第32回ワンライ参加作品(2023/09/23)
【本日のお題(このなかから1つ以上選んで書く/◎…使用したお題)】
◎記憶に残っている○○(○○は変換可能)
 欠片
◎時の流れ
◎年越し
 先見の明


 俺の記憶に残っている最後の八紘(やひろ)くんは泣きながら笑っていた。東京に引っ越していくその日、八紘くんが大好きだった俺は当然兄貴について駅まで見送りに行ったのだ。八紘くんは俺の顔を見ると嬉しそうに笑い、それから兄貴の顔を見て、泣いた。
『元気でね、初樹(はつき)、昂輝(こうき)』
 八紘くんが手を振り改札を通っていく。その先でもう一度立ち止まり、また手を振る。
『またね! やひろくん、またね!』
 俺は八紘くんがホームの向こうに行ってしまうまで、彼に声が届くように大きな声でそう叫び、一所懸命に大きく手を振った。
『初樹、昂輝、こっちこっち』
 駅まで俺たちを車で乗せてきてくれた母さんが、駅のすぐ近くにある踏切に行こうと言った。俺たちは急いで駅を出、踏切に向かう。傍らの草むらのところに小さなコンクリートブロックがいくつか転がっていて、俺はそのうえに乗って背伸びをした。
 じきに、遮断機が下りた。駅のすぐ近くにあるこの遮断機は、駅から電車が発車するころになるとすぐに下りて、しばらく上がらなくなるのだった。車でこの踏切を渡るときには煩わしかったそれが、ついに俺と八紘くんを離れ離れにする。
 少し遠くに見える駅から、ゆっくりと電車が動き出す。俺は足がつりそうになりながら背伸びをし、バランスを崩しながら両手を振った。
 通り過ぎる電車の窓から八紘くんが見えたのは一瞬だった。
『やひろくん!』
 俺は叫んだけれど、ゴウッという電車の音にかき消されてしまう。だけど、八紘くんもこっちを見てくれた気がした。
『はつ兄、やひろくん、いつ帰ってくるの?』
 コンクリートブロックから飛び降りた俺が訊ねると、兄貴は「うーん」とあいまいな返事になった。
『五月には帰ってくるでしょ!?』
 俺が言い募ると、やっぱり兄貴は唸る。
『……わかんね。帰ってこないかも』
 兄貴のその言葉は俺にショックを与えるのにはじゅうぶんで、直後に俺は『やだ!!』と叫んで泣き喚いた。帰ってくると思っていたから見送ったのに、帰ってこないなんて聞いてない。ぎゃんぎゃん騒ぐ俺を、兄貴はいつもは優しいくせに無視したし、母さんは腰に俺を抱きつかせたまま自分のズボンが濡れるままただ頭を撫でてくれるだけで、慰めてもくれなかった。
 八紘くんのご両親が八紘くんを見送りに来なかったことに俺が気づいたのは、その日の記憶をふと思い返す数年後のことだ。

「昂輝、年末、八紘帰ってくるけど、どうする?」
 それから十年後、俺が高校二年生になった年の十二月。兄貴にそう訊ねられて俺は一瞬なんのことかわからず「えっ」と口にしたまま固まってしまった。八紘。八紘くん!?
「帰ってくるのかよ!?」
「そう言ってんじゃん。あと、うちに泊まれば? って言ってあるから」
 なんてことないように言う兄貴に、俺は腹の底がぐるぐるとかき混ぜられるのを感じた。
 結局あれから、八紘くんが帰ってきたことは一度もなかった。兄貴は年に一度くらいの頻度で東京に遊びに行って、そのたびに八紘くんと遊んでいるみたいだったけれど、俺は小学校時代はともかく、中学生にもなると部活を始めたり勉強が大変だったりと他のことで毎日がいっぱいになって、八紘くんのことを考える余裕もあまりなくなって、気づけば高校生になっていた。
 ちびっこだった俺も今では――多分、あのころの八紘くんの身長も抜かした。兄貴の身長は中学三年生のときに抜いた。十年間、俺は成長してきた。部活の関係でバク転もできるようになった。
 けれど、十年間。八紘くんもきっと変わっただろう。
「や――八紘くんも、大人っぽくなったんだろ?」
「んー? 俺にはわかんないけど……まああいつのほうがお前見て驚くと思うよ。んで、どうすんの。飯行く予定だけど、お前行く?」
「い、行く」
 俺はどうにか返事をして兄貴をにらみつけた。おっけ、と軽く言って兄貴は携帯をいじっている。八紘くんにメッセージでも送ったのだろう。
 八紘くんが帰ってくるのは十二月二十八日だそうだ。その日に飯に行って、そして、年明けまでうちに泊まるという。今から緊張している俺はきっと挙動不審だったんだろう。兄貴がうざったそうに俺を見ていた。

「初樹!」
 あの日と同じように俺と兄貴は駅にいた。違うのは、兄貴の運転で来たことと、八紘くんを迎えに来たこと。改札の向こうから俺たちを見つけ、ぱっと笑顔になって大きな荷物を引いて歩いてきた八紘くんは――
「あ、昂輝? すごいねえ、おっきくなったね!」
 ――なんだか、めちゃくちゃかわいくなっていた。
「ぁっ、う、うん、はい、久しぶり……」
「えへへ、ため口でいいってば。久しぶりだね」
 顔の近くで小さく手を振って見せるその仕草が、少し上がる語尾が、小首をかしげるそのいちいちが、俺の心臓をぐわんぐわんに揺さぶった。顔面に熱が集まっている気がする。俺は手を握ったり開いたりしながら、八紘くんの言葉に何度もうなずく。
 その笑顔にじっと見惚れてしまう――八紘くんってこんなにかわいかった?
「八紘、荷物持つよ」
「大丈夫だよお。あ、でもじゃあはい、お土産。これ持って」
 八紘くんと兄貴のやりとりを見ながら俺も慌てて手を差し出す。八紘くんがそれを見て、いいよお、とやっぱり胸許のあたりで小さく手を振った。
 それから俺たちは連れ立って兄貴の車に戻る。前を行く二人が気安く会話しているのを――正確には、楽しそうに話している八紘くんの横顔を俺はにらみつけながら、二人の会話に混ざれずについていくしかなくて、なんだかそれがすごくみじめに思えた。
「八紘後ろね、荷物そのままでも大丈夫だろ」
「はあい。なんだかんだで初樹の車初めて乗るね」
「お前は酒飲んでもいいから」
「えー、でも今日はやめとこうかなあ。また今度」
 助手席に乗ってシートベルトをもたもた締めていた俺はその言葉にはっとなった。そうだ、十年。
「八紘くん、お酒、飲むの」
 少しだけ振り返った俺に、後部座席の八紘くんは事も無げにうなずいた。
「飲むよお。でも、そんなに好きじゃないからちょっとだけね。ジュースみたいなカクテルとか」
 車のエンジンをかけた兄貴が小さく笑う。
「初樹と一緒にカクテルばっかり飲んでる」
「こないだの酒飲み配信のときとか超笑った」
「あれ面白かったねえ!」
 聞き慣れない単語に俺は混乱する。というよりはその単語が兄貴の口から出てくるとは思わなかった。訊きたかったのに、立て続けに八紘くんが話しかけてきてそのチャンスも逃してしまう。
「昂輝、ごめんね。せっかくの年越しなのに俺も泊まらせてもらって」
「えっ、ううん、全然。あ、でも……家、帰んなくていいの」
 どうしてか不意にそのとき、思い出した。あの日、駅にいなかった八紘くんのご両親のこと。
「うん。いいの」
 八紘くんはずいぶんと軽い口調でそう言った。そうして、続けた。
「縁切ったの。もう帰ってくるなって言われたからね」
 ぐるりと勢いよく振り返った俺に、八紘くんはにこりと微笑んだ。その顔もめちゃくちゃかわいくて――かわいかったのに、なんだかあの日みたいに、泣いているように見えた。