第7回ワンライ参加作品(2023/04/01)
【本日のお題(このなかから1つ以上選んで書く/◎…使用したお題)】
◎叶わぬ○○(○○は変換可能)
 白い息
 攻撃と防御
◎会いたい
◎お昼の楽しみ


 我が社では始業時、お昼休みの始まりと終わり、そして終業時にそれを知らせるチャイムが鳴る。始業時のチャイムは鬱陶しくてかなわないが、お昼休みの始まりと終業時のチャイムほど好きなものは私にはそう多くない。
 幸いにして周辺にご飯処の多い街中の会社に就職できたので、お昼や(帰って作るのがあまりにも面倒くさいときの)夕飯のメニューにはさほど困らない――どころか、選り取り見取りすぎて悩むことで時間を食ってしまうくらいだった――少し前までは。
 今の私には行きつけのラーメン屋さんがある。カウンターが四席、四人掛けのテーブル席がふたつ、そして小上がりにこちらも四人掛けのテーブル席がよっつ。街中の大通りから一本入り、さらにもう一本入ったところにある小ぢんまりとしたこのラーメン屋さんは、うまいことお昼休み始まりのチャイムと同時に席を立ちほとんど小走りで社を出て街を走り店に駆け込めば毎回必ずカウンター席がふたつくらいは空いている。ちょうどよく滑り込んで流れで注文できるという寸法だ。
「いらっしゃいませぇ」
 入口の風除室で手に消毒を塗り込みながら、私はマスクの下でもわかるように声の主ににっこりと笑いかける。サーモンピンクのマスクと三角巾がお揃いの色でかわいい、私と同い年くらいの店員さんが「今日もお疲れ様です」と笑みを返してカウンター席を示してくれた。
 私が毎日会いたくて通っている、お目当ては彼女だった。
 ある日の十一時台にぼんやり見ていたネット記事でラーメンの写真を見てしまってから脳内をラーメンに支配された私が操られるがまま近所のラーメン屋さんをGoogleマップで探したところ、一番近場にあったのがこの店だった。一番近場の割にはGoogleの検索結果のところに出てくる[混雑する時間帯]のグラフは大した混雑の様相を見せていなかったため足を運んだところ“運命の出会い”をしたのである――一方的にだけど。
「今日は何にします?」
「あ、味噌ワンタンお願いします。次はこれにするって決めてたの」
「はあい。おいしいですよー」
 カウンターと厨房の間にあるガラス越しに注文をすると、明るい返事で厨房のおばさん(多分ここの店主さん)に「味噌ワンタンいっちょうー」と注文を通した彼女は、今度はせかせかと中から湯気の立ったどんぶりをふたつ載せたおぼんを持って出てきて、小上がりのテーブルのひとつに坐る一人のお母さんと二人のお子さんの前にてきぱき置いた。きゃあと喜ぶお子さんたちとお礼を述べるお母さんの声を聞きつつ、セルフサービスのお冷で口を潤しながら彼女の動きを横目で眺める。
 小動物みたいでかわいいんだよね。身長は私と同じくらいに見えるから一六〇はありそうだけど、なんていうか仕草が。
 そんなことを悶々と考えているとそのうち彼女がまたしてもカウンター越しに「味噌ワンタンどおぞー」とどんぶりを差し出してくれた。回転率が命の業態なので確かに毎度出てくるのに時間はかからないけれども、私としては本当はもう少しここでのんびりしていたいところではある。でもそんなわがままを言っていたら麵が延びるし、最悪彼女に「早く出てってくれないかなあ」みたいに邪険にされちゃうかもしれないし……まったくままならないことだ。
 どんぶりから立つ湯気で眼鏡を曇らせながら私は割り箸をぱちんと割った。いざ食べようとしたとき、カウンターの向こうからくすくすと笑う声が聞こえて顔を上げる。ちょうど私の前にいた彼女が可笑しそうにしてい……そうな、シルエットがぼんやり見える。
「それ、見えてる?」
 私は慌てて眼鏡を取った。そうして目を細めながら「全然見えない」と精一杯おどけたように言う。そうすると彼女はまた大きく笑った。
「面白いねえ」
「わ、あはは……」
「ちょっと、三番さんに持っていって」
 ひとしきり笑っていた彼女はおばさんに肘で小突かれて、「ごめんなさあい」とまたせかせかとどんぶりをおぼんに載せて厨房を出た。残された私が服の裾で眼鏡のレンズをぬぐっていると、おばさんが「うるさくてごめんねえ」と私に声をかける。私が首を振ると、「他所から来た嫁だからねえ」と聞いてもいないことをおばさんは言った。その言葉で私は自分の体温が急激に下がったのを感じた。
 おばさんはそれきり仕事に戻り、私は俯きながら味噌ワンタンに箸をつける。
 ……その可能性を考えていなかったのは、私がそれを考えたくなかったからだ、と思う。
 このお店にはおばさんと、彼女と、あと厨房の一番奥にいて黙々と作業をしているおじさんがいて、一番いいのは彼女が二人の実の子供か、もしくは唯一の他所から雇った社員であることだ。私に見えているのはその三人だけだから、関係性もその三人のなかでこねくり回して探るしかない。
 ここにいないやつのことなんか知らない。
 黙々と麵をすすり、れんげでワンタンをすくってこちらもすする。彼女の言う通りおいしい。私がこのラーメン屋さんに通っている理由は、もちろん彼女が働いていることもだけど、ラーメンがおいしかったからというのもあるのだ。ご飯がおいしいはモチベーションになる。お目当ての相手がいるということもモチベーションになる。
 あわよくばなんて考えてない……なんて、嘘だった。私は妄想家で、たくさんの彼女との可能性を考えていたのだ。
「ごちそうさまでした」
「はあい! おいしかったでしょ?」
「うん。すごく」
「よかったー。八八〇円です」
 席を立ち、会計に向かった私は携帯を出して電子マネーで代金を払う。ぴろん、と軽快な音が鳴って、「ありがとうございました」とレジの向こうの彼女がやっぱり明るく言った。
「またお待ちしてますー!」
 そんな言葉を受けながら、私はぺこりとお辞儀をしてラーメン屋さんを出た。
 翌日から、私はまたお昼をどこで食べるかで頭を悩ませることになった。

 彼女に再会したのはそれからひと月くらい経ってからだったと思う。夕飯前のスーパーで、「あ!」と聞き覚えのある明るい声と一緒に彼女は豆腐を見つめる私の視界に入り込んできた。
「わ! あ! 江華苑の……」
「久しぶりですね! 最近来てくれないよね」
 飾り気のない言葉が私の傷を抉ってくる。私はなんとか頷いて、「外食にお金使いすぎちゃって」としどろもどろに説明をした。
「ああー、そっか。今何でも値上がりしてるもんねえ……」
「うん、そう……」
「困るよほんと。うちもね、泰子さん、値上げしなくちゃかもなんて言って」
 そう言って彼女の口許に持っていかれた左手の薬指には鈍く輝く銀色があって、ああ、と私は改めて打ちのめされた。
「泰子さんって、おばさん? えっと……義理のお母さんになるの?」
「そう」
 そのまま二人で精肉コーナーを眺めながら、私たちは軽く言葉を交わす。
「ごめんね。また今度行くから……」
「うん、待ってるよ。こないだね、泰子さんも清二さんも、私にも作ってみるかって言ってくれたから、私の作ったの出せるかもよ」
「え! そうなんだ。えー、それは、楽しみ……」
 どうしよう。どうしよう。こんなに望みのない未来なのに、彼女から差し出されるものなら喜んで受け取ってしまう。叶わなくても、まだ諦められていないみたい。
「名前教えてよ。ほんとにまた来てくれるように。約束」
「何それ? いいけど。作間こがねです。今持ってないから今度名刺持ってく」
「名刺持ってるの!? いーなー。私にも作って。こがねって、金色のこと? 黄金って書くやつ?」
「そう。私のはひらがなだけど」
 頷くと、彼女はぱああ、とマスクの下でもわかるように大きな口を開けて目をきらきらさせた。
「私の名字も黄だよ! 黄惠月」
「ふ……ふいゆえ? どういう字書くの?」
「こう」
 彼女は気安く私の手を取って、その手のひらにすらすらと彼女の名前を形作る字を書き記す。惠月。
 嬉しそうににこにこしている彼女の表情を見つめながら、私は泣きたくなった。
 どうして諦めなくちゃならないんだろう。