このお話の系譜です。


 大陸の東、淮水流域、この土地の空は故郷の空より白みを帯びていて、天に薄氷が張っているように感じられる。故郷の空の抜けるような冴えた青も好きだが、このやわらかい薄氷色も孫権は気に入っている。結局、この地に住む人に恋をしていると、その人の上に広がる空も愛おしく感じられるものだ。
 街外れに建つその邸宅は家屋周辺にこそ草木が生い茂るものの、さらに周縁となるとまばらに木々が立つばかりの広い土地に囲まれており、ほとんど車通りのない私道が北と西に向かって延びるのみである。何もない野原を目指せば旧式の小さな複葉複座式のプロペラ機が着陸するのに然程労苦を要さない。それに、例え陸地に降りられなくても近辺にある川や海に着水すれば済む話だ。孫権はこの地がまるで己の訪問を一切拒むことがないかのように物事を都合よく考えている。

「……で、何でいるんだ……」
「こちらの台詞ですな」
 嬉々として扉を開けた玄関先で一転がくりと肩を落とす孫権に対し、無感動な視線を寄越すのが張遼、苦笑を返すのが徐晃である。二人はリビングテーブルに着いてすっかりくつろいだ様子で茶をすすっており、現在ここにいない家主に代わって客人を出迎えた。二人の言によると家主はどうやら街に買い出しに出ており、彼らは留守番を任されているらしい。
 勝手知ったるとばかりに孫権もまたリビングテーブルに着く。「茶を淹れますか」と張遼が問うが、「結構」と彼はそれを突っぱねた。
 二人のやり取りに苦笑するばかりの徐晃は、会話の糸口を見つけたのか孫権に体を向けた。
「孫呉はその後どうでござるか。つつがなく?」
「すべてが丸く収まったとは言い難い。国内全体の損害集計に加え、民間への戦後補償も額や範囲、期間も調整中だからな……だが、やり遂げねば」
「うむ、そうでござるな」
 徐晃も同意を返し、ひと口茶をすする。
「貴殿はこちらにいらしていてもよろしいので?」
 張遼が続けて問うと孫権は「いいのだ」と答えた。
「私にとてできることとできぬことがある。そして目下私にはできぬことが進行中だ」
「ふむ、然もありなん」
 薄く笑った張遼につられ、徐晃と孫権もまた同じように口の端を上げる。互いに似たような事情というわけだ。
「そちらの進み具合は?」
「まあ……大方同程度といったところですな。戦力の拮抗がそのまま政治力の拮抗と言ってしまえば穿ち過ぎですが」
「それは確かに穿ち過ぎだぞ。とは言え、だからこそ事態が簡単に良いほうにも悪いほうにも転がらなかったという見方はできる。あとはその膠着した環境からどれだけ脱却できるかだ」
 頬杖を突く孫権に張遼と徐晃も首肯を返す。
 そうしてリビングルームにほんの数瞬の空白が訪れたとき、邸宅の外からバイクのエンジン音が聞こえてきた。途端に背筋を伸ばした孫権の視界で、程なく玄関の扉が開いた。
「……やはりお前か。時間には早いなと思っていたが……」
「于禁! おかえり!」
 現れた家主――于禁の姿を見て孫権は勢いよく彼のもとに駆けていく。にわかに音が室内に満ち、仔虎ですな、という張遼の呟きは慌てた徐晃によって制された。
「あれは何だ」
「父のお下がりだ。修理すればまだ飛べるからと譲ってくださって……そしたら甘寧が安く直してくれたのだ」
「人の家の前を駐機場にするんじゃない。しかし複葉複座とは……」
「私はかわいらしいと思うぞ。兄に聞いたのだが、父と母はデートにも使ったらしい」
 平然とのたまった孫権に于禁はついに頭を抱える。
「どうやら観念したほうが良いようですな」
と言う張遼を徐晃はついに押し留めることがかなわなかった。


 ◇


 ――といった話を張遼がすると、李典は大きな口を開けて笑った。その隣では楽進もまた机に突っ伏して肩を震わせている。
「あー、その場にいたかった、俺。どんな顔してたんだあの人」
「いやはや、見たことのない表情でござった……」
 ほとんど巻き込まれたと言っていい徐晃は肩を落としながら、やはり彼もまた笑顔である。その隣にいる満寵も常から浮かべている笑みをさらに深めていた。
 戦争が終結してから、こうした光景は頻繁に見られるようになった。いつ鳴るとも知れないスクランブルアラートが当面は用済みになったであろうことを実感しているからだろうか。だが、そうした安堵は何も魏軍の戦闘機パイロット待機フロアのみに限られたことではない。そしてそれこそが彼らの望んでいたものでもあったのだ。
 彼らが、人々が勝ち得たものは尊く、大きい。

 ノックの音が鳴り、待機フロアの扉が開く。失礼します、と言って現れたのは作戦司令室所属の荀攸だった。彼の姿を見るなり、李典の隣で漫然と過ごしていた楽進が姿勢を正す。荀攸もまた彼にチラと目線を送ったが、すぐに満寵に向き直った。
「あれ、荀攸殿が直接?」
「いえ。ちょうどこちらに来る用事があったので預かってきました。どうぞ」
 そうして封筒を満寵に手渡す荀攸を流し見つつ李典はごく小声で楽進に耳打ちする。
「絶対うそ。あんたに会いたかったからだよ」
「り、李典殿……!」
 にわかに騒がしくなる二人にいよいよ荀攸は訝しむような表情を向ける。顔を真っ赤にした楽進が釈明しようと口を開いたとき、
「徐晃殿」
と満寵がやけに大きい声で言った。
「なんでござろうか」
「私、異動になるよ。開発部だ」
「……! なんと!」
 ガタリと椅子を鳴らして徐晃は半腰になる。にんまりと笑った満寵も立ち上がり、がばりと彼を抱きしめた。
「念願叶ったでござるな!」
「ああ! あなたの列機になれないことだけが心残りだよ」
「なんの、戦いの場が変わるだけのこと。貴公は常に拙者の支えでござる」
 見つめ合う二人は頬を赤らめて感極まった様子でいる。それを眺めていた周囲の人々もまた笑顔を浮かべた。
「とはいえ戦闘機パイロットから開発部って結構異例ですね」
 李典が言うと荀攸も頷き、「終盤の活躍が目覚ましかったですから」と続ける。確かに、とそれを聞いていた一同も納得した。
 先の戦争に於いて、満寵の開発したガジェットは事態の収束に一役買うこととなった。以前よりハードウェア開発に携わりたいと上層部に異動の要望を提出していた彼ではあったが、卓越した戦闘機操作技術も相俟って、前線部隊の人手不足を理由に却下され続けていたのである。しかし成果が出たことでいよいよ上層部も彼の言を無視できなくなったというところであろう。もちろんこの通達は作戦司令室及び郭嘉の指揮する管制室の口添えもあってのことだった。
「はあ、何を作らせてもらえるのかな。今からわくわくするよ!」
 うっとりと言いながら椅子に坐り直した満寵を見届けて、荀攸は一礼し部屋を辞去しようとした。
「あ、じゅん、荀攸殿!」
「! はい……なんでしょう」
 狭い室内を駆けてきた楽進を荀攸は顧みる。やや挙動不審な彼を呼び止めた側の楽進は頭をかいてどもった。
「あ、そのう……今度あなたを、食事に誘、いたいのですが……その、構いませんでしょうか」
「は…………はい」
 二人はそれぞれに顔を赤くする。少しの間の後「お時間のある日は」と楽進が言いかけたとき、彼の後背でわっと同僚たちが盛り上がった。
「それいいですね!」
 驚き振り返った二人に注目されたことに気づいた声の発生源である李典が、ごめん、と言うようにバツの悪い顔をして片手を自身の顔の前に挙げる。彼の様子を見とめた徐晃が、扉の前に立っていた楽進と荀攸に気づき笑顔を向けた。
「お二人もいかがでござろう? 満寵殿の出世祝いに酒席でもと」
「出世かどうかは人によるけどね」
 にこにこと笑う満寵の表情は、例え戦場の“花形”とも呼ばれる戦闘機パイロットから“裏方”である開発部への異動であっても、それはすなわち歓迎すべきことなのだと雄弁に語る。
「酒席というか……外で焼肉というのはいかがであろうか」
「バーベキュー? あんた、そういうの好きだったの」
 張遼の言を李典が驚きを以て遮る。張遼は首を振り、憧れておりました、と小さく述べた。その殊勝な様子に李典も毒気を抜かれて頭をかく。
「……ふーん。んじゃま、やる? バーベキュー」
「いいね、やろう! 荀攸殿もおいでよ。郭嘉殿たちも誘ってさ。張郃殿にも話をしないと!」
 急に話を振られた荀攸は思わず楽進を見る。視線を送られた彼はにこりと笑って、ぜひ! と快活に答えた。
「では……。郭嘉殿たちにも出席を訊ねてみます」
「でも、場所はどうする? 寮ではできないよね」
 満寵が腕を組み、傍らで徐晃も唸る。
「昨今外でやっても怒られない場所かあ……」
 ぼやきつつ頬杖をついた李典の横で、張遼が漫然と顎髭を撫でながら口を開いた。
「ひとつ、心当たりがあることにはあります」
 その場にいた全員の目線が彼に向いた。


 ◇


 今回の孫権の滞在日数は三泊四日の積もりであり家主にもその旨は通達して了承を得てあったが、一日目の昼に張遼、徐晃との邂逅、そして夕方に蜀軍の参謀本部に所属する龐統から翌日来訪の連絡が入ったことにより、孫権が予定していた計画は大幅な修正を余儀なくされることとなった。聞けば龐統は劉備の名代として徐庶と共に来呉していたが、想定より早く話がまとまったため時間ができ、国境に住む于禁を訪ねようということになったらしい。
『おや、孫権殿はそっちにいたのかい。それじゃああっしらは遠慮しとこうかね』
と、PCモニターの向こうで気遣わしげに龐統は申し出たものの、于禁に、
「いや。どうか来てくれ。孫権も、構わないだろう?」
という言葉と共にじっと見つめられては、孫権も諾と返すよりない。
 ――わかっている! 私はまだ何もはっきりとは伝えていない!
 ぐっと握りしめられた拳が虚しい。孫権は常から己の心情を態度で表現してきたつもりであったし、于禁もまた察しの悪い男ではないはずなのに、彼は意図的に孫権と対峙することを避けている節がある。
 だが、来るなと言われないということは期待してもいいということだ、と孫権は当たりをつけてもいる。今回だって張遼たちや龐統たちの来訪は予期せぬものであったはずだ。ならばそれがなかったとき、孫権は間違いなく于禁と二人きりでいられたのだ。
 戦争終結以降、于邸は閉ざしていた門戸を広く開いている。それはとても喜ばしいことで、孫権に口を出す権利などない。
 ――正々堂々、だ。
 南の虎は大概負けず嫌いなのである。

 故郷の酒を手土産にしていた孫権は、勝手知ったる食器棚から陶製の茶杯をふたつ取り出す。藍色の大きい一方は凹凸も多く粗野な見た目をしており、それより少し小さいつくりの辰沙色のもう一方はつるりとした側面中程に器をぐるりと囲むような蔦模様の装飾が入っていた。この邸宅を購入したとき唯一残されていたもので、亡くなった前の家主の所持品だろう、と于禁は言う。捨てられもせず使われもせず食器棚に仕舞われていたそれを見つけてこれを使おうと言ったのは、先の戦争の折にこの邸宅に世話になっていた時分の孫権である。
「器は使われなければ意味がないぞ」
 そう言う彼に于禁も折れて、孫権の滞在中は酒を飲むと飲まざるとに関わらずいつも食卓にこのふたつの茶杯があった。
 さて、と孫権が酒瓶に手をかけたとき、リビングルームの隅にある電話が鳴り響いた。キッチンからそちらに歩み寄る于禁の背中を流し見つつ、孫権は改めて酒瓶の封を切る。
「もしもし……張遼殿」
 えっ、と孫権は于禁を見た。于禁もまた孫権を見ていて目が合う。
「うむ、うむ……え? いや、ここに庭は……、む、それはそうだが……」
 ――何の話をしているんだ?
 孫権は冷や汗をかいた。なんだかものすごく嫌な予感がする。于禁が珍しく口籠もっていることもまたそれに拍車をかけた。
「……なるほど」
 ――何が?
「孫権、」
「嫌だ!」
 即答され、于禁は目を見開いた。
「嫌だとはなんだ。まだ何も言っていないが」
「どうせ張遼たちが来るんだろう。もうだめだ。私はきちんと事前に……何か月も前に申し入れをしてここに来ているんだぞ!? なぜ横槍を入れてきたものたちを優先せねばならない。もうだめだ。お前は私に構え!」
「だが、彼らはバーベキューをしたいと言っている」
 …………。
 たっぷり数十秒の間の後に、
「…………は?」
と孫権は口から漏らした。
「満寵殿の出世祝いだそうだ。お前も覚えているだろう」
「満寵…………ああ、あの」
 先の戦争で劣勢を覆すきっかけのひとつを作った軍人だ。戦後に顔を合わせた際、どうも愉快そうなやつだなと感じたことを孫権は覚えている。
「そうか。めでたいな」
「彼らの宿舎や自宅には場所がないゆえここでやりたいということらしい。明日の昼だけだ。構わないか? お前も相伴に預かれる。龐統たちも来るし……満寵殿は来月には転籍する都合、今しか時間がないと」
「…………ぅぐぐう……」
 ――ここで譲らねば私が狭量に思われるではないか!
 于禁の心象を悪くすることも本意ではない孫権はしかし、それでもしばらくは唸っていたが、やがて小さく頷いた。
「…………わかった。いいだろう」
 于禁はその返答に、心底から安堵したようにほっとひとつ息をつく。
「ありがとう。すまない」
 そうして受話器に向かった彼の穏やかな横顔を見て、孫権はたまらず切なくなった。
 確かに、彼はもう“あのときのような”表情をしてはいない。それは心から喜ぶべきことだ。だが孫権は、自身のみっともない妬心に懊悩している。
 受話器を置いた于禁が食卓に戻って来、改めて「ありがとう」と孫権に言う。孫権は頷き、酒瓶を取り上げた。
「そしたら、これは明日皆で飲むのがいいな。取っておこう」
「……少しくらいは構わないのではないか?」
 へらりと笑った孫権だったが、于禁に真顔で返されて目を丸くする。酒を過ぎるな、程々にせよ、と口煩いくらいに忠告してくる彼にしては珍しい、と思った孫権だったが、すぐに気づく。
 彼はばつが悪いのだ。
「…………じゃあ、一杯くらいは飲むか!」
 孫権が言うと、于禁は一層ほっとした様子で「ああ」と頷く。それを見て孫権はまたたまらない気持ちになった。
 ――そんなふうにしていると、悪いやつにつけ込まれてしまうぞ。


 ◇


 街外れのこの邸宅の上で夜はますます静けさをまとい、もはや音を嫌ってすらあるような気がする。以前のように客間に通された孫権は布団にもぐり込むとほうとひとつ嘆息した。
 うまくいかない……。
 夕食の席で彼はどうにか于禁に対し「三日目と四日目は自分との時間を過ごすように」との確約を取りつけることに成功はしたが、もしまた元同僚たちが何か言い出してしまえば于禁はそれを飲みかねないと危惧する。つまり決して不誠実な男ではないということだが、少し甘やかしが過ぎるのではないか? 彼の元同僚たちはやや調子に乗っているように孫権には見える。自分のことは遥か高い棚に上げて。
「いや……これはよくないな」
 ぽつりと孫権は声に出した。ごく小さなそれが客間の隅に転がる。
 己もわがままが過ぎる。于禁はもはや于禁の生を全うすべきであって、そこに他者の意思の介在する余地はない。“彼のしたいようにすべきだ”。それは、すべての生き物に開かれた、当然の権利だ。
「孫権」
 そのとき、ノックの音と共に低く小さな声で呼びかけられた。孫権は布団から飛び起き、足をもつれさせながら客間の扉に取り付く。慌ててそれを開くと、于禁が暗がりの廊下で目を丸くして立っていた。
「ど、どうした」
 于禁がそう問うてくるので、こちらの台詞だ、と孫権は思った。
「こちらこそ。どうしたのだ? 何かあったか?」
「いや……すまない、寝ていたか?」
「まさか。そうだとしてこんなに早く応対できないだろう」
「……確かに」
 神妙に于禁が言うので孫権は笑ってしまう。先を促すように首をかしげると、彼はわずかに悄然とした態度を見せた。
「すまなかった。先程のことを。お前をないがしろにした」
「! そのことはもういい。ちゃんと残りの日取りは私と共にいてくれると約束しただろう。気に病まないでくれ」
「だが」
「なんだ? 案外気にするたちなんだな?」
 その場の空気を払拭したくて孫権が茶化すように言えば、于禁はやはり居た堪れなさそうな表情をした。孫権はそれを見て彼の手をそっと取ってみる。振り払われることはなかった。
「彼らがああしてお前を気兼ねなく慕っているのを見ているとうらやましくなるよ。以前からあのような感じだったのか? 雰囲気のいいチームだったんだな」
「いや……」
 問いかけに于禁は首を振った。
「私は余人にとって親しみ易い男ではない。軍属時代、立場もあったが、そこまで同僚たちと関わり合いがあったわけでもない」
「――なるほど。つまり彼らはお前と仲良くなる機会を窺っていたということか」
「!」
 思ってもみなかったふうで、ぱちりと瞬いて孫権を見つめる于禁はどこかいたいけだ。孫権はにこりと笑ってみせる。
「皮肉にもそれはお前が軍を離れたことで実現したわけだ……我々は皆、お前を戸惑わせてしまっているのだな」
 そう自分から口にしたことで、孫権自身も于禁の内奥にある惑乱を突きつけられてしまった。軍属を離れ私人となった于禁は――彼の私室に見られるような――空白の多い時間を日々過ごしていたことだろう。何かしらの不祥事のためとはいえ、曲がりなりにも戦時中に佐官が“免職”になる事案は過去のどの国に於いてもそうあるものではない。それなりの退職手当があったことは想像に難くないが、「身の振り方は定まっていなかった」とは以前聞いた于禁自身の言だ。
 そこへ偶さか孫権が現れ、立て続けにかつての同輩たちが邸宅を訪れることとなった。世界に忘れられていたこの家は俄かに上空から地面まで賑々しさに満ちることになってしまった。
 その当惑たるや如何程だろう。
 孫権はごくりと唾を飲み込み、彼の目をじっと見つめた。
 ――こんな形にするつもりはなかったのだが。
 内心苦笑するも、相手を安堵させるためならば己の計画の破綻など瑣末なことだ。
 そっと于禁の手を離し、孫権は口を開く。
「お前ももうわかっていると思うが、私はお前のことが好きだ。恋仲になりたいと思っている。私がお前の傍にいたいと願うのはそういうわけで、何ら奇矯な事情や突飛な理由があるわけではないんだ。これで少しは得心するか?」
 首をかしげてみせれば、于禁の瞳は夜の暗がりのなかで揺れた。彼は俯き、少しの間そうしてからゆっくりと顔を上げ、改めて孫権を見た――やはり、困惑したように。
「じゅうぶんに突飛な理由だ、それは」
「なんだと! だが、お前は私の気持ちなどお見通しだったろう?」
「それは…………」
 于禁は言い淀む。ほの明るい闇に縁取られた彼の輪郭がわずかに赤らんで見えるのは孫権の気のせいだろうか?
 しばらくその場を沈黙が支配した。孫権は、こんな部屋の入り口でまごついているくらいなら彼を室内に招きたかったし、いつかのように彼の私室で布団を並べて二人一緒に就寝するならそれもいいと思っていたが、恐らくこの場では物事が動くことはないだろうということもなんとなく察していた。とにかく、孫権は決して彼を困らせたいわけではないのである。
「…………どう、応えたらよいのかがわからぬ」
 ようやく、于禁はそう言った。何の衒いもない、間違いなく彼の本心だった。
「うん」
 だから孫権もこの場はそれを呑むことにした。
「仕方がない。お前は賑やかさに少しずつ心を慣らしていかなければならないからな。馴染んできたところで考えてもらえればいい」
 孫権は于禁の肩を軽く掴む。
「私は待てる男だ。それはお前もよく知っているだろう? だから大丈夫。お前はお前自身を優先して、お前自身のために時間を使うといい」
 そうでなくてはならない、と孫権は続ける。于禁は何も言わず、眼差しもどこか頼りなかったが、目は逸らされなかった。そのことに孫権は満足して手を離す。
「さあ、明日はもうすぐ来るぞ。彼らが来る前に準備もあるだろう?」
「あ……ああ。そうだな。龐統たちも十時ころには着くし……張遼殿は場所さえ借りられればとは言っていたが。ものはすべて自分たちが持って行くからと」
「ふむ、当然ではあるな。ならば我々は連中が来るまでゆっくりしていようか」
 孫権は一歩退いた。暗に、部屋に帰れ、と于禁に促す。相手もまたそれを自然と察して、
「では。……おやすみ」
と言って客間から辞去した。
「ああ、おやすみ」
 そうして扉を静かに閉めた孫権は、その冷たい木材の表面に額をつけて顔の火照りを覚ます。はあ、と吐かれたため息は熱を持っていた。
 転がるように布団に潜り込み、孫権は身悶える。あらゆるすべてが台無しにされている気がする。ままならなさに叫びたくなるが今は夜だ。まるで計画通りに事を運ばせてくれない于禁に対する恨み言が口から漏れそうになって、
「…………そんなところも好きだなあ……」
結局出てきたのは、そんな言葉だった。


 ◇


 思えば出会った当初から孫権にとって于禁とは、行動が読めずままならない相手であった。とはいえ他者の“行動が読める”などと、誰にとっても本当ではないのだろうが。
 だが彼は、間違いなく戦闘機が近隣に墜落しパイロットがベイルアウトするのを目撃しているはずなのに、唐突に玄関先に現れた敵国のパイロットスーツを着たままの男を、相手が怪我をしていたとはいえ本当に“何も聞かずに”匿い、次いで現れた自国の軍人たちからはその存在を隠し通した――彼自身が元軍属であったにも関わらずだ。かと思えば、危険を顧みず敵国に潜入して己を捜索しに来た祖国の同僚たちを情状酌量の余地なく憲兵に通報しようとし、向けられた銃口にも怯む様子を一切見せなかった。特例とはいえ管制室に足を踏み入れることを一頻り渋り様々な立場の相手から激励されてようやくためらいがちにヘッドセットを装着した後、出された指示はすべて的確かつ明快であり、迷いがなかった。
 ――あのときかけられた言葉は、お前を心配している、と言っているようではなかったか。
 訊きたかったことは何ひとつ訊けず、本当に言いたかったことも満足に口から発せられず、それでもなお、彼のことを考えている。
 彼も同じように己のことを考えていてくれたらいい、と孫権は願っている。

 翌朝はよく晴れていた。
 ゆっくりしていよう、と昨晩言ったのに、于禁が私室の扉を開ける微かな気配で孫権も目を覚ました。元より戦闘機パイロットとして音には敏感なたちである。枕元に置いた腕時計に目を遣ると六時ちょうどを示していた。遮光カーテンの透き間を縫って外から射す光は、早朝らしくしんとした静けさを携えている。
 廊下の軋みさえ少しも聞こえない。己がまだ就寝中であることに配慮しているのだろう。孫権は起き上がりさっさと客間を出る。わざとらしくかちゃりと音を立ててノブを捻ったのは己の存在を知らしめるためだ。
 早く起きれば起きるほど、于禁と二人きりで過ごす時間は長く取れる。
 洗面室から水音が聞こえる。孫権は中をひょいと覗き込み、そこに家主の姿を確認して声をかけた。
「おはよう」
「! ああ、おはよう」
 顔を濡らしたまま于禁は孫権に顔を向けた。すまない、と笑って孫権は彼に傍らにあったタオルを差し出す。
「まだ眠っていていい。疲れているだろう」
「そうでもない。それに、何もないときはこのくらいの時間に目が覚めるんだ」
「そうか」
 ふ、と笑い混じりに于禁が返して、孫権もまた笑う。そうして二人順番に朝の支度を整えて食卓に着いた。
 朝食の席では相変わらず無言だった。昨晩一杯分の酒が注がれていた茶杯には今朝は豆乳が注がれ、塩加減がちょうどいい粥から上る湯気の向こうに于禁の黒髪が滲んでいるのを孫権はそっと見る。
 昨晩のことなどなかったように、彼は平常通りに振る舞っている。自分自身を優先すべきだ、と言ったのは孫権なのに、わずかでも彼が己を意識するような素振りを見せてくれたらいいのに、と考えるわがままな自分に孫権は辟易した。
「今日は」
「ん?」
 于禁が口を開く。孫権が姿勢を正すと彼は、
「洗濯を終えたら、少し歩かないか」
と問うた。孫権は一も二もなく頷く。そうすると于禁はほっと薄く笑って食事を再開した。孫権の匙を持つ手が震えた。
 いつになくてきぱきと洗濯物を干し終えた孫権は、魏国航空局に本日の飛行許可申請をキャンセルする旨を伝え、于禁が外出の支度を終えるのをリビングテーブルに着いてそわそわと待った。程なくして于禁も現れ、「では行こうか」と孫権を促す。
「ちなみにどこへ?」
 道すがら孫権が尋ねると、
「街へ」
と于禁は返した。
「街? 買い物か?」
「そうだな。龐統たちに持たせる手土産と、周さんと呂さんが野菜と果物をもらってほしいから暇なときに寄れと」
 その言葉に孫権は虚を突かれて瞬く。
「ちゃんとご近所付き合いがあるんだな」
「近所ではないが……過日買い出しに出た折、周さんを襲った物取りを呂さんと協力して私人逮捕したのだ」
「素晴らしいことだ。なるほどそれで」
「あの家に住んでいると言ったら以前の家主のこともご存知だった。その縁で時折お二人の畑で穫れた作物を分けてもらうように」
 そうか、と相槌を打ちながら、孫権は于禁の世界が確かに拡がっていることを実感して胸の奥が熱くなる。いつかは一人きりで冷え切ってしまうかもしれないと心配していたが、彼は少しずつ他者の熱と受け入れ始めている。
 ――そのなかの、一番大きな存在でありたい。
 孫権の願いとは結局のところそれだった。
 于邸から街までは徒歩で一時間弱かかるが、会話をしたり景色を見たりして歩いていれば然程の疲弊はない。元より好いた相手と共に歩くのだから孫権にとっては何ら苦ではなかった。普段は移動にバイクを使用している于禁だが、買い出しの内容によってはこうして歩いて行くこともあると言う。今日は“荷物持ち”がいるから、と冗談混じりに彼が言うので、孫権は嬉しくて笑ってしまった。
「以前の家主、か。戦死されたとは聞いたが」
「ああ。老母と二人暮らしをしていて、彼女が亡くなられて程なく志願兵となったらしい。呂さんに聞いて初めて知ったのだが、その時点でこの家は売りに出していたそうだから……」
「…………」
 孫権は首肯するに留める。そして、彼らの食卓に常に置かれた二つの茶杯のことを思った。

 やがて街に着き、賑わいがそこかしこから聞こえてくるなかに二人も混ざった。朝飯時は過ぎたのだろう、立ち並ぶ飯店は人影がまばらで、店員が片付けや休憩をしている様子も見える。
 この街は魏呉の国境の際にあるにも関わらず、先の戦争による被害がほとんどない地域だった。そのため戦火により焼け出された両国の人々が少なからず移住してきており、新興住宅地の開発が進むなか、元々あった民間の戦傷者支援施設に加えて国主導の大規模な戦災支援センターも設立され、戦前より発展した地域のひとつとなっている。
 聞けば于禁と付き合いのある呂氏は、戦没者遺族の支援に携わる民間団体の責任者であるということだった。「とんでもない人脈ができたものだな」と孫権が言うと、于禁も頷く。
「お前は、己の身分は?」
「……明かしていない。訊かれもしていないからな」
「そうか」
「やることがないなら手伝わないかと言われている」
「! いいんじゃないか?」
 孫権の声が上擦った。考えていた以上に于禁は歩みを進めていたようだ。于禁は逡巡した様子だったが、小さく首肯を返した。
「いつまでも漫然としているわけにもいくまいな……」
 その横顔を見て孫権はぎゅうと心臓を掴まれた心地がした。
 話をしているうちに、商店街から路地を曲がり住宅街に入ってきた。朴訥とした家々が居並ぶ一区画で于禁は立ち止まり、ここだ、と言う。
 見れば庭先で土いじりをしている一人の老爺がいて、于禁は塀越しに「周さん」と声をかけた。彼は顔を上げ、于禁の姿を確認すると相好を崩した。
「やあ于さん、ご足労ありがとう。夏野菜が穫れすぎちゃってね。ちょっと量が多いよ」
「いえ、いただけるだけでもありがたいです。それにちょうど今日人が来ますので」
 そこで周老人は于禁の隣にいる孫権を見た。
「お友達? どうも、周と申します。于さんには先日ひったくりを捕まえてもらいましてね」
「孫です、はじめまして。話を聞いて、彼らしいなと思っていたのです」
「本当だね」
 周老人と孫権は笑い合い、そうして周老人は二人を庭に手招いた。夏らしく青々と茂る畑で、艶やかな光を反射する野菜がそこかしこに生っている。
「ばあさんと二人じゃこんなたくさん食べられないから。育てるのは好きなんだけどねえ。余り過ぎたら孤児院にやったりもする」
「立派だと思います。こちらには焼け出された子供たちも多く拠ったと聞いています」
「そうだね……」
 傍らにあった背の高い藁籠に次々放り込まれていく苦瓜や白梗菜、空心菜を見て、于禁は思わず周老人を呼んだ。
「入れ過ぎでは……?」
「ごめんよ、もう少しだけ」
「…………」
「あ、豆苗と茭白! 私の好物だ、于禁」
「おお、そうか! じゃあたくさん持って行って」
「…………」
 結局藁籠は様々な野菜で満杯になり、孫権は笑いながらそれを背負い上げた。周老人が嬉々として彼の腕を軽く叩く。
「丈夫だね。よろしく頼むよ」
「はい! ありがとうございます」
「ありがとうございます……こんなにたくさん」
「恐らくだが大人数で食えば一瞬でなくなるぞ」
 孫権の言葉を受けて「楽しんで」と言う周老人に見送られ、二人は周邸を後にした。しばらく歩いたところで「すまない」と口にした于禁に孫権は首をかしげる。
「大荷物になってしまったな」
「そんなことか。今日の私はお前の“荷物持ち”だぞ。それに、鍛えているのだから平気だ」
 ぐるりと腕を回した孫権は「現役の戦闘機パイロットだぞ」と得意げにのたまう。返された于禁の笑みは、どこか困ったような、それでいて気安いものだった。
「野菜の炒めと具沢山スープでも作るか……」
「苦瓜ならバーベキューで一緒に焼いてしまってもいいんじゃないか? 魚醤を垂らして」
「それもいいな」
 そんな会話を交わしながら、程なく二人は次の目的地である呂氏の自宅に着く。呼び鈴を鳴らすと出てきたのは恰幅のいい女性で、于禁を見るなり「やあ!」と大きな声で言った。
「待ちくたびれたよ! 荔枝が腐るところだった」
「大げさに言わないでください。今日は歩いてきたのです」
「そっちの子は友達?」
「あっ、孫と申します」
 孫権が頭を下げると、呂氏はにこりと白い歯を見せて笑う。そうして彼女は家のなかに戻ると、次に出てきたときには荔枝と葡萄の入った大きな木箱を両腕で抱えていた。
「友達もいるんならこのくらい食べれるよね? いつもありがとね」
「い、いえ、こちらこそ……」
「ありがとうございます! 荔枝は好物です」
 にこにこと笑う孫権に呂氏もまた嬉しげに笑ってみせる。呂邸ではそれ以上荷物が増えることもなく、二人は難なく辞去することができた。
「あとは……龐統たちへの手土産だな」
 大通りを歩きながら孫権の言うのに木箱を抱えた于禁が首肯したとき、二人の傍に一台の軽自動車が停止した。
「おおい、お二人さん」
 見れば車内には助手席に坐る龐統と、その向こうの運転席に坐る徐庶がいる。孫権と于禁はそちらに歩み寄った。
「奇遇だね。買い出しかい?」
「お前たちへの土産を買いに来たつもりだったのだが」
「おやおや、どうやら仕込みを看破しちまったようだね」
「この車は?」
「レンタカーだよ。呉で借りたのさ」
 乗りなよ、と龐統が後部座席を促す。二人はありがたく同乗することにした。両腕で藁籠を抱え直した孫権に徐庶が笑いかける。
「すごい。お二人とも大荷物ですね」
「ああ。バーベキューのメニューが増えたぞ」
「魏の連中が企画したやつだね。御相伴に預かれるのは嬉しいけども、軍人が大勢で押しかけちまって大丈夫なのかい」
「まったくだ」
 他人事のように孫権は笑う。于禁は彼をちらりと横目で見、呆れたように車窓に目を向けた。
「その店の前で止まってくれ。すぐ戻る」
 于禁に言われ、車は静かに停まる。さっと降車した彼が小ぢんまりとした菓子屋の店内に入って行くのを見、「気にしないように言うのを忘れていたね」と龐統がぼやいた。
「ありがたくもらっておけ。なかなかこちらに来る機会もないのだから」
「ま、それもそうだねえ」
「でも、もうすぐたくさん時間ができるよ」
 徐庶が言う。孫権と龐統は頷いた。
 于禁は五分もせずに戻ってきた。助手席の龐統に紙袋を渡し、さっさと乗車するのに孫権は笑ってしまう。
「早いよ。情緒ってもんがない」
「あとで渡し忘れてはかなわぬゆえ。家はこのまま真っ直ぐだ」
「わかりました」
 徐庶はやはり静かに発車した。

 徒歩で一時間弱かかる道のりは、車で移動すれば十分程度で着いてしまう。邸宅脇のスペースに停めた車から降りるなり、龐統は呆れたような声を上げた。
「孫権殿、あれがお前さんの“愛車”かい」
「ははは。譲ってもらいたて、修理したての“新品”だ」
 軽口を交わしながら邸内に入り、藁籠を下ろして孫権はようやく一息つく。ありがとう、と于禁に肩を叩かれれば、多少なりとも感じていた疲労さえ霧散してしまったようだった。
 リビングテーブルに出された茶を飲みながら四人はめいめい楽な態度を取る。孫権と于禁の使う茶杯こそ先住のものではあるが、客人用の食器の数は以前より大幅に増えた。
 “そういったこと”がどうも目につく。
 彼らが落ち着いて然程間を置かず、外から車のエンジン音が聞こえてくる。孫権が窓に寄ると、道の向こうから二台のSUV車が走ってくるのが見えた。
「やー! 于禁殿! お久しぶりでっす!」
 邸宅の前に停まった一方の車の後部座席から転げるように降りてきたのは李典である。彼は玄関先で出迎えた四人を順番に見、最後に孫権の肩を軽く叩いて小声で言った。
「ごめんな」
「……構わないさ。私もお前たちに会いたかった」
「そ? そう言ってくれると嬉しいぜ、俺」
 彼は于禁に向き直り、今日はよろしくお願いします、と満面の笑みを作った。李典に次いでぞろぞろと降りてきた客人たちに、龐統は「ずいぶんと大所帯だね」と呆気に取られたような声を出す。徐庶はというと龐統の後背に半身を隠すような素振りをするので、龐統に肘で小突かれた。
 一行の最後に両脇に器材を抱えて現れた満寵に于禁は「おめでとう」と声をかけた。
「ありがとうございます! いやあ、今から楽しみで楽しみで」
「皆で来たのか?」
「賈詡殿と郭嘉殿は当直で来れませんでした。さすがに管制室を留守にはできませんしね。蒋済殿も残念がってましたよー」
「彼は酒が飲みたいだけだろう」
 横目で己を見ながら言う于禁に孫権はくっつき、満寵に向かって、「いい酒を持ってきたのだ」と主張した。しかしそれに反して相手は困ったように笑って、すまないね、と謝罪を口にする。
「何かあると悪いので、今日はみんなで酒なしって決めてるんです。お気持ちだけ」
「……………………」
「……孫権殿、あっしは助手席だから、少しくらいなら付き合えるから」
 見かねた龐統が横から口を出してようやく、孫権は悲嘆の淵からわずかに這い出すことができたのだった。


 ◇


「いい色ですね」
 キッチンカウンターで藁籠から出された苦瓜のひとつを手に取り、張郃が言う。うむ、と于禁は頷き、次々とリビングテーブルに野菜を並べていった。
「荔枝と葡萄もあるから、胃は余分に空けておけ」
「どれだけ食べても果物は別腹でしょう。大丈夫ですよ」
 そう言いながら張郃はてきぱきと半分に割った苦瓜の種とわたを取り、切り進めていく。
 玄関の扉は開け放してあるものの、邸宅の外にある音は内には少し遠い。穏やかな喧騒を耳にしながら、包丁がまな板を打つ軽やかな音がキッチンに響いている。
「于禁殿は、どうですか、最近は」
 張郃が静かに問う。続き間になっているリビングのテーブルで野菜を切り分けながら、于禁は、うむ、と言葉を濁した。
「……それなりだ」
「おや、そうですか」
「ああ」
「于禁殿、張郃殿、何か持っていくものあります?」
 不意に違う声が飛び込んできて、二人は同時にそちらを見た。玄関先に立っている徐庶が目を丸くする。
「あ、ええと……すみません……」
「いいえ。ちょうど半分終わりましたので、先にこちらを」
 張郃が差し出す苦瓜を載せた皿を受け取ると、徐庶は軽く頭を下げた。
「あなたは、郭嘉殿と賈詡殿がいらっしゃらなくて一安心ですか?」
「はは……そういう意地悪な言い方しないでください」
 困ったような笑みを浮かべて徐庶は出て行く。その仕草に、ふふ、と控えめな張郃の笑い声が漏れた。
 徐庶と入れ替わりにばたばたと邸内に入ってきたのは孫権である。その手に焼き肉の載った皿を携えて、彼は于禁の傍に駆け寄った。
「ほら、于禁。あーん。うまいぞ!」
「…………」
 口許に突き出された肉に于禁はほんのわずかためらい、しかし小さく口を開いた。本人の勢いとは裏腹にそっと差し込まれた肉を咀嚼しつつ、于禁は横目でちらりと張郃の様子を伺う。案の定、相手は顔を背けて肩を震わせていた。
「ふっふふふ……」
「…………」
「うまいだろう? 張遼が持ってきたらしい。肉を見る目はあるようだ」
「ああ……うまいな」
 于禁の言葉に孫権は満面の笑みを浮かべて、今度は張郃に顔を向けた。
「お前も食べるか?」
「ふふ……いえいえ、私は結構です」
「そうか」
 そうして彼は自身も肉を一切れ食べるとリビングテーブルの隅に皿を置き、于禁の隣に立った。「手伝おう。私は何をすればいい?」と尋ねる彼に于禁は、「鍋で湯を沸かせ。野菜を放り込んで煮るだけだ」と答える。孫権は大きく頷いた。そうして、キッチンカウンターで作業する張郃の後背で、勝手知ったる孫権はコンロ、キャビネット、シンクを行ったり来たりした。
「于禁殿。苦瓜切り終わりました。ごみはどちらに……」
 孫権の作業の合間に言うと、横から彼が「私が捨てよう」と手際よくごみを回収していくので、いよいよ張郃は嘆息する。
「ありがとうございます。すっかりもう一人の家主ですねえ。では私はこちらを持っていきますので」
「ああ、わかった」
「早くいらしてくださいね。お肉がなくなってしまいますよ」
 そう言い残して軽やかな足取りで玄関から出て行く張郃を見送り、孫権は于禁の傍に歩み寄った。
「全部まとめて入れてしまうのか?」
「ああ、もうそれでいいだろう。棚に鶏がらスープの素がある」
 野菜の入ったボールを抱えてキッチンカウンターに向かう于禁について孫権も歩く。外から、わあ、と何やら愉快な笑い声が聞こえてきた。
「皆、楽しそうだ。それに、お前に会えて嬉しそうだな」
「……彼らは皆、気のいいものたちだ。お前も早く戻るといい」
「なぜ。お前と一緒に行くよ」
「…………慣れない……」
 于禁はキッチンカウンターに両手を突き、がくりとこうべを垂れた。それは心底から吐き出された懊悩の声で、孫権はたまらず于禁がいとおしく思えてしまって彼の側頭部に触れる。眉根を寄せた于禁が孫権を横目に見た。
「何をする」
「お前が心許なさそうだったから」
 孫権がささやくように言うと、于禁は黙った。そのままこめかみから後頭部へ、撫ぜるように指を差し入れると于禁は目を細める。
「……むず痒い」
「……それは情緒のない台詞だ」
 くしゃりと于禁の後頭部の髪をかき回して孫権が手を離したとき、
「終わりましたか?」
「おわーーーーっ!!!!」
 叫んで于禁から飛び退いた孫権が声のしたほうを見ると、玄関先に荀攸が立っていた。常から朴訥とした無表情がいっそう感情をなくしたように見える。
「すみません。お邪魔しては悪いかとも思ったのですが、俺も便所を借りたいので」
「あ、ああ。便所はそこを入って右側の二つ目の扉だ」
「ありがとうございます」
 指し示した奥へ向かう荀攸の姿が見えなくなったところで、孫権と于禁は気まずげに顔を見合わせた。

 程なくして完成したスープを持って屋外に出ると、客人たちが持参したガーデンテーブルには焼き肉や串焼き、野菜が所狭しと載せられていた。現れた途端背中を押され用意されたガーデンチェアに坐らされる于禁の姿に孫権は苦笑するばかりである。酒精などただの一滴も入っていないのに、その場はすっかり酩酊したふうであった。
 于禁の周りは満寵と徐晃が独占しており、さらに言えば主体的に話しているのは“自身がこれから生み出すもの、その有用性”というテーマで言葉がほとばしる満寵一人であり、徐晃は于禁と同様にほとんど相槌を打つのみである。何名かは孫権の乗ってきたプロペラ機の周囲で航空機談義に花を咲かせており、孫権もそちらに混じった。時折会話は交差し、誰かが口を挟み、それに対する答えがあって、笑い声が起こる。
 穏やかな風が吹いた。
「于禁殿は……」
 荔枝と葡萄の載ったガーデンテーブルの向こうで、楽進がぽつりと問う。
「……戻ってこられるおつもりは、ありませんか?」
 静けさは南から北へとあたたかい風に乗って流れていく。于禁は言葉では答えず、しばらく間を開けて、ただゆっくりと首を振った。ほう、と誰かがため息を吐く。
「……帰るときに残りの荔枝と葡萄を持っていってくれ。郭嘉殿たちにも裾分けをしたい」
「……ええ、わかりました。実にうまいですからな。喜ばれるでしょう」
 張遼が答え、その手に持っていた葡萄の一粒を皮ごと口に放り込んだ。

 たっぷり四時間楽しんだバーベキューを終えた客人たちはその場の後始末をすると、場所代の名目で心ばかりの謝礼と「また来ます」という別れの挨拶を残して、日が暮れ始める前には帰っていった。その後、于邸の食器の片づけを終えて茶と共に一服していた龐統と徐庶も、「そろそろ帰ろうか」とどちらともなく言い出して立ち上がる。
「于禁殿、お土産ありがとさん。孫権殿も、またね」
「ああ」
「俺たち、しばらくは荊州勤務ですし、よかったらお二人も遊びに来てください。もちろん蜀にも」
 徐庶が差し出す手を握り返し、孫権は力強く頷く。めいめい握手を交わした四人は連れ立って邸宅を出た。脇に停まっていた小ぢんまりとした軽自動車も、遠路遥々この地まで走ってきたのだな、と孫権は思う。
「孫権殿、あの酒おいしかったよ。ありがとさん」
「それはよかった。また今度宴会をしようではないか。そのときは徐庶も飲むぞ」
「ええと……はい。喜んで。于禁殿に咎められない程度に」
 その言葉に振り返ると、于禁が中途半端な渋面で孫権を見ていることに気づき、彼は笑った。
 それじゃあまた、と別れの挨拶をして軽自動車は静かに発進する。その背が道の向こうで小さくなったところで、孫権と于禁も邸内に戻った。
「ああ、腹いっぱいだ。晩はそこまで量が多くなくていいと思うのだが」
「うむ。雑炊でもするか……」
 二人して自然とリビングテーブルの対面に腰掛け、卓上に出されたままの茶杯に目を向ける。
 孫権はちらりと于禁を見た。彼はぼんやりとキッチンの壁を見ていた。
「よかったのか?」
 出し抜けに問う孫権に、于禁の瞳が向けられる。
「何がだ」
「軍属に戻らなくて。彼の言い方なら、籍の融通も効いたのではないか?」
「…………」
 于禁は目を伏せ、それから「よかった」とはっきり口にした。しかしそれ以上の言葉はない。
「……まあ、確かに。お前に軍属に戻られては私も困る。こうして会える機会も少なくなってしまうからな」
 笑いながら言う孫権に、于禁はわざとらしく嘆息した。
「またお前は、そういうことを……」
「大切なことだぞ?」
「……ふ」
 于禁がささやかに吹き出す。ついにおかしげに笑い出したその表情に孫権は目を丸くし、それから同じように破顔した。


 ◇


 魏軍基地中央施設の管制室の扉をノックして開くと、奥のモニター前で談笑していた郭嘉と賈詡の二人が振り返った。
「おやあ? 荀攸殿。どうしたんです? 楽進殿は今日は午後からですよ。出勤はもう少し後じゃないかな」
「承知済みです。于禁殿から皆様にと茘枝と葡萄を頂戴しましたので。生物ですから早いほうがいいかと」
「それでわざわざこちらまで? ご足労ありがとう」
「パイロットの皆さんの分も含まれてありますので、食べ尽くしてしまわないでくださいね」
「どうしよう、急に自分が食いしん坊だったような気がしてきたよ」
 軽口を叩く郭嘉に賈詡が笑い、荀攸は呆れたように果物の入った紙袋を室内のテーブルに置く。そこで郭嘉が、「ところで」と口を開いた。
「どうだった? 例の件」
「ああ……俺が訊ねる前に楽進殿がほとんど同じような問い掛けをされまして。拒否と見て相違ないです」
「そう。……まあ、わかっていたことではあったけれど」
 紙袋から葡萄の一粒を摘まみ上げて口に含む郭嘉を、早いよ、と賈詡が咎めた。荀攸も小さく首肯を返し、おもむろに葡萄を摘まむ。
「それで戻って来られる方なら、あのとき依願免官していませんよ」
「然もありなん」
 いよいよ賈詡もテーブルを囲んだ。三人で黙々と葡萄を摘まむ管制室には、ただモニターや周辺機器から鳴る音だけが響く。
「…………賈詡、あーん」
「ばかたれ」
 口許に持っていった粒を拒否されて、ひどいな、と笑いながら郭嘉は自分の口に放り込む。二人のやり取りを見つめていた荀攸は、はあ、と息を吐いた。
「荀攸殿にもしてあげようか。はい、あーん」
「必要ありません」
 今度はぴしゃりと突っぱねられ、郭嘉はいよいよ声を立てて笑った。つられて賈詡と荀攸もまた笑い出す。
「……于禁殿は受けていましたよ」
「ん? 何を」
「“あーん”」
「…………」
「…………」
 管制官であると共に魏軍中枢を担う作戦参謀でもある二人が呆気に取られているのを尻目に、荀攸はさっさと自分の葡萄を摘まんで管制室を辞去した。
 そのまま基地中央施設を出ると、彼は周りを囲むフェンスの向こうに見える滑走路と機体格納庫に目を向ける――本部へ戻る前に少し覗いていこうか。彼の思い人には、待機室に入る前に人気のない機体格納庫の裏でトレーニングをする習慣があった。荀攸がそれを知ったのは偶然だったが、以来何度かその場所で逢瀬を重ねてきた。
 ひょいと覗き込むと、果たして楽進はそこにいた。だが予想に反してトレーニングはしておらず、壁面に背をつけてしゃがみ込み、ぼんやりと空を見つめている。
「……楽進殿?」
「ん? あ! 荀攸殿! おはようございます!」
 立ち上がりかけた彼を制するように、荀攸はその隣に同じように屈み込む。
「昨日はお疲れ様でした」
「こちらこそ! お肉も野菜も果物も、おいしかったですね」
 己の言葉に明るい言葉とにこりとした笑みを返す楽進に荀攸の心はぬくもる。だがその様からは、数瞬前に空を見つめていた彼の横顔に浮かんでいた哀愁は感じ取れない。
「――すみません。何か、考え事でも?」
「え? っと……」
「いえ、珍しく、トレーニングしていないようでしたので……出過ぎた真似を」
 わずかに荀攸が顔を視線を逸らすと、いいえ、と楽進は少しだけ声を大きくして答えた。
「嬉しいです。あなたが気にしてくれて……その、于禁殿のことを考えておりました」
 その言葉に荀攸は昨日のことを思い出す。郭嘉からの依頼があって、荀攸は于禁にひとつの問い掛けをせねばならないはずであった――だがその前に、企ての埒外であった楽進に意図せずそれを遮られてしまったのである。
「……わかってはいたのです。でも、訊かずにいられませんでした。はっきり言われてしまったら、なんだか……すごく、寂しくなって。自分でしたことなのに」
「……いつでも会いに行けますよ」
 荀攸が言うと、楽進は遠慮がちに首肯した。そうしてまた、空に目を向ける。荀攸も同じように顔を上げた。遥か遠く、青々と滴る山の稜線の向こうに立体的な入道雲がいくつも連なって巨大な塔を形作っている。二人してしばらく無言で見つめていると、それはほろほろと少しずつほどけて夏の空に小さく白いかたまりをこぼしていく。
「楽進殿、今度――」
「はい?」
 口を開いた荀攸を楽進は見た。荀攸もまた、彼を見つめ返す。
「いろいろなことが落ち着いたら……俺と旅行にでも行きませんか」
 楽進がぽかんと口を開いてそのまま固まってしまう。その様子に荀攸は急に気恥ずかしさを覚え、ひとつ咳払いをした。
「いえ、その……それまではめいっぱい寂しがってですね。そうしたら……普段は空から見ているものを地上から見てみるのも、いいのではないかと」
「…………そう……そうですね。ぜひ……」
 硬直から解けてぎこちなく頷いた楽進は、そうして覚束ない笑みを浮かべた。荀攸はその寂しさを理解しきれない己のことを口惜しく思いながら、それでもなお彼を安心させるように笑って返してみせた。


 ◇


「ええ、そうです。昨日はどうも……あ、そうですか。すみません、ありがとうございます。はい、よろしくお願いします。ええ、そうですね。コールサインは……」
 孫権が電話している背中を于禁は見つめている。程なく通話を終えた彼は振り返りざま、于禁が己を見ていたことに驚いた。
「なっ、なんだ?」
「よもや昨日も連絡をしていたのか?」
「あ、ああ。撃墜されてはかなわないからな」
 その答えを聞いて申し訳なさそうな表情をした于禁に孫権は慌てる。今回の訪問以前、魏国上空を自家用機で航行する旨については航空局に事前申請をして許可を得ていた彼ではあるが、その準備段階として先の戦争で伝手となった郭嘉への連絡も入れていた。そのためかの人物の口利きにより容易に話が通ったこと、また日程中の予定によっては当日のキャンセルを行う可能性があると前置いていたことを説明すると、ようやく相手は眉間のしわを少しだけ解いた。
 夏の陽射しを浴びて青々と茂る野原には、己の役目が果たされるのを今か今かと待っている複葉複座式の小さなプロペラ機がいる。機体を明るい赤に塗られ、まるで景色に浮き出るような存在感に于禁は目を細めた。
「周泰に一度乗り込んでみてもらったが、広さは問題ないということだ。だが、窮屈だったらすまん」
「いや……構わん」
「さすがに一度、給油のために飛行場に降りる」
「どこの?」
「お前の故郷の近く」
 言いながら下翼に歩み寄る孫権に于禁は瞠目した。彼は振り返り、于禁に笑いかける。
「泰山を見に行こう。ぐるりと一周して戻ってくるんだ。大丈夫、誰も飛行機に乗っているのが私とお前だとはわからない……ああ、郭嘉以外は、だな」
 そうして彼は下翼に片手を突いて言った。
「行こう。約束したではないか」
「それは……違う。お前が勝手にしゃべっていただけだ」
「聞いてはいたんだな」
 ふふ、と息を漏らした孫権は、真っ直ぐに于禁を見つめる。
「于禁。ひとつ答えてくれ。あの日、なぜ私を助けたのだ?」
「…………魔が、さしただけだ」
「具体的に言ってくれ」
 問いを重ねられ、于禁は口をつぐむ。孫権は彼を待つことに苦はなかった。
 長い沈黙の後、于禁はようやく口を開いた。
「…………例え……私が何者で、お前が何者であったとしても……助けが必要なときに手を差し伸べてやれるなら……変わることもあるのではないかと思った」
「…………」
 はあ、と于禁は大きく息を吐く。苦しげに、緊張した様子で。
「……所詮はただの自己満足だった。お前が望むような答えなど、どこにもない」
「……だが、確かに変わったじゃないか」
 孫権の言葉に于禁は首を振る。
「…………言っている意味がわからぬ」
「そのままの意味だ。変わったことはあるんだよ。私とお前がここまで親しくなった。お前の家の食器が増えた。野菜や果物をくれる相手ができた。遠方から遊びに来る友人ができた。そしてお前は今これから、私の後ろに乗って、空を飛ぶんだ」
 行こう、と改めて孫権が言う。于禁は逡巡し唇を引き結んだが、やがて腹を括ったかのようにこくりと頷いた。
 孫権に促され先行して後部座席に乗り込んだ于禁は、やや狭いながらもかつて慣れ親しんだコックピットの様子に嘆息した。装着したヘッドセットのバンドを調節し、マイクを口許に近づける。シートベルトを締めると、スピーカーがジジ、と鳴った。
『シートベルトは締めたか?』
「ああ、今しがた」
 前方の操縦席から孫権がわずかに身を乗り出し、親指を立てた。
 キャノピーが閉じられ、しばらく孫権の計器確認の声が続いた後、エンジンがかかる。プロペラが回り始めると、機体全体に心地よい揺れが伝わった。
『離陸開始』
「許可する」
『はははっ!』
 穏やかに動き始めた機体は徐々に加速していく。数十秒と待たず、車輪が野の草を巻き上げて地面から離れた。ゆるやかに、しかし確実に視界が上昇していく。それによって発生した上下の揺れは程なく収まり、機体は安定しながら空を目指す。すでに樹冠は遥か下方にあり、まるで海に浮かぶ島々のような積雲の群れの底が間近だ。
 遠く、遠くに、青く霞む山の稜線が見える。それは確かに于禁がかつて知っていたもののひとつだった。
『于禁、具合が悪くなったらすぐに言うんだぞ。空は久しぶりだろう?』
 スピーカーから、気遣うような孫権の優しく丸い声が、于禁の耳を通して体内に染み込んでいく。
「ああ…………本当に、久しぶりだ」
 機体にまとわりつく光が線になり、キャノピーを突き破って于禁の瞳をやわらかく刺す。つんとした痛みが眼窩にじわりと広がり、眦からこぼれ落ちた青い滴を于禁は手の甲でぐいと拭った。
「……孫権」
『ん?』
「……次に地上に降りたときに返事をする。だから……できるだけ長く飛んでくれ」
『今すぐ降りたいが!?』
「だめだ」
 くう、と呻き声がスピーカーの向こうでわだかまっている。于禁は相手に聞こえないよう喉の奥で笑って、キャノピーの向こうの景色に目を向けた。
 燃えるような青が一面に広がっていた。