一度だけ彼の個展に足を運んだことがある。最初に人物モデルを依頼されたときから半年後の、私が彼と関わってからは初めて開催された個展だった。
 二十点ある油彩作品のうち、私が人物モデルとして描かれていたのは五点だったが、その他の作品はほとんどが静物モチーフや風景画だったため人物画のなかでは特に登場回数が多く、白い正方形をしたギャラリーの中心に立って三六〇度見渡せば、額のなかであちらこちらを向いている私の姿が五度も視界に入ってくる――あまつさえ二人いることもあるといった具合で、その事実に私は遅まきながらとんでもないことをしでかしてしまったと動揺したことを今でも覚えている。さらに驚くべきことには、開催三日目に足を運んだにも関わらず、うち三点にはすでに買い手がついていた。額の傍らに慎ましやかに貼られた買い値に私は目が眩んだ。最も高値のもので私の月給の三倍はあった。
 彼は若いころから活躍している画家であったので――とはいえ私はそのことを個展で配布されているリーフレットを読んで初めて知ったのであるが――イギリスのみならず各国に大勢のファンはもちろん、パトロンも少なからずいるらしかった。そのうちの二人が私の横で真剣な眼差しで私の描かれている作品を眺め、さも意外そうにささやかに会話を交わしているのを聞いた。
「きっとこのモデルは画家のパートナーなのかな。こんなに一人の絵をたくさん描くなんて、彼が初めてだろう」
「そうかも。五十を超えたあたりからこんなふうな絵を描き始めたけれど、彼が描かれる作品は特に筆致が穏やかだ」
「うん。僕はこの絵が特に好きだなあ」
 彼らはその人物モデルが隣で挙動不審に絵画を見ている私だとはついぞ気づかなかったが、他方の私はそれを聞いて矢も盾もたまらず逃げるようにギャラリーを後にした。上背もある薹の立った男が、本当にそうであったらいいのに、などと若年の時分に卒業するような恋慕を胸に燻らせていたことを悟られまいとした気恥ずかしさからだった。以来、彼の個展には行っていない。彼は多作で、展示数が十点に満たない小規模なものや、彼が画業の傍ら美術講師として勤めている地元の学校で開催される展覧会なども含めると、年に二度から三度は個展やグループ展に出展しており、私は人物モデルを務めている立場であるからそのたびに招待されてはいたものの、またあんなふうな会話を耳にしてしまったらと思うとどうしても顔を出すことができなかった。私が観に行くときたまたまあなたはいないんだよ、とごまかしはしているが、あれから三年経った現在、本当にそのごまかしが通用しているのかどうかは私には判然としない。
 とにかく、三年経っても私は画家のパートナーではないし、私の描かれた絵につけられた価値の三分の一ほども私の月給は上がっていない。

「今日は脱いでくれるかな」
 やわらかな声にそう要請され、私は頷く。初めのころは羞恥心に苛まれていたが三年目ともなると慣れたもので、上から下までてきぱきと服を脱いでソファに腰を下ろすことができる。
「両足もソファに上げて、横を向いて片膝を抱えるように……うん、そんな感じだ。ありがとう」
 私が彼に言われて何かするたびに、それがどんなに些細なことであっても彼は、ありがとう、と私に言う。私はソファに横向きに坐り、膝を抱えて彼を見た。画家はそっと私の肩に濃紺のブランケットをかけると、立てられたイーゼルの向こうに坐った。白髪交じりの金髪に室内灯の光がにじんでいる。黒目がちな彼の瞳がたおやかに瞬き、うっすらと微笑んだ。
「君は本当に背が高いな。どれぐらいあるんだ?」
「六・二フィートだ」
「私は五・八。何を食べればそんなに大きくなるんだろう」
「きっと家系だな。母はあなたと同じくらいある」
 画家は喉の奥で笑い、うらやましいことだ、と言った。
 視線はあちらへ、と言われ、私は画家から目をそらして、私にとっての正面を向く。そうして己の口を再び開くときをじっと待った。
 クロッキーブックの表面を鉛筆が走る音が室内に響く。私と画家とは二十分描いて、五分休むを二度繰り返し、最後に十分描いてデッサンの時間を終え、別れて互いの生活に戻る。それを週に一度、水曜の午後六時から七時まで、出会ってから三年間たゆまず続けてきた。たとえばデッサンのあとに共に食事に行くこともなければ、ましてや休日に会うこともない。このあと食事でも、と誘ってみたことはあるが、作業が残っている、という理由で五度断られたあとはもう口にしていない。一度だけデッサンの約束を反故にしてしまおうかと企んで時間に画家の部屋を訪れなかったことがあったが、心配そうな口調で、体調を崩したのか、と電話をもらったときには思わず、居眠りをしていた、とでまかせを口走ってしまった。急いで部屋に向かうと、君でも居眠りなどするんだね、と物柔らかに言われ、その日のポーズではベッドに横になっているよう指示されて心底後悔したので、それからはひたすら良心と我欲に従っている。画家にとっては仕事上の関係とはいえ、私にとっては好いた男に会う機会である。
 シーリングファンの低い音が天井を巡っている。今、彼の目線が私を向いているか、それともクロッキーブックを見ているか、私はもうそれを気にしないことにしている。気にしたところで詮無いことだ。私は彼の目が私に向くことがないことを知っている。
「……今日は、何があった?」
 静かに彼が口を開いた。私が世間話をする合図。口下手だから面白い話はできないと言ったのに、画家は、構わないから、と返した。
 私は彼に今日身の回りであったことを話す。会社の同僚の積読が二十冊を超え、自業自得なのに一人で焦っているのが面白かったこと。別の同僚がツーリングを始めたこと。さらにまた別の同僚の三つになる子供がオフィスに遊びに来て私を構ってくれたこと。彼女を抱えてその場でぐるりと回るたびに声をあげて喜んでくれ、背が高くて幸いだったこと。いつも買っている屋台のチリサンドの辛さがいつもの二倍は感じられて、午後はしばらく口が使い物にならなかったこと。コリン・ファースに二十パーセントだけ似ているクライアントが来たこと。
 画家の人物モデルを始めて一年目の半ばまでは、私から彼のことを尋ねたこともあったのだが、なぜかはぐらかされたり適当な返事をされたりして、まるで彼について知ることはできなかった。この三年間でわかったことといえば、彼の名がボルトンであること、私より十五も年嵩であること、地元のいくつかの学校で美術講師をしていること、彼の身長が五・八フィートあること、彼の古い友人が船を持っていること、くらいのものである。最後の部分に関しては画家自身の情報ですらない。やるせなくて私は早いうちに彼を知ることを諦めた。いつかあなたの友人の船に乗せてもらいたいな、とだけ残して。
「君は辛いものが苦手だったのかな」
「いいや。特別得意でもないけれど……でも、あれはあなたもきっと辛いと感じるはず」
「そうか。食べてみたいものだ。なんという屋台だい?」
 店の名を告げると、今度行ってみるよ、と返ってくる。よければ案内するよ、とは言えなかった。

 人物モデルを引き受けて二年目の秋ごろ、ふと疑問に思って画家に尋ねてみたことがある。あなたのモデルになっているのは私だけか、と。私は私の知る限りでは彼の作品のなかに登場する回数が他より圧倒的に多かったが、それでもこの画家の部屋にある作品を見ると、私以外の人物画も少なからず手掛けているようだった。女性や子供、老人ばかりが目につき、壮年男性は私の他は見なかったが、そうした自身以外の人物画を見た私には、画家に私をモデルにするメリットがあるようには思えなかった。女性は当然私より美しく、子供は当然私より愛らしく、老人は当然私より成熟している。そして誰も皆深遠だった。例えばモナ・リザや青いターバンの少女、日傘をさす女性、古の多くの画家たちは皆魅力ある人物画を描き、その絵のなかに生きる彼彼女らは一様に謎めいている。他方私はどうだ。デッサンの時間に画家から投げかけられる問いかけに諾々と答え、体同様中身まで丸裸だ。私にはまるで秘密がなかった。
 だが画家は、いいや、と答えた。君以外に雇っているモデルはいないと。そうしてずいぶんと楽しげに目を細めた。
「なぜそんなことを訊くんだ?」
 彼に訊かれてようやく私は、今しがたの己の問いかけが嫉妬じみて醜いものだったことに気がついた。なんと愚かなことをしてしまったのだろう。図体ばかり大きくなった小心者の私は年甲斐もなく、よりによって無自覚に画家を占有しようとしたのだ。身の程知らずの出過ぎた行為だった。
「いや、なんでもない。ただ気になったんだ。私はプロではないから……」
「そうか。私はプロアマにこだわりはないよ」
 画家は変わらず楽しげに鉛筆を動かしている。私はその音を聞きながら、視線を上げられなかった。
「すまなかった。もう訊かない」
 本来ならば疾うに決めていた事項のはずだったのに繰り返してしまったことも恥ずかしくてならない。あれは三年間のなかで一番の――初めてヌードモデルに取り組んだとき以来の失態だった。画家は私を咎めなかったが、後日その日のデッサンを基にした作品を見せてもらったときには、絵のなかにいる俯いた男がずいぶんみっともないふうに映ったものだ。
 あれから私はいつ画家に、もう君にはモデルを依頼しない、と言われてもいいように心の準備だけはしている。金銭的にも精神的にも、私の拠りどころがこの画家の部屋のみにはなかったことが幸いである。


 ◇


 五分の休みを挟んで、私はまた画家の部屋の壁に、画家はクロッキーブックに向かう。私の見ている壁に寄り添う棚には食器が並んでいる。逆さに置かれ整然と並ぶワイングラス、重ねられた平皿やスープカップには生活の風景が見える。ワインはどんな種類が好きなのだろう、赤や白やロゼ、フランスやイタリアやチリ、もちろん国産も味わい深い。私はワインには詳しくないが、画家はどことなく詳しそうに見える。外見の話と言われてしまえばそれまでだが、初めて出会ったときの、パーティー帰りだと言った彼の三つ揃いの装い、紳士然とした風貌は、円熟した中年後期の魅力を助長していた。そのときは、ハイクラスのレストランが似合うだろうな、などとしみじみ思ったものである。
「先週末……」
 画家の声が聞こえて、私は思わず彼を振り返った。あちらを向いていて、と言われ、私は慌てて視線を戻す。画家のほうから問いかけ以外の出だしで話を始めるのは珍しかった。
「中等部の学生の一人が、人物デッサンが上手くできないと相談してきてね。慣れないのかこう……こちょこちょとくすぐるような線を描く子だったんだ。だから、もう少し全体的にストロークは長くして、言い方は悪いが多少雑に見えるくらいで構わないから、大きな面と小さな面を丁寧に捉えるようにとアドバイスしてやった。それで、身近な人に練習させてもらいなさいと」
 彼の口調はおかしげで、それでいて温厚で優しい。普段見ることのない美術講師としての彼の一面を垣間見た気がして、私は安易に胸をときめかせてしまう。
「そうしたら月曜日に彼がデッサンを見せてくれたんだ。驚いたよ。そこに描かれていたのが私の古い友人のご子息であったこともそうだが、先週末の彼のものとは見違えるほど大胆でのびやかなストロークで表現された若者がそこにいた。面白いじゃないか、父親や母親ではなく、同年代の青年の姿を彼は描いたんだよ。絵のなかの友人のご子息はとても表情が豊かなんだ。眉をひそめて神経質そうに坐っている様子が、その場面を見ていない私にもありありとわかる。モノクロではあったが頬の赤みが見えるようだった。きっと彼は緊張していたんだろうな。そして、このデッサンを描いた学生が彼のことを心から慕っているのだろうということもわかったよ。相手をつぶさに観察し、そのありのままを平面に写し取ろうとした努力が見えた。それほど真摯で、熱心な筆致だった」
 そこで画家は言葉を切った。話が終わったのかと私は口を開こうとしたが、ちり、とこめかみに彼の視線を感じ、思わず唇を結んだ。
「君に会いたくなったよ」
「え?」
「ウィナント、あちらを向いていてくれないか」
「ああ、すまない……」
 穏やかに咎められ私は再び壁を向いたが、今しがた彼が口にした言葉のために全身で惑乱してしまった。彼の鉛筆の音はためらいがないのに、私の視線はあちらこちらをさ迷っている。何を言うべきだろう。私がのん気にオフィスでカフェラテを作り、ミルクを入れ過ぎて眉をひそめていた月曜日、彼は私のことを考えていたというのか。
 急に顔中に熱が集まってきた。こうなってくると途端に、彼の眼前に全裸でいる己が破廉恥に見えてくる。ふふ、と画家は笑みの形の吐息をもらした。
「まだ月曜日だというのにすぐに君を呼びたくなったんだよ……若者たちに触発されたのかな。あれほど情熱的なデッサンを見せられて、私にだってそれほどのものは描けるのだと証明したくなったのかもしれない」
 それを聞いて私はほっと嘆息し、同時に残念に思った。今までのくだりは彼の画業とプライドの話だったのか。取り乱してしまった己に恥ずかしくなる。私は全体どこまで身の程知らずなのだろう。
 画家は鉛筆を繰る手を止めないままに続けた。
「だが、簡単なことではないんだよ。他者に感情が伝わる作品を作るということは……。あの若者が緊張していたのは、あの学生の視線に彼の情熱を見たからだ。それほどまでに両者が互いに対して真剣だったんだ」
 私は返事の代わりに首肯してみせる。
「あの学生がたった二日でしてみせたことを、私は三年間できないでいる」
「…………」
「何度も、よもやと感じる場面はあったのだがね。どうやら私は歳ばかり取って勇気が摩耗したようだ」
 ふ、と画家が吐息交じりにもらす笑いがイーゼル越しに私の耳をくすぐる。
 私の勘違いでなければ――今、画家は、耳を疑うようなことを口にした。先ほどの嘆息をすべてかき集めてもう一度飲み込んでしまわなければならないような驚嘆を伴う言葉を。
「五十も半ばを過ぎて人生観も世界観ももはや覆ることはないだろうと思っていたのに、これで二度目だ。まったく気持ちが休まることがないよ、ウィナント」
 呼びかけられ、私は胡乱に頷く。
 それからしばらくはまた、鉛筆の走る音だけが室内を支配した。私は言葉を発せなく、画家は言葉を発さなかった。だが、不思議と彼の雄弁な視線を感じる。頬やこめかみ、ブランケットに覆われた肩や、むき出しの太ももに。こんなことは初めてだった――期待することをやめてからは。あのころ感じていたのはただのまやかしの言葉たちの存在だった。
 今は、どれほど時が経ったのだろう。デッサンを再開してからもう二十分は経っているのではないのか。ばくばくとかしましい私の心臓のことなど知りもしないで、画家のテーブルの傍らにある時計のアラームは未だ鳴らない。早く立ち上がって彼の視界から消えてしまいたかった。動揺しきりの私に与えられたたった五分で何ができるのかはわからないが、ともかくバスルームに立て籠ればいくらか冷静にはなれるだろう。そうすれば、もう十分過ぎれば今日は終わりだ。
「そんなにそわそわしないでくれないか」
「あっ? わ、悪かった……」
「ふふふ」
 画家はおかしげに笑い、それから一つ息を吐いた。
「そのままでいい、聞いてくれ」
 不意に言われ、私は慌てて頷く。鉛筆の音が止まった。
「次の休憩の隙に君がどこかに行ってしまわないように、私はこのアラームが鳴ったら君の傍に行こうと思っている」
「…………」
「もちろん、不躾に触れたりはしないよ。私たちはまだ画家とモデルだからね。だが、君が私を避けないでいてくれると嬉しい」
「…………」
「もし許してくれるなら、今、こちらを向いてはくれないか」
 私は息を吸って、そうして吐く。私は彼を振り向いていいのだろうか。また袖にされたりしないだろうか。あの体が芯から冷える感覚はもう経験したくないものだ。彼がかけてくれたブランケットがあるとは言え、私も四十を過ぎたから体調にはこまめに気を配らないといけないし、毎朝続けているジョギングでも疲労のタイミングが以前より早くなってきたと感じている。いわゆる体の衰えを感じるというやつだ。私と同世代の同僚とで、社内でいかにこの言葉を口にしないかで競っている。体力的にも精神的にも負荷がかかる事象にはあまり首を突っ込みたくはない。だからこそたくさんの事柄を諦めてきたし、期待することをやめてきたのだ。私はもう疲れたくない。疲れたくないんだ。
 画家は少し黙って、それから再び口を開いた。
「このあと……食事でもどうだろう」
 ――それは、私たちが出会ってから彼が初めて口にした、そして私が初めて耳にした、彼からのプライベートな誘い文句だった。


 ◇


 彼の個展を訪れるのはこれが二度目だ。四方をダークブラウンの壁に囲まれて、申し訳程度のスポットライトに照らされているギャラリーは、画家の筆によって光を湛えた十八点の絵画たちの存在感を際立たせている。
 ゲストブックに記帳していると、受付に一人で坐っていたスタッフにこそりと声をかけられた。顔を上げると、中等部ほどの年齢に見える学生が青い目をきらめかせて私を見ている。
「あの、もしかして……ボルトン先生のモデルさんですか?」
「…………そう、ですが」
 答えるとブルネットのその若者は、わあ、と嬉しそうな声をあげて、にこりと破顔した。
「僕、学校でボルトン先生に美術を教わってるんです。ジョージ・ミルズといいます」
 頬を染めてささやく彼に、そうですか、と首肯してみせる。ジョージは私の目にもわかるほど心底嬉しそうに、絵のなかの人とそっくりだなって、と声を弾ませた。
「ずっとお会いしてみたかったんです。先生、あなたの絵を描いているとき本当に嬉しそうにしているから。でも、彼は恥ずかしがり屋だから展覧会には来てくれないんだって先生仰ってたので……」
 それを聞いて、三年来の私のごまかしは彼に通用していなかったことをようやく知る。そればかりかこの学生は何かとんでもないことも口にしていた。彼は学校にいる間も制作を続けていて――しかも学生たちの目につくところで私の絵を手掛けているだって?
 己より二回り以上も若年の学生に対し愛想笑いを浮かべている大人に気づかず、ジョージはやはり頬を紅潮させて私を見上げてきた。
「お会いできて嬉しいです。僕、あなたの描かれている絵がとても好きなので。先生、今日は来られないんですけど、あ、そっか、知ってますよね。ごめんなさい。あなたのお名前見たらきっと喜びます。ゆっくり観ていってくださいね」
 私は首肯を返してせかせかと受付の前を去る。灯りがおぼろげに照らすギャラリーには今は数人の見物客しかおらず、私も気を楽にして鑑賞することができた。私は彼の風景画が特に好きだ。広大無辺な海に浮かぶ一隻の白い船の絵や、遥かに霞む砂浜の絵、どこまでも続いている白い桟橋の絵、海辺の街に住む人間だからか彼の絵は海をモチーフにしたものが多い。その幽玄な青や灰色を見ていると、私の心は不思議と凪いでいく。しかしそれも長くはもたない。挙動不審な一人の男が額のなかに所在なげに収まっている様子が視界に入ってくるからだ。
 私は肩を落とし、嘆息して、それから恐る恐る顔を上げる。絵のなかの男と目が合って、私は苦笑するよりなかった。

(やあ、隠し事が下手くそなお前。不満げな目線で取り繕ったって、どうしたって彼にはばれているぞ。お前に秘密は一つもないんだから、とっとと観念するんだな)


 ◇


 私と画家が出会ったのは初夏のある日、海辺に建つ賑やかなパブでのことだ。水曜の午後五時、待ち人は現れず、私は上がり切った期待をどん底まで落とされて、鬱屈した気分でカウンターで一人ビールを呷っていた。伸びきった上背を丸め、気配を消すように壁際の席を陣取ったが、そもそも天井から床下まで酒精に満ちた夕暮れのパブで私を気に掛ける者は一人もない。同僚に連絡を取って憂さを晴らそうとも思ったが、そういえば彼は就業中もずいぶん浮ついた様子だったなと思い至って八つ当たりはやめにした。そのときまでは、彼を見ていた私も浮ついていたつもりだったのだが。
 ビールはそろそろ終わりにして次はワインにでも手を出そうかとメニューを手にしたとき、私の隣に見知らぬ影が現れた。
「やあ、次は何を飲むのかな」
 顔を上げると五十代半ばほどの男が朗らかな笑みを浮かべて私を見下ろしている。白髪交じりの金髪が店内のライトを反射して淡く光っているのがやけに印象的だった。
 私が驚きに瞬いて返答できないでいると、彼はおもむろに私の隣に腰かけた。そうして私の手からメニューをつまみ上げ、理知の瞳を細めて内容に目を滑らせる。
「私はギネスにしようかな。君はもうビールは飽きただろう、ワインにするかい?」
「あ、ああ、そうだな……」
「奢ろう。今日はいい夜だ」
 よく見ると彼は三つ揃いを着ており、ほのかに甘い香りを漂わせている。雑然としたパブにはあまりに不釣り合いで私はおかしくなってしまい、思わず笑った。彼はぱちりと瞬き、それからつられたように微笑んでみせる。灰青の瞳を眇め、泰然としていながらハンサムな、中年男性の魅力をふんだんに詰めたようなその表情に私は笑みを引っ込めて見とれた。
 そのうち注文が届き、我々は乾杯して同時に酒を呷った。彼の様はやはりこの場に似合わずどうにも面白く、私は覚えず口の端をほころばせてしまう。そうすると彼もやはり笑って、どうしたんだ、とささやくように言った。私は首を振る。私の最悪な夜は彼のいい夜になった。それ以上は何もない。
 彼はボルトンと名乗り、画家をしていると言った。私は画家を名乗る人種に出会ったのは初めてだったし、しかも都会ではない地方の町に暮らしているだなんてやはり全体がアンバランスに思われて、目の前の男の奇妙さに半信半疑だった。素直にそう告げると彼は手持ちの万年筆でカウンターに備え付けのナプキンにさらさらと絵を描いてみせた。ブルーブラックのインク、美しい線で描かれた酔っ払いの私がそこにいて、私は本当に驚いた。
「すごい。上手だな」
「ふふ、まあね」
 今にして思えば画業に携わる者に対して言う言葉ではなかったが、彼も気分を害した様子はなかったし、あげようか、と言うので私はそれをありがたく頂戴した。
 私と彼とは様々な会話をしたが、どのくだりでもいつの間にか私ばかりが話していて、彼はそれを莞爾しながら聞いているような有り様だった。私は酒精のためにそのことには思い至らず、彼が聞き上手だったこともあって気分よく口が滑った。よい関係になれたと思っていた相手が待ち合わせに来なかったこと、正直ワインの味はどれも区別がつかないこと、同様に芸術の甲乙もわからないこと、それでも今日はきっといい夜だと思うこと。
 画家は私に、よければ家に来ないか、と言った。自分の描いた絵を見に来ないか、と。私は快く頷いた。そうして彼の一軒家に誘われて、この世に存在する素晴らしい芸術、その一端を見た。私には到底理解できないもののことを、確かに私は好きだと思った。
「君さえよければ君をモデルに絵を一枚描いてみたいのだが」
 彼が言うのに私は瞠目した。
「いや、私には上手くできない。恥をかきたくないから遠慮しておくよ」
「まさか、してもみないうちから」
 画家は大らかに笑ってそうのたまう。そうは言ってもしがないオフィスワーカーが務めるにはあまりに荷が勝ちすぎるし、よもや彼も本気ではあるまいと思っていたから、私は笑い交じりに再び断った。
「モデルが必要なら、私の同僚でも紹介しようか。皆個性豊かで、きっとあなたの眼鏡に適う」
「いいや、君でないのならその必要はないよ」
 彼は変わらず穏やかに微笑んでいたがその口調はやけに強かで、融通の利かなさを感じさせた。私は口を噤み、うろうろと視線をさ迷わせてしまう。視界の外で彼の、ふふ、と静かに笑う吐息が耳をくすぐった。
 そこで私ははたと考えた。もしや彼は背の高い男を必要としているのではないかと。それならば私以上の適任はいない。何せ私はこの方私以上に上背のある人間に出会ったことがない。
「それなら、引き受けるよ」
「本当かい? それはありがたい。では、君の気持ちが変わらないうちに約束をしてしまおう。来週の水曜日、午後六時にまたここに来てくれるかな」
 画家は傍らのメモ用紙に彼の連絡先をあの万年筆で書きつけると、それを私に差し向けた。なにやら昔風のやり取りに私は笑ったが、先ほどもらった絵と一緒に丁寧に懐にしまった。彼は満足そうに微笑んでいた。
 本当のことを言えばもうこのときには私は画家のことを気に入っていたし、いつぞやよい関係になれたと思っていた相手のことなどすっかり忘れていた。私のことをこんなふうに彼のプライベートな空間に誘ってくれるのだし、次に会う約束まで取り付けてくれるのだから、きっと彼もこちらを好ましく思ってくれているだろう。もしかしたら期待してもいいのかもしれない、などと軽はずみな打算もあった。次の約束のあとに食事にでも誘って、少し押せばほだされてくれるかもしれない、と。私は顔面に笑みを貼り付けながら、彼に似合いの雰囲気のいい店を探さなければ、と計画を始めていた。
 このときにはまさか、それから食事に行くのに三年を要するだなんて考えてもみなかったんだ。かわいそうに、当然と言えば、当然のことだろうが。


 ◇


 早鐘を打つ心臓を供に画家との待ち合わせ場所である駅前に向かうと、はたしてスロープの手すりの傍にその姿を見出して、私は泣いてしまうかと思った。彼は私の姿を見とめると口許をほころばせて、やあ、と温厚に挨拶してみせる。私は二度頷いて、やあ、と返した。
「なんだか慣れないね。土曜日の日中に君を見るのは初めてだから」
「……それはこちらの台詞だな」
 画家は私の顔を見て苦笑し、一つ首肯する。そうして腕を拡げ、私を迎い入れるように首をかしげた。
「今日はどちらまで?」
「二倍辛いチリサンドの屋台。それから、買いたい本があるから本屋まで付き合ってもらう。そのあと、街中を散策して、トマス・ストリートのレストランだ」
「なるほど、それではその散策のなかに私の予定を一つ入れてもいいだろうか」
 私が首肯すると彼は、埠頭に行こう、と口にした。
「その近くに私の古い友人宅がある。船に乗せてもらう約束になっているんだ」
「なんだ、もう予約を取り付けてあるのか。それなら私に伺いを立てる必要はないのに」
「いいや、君の計画が詰まっていたら破棄することにしていた」
 思わず片眉を上げて訝る私に彼は口許をほころばせながら、当然だろう、と言う。
「これからの私は君にいざなわれるべきなんだ。君は私より若々しく、タフで、面白いのだからね。ただ、もしほんのわずか余裕があったなら、そこに私のプランを少しだけ混ぜさせてほしい」
「……もちろんだとも。でも、あまり私のことを買い被らないでくれ」
 彼は哄笑し、私を抱き寄せて背中をしたたか叩いた。
「君は大したやつだよ。何より愚かな私を見捨てないでいてくれた」
「それは……」
 確かに、その通りなのかもしれない。望みのないことはとっくにわかっていたのに、私は懲りもせず週に一度画家の部屋に足を運んで彼の言うのに従ってポーズを取り、ときに抱かれもしない裸体をその前に晒していた。側から見れば私のしていたことこそ愚行と言うよりないが、次の相手を探そうとは思わなかった。私の一切に他者の心惹かれる要素がなかったとしても、画家の描く私の絵に私の月給の三倍の値がついていたことは確かだ。私の献身が目に見える価値につながることがあのときわかった。三年前はそのことにひどく驚き尻尾を巻いて逃げ帰ってしまったが、時を経て私は若年の時分よりいくらか厚顔になった。恐らくもう少しで悲傷に鈍感にもなっていただろうが、その前に彼が――

 彼は私の腰に手を添え、さあ、とハンサムな表情で私を見上げた。
「行こうか、二倍辛いチリサンドの店へ案内してくれ」
「ああ」
 腰に感じる温もりに頬がゆるむ。眦を細めた彼は、
「君は本当にわかりやすいな」
と言った。むっとした私の腰を軽く二度叩きそっと引き寄せた彼は、怒らないで、とささやく。私は鼻を鳴らした。この三年間、私が怒りを覚えたことがあっただろうか。
「私があなたにとってわかりやすいなら、それはあなたが私から目を離せないことの証左だろうな」
「おや」
 意趣返しのつもりで発した言葉に彼は片眉をぴくりと持ち上げ、さも意外そうな声を発してみせる。
「その通りだよ。ずっとね」
 虚を突かれ、私は瞬く。彼はふと得意げに口の端を上げて、ずっとね、と繰り返すと、私の体を促して歩き始めた。はたと気づいてその手を腰から引き離し、己のそれを彼の背に回す私に彼は首をかしげ、不思議そうな表情で見上げてくる。私はもう一度、鼻を鳴らした。
「私にいざなわれるのだろう?」
「……ああ、そうだったね」
 彼はおかしげに笑った。私もニヤリと頬を吊り上げて笑んでみせ、前を向く。頬やこめかみにちりちりと焼けるような視線を感じ、私は実に晴れやかな気分になって背筋を伸ばした。