このお話の追補編です。


「あの子、絶対俺に気があるよね」
「はあ?」
 どうしてもどうしても言いたかったこの言葉。やっと口にできて俺はゆっくりした。隣ではカウンターを拭きながらアレックスが怪訝な顔をしている。
「何、誰?」
「誰って。さっきの子だよ。いつもバニララテを頼む、窓際の席に坐るブルネットの学生さん」
「ああ、あの子……」
 アレックスはふと宙に視線をさまよわせ、それからゆっくり俺のほうを見て、自意識過剰、ととげのある声で言ったあと、なんでそう思うの、と続けた。
「だって、いっつも目が合うもの」
 すぐ逸らされるけどね、と言うと、彼は興味なさそうに、ふうん、と相槌を打つ。なんだその態度は。
「でも、お前、迷惑なんだろ、そういうの」
「え?」
 その言葉で俺はアレックスの態度に合点がいった。そういえば前にそんな感じのことを彼に愚痴ったっけ。そのときはアレックスも同意してくれたし、大変だな、って言ってもらった覚えもあるけど。でも……
「あの子は別だ」
「ああ、何、タイプ?」
「正直かなり」
「ふはは」
 真顔で答える俺におかしそうに笑ったアレックスは、じゃあ何、付き合うの、なんてからかい交じりの声で言ってみせる。俺は眉間にしわを寄せて、まだ、と返した。まだって何。もうちょっと俺のことを見ていてほしい。厭な奴だな。だって、おかしいだろ。
「君、俺のこと見てるね、俺のこと好きなの? じゃあ付き合う?」
「気持ち悪い男だな」
「だろ? だから、あの子から言ってくれるのを待つしかない」
「いや、だからって、しかないことはないだろ。お前から話しかけてやればいいんだよ」
 アレックスの言うのに、なんて声かけるんだよ、と俺は返す。なんでもいいだろ、と他人事のように――実際、彼にとっては他人事だけれど――言う彼に、それでも確かに俺は一つ、ブルネットの学生さんに訊いてみたいことはあるんだ、とぼんやり考えた。
 彼はいつも一眼レフカメラを持っている。白くて丸い指先に無骨な黒のアンバランスさがすごくいい。さておき、恐らくカレッジの写真科に所属しているんだろうと思う。俺は以前、何の気なしに足を運んだクリエイティブコースの展示会で、ある写真の展示に呆然と見とれてしまったことがあった。学生たちや、恐らく講師であろう大人たち、町の人たちなど様々な人の笑顔を写した写真が壁一面に無造作に飾られていたその展示タイトルは『Helios』。大空に馬車を駆る太陽神の名だ。作品を手がけた学生の名は、ジョージ・ミルズ。
 ――あのさ、君、ジョージ・ミルズって知ってる? よければ、紹介してほしいんだけど。
 あまりにもばかげた問いかけだ。なんだって俺は気になっている相手に、全然知らない学生との間を取り持ってもらおうとしてるんだよ。そんなの最低だろ。
「ああ、そっか」
 アレックスがぽつりと言った。俺が彼を見るとやつはニヤニヤしながらこちらを半眼で見返してきた。
「お前、そういや、あの子にだけいっつも自分でメッセージ書いてたな」
「…………」
「あいさつだけじゃなくてさ、話しかければ? あの子も嬉しいと思うよ」
 わかってるよ、アレックス。俺は、あの子の白くて丸い指先が、俺がテイクアウェイカップに書いた下手くそな字のメッセージを優しく撫ぜるのを見た。あの子が本当に嬉しそうに目を細めるのを見たんだ。きっと俺が声をかけたらあの子は喜んでくれるはずだ。あんな仕草と表情を見せられたら、誰だってそう思うさ。
 だけど、緊張するんだよ。だって本当に彼のこといいなって思ってるし、俺をこっそり見つめてくる彼の瞳がかわいらしくて、もったいなくて離したくない。彼が日常のなかで俺のことを考えてるんだって思うたび、どきどきしてたまらなくなるんだよ。
 そうして、想像するんだ。ジョージ・ミルズがあの子の笑顔を写真に撮ったら、どんなふうになるんだろうって。すごくおかしなことだけどね。

 今日もあの子が来た。ほんの少し頬を赤らめて、いつものバニララテと、今日はホットサンドのご注文。軽食は味見するだけの俺は心のなかで、今日のも特別おいしいよ、ってコメントする。
 アレックスからバニララテを受け取って、トレーを持った彼はいつもの席――カウンターからよく見える窓際の二人掛けの席へ。お客さんがはけたら俺も彼が勉強してる姿をこっそり覗き見る。もちろん彼もときどきこちらを見るから、目が合ったら笑い返してあげるんだ。そうしたら彼は恥ずかしがってぱっと下を向いてしまう。その仕草がまたかわいらしくて、俺は叫びたくなる。
 いっしょけんめに課題に向かう彼のつむじを見ていたら、窓の向こうに見覚えのある二人の姿が見えた――あの子の友達だ。あの子を見ていた俺と窓越しに目が合う。一人が眦をすーっと細めたから俺は慌てて視線を逸らした。
 二人はカフェに入ってきて、あの子の坐っているテーブルに荷物を置くとカウンターに向かってきた。その肩の向こうでこちらを見る彼と目が合う。微笑むと、彼は目を丸くした。
「注文いいですか」
 すぐ近くから低い声。
「あ、はい。すみません、どうぞ」
 あの子の友達は口々に注文する。ぱたぱたとレジを打ち、モバイルをリーダーにかざしてもらって気づいたんだけど、そういやあの子はカードを使ってるんだな。ちょっとだけ触れる瞬間があるからラッキーだ。
 友達のうち一人――さっき目を細めたほうの一人はカウンターからはける前に俺の顔をじっと見た。う、これは完全にばれてる気がする。あの子に余計なことを言わなきゃいいけど……
 あの子は友達が来たことで気安い笑顔を浮かべている。あんなふうな表情を俺も間近で見てみたいと思うけど、俺ってそんなにだった? ってくらい意気地なしの自分が恨めしい。これまでの自分はきっとこんなじゃなかった、はずだ。あの子を好きになる前の自分がどんなふうだったのかあんまり思い出せないから、確証がないけど。
「見過ぎ」
 アレックスが笑い交じりに俺の腰を軽く叩く。俺が一つ咳払いをしてカウンターの後ろを向こうとしたとき――

「ジョージ」

 さっき聞いた低い声が、誰かの名を呼んだ。俺は振り返る。窓際の席では三人して楽しそうに会話をしながら、あの子の課題を覗き込んでいる。
「ジョージ?」
 あの子がそう口にする二人を見て、ぱちりと瞬く――ああ、もしかして。
 ねえ、君、もしかして、そうだったりする?


 ◇


 いや。いやいやいや。誰? 誰その人。どちらさん? うわ、フツーに肩抱いてる。うわうわうわ、何その笑顔。かわいい。初めて見た。うわうわうわうわ、声が甘い。顔が近い。なんかすごい親しげ感出してきやがる。でもかなり年上だよな? かと言って父親って感じでもないよな? 買って“あげる”って何? どういう関係?
「バニララテとブルーベリータルト、それからアメリカーノ」
 あの子の隣にいる男が顔を上げてそう言った。俺は一瞬何を言われたのかわからなくって、思わず眉根を寄せてしまう。男はカードを取り出して小首をかしげてみせた。あ、今、注文されたのか。
 慌てて三品を打ち込み、カードを預かる。支払いを終えてカードを返し、せっせと取り出したブルーベリータルトをトレーに載せて男に差し出すと、その隣であの子が先ほどとは打って変わってしょぼくれたように俯いていた。なんで? どうしたの? 彼に見せるみたいな笑顔を俺にも見せてほしい。俺は唇を結んだ。男はあの子の腰を抱いてカウンターの前からはけていった。
「レモンティーとチーズケーキ、テイクアウェイで」
 次にカウンターに並んだお客さんの注文を聞き流しながらカップを取り出す俺の耳は、あの二人の親しげな会話ばかりを聞いている。ちくしょう。なんだ、あの、大人の男め。
 アレックスが少し気まずそうにバニララテとアメリカーノを彼らに差し出している。何か言いたげにその口を開いた彼に俺はテイクアウェイカップを突き出した。彼がそれを受け取る向こうで、あの子が男の背中を白くて丸い手で押しやって、カウンターから遠く離れたカフェの隅の席に向かう。え、待って、いつもの席は? そっちに行かれたら、君の姿が見えづらいじゃないか!
「おい、顔」
「ごめん」
「直ってないけど」
 自覚はあるので眉間を親指で上にぐいぐい上げてみるけど、アレックスに、今度は口、と言われてしまった。そっちも自覚はある。
「知り合いとか友達とかだろ。気にするなよ」
 訳知り顔で彼は言うし、俺だってまさかあの男があの子の恋人だなんて思ってるわけじゃ……ちょっともしかしてとは思ったけど、だからって目の前で好きな子にあんなにべたべたされて平気でいられるはずがない。しかもかなりのハンサムに!
「だから言っただろ。話しかければって。そしたら今のタイミングは、あの子がお前に彼のことを紹介するチャンスになってたはずだよ」
「…………」
 正しいアレックスの物言いに俺は言葉を返せない。ひどい気分だ。あの子の視線を俺ばっかりが独り占めできるって優越感に浸ってた俺は真正面からぶん殴られた。
 ちらりとカフェの隅のテーブルに目を向けると、あの子の対面に坐った彼はわざわざソファに浅く坐り直して、腕を伸ばしてあの子の前髪を撫でている。あの子は慣れているみたいにそうされながら、何かぼそぼそと、だけど饒舌に口を動かしている。どんな話をしているんだろう。そんなふうな表情になってしまうほど、君を切なくさせるものは何? 目の前のその男は、君のやるせなさを庇うに足る男なのだろうか。……確かにずいぶんと、立派な大人に見えるけどさ……
「お前さ、案外めんどくさいよな」
「……知ってる」
「ならせめてあの子の前ではムッとすんのやめろよ。お前のその顔、ほんとに結構怖いんだよ」
 眉間を両手の親指でぐいぐい揉み、俺はため息をつく。
「……わかった。いい顔する」
「……ほんとにわかったのか?」
「あの子に、彼より素敵なやつだって思われないと」
 アレックスはぽかんと口を開け、それからくしゃりとその面をしわくちゃにして笑った。
「せいぜいがんばれよ」
「うん。……あ」
 再びカフェの隅に目を向けた俺と、こちらを見ていたあの子の目が合った。後ろを向いたアレックスがひらひら手を振るとあの子は小さく会釈する。そこへあの男も俺たちを顧み、あの子を見て何か言った。
 二人が立ち上がり、空になったトレーを持ってこちらに向かってくる。俺は慌ててカウンターを出て、男の持っているトレーを受け取った。
「片付けますよ」
「ありがとう、ごちそうさま」
「いいえ、また、どうぞ」
 一言一言噛みしめるように伝える。そうして俺はあの子にも、また来てね、と笑顔を作って言った。あの子はこくりと頷いて、ごちそうさまでした、と返してくれる。その声が俺は好きだった。
「お前って子供っぽいよな」
「何とでも」
 二人の出て行ったドアを横目に見ながら言うアレックスに俺はつんと返す。こうなったらもう、なりふり構っていられないんだから。


 ◇


 ジョージ。それはやっぱりあの子の名前だった。
 それはいい、それは素晴らしいんだけど、あれ以来ジョージはカフェを一度も訪れていない。かれこれもう一週間を過ぎる。アレックスが、体調崩したとか学校が忙しいとかだろ、と言っていたけど、学校が忙しいだけなら大変だとは思うけど少しは気も晴れる。久しぶりに会う彼はすごく素敵だろう。だけどもし体調を崩しているなら心配だ。やっぱり名前を聞いたらすぐに連絡先を交換すべきだったんだ。あの日の翌日に慌てて連絡先を書いたメモ紙はいつ彼がカフェに来てもいいようにエプロンのポッケに忍ばせているけど、渡す機会はすっかり失われてしまっている。
 内心頭を抱えて右往左往する俺のことなんかアレックスは知りもしないで、カウンターの後ろの棚からテイクアウェイカップを出している。昨日の作曲作業がすこぶるはかどったからって、鼻歌なんか歌ってのん気なものだ。でもそれは、ちょっと不安なときに聴きたいメロディーだった。
 結局今日もジョージはカフェに来なくて、俺の気分はどん底だった。この一週間も何人かのお客さんは俺に対してプライベートに話しかけて来たけれど、ジョージじゃないと俺には意味がない。俺が話したいのはジョージなんだ、他の誰でもない。
 すっかり彼にハマってる。俺は自嘲気味に嘆息した。だって、まともにしゃべったのがほんの一週間ちょい前なんだよ?

「あ、君」
 どこかから聞き覚えのある低い声が、騒がしいマーケットでも俺の耳に届いて、俺はきょろりと周囲を見た。そこへひょいと俺の目の前に身を乗り出して来たのは両脇に数冊ずつ分厚い本を抱えた、ジョージの友達の一人だった。
「やあ、カフェの店員さん。奇遇だね」
「ジョージの……」
「ん?」
 ぱちりと瞬いた彼はすぐに口許をゆるめ、うん、となぜか嬉しそうに笑う。
「ああ、ジョージの友達さ。僕がトミーでもう一人がギブソンだよ。覚えておくといいことあるよ」
 よいしょ、と両脇の本を抱え直しながら彼――トミーは言う。重そうだけど平気? と尋ねると、平気だよ、とやっぱりにこにこ笑っている。
「あのさ、ジョージ……最近どうしてる?」
「え? なんで?」
 またも瞬くトミー。俺が、ここ最近全然カフェに来てくれないから、と言うと、彼はことりと首をかしげた。
「カレッジでは元気にしてるよ?」
「……そっか」
 だったらいいんだ、と俺はいっしょけんめ笑った。体調を崩したわけじゃなくて本当に良かった。トミーは俺のことをじっと見ている。あの、いつもカウンターで俺に向けるような瞳。それから、それじゃあね、と彼は言ってもう一度本を抱え直した。
「またカフェに行くから、僕たちも身内ってことでジョージ割してくれよ」
「……なんだよ、それ。したことないけど」
 そう返す俺にトミーは口の端をニヤリと上げると、またね、と言って俺の横を過ぎた。抱えた本たちが重そうだけど、足取りはずいぶんしっかりしている。
 ほう、と俺は嘆息した。だったらジョージがカフェに来ないのは学校が忙しいからに違いない。……本当にそうだといいのに。俺は、俺が話しかけた翌日から彼が来なくなってしまったことを思う。もしかして、俺が何か間違えてしまったのかも。だって毎日のように来てくれていた彼が、カフェでせっせと課題をこなしていた彼が、学校が忙しいからって急に来なくなるなんてことが本当にあるのか、それってすごく疑わしい。仮に本当に忙しくても、ほんの少しでも顔を見せてくれさえすればいつでもあったかいバニララテと軽食をサービスしてあげるのに。彼のために何かしてあげたいのに、どうして俺はぼんやりしてるんだろう。そんなだから、あの男みたいに気さくな佇まいもできやしないでいるんだ。
 俺はもう一度ため息をついて、ようやく歩き出した。
 ジョージがカフェに久しぶりに現れたのは、その次の次の日だった。

 大失敗のちほんのちょびっと成功。そんな感じ。俺のエプロンのポッケのなかでくしゃくしゃになっていたメモ紙は無事に彼の手に渡った。本当はきれいな紙に書き直したかったのに、彼はそれがいいと言う。どうしてそれがいいのか俺にはさっぱりだったけど、ジョージの嬉しそうな笑顔が本当に素敵で、それだけでもう十分だった。
 フラットに帰った俺はすぐ彼にテキストした。開封済みのマークがついたのは二分後で、返事が来たのは三十分後。二十八分間、俺の胃はきりきりしっぱなしだった。返事をしにくい内容じゃなかったか、おかしなフレーズを使っていないか、何度も何度も読み返す。
『今日はありがとう。君の気持ちを考えないで、厭な思いをさせて本当にごめん。俺は、君ともっと仲良くなりたいと思ってるんだ。もしよかったら、君の都合のいい日に会えないかな。店員と客としてじゃなくて、もっとプライベートで』
 ……焦り過ぎ、はしゃぎ過ぎ、って頭のなかのアレックスが心底呆れたように言う。だけど、心がもっともっと早くと急く。待ち焦がれる二十八分間が、俺とジョージの体のなかに流れる時間の違いをまざまざと思い知らせてくる。わかってる、わかってるんだ。だって相手は数ヶ月カフェに通い続けて、ただ働いている俺の姿を見ているだけで満足していたような人だ。遠慮しないで話しかけてくれればって何度思ったか知れない。なあ、ジョージは俺に話しかけたい、俺と話してみたいとは思わなかったのか? 散々俺にアピールしてきたどこかの誰かたちみたいにさ。
「ジョージ……頼むよ……」
 クッションに突っ伏してぼやいた俺の耳に、テキスト受信を告げるサウンドが聞こえた。がばりと顔を上げてモバイルを操作すると、バナーに表示された差出人には彼の名前。
『こちらこそいつもありがとう。本当に全然気にしてないし、すごく嬉しかったよ! 君は本当に優しい人なんだね。君さえよければ僕も会いたいです。君の時間のあるときで大丈夫です』
 ああ、なんだこれ。ちゃんと伝わってるのか? 判断がすごく難しい。俺がジョージに委ねたこと全部、ジョージは俺の都合でいいって返してくる。きっと俺に気を遣ってるんだ。思わずぎゅうっと唇を噛み締めてしまう。たまらない気持ちと、やり切れない気持ちとで頭のなかがごちゃごちゃだ。
『じゃあ、次の土曜日にデートしよう』
 ぱたぱたと打って、それから慌てて消す。デートなんて言ったらこれ以上気を遣われてしまいそうだ。
『じゃあ、次の土曜日はどう? カフェで話せるだけでも俺は嬉しいけど、君がどこか行きたいところあったら何でも言って』
 送信。開封済み。文字を打っては消しを繰り返しているみたいな、現れては消えるテキスト入力中のアイコン。
 どんな顔をしてテキストを打っているんだろう。今この瞬間、彼は確かに俺だけのことを考えているんだ。もしかして俺は彼を困らせているのかな。俺は今、彼が俺との間に引いていた見えない線の内側に行って勝手におしゃべりをしているだけなのかも。本当は彼はただ俺のことを見ているだけでよくて、例えば――そう、例えば、ファンみたいな感じ? 俺って彼にとってはそんな存在だったのかも。そうしたら俺ってすごく恥ずかしいやつだな。一人で勝手に舞い上がって、浮ついている。
「…………」
 そんなのは厭だな。
 俺はカウンター越しじゃなくて、君の隣で話がしたい。
 ポコン。テキスト受信。
『土曜日、午後からなら大丈夫。カフェって君のところ? 僕の行きたいところは今は思いつかないけど、君の行きたいところに行ってみたいな』
 俺は思わず笑ってしまった。それじゃあ困るのに、なんとなくそう返ってくるのもわかってたような気がする。
『俺のとこはアレックスがいるからだめ。街中のボルトンティーショップって行ったことある? そこに行こうよ、雰囲気いいんだってさ。映画館も近いから、もし君が観たいのあったら、どうかな』
『僕は行ったことないけど、友達がいいところだって言ってた。そこがいいな。映画、今何やってるか、調べておくね』
 その返信に俺はほっとした。また、君のいいように、と言われたらどうしようかと思っていたから。少なくとも、ジョージは俺と映画を観ることに積極的だ。そして何を観たいと言われたとしても、きっと俺はその映画を気に入るのかもしれない。
『よかった。君が気に入るといいな。映画、よろしくね。一時にうちのカフェの前でいいかな?』
『うん、大丈夫。遅れないで行くね』
『気にしないでよ、のんびり来て。じゃあ、またね』
『うん、またね』
『おやすみ。いい夢を』
 最後に笑顔の絵文字をつけたら、
『おやすみ、君もゆっくり休んでね』
 眠るスマイリーの絵文字が付いてきた。かわいいなあ。俺の頬は緩んでしまう。
「ふふふ……」
 クッションに伏してぐりぐり頭を揺らす俺を誰が咎められるだろう――翌日の厭そうな顔をしたアレックスぐらいかな。


 ◇


「はしゃぎ過ぎ」
 アレックスが眉をひそめてそう言った。
「どこが」
「いやもう、全体が」
 彼がふわふわと円を描くように手を動かす。俺も同じように眉をひそめて、何言ってるの、と返すとアレックスは口の端まで歪めて、もういいや、と投げやりな口調になった。そう、と答える俺は、イートイン用の陶器のカップを洗いながら昨日の出来事を思い返す。
 キスをしたんだ。俺の部屋で。ジョージと。ごく間近にある彼の白い頬がさっと赤く色づいて、青い瞳が滲んで揺れた。つんととがった唇は飲んでいたミルクティーに少し濡れていて、ぱちりと瞬く睫毛の細かな動きまで見えて、俺は間違いなく、今彼はきっとキスをしたいと思ってる、とわかった。だってそれは俺も同じだったから。ロマンスのかけらもなかった社会派アクション映画はロッテントマト風に評価をつけるなら七点。だけどジョージのその横顔を見た瞬間に十点になった。
「キスしようか」
 尋ねると彼は、うん、と頷いた。
 震える手をジョージの肩にそっと乗せると、彼も緊張しているのかびくびくしている。ゆっくり顔を近づけたらジョージはそうっと瞼を閉じた。ああ。触れた唇はミルクティーの味がして、俺は、今この地球上で一番ハイになってる人間って多分俺だ、と思った。本当に軽く触れるだけだった唇を離すと、いかにも恐る恐るって感じで瞼を上げるジョージがたまらなくかわいくて俺はニヤついてしまったし、思わず、もっとする? なんて訊いてしまった。言ってしまってから引かれるかなってちょっと心臓が冷えたけれど、ジョージはこくんと頷いてくれた。その表情はやっぱりかわいくて、俺はもう一度触れるだけのキスをした。
「…………」
 ああ、口許がゆるむのを抑えられない。
 初めて彼の部屋に遊びに行って、あの日見た『Helios』の写真たちが丁寧に収められたアルバムを見たとき、俺は本当にどきどきして天にも昇る心地だったんだ。君の写真すごく素敵だ、とジョージに伝えたら彼は本当に嬉しそうに笑ってくれた。ねえ、その人って昨日、俺がキスした相手なんだよ。好きな子と憧れの相手がおんなじ人物だったなんて、こんな奇跡ある?
「客、全然来ないなあ」
 ぽつりとアレックスがぼやくのに、俺は意識を昼間ののどかなカフェに引き戻す。
「ポートランドのほうでイベントやってるみたいだよ」
「イベント? 知らなかった」
 店内も閑散としているから、俺はカウンターを出て普段ジョージが坐る窓際の二人掛けの席に腰を下ろした。顔を上げると、カウンターに頬杖をつくアレックスが見える。ジョージの目に映る景色を初めて見た気がして、俺は僅かに昂揚した。この、どこにでもあるようなカフェの風景のなかに、いつもは俺もいるんだ。
 ジョージはときどき、俺のことも写真に撮ってくれる。撮るたびに見せてもらうけれど、これって本当に俺? って思うくらい、俺の知らない表情をしているやつがそこにいて不思議な気分だ。ジョージの目を通して見る世界はどんなふうなんだろう。あの、遠慮がちで、だけどぬくもりのこもった、優しい目。
 そのうちアレックスもカウンターから出てきて、俺の対面に坐った。モバイルをいじりだした彼は、音楽アプリでお気に入りのアーティストの曲をかける。
「あれ、新譜?」
「そー、アウトロが最高」
 むにむにと笑うアレックス。いいね、と答える俺に彼は片眉を上げて、だろ? と得意げに言った。
「ジョージとはどう?」
「わかるだろ。はしゃいでるよ」
「まあ、そうみたいだな。変なことしてねーだろうな」
「変なことってなんだよ」
 肩をすくめるアレックスは、あの子が厭がること、とか言ってみせる。何だよそれ。
「してない……はず」
「お前がそういうふうになるの知らなかったから」
 モバイルを見つめながらすいと目を細めたアレックスが言う。指先が止まることはない。
「俺としてはすげー楽しいけど、まあ、浮かれ過ぎるなよ。嫌われるぞ」
「そういうこと言わないでよ……ねえ、つかぬことを訊きますけど」
 俺がぐいとテーブルに身を乗り出すと、アレックスはモバイルから目線を上げた。
「セックスってどのくらいのタイミングがいいかな?」
「ふはっ!」
 吹き出したアレックスに額を押しやられて俺はむっとする。こっちは真剣なんだぞ。
「お前、何、マジで、中等部じゃないんだからさ」
「そうだけど、ジョージに引かれたくないんだよ! 彼、奥手で恥ずかしがり屋なんだ。そこがかわいいんだけど、俺としてはもう少し先に進みたい」
「十分にイメージ通りだよ。わかるけどさ、あとはもう雰囲気しかないだろ。俺の知り合いは彼女にやだって言われたのに強引に進めようとして蹴られてふられたぜ」
「強引はだめだろ」
「強引はだめだよ」
 俺たちは同時に頷いて、黙り込んだ。アレックスがモバイルの画面をタップする音がやけに大きく聞こえて俺は口をとがらせる。彼のモバイルからは相変わらずBGMのポストロックが切なく響いている。あ、このアウトロほんとにいいな。
「昨日キスしたんだけどさ」
「いや、言わなくていいよ」
「軽くしただけなのに真っ赤になっちゃうのがほんとかわいくて」
「人の話聞けよ」
「なんかもう……ずっと会いたい」
 アレックスの深いため息。
「すごいな、お前」
 穏やかに眉を下げた彼が感慨深そうにそう言ったとき、ドアベルの軽やかな音が鳴った。俺たちが同時に振り返ると、ジョージが目を丸くして立っている。俺は椅子をガタガタ鳴らして立ち上がった。
「ピーター、アレックス、こんにちは。何してるの?」
「やあ、いや、全然お客さん来なくてさ、喋ってた。あはは。いらっしゃいませ」
 真っ赤な顔でしどろもどろ言う俺の耳に、またアレックスのため息が聞こえてきた。ジョージはぱちりと瞬いて、それから、そうなんだ、とほんわり笑った。

 ところで、新しい展示会が開催されるなんて全然聞かされてなくて俺は内心びっくりしたんだけど、どうやらジョージは俺に――相変わらず――気を遣っていたようだった。彼との距離がまだ少しあるみたいで寂しいけど、でも彼は俺が隣に行くことを怖がってはいないみたい。
 展示会準備も大変だと思うし、しばらくはデートも遠慮することにした。準備に専念してほしいし、俺も展示がすごく楽しみだから。ただ、プライベートで会えない間、俺が男同士のセックスのやり方を調べていたことについては勘弁してほしい。


 ◇


 決戦の日だ。あの男と久しぶりに会える。俺は今やジョージの恋人だし、あの男が彼の父親の親友だということも知っているけど、やっぱりどうしても落ち着かない。ジョージの隣であんなふうに触れ合ったり、会話したり、俺が見たこともないような笑顔を見ることができたりする彼のことを羨んでばかりだ。
 ――俺のことを認めさせてやる、なんて、ばかみたいなこと考えてる。そもそも相手は俺のことなんて覚えてもないだろうに。
 久しぶりにカフェ以外で会うジョージの佇まいは、今彼がいる場所が彼の望んで存在する場所であるからか、自信に満ちて普段よりも大きく見えた。午後の光を受けて赤らんだ白い頬は健康的で、俺を見る青い瞳はきらきらと輝いている。
 ああ、ジョージ・ミルズだ。俺のヘーリオス。彼は、本当にそうなんだ。
「こっ、こんにちは」
 それなのに僅かにどもる彼の声、俺はなんだかおかしくて笑ってしまった。
「こんにちは。どうしたの? 何かパニクってる?」
 ジョージは髪の毛をいじりながら頷く。俺は首をかしげた。そんなふうになる要素なんてどこにもない気がするのに。むしろパニクるのは俺のほうだろう、俺の勝手な都合だけどね。
 その勝手な都合――彼の父親の親友のことを尋ねたらジョージは何度か目をぱちぱちさせたあと、もうすぐ着くけど中に入っていていいと言われた、と口にした。俺が、待っていよう、と返すと、彼は、僕はトミーと交代しなくちゃいけない、と言う。“おじさん”のことを連れて来て、と言われて、俺は頷いた。カレッジの昇降口に向かうどこか覚束ない後ろ姿を見つめながら俺はようやく、失敗したかも、と思い至る。さっきのジョージの笑顔はなんだか少し、ぎこちなかった。
 嫉妬って、最悪だ。俺はなんて見苦しいんだろう。相手を信用してないってことだ。俺のみっともないプライドで、俺はきっとジョージに厭な思いをさせている。
「謝んないと……」
 ぽろりとその言葉が口からこぼれたとき、俺の視界にいつか見た男の姿が映った。途端に緊張で腹の底がひやりとする。心臓が急に鳴り始めた。前を向いて歩いていた彼は、校碑の前に立つ俺を見とめると目を丸くして歩みをゆるめる。もしかして、俺のこと覚えてるのか?
「やあ、君はカフェの店員さんだろう?」
 お、
「覚えてたんですか……」
 呆然としている俺に歩み寄ってきた彼は不思議そうに首をかしげて頷く。
「当然だろう。君も展示を見に来たのか?」
「はい」
「そうか。よければ三階でやっている写真の展示も見に行くといい。きっと今回のも……」
「ジョージに」
 俺は大きな声で口を挟んだ。
「ジョージに言われて、待ってたんです、あなたのこと」
 彼はきょとんとその薄青の瞳を丸くして、それからゆるりと莞爾した。心底喜ばしい、とでも言いたげなその笑み。
「ありがとう、それなら待たせてしまったな。一つ尋ねてもいいだろうか。君はもしかしてあの子と仲良くなったのか?」
「……付き合ってます」
 覚えずぼそぼそ声になりながらもなんとかそう言うと、彼はいよいよ笑みを深めた。穏やかな唇がきれいな弧を描く。
「それなら、よかった」
 低く、まろい響きの声で彼は言う。その音はたっぷりとした慈愛に満ちていて、俺は唇を引き結んだ。
「あの子をよろしく頼むよ。君はとてもいい人だから、心配はしてないけれど」
「……なんで、そんなふうに言えるんですか」
 拗ねたような口調になってしまって俺は居たたまれない。突然失礼なことを口走ってしまった俺にも彼はやはり首をことりと軽くかしげて、さながら何を言っているのかわからないとでも言いたげな表情をしている。
 だって、俺も彼もお互いのことなんて何も知らないのに、どうして彼は当たり前みたいに俺のことをそんなふうに言い表すんだ。ついさっきの自己嫌悪を思い返して俺の心臓はばくばく騒ぎ出す。俺は一人で勝手に嫉妬して、一人で勝手に舞い上がってしまう。好きな子一人満足に喜ばせることもできないのに、いい人だなんて、そんなふうに言ってもらえるような人間じゃないのに。
「あの子が好きになる相手が悪いやつのわけがない」
 けれど、彼ははっきりそう言った。ぽかんとする俺に、当然だろう? と彼は口の端を上げて笑う。
「それとも、何だ? もしかして君は本当は悪いやつなのか?」
「……そんなつもりは、ないけど……」
「だろうな。それに、本当に悪いやつはここで自分が悪いやつですとは言わないし」
 おかしげに言う彼を俺は恐る恐る見返した。相変わらず楽しそうにしている、その顔を。
「安心してあの子の隣にいるといい。君たちは君たちのやりたいようにやりなさい」
 そうして彼はカレッジのほうへ歩き出し、数歩進んでから俺を振り返った。
「行かないのか?」
「あ、い、行きます」
 俺は慌てて彼の後ろについていく。足取りは穏やかだけど、力強いその歩み。自分より僅かに低い位置にあるその後頭部を見ながら俺は、俺のなかにあったつまらないプライドや醜い嫉妬が、何か別の感情に変わっていくのを感じていた。


 ◇


 エントランスの鍵を開けるジョージの手はぎこちない。ガチャガチャ音を立ててようやっと開いたドア、その丸まった背を軽く押して中へ入ると、彼は戸惑ったように俺を上目遣いで見上げてきた。
 かわいい。
 にこりと笑ってやると彼は顔を真っ赤にして目を逸らしてしまう。こうなるとさっきまでの俺の緊張はどこかへ行ってしまって、どうにか彼を安心させて宥めてやらなきゃという気持ちになる。確かにキスはするつもりでいるけど、その先を性急に進める気はないんだ。……念のため諸々俺のメッセンジャーバッグに入ってはいるけど、それはほら、何があってもいいように、マナーだから。
 階段を二階まで並んで昇る合間も無言だった俺たちが口を開いたのは、ジョージがやっぱり覚束なく開けてくれたドアの向こう、彼の部屋の中に滑り込んでからだった。
「今日はお疲れさ、」
「あのね、ピーター!」
 笑顔で彼を労おうとした俺の台詞に、ジョージのやわらかくも切羽詰まったような声が被さる。びっくりした俺に彼は、あ、ごめん、と焦った表情を浮かべた。
「な、何?」
「んっ? いや、今日はお疲れ様って。君は何て?」
「あ……」
 途端に耳まで真っ赤になるジョージ。彼はきょろきょろと目線をさ迷わせ、それから俺の横をすり抜けてリビングに向かった。ぱちん、暗かった室内は明るくなる。
「え? ちょっと、ジョージ」
「うん、そうだね、お疲れ様。今日は本当にありがとう」
 言いながら早足の彼はソファに鞄を放り投げて、いつものようにバスルームに入っていった。俺もそのあとを追いかけると、相変わらず頬を染めたジョージがさっと洗った手をタオルで拭っている。
「ジョージ? 何て言おうとしたの?」
「え? わ、忘れちゃった」
「そんなわけないだろ」
 また俺の横をすり抜けるジョージ。いや、いやいやいや、ちょっと待ってってば。慌てて俺も手を洗ってリビングに戻る。彼はソファの横になぜか立ったまま俯いていて、ルームライトに照らされたその耳の端の赤みが妙に魅力的だった。
「ねえ……」
「今日は来てくれてありがとうって言おうとしたんだよ」
 顔を上げた彼はくしゃりと笑んでみせるけれど、最近の俺は彼の気遣いの笑みを見分けることができるようになっていたのでその手は通じない。ぐいとその体に近寄ると彼はびくりと肩を震わせて、またほんの少し俯いた。
「ねえ、さっき俺が言ったこと、覚えてるよね?」
「え、っと……どれのことだろ……」
 うろたえる彼の手を取るとその指先は震えていて、俺は――さっき考えた通りに――彼を宥めるために笑みを浮かべてみせた。
「君にキスするつもりだって。今、いい?」
 ジョージの赤い唇がぱくんと開いて、それからもごもごと動いた。
「ぼ、僕……こういうの、全然慣れてないから……その、君みたいにちゃんとしていられないんだ」
 俺は思わず口を結んだ。ジョージが言うようなちゃんとしている俺のこと、俺には全然心当たりがなかったから。けれど、彼は続けた。
「それなのに、もっともっとって思っちゃうし、わがままなんだよ、僕……」
「もっ……」
 いよいよ絶句する俺を不安そうに見上げる彼の目。や、やめてほしい、そんな顔! 耐えられない!
「それでもいいなら……」
「い、いいに決まってるよ!」
 勢い掴んだ彼の両肩は熱いくらいで、だけどきっと俺の両手も同じくらい熱いんだろう。ジョージの青い瞳は潤んで、室内の灯りに照らされてちらちらきらめく。目許に影を落とす長い睫毛、白い肌と赤い頬と鼻先のコントラストが本当にきれいで、俺はどきどきして、震えそうになる足を必死にこらえた。どんなに緊張してたって、言うべきことは言わないと。
「ジョージ、俺だって、全然ちゃんとしてないよ。あんまり俺を買い被らないでほしいんだ。それに俺だって君とおんなじで、もっともっとって、いつも思うよ」
 もっともっと、君の隣に行けたらって思ってる俺のこと、どうかジョージに知ってほしくていっそう体を寄せる。わ、と小さく声をあげた彼に、俺は懸命に口の端を上げてみせる。
「あんまりそんなふうに見えないや……」
 ほう、と気の抜けたような彼の声。俺は苦笑するしかない。多分俺って顔に出にくいほうなんだ、しょうがないからそれは受け入れていこうと思う。
「うん、でも、知ってて。俺もいつもパニクってるよ。だから、少しずつ、一緒に慣れていこう」
 俺が言うと、こくりとブルネットが揺れた。
 嬉しくてそのつむじに唇を寄せる俺の少し下で、ふふ、と小さな笑い声がもれる。俺もおかしくて笑ってしまった。
 顔を上げた彼は俺と目が合うと、そうっと睫毛をふるわせて瞼を伏せた。俺はそれを受けて、ゆっくりと彼に唇を寄せる。
 そんなつもりはなかったのに湿ったリップ音が部屋じゅうに響いて、俺の心は一気に浮き立った。


 ◇


「ねえ」
「…………」
「アレックス」
「…………」
「なんだよ、なんで無視するの」
「…………」
 アレックスは食器を洗う手を休めない。それどころか蛇口の栓を更に捻って水量を増やしている。店長に怒られるぞ。怒る店長の恐ろしさは知っているはずなのに、彼は唇をつんととがらせ、眉間に深い皺を寄せて、まるで食器を親の仇のようにがしゃがしゃと洗い続ける。
「割れたら君ひとりで怒られてよね」
「…………」
「ていうか、聞いてよ。昨日さ、ジョージと」
「聞きません!」
 大声が出て、俺は思わず店内に目を遣った。十人足らずのお客さんたちは数人が不思議そうにカウンターの俺たちのほうを見ていただけで、特に気にしているふうではない。
「おい、急に大声出すなよ」
「うるさい、お前の話なんか絶対聞かないからな」
 はあ? 今度は俺が大声を出す番だった。やけにつっけんどんな態度だとは思っていたけど、そんなふうに言われる筋合いはないぞ。
 俺の言いたいことがわかったのかアレックスはようやく洗い物の手を止めて、泡の付いた人差し指をびっと俺に向けた。
「人を指差すなよ」
「お前、はしゃぎ過ぎなんだよ。もう十分わかったから、言わないでくれ」
 あ。
「わかる?」
「うるせえっつうの」
 途端に表情が崩れてしまうのが自分でもわかる。アレックスが呆れたように深いため息をついて、楽しそうでいいね、と呟くから、俺はそれに、うん、と返した。
「楽しいし、嬉しいよ」
「はあ、そうですか」
 目を細めたアレックスは口の端をニヤリと上げて、よかったな、と言う。俺が頷き返すと、おかしそうに笑った彼は肩を俺の肩にぶつけてきた。俺もおかしくて笑ってしまう。
 ああ、舞い上がってる。あふれてこぼれ落ちそうだ。
 洗い物を再開したアレックスは鼻歌を歌い始めた。俺はその曲をBGMにして、ショーケースに入った軽食の在庫をチェックする。
 今日のジョージはイートインかな、テイクアウェイかな。彼が好きなものは数も揃ってるから、何を注文されても大丈夫。
「注文いいですか」
「あ、はい」
 いつの間に来ていたのか、カウンター前のお客さんに言われて立ち上がった俺の耳に、軽やかに鳴るベルの音が聞こえた。
 入り口を見れば、外の日差しをたっぷり浴びてきたのか淡く輝くブルネット。
 青い瞳と目が合って、俺の口許は自然と笑っていた。

 ああ、あふれてこぼれ落ちそうだ。