このお話の続きです。


 にこにこと俺の対面で頬を赤らめて笑っているのは、今月の頭に知り合った、隣州ドーセット州はウェイマスからわざわざ片道一時間以上をかけてハンプシャー州の西端にあるこのプラネタリウムを訪れる二人組のうち一人――彼は名をジョージ・ミルズというそうだ。以前からアレックスやウィナントさんが話をしていたから存在を知ってはいたが、きちんと会話をしたのはそのときが初めてだった。いや、きちんとした会話になっていたかというのは正直怪しい。ジョージはどうやら人見知りをするようで、もう一人の若者、ピーター・ドーソンのほうがよくしゃべっていた。ジョージはというと俺をちらちらと見ては目が合うとあっちを向いてしまうような具合で、俺は配偶者によく、君の見た目はとっつきにくい、などと言われていたから、歳の離れた若者相手にさえそうなのかと少しばかりがっかりしたのを思い出す。
 だが、そのときに比べたらどうだ。今の彼はずいぶんと機嫌がよさそうにも見える。昨日まで降っていた雨が今朝には上がって雲も晴れ、流星観測会がつつがなく行われるからだろう。彼は宇宙についてとても興味があるようだったし、なかなかに知識もあった。あまり視線の合わなかった会話のなかでさえ、宇宙の話では波長が合った。
「冬の星が好きなんです。動物園みたいで賑やかでしょう」
 彼はそう言った。そう言われてみれば、とそのときは俺もおかしくて笑ってしまった。大犬、子犬、牡牛に兎、山猫に鳩、一角獣に麒麟。
 ピーターが、ユニコーンは動物園にいないだろ、と茶化すように言い、ジョージはというと、よく考えたら犬もいなくない? などと言い始める。彼らのやり取りが面白くて、傍で聞いていた俺やアレックスはいよいよ笑い出した。ジョージはやはり頬を赤らめて口許をにまにまと笑ませていた。
 俺の友人の飼っている犬の名前がライラプスとマイラなのだと言うと、ジョージは感心したように目を丸くして、そうなんですね、と返してきた。ご友人さんのお名前はオリオンさんですか? それともイーカリオスさん? とも。オリオンだよ、と答えてやると、冗談だとわかっているのかジョージは、ふふ、と笑んで、素敵ですね、と嬉しそうに言った。その表情はとてもかわいらしく見えて、俺は心がほっとあたたまるのに気づいた。

 友人のオリオン――もといファリアの、そのまた友人でありパートナーでもある弁護士のコリンズからモバイルに連絡が来ているのに気づいたのは、観測会の直前だった。二時間近く間を空けてしまって申し訳なかったが、後でテキストする、と返すと、なるべく早めに、とすぐに答えがある。俺は嘆息した。離婚調停中の身には、彼からの連絡は精神的に堪える。それさえなければコリンズもまた気のいい友人なのだが。
「あの、どうかしたんですか」
 俺の近くにいたジョージが、心配そうな表情で声をかけてきた。夜の帳のなかでも今のため息を聞かれていたらしい。
「疲れてないですか」
「いいや、大丈夫。ありがとう」
 そう返すと彼はほっと笑って、無理しないでくださいね、とやわらかな声で言った。年下に気遣われて俺は苦笑するよりない。ジョージはそのうちピーターに呼ばれて、二人してアレックスのいるほうへ向かっていった。
 観測会は盛況だった。今年のペルセウス座は大奮発してくれたようだ。真夜中一時過ぎの小さな草原のあちらこちらから、見えた、あすこにも、こっちもだよ、と歓声が上がる。先ほどまでは眠たげだった子供たちもすっかりはしゃいで楽しそうだ。
 そのなかに混じった声にふと見ると、アレックスの肩の向こうでウェイマスの若者たちも楽しげに夜空を見上げている。ジョージのまろい輪郭の向こうに、流星がまた一筋流れた。
 あんなふうにまっすぐに、あんなふうに潔く、脇目も振らずに走って燃えて消えていけたらと思うときがある。星の一生の一秒にも満たないような、ちっぽけな人の生の合間にほんの一瞬交わるような他者のことなど知りもしないで、誰にも影響されず、誰にも影響しないで。

 だが、ジョージが、その目に星を伴って俺のほうを見た。

 俺はどきりとした。
 彼はすぐに闇のなかでもわかるほどぱあっと明るい笑顔になって、隣のアレックスとピーターに声をかけると俺に向かって駆けてくる。
「すごいですね、流星群」
 ほこほこと頬が上気しているのがよくわかる。俺の口許も思わずゆるんだ。
「ああ、そうだな」
「僕、ペルセウスの話ってちょっと苦手だなって思ってたんです。だってメドゥーサが……」
 すごく怖くて悲しいじゃないですか、と続ける彼に俺は首をかしげる。悲しい? その目を見たものは石になるという怪物の末路のことだろうか。
「でも、目を見ただけで動けなくなっちゃうの、わかるなって……だって、宝石みたいにきれいな目だったんでしょう?」
 そうして俺をちらりと見上げてくる若い瞳。それこそ星か宝石のように見えて、俺は心臓がくすぐられるような心地になる。なんとなく居たたまれなくなって己の頬をぐいと撫でた俺の手の動きを追っていたジョージの目が、丸く大きく見開かれた。
「あ……」
「ジョージ!」
 アレックスの軽快な声が目の前の彼を呼ぶ。ジョージは聞こえなかったのかなぜか答えず、しばらくぽかんと俺を見ていたが、俺が、呼ばれているぞ、と言うとはっとなって慌てて二人のほうへ戻っていった。その背を目線で追いかけている俺の横にウィナントさんが立った。
「そろそろプラネタリウムに戻ろう」
「ああ、もうそんな時間ですか」
 彼はこくりと頷くと長い足で参加者たちのほうへ歩いていく。俺もそのあとに続いた。俺たちに気づいたアレックスもまた子供たちや大人たちを集めて、さあ、もう帰る時間だ、と高らかに言う。ウェイマスの若者たちもアレックスの後ろに控えてまるでスタッフのような佇まいをしているのを見て、俺のなかに一つの考えが浮かんだ。


 ◇


「あの子たちをプラネタリウムに雇い入れることはできませんか」
 俺が言うと、PCに向かっていた顔を上げたウィナントさんは目を丸くして、それから首をかしげた。
「ああ、ピーターとジョージか?」
 首肯する俺に館長は長い指で顎をさすりながら、彼らの都合もあるからなあ、と呟く。だが来月以降、プラネタリウムで働くスタッフに一人欠員が出ることはすでにわかっていることだった。向かいで話を聞いていたアレックスが、いいんじゃないですか、と笑う。彼は特に二人と親しいから当然だろう。館長は、ううん、と唸った。
「確かに、君も忙しいだろうしなあ」
「あ、いや、俺の都合は別に……」
「企画のアシスタントもいたほうがいいだろう?」
 その言葉に俺は視線を僅かに俯け、まあ、と返事をする。脳裏に浮かんだのはこのプラネタリウムのロゴマークが胸許にあしらわれたスタッフジャケットを羽織るジョージの姿だった。そうして彼の隣にいる俺。二人して次の企画を何にしようかと話し合っている時間のこと。プロキシマ・ケンタウリへの星間旅行の話をしようか、それとも古代中国の宇宙観の話をしようか。天動説と地動説の話もいい。星の最期の話もいい。南半球の夜空の話もいい。俺の問い掛けに小気味よく答えを返すジョージの声が頭に浮かぶ。そうだ、星と神話の話もいい。オリオンとその猟犬、あるいはペルセウスの英雄譚。
「次に彼らに会ったときに持ち掛けてみようか」
 気安く彼が笑うので、俺は頷いた。

 翌月の企画投影の終了後、俺とアレックスからウェイマスの若者たちにプラネタリウムで働く気はないかと話を切り出すと、ピーターはとても申し訳なさそうに首を振った。彼は再来月からポーツマスにある造船会社に勤めることになっているのだという。造船となるとプラネタリウム機材のメンテナンスに流用できそうな技術もあるのではないか、とよこしまなことを考える俺の視野で、ジョージは不安げに俯いた。
 彼は言った。どうかここで働かせてほしい。けれどそのためには自分には不足しているものが多すぎる。知識も経験もそうだけれど、何より運転ライセンスが。
「今、ピーターが引っ越しちゃうまで、運転を見てもらってるんです。実は今日も僕の運転でここまで来たんですよ」
 へへ、と得意げに笑って言う彼のいたいけな表情がかわいらしくて俺は場違いに微笑んでしまう。ピーターも彼の隣で、ジョージは上達が早いですよ、とまるで我が事のように自慢してみせた。アレックスもまた、そりゃいいな、観測会の運転も頼みたいよ、と囃すのでジョージの頬はますます鮮やかに染まる。
 来月に筆記テストを受けるのだと彼は言う。もしそれで合格して、もしまだプラネタリウムがスタッフを募集していたら、そのときはどうか自分を雇ってほしい、彼は瞳を潤ませてそうのたまった。
「勉強がんばります。きっとお役に立ちますから」
「君はとても物知りで俺もときどき舌を巻くよ。一緒に学んでいこう。プラネタリウムの新しいスタッフの席は君のものだ、君のことを待っている」
 俺が言うと彼ははっとしたように俯いて、それからそうっと顔を上げて、本当に嬉しそうに口許をほころばせた。それを見た俺の心臓は跳ね上がる。彼はなんと健気で愛らしい仕草をするのだ。その赤らんだ頬、ばら星雲の美しさに似ている。ならば君の星の双眸はさながら――

 ジョージ、そしてピーターと連絡先を交換した――なんで僕も? と純粋に訝るピーターに、折角知り合ったのだし、何かあったときのためにと口々にまくし立てたのは俺とアレックスだ――それからの俺は、まるで初めて気になるロマンスの相手ができた子供のようにジョージのことばかりを考えていた。こんな企画なら彼は喜ぶだろうか、この表現は彼ならばどんな言葉を用いるだろうか、俺がこう言ったなら彼はなんと返すだろうか、笑ってくれるだろうか。企画投影の内容を提出したら最初の修正段階でウィナントさんに、もっとたくさんの人にわかりやすく伝わりやすい内容で、と言われてしまって俺は反省した。ジョージには伝わるだろうと考えて作ってしまっていたから。平易性に努めてデータを修正しながら、俺は過去に配偶者に言われたことを思い出す。君はときどき人を置いてけぼりにする。君自身の知識と知恵と冷静さに従って言う言葉でも、他の人にはそうでないときがある。
 すべての人に自分が思っている通りに伝えることは不可能だ、だが、そうあれるよう最大限に努力することは決して無駄なことではない――このプラネタリウムの出資者であるボルトン氏が、オリジナルプログラムの投影を始めたいとデータを提出した我々にそう笑って言ってくれた言葉を、俺はときどき忘れてしまう。

 さらにその翌月半ば、プラネタリウムに一本の電話が入った。俺が取ったその受話器の向こうでは喜色をにじませたジョージのやわらかい声が俺の名を呼ぶ。筆記テスト合格しました、と言う彼に、俺は柄にもなく大きな声で、よかったな、と言ってしまった。慌てて音量を絞り、お疲れ様、と続けると、僅かに間が空いたのち、ありがとうございます、とあたたかな響きが返ってきて俺は全身が温もるのを感じた。
 ウィナントさんに電話を代わってから席に着くとアレックスが、ジョージですか、と尋ねてくる。筆記テスト合格の旨を伝えると彼もまたぱっと表情をほころばせて、あいつのジャケット出してこなきゃ、といそいそと席を立った。今日明日中に来るわけでもないのにせっかちなことだが、俺もまた早速デスクで再来月以降のオリジナルプログラムの企画データを制作するための資料を広げ始めたのだから人のことは言えない。
 アレックスがロッカールームから引っ張り出してきた、これしかなかったと言うお古のスタッフジャケットは、記憶にあるジョージの上背よりもだいぶ大きいサイズに見えた。俺はジャケットに着られているジョージの姿を妄想してしまって、誰も見ていないのに一人で咳き込んだ。
 ジョージの本格的な雇用に関しては今月末の企画投影に彼が足を運んでくれる際に改めてということで話が決着した。そしてその日がピーターと共にプラネタリウムを訪れる最後の機会になると言う。しかし、ピーターはこうも言ったそうだ。ポーツマスからのほうが距離も少し近いのだから、いつでも遊びに来る。君が手掛ける初めての企画投影を一番最初に見るのは俺なんだから、と。

 ――そうしてジョージは、ハンプシャー州の西端にあるこの小さなプラネタリウムで働き始めた。勤務しているスタッフのなかで一番若く、俺やアレックスを含めた十名のスタッフ全員とはすでに顔見知りだったこともあって彼はすぐ現場に馴染んだ。知識もさることながら、機材のメンテナンスに関しても彼は不器用ながらも覚えが早かった。聞くと、ピーターの実家であるドーソン家が所有するプレジャーボートの整備などを手伝うこともあったらしい。
 ジョージが来るまで一番若いスタッフだったアレックスは彼を本当にかわいがったし、よく指導した。ウィナントさんもまた二人は歳が近いのだからとしばらく一緒に行動させるつもりのようだ。受付業務や研究資料の整理整頓、機材の調整、日々の勉強から、アレックスが担当することになっていた近隣のプリスクールやプライマリースクールでのイベントの打ち合わせにもジョージがついていってサポートすることになり、二人とも慣れないながら気持ちよく励んでいるようだった。おかげで俺の担当であるオリジナルプログラム企画のアシスタントにつけるという約定は先延ばしになったばかりか、アレックスが勤務時間いっぱい連れ回すので、俺はほとんどジョージと業務以外の会話をすることができないでいる。ぶかぶかのジャケットを羽織り袖を三重にもまくった彼がまるで鳥の雛のようにアレックスの後ろをついて回るのを見ていたり、無理はするなよ、と声をかけるくらいしかないのだ。ウィナントさんには、悪いな、と悪びれずに言われたが、俺は俺でこのみっともない欲求不満を外に出すことは憚られるので、構いません、と答えるよりない。
 若い二人ががんばっている合間にも、俺のモバイルにはオリオンの恋人からの経過報告が届く。どうやらそろそろ話はまとまるようだ。先方から払われる慰謝料も想定していたより多い額が提示されるらしい。離婚調停に入る前に俺は、全部どうでもいい、と言ったのだが、じゃあ俺が勝手にがんばります、と彼は返した。少しでもあなたの有利になって、あなたがこれからの生活に気兼ねせずいられるように。だってあなたはファリアの大切な友人だから。

 ああ、あの子と早く星の話がしたい。昼中の涼しいプラネタリウムで暗黒の宇宙に共に泳いでいきたい。二人きりでずっと言葉を交わしていたい。星々が軋み、音楽を奏でるような静謐さで、互いの声だけを聞きながら。

 勉強教えてくれませんか、とアレックスに言われ、ちょうど作業の隙間だったこともあって俺は紅茶を片手に彼らの囲む丸いテーブルに並んで腰掛けた。俺の隣ではジョージがくすぐったそうに笑う。作業中はまくっていた袖がすっかり巻き戻って手の甲まで隠れてしまい、丸くて白い指先だけが見えている。
 テーブルの上にはどうやら重力波についての資料が広げられているようだ。昨年ノーベル賞を受賞した博士らの研究内容を中心に片っ端からプリントアウトしたらしい。タブレットで見ればいいのに、と言うと、目が滑る、と返ってきた。
「俺もジョージもちゃんと大学出てるわけじゃないんで」
 アレックスはそう言うが、彼がこのプラネタリウムに勤め始めてからの精励は素晴らしく、特に子供たちからは質問にわかりやすく回答をくれる若いスタッフとして人気が高い。お兄ちゃん、といえば彼のニックネームになるほどだ。
 重力波ならYouTubeにわかりやすい動画がある、とアドバイスしてタブレットを取った俺の手をジョージがじっと見たので俺は首をかしげた。
「ジョージ?」
「へ? あ、すみません……」
 恥じらうように頬をさっと赤くして目線を逸らす彼の仕草はやはり愛らしくて、俺は思わず相好を崩す。体を寄せてタブレットを見せてやると、ジョージはきゅっと肩をすくめた。
 反対側からアレックスも覗いてきて、動画を観ながら二人は、これ自分たちでも作ろう、と盛り上がっている。そんな彼らがかわいらしくて目を細めていると、ウィナントさんが現れて、君たちは愉快だなあ、などと言って笑った。


 ◇


 ビールジョッキがぶつかるけたたましい音がパブのそこらじゅうから響く。一息でジョッキ半分のギネスを開けたファリアは機嫌よく笑って、お疲れ、と俺の肩を叩いて労った。
「お疲れはコリンズだろう。大して金も払わない客のために」
「それは俺がそう言ったからですよ。いい経験になりましたし、ファリアの友達割です」
「お前の友達でよかった」
 そう言うと彼は、そうだろ? と得意げに口の端を上げてみせる。
 俺の離婚調停がようやく成立した。コリンズからの連絡が憂鬱でなくなる日々がやっと来るのだと思うと、彼にも申し訳なく、ありがたく思える。
「ところで、指輪は外さないんですか?」
 コリンズがきょとんと目を丸くして尋ねる。ファリアもまた俺の手を見下ろして、ほんとだ、と言った。
「ああ、金に困ったらいつでも売れるから」
「や、やめてくださいよ、そんな理由」
「それに、厄介ごとに巻き込まれないで済む」
 ギネスを呷った俺に、ああ、と二人は得心して頷いた。彼らは俺が人間関係を疎ましく感じているのを知っている、プラネタリウムのスタッフたちを除けばほとんど唯一の気の置けない友人と言ってよかった。
 煩わしいすべてから解放されたら、やっとジョージと宇宙のことだけを考えていられると思うと俺の心は躍る。思わず店内に流れるBGMに合わせて鼻歌を歌ってしまった俺にファリアは首をかしげて、
「機嫌がいいな」
と口にした。アルコールのせいもあって、俺はおもむろに頷いてみせる。
「新しいスタッフが入ったんだ」
「へえ」
「以前からよく友人と一緒にプラネタリウムに来てくれていたんだ。ウェイマスからだぞ? 一時間以上もかけてわざわざ。俺のオリジナルプログラムをとても気に入ってくれたそうなんだ。星のことにも詳しいし、ちょうどスタッフも一人減るからとあの子を雇用してくれるよう館長に言ったら彼も容れてくれた。一番若手で、大きめのジャケットに着られているのが初々しくて見ていて楽しいし、彼とする会話はとても充実している。きっと俺たちは波長が合っているんだ。だが運転ライセンス取りたてでウェイマスから毎日通っているのが少し心配だな。こっちにフラットを借りたらいいのに。今はアレックスのサポートについているが、じきに俺の業務のアシスタントになる予定なんだ。あの子と仕事をする前に調停に片をつけられて本当によかったよ」
「なあ、おい」
「なんだ?」
「要領を得ない」
「あ?」
 ファリアの言に眉を寄せると彼もまた渋面になり、コリンズはというとニヤニヤと笑みを浮かべてピーナッツをつまんでいる。ファリアは首をひねる俺を見てはあと一つ嘆息し、それからまたちびりとギネスを飲んだ。
「まあ、先輩風吹かせるといいさ」
「厭だよ。俺はあの子と星の話がしたいし頼られたいんだ。偉そうにして何になる。それに、うちのスタッフに厚顔な人間はいない」
「へえ、頼られたいんだ。なんだかそんなあなたも面白いな」
 独特の笑い声をあげてコリンズは言う。しまった、俺は今そんなことを口走ったのか? 思わず口許に手を当てると、半眼になったファリアが、
「指輪外せば?」
と言った。
「なんで」
「いや、なんでって……じゃあせめて別の適当な指に付け替えろよ」
「いいよ、めんどうくさいし」
「二秒で終わるだろ」
 うるさいな、と返す俺にファリアはまた深く嘆息し、俺の勘違いだった、とぼやいてピーナッツを口に運んだ。なんなんだ、こいつは。呆れる俺の前ではコリンズが、やはりあの独特の笑い声で笑っている。

 翌朝、俺の調停について気にしてくれていたウィナントさんにも無事の成立を報告すると、彼は心底ほっとしたように微笑んでくれた。そして、これからはゆっくりするといいさ、とも。
「とはいえ、君の業務は大変だからな。そろそろジョージをアシスタントにつけようか。再来月の分からでも……」
 彼が言いかけたとき、電話のコール音がスタッフルームに響いた。すぐ傍に電話があった俺が取ると、受話器の向こうからジョージの俺を呼ぶ声。そろそろ出勤時間のはずなのにまだプラネタリウムに現れていない彼の。
「ジョージ?」
『あ、すみません……』
 スタッフルームにいた全員が俺に顔を向けた。ジョージのどこか消沈した声を聞きながら、俺は彼彼女らに向かって手を払ってみせる。
「どうした? 大丈夫か?」
『あ、はい。僕は大丈夫なんですけど、あの、事故があって』
「事故!?」
 大声にまた全員が俺を勢いよく見る。アレックスなどはガタガタと椅子から立ち上がってこちらに駆け寄ってきた。
「大丈夫じゃないだろう、それは!」
『あの、僕じゃなくて、僕の前の車なんです。それで、運転手さんが怪我をして気を失っているので、あの、救急車は呼んだんですけど、ついてなくちゃいけないので、少し遅れます』
「それはわかったが……」
 俺は傍らで不安げに見上げてくるウィナントさんに首肯を返し、ぐいぐいと耳を近づけてくるアレックスを押しのけた。
「迎えに行く。今どこにいる?」
『え? え? いえ、大丈夫です。あの、僕、ちゃんと行きます。ほんの少し遅れるだけです。ごめんなさい。本当にちゃんと行きます。彼を救急車に乗せるまで』
「そうじゃない、君を疑っているんじゃない。心配しているんだ。今はどこに?」
『……あ……ええと……A337の……』
 ジョージが口にした場所はプラネタリウムから十五分も離れていない場所だった。必ずその場から動かないようにと念押しして、すぐに行くから、と電話を切ると、アレックスが身を乗り出してくる。
「代行?」
「そうなるな」
「俺も行きます」
「ウィナントさん、彼とジョージを迎えに行っても?」
「ああ、構わない。本当に大丈夫なのか?」
「事故に遭ったのはジョージの前を走っていた車だそうです。彼は怪我人の介抱をしていると」
 ウィナントさんは沈痛な面持ちで、そうか、と答え、早く行け、と小首をかしげて俺たちを促した。

 現場に着いた俺たちが見たものは、電信柱に当たってクラッシュした車の事故現場を調べている警官と、ちょうど救急隊員の手で救急車に乗せられていく担架、そしてそれをどこかぽかんとした様子で見つめているジョージの後ろ姿だった。
「ジョージ!」
 俺が声をかけるとジョージはぱっと振り返る。隣でアレックスが悲鳴をあげた。ジョージの着ているスタッフジャケットに赤黒い汚れが広がっているのだ。胸許のロゴマークまですっかり染みで見えなくなってしまっている。
「ジョージ、どうしたんだ、これ!」
「え、あー、っと……」
 彼は青白い頬を掻いて、へらりと笑う。その表情に俺はひどく腹が立ち、思わず喉から鋭い声が出た。
「答えなさい。どうしたんだ」
「あっ……、……えっと、あの人の血を止めようと思って……」
「君自身は本当に怪我をしていない?」
 俺の問いにジョージは首肯し、腕を動かしたり、腰を捻らせたりした。自分は何事もなく元気だ、と言いたいのだろう。そうしてまた笑ってみせる。いそいそとジャケットを脱いで丸め、小脇に抱えた彼を俺は思わず抱き寄せた。
「わあ!? あ、あの……!」
「君が無事でよかった」
「あっ、ご心配をおかけして」
「いいんだ、そういうことは言わなくて」
 そっと後頭部を撫ぜると彼は驚いたように体を強張らせる。アレックスが後ろから遠慮がちに俺の肩を叩いた。
「そ、そろそろ行きましょ」
「ああ、そうだな」
 体を離し顔を覗き込むとジョージは耳まで真っ赤にして目を潤ませている。薄い膜を張り、朝日を浴びてきらきらと輝く彼の青い瞳を見ていたら、俺は心に自然と、彼が好きだという冬の夜空を思い浮かべていた。きんと冷え、冴えた暗闇で子犬に寄り添う、覚束なく光るあの二つの星。
 俺が運転するプラネタリウムのバンの助手席にジョージを乗せ、ジョージの車はアレックスの運転で俺たちに続く。丸めたスタッフジャケットを膝に抱えて居心地悪そうに収まっているその頭を俺は幾度も撫ぜてやった。
「あの、なんですか……?」
「ん?」
「えっと……」
 ジョージは顔を真っ赤にして俯きながら、頼りなげな声で、すみません、とつぶやく。
「君は本当に大丈夫なのか?」
 俺が尋ねると彼はそっとこちらに視線を寄越し、それから再び斜め下に落とした。
「……怪我した人、イギリスの人じゃないみたいで……多分フランス語かなあ……何か言ってたんだけど、僕全然わからなくて……」
 今にも泣き出しそうな弱り切った声で、彼は続ける。
「ひどい怪我だったんです……血がいっぱい出てて……何度も声をかけたけど、返事があったのかなかったのかも……だから、僕、この人死んじゃうのかなって思って……そしたら……この人が最後に言いたかった言葉は誰にも伝わらないんだって思ったら……悲しくて」
 ついに、はたり、はたりとジョージの両目から涙がこぼれ落ちる。それは俺が手を伸ばしてその目許に触れても止まることはなく、彼は鼻をすすり、肩をひくりと震わせた。
「あの人っ、ちゃんと、助かりますか」
「助かる」
 頬を撫ぜてやると、彼は大きく鼻をすすって咳き込んだ。
「でも僕、あの人のために何にもできませんでした……」
「君はその人のために救急車を呼んで、傍についていてあげた。声をかけてあげた。誰でもそれ以上のことはできるものじゃない。君は十分君にできることをした」
 ひくりと震える彼の肩をさすってやると、彼はぐいと白い手の甲で鼻を拭った。
「ありがと……ございます……」
 俺は再び彼の髪を撫ぜ、そっと梳いて耳の後ろにかけてやる。彼はちらりとこちらに視線を寄越して、ほうと一つ息を吐いた。
「わっ」
 やおら、ジョージのモバイルが鳴った。恐れや悲しみでなく驚きで肩を震わせた彼は、手のなかのモバイルと俺の顔とを交互に見る。俺は首をかしげて、出るといい、と促した。
『ジョージ!! 大丈夫か!?』
 運転席にいる俺にも聞こえるほどの大声はピーターのものだ。恐らくアレックスが連絡したのだろう。ジョージは焦りながら、大丈夫、何ともない、と繰り返す。それからモバイルの向こうのピーターはジョージにだけ聞こえる声量になって、彼らは彼らだけの会話をした。悪いとは思いつつその様子を横目で見ながら、俺は俺の心臓がじりじりと焼けるような感覚を覚える。先ほどまでの不自然な赤ではない、人間らしい赤みが彼の頬に戻っていたから。

 プラネタリウムに戻ると、スタッフたちが総出で俺たちを出迎えた。皆がジョージを心配して次々に彼をハグし、彼の汚れたスタッフジャケットに悲鳴をあげ、洗濯で落ちるのかどうか一緒に頭を悩ませ、そうこうする間にウィナントさんがボルトン氏に連絡を取っており、彼の馴染みのクリーニング店を利用できることになった。ボルトン氏は、まさかクリーニングの話で連絡してくるとはね、とからかい交じりに言ったそうだ。
 ジョージのスタッフジャケットが戻ってくるまで、俺は自分のジャケットを彼に貸してやることにした。体格もほとんど同じくらいだから構わないだろうと思っていたのだが、彼が必死に首を振り、やはり涙目になって何度も、いいです、大丈夫です、と遠慮するものだから、俺は無理やりジャケットを着せる羽目になってしまった。すっかり縮こまってごくごく小さな声で、ありがとうございます、と言う彼は少しばかりかわいそうに思われたが、しかしそれ以上にかわいらしく見えた。


 ◇


 ――ロッカールームの入り口で俺は呆然と立ち尽くした。ジョージが、その白く丸い指先で撫ぜた俺のジャケットの襟許をそうっと顔に寄せて、すう、と息を吸うのを見てしまったから。穏やかに瞼を伏せるその横顔、ほんのり色づいた頬と耳、愛らしい丸い鼻先は隠されている――俺のジャケット、におうか? などと冗談を言えるような状況ではない。俺にだってその行為がどういった感情を示すのかくらいわかる。
 顔を上げたジョージが俺を見た。びくりと体を震わせた彼はその青い双眸を大きく見開き、それから一歩後ろに下がる。俺も動けなかったし、なんと声をかけていいのかわからなかった。
 沈黙が破れたのは、ジョージが慌ててスタッフジャケットを脱いだからだ。彼はそれをどうしていいかわからないふうだったが、やがてロッカーから出したハンガーにかけると、あの、と恐る恐るといったように口を開いた。
「館長に……ボルトンさんのクリーニング屋さんに預けられないか訊きます。本当にすみません……」
「……なんで謝る?」
「だって……」
 彼の持つ二つの星が潤む。彼は結局俺の問いには答えずに、もう一度、ごめんなさい、と謝った。
「あなたに迷惑は絶対かけませんから、ここで働かせてください」
 俺はいよいよ眉をしかめる。そうするとジョージはとうとう俯いてしまって、お願いします、と声を震わせた。
「何が俺の迷惑になるんだ」
「…………か、勝手にあなたのこと、好きになりました……」
「……君は誰かに許可をもらって人を好きになることがあったのか?」
 ジョージは首を振ったが、顔は上げない。どんな言葉をかければ彼がそのいとけない顔を俺に見せてくれるのかがわからなくて、俺は戸惑う。いくつもいくつも頭のなかで言葉を思い浮かべ、俺は自分が思うもっともこの場で無難であろうものを選んだ。
「ああ、その……萎縮しないでくれ。俺も君と働きたいと思っている。君に好かれて喜んでもいる。その……」
 そうは見えないだろうが、と添えるとジョージはようやく顔を上げてくれたが、すぐにくしゃりと表情をゆがめ、気を遣わないでください、と口にした。恐らく俺は思わずむっとしたのだろう、彼はまた顔を伏せてしまう。
「すまない。どうしてそう思うのか訊きたいだけだ」
「……だって……あなたには、パートナーがいるし……僕は……自分がつまらないこと、知ってるから……」
「あり得ない」
 途端、俺は大声を発していた。ぱっとジョージが顔を上げる。その目は丸く見開かれて、ロッカールームの電気できらりと光った。俺はようやく足を動かして彼に歩み寄り、勢いぐいとその肩を掴む。
「君は俺が知っているなかでもっとも素晴らしい人間の一人だ。賢明で、快活で、向上心があって、いたいけで愛らしい。俺も君のことが好きだ。君と俺の波長は驚くほど合っている。そうだろう?」
「あ……? え、えっと……」
 ジョージの頬が染まる。その色に感動した以前の己の昂揚を俺は再び思い起こした。涙が滲んで揺らめく目許。冬の夜空の二つ星。
「プロキオンとゴメイサのようだ。俺の涙ぐむ星。君に俺の言いたいことは伝わっているか? 俺は君から心が離せない」
「へっ? あ、あの、でも」
 何をためらっているのか、ジョージはきょろきょろと視線をさ迷わせ、それからチラリと彼の肩を掴む俺の左手を見た。
 指輪、と彼が小さくつぶやいたことで、俺はようやく得心した。そうして同時に理解する、あの日ファリアとコリンズが言いたかったのであろうことも。
 俺はさっと薬指から指輪を引き抜きそれをパンツのポケットに押し込んで、どうだ、と両腕を広げてみせる。ジョージはぽかんと口を開けた。
「離婚したんだ。先日調停が成立した。指輪はめんどうくさいのと、金になるからと、厄介ごとを避けられるからとで付けっ放しにしていただけだ。ええと、わかるか。君が俺について心配することは何もない。これでどうだ?」
 ジョージは小首をかしげ、びっくりして、とぽそぽそ言う。
「よく、意味が……」
「本当に? 困ったな……。俺はどきどきしているんだ。君がずいぶんと大胆なことをしたから、とても緊張している」
 宇宙のにおいの話はわかるだろう、と俺が問うと、ジョージは戸惑いがちにこくんと首肯する。
 宇宙飛行士たちが体験し、研究者たちが研究を重ねて明らかになった、真空であるはずの宇宙空間にただよう“におい”。それは様々な言葉と比喩で表現された。焼きたてのステーキや甘酸っぱいラズベリー、火薬や酒や、洗剤の香り。俺はある宇宙飛行士の言った“甘い金属の香り”という言葉がとても印象に残っていた。そして、いつかそれを嗅いでみたいとも。今となっては叶わない願望ではあるけれど。
 君の気持ちは本当によくわかる。嗅いでみたくなるのだ。好きなもののにおいなら。
 俺はジョージの持つハンガーを受け取るとジャケットを外し、彼の肩を抱き込むようにそれを羽織らせた。そうしてさらに歩み寄れば、俺たちの間にはあまりにも狭い隙間しか残らない。俺の眼前にはジョージの真っ赤になった顔があり、涙ぐんだ瞳があり、そうして少し汗ばんだにおいのする体がある。
「教えてくれ、俺のにおいはどんなだった? 君の気に入ればいいのだけど」
 首をかしげれば、彼はいよいよ唇をわななかせ、何度かぱくぱくと開いたり閉じたりしていたが、そのうち蚊の鳴くような声で、
「僕の好きなにおいです」
と言った。
 ああ、それを聞けて本当によかった。そうしたら次はもう一つ訊きたいことがあるんだ。今、キスをしてもいいタイミングなのかどうか。波長は合うのではない。合わせていくのだ。俺はその努力を怠るべきではない。少なくとも――目の前のこの子に対しては。


 ◇


 全宇宙のどこかにもしかしたら存在するかもしれない地球外生命体と我々地球人とは、間違いなく互いの言語が通じることはないだろう。その交流を目的として旅立ったボイジャーたちの手土産も、彼彼女ら――と呼んでいいのかすら定かでないが――にはきっとその意図のかけらも伝わらない。
 ときおり夢想する。縹渺たる宇宙の果ての、いくつかある命を育む星たちのうちの一つで、俺たちの想像を絶する、ゲル状か、金属か、はたまた気体か、何かよくわからない形をした、一つ確実に言えることはそれが“生命体である”というところの存在が、ゴールデンレコードでフリスビーをして遊んでいるのだ。そのときには地球はもう、銀河ヒッチハイクガイドの冒頭のようにすっかり消え失せて跡形もなくなっているだろう。太陽の膨張か、どこかの星のバーストが直撃したからか、原因は判然としないが、ともかく地球人類の願いは永遠に叶わない。そもそもそのころには誰も彼も魂さえ影も形もないだろうから、気に病むこともないが。
 黄金の円盤はその星の太陽の光に反射して鮮やかにきらめき、その内部には地球の記憶が丁寧に収められて解読されるときを待ち焦がれてやまないのに、その体は聴こえもしない音楽を湛えたまま、ただ楽しげにあちらからこちらへと放り投げられては飛ばされて、受け止められてはまた放り投げられてを繰り返している。生命体たちは彼彼女らの笑い声で笑い、その星の空はその星の空の色をして美しい。いつか飽きられたゴールデンレコードはどこかその辺に置いてけぼりになって忘れ去られ、その星の法則に則って体を星に還す。そうしてただ、音楽が宙をさ迷う。
 ぽつぽつと俺がそんなことを語ると、腕のなかのジョージはおかしそうに笑って、それってすごく素敵だね、と言った。そして青い瞳をきらめかせて、きっとそのときゴールデンレコードが流したいBGMは『メランコリー・ブルース』だね、とも。