このお話の続きです。


 暑い季節。多くの生き物たちが日陰に隠れて、あまり太陽の下に出ていきたくはなくなる夏です。でも、カリフォルニアアシカの孫権に元気がないのは、暑さばかりが理由ではありません。
 海獣たちの換毛のシーズンがやってきました。子供の孫権にとっては生まれて初めてのできごとです。
 なんだか食欲がありません。やる気も出ないし、水に入って遊んだり、泳いだりもしたくありません。当然、トレーニングもあんまりやりたくありません。孫権にとってはすべてが初めてのことなので、どうして自分がこんなことになっているのかわからなくてぐるぐるしています。
 ですが、そんな孫権のことを飼育担当である韓当はわかってくれているみたいでした。「無理にトレーニングをしたり、ご飯を食べなくてもいいですよ」と彼は言ってくれました。いえ、ご飯は少しは食べないと困るのでそういうときは「ちょっとだけがんばってみませんか」と魚を差し出されますが、それ以外のことはそこまで無理強いしないでくれます。なので、孫権もちょっとだけトレーニングをがんばりました。
「これが終わったらぴかぴかになって、もっと格好良くなりますよ」
 韓当が朗らかに笑ってそう言うのに孫権は反応しました。ぴかぴかになってもっと格好良くなったら……于禁も私を褒めてくれる!?
『孫権、格好良くなったな』
 低く寂のある彼の声でそんなフレーズが聞こえてくるようです。
「オゥッ!」
 孫権は鳴き声ばかり元気に返事をしました。そうと決まれば全力で休むに限ります。お気に入りである日陰の岩場にぺたりと伏せて、孫権にとって一番具合のいいくぼみに顎を載せて、ひとつフンと鼻を鳴らすと彼は瞼を閉じました。
 眼裏に浮かんでくるのは于禁の凛々しい横顔――そして孫権をちらりと見やるあの流し目。
 きっと于禁に格好良いと思われてみせる!
 理想のぴかぴかな自分になるため、孫権はぐわあと大きなあくびをしておひるねに勤しむのでした。


 ◇


 それから二週間ほどが経過しました。アシカ科の換毛は一、二ヶ月をかけてゆっくりと行われます。その間はエネルギーをいっぱい使うのでたくさん休まないといけません。
 孫権は今日も『鰭脚公園』の岩場でおひるねです。于禁に会えなくなってずいぶんと経ち、寂しい気持ちはもちろんありますが、ぴかぴかの格好良い自分を見てもらうことを思えば、もう少しだけ孫権は我慢できるのです……多分。

 さて一方、トドの于禁の換毛が始まるのはもう少し先でした。これには種族の間でも個体差がありましたので、同じ魏フロアのトド展示水槽で暮らすもう一頭のトド、典韋はどうやら始まりかけているみたいです。普段以上に飼育担当である賈詡の言うことを聞いていません。
「おぬしもそろそろかのう」
 開館前の朝のフィーディングタイム、于禁に給仕している曹操がそんなことを言います。曹操が于禁のことを理解してくれているように感じると、于禁の心はいつもほっとぬくもるのです。
 しかしそれでも、このところの于禁には気がかりがひとつありました。数ヶ月前から頻繁に――というかほぼ毎日、このトド展示水槽前の観覧エリアにやってきていたカリフォルニアアシカの子供が、ここしばらくまったく姿を見せないのです。ああも連日ひれを運ばれ、じっと見つめられることで于禁はどうにもいたたまれない気持ちになっていましたので、その点では妙な視線がなくて楽なのですが、来なければ来ないで何かあったのかと気になります。あの子供のことを考えていてうっかり曹操からのハンドサインを見落としてしまったこともありました。そのとき于禁は自分をたいそう恥じ、典韋が慰めに吻を寄せてくれたのにも申し訳なくなってしまったくらいです。
 ですが、そんな気もそぞろな于禁のことも曹操はちゃあんと見ていて、わかってくれていました。
「覚えておるか、于禁よ。あのアシカの小倅」
 曹操がタラを差し出しながらそうたずねたので、驚いた于禁は思わずタラを落としてしまいました。おっと、と言って屈み込みそれを拾い上げる曹操に、于禁はまたしても申し訳なくなってしまいます。
「夏侯惇ほどではないが、おぬしもわかり易い男よな」
 いたずらっぽく笑う曹操を思わず于禁はじっと見てしまいます――それでなくとも鋭い目つきは睨んでいると誤解されることも多くて、大きな体も相まって特に小さなお客さんたちには怖がられることも多いのですが。
 再び差し出されたタラを今度はきっちり飲み込んだ于禁の鼻面を、曹操は指先でこちょこちょとくすぐりました。
「あれは今換毛中だそうだ。幼獣ゆえ、初めての毛換わりであろうな……」
 くすぐったそうにしながら于禁は曹操を見つめ返します。彼はバケツから最後のホッケを三尾出すと次々于禁に与え、給餌終了のハンドサインを出しました。それから、ゆっくりと首許を撫ぜてくれるのがいつもの曹操のコミュニケーションです。そのとき于禁は普段ならされるがままなのですが……
「ん?」
 珍しく、于禁は曹操の合羽に吻を寄せました。くいと軽く胸許を押すようにする仕草に曹操は首をかしげます。
「どうした?」
 あまり見ない于禁の仕草に、曹操の問いは努めて穏やかな声で投げかけられました。于禁はさながら「恥を忍んで」とでも言いたげに小さく、ガゥ、と鳴きます。
「……ふーむ」
 于禁の首筋や側頭部を撫ぜつつ、曹操は生き物の意図を汲もうと探っていきます。
「……于禁よ、たまには外に出てみぬか」
「!」
「典韋も毛換わりゆえ、一度賈詡に任せておこう。どうだ、わしと共に」
 眼前で手のひらをぱっと開かれ、于禁はためらいがちに吻を当てました。「よし」と言う合図と共に、曹操はわしゃわしゃと于禁の頭を撫ぜてくれます。
「賈詡よ、午後のトドの『おさんぽ』には于禁が行くことにする。おぬしは典韋と展示場で対応だ」
「へえ? 珍しい……でいいんですかね? わかりましたよっと……だああ典韋殿! シシャモを吐かない!」
「遊ばれておるのう」
 屈んだ後頭部を典韋の吻に突かれている賈詡を尻目に、曹操はにこにこと微笑んでまた于禁に向き直ります。みたび、頭や首筋を撫ぜられて于禁はいよいよ恥ずかしくなってしまい、軽く首を振って曹操から離れました。愛いやつめ、という笑い混じりの声を背に、于禁は岩場に伏せます。彼はどこかから沸いてきたもぞもぞした不思議な気持ちを、どうにかして落ち着けたかったのでした。


 ◇


 そんなこんなで、午後になりました。給餌用のバケツを持った曹操が展示場にやってくると、于禁は挙動不審になり固まってしまいます。そんな彼を曹操は優しく優しく撫ぜてくれました。
「おぬしと外に出るのも久しぶりよな」
 そう言いながら、握手、回転、吠えるのハンドサインを曹操は出していきます。都度応えて魚をもらいながらも、于禁はなかなか上手に飲み込めません。自分からアピールしたことなのに、今さら後悔の念が襲ってきます。曹操はそんな于禁を見ておかしげに笑いながら、「さあて、行くか」と歩き始めました。
「…………うーきーん」
 なかなかついてこない于禁に、曹操がかける声はやはり楽しそうです。そのままひとりと一頭はじっとしていましたが、我慢勝負に負けたのは于禁でした――そもそも曹操にしてみれば“どちら”でも構わないのですから当然でしたが。
 観覧エリアに繋がる扉から于禁の巨躯がもったいぶるように歩み出てきます。周囲のお客さんに観覧上の注意を述べながら、曹操は彼の背をそっと押すようにしました。
「久しいゆえな。さあ、おぬしの行きたいほうに向かうとよい」
 普段ならばあまりそういうことはしないのですが、外に出たがることが滅多にない于禁は本当に久々の『おさんぽ』でしたから、曹操は向かう先も彼の意思に任せることにしました。そうすると于禁はまたしても深く考え込むように首を垂れ、たっぷり五分後、ついに『天河走廊』へ向かって歩き始めました。
 オットセイ・ゴマフアザラシ展示水槽の前を通りがかると、オットセイの楽進が驚いたように口をぱくっと開けてガラス面に走り寄ってきます。その後、彼がひとつ鳴いたのに気づいたゴマフアザラシの荀攸ももいんもいんと這い寄ってきました。曹操は二頭に手を振って、「于禁が所望したのだ」と伝えます。二頭はプールに入ってゆったり泳ぎながら、于禁の姿が見えなくなるまで見送ってくれました。
 そうして、道ゆくお客さんたちに驚かれたり、気さくに話しかけられたりしながら、于禁は『天河走廊』まで出てきました。そこでもまた渋い表情をして動かなくなってしまったので、曹操はいよいよ苦笑するばかりです。素直でないわけではなく、彼なりの葛藤があるのでしょう。生き物が自分から何かすることを決断できるようになるまで見守るのも、飼育スタッフの務めです。
 『天河走廊』から伸びる三叉路の接続口に居坐るトドの巨躯にお客さんたちは興味津々ですが、小さなお客さんのひとりは少し怖かったのか、親御さんの陰に隠れて大きな生き物の動向を伺っている様子。曹操はにこりと愛想よく微笑みながら、「何も問題はないぞ」とフォローを入れてあげます。
「あぶなくない?」
「ふむ、時と場合による」
「…………」
「わしがいれば平気だ」
「飼育員さんがちゃあんと見ててくれてるから平気だよ」
 親御さんに頭を撫ぜられ、小さなお客さんはこくりと小さく頷きます。その仕草に曹操の眦が優しくすぼまったところで、ようやく于禁はまた歩き出しました。『天河走廊』の二重回遊水槽の光を背に受けて、彼がむかうのは呉フロアです。

 呉フロアは、アシカのショープールに向かって伸びる、長江に生息する魚たちや海獣たちを保護・展示する水槽『長江景』から始まります。この水槽に住んでいる二頭の保護スナメリが、いきなり通路に現れた見慣れぬトドの于禁に気づいて近寄ってきました。スナメリはその多くが神経質な生き物ですが、この二頭はとても好奇心旺盛だと全フロアの業務日誌に目を通している曹操も把握しています。しかし于禁は首を巡らして彼らを見たものの、歩みは止めませんでした。そのうち遊びの時間が来たのでしょう、水槽の外からボールが投げ込まれ、スナメリたちはそちらへ向かいました。
「…………」
 水槽から通路に射す、揺らめく光の模様が先を行く于禁の体にも映って、彼のふちはきらきらと青くひかめいています。曹操は満足げに口許をほころばせ、口を開きました。
「于禁よ。その突き当りが『鰭脚公園』だ」
 言葉が聞こえていたのか、于禁は擬岩の広場のある展示場に差し掛かったところで歩みを止めました。ショープールを囲むように設置された『鰭脚公園』の場内では、鰭脚類の幼獣たちが岩場でのんびりしたりプールで泳いだりしながら、思い思いの時間を過ごしています。
 その一番奥、日陰になっている岩場の上に、カリフォルニアアシカの幼獣――孫権がいました。ちょうどいい具合のくぼみに顎を載せて、すっかり目を閉じておひるねをしています。
 于禁はその場からじっとして動きません。
「傍に行かなくてよいのか?」
 曹操がたずねますが、于禁は応えません。そのうち幼獣たちが通路にいる大型鰭脚類の存在に気づき、奥に逃げるもの、興味深そうに近寄ってくるもの、その場でじっと于禁の動向を注視するものと、様々な反応を見せ始めました。念のため、と曹操は于禁の傍に立ち、いくつかハンドサインを見せます。それには于禁もポーズを返してくれ、差し出した魚もきちんと食べてくれたので、この場はひと安心と曹操は改めて于禁の後背に下がりました。これからどういうことが起こるのか、彼としても少し楽しみなところがありました。
 やがて、にわかに騒がしくなった場内の様子に気づいたのか、孫権が眠たそうに瞼を上げました。くわあと大きなあくびをひとつ、それからゆったりと周囲を見回します。まだ少し寝ぼけているようで、どうやらちょっぴり寝足りないのかもしれません。ですが――彼の目が、通路に佇む于禁の姿を捉えました。
 途端、孫権はがばりと体を起こしました。そしてばたばたと覚束ない“ひれあし取り”で岩場を乗り越え、プールを挟んで一番ガラス面に近い岩場まで走ってきます。そこで立ち止まるかと思いきや、彼は勢い余って岩場からひれを滑らせ、どぼん! と子供らしい音を立ててプールに落っこちてしまいました。びっくりしたのは孫権自身で、口からぶくぶく気泡を吐いてはばちゃばちゃと水面を前肢で叩き、水中で後肢をぶんぶん振っています。
 鰭脚類は水陸両棲であり泳ぎの得意な種族とはいっても、実は溺死してしまう個体の事例も少なからず報告されています。まだ離乳していない時期から、すでに“一頭立ち”してしばらく経った年齢の時分ですら、その悲劇はあり得ることなのです。そのことを考え、曹操が急いで懐からマスターキーを取り出したときでした。
「ガォッ!」
 于禁が強く、大きく鳴きました。それに驚いたのは曹操も――孫権もそうでした。アシカの子供はぷあっと水面に顔を出し、慌てながらも手近な岩場に前肢を載せることができました。そして、不安げに近くに寄ってきていた仲間の幼獣たちの間に割って入るように勢いよくそこに乗り上がると、今度はしっかりと体勢を立て直してきれいにプールに入水したのでした。
 すいーっと孫権がガラス面まで泳ぎ寄ってきます。彼はぺたりと前肢と吻先をガラスにくっつけ、口を吠えるように動かしました。一枚隔てているせいでささやかにしか聞こえませんでしたが、どうやらひとつ鳴いたようでした。
 それを受けて、フン、と于禁は鼻を鳴らしました。そしてくるりと体を回転させ、来た道を引き返し始めます。ガラスの向こうでまた小さく孫権が鳴くのが聞こえました。
 曹操は『鰭脚公園』を横目に見ながら、
「もうよいのか?」
とたずねますが、于禁は構わず、来たときとは違ってのしのしと軽快に帰っていきます。振り返ると孫権は未だにじっとして于禁の背を見つめていました。まだまだ真っ黒な子供のアシカの表情ではありますが、どうにも熱っぽく、物言いたげです。
(“罪な男”よな)
 そんなフレーズが浮かんできて、曹操は思わず笑ってしまいました。彼は孫権やその友達に手を振って別れを告げ――孫権はチラとも見ませんでしたが――さっさと先を進んでしまっているトドを追いかけます。
「于禁よ。明日も来るか?」
 答えはありません。恐らくですが「もう結構です」の意思表示なのでしょう。それがわかるくらいには曹操は于禁を愛していますし、彼の気持ちを汲むことがそれなりに得意です。
「またいつでも言うといい。共に散歩しよう」
「グァウ」
 今度は返事がありました。曹操は于禁の頭を撫ぜてやります。しばらく水に入っていないために短いたてがみはふかふかと乾いて、少しだけ太陽と、生き物のにおいがしました。


 ◇


 そんなことがあった一週間と少し後。韓当が朝の清掃のために『鰭脚公園』の展示場内に入ると、すでに孫権は観覧エリアに繋がるドアの前に陣取っていました。彼のお気に入りの岩場に目をやれば、最後の抜け毛がぱらぱらと散らばっています。どうやら、大変だった換毛は終わりを迎えたみたいです。
「アォウ!」
「……だめですよ孫権殿。俺は掃除をしなくちゃならんのです」
「アゥ!」
「…………」
 訴えを無視して掃除をしようとホースを片手に背を向けた瞬間――
「アォッ!!」
「あだっ!!」
 韓当は脛の裏にアシカの体当たりを食らってたたらを踏みました。がっちりと韓当の足を前肢で挟んでいる孫権が、「言うことを聞け」とアピールしてきます。
「孫権殿、わがままを言わんでくださいよお」
「どうした……韓当……」
 バックヤードから、先日新しく鰭脚類の飼育担当に配属された周泰が現れました。韓当が孫権の暴挙を訴えると彼はじっとアシカの子供を見下ろし、あろうことか、
「外に……行きますか……」
と屈みながら言うのでした。口許は珍しく微笑んでいて、韓当は「裏切りか!?」と焦ります。
「アォウ!」
「こら周泰、甘やかすなと言ってるだろうがー!」
「……仕方がないだろう……」
「開き直るな! 負けないようにがんばれ!」
「……無理だ……」
 そんなやりとりを重ねながらもなんとか場内の清掃を終え、バックヤードに戻ってお昼の給餌の準備をすれば、孫権が待ちに待った『おさんぽ』の時間です。バケツを持った韓当が『鰭脚公園』に入ると、やっぱり孫権はドアの前。まさかずっとそこにいたのか? と韓当はちょっぴり不安になってしまいました。
 孫権の頭に膝の裏をぐりぐりと突かれながら韓当は観覧エリアへの出口を開きます。ふらふらする韓当の脇をぴゅんとすり抜けて駆け出す孫権に韓当は、まだ『おさんぽ』の一歩も踏み出していないのにへとへとでした。
「まっ、待ってくださいよ……」
 声は届かず、韓当は慌てて黒い背中を追いかけます。通路を行き交うお客さんたちの間をすり抜けて、孫権が向かうのはもちろん魏フロア、トド展示水槽前。すっかり慣れたもので、トドの典韋は孫権の姿を見つけるといつもあいさつをしてくれるようになりました。孫権も典韋にあいさつを返し、そしてお目当ての于禁を探します。水槽前を右往左往して、彼はやっと于禁の姿を水底に見つけました。
「オゥッ!」
 孫権が声をあげると、于禁はちらりと水面を見上げ、ぐるりと水槽の底を一周した後、ゆっくりと水面に向かって浮上してきました。
 于禁の顔がはっきり見えるようになると、孫権はその場でくるりと体を回転させ、韓当が指示してもいないのに片方の前肢を上げてひらひらと振りました。于禁はその仕草を流し見ながら、ぐっとガラス面の近くを泳ぎ、そのまま岩場に帰っていきます。
「アゥッ!」
 韓当の目には、このアシカの子供はあのトドに袖にされたように見えたのですが、それに反して孫権は実に嬉しそうに鳴くのです。どうしてなのでしょう。まったく生き物の世界には理解することが難しい、不思議なことがたくさんあるものです。
 ところで、岩場に上がって日向ぼっこをする于禁の吻もなんだかどことなく、ふにゃふにゃと緩んでいるように見えます。もうすぐ曹操と共に訪れるフィーディングタイムが楽しみなのでしょうか? 于禁というトドがあんまり“そういう”性格ではないことは、このところ孫権のために魏フロアの業務日誌にも目を通していた韓当も知っていることなのですが……
「孫権殿」
 韓当は、ガラス面の脇に置かれた台座によじ登り体をガラスにぺったりくっつけて、やっぱり動かなくなってしまった孫権に声をかけます。
「よかったですなあ」
 孫権はちろりと目線をくれただけですぐに于禁を熱心に見つめる時間を堪能し始めました。
 そうだったらいいのに、と韓当は思っただけなので、答えはなくとも構いませんでした。

 それからすぐに、曹操と賈詡がトド展示水槽に入ってきました。すぐに韓当と孫権の姿を見つけた曹操はにやにやと楽しげな笑いを浮かべると、いくつかのトレーニングの後、ぽーいとガラス面に向かってタラを投げました。それを追って于禁もプールに飛び込みます――そして、孫権の目の前に落ちてきたタラに向かってまっすぐに泳いできました。
 二頭の目が合いました。于禁はぐわりと大きな口を開けてタラをくわえると、一瞬ぐっと水中に沈んだ後に力強く水飛沫を上げて水面にジャンプしました。
「!」
 きらきらと光を反射して、たくさんの水滴が孫権の視界に降ってきます。孫権はぽかんと口を開けて、それから“歓喜”の声をあげました。驚いた韓当が曹操を見ますと、彼もまた得意げな表情を浮かべて韓当を見ているのでした。
「! はは……」
 自然と韓当の顔にも笑みが浮かんできます。そうして、台座の上ではしゃぎ回る孫権の小さな頭に目線を落としました。
 ――もっともっと、たくさんのきらきらが彼の上に降るといいなあ。
 そんなことを考えながら、韓当も孫権と同じ方向を見つめるのでした。