第18回ワンライ参加作品(2023/06/17)
【本日のお題(このなかから1つ以上選んで書く/◎…使用したお題)】
◎ほんのちょっとの○○(○○は変換可能)
◎きのこ
 焼け野原
◎お兄ちゃん
 運命の絆


 兄である福士(ふくし)の機嫌がいいと幸子(さちこ)も嬉しい。
 二人の父親である恵(めぐむ)が一年前に土砂崩れに巻き込まれて他界してから、遺された母親の頼子(よりこ)を支えるために福士は自身の勉学のための時間を削ってまでバイトに勤しみ、家計を助ける生活を送り続けていた。
 幸子はまだ中学生で、何より最高学年であり、高校受験が控えている。「高校進学しないで私も働く」と主張した幸子を、頼子と福士は二人して泣きながら「お願いだから進学をしてくれ」と声をそろえて縋るように訴えた。頼子などは、「恵くんはあなたの学費の分も遺してくれているんだから」と続けた。幸子は、その場はいったん頷かずに置いておき――

 なぜか幸子にだけ見える、幽霊の恵に問いかけた。
「それは本当なの」
と。
 恵はにこにこ嬉しそうに頷いた。
『本当だよお、さっちゃん』
と。

 なぜ幽霊の恵が幸子にだけ見えるのかはわからない。恵も、頼子と福士には自分が見えないことを不意に寂しそうに感じている様子も見られた。それでも、『さっちゃんに見えるならぼくはそれで嬉しいよ』とやはり嬉しそうに笑うのだった。
 幸子自身は、恵が自分の前だけに現れるのは、何か自分に恵に対する後悔があるからなのではないか、と踏んでいる。何せ恵が死んだとき、幸子は反抗期真っただ中だった。いつもヘラヘラ笑っている父親がどうしても嫌いに思えて、一日じゅう口を聞かずにいることもあった。そのころ高校一年生だった福士はときおり幸子を咎めたが――なんとこの兄には反抗期というものがなかったようなのである――、頼子は困ったように笑って「そうだねえ、恵くんちょっと過干渉」と幸子の味方になってくれた。
 その感情がいつしか凪いでいき、あとほんのちょっとの意地さえどうにかなれば、父親と何か一言二言会話ができるかもしれない。恵が事故に遭ったのはそんなときだった。
『本当はふーくんにも、自分のために勉強してほしいんだけど』
「お兄ちゃん、頑固だから」
『ね。誰に似たんだろうね……』
 幸子と恵の会話は主に登下校時や、頼子がパートから、福士がバイトから帰ってくるまでの、幸子の留守番している時間帯に行われる。家では、幸子の部屋に入ることを恵は正しく遠慮し、そして二人の前ではこうした会話は不自然に思われたから、いつしかそのような習慣がついていた。
 頼子も恵も、そこまで剛情な性質を備えているわけではない。むしろ福士は両親がそうした性質であったからこそ、態度や語調の物柔らかさに反して狷介な気質を育てていったのかもしれない。ちなみに幸子は面倒くさがりで自分に甘く、これは多分に両親の性質と似ていた。
 恵はひしゃげた眼鏡のブリッジをくいと上げて、ため息をつく。
『ぼくにもっと甲斐性があればなあ』
「甲斐性で土砂崩れを防げたら世話ないね」
『おっしゃる通りで』
 校門まで着くと、恵はそこで手を振っていったん幸子の前から消える。四六時中自分がついていると幸子に申し訳がないからと、ずっと校門のところで待っているのだそうだ。“取り憑いている”わけではないんだなあ、と幸子はしみじみ思う。そうして、幸子の学校生活が始まる。幸子はいつも思っている。そうやって自分の目の前から消えている間に、本当に恵はもう一度いなくなってしまうのではないか。二度と現れなくなってしまうのではないか。
 自分は父親をもう一度喪ってしまうのではないか。もしかしたら、それが自分への罰なのではないか。


 部屋の扉がノックされて、勉強のために机に向かっていた幸子は返事をした。遠慮がちに開いた扉から顔を見せたのは兄である福士で、「どうしたの」と訊ねる幸子に珍しく彼は彼らしくなく何度も言い淀んで、ついに「明日、バイトなくて、友達を連れて来たいんだ」と口にした。
「え? うん。それが?」
「さっちゃんもご飯食べるだろ?」
「え、食べるよ……何、だめなの?」
「いや、そうじゃなくて。友達、も一緒に……」
「ああ」
 幸子は頷いた。
「うん。別に。あたしはいいよ。何? 明日お兄ちゃん作る?」
「あ……うん。それいいな。そうしようかな」
 どこかほっとしたように微笑んで、こくこくと首肯する福士に幸子は違和感を覚える。どうにも妙に煮え切らない態度だ。
「母さんにはもうオッケーもらってて……ただ、母さん明日遅番だから」
「じゃあ、三人ってことか。うん、いいよ。最近ずっとあたしばっかり作ってたし、お兄ちゃんのご飯楽しみにしてる」
 福士は再び頷くと、夜のあいさつを残して部屋を辞去した。机に向き直った幸子であるが、兄の様子が解せなくて首をひねる。そこでふと、幸子は恵のことを思い出した。
(お父さん、ちょっとあたしの部屋に来て)
 幽霊の恵が見えるようになったころから、彼に向かって強く念じればテレパシーのようなものが使えるようになっていた幸子は久しぶりにこの能力を活用する。じきに部屋の外から遠慮がちな入室の許可をもらう声が聞こえて、幸子は今度「どうぞ」と声で返事をした。恵は扉をすり抜けて現れた。
「明日、お兄ちゃんの友達も一緒に晩ご飯食べるって。聞いてた?」
『聞いてなかった。盗み聞きになっちゃうし……』
「なんか、そういうとこ変にしっかりしてるよね。あたしだったら好き放題聞いちゃうな」
『えへへへ』
 褒められちゃった、と頭を掻きながら笑う恵を半眼で睨んで、「とにかくそういうことだから、以上。おやすみ」と幸子は話を切り上げた。恵は嬉しそうに「はあい、おやすみ」と返事をしてさっさと出て行ってしまった。
 本当は、さっきの兄の態度のことについて相談したかったのに、まるでうまくいかない。幸子は口をとがらせて、これ以上進まない勉強をあきらめるためにシャープペンシルを放り投げた。


「…………」
 キッチンで、兄と兄の“友人”である律人(りつと)が並んで食事の準備をしている。幸子の目には二人がとても楽しそうに見える。
(あと、なんか、距離が近い)
 福士は身長が高く一八〇センチあったが、律人もそれに匹敵するほど上背があった。体格も近く、しかし髪型はマッシュショートに近い福士と違ってさっぱりと短く刈り上げている。
(ユズの好きな俳優に似てる……)
 自身の友人が雑誌片手に熱く語っていたのを思い出しながら、幸子はリビングのソファでじっと二人の様子を眺めた。
「ふく、きのこどうする?」
「きのこ、さっちゃんが好きだから入れるよ」
「へえ、幸子さん、偉いね。ちゃんときのこ食べれるんだ」
 不意に律人に話しかけられて、幸子は慌てて頷いた。律人は福士を肘で小突きながら「ふくと違って」といたずらっぽく笑っている。幸子から少し離れて床に体育坐りをしている幽霊の恵が、『ふーくんまだきのこだめなんだ……』とぼやいた。恵にそこにいてほしがったのは幸子だった。
 兄の友人関係は、幸子にとってはわからないもののひとつだった。小学校のころはまだしも、中学校に上がればますます距離が開き、高校はいよいよわからない――わからないうちに、兄はバイトに打ち込むようになってしまったから。
 だから、幸子は、あんなに楽しそうで、あんなに嬉しそうな福士の顔をほとんど見たことがなかったように感じた。
『へへ、律人くん、ふーくんと仲良くしてくれて嬉しいな』
 恵は体育坐りのまま、ゆらゆらと左右に揺れている。幸子はそれに返事をしなかったが、福士と律人の様子を見ていると、恵の気持ちもわかるような気がする。
 二人はときおり、小声で何か会話して、二人だけで楽しそうに笑う。福士が律人の耳許で何かささやき、律人の口が「ばか」と動いた。
「…………」
 幸子はむうっと口をとがらせる。なんだか面白くない。
 急にソファから立ち上がった幸子に、恵が気づいた。
『さっちゃん、どしたの?』
「一回部屋戻る。できたら呼んでー」
「ん、わかった」
「幸子さん、ゆっくり休んでて」
『え』
 大股でリビングを出て階段を上る幸子の後ろから、おろおろと幽霊の恵がついてくる。
『さっちゃん、なんかあった? なんだか、むかむかしてない……?』
「一人にして」
『う。……わかった』
 恵はすっといなくなる。わずかに大きな音を立てて部屋の扉を閉めた幸子は、勢いよくベッドに倒れ込んだ。
 目をぎゅっとつむると、先ほどの兄と兄の“友人”の様子がどうしても思い出される。楽しそうで、嬉しそうで、なんだか、幸せそうで……

(面白くない!)

 心のなかで幸子は叫んだ。こんなふうな気持ちになるのは、幸子にとっては初めてのことだった。