第12回ワンライ参加作品(2023/05/06)
【本日のお題(このなかから1つ以上選んで書く/◎…使用したお題)】
 激しい○○(○○は変換可能)
◎添い寝
 秘められた愛
 墓参り
◎偉大な力
(大体全部ニュアンスで入れたつもりです…)


 五日ごとの休沐のたびに李周(り・しゅう)が向かうのは、長江に沿ってなだらかに伸びる丘だった。彼はその丘のふもとに小さな庵を建て、家人も雇わずもう二十年も一人で暮らしている。同僚などは彼を案じてか、あるいは奇矯に思ってか、事あるごとに「人を雇わぬのか」「妻を娶らぬのか」と訊ねるが、そのたびに李周は首を振り続け、孤独に暮らす庵に帰るのだった。
 この庵を訊ねてくるものは泥棒以外にはなかったが、この泥棒も荒らすだけ荒らして盗るものが何もないとさっさといなくなる。そのうえ界隈で「あすこには何もない」とでも噂が流れたのか、十年前からは盗みに入られるということもなくなっていた。

 余人の目からは何もないように見えるこの庵だが、実際には李周が書き溜め続けている書簡が壁の三方に所狭しと並べられ、天井まで積み上げられてあった。李周は昔から物を覚える力が人よりあって、今彼が熱心に書き溜めているのは、愛すべき友人である胡鉉(こ・げん)が彼のために話して聞かせた物語の数々である。
 胡鉉は――李周にとっては――優れた物語の語り部であったが、かの男は文字を読み書きすることがどうしてもできなかった。李周は彼に乞われて何度も字を教えたが、一向に身につかない。そこで李周は「ならば自分が君の代わりに物語を書き留めるよ」と申し出て、胡鉉はそれを大変喜び、様々に思い描いた物語を李周に語って聞かせた。
 そうしたことが長く続いていたが、胡鉉はあるとき流行り病に罹ってあっけなく命を落とした。泣き崩れる李周は彼の最期の言葉に従い、太湖と長江とを遥かに望むこの丘のふもとに胡鉉の遺体を埋めたのだった。
 胡鉉を喪ってからはしばらく失意に沈んでいた李周であったが、彼の頭にうずまく胡鉉の言葉、物語の数々は決して鳴りを潜めてはくれなかった。
 李周は一心に物語を書き記し続けた。休沐の間ひとつも飯を取らぬことも間々あり、五日官庁に籠っている間にこっそりと懐に簡を忍ばせ、庵に持ち帰ることもしばしばあった。幸い誰に見咎められることもなく、今日もいくつかの簡を持ち帰ってきている始末である。

 李周の頭のなかで胡鉉は語る。それは自然の物語。それは先祖の物語。それは愛の物語。それは怪異の物語。それは反乱の物語。
 「君、もしかして、そのつもりなのかい」反乱の物語を聴いて瞠目した李周に、胡鉉はけらけらと笑って返した。「仲円(ちゅう・えん/李周の字)、そんな怖い顔をしないで。これは物語だよ」そうして、遠い目をした。「おれのなかから生まれた物語だ」
 李周の体内でそれは渦を巻く。庵じゅうを文字が舞う。正面の入口の他は窓もない、薄暗い庵いっぱいに物語が満ちていく。
 いつか、胡鉉の家で二人中庭を眺めながら、彼の歌うように紡がれた物語に李周は心地よく身を委ねていた。とろりと甘い声で語られるそれは、二頭の虎の逢瀬のことだった。
「おれは虎になりたいな」
 胡鉉はよくそんなことを言った。
「そうすれば文字など必要ないしな。あの力で丘をどこまでも駆けて行ける」
「『風は虎に従う』という言葉がある。君なら風を味方につけられるだろうな」
 李周は夢見心地にそう答える。うっすら閉じた瞼の向こうで、胡鉉が笑いながら身を捩ったように感じた。
「君がおれの風になってくれよ」
 ああ、あのとき、李周はなんと答えたのだったか。

 ふ、と気がついたとき、李周は夕暮れの光が射す庵ですっかり横になって眠っていた。腕のなかには読みかけの竹簡がいくつも収まっている。
 眠ってしまっていたか。このところはこんなことがよくある。体を起こすのもおっくうで、彼はしばらくもぞもぞと体勢を代えながら寝転がっていた。
 腕のなかに竹簡を抱いていると、胡鉉と添い寝をしたいくつもの夜を思い出す。彼の足先の爪の形。足の甲の骨の筋。どの夜も胡鉉は、灯台の火の揺らめきにふさわしい静かな声で李周に物語を語って聞かせてくれ、そうして李周はいつの間にか眠りに落ちていたのだった。
 ようやく李周は体を起こす。庵の外から射してくる夕暮れの光は、室内に光の粒を舞い散らせる。木々の葉擦れの音がささやかに聞こえる。穏やかな風が吹いているのだ。
「物語はどこまで行けると思う?」
 李周は茫然と、誰にともなく問いかける。
「この風はどこから吹いてきて、どこへ向かって吹き去るのだろう?」
 いつしか、李周は自身の頬に伝う涙に気がついた。それは顎からはたり、はたりと床に落ち、散らばっている竹簡を濡らしていく。
 困った。墨が滲んでしまうかもしれない。簡が腐ってしまうかもしれない。だが、李周にはこの涙を止めるすべが思い浮かばない。
 両手で抱えきれぬほどの数の簡を掻き抱き、李周は足をもつれさせながら庵の外に飛び出た。
 広く、偉大な太湖の湖面が西から射す夕闇に輝いているのが遠くに見える。草原が風に揺れている。東から夜が空に満ち、星が小さくとも導きの火を燃やし始める。

 李周は声を張り上げて胡鉉の名を呼んだ。何度も、何度も、何度も。