでも飛び続けていきます。たった一人で』
 一人ぼっちのボイジャーが向かう世界。無数の星の光が戯れるなかを、スクリーンは進んでいく。
『しかし、本当の一人ではありません。ボイジャーたちを造り、運用してきた技術者たち、その観測結果を目にする我々や皆さんのような人たち、ボイジャーという宇宙探査機が今も宇宙空間を飛び続けていることを思う人たちがいます。空を見上げるとき、そのどこかに必ずボイジャーたちがいます。宇宙空間には星々が奏でる賑やかな音楽があります。そして――』
 声はそこで一息つき、再び穏やかに言葉を発する。どこか喜色をにじませて。
『そして、もしかしたら、この広い宇宙空間のどこかにいる我々以外の生命体がボイジャーたちを見つける日が、いつか来るのかもしれません。我々がかつてスター・トレックの映画で観たように、新たな命を与えられる日が、いつか来るのかもしれません。我々は誰も皆、一人ぼっちですが、まったくの一人ではありません。我々の進む暗闇は先が見えないように思われますが、まったくの暗闇ではありません。来し方を振り返るとき、そこに自分自身ではない他の誰かの影が見えます。ボイジャーたちが携えるゴールデンレコードに収録されたモールス信号は、宇宙を飛び続けるボイジャーたち、そして、今とこれからを生きる我々に向けられた過去からのメッセージなのかもしれません。
 “Per aspera ad astra”――困難を乗り越えて、星の世界へ』
 誇らしく歌うように、声は紡ぐ。スクリーンの星たちが光を増し、ボイジャーはその白のなかへと飛び込んでいく。星の海を泳ぐ船は宇宙の大きな懐に迎えられ、どんどん小さくなっていき、やがて暗闇のなかの点の一つとなって、映像と音楽は静かにフェードアウトした。


 ◇


「ジョージ、ジョージ」
 隣の椅子に坐っていたピーターが、投影が終わっても起き上がらないジョージの膝を軽く叩く。覗き込んだ彼は、ジョージの表情を見て小さく苦笑いした。すいと伸ばされた親指の先が、その濡れる眦をなぞっていく。
「今日のもよかったね」
 こくりと頷くと、ピーターの手のひらがそのままジョージの頬を滑り、ふにりとやわらかくつまんだ。
 ジョージは、大変だと思うことや悲しかったりつらかったりすることがあると、いつもあの言葉を心に浮かべていた。苦しいことが過ぎ去れば、その先にきっと必ず素晴らしいことが待っている。身の丈に合わず楽観的に思われてしまうかもしれなくて誰にも言えなかったジョージの心の支えを、あの声が優しく、優しく、音にして、宙に浮かべてくれた。それだけでジョージは、全身が満ち足りてたまらない気持ちになる。
 その声が宇宙の始まりを聞かせてくれたときも、グリニッジ天文台について熱っぽく語ったときも、天の川の話をしたときも、ジョージはいつだってこんなふうに胸を焦がしてやまなかった。
 彼は、あの声に恋をしている。

「お、今日も来てるな、ウェイマスっ子たち」
 ビジターで賑やかなホールに出ると、プラネタリウムのスタッフの一人、アレックスが二人を見つけて迎えてくれた。その後ろにはこのプラネタリウムの館長であるウィナントがいて、いつもありがとう、と穏やかに微笑んでいる。
「車で来てるんだろう?」
「でも、お隣の州ですから。僕はドライブできて楽しいですよ」
 そうしてジョージの肩を軽く抱くピーターは、まだ車の運転ができないジョージに気を遣わせまいとしている。そのことがわかるのでジョージも小さく笑うだけに留める。
「常連が増えると、やってよかったなーって感じしますねえ」
「そうだな。ビジターにもスタッフにもずいぶん助けられるよ」
 感慨深くウィナントが首肯するのに、ジョージとピーターは顔を見合わせて笑い合う。

 駅で見つけたフライヤーから、ハンプシャー州の西の端にある小さなプラネタリウムで月に一度オリジナルプログラムを投影する企画が始まると知ったジョージは、もともと彼自身星が好きだったこともあって、幼馴染のピーターを誘ってこの場所を訪れた。そして彼は、内容もさることながら、何よりそのナレーションに魅せられた。低く穏やかで、思慮深さを感じる優しい声。その響きが紡ぐ無辺の宇宙の物語が、プラネタリウムを訪れるたび、ジョージの体内に注がれていく。流れる血の一滴一滴すら星の海と同じ成分であるみたいに。
「…………」
 だからジョージには、アレックスやウィナントに訊きたいことがあった。あのナレーションをしている人は誰なのか。このプラネタリウムのスタッフなのか、それとも外部の人間なのか。いつも勇気が出なくて訊けずじまいでいるけれど。
「そしたら、そろそろ行こっか。ジョージ」
「あ、うん……」
「また来月。あ、月末に流星群の観測会あるけど」
「うん、来るつもり」
「さすが」
 ジョージの返事にくしゃりと相好を崩したアレックスは、そしたらまた月末に、と言って二人の肩を強く叩いた。痛いよ、と気安くピーターが笑う。
 そうして二人はアレックスとウィナントに別れの挨拶をし、くるりと踵を返した。

「ウィナントさん」

 不意に聞こえてきた声にジョージは思わず立ち止まり、ぱっと振り返った。ピーターが訝るように彼の名を呼ぶ。
 ジョージの目に、スタッフジャケットを羽織った一人の男が、人波の隙間を軽やかに縫ってウィナントとアレックスに歩み寄って行ったのが見えた。
「ん? どうした」
「ボルトン氏から電話が入っているそうです」
 ――やっぱり! ジョージの心臓がばくばく鳴り出した。わかった、と答えたウィナントがその場を去り、それを目で見送ったアレックスが立ち止まり彼らを顧みているジョージとピーターに気づく。
「どした? 忘れ物?」
 アレックスの言葉と目線に、もう一人のスタッフが二人を見やる。

 シリウスのような光がジョージを貫いた。

 勢いよく、ぱしんと心臓のあたりに両手を当てた彼に、隣にいたピーター、そして対面にいたアレックスが目を丸くする。
 シリウスの瞳はゆるやかに眦をすぼめ、そのまろい口の端をやわらかく上げた。
「やあ、こんにちは」
 ――あの声が、Helloと言った。その事実に飛び上がって走り出しそうになる全身を、ジョージはどうにか押し込めて、こんにちは、と震える声で返す。
「あ、そうだ。こいつらですよ。ウェイマスから来てる」
「ああ、君たちがそうなのか。遠いところからいつもありがとう」
「いいえ。こちらこそ、いつも楽しいプログラムをありがとうございます」
 隣でピーターが答えるのを遠くに聴きながら、ジョージはただただシリウスの瞳を持つ彼を見つめていた。
「君たちもプラネタリウムに興味があるのか?」
「僕はそれなりですけど、ジョージが特に」
 ピーターに背中を押され、ジョージは一歩前に出る。どうしたの、と不思議そうな声を上げる彼に、ジョージは言葉にならない声を返した。
 頬を上気させているジョージをおかしそうに見たシリウスの瞳が、あの声で優しく問いかける。
「宇宙のことが好きなんだね」
 わけもわからずジョージは、こくこくと何度も頷いた。

「好きです……」