このお話このお話の続きです。


 ジョージの口から、職場の先輩とお付き合いをする、と報告をもらったピーターから発せられたのは純粋な、
「はあ?」
であった。
 プラネタリウムのスタッフであるアレックスからジョージが――厳密にはジョージではないらしいが――事故に遭ったと連絡を受け、仕事を中断して彼に電話し、なんともない、とその口から聞いたはいいがその後再開した業務はさっぱり手につかず、いよいよ同僚にたしなめられ、故郷の父が病気で倒れた、と口から出まかせを言って上司に早退を願い出、普段の品行方正さが幸いしたため無事に許可を得て、父さんごめんと内心で健康体の父に謝りながら一路ポーツマスよりハンプシャー州の西端に車を走らせたのが午前十時過ぎ。十一時過ぎにはプラネタリウムに到着したピーターを出迎えたのは、驚きに目を丸くしたジョージだった。
 この数時間で一体何があったというのか、ピーターは思わずその秀麗な眉間に深いしわを刻む。目の前のジョージは己の来訪を喜ばしく思ってか笑顔になり頬を染めているが、こちらとしてはそれどころではないのだ。
 ――大体にしてジョージ、君はまだ十七歳だ。君と一番歳が近いアレックスだって、俺の三つ上と言っていたから二十二歳やそこらのはず。その他のスタッフたちはいいところ三十代前半で、それだってどうかと思うのに、え? 彼は今年四十を過ぎるだって?

 現在ピーターがジョージと共にいるのは、その“ジョージとお付き合いすることになった”スタッフの住まうフラットである。今朝方の事故を受けて彼はジョージを一晩自宅に泊めることを提案し、ジョージも戸惑いながら頷いた。そうしてピーターを見、君も泊まろうよ、などと言ってきた。
「嘘ついて来ちゃったんでしょ? ドーソンさん、風邪だって少しも引かないのに」
 はい、その通りです。ピーターは再び内心で父に謝り、翌日いっぱいまで休暇をもらったこともあって彼の言に甘えることにした。お付き合いすることになった当日に年少の相手を自宅に泊めようとする男の動向を監視するためももちろんある。なんて不埒で差し出がましい人間なのだ。ジョージに何かしたら兄との喧嘩で鍛えた自分の拳が唸りを上げることになる。
 彼のフラットはリビングルームとダイニングキッチン、バスルームの他は寝室が二部屋と書斎が一部屋あったが、一方の寝室はベッドの上が大量の書籍であふれていた。聞けば書斎と自身の寝室の書棚に収まりきらなくなった本を新しい書棚を求めるまで置いておくつもりだったそうだが、結局機会がなくてそのままになっているという。
「少し待ってくれ、寝る場所を作る」
 そう言ってばたばた準備しだす彼にジョージは駆け足でついていった。仕方がないのでピーターも後に続く。
「俺はソファで寝るから、君たちが寝室を使いなさい。こっちは少し埃っぽいな……ちゃんと掃除もするから」
「あ、僕たち、一緒のベッドでいいです」
 ジョージが言うのに、彼は瞠目してこちらを見た。ね、と無邪気に己を見てくるジョージに頷きながら、ピーターは少しだけ気の毒そうに年上に目を向ける。
「僕たちいつも泊まるときはベッドに一緒に寝てたので」
「……そうか……わかった、そうするといい」
「すみません、ありがとうございます」
 形ばかり礼を言ってピーターもベッドの上の本を運び出すのを手伝う。ほとんどが天文学や宇宙物理学の本で、いくつか小説や詩集などもある。ジョージも同じように本を抱え上げては床に下ろしを繰り返していたがそのうち、あっと叫んで一冊を手に取り、満面の笑みでピーターに見せてきた。
「ねえねえ、この図鑑! 君、覚えてる?」
「ん? あ、これ! もちろんだよ」
 それは児童向けの分厚い星の図鑑だった――幼いジョージが毎日のように両腕に抱え、子供の知識で熱心に読んでいた一冊と同じもの。
「好きな本を読むといい」
 掃除機をかけながら、騒音の向こうで彼が言う。この図鑑持ってたんです、とジョージが少しだけ大きな声をあげると彼は、そうか、とゆるりと口の端を上げて嬉しそうに微笑んだ。


 ◇


 ジョージが星に興味を持ち始めたのは彼がプライマリースクールに通って二年目の初冬だった。ドーソンさん、お星様って動いてるんだよ、ドーソンさん、お星様にも僕らみたいに名前があるんだよ、と次から次へと覚えたての知識を得意げに披露する彼にピーターの父も表情がほころび、それなら夜に船を出して海の上で星を見よう、ということになった。船長であるピーターの父、ピーターとジョージ、そして勉強の息抜きにとピーターの兄が各々厚着をしてドーソン家のプレジャーボート、ムーンストーン号に乗り込み、湾の外へ出ると一時間以上をかけて陸地やポートランドの灯台の灯りが遥か遠くにぼやけるほどの距離まで来た。
 快晴の日を注意深く選んだため、満天に星が輝いている。ピーターとジョージはぽかんと口を開けて空を見上げた。黒々とした海一面に今にも星が落ちてきそうで、子供たちは頬を真っ赤にし、白い息も忘れて星をぐるりと眺め回すように船の上を船首から船尾へ、また船首へと行ったり来たりを繰り返した。
 ジョージは小さな腕に抱えていた、つい先日買ってもらったという分厚い星の図鑑をデッキでいそいそ広げ、ドーソン家の人々と一緒に星を探した。もちろん彼が一番最初に見つけたのは、南の空わずかに低い位置に燦然と輝くおおいぬ座α星、シリウスである。冴えた夜空に気高く青白く存在するその星にジョージはうっとり見とれた。
 その隣でピーターはオリオン座の三つ星を見つけた。そうすればすぐにその肩にあるベテルギウスにも目が行く。
「ピーター、知ってるか? 昔あの赤い星の近くで戦争があったんだぜ」
 横から兄が言うのでピーターは眉をひそめた。
「嘘だよ。スター・ウォーズじゃないんだから」
「あのなあ、嘘じゃないよ、戦艦があすこで爆発したんだ」
「嘘」
 ニヤニヤ笑いの表情でピーターは己がからかわれているのだということはすぐにわかった。最近の兄はなぜか、よりによってジョージのいるところで弟をからかったりいじったりするので、ピーターにはそれが癪に触る。
「じゃあ教えてよ。それっていつ?」
「二〇一五年から二〇一九年の間」
「最近じゃん! ニュースにもなってないよ」
「国民が宇宙戦争に興味を持たないんだから当たり前だろ。ゴシップさえ報道してりゃいいんだから」
「こら、やめないか……ジョージ、危ないぞ」
 父の制止の声が聞こえたことでピーターは隣にいたジョージの姿が見えないことに気づく。慌てて振り返ると彼は開いた図鑑を両手に、よろよろと覚束ない足取りでステップを降りながら船尾に向かっていた。
「ジョージ! 危ないから!」
 追いかけると彼は、うん平気、と明るく頷いて船尾に降り立ち、とことこ舵の傍に寄る。
「ピーター、知ってる? 冬は動物さんがいっぱいいるんだよ」
「そうなの?」
 ジョージがライトで照らす図鑑を覗き込めば確かに、やまねこ座やきりん座といった名前が見えて、本当だね、とピーターは微笑んでみせる。しかしその冬の星図が書かれたページを改めて見ると、彼には疑問がいくつも湧いてきた。
「……ろ座って何?」
 父を顧みると彼は首をかしげて、なんだろうなあ、と笑う。
「この、エリダヌスっていうのは?」
「確か、神話の川の名前だったかな」
「川の星座!?」
 わけわかんない、と天を仰ぐピーターにジョージはくすくすとおかしそうに笑った。苦笑を返ししながら再びその星図を覗き込んだピーターは、ようやく知っている名称を見つける。
「羅針盤に六分儀だ!」
「とも座というのもあるね」
「とも?」
「船尾のことだよ。元はりゅうこつ座とほ座と一つの星座を作っていたらしい」
「そうなんだ……!」
 ピーターはにわかに心臓がどきどきして、そうして同時にわくわくもした。天には船の星座もある。その星の群れを探したくて顔を上げ、ぐるりと空を見渡せば、隣でジョージが、シリウスの下にあるよ、と言った。
「シリウス? どれ?」
「あの一番光ってる星だよ」
「ジョージ、本を貸してごらん」
 ピーターの兄がジョージの手から軽々図鑑を取り上げる。あ、と目を丸くする彼をよそに本を目線でなぞりながら、ほうほう、とわざとらしく声をあげる兄は水平線の際に滲む南の空から東の空を順に指し示した。
「とも座があって、らしんばん座があって、うみへび座がこう横切って、その向こうにろくぶんぎ座だね」
「兄さん、ジョージに図鑑返せよ!」
「なんだよ、重そうだから持っといてやろうと思ったのに」
 必死に兄の手から奪い返した図鑑をジョージに返すと、彼は口許を笑ませて、ありがとうピーター、とささやかに言った。その表情にピーターの唇もまた満足げに弧を描く。
 シリウスが一番好き? と尋ねると彼はこくんと頷いて、一番きれいでかっこいい、と答えた。寒さに赤くなる頬と星がきらめくその両目は暗闇のなかでもはっきり見えて、ピーターはどきどきした。
「ジョージ、シリウスはコンパスなんだよ。知ってた?」
 また横から兄の口出しだ。ピーターはいよいよ口をへの字に曲げる。弟の不機嫌など素知らぬ顔で、兄はきょとんと己を見上げるジョージの小さな肩を抱く。他方の指が違いなく、子供の焦がれる星を指した。
「南の島の人たちは機械を使わずに帆を張ったヨットだけで島から島へと渡るんだ。それも、ウェイマスからロンドンまで、ときにはそれ以上もある距離を、一度出てしまえば西も東も北も南もわからない海が広がるばかりのなかを平気でね。どうやって目的地まで辿り着くと思う?」
「わかんない」
「すごいんだよ。風と波と生き物と島の形と星を使うのさ」
 兄はジョージの手を引いてステップを上がり、ひょいと彼の体を持ち上げて船室の屋根へと載せた。わあ、と大声をあげるジョージに笑いながら彼自身もぴょんと屋根によじ登り、足をだらりと落として腰を下ろす。弟を手招きながらジョージを抱き寄せ自身の足の上に坐らせた彼は、その開かれた図鑑を小さな頭越しに覗き込んだ。
「そうして知識で島から島へと渡る。シリウスの方角にある島を目指して、海鳥の行動を読みながら、風に帆をかけて進むんだ。ジョージ、俺も君もピーターもたくさんたくさん本を読もう。知識があるとないとじゃ、俺たちの人生大違いだよ」
「うん!」
「さて、ピーター坊や」
 闇のなかで得意げな兄が不意に、ステップで不安げに己と友人とを見上げていた弟に面を向ける。ピーターの、何、と返す声は剣呑だった。
「寒いからそろそろ戻ろうぜ。もう八時になるみたいだし。お前がウェイマスに案内してくれよ」
「えっ?」
 ピーターの口から素っ頓狂な声があがる。彼の言うのがわからなくて大いに首をかしげる弟に、兄は重ねた。
「南の島の人たちみたいに計器使わないでやってみなよ」
「な、なんで? なんで俺がするんだよ。兄さんがやればいいだろ!」
「お前も船乗りの息子だろ。なあ父さん」
 デッキで腕を組んでいた父が苦笑して、そうだな、と返すのに、ピーターは腹の底が冷えた心地がした。おろおろと戸惑い兄と父とを交互に見た彼はいよいよ俯き、厭だよ、とぼそりと言う。
「それじゃあ俺たちはいつまでも家に帰れないなー。ここで凍えて死んじゃうかも。ジョージ、寒いよなあ」
「寒い」
 状況を把握していないジョージの高い声がのん気に言う。
「死にたくないよなあ」
「死にたくない……」
 おうむ返しのジョージの言葉はピーターの胸にざっくりと深く刺さった。子供たちにはまだ死を思って眠れなくなった夜はない。しかし遠からず来ただろうそれが、彼の言葉によってピーターの下に訪れるのが早くなったことだけは確かだった。
 うろうろとデッキをうろつくピーターがついに困ったように父を見上げると彼は、私は操船だな、とわかったふうな口を利いて船室に向かった。そんな父を見た兄も、ジョージを抱え上げてぴょんと船室の屋根を降り――ジョージはこれが好きで、してもらうといつもわーっと賑やかな声をあげて喜ぶ――、俺は操舵、と言ってそのまま二人して船尾に歩いていく。
「ほら、ピーター、早く」
 ムーンストーン号は満天の星と暗黒の海のなかにその白い船体をおぼろげに浮かび上がらせ、波に揺れている。穏やかに吹く風は寒気を伴って人々の体を冷やし、二人の子供の頬はますます赤くなって、ピーターの目にはジョージの吐く白い息がまるでダイヤモンドダストのようにも見えた。
「ピーター、どうしたの?」
 兄から離れてとことこ歩み寄ってきたジョージに、どうもしない、と返事をする声にとげが生えて、ピーターは慌てて謝る。きょとんと目を丸くしたジョージは首をかしげ、平気だよ、と明るく言った。
「おうい、ジョージもヒント出しちゃだめだからな」
「ヒントって何ー?」
 ごまかしなど知らないようなジョージの言葉にピーターは瞬く。そうして、彼の抱えている星の図鑑を見た。
「あ! ジョージ! 図鑑貸して!」
「え? うん、いーよ」
 はい、とにこにこ笑って図鑑を差し出すジョージに礼を言い、ピーターはステップに腰を下ろして膝の上で図鑑を開く。ジョージもその隣にぴたりとくっついて坐り、ひょいと覗き込んできた。
「何探してるのっ?」
 ピーターが己の好きな本を読んでいるのが嬉しいのだろう、楽しげなジョージはひそひそ声で、ピーターが照らす懐中電灯の光の下に小さな指先を遊ばせる。ピーターもまたささやき声で、
「北の星空の星座だよ」
と答えた。
「だったらおおぐま座とこぐま座とカシオペア座だよ!」
 ジョージはますます頬を上気させて答える。小さな丸い指が指さす星図に、確かにその名を冠する星の一群があった。
「うん、俺も授業でやった。ジョージ、一緒に北極星を探そう」
 冷たい手を取ってステップから立ち上がると、ジョージもよたよたとそれに続き、しかし顔だけはすっかり笑顔で、うん、と返す。ピーターはジョージの手を引きながら星空を見上げ、デッキを右から左へとうろついた。
「落ちるなよ」
 船室から父の声がする。ピーターの代わりにジョージが返事をした。
 ピーターはぐるりと首を動かし満天の星のなかにあの特徴的な二つの星座を探す。大きなスプーンと、アルファベットのWの形。
「あった!」
 船首の左前方の空をピーターが指さすと、ジョージはその隣で、やったあ、とぴょんぴょん跳ねて喜んだ。
 星を指す細い指はそのまま宙を滑り、目的の光を探す。おおぐま座α星とβ星の距離を五倍に延ばした、最も天頂に近い位置に鎮座する白銀のポラリス。
 よし、とピーターは一つ頷いた。
「兄さん、取り舵! 真北に向かって進んで」
「了解、航海士さん。取り舵いっぱーい」
 窓越しに船室の父は微笑み、エンジンをかける。船はゆっくり向きを変え、闇のなかを北へ向かって走り出した。
「北に行くの?」
 ジョージが尋ねるのにピーターは大きく首肯する。
「俺たちがいるのはイギリスの南の海だから、北に向かえば陸地がもっとはっきり見えてくるよ。そしたら、ドーセットの景色ならすぐにわかる」
「ピーター、すごいね」
 ジョージの笑顔にピーターは得意になって鼻を鳴らす。
「寒いから中に入っていなさい」
 父が言うのに二人は従い船室に入った。入り口脇の椅子にジョージを坐らせたピーターは、その隣に立って窓の向こうに目を向ける。ぼんやりと東の星空が見えた。
「東の星座は何があるの?」
「んっとね、こいぬ座と、しし座と、かに座と、うみへび座と、りょ、りょうけん座? と……」
「すごい、動物ばっかりだ」
「あとね、かみのけ座」
「何それ!?」
 にわかに沸き立ってばたばたと船室を飛び出すピーターに、図鑑を抱えたジョージも続く。彼らは船のへりに寄りかかって東の空の際に星の群れを探したが、うまく見つけることはできなかった。
「たまに変なのあるよね……ねえ、俺たちも星座作ろうよ」
「どうやって?」
「適当な星をつないで名前をつければ俺たちの星座になるでしょ」
「そっか!」
「学会に怒られるぞお」
 子供たちの企みを聞きつけた兄が舵棒に腰掛けながら笑う。ばれなきゃいいんだよ、と弟は返し、年下の友人の手を引いてデッキに向かった。
「どこの星にする?」
「えー……」
 ジョージの目は南の空を向いたが、すぐにきょろりと逸らされた。
「シリウスも入れちゃう?」
「だめだよ。シリウスはおおいぬ座のだもん」
「平気だよ、そしたら、あの辺にある星全部入れちゃおう!」
 ピーターは南の空で特に目立って光る七つの星を全部指差した。ジョージは、怒られるよ、と兄のようなことを真剣に言ったがピーターは聞かなかったし、俺たちだけの内緒の星座なんだから、といたずらっぽくささやけば、ジョージは寒気に赤い頬をいっそう染めてようやく、うん、と白い息と共に同意した。
 後で彼らの調べたところではそれらの星はあまりにも有名なものばかりだった。おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン、ふたご座のポルックス、ぎょしゃ座のカペラ、おうし座のアルデバラン、そしてオリオン座のリゲルと、それら六つ星を囲んだ中央部に赤く燃えるベテルギウス。
 六角形と中央の一つ星で形成されるそれを彼らは、ムーンストーン座、と名づけた。

 北へ北へと向かった船は、やがてその視野に黒々と巨大なブリテン島の岩壁を見た。あれ? と首をかしげたピーターはどうやら己の思惑通りではないようで、ぎゅっと眉根を寄せる。
「ちょっと……待って……もしかしてあっちってスワネージ? あすこにあるのキンマリッジのビーチでしょ?」
 船首の右前方に立ってぐっと身を乗り出し目を凝らすピーターの腰にジョージはくっつく。落ちないから平気だよ、とピーターが言っても彼は首を振った。
「こんなに東まで来てたの、父さん!」
「なるべく陸地から離れたほうがいいだろうと思って」
「そ、そうかもしんないけど! 兄さん取り舵、九十度ね!」
「はいよお」
 九十度向きを変えた船は今度、黒くのっぺりした陸地に沿って一路西へ向かう。
 口を尖らせながら、ピーターはジョージの手を引いて船室に戻った。父も兄もときどき、ジョージがよその家の子供なのだということを忘れがちだ、と彼は内心憤る。ジョージのお父さんとお母さんが心配するじゃないか、と足取りも荒くなるピーターの腕に、ジョージがそっとすり寄った。
「ピーター、もう帰るの?」
「ん? そうだよ。もう八時半になるんだからね。帰ったら十時にもなっちゃうよ!」
「僕、まだ君と星見てたい……」
 吐かれた白い息にピーターの胸は激しく高鳴った。俯きがちな子供の青い瞳はつまらなそうにさ迷っている。ほだされそうになるのをぐっと堪えて、ピーターはジョージの肩に手を置いた。
「……今日はもうだめ。また今度にしよ」
「なんで?」
「だって帰ったらもう寝る時間だよ」
「まだ寝ないもん」
「そんなこと言ってすぐ眠くなる」
「なんないもん」
 ジョージは赤い頬をふくらませる。ピーターはそのブルネットを撫ぜてやり、苦笑した。
「ピーターのいじわる」
「もう……また今度って言ってるだろ。今度は春に来よう。夏にも、秋にも、また冬にもね!」
 両腕を大きく広げてみせると、ジョージはぱちりと大きく瞬き、それから、ほんとに? と小さな声で言った。ほんとさ、とピーターが首肯すれば、ジョージは口許をもごもごさせ、彼もまたこくりと頷いた。
「絶対ね」
「うん、絶対だ」
 ジョージは、くふふ、と嬉しそうに笑い、それから、ピーターありがとう、と満面の笑みで言ったのだった。

 それから宣言通り、彼らは何度も海の上で星空を見上げた。ジョージは常に分厚い星の図鑑を両腕に抱え、春の星座、夏の星座、秋の星座、そしてまた冬の星座を探し、彼はずっとシリウスが好きだったし、ムーンストーン座は冬の南の空にいつも輝いている。けれどそのなかでベテルギウスだけはどうやらその命を終えるときが近づいているらしいことをいつしか彼らは知った。どうしよう? と尋ねるピーターにジョージは答えた。しょうがないからそのときはホットワインで乾杯しよう、と。ピーターは大笑いした。
 ジョージがセカンダリースクールに上がって程なく経ったあるとき、彼はついにその図鑑を海に落としてしまった。悲鳴とも絶叫ともつかぬ大声がイギリス海峡に谺し、風のためでなく海面は揺れたかのようにピーターには見えた。そのとき彼は一月落ち込み、新しいのを探そう、とピーターが宥めすかして励まし、立ち直らせるのに更に一週間を要した。しかし結局同じ図鑑はどこの本屋を探しても見つからず、図書館にすら置いていなかったため、ジョージは加えて一週間をへこんだまま過ごし、ようやく諦めがついたようだった。
 以来、ピーターは考えている――ジョージが愛したあの分厚い星の図鑑が存在するのは、イギリス海峡の深い底だけなのだと。


 ◇


 そして今、男のフラットのリビングテーブルにその分厚い星の図鑑が置いてある。
 よければ君にあげよう、と彼はジョージに言い、ジョージは二度断って、三度目にはにかむように笑いながら、ありがとうございます、と言って図鑑を受け取った。そのときの男の表情を見たピーターは、かつて兄にいたずらでホットチョコレートに大量にマシュマロを溶かしたものを飲まされたときのことを思い出した。
 ジョージがバスルームを借りている間、ピーターは男を詰問した。あなたは一体何を考えているのか、ジョージは働いているとはいえまだティーンエイジャーで、しかもあなたは四十を過ぎる、ずいぶん不釣り合いでおかしげに見えるし、傍から見れば不健全だ、と。しかし男もそれに同意した。
「彼が二十一になるまでは、同僚、そして友人同士として交際しようと決めている。彼も頷いてくれた」
「はあ?」
 またこの驚嘆が、今度は困惑を伴ってピーターの口から発せられた。
「友人……いやそれはいいけど……二十一? え? 何それ? 十八じゃなくて?」
 何を言っているんだこの男は? ピーターが瞠目して見つめてくるのに彼は首をかしげる。いやそんな、不思議そうな表情をされてもこっちが「?」だよ!
「えっと……じゃあ、四年間、恋愛関係にはならないということ?」
「そんなところだ」
「でもジョージはあなたのことを好きなんでしょ?」
「ありがたいことにそのようだ。俺もあの子のことを好いている」
「……四年も待てるの?」
 自分でも、何を訊いているのだお前は、とは考えたものの思わず口をついて出てしまった疑問にピーターは内心舌打ちをする。目の前の男はその美しい瞳をすいと細め、微笑んだ。
「俺にとっても、あの子にとっても、大した時間じゃない」
「ジョージの気が別の人に移っちゃうかも」
「俺の努力が足りなかったということだな。もちろん怠りはしないが、そうなったらそうなったで、しょうがない。諦めがつくかはわからないが」
 ――男の考えは、ピーターの理解の範疇になかった。
 そのうちジョージがバスルームから戻ってきて、ピーターがシャワーを浴びる番になった。去り際、ジョージの見ていないところでピーターが自身の両目にかざした人差し指と中指を男に差し向けると、彼は目を丸くし、それから苦笑した。

 夜、一つのベッドに入ったピーターとジョージは、しばらく互いに暗い天井を見上げていたものの、やがてどちらからともなく向き合って顔を寄せた。
「ねえ、本当にあの人と付き合うの」
 ピーターが尋ねると、ジョージは頷いた。
「でもね、しばらくは職場の先輩後輩だから……」
「うん、さっき聞いた」
「そう」
「四年って、結構あるよ。その間に君の前にはもっとたくさん魅力的な人たちが現れるだろ。もし君があの人以外のことを好きになったらどうするの?」
 ジョージは枕許に視線を落とし、そうなったらしょうがないよね、と呟いた。そうして、あの人だっていつ僕に興味がなくなるか、とも。
「そうしたら俺があいつを殴るから、そのあとホットワインで乾杯しよう」
「厭だよ、やめてよ」
 口先では咎めながら、ジョージは笑った。ピーターもニヤニヤ笑いながら彼のブルネットをそっと梳いてやる。まだ少し湿った感触がして、ピーターはほっと息を吐いた。
「ねえ、なんであの図鑑、ここんちにあったのかな……」
「ん?」
 ジョージがぽつりと言うのにピーターは相槌を返す。
「だって、子供向けの図鑑じゃんか。……もしかしてあの人には子供もいるのかな」
「……君は聞いてないんだ?」
「離婚したことしか聞いてないし……訊けないよ」
 青い瞳が暗闇のなかで揺らめき、どこかから光を集めてちらりと瞬く。ピーターは唇を結んでその頬を撫ぜてやった。
「見たとこ子供向けの本なんてあれ以外にはなかったし、ここんちも子供らしさなんてどこにもないから、きっと大丈夫だよ」
 己の言葉に、そうかな、と答えるジョージはまだ少し不安げで、ピーターは苦笑しながら頬を撫ぜては親指で目許をくすぐってやる。
「気になるなら俺が訊いといてやるから」
 きょろりと目を丸くするジョージにピーターは微笑んでみせる。目の前のジョージはわずかに戸惑い、しかし小さく頷いて、もぞもぞとピーターにすり寄ってきた。
「……僕もがんばる」
「……そっか。がんばれ。俺はずっと君の味方だから、何でも言って」
 首肯したジョージの癖毛が首筋に当たって、おかしくてピーターは笑う。腰を引き寄せて抱きしめると、ジョージもまたピーターの背中に腕を回して抱きついてきた。その温もりが心地よくてピーターはゆっくり目を伏せる。じきに腕のなかからジョージの寝息が聞こえてきて、彼はまた一つため息をついた。
 星たちにはあまりに短く感じられる時間でも、人にとっては十分に長いのだ。


 ◇


 三か月後、その日はジョージがメインになって手掛けるオリジナルプログラムが投影される日で、ピーターはまたしても休暇をもらってプラネタリウムを訪れた。とは言え会社の休みのたびに足を運んでおり、ジョージの事故が遭った日に顔を見せたときからスタッフルームへの出入りも許可されるようになっていた彼は、最近ジョージやアレックスを始めとするスタッフたちに、機材のメンテナンス手伝ってもらえない? などと話を振られる機会が増えてきたことを訝っている。
 投影準備のために忙しなく施設内を走り回っているジョージの邪魔にならないように、とロビーでのんびり読書していたピーターは、プラネタリウムのエントランスに松葉杖をついた一人の男と、その付き添いであろうもう一人の男が現れたのを見た。見たことない人たちだな、とまるでスタッフのような感想を抱く彼は、二人組が受付スタッフに何か言うと彼女が興奮した様子で慌ててスタッフルームに走っていくのに首をかしげる。ピーターも立ちあがって彼女を追い、すれ違いざま彼らを見やると、一人と目が合った。
 スタッフルームでは先の受付スタッフがやけに大きな身振り手振りで、ジョージ早く早く、とじたばたしている。探し人はどうやらここにはおらず、姿の見えないアレックスが裏に彼を呼びに行ったようだ。
「どうかしたんですか?」
 尋ねると、受付スタッフが顔を真っ赤にしてピーターの腕をがしりと掴んだ。
「今ね、今ね、あの日事故に遭った人が受付に来てるんだよお!」
「えっ!?」
「ジャケットのロゴマークを覚えてて、ずっと探してたんだって! どうしよう、すごくない!?」
 すごいよ、とピーターもどきどきして彼女に合わせて飛び跳ねてしまう。そこへ館長のウィナントが、いいから落ち着け、と二人を制した。そう言う彼の頬もわずかに赤らんでいて、ウィナントさんこそ、とピーターが言うと、彼は苦笑して首筋を掻いた。
 そのうち、アレックスに伴われたジョージが駆け足で現れ、その後ろからオリジナルプログラムの主任者が姿を見せた。受付スタッフはすぐにジョージの手を引いてスタッフルームを出て行き、ピーターもその後に続いた。

「あの、この子です!」
 受付スタッフに背中を押され、かの二人組の前にジョージがたたらを踏みながらも進み出る。緊張に青い目を潤ませたジョージが、もう大丈夫なんですか、と恐る恐る言うと、松葉杖をついた男が彼の大きな瞳をさらに見開いて、それからにこりと嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、その声も覚えてます。会えてよかった。あのときは本当にありがとうございました」
 フランス訛りのやわらかな英語が、ハグしても? と尋ねるので、ジョージはこくりと頷き彼に歩み寄る。松葉杖があるために片手でジョージの体を抱き寄せた彼はもう一度、本当にありがとう、と口にした。
「えっと、あの日急に貧血になって、気を失ってしまったんです。と言っても、後から病院で聞いた話なんだけどね。それで事故って……。でも君の、大丈夫ですか、って声が何度も聞こえて、一瞬意識が戻ったんだ。君、僕を車から下ろして、抱いててくれたでしょう。そのとき、その胸許のマークを見たんです。心配しないで、って言ったつもりだったんだけど、多分わかんなかったよね」
 ジョージの隣で話を聞いているピーターは、彼の瞳がいよいよ涙ぐむのを見た。
「彼が一緒に探してくれたんです、このマーク。ここのプラネタリウムだってことはすぐにわかったんだけど、僕はしばらく動けなかったから……今、やっと来れました」
 はにかむように笑う彼にジョージは何度も頷き、本当によかった、と途切れ途切れの声で返す。彼は再びジョージの肩に手を置いて、君がいてくれて助かった、と言った。
 そこへ付き添いの男が歩み出てジョージに握手を求めた。
「僕からもありがとう。二度と彼に会えなくなるところだった」
「そんな……僕は……」
「君が彼にずっと声をかけ続けてくれたからだよ」
 ジョージはついに涙をこぼし、鼻をすすってしゃくり上げた。改めてジョージを抱き寄せた松葉杖の男がそのブルネットを軽くたたいては優しく撫ぜ、心配かけちゃってごめんね、と笑う。ふるりと首を振るジョージは、しかし否定の言葉を口にしなかった。
 その様子を見つめながら、ピーターも鼻をすすり、目許をこする。隣にいたアレックスも同じように目許を赤くして、よかったなあ、と心底喜ばしそうに呟いていた。
 ときに人は体のなかに知識を携え、様々なものに導かれて先へ進む。それが風であったり、波であったり、生き物であったり、島の形であったり、星であったり、声であったり、何かよくわからない意匠のロゴマークだったりするときもあれば、思ってもみない形で様々なことに影響し、影響されるときもある。
 いつの間にかスタッフが勢ぞろいしていたエントランスで、その人だかりの最も後背に控えていたウィナントが、
「よければ今日のオリジナルプログラムを観ていくといい。彼が初めてメインで手掛けるんだ。入館料はサービスするから、退院祝いに」
と言う。入館料は払いますよ、と二人は返して、それから、ぜひ、と微笑んだ。彼らは松葉杖をついた男がギブソン、付き添いの男がトミーといい、その後プラネタリウムの常連になって、いつしかアレックスは彼らのこともスタッフにと勧誘し出すのだが、それは現在のピーターには知る由もない。
 ジョージが初めて手掛けたオリジナルプログラムのテーマは“ウェイファインディング”だった。半球のスクリーンに映し出された一面の青い海の映像、その水平線に浮かぶ島々、画面が暗くなるにつれて浮かび上がってくる無数の星。シリウスを目指して海へ漕ぎ出す帆船の、その船体の白が夜の光を反射するのに、ピーターは今も冬の南の空に輝いているであろうムーンストーン座を思い出した。
 彼の眦からは、涙が一筋流れていた。