「敵機撃墜!」
 張遼の高らかな宣言が響き渡った。ヒュウ、と李典が口笛を吹き、楽進、徐晃が次々に賞賛の言葉を送る。
「さすがは張遼殿。長機を見事に撃墜してくれたね」
 編隊より遥か高空を飛ぶ管制機から郭嘉の無線が入ってくる。撃墜された敵機は青天の下に黒煙を上げ、真っ逆さまに海へと落ちていった。張遼はその軌跡をしばし目で追った後、すぐさま周囲に視線を走らせた。
 長機を落とされた敵編隊の列機は、急旋回し張遼たちの小隊を追うことを辞めて飛び去って行く。李典の機体がその後ろを追うような仕草をした。
「どうする、張遼。追撃するか」
「いや! いささか弾数を多く消費させられてしまった。落とした頭が頭です、向こうも戦意喪失しているでしょう。追撃は無用かと」
 それを聞き、わかったよ、と李典は操縦桿を握り直した。徐晃の無骨な声が無線に飛び込んでくる。
「郭嘉殿、パイロットはベイルアウトしたのでござろうか」
「うん。パラシュートの影が見えたよ。錐揉みする機体に煽られて少し遠くに流れてしまったようだ。風向きと位置から察するに、煙に遮られて敵編隊には着陸地点が視認できなかった可能性が高いね」
 管制機の中で郭嘉は地図を見やり、撃墜した敵機パイロットの降下地点を予測する。
「おや、ここは……」
 とん、と郭嘉の白く細い指先が海岸線をなぞった。
「いかがなさいましたか」
 楽進が問う。
「これは運がいい。生きているならなんとしても捕虜にしたいし、それでなくとも生死の別は確認しておきたい相手だからね」
「と、言いますと」
「国境の際には于禁殿の住まいがあるんだ」
 郭嘉のその言葉に、編隊に驚きが広がる。楽進が先陣を切って叫ぶように言った。
「う、于禁殿と仰ったのですか!?」
「うん、そうだよ」
 戸惑いに徐晃の声が掠れる。
「で、ですがあの御仁の所在は、“退役”になってより一年、誰も存じ上げなかったのでは」
「さすがに“免職”になったとはいえ佐官だった方。何かあってはまずいからね、関わりはしないがちゃんと幕僚監部で連絡先は控えさせてもらっているんだよ。もちろん向こうも了承済みだし……」
「……てことは、俺たちの誰一人にも行く先を教えてくれなかったのも、于禁殿の意思ってことか」
 郭嘉の言葉を受けて、李典が苦々しく吐き出す。四機に沈黙が降り、郭嘉は苦笑交じりにぽつりと、言わなきゃよかったかな、と呟いた。
「とにかく皆、帰投しよう。于禁殿には連絡を入れておくから、すぐに対応してもらって……」
「郭嘉殿。もしよければ、于禁殿の住まいには私を向かわせてほしい」
 張遼が言う。それを聞いた僚機の徐晃も、拙者も随行いたす、と声を張り上げた。
「いや、あなたたちには有事の際に動いてもらわなければならないんだ。それは許可できない」
「今落とした頭を回収するのでしょう。私が向かい責任を持って首都まで護送いたします」
 四機の編隊と管制機はそれぞれ機首を基地のある北に向けて旋回し、心なしか急ぎ足で飛んでいる。決して頑固なわけではない張遼が一切譲らない様子を見せているのに、郭嘉は困ったような表情を見せた。徐晃が続く。
「拙者は一番機の傍を離れるわけにはまいりませぬゆえ。張遼殿に従います」
「郭嘉殿。今回のことで向こうの対魏戦線はてんやわんやになるだろうさ。それでなくても今、列国はどこも多方面に展開していて、うちにだけ構っているわけにもいかないんだ。張遼たちが行って帰って来る間にまた出撃してくるなんてことは、ないと思うぜ、俺」
 李典がフォローするように言うと、郭嘉はようやく、そうだね、と答えた。
「なにせ何としても確保しておきたい身柄でもある。聞きたいこともあるしね。それじゃあ、張遼殿と徐晃殿には捕虜の保護に向かってもらうよ。その間あなたたちの小隊には列機として満寵殿と蒋済殿に入ってもらい、長機は楽進殿とする。いいね」
「はい、わかりました」
「了解。頼んだぜ、張遼、徐晃殿。于禁殿に……そのー、なんだ、一言言ってやってくれ」
「何と?」
「あー……」
 口ごもり、何か言いたいことがあるとき、李典には頭に手をやる癖がある。
「……あんたの厳めしい声が、もう一度聞きたいって」
「……相分かった」

 ◇

 曹魏と孫呉の国境近くを流れる淮水の河口付近、海岸線を形作る小高い崖の際に寄り添うように茂る林の中に、その家はひっそり佇んでいる。以前の家主は戦争で死に、空き家になっていたところに懲戒免職になった曹魏の元将校が移り住んだ。
 魏呉の衝突発生の翌日、波の音が静かに聞こえるその家を訪れた張遼と徐晃を出迎えたのは、驚きに目を丸く見開いた于禁だった。
「……郭嘉殿より通達があったゆえ、下士官が来るものと思っていたが……」
「郭嘉殿は我々が来るとは仰らなかったのですか」
「いや、人を寄越すから、と」
 徐晃は笑う。あの御仁はそうやって人をからかうところがござるな、と。
 二人を邸内に招きながら、于禁は、しかし、と言った。
「すまないが、件の敵機パイロットとやらは見つけられなかった。本当にこのあたりに落ちたのか?」
「ええ、そのはずでした。まだ一日しか経っておらぬとは言え、見つからなかったとなると……波にさらわれたか、或いは……」
 リビングルームから海を臨む窓を張遼は見遣る。岸壁に絶え間なく打ち寄せる波頭の白、縹渺たるその青の下に黒があるのを彼は、彼らは知っている。
「呉軍総司令官、孫堅の第二子、孫権。捕虜としてこれほど有用な首もない。まさかこのような形で終焉を迎えるとは信じ難いが……」
 于禁は二人をテーブルに着くよう促し、自身は続き間のキッチンに向かい茶を淹れ始めた。訪問客を見越してか、沸かし立ての湯が白い湯気を立ち昇らせている。
「既に呉軍に救出されてしまったのであろうか」
「いや、国境を越える者の中に不審な人物はなかったとの連絡は既に入っているし、沿岸の哨戒も抜かりはありませぬ……その可能性は低いでしょう」
 首を傾げて話し合う二人の前に、リビングテーブルに戻ってきた于禁が熱い湯のみを差し出した。
「まずい茶ですまないが」
「ああ、いいえ、構いませぬ。ありがとうございます」
 彼はそのまま二人の向かいの席に着くと、ふう、と一息つき、確かに、と話し始めた。
「昨日、貴殿らの空戦を見た。呉軍の戦闘機が一機、海に落ちて行くのも」
「ベイルアウトする人影は見ませんでしたか」
「いや……覚えていない」
 于禁は目を細めて、物憂げな表情になる。
「空が……眩しかったからな。よく見えなかった。役に立てずすまない」
 いいえ、と徐晃は慌てて首を振る。
「それよりも、壮健なご様子で何より。一年ぶりでござるな」
 喜色満面の徐晃の表情を受けて、于禁もくすぐったそうに眉根を寄せた。その様子を見た張遼も小さく微笑む。
「……あの一件、全く于禁殿の過失ではござらぬ。皆、貴公の復帰をお待ち申し上げております」
「李典殿から言伝が。……貴公の厳めしい声を、もう一度聞きたいと」
 少しの沈黙の後、ふ、とささやかな笑みが于禁の口からこぼれた。
「……それは……物好きなことだな」
 そして、首を振る。
「もういいだろう。貴殿らも早急に戻らねば任務に支障が出る。引き続き私の方でも行方不明のパイロットは捜索してみよう。何かわかり次第、郭嘉殿に連絡する」
 立ち上がり、自分の湯呑みをキッチンに戻しに行く于禁の後ろ姿を見ながら、張遼と徐晃はささやかに視線を交わした。張遼が小さく首を振り、徐晃はがくりと肩を落とす。それでもどうにか顔を上げ、彼は于禁に訴えた。
「また……茶を飲みに来てもいいだろうか。実に美味い味でござった」
「茶を飲むくらいなら……いくらでも」

 林の中の細い道を、張遼と徐晃を乗せた軍用車が走り去って行く。その影が見えなくなるまで玄関に佇んでいた于禁の背後から、ひょこりひょこりとおぼつかない足取りで歩み寄って来る男があった。
 男は于禁の後ろで立ち止まると、その背に言葉を投げかける。
「あなたが……かつて名を馳せた曹魏のエースパイロットの一人、于禁だったとは」
 振り返り、男を見る于禁の頬をかすめていった風が、男の長く赤い髪も揺らした。
「その名が曹魏空軍の幹部名簿から削除されて一年……なぜ私を二人に引き渡さなかったのだ」
 于禁は目を細める。
「お前は“孫権”だったのか?」
 その言葉に、男はたじろいだ。
「片足を引きずり片腕をぶら下げた全身びしょ濡れの男が急に訪ねてきて……名乗りもせず『何も聞かず匿ってくれ』と言うからその頼みを聞いてやったまでだ。あの二人の口にする名は、私には心当たりがなかった」
 于禁は玄関の戸を閉めると踵を返し、男の横を通り過ぎてまっすぐキッチンカウンターに向かう。彼が冷めかけた湯の入った薬缶を再びコンロに掛け火をつけるまで、男はその一挙一動を見つめたまま動かなかった。
「座れ。茶を淹れ直すから飲むといい。曹魏エースパイロットお墨付きの味だ」
 ほんの少し笑い混じりのような声に、男は慌ててテーブルに着く。
「多少強く捻ったくらいで骨が折れているわけでもなし、お前の怪我はすぐに癒える。そうしたら……」
 男の視野からは見えづらかったが、于禁は確かに微笑んだようだった。
「お前はどこへなりと行ける」

 ◇

 男は己を”仲謀”と呼べ、と言った。一宿一飯の礼に、と言いながら既に滞在してから五日が経とうとしている。負傷した右腕、そして左足首の捻挫は日常生活に少々支障をきたし、完治するまでには二、三週間程度かかるだろうと地元の医師に告げられた。
「洗濯物、干し終わったぞ、于禁」
「ああ……、お前は先に中に入っていろ」
 庭先で一仕事を終えた仲謀が声をかけると、于禁にそう返された。いつものことだ。仲謀がバスケットを抱えて邸内に入ると、直後、彼の耳に戦闘機のエンジン音が聞こえてくる。
 張遼と徐晃、曹魏空軍を代表する二人のエースパイロットが于禁邸を訪れてより連日、魏呉の国境線を哨戒する曹魏空軍の哨戒機一機と随伴する戦闘機二機の編隊は必ずこの国境近くにある林の上を飛行し、戦闘機二機が大きく二度旋回した後にまた北に飛び去る、という行動を続けていた。それを見上げる男の表情が彼らに視認できているのかどうかは定かではないが、遥か上空を飛ぶ彼らには見えずとも、窓越しに于禁の姿を見つめる仲謀には見えることがある。
「敵国のパイロットがこの近辺に降下して行方不明なのだ。哨戒任務も厳になろうというもの」
 于禁は言うが、仲謀にはそれだけとは思えない。室内からも僅かに確認できる機影、今日は楽進と李典のエレメントだった。彼らは于禁と会話をしているのだ。一年ぶりの再会を喜んで、旧交を温めている。
 北に去って行く三機の編隊を見送った于禁が邸内に戻って来る。その表情はいつもの角ばった顔つきだ。
 空を見上げる横顔が湛えた、悲しさや虚しさなどどこにも感じさせない。
「……今日の晩飯は何にするんだ?」
 問いかけると、その鋭い眼差しが仲謀を向き、はあ、と一つ溜め息をついた。
「余計な悩みを持ち込むんじゃない」
「なんだ、悩んでいるのか。この右手さえ満足に動かせれば、私が代わりに故郷の味を振る舞ってやれるのになあ」
 ははは、と笑う仲謀に、于禁は額に手をやり再度嘆息する。
「……わかった、横で指示しろ。その通りに作ってみよう」
「いいのか!? たった五日離れているだけなのに、もう懐かしくて仕方がなかったんだ」
 キッチンに向かう于禁の後ろを仲謀がひょこひょことついて歩く。
 普段より少しだけ大きな声で、仲謀は故郷の話をした。広大な江南を西から東へ流れる長江、己の本拠は首都にいる父や兄とは違い、その長江の偉大なる流れが注ぎ込む太湖――彼らは震沢と呼ぶそうだが――のほとり、陽羨であるという。
「空から見ても美しい湖沼の数々、艶やかな江水の曲流、その水面に反射する朝焼けなどは特に素晴らしい。霧がかっておぼろげな様も何とも言えないものがある。于禁はこの広陵で生まれたのか?」
「いや、違う。私の故郷は泰山の麓にある」
「泰山!」
 仲謀の声がにわかに上ずる。
「世に比類なき霊山か。一度でいいからこの目で見てみたいものだ」
「国境からはまだ遠くて見えぬか」
 麺を茹でる鍋をかき混ぜながら于禁が言うと、見えぬ、と仲謀は悩ましげに頷いた。
「お前も戦闘機に乗っていたならわかるだろう。遥か上空から見下ろしてみれば何のことはない、この大陸のどこにも国と国とを隔てる境などないのだ。そして私にはどこへでも飛んで行ける翼がある。それなのに――」
 仲謀は言葉を区切り、ため息とともに、どこへも行けない、とこぼした。
「お前の故郷を見てみたいなあ、きっと美しい山なのだろう」
「……ああ、そうだな」
「それに私の故郷の美しさをお前に見せたい。泰山にはまだ戦火は及んでおらぬであろうが、我が祖国の建業、呉郡は国境にほど近い。悠長なことは言っていられないのだ……」
 己をいぶかるような視線を寄越す于禁のその双眸に、仲謀ははっきりと自身の目を合わせた。
「一つ、信じてほしいことがある。我々呉軍に戦争の意志などない。誰も、望んでいない」
 于禁は息を呑む。あまりに近くにある仲謀の、碧い瞳が強い輝きを放っている。
「それを――私に言ってどうする。私は既に軍役から離れた身。それにお前は……ただの、居候だろう」
 目を逸らした于禁に、仲謀の眉が悲しげに下がる。身を引いた彼は、ああ、そうだった、とぽつりと呟いた。
 しばしの間、沸き立つ湯の音だけが室内に響く。
「……あの二人の言っていた『あの件』とは、一体何があったのだ?」
「お前に言う必要はない。ほら、麺の硬さを見ろ」
 仲謀が捻り出した話題を袖にして、于禁は菜箸で茹でた麺の一本を彼に差し出す。熱い熱いと言いながらそれを口で受け取った仲謀は、咀嚼しながら頷いた。
「うん、十分十分。そしたら今度はこれを焼くんだ、焦げ目が付くくらい」
「わかった」
 湯を切るから離れていろ、と于禁に言われた仲謀はその場から更に一歩引く。流し台に置いたざるに湯を空けると一気に白い湯気が立った。
 その中に浮き上がるような于禁の黒い髪を見ていた仲謀の心に、ふと一つの考えがよぎる。
「いいなあ、こういうの」
「? ……何か言ったか?」
 大量に流れ込む水音に遮られて言葉をうまく聞き取れなかった于禁が振り返る。その不思議そうな、いとけない表情を見て、何でもない、と仲謀は笑みを返した。

 餡を掛けた焼きそばを口に含みながら、そもそも、と仲謀は主張した。
「口に物を入れたまま話すな」
「む、……すまん。そもそも、今回の件も我々にとっては魏軍側の領空侵犯に対するスクランブル対応だったのだ」
 なんだと、と眉を吊り上げた于禁を、まあ聞け、と仲謀は諭す。
「ところがいざ国境線に出てみれば、向こうもまさに今来ましたといったような様子で、あまつさえこちら側に対して即刻立ち去れと言う。おかしいのだ。魏軍がこちら側の領空を侵していたのなら、一度自国の空域に戻り、また整然とした編隊を組んで航行してきたことになる」
「ほう。お前は詳しいな、仲謀」
 とりあえず得心はいったのか、芝居がかったような口調であくまで他人事の体を崩さない于禁に、仲謀は身を乗り出して訴える。
「なあ、それ、もういいのではないか? まどろっこしくてならぬ。あの二人がまた来たら隠れていればいいのだし、それに……」
 言い淀んだ仲謀を于禁が見遣ると、彼は僅かに頬を赤らめて口を尖らせた。
「その仲謀という呼び名、久しく誰にも呼ばれていなかったから気恥ずかしいのだ。家族も友人も誰も使わぬ。私と……お前だけが呼ぶ名だ」
「な……何をばかなことを」
 仲謀につられて于禁の頬も染まっていく。二人して揃って顔を俯けながら、不意にその場に立ち込めた浮ついた空気に戸惑った。
「……それで、領空侵犯の話の続きは」
「あ、ああ、そうだった! それで、気になったからベイルアウトする前に三人に調査は頼んでいる。もうそろそろ結果も出ているとは思うが……お前もあの時、空戦を見たと言っていただろう。我々の他に、何か不審な点はなかったか」
 ふむ、と于禁は顎に手をやり、髭を撫でさすった。
「私が外に出たのも警告射撃の音が聞こえたからだからな……エンジン音も両軍のものだけだったように思う。その前に何があったかはわからぬな」
「そうか……」
「しかし、仮に魏呉のどちらにも属さない何らかの機体が両国の領空を同時に侵犯したとして、両軍がスクランブルを受けて発進、当該地点に到達するまでに、いずれの方位に飛び去ったにせよどちらのレーダーでもその航行経路が観測されないということはあり得ない。確かに……おかしなことだ」
 厳しく低い声でそう呟く于禁の眉がいっそう顰められる。“退役”し軍務から離れたとはいえ、彼は確かに軍人だったのだと仲謀には確信できた。
 おもむろに于禁は立ち上がり、リビングの隅にひっそりと置かれた電話に近づいた。受話器を取った彼は仲謀を振り返り、口元に人差し指を持っていく。頷いた仲謀は、おちゃらけるように自身の口元を左手で塞いでみせた。
 于禁は、軍を去る際に見送りに来た郭嘉から教えられた電話番号を辿り、一つ一つもったいぶるように押していく。何かあったらいつでも連絡してくれ、と郭嘉は言った。了解した、と返しながら、きっとその時は訪れないのだろうと彼自身思っていた。
 指先が、震えた。

 ◇

「ああ……于禁殿、よかった、思い出してくれて。本当は敵パイロットから事の次第を聞ければよかったのだけれど。……いや、それが聞けただけでも十分ですよ。実はこちらでも調べ始めているんです。情報が増えてよかった」
 電話口で嬉々とした声を上げる郭嘉を賈詡は横目で見遣る。通話相手はかつての同僚のようだ。恐らく二度と会うことはないだろうと思っていただけに、その名を聞くことは素直に驚きに繋がったし、また喜ばしくもある。通話を切った郭嘉が何か話し出す前に、賈詡は声を上げた。
「于禁殿ですか、久しぶりですねえ」
「そうだね。連絡がもらえてよかった。我々の交戦開始より前には、一切のエンジン音や動力音は聞こえなかったそうだよ」
「ははあ……すると、やはりこの信号は欺瞞ですか」
 管制室、早期警戒管制機、そしてスクランブル対応した戦闘機四機のレコードにそれぞれ記録された信号を賈詡は示す。白昼、1520時。鳴り響いたアラートに、曹魏空軍の誇る“鬼神”たちはすぐさま走り出した。
「だとしたら見事なものだね。魏呉両軍に対して同時に欺瞞妨害をかけ、やり遂げてみせたのだから……」
 常にたおやかな微笑みを浮かべている郭嘉の、口の端がにやりと上がる。賈詡は片眉を上げ、椅子に坐り直した。
「割り出してみせましょう。大した肝の坐った野郎だ、俺たちを敵に回したのは、愚かと言うよりないですがね」
 その背もたれを郭嘉は二度叩き、頼んだよ、と笑った。
「孫呉に連絡を取ってみよう。ただし、あくまで内密に。敵の目的はあまりに明白だからね」
 了解、と返事する賈詡は、敵に計をかけられてやり返さんわけにはいかん、と心の中で吐き捨てる。同時に、手ごわい相手でもある、と感じていた。列国にそれぞれ属する名の聞こえた軍師たち、彼らの智謀が冴え渡り天下に轟くならば、二頭の虎を互いに食い殺させることなどわけはない。――しかし、それは賈詡や郭嘉であっても同じこと。
 賈詡の隣のデスクにつき、忙しなくキーボードを打ち始める郭嘉も、賈詡の見立てが確かならば武者震いをしているようだ。大陸の列国が互いに宣戦布告し、大陸全土に開戦の狼煙が上がって三年。最も強大であった董卓軍が瓦解した後、曹魏が立て続けに呂布軍と袁紹軍を打ち破って以降、膠着状態にあった戦況を打破し均衡を破る好機でもあるのだ、と二人は理解している。
 乾坤一擲、ここに於いて命運は別たれたのだと、後の歴史書は語るだろう。
 ディスプレイの隅に出したウインドウで、レーダーに仕掛けられた欺瞞妨害による観測サインが点滅している。賈詡は目を細めた。
 始まった戦争は必ず終わらせなければならない、どんな犠牲を払っても。

 ◇

 どすん、と何かの倒れる音に、寝入り端にいた于禁は飛び起きた。今この家にいるもう一人の男が傷病者であることを思い出した彼が慌てて寝室を出ると、案の定、暗い廊下に倒れ込んでいる怪我人――仲謀がいた。
「何をしているのだ、お前は」
「お、起こしてしまったか。すまん、いや、足が覚束なくて……」
 はにかむ仲謀に呆れたようにため息をつきながら、于禁は彼に手を差し伸べる。
「何かあれば呼べと言っただろう」
「小用くらいで人が呼べるか、子供ではないのだぞ」
「それで転んでいては元も子もないだろうが」
 仲謀は己の傍に支えるように立つ于禁を、悔しそうな表情で見上げた。
「……恥ずかしいんだ、私にも矜持がある」
「空より高い矜持なら、それでこそ戦闘機乗りだ」
 からかうように于禁は言い、ほら、行って来いと仲謀の背中をおもむろに押す。振り返ると彼は壁にもたれるようにし、どうやら仲謀が小用を済ませ戻って来るまで待つつもりでいるようだった。
「さっさと寝ても構わんぞ」
 口を尖らせた仲謀が告げると、目が冴えた、と于禁は笑った。

 果たしてその通りに事を済ませた仲謀を待ち構えていた于禁に、ならば共に寝ようか、となかば意趣返しのように仲謀がのたまうと、彼は首をかしげながら、わかった、と答えた。虚をつかれた仲謀を置き去りにした于禁は、居候に宛てがっていた空き部屋に向かうとさっさと布団一式を抱えて出て来てしまう。こうなると慌てるのは仲謀で、自室に向かう于禁にひょこひょこ追いすがりながら、待て、と叫ぶように言った。
「そんなつもりではなくてだな、ただ……」
「また何かあっては怪我の治癒に障りがあろう。早く治して本国に戻らねばならんのだろう?」
 問われ、仲謀は頷く。
「ならば不用意な行動は起こさぬことだ」
 言いくるめられ、はい、と小さく返事をしながら、仲謀は自室に入っていく于禁に続いた。
 この邸宅に世話になってより五日、入室を許されるのは初めてだった。寝台とその横に置かれた小さな書棚、壁に寄り添うワードローブだけが申し訳程度に自己主張をしている暗い部屋。彼が住み始めてから約一年は経っているはずが、それにしては空白が目立つ部屋だと仲謀には思われた。
 于禁は彼の寝台の傍に仲謀の布団を放り投げ、無造作に敷き直す。ありがとう、と仲謀が言うと、彼はこくりと頷き返した。
 さっさと寝台に上がり寝転がった于禁が自分に背を向けるのを見つめていた仲謀だったが、不意に、その背に投げかけたい言葉を見つけた。
「于禁は、もう一度空を飛びたいと思わないか」
 弧を描いて飛んでいったそれが、こつん、と夜の闇に溶けかけた于禁の肩に当たる。返答はない。
「体も鈍っているだろうから、きっと容易く操縦はこなせまい。私の後ろに乗るといい」
「…………」
「戦いのない空を共に飛ぶのだ。お前の故郷の山を見に行こう。そうしたら今度は私の故郷の川や湖沼を。そうだ、蜀の地の峻険な山々もいいな。西の砂漠の果てもいい。知っているか? その遥か向こうに、星の生まれる海があるという」
 ひそやかな空間に仲謀の丸い声だけが響く。
「いいか? 私がお前を連れて行くからな。本国に戻ったら早くこの戦争を終わらせて、すぐにお前を迎えに飛んで来る。そのときは――私を見上げるそのときは、どうかあんな顔じゃなくて、笑っていてくれ」
 仕舞いには早口になってしまった仲謀は、そう言って布団に潜り込む。頭まですっぽり覆い隠してしまえば、顔の火照りで温もってくるようだ。
 全体自分は何を言っているのだろう。恥ずかしいことを口走ったような気もする。それでも、仲謀の本心からの言葉だった。
 張遼は――彼のかつての同僚は、彼のことを“厳めしい”と表現していた。そして、国境をまたいで聞こえてくる彼の勇名は、まさに峻烈の一語に尽きた。それだのに今、己の隣で眠ったふりをして息をひそめるこの人は、空を見上げるあの顔は、まるで脆く、まるでやわらかだ。生ぬるい優しさだけで形作られた不安定なかたまりのようだ。
 仲謀はこの人に、どうか心安らかにいてほしいと思っている。
 二度とあんな顔で空を見上げさせたくはない。自分なら、そうさせたりしない。

 ◇

 何事もなかったかのように翌日が来るはずだった。実際、仲謀はこれまでのように于禁と朝の挨拶を交わし、顔を洗って歯を磨き、朝食の準備を始める于禁を横目に洗濯機のスイッチを押した。
 それとほぼ同時に――インターホンが鳴り響いた。
 仲謀が洗面室から顔を出しリビングルームに続くドアを見やると、音を立てずにそれを開けた于禁が顎をしゃくって、引っ込んでいろ、と示す。こくりと頷く仲謀を見届けた彼が閉ざしたドアの向こうから、はい、と応答する声が聞こえた。
「朝早くにすみません。人を探しています。赤い長い髪を一つ結びにした、目の碧い男です」
 于禁が玄関の戸を開けると、そこに立っていたのは于禁と同じくらい上背のある、顔に傷を持った男と、短い髪を掻き上げ、不思議な意匠の耳飾りをつけた男の二人だった。ぺこり、と彼らは同時に頭を下げ、この辺ではぐれたんです、と耳飾りの男が続けた。
「五日……六日前くらいです。見かけませんでしたか」
「いや、私は……」
 いぶかるように眉根を寄せた于禁の耳に、リビングルームに続く廊下のドアの開く音が聞こえた。
「仲……!?」
「あーっ、隊長!!」
「…………よくぞ、ご無事で……」
 耳飾りの男が叫び、傷の男が噛みしめるようにそう言った。
「朱然、周泰! やはりお前たちか!」
 足を引きずった仲謀がリビングルームを渡って玄関に歩いてくる。驚く于禁に、仲謀は首を振り、我が親愛なる列機だ、と言った。
「朱然、そして周泰という。もう一人、陸遜というのがいるのだが」
「陸遜は基地にいてもらってます。気になることができたので……」
 朱然がちらりと于禁を見遣るのを目に止めた仲謀が笑う。
「彼は于禁、私を匿ってくれているのだ」
「そうなんですか。ありがとうございました」
 ぺこ、と頭を下げる朱然を于禁が手で制した。
「問う。貴殿らは孫呉空軍に所属するパイロットか」
 鋭く硬い声を発した于禁を、朱然や周泰は元より、仲謀も目を丸くして見遣った。
「……そう、ですが」
「現時点で曹魏と孫呉は国交断絶状態にある。民間の交流が微弱ながら続いているとはいえ、軍属の貴殿らの越境は断じて許されない。加えて武器を携行している」
 于禁が、周泰が腰に提げた拳銃のホルダーを指し示す。
「密入国者として入国管理機関に通報する。神妙に縛につけ」
「于禁……!?」
 大股で部屋の隅にある電話に向かう彼を、仲謀の焦燥した声が追いかけた。己を受け入れてくれた彼が、己の列機を受け入れてくれないとは思わなかった、とでも言いたげである。
 受話器を取り上げた瞬間、朱然と周泰が同時に拳銃を構え、その銃口を彼に向けた。
「待て、二人共!」
「その受話器を下ろせ、余計なことはしないでくれ」
 警告する朱然の横で、周泰が緩慢な動作で玄関の戸を閉める。その様子を横目で見ていた于禁が、ふう、と大げさに溜め息をついた。
「撃てばよかろう」
「俺たちは俺たちの隊長を迎えに来ただけなんだ!」
 銃口の向こうの朱然の瞳を于禁は見返す。仲謀が覚束ない足で恐る恐る于禁に歩み寄り、二丁の拳銃の射線上に立った。
「すまない、于禁。少しだけ……見て見ぬふりをしてくれ。すぐに帰ってもらうから」
「…………」
 隊長、と朱然がこぼす。振り返った仲謀は、すまないな、と小首をかしげた。
「お前たちの気持ちは嬉しいが、この手にこの足だ。文字通りの足手まといになってしまう」
 未だに包帯の巻かれた右腕を上げて、仲謀は眉を下げた。
「私はもう少し于禁のところに世話になろうと思う。過日、彼の取り計らいで……曹魏でも少しずつ話が進みかけているはずだ。何せあの郭嘉が率いる参謀室なのだから。……それに、私がいなければ、総指令が我が隊を無理に飛ばすこともあるまい」
「……そのように、仰らないでください……」
 銃を下ろした周泰が、引き絞ったような声で言う。朱然も頷く。
「そうですよ。俺たち、あなたと一緒に飛びたいんです」
 仲謀は目を細めて二人を見つめ、ぽつりと、ありがとう、と呟いた。
 そこに、カチャン、と小さな音が響いた。于禁が受話器を置いた音だった。
「……朝飯は二人分しかない」
 三人が一斉に于禁を見る。
「茶を飲んだら、早々に立ち去るように」

 ◇

 広陵沿岸海域に於ける魏呉の衝突が発生する二日前、孫呉空軍第三飛行隊、通称“炎虎飛行隊”が本拠を置く陽羨基地に、にわかに衝撃が走った。
「では、あの犠牲者たちの中に全く身元の知れない遺体が混ざっていたと……?」
 陸遜は考え込むように口元に手を遣る。報告を持ってきた丁奉は頷き、その者の交友関係も当たってみたが、数名そのように言う者があった、と付け加えた。
「無論、全ての遺族に犠牲者らの遺体について確認が取れたわけではないし、黄達本人が隠したがっていたことでもあるから、それを知る者がさほど多くなくとも不思議ではあるまい」
「それにしたって……」
 凌統が両手を後頭部にやり、伸びをするように後ろに反った。
「検分した奴らはどうしたってのさ、なんだって嫁さんはずっと黙ってたんだい?」
「『ここで声を上げたらもっと大変なことになる』と……そう思ったのだそうだ。そして、中央に当時の検案官についての調査を依頼したのだが……当時、検案に当たった者の内、糜成、賈衛、胡儀の三名が一週間ほど前から中央政庁に登庁していない……と連絡を受けた」
「それは、つまり……」
 陸遜の言葉を最後に、指令室に沈黙が下りる。
 こつん、と、第三飛行隊隊長を務める孫権が、机を指で鳴らした。
「……よもや、謀られたというのか、国が」
 低く唸るような声は、怒りに満ちていた。

 二年前、他の列国に遅れること一年。曹魏と孫呉が、他国と同様に国交断絶状態に至るにあたって、ついに両国の大使館が封鎖され、駐在官は複数回に分けて全て帰国の途に着いた。国境検問所で双方の最後の駐在官たちが入れ替わり出国することをもって、国交断絶が成される――はずだった。
 早朝、両国の駐在官たち――曹魏十五名、孫呉十五名、合わせて三十名が互いに握手を交わし、それぞれの労苦を称え合い、別れを惜しみ、今後を憂慮しながら検問所を越えようとした瞬間――閃光が炸裂した。立て続けに、銃声がこだまする。悲鳴が上がり、検問所内に血飛沫が飛び散った。怒号が罵詈雑言を発する。全く動くものがなくなるまで、それは続いた。
 “犯人”が目的をし果せてその場を立ち去り、暴流は過ぎ去った。しかし、両国駐在官併せて数十名の死体が無造作に転がる赤く染まった検問所で、立ち上がった者が一人いた。曹魏より孫呉の大使館に派遣されていた文官である。彼は肩を撃たれていたが、倒れ込んだときに頭を強く打ち、気を失ったことで“犯人”からは死んだものと誤認されたようだった。
 死に物狂いで首都に辿り着いた彼は、政府首脳陣に己の見聞きしたことを全て語った。

「閃光弾に目が眩んでいる間に、私の前にいた二名が殺されました。大使館の警備の任に当たっていた武官たちが反撃して孫呉の駐在官に発砲しましたが、それが当たったかどうかは見ておりません。私も肩に銃弾を受け昏倒し、意識がもうろうとしておりましたが……数名の怒鳴る声が聞こえました。『殺せ、殺せ』『誰一人残すな』『曹魏の連中は、撃ち漏らすな』……あれは、会稽の訛りでした。駐呉時によく聞いたから覚えております」

 富春に拠点を構える兵器工場の印が入った血まみれの自動小銃を突き出した彼は、己の役目は終わったとばかりに謁見の間で気を失ってしまう。これの報告を受けた曹魏中枢は報復攻撃を決定、翌日には孫呉領内の江夏郡に爆撃を行い、民間に多数の死傷者を出した。このため孫呉は曹魏に対して宣戦布告、直後に合肥に宣戦同時攻撃を開始し、両国は急転直下に交戦状態に陥った。

 検問所での惨劇に、駐在官たちの遺族は悲嘆に暮れた。その内の一家族、黄達の一家が孫呉空軍に所属する丁奉の邸宅の近所に住まっており、軍務の合間を縫って丁奉は彼らのケアに努めていた。始めは軍人である――また孫呉空軍で一、二を争う強面の――丁奉に対し恐る恐る対応していた家族も、次第に丁奉の気遣いに心を開き、気さくに接してくれるまでになった。
 ――駐在官の細君以外は。
 彼女はいつも怯えているように見えた、と丁奉は語る。そしてそれは己の見目や立場のせいであろうと思っていたとも。しかしそうではなかった。
 犠牲者の遺体は全て遺族の元に返されたはずだった。黄達は顔が潰されていたから見るには耐えない、首から上は隠したままお返しすると、一人の検案官が勿体ぶるように黄達の遺族に告げた。そうして、遺族は犠牲者と対面する。
 細君は丁奉に語った。
「主人の左手には、小指と、薬指の先がありません。昔、鉄の箱に挟めてしまい、切り落とさざるを得なくなってしまったのだそうです。主人はそれをとても恥じていて――欠けた己でも良いかと私にわざわざ尋ねてくれました」
 滂沱として泣く彼女の姿を、丁奉は呆然と見つめた。
「黄家に――私の元に帰ってきた、あれは誰ですか。一切欠けたるところのないあの左手は、誰のものですか」
 すぐさま丁奉は他の十四の家族に当たり、遺体の埋葬に際して何か気づいたことはなかったかと問うた。心当たりがないようで首をかしげる者、遺体をつぶさに目に焼き付けたと証言する者、すでに焼いてしまってわからぬと虚ろな目で呟く者。もう蒸し返さないでほしい、とさえ言う者もあった。彼らは皆、あまりに深い傷を負っていた。

 隊長の孫権は、今丁奉から報告があった件について、第三飛行隊以外には決して漏らさないようにと緘口令を敷き、しかし同時に、各自秘密裏に調査を進めるように指示する。孫権を筆頭に、周泰、陸遜、朱然、丁奉、そして凌統の六名は、この時点から独自の方針を持って戦争に臨むことになった。
 そしてその二日後、広陵沿岸海域で、曹魏空軍の戦闘機により、第三飛行隊の長機が撃墜され、パイロットが消息を絶ったのである。