全員生存IFの系譜のお話です。まだばれてないころの逢瀬とかそんな感じ。
モブ(于邸の家宰)視点+家人さんたちの出番が多いのであらかじめご了承ください。


「明々後日の夜に客人がある」
 唐突に厨にお顔を出された旦那様にそう仰られたとき、思わず息を呑んでしまった自分を内心で叱咤しました。天下が平穏になる以前は普段から休沐の日ですら政庁での寝泊まりが多く、滅多にこちらの私邸にはお帰りになられない方でしたので、長い休沐を初日からこちらでお過ごしになり、さらには数日後に「客人がある」などと、私は予想だにしていなかったのです。
「……っ、はい。かしこまりました。饗膳のご希望などは」
「そのことだが、酒食の用意はすべてこちらでする。急な話であるゆえ……当日、お前たちには休暇を与える。めいめい休むといい」
 私の後背で事の成り行きを黙して見守っていた下人や厨人が一斉に動揺する気配が背中に感じられます。私もまた同じでしたが、必死に頭を働かせて言うべき言葉を少ない語彙のなかから探しました。
「かしこまりました。ですが、せめてお客様がお帰りになられるまでは控えさせてください。何かありました際にすぐ動けますよう……」
「……わかった、それでよい。何かあれば私からこちらに出向く――当日は饗膳も私室で摂る。厨と言わず正庁で好きに過ごして構わぬが、私の室への立ち入りは無用だ」
「好きに?」
 思いがけず若い下人が素っ頓狂に返し、すぐにあっと自制するようなくぐもった声を上げましたが、彼の謝罪よりも旦那様がじろりとそちらを睨むほうが先でした。
「風紀を乱す行為は厳に慎め。望むものがあれば書物の幾つかは用意する」
「へっ」
「何か」
「いえ、何も! 申し訳ございませんでした! ご高配を賜り恐縮です」
「……黄、委細頼んだぞ」
 はい、という我々の返答を背に、旦那様は静かに去っていかれました。しばらくの間、誰一人として動くものはありませんでしたが、程なく誰かが誰かの頭を叩く鈍い音がし、「イテッ」という悲鳴が上がりました。
「この間抜け! お前は思ったことをすぐに口に出す癖をなんとかしろ! 此度は旦那様の温情があったから助かったものの」
「すみません! だって、あんなこと仰られるなんて」
 叩いたのは私と同じく長くこちらに勤める厨人――陳で、叩かれたのは先ほど口を滑らせた若い下人――崔です。確かに彼の行いは咎められるべきでしたが、その疑問はもっともでした。私と、黙っているもう一人の若い厨人――李は顔を見合わせ、首をかしげます。
「お客様は…………曹操様以来か」
 一通り崔を叱り終え腕を組んだ陳が言い、彼の言に私は覚えず嘆息してしまいました。

 曹操様が旦那様の邸宅を訪問なされたのはもう十数年近く前のことになります。旦那様が曹操様から私邸を賜った祝いの名目で、曹操様と典韋様、許褚様、そして旦那様の四名でささやかな酒席を設けられたのでした。
 我々は一様に――我々もまたこちらに勤め始めたばかりでしたので――緊張していましたが、お客様は皆お優しく、気を楽にと仰ってくれ、それができないなりに私はありがたく思ったものでした。
 酒席は和やかに進み、何事もなく散会しましたので、然程忙事というほどのことはありませんでしたが、旦那様の表情がほころぶ様をその際に初めて拝見したもので、あのように柔和になられるのであれば何度お客様がいらっしゃって忙事となったとしても構わぬとそのときの私は考えたのでした。
 以来、十数年。天下に俄かに平穏が訪れるまでは、お客様どころかいよいよ旦那様ご自身すらほとんど邸宅に帰ることもなくなり、ご帰宅かと思えば湯浴みと夕餉、ほんの数刻のご就寝の後にまたさっと政庁にお出かけになるような有り様で――

「黄、黄」
「なんでしょう」
「握り拳」
 …………。
 陳から指摘された手のひらを開き、私は改めて長く嘆息しました。
「なあ、旦那様に、こちらからも何品か酒肴を用意させてもらえるよう頼んでくれないか」
「陳! 私も今同じことを考えていたのです」
 唐突に提案された我が意を得た申し出に思わず彼の肩をがしっと掴むと、陳はくしゃりと眦に皺を寄せて笑います。
「えーっ、休んでいいって言われたんだから休みましょうよ」
「お前は休んでいればいいだろう、酒肴の用意は俺たちでやる」
「その言い方、ずるくないですか」
 不平を漏らした崔は唇を尖らせ、「俺も手伝います」と口にします。我々は本当に構わないのに、彼は結局こうして気の良い若者でした。
「でも、曹操様以来のお客様、になるんですか? どなたなんでしょう」
 李がようやく口を開き、崔は彼を振り返って「気になるよな!」と嬉々として声を上げました。二人は天下が平穏になってからこちらの下働きに雇われたために、多くの事情は知りません。
 とはいえ、旦那様の仰る“お客様”についての知見がないのは私も同様でした。
「曹操様なら、そう仰るだろうしな」
「軍のどなたかですかね?」
「それでも人物は我々だって知ってるのだから、お名前くらいお教えいただけよう」
「となると……」
 お手上げでした。そもそも、“あの”旦那様が邸宅にお招きになるほどの人物で、我々にお名前をお教えいただけない相手となると、よほど重要な御仁に違いありません。
「好い人とか」
 崔の言葉に我々は揃って彼を見ました。
「情人」
「……お前は! ばかたれ!」
 また陳に頭を叩かれ、崔は「そんな叩かなくても!」と半泣きになっていますが、私はもはや彼を助ける気にはなれませんでした――根が優しい男の李は別のようでしたが。
 それよりも疾く旦那様に、先ほどの酒肴の件についてご許可をいただかなければなりません。李が崔を庇う声を背に、私は旦那様がいらっしゃるであろう私室に早足で向かいました。
 ところが、旦那様がいらっしゃったのは正庁でした。私が通り過ぎかけて慌てて足を止め、その勢いのまま廊下に膝をついて揖礼しますと、卓に着いて何か作業をされていたご様子の旦那様は顔を上げて小さく首をかしげただけでした。
「旦那様、先ほど仰っておりました饗膳の件ですが」
「何だ」
「どうしても私共からも何品か酒肴を用意させていただきたいのです。何もせずにいては旦那様の家人が悉く怠惰であると誤解されてしまいますゆえ……」
 顔を伏せたまま訴えると、ふむ、と小さく旦那様が唸りました。
「……件の申し出は客人の側からあったものだ。あれは、お前の言うような些事に頓着するたちではない……が、そうだな……」
 しばらく間があり、「頼もうか」と旦那様が低く仰いました。
「明日、客人に好物を尋ねてこよう。二日あれば用意は整うか」
「む、無論でございます。ありがたき幸せにて」
「いや……私こそ、感謝する」
 その言葉にはっとして私は顔を上げました。旦那様は普段通りのしかつめらしい表情をされておりましたが、その眼差しに労りがこもっているのが確かに見えました。
 私は今一度深く礼をし、辞去しようとして――
「待て」
 そこで、旦那様に引き留められました。
「先ほども言ったが、書物に興味のあるものは」
「は、はい。そうですね……どうでしょう……字が読めないかもしれません」
「お前は」
「私は多少ならば」
「では、私の手持ちから準備しよう」
 私は不躾にも旦那様のお顔をまじまじと見つめてしまいました。その面差しにあたたかな色が灯り、そうして細められた眦は、今まで長く勤めてきた私が目にしたことのなかったものだったのです。
 いえ、たった一度だけ――あの、曹操様たちとの酒席の折に、一度だけ。
「……ご高配、衷心より感謝いたします。皆にも伝えてまいります」
「いや……では、酒肴の件は明日の早いうちに」
「はい。お手数をおかけして申し訳ありません」
 旦那様は首を振り、そうして再びお手許に視線を落とされました。今度こそ辞去して厨に戻った私は、戻りを待っていた皆の視線を一身に受けて顔が赤くなるのがわかりました。
「えっ。どういう反応なんです?」
「黄、酒肴の件は」
「それは無事、ご許可をいただきました。明日お客様に好物を尋ねられるそうです。そのお返事をいただいてからの用意になるので、日があるわけではありません。皆くれぐれも準備を怠りなきよう」
 めいめい頷く三人に、私も頷き返します。そこでようやく己の仕事に向かおうとした私に、崔がすり寄ってきました。
「で? 何かわかりましたか。お客様のこととか」
「…………」
 はっきり申し上げれば何もないに等しく、ましてや旦那様の何の気ない発言のことでしたので、私には彼に答えを返さない選択肢もあったのです。しかし私は家宰失格で――つい、ごくごく小さな声で口にしてしまいました。
「……旦那様はお客様のことを“あれ”とお呼びになりました」
「……そんな、ぶっきらぼうな物言いができる相手ってことか?」
 聞き耳を立てていたらしい陳に問われ、私が何か言う前に、若い二人が顔を見合わせて静かに興奮しています。
「ほ、本当にお前の言う通り、好い人なんじゃないの」
「うわあ、そうだよ。あの無愛想な旦那様がこちらにお招きするほどのお相手だ!」
「ばかたれ! 崔!」
 三度叱られた崔はついに――連帯責任で李も共に――土間に坐らせられ、私も彼らを手助けすることはもうやめて、今度こそ己の職務に戻りました。私の言が原因ではありましたが、さらに一言多かったのは彼らの側の失態でしたので。


 ◇


 翌日、朝餉の後に旦那様が私用でお出かけになるのを送ってから、崔と李は連れ立って市場に繰り出して行きました。なんでも「旦那様のお相手にお出しする料理のお皿を新調したいです!」だそうです。家事のための金は家宰の私が預かっておりましたので、「くれぐれも無駄遣いはしないように」と「“お相手”ではなく“お客様”です」ということをよくよく言い含めて彼らを送り出しました。
「いつか怒られて切られるぞ、あいつ」
 台所の始末を終えた陳が言いますが、その表情には心配の色が浮かんでいます。私は苦笑しながら、これまでこの邸宅に雇われては辞めていった面々をおぼろげながら思い返しました。どの顔も“旦那様から直接解雇を言い渡された”ということはありませんでした――彼ほど口の滑りの良いものもおりませんでしたし。
「旦那様は……ずいぶんと雰囲気がやわらかくなられた。崔のことも多少は寛容に見ているのやもしれませぬ。昨日だってひと睨みと訓戒で済ましているわけだし」
「そんな悠長なことを言って、巻き込まれたらたまったものではないぞ……」
 陳は面こそ(旦那様に似て)ぶっきらぼうでしたが、その実心配性で、大雑把な口調とは裏腹に繊細でした。
 崔には繰り返し注意しようということになってその場は散会し、私が玄関先で掃き掃除をしていますと、街路の向こうから一人の兵卒らしき男が走ってくるのが見えました。彼は息を切らした様子で私目がけて駆けてきて、眼前に着くなりひとつ深呼吸してから、
「于禁将軍の家宰殿ですか」
とやたらと大きな声で言うのでした。私が是と答えると彼は嘆息して、「魚だそうです」と口にします。
「……はい……?」
「そう伝えればわかると仰られました。なるべく早く伝えたほうがいいだろうと。わ、わかりませんか?」
「いえ、その……あ! はい。なるほど、わかりました」
 途端に不安そうになった兵卒に私は思考を巡らし、“お客様の好物か”と思い至りました。すると得心した様子の私に兵卒が安堵して曰く、
「結構いいお金もらってしまったので、きちんとお答えいただけてよかったです。では」
 ……彼の発言はますます私を困惑させました。このやり取りに金が発生しているのか? まさか、旦那様がそのようなことを? 俄かには信じ難く、当惑頻りの私を尻目に、兵卒は一礼するとまた走って戻りの街路を駆けて行ってしまいました。呆然とその背を見送るだけの私に横から声がかかり、振り返ると崔と李が帰宅したところでした。崔は嬉々とした顔で小脇に抱えていた器たちを持ち出し、「どうですか? 質素なところが旦那様好みだと思いません?」と得意げです。見れば確かに落ち着いた風合いの皿ばかりで、私は思わず「ほう」と口にしました。
「あ。ね? ほら~。俺にしてはいいもの選んできたでしょう?」
「はいはい。早く中に入って陳に渡して」
「はあい」
 連れ立って玄関に入っていく崔と李に続いて私も邸内に戻ります。厨に入ったところで私は「あ」と声をあげました。
「陳、李。お客様の好物は魚だそうです」
 二人が同時に振り返り、その隣で崔が目を丸くしています。
「え? なんでわかったんですか?」
「先ほど遣いの兵士が来られまして」
 はあ、とほとんど同時に嘆息する皆に私も苦笑を返し、当日の万端の用意を重ねて戒め、次の仕事に取りかかりました。後背では三人がどのような魚料理にするか話し合い始めたところで、その熱心な様子に私は自然と己の口許がほころんだことに気づきます。皆、旦那様が久しぶりに――若い二人にとっては初めて――邸宅にお招きするお客様をもてなすために真剣なのです。

 夕刻前に旦那様がお帰りになられ、挨拶の後すぐに「伝わったか」と尋ねられたので、私は頷きました。どことなく満足げに口の端を緩めた旦那様は次いで、
「やつも、お前たちの好物が何か教えてほしいそうだ」
と口にします。私は驚いてしまってしばらく言葉を発せませんでした。好物などと、私は、いえ、他の皆も、これまで一度だって考えたことがありません。我々が旦那様や曹操様の府にお勤めの皆様のように食事の内容について選べる立場でないことは、他ならぬ我々を雇われている旦那様が一番よくおわかりのはずです。それだのにそのようなことを事もなげに問われては、どう答えるのが正しいのか見当もつきません。
「…………無理を申したな」
 私の惑乱が伝わってしまったのでしょう、旦那様は至極申し訳なさそうに眉根を寄せました。それが普段のしかめっ面とはまったく異なる、気遣いの表出のように私には思え、慌てて首を振りましたが、かと言ってやはり答えは私の頭には一切浮かんできてくれません。
「いえ、いえ。旦那様がお気に病まれるようなことは」
「肉まんがあれば食すか?」
「え、ええ、はい。どのようなものでも、いえ、その、我々のことはお気になさらないでいただければと……」
 どうにかそう返すと旦那様は眉を下げて小さく笑みを浮かべ「やつがどうしてもと申すのだ」と仰って、ふと庭に目を向けられました。
「杏の花が咲いているな」
「は、はい」
 庭先には夕暮れ前のほのかな光をまとった白い杏の花木があります。旦那様がこちらの邸宅に入る以前より植えられていたもので、毎年かわいらしい花を咲かせてくれていました。実のなるころには甘煮や干し杏、もちろん生食でも甘味として膳に載せることもありましたが、今は旬ではないためお客様にお出しすることは叶いません。
「よく、美しく育ててくれた」
 旦那様はふと微笑まれ、それからくるりと背を向けてお部屋に入っていかれました。私はその様に呆然としてしまい、しばらくその場を動くことができませんでした。
 そのようなことを仰られたのは初めてでした。
 少ししてから肩を落として厨に戻った私を三人が不思議そうに見ています。いいからと手を振って食器棚の前に立っても、また嘆息してしまってどうにも気持ちが落ち着きません。
「怒られたんですか?」
 崔が尋ねるので私は首を振りました。むしろその逆で、本来であれば喜ばしいことのはずなのに、やり取りどれひとつをとっても己の驚嘆にばかり気を取られ、満足にお返事申し上げることのできなかったことがみじめでした。
 いえ、もしかすれば、崔ならば旦那様のお言葉ひとつひとつに嬉々として返答できたかもしれません。私は……私は、以前とは打って変わって穏やかな気質を見せられるようになった旦那様に、未だ慣れることができていないのではないか……
「黄、気がかりがあろうととにかく明後日のもてなしを無事に終えることだ。粗相があってはならん」
「ああ、わかっています」
「そして今は旦那様にお出しする夕餉の用意が優先」
「うん…………」
 性懲りもなく出そうになった嘆息を飲み込んで、陳の言う通りに私は膳と器の用意にかかりました。


 ◇


 言葉にしがたい気持ちを抱えたまま、ついにその日が来てしまいました。
 昨日は崔と李が市場で購入してきた様々な魚を焼いたり煮たり鱠にしたりと調理方法を試しているだけで一日が暮れてしまい、終日ご在宅だった旦那様の都度のお食事にそれらを出しては苦笑を返されておりました。ああ、こんなときにこんなふうにお笑いになることだってこれまででは考えられなかったことで――私の心はほのかにあたたまっていきます。少しずつ、少しずつ、こうしたことに私も慣れていかなければいけません。なぜなら、“これを知っている以上”、“知らなかったころにはもう戻れない”のですから。
 朝餉を終えてすこしくつろいでから、旦那様はお出かけになりました。お帰りになるときはきっとお客様とご一緒なのでしょう。我々は、そう、まるでそういうふうには見えない崔もまた、一様に緊張していました。見送りを終えて振り返った私を三人がめいめい見つめてきます。
「……掃除をしますよ! 念入りに!」
 私の大きな掛け声に、三人はつられたようにやはり大きく応と返しました。
 そうして邸内をこの上ないほど隅々まで清掃し終え、まんじりともせず旦那様のお帰りを待っていた我々に、ついに門から帰宅の声が掛かりました。
「おかえりなさいませ!」
 急いで玄関に向かい膝をついた我々に酒瓶をふたつ手に提げた旦那様はひとつ首肯され、体をずらして後ろにいらっしゃる方を促されました。
「こんばんは。本日は突然の訪問になってしまってすまない」
 現れたのは赤いお着物を召され、金赤の冠を被られた男性でした。旦那様より小柄ではありますが、我々よりはよほど上背があります。お若く見えましたが、胸を張って堂々とした佇まいからは高い身分の方であろうと察せられました。その瞳が、夕刻迫る天井の下に碧く輝いています。
「私は孫権、字を仲謀という。江東の出だ。貴殿らの主人には世話になっている。よろしく頼む」
「は、はい。いらっしゃいませ」
 私は自身をはじめ、家人の名前と身柄とを次々に孫権様に紹介いたしました。孫権様は一人一人と目をお合わせになりご挨拶なさいます。次いで私がお荷物を預かろうとすると彼は照れくさそうに微笑まれ、
「お土産です。といってもこの街の屋台で買ったものゆえ、恐縮だが」
と提げていたふたつの二段重ねのせいろのうちひとつを差し出されました。
「わあ! ありがとうございます!」
 欣喜の声はもちろん崔のものでした。驚きに固まる我々の眼前で孫権様の面はぱっと華やぎ、「喜んでもらえたか」と声音も明るく、心底から嬉しげな様子です。
「一人にふたつずつあるからな。この時間だ、腹も減ったろう。こちらを構うのはそれを食べ終えてからでいい。だろう? 于禁」
「……ああ」
「あたたかいうちに食してほしい」
 朗らかに提案される孫権様に旦那様は言葉少なに同意します。私が抱えていたせいろを崔に受け渡しますと、旦那様は廊下を奥のほうへと進み出されました。孫権様もそれに続き、お二人がすっかり私室に姿を消してから、誰かが誰かの頭を叩く音がしました――見ずともわかる、陳が崔を叩いたのです。
「お前はーっ!」
 小声で怒鳴る陳に「だって嬉しいでしょ!?」と崔も小声で言い返します。
「お客様だって喜ばれてたじゃないですか。なんでお土産くれたのかはわかんないですけど」
「それは」
 私が口を挟むと、三人がこちらを見ました。
「旦那様から、お客様が我々にも何かやりたいと仰っていると伺い……私では何も思い浮かばなかったので、ならば肉まんをと旦那様のほうからご提案くださったのです」
「え……」
「なので、あたたかいうちに早く食べないと、お客様に申し訳が立ちません」
 私は三人を厨に促し、崔にせいろの蓋を開けさせました。途端にもこりと白い湯気が立ち上り、崔が目を細めて「おいしそーっ」と上げる声もどこか遠くで篭っています。
「本当においしそう。でも俺、これを見るの初めてなんですけど……」
「いや、それは俺も……」
「そうなんですか? 俺は昔死んだじいちゃんとこっそり半分こしたことあります」
 皆口々に何か言いながら肉まんを手に取り、熱がりつつひとくち、ふたくちと食べ進めていくころには無言になっておりました。崔は早食いなところがあって我々のなかで一番に食べ終え、李はひとくちが大きくいつも頬を膨らませながらゆっくり食べます。陳もまた少しずつを間々嘆息しながら咀嚼していました。
 そのうち、めいめいが自分の仕事に動き始めました。陳が黙々と魚を調理しながら、ぽつりと言いました。
「あれは……簡易な料理なんだろう。誰でも気軽に手を伸ばせて、食べ易い……」
 私が彼の言いたいことがわからず何も言葉を返せずにいると、崔が横から「確かそうでしたよ」と返事をしました。
「そうかよ」
 吐き捨てるように陳は言いました。
「……余計なこと言わなきゃよかったな。お偉いさんは、ああいうのがすぐに腹いっぱい食えるんだ。なんでも買ってくりゃすぐに……俺らが作る料理なんか……大した腹の足しにもならんだろ」
 怒りと、悔しさと、悲しさが入り混じった声なのだと私には察せられました。陳がこんなふうな態度になったことは過去にも一度だけあり、それは、旦那様があまりこちらの邸宅にお帰りになられないことに対する鬱憤を口にのぼせたときのことでした。
「それは……」
 私には彼になんと言葉を返して良いのかわかりませんでした。なぜなら旦那様は確かに初め、我々に何もせずとも良いとお伝えだったのです。それを久方ぶりの客人だからと饗膳の用意を無理に申し出たのは我々家人の側でした。我々はこのところ長く旦那様に料理を召し上がっていただく機会を得ていたばかりに、“邸宅の外から来るもの”に考えを至らせることを怠ってしまったのです。
「でも、旦那様がいいって仰ってくれたんですよね?」
 やはり崔が言いました。あっけらかんとした口調はまるで何が問題なのかもわかっていないようなとぼけた風情でした。
「じゃあ別にいいんじゃないんですか? それに、もうここまでお客様が来てるんですから、しょうがないですよ」
「さ、崔……」
 困惑した表情の李が崔を咎めようとしたのでしょうか、彼の二の腕にそっと触れたとき、
「わかってるよ、んなことは!」
と、陳が大声で言いました。
「ですよね! 俺も、旦那様がお連れになったのが男の人だったからちょっと残念だなーって思ってたんですけど」
「……はっ?」
「でも、孫権様、結構いい人そうですし、ちゃんとしないと」
「はあ……崔、お客様ごとに態度を変えるのは厳に慎みなさい。あってはならぬ行いですよ」
 厨に凝る空気に変化が感じられたところでここぞとばかりに今度は私が口を挟み、さあ、と皆の背中を押して作業の続きを促しました。
「旦那様と孫権様がお待ちです。反省はこの大事を終えてからじっくり行いましょう。陳、『このもてなしを粗相なく無事に終えること』ですよ」
 以前の彼自身の言を引用して忠告すれば、陳ははあっと大きく嘆息し、「わかってるよ」ともう一度口にしたのでした。

 我々が饗膳を手に旦那様の私室に向かうと、お二人は庭先の杏の木の下にいらっしゃって何かお話をされているようでした。声をかけようかかけまいか迷っているうちに旦那様が我々に気づき、孫権様を促されます。
「うまそうだな! 煮魚も鱠も好きなんだ。あ、こっちの菜っぱの和え物もいい色合い」
「そうだな。いいから早く上がれ」
 無邪気なご様子の孫権様を旦那様は穏やかに諫め、お二人は連れ立って私室に上がられました。その際に孫権様が私の持っている膳をお受け取りになろうとされ戸惑ってしまったのですが、
「孫権、無茶を申して彼らの仕事を奪うな」
という旦那様のお言葉があって、我々はどうにか職務を遂行することが叶いました。
 膳を並べ終え他の家人に続いてお部屋を辞去しようとする私に孫権様が、「家宰殿はこちらに勤めて長いのか」とお尋ねになりました。私が答えると彼は「そうか」と首肯され、「今後ともよろしく頼む」と続けられます。
「? はい……」
「貴殿らの主人とは末長く付き合っていきたいと思っている。もちろんごく個人的な間柄の話だ。そのためには貴殿らの覚えもよくなければという下心がある。だが、それでなくとも孫仲謀に不徳あらば遠慮なく申してくれ。先ほどは于禁に助けられたが……」
「孫権」
 長くなりそうだった孫権様のお話を咳払いひとつで遮られ、彼が「おっと」と口を噤まれたところで旦那様はこちらに視線を向けられました。
「黄、これ以後は先だってから申し伝えている通り我々の世話は不要だ。このものの帰宅まではめいめい好きに過ごすといい。見ているとは思うが正庁に書物を置いている」
「はい。かしこまりました。ご高配まことに感謝いたします。ではごゆっくりお過ごしくださいませ……」
 そうして厨に戻った我々は一気に脱力しました。この場はなんとか収まったようです。饗膳の味の良し悪しは別の問題でしたが、たとえ緊張があったとしても、旦那様の膳に普段からお出ししているものと同程度の質は保てているはずです。
 それよりも、あれほどに気さくな方と面と向かい合うのは慣れないことでした。旦那様はお客様について「些事に頓着するたちではない」と言及されておりましたが、染みついた身分差はどうしたって拭えるものではなく、この短い間に無礼がなかったかという懸念のほうが気疲れの大きな要因でした――
「ふーっ! しばらくお役御免ですね! よかったあ」
 ――崔以外にとっては。
「崔……あなたは明朝のご挨拶にあがるのですよ。孫権様のお帰りまではそれでいいかもしれませんが、気を引き締めなさい」
「はあい」
 そうして明朝からの仕事がある崔と陳がひとまずの休息のために下人部屋に引っ込んだところで、私と共に夜の始末を担う李が遠慮がちに話しかけてきました。
「黄さんは本って読めるんですか」
「平易な言葉で書かれたものなら、少しは」
「あの、迷惑でなければ、読んで聞かせてほしいのですが」
 もちろん、と私は頷きました。もとより旦那様にもそのおつもりがあったのですから、当然です。
 正庁の卓のうえには旦那様がお持ちの『孫子』が何編か置かれてありました。これは曹操様が古の軍略家の手に成る兵法書に手ずから注釈をお付けになられたものだそうで、曹操様を敬愛する旦那様にとっては愛読書であり宝であると伺っておりました。紐を解くのもおっかなびっくりになってしまったのは仕方のないことでしょう。
 それにしても我々のような庶民に対して兵法書とは、旦那様の――このように申し上げるのは内心に留めておくのでご容赦いただきたい――飾り気のない無骨な一面が私にはどうにも愛おしく思われて、つい笑みがこぼれます。李はそんな私に首をかしげておりました。
「ああ、すみません。この本は、曹操様が軍の皆様に広く知らしめるようにと自ら注釈を付けられた兵法の書なのです。我々には少し……遠いかもしれませんが、身になることは必ずあるはずです。読んでみましょうか」
 兵法書、という単語に李の目が輝きました。
「お願いします」
 そうして我々は隣り合って卓の傍らに尻をつき、同じ本を覗き込みました。それからしばらくは正庁に私の低い声だけがこぼれては消えていきました。私の拙く、つかえてばかりの本読みにも、李は文句のひとつもあげず真剣に聞き入ってくれました。

「……あの、家宰殿。すまない。少しいいだろうか?」
 不意に廊下から声がかかり、本から顔を上げた私と李がそちらを見ますと、柱の陰から申し訳なさそうに正庁を覗き込んでいる孫権様がいらっしゃいました。我々が慌てて本を置いて立ち上がり彼の許に駆け寄りますと、いいから、とそれを制するように手を振った彼は苦笑し、もう一方の手に持っていた水差しを示して、新しい水を欲されました。ただちに、と水差しを預かった我々が厨に向かうのに孫権様はのんびりと後ろをついてこられ、厨の入り口脇で我々の所作を眺めておられます。そうされると緊張でどうにも手許が覚束なくなるのでできればご遠慮願いたいのですが、そのようなことを申し上げられるはずもなく……
「家宰殿。ええと、その。于禁は少し、酔ってしまって休んでいる」
「え? 旦那様が?」
 不意に発せられた言葉に李が尋ね返しますと、孫権様はこくりと首肯されます。
「ずいぶん気を張っていたと見える。私に対する緊張ではなく、貴殿らに対するものだ。ただ、私は私で于禁が私を邸宅に招いてくれたことが嬉しくて……舞い上がってしまって、つい酒を勧め過ぎた。だから私がこちらに来たのだ。貴殿らの主人の不行き届きではないことをわかってほしい」
「それは、もちろんです」
 私はそう返しましたが、内心はあまりの驚きでままならなくなっておりました。旦那様が我々に対して気を張っていたなどと、まさかそんなことがあろうとは思いもしませんでした。
 このごろはどうも、こんなことばかりです。ただ、それは、もしかすれば……旦那様の前に孫権様が現れたから、なのでしょうか?
「そろそろお暇しようかと思っていたのだが、さすがに于禁の酔いがもう少し醒めてからにしたい。夜遅くまですまないが……」
「いいえ、構いません。どうぞごゆっくりなさってください」
 水を入れ終えた水差しを受け取られた孫権様はにこりとお笑いになり、饗膳が実に美味だった旨と、ありがとうと添えられて、大股で去っていかれました。
 私の後背で李が、なんで、と小さな声で言いました。
「旦那様が俺たちに対して気を張るんです?」
「……うーん……」
 孫権様が彼自身のお心遣いでもって旦那様のことを“そう”見たという解釈もできなくはないでしょう。しかし、ここ数日間を経た私には察するところがありました。私にとって旦那様が邸宅にお招きになるお客様をもてなすことが実に久しいように、旦那様にとってもお客様を邸宅にお招きになることは実に久しいことなのです。それは――それは、気を張っても無理のないことなのではないでしょうか。そして孫権様は、そんな旦那様をお気遣いなされた。
「…………旦那様は、お優しい方ですからね」
「え? はあ……」
「ええ、本当にその通りなのですよ」
 私は李の腕を軽く叩いて、正庁に戻りました。いつの間にか灯火の色が濃くなるほど夜が更けていたことにようやっと気づくような有り様です。
 李もまた私について正庁に上がり先ほどまでの席に腰掛けると、膝を抱えてぽつり、「そうかも」と口にしました。
「以前、母のことをお気遣いくださいました」
「そうですか」
「……天下が平穏無事になっても、父が戻ってこないことを詫びられました」
「…………」
「……だんなさまはなにもわるくないのに」
 震える李の肩をそっと抱き、私はゆっくり、ゆっくりとさすってやりました。春先の夜はしんと冷え、音もなく、じっとしていると私たち以外に邸内には存在しないかのような心地がします。
 ですがそこへ、ひたひたと一人分の足音が廊下の奥から近づいてくるのが聞こえました。目を向けた柱の陰から、先ほどのように孫権様がすまなそうに顔を覗かせていらっしゃるのが見えます。私は李を陰に隠すようにして彼に向き直りました。
「その、家宰殿」
「はい」
「于禁が……なんというか、やはりずいぶん疲れたようだ。このまま休ませてやりたい」
「はい、かしこまりました」
「私は……」
「孫権様も、お休みになっていかれませんか」
 私の申し出に孫権様は目を丸くし、灯火の陰にその碧眼を幾度かうろうろさせた後、先ほどまでの快活さはどこへやら、「……よろしいだろうか」と妙に遠慮がちに仰られました。無論と頷き旅館の所在を伺って李を遣いに出し、一度奥へ引っ込んで寝衣を手に正庁に戻りますと、孫権様が灯火の傍に所在なげに立っておられます。寝衣を差し出した私が客室を案内しようとすると彼は、「于禁と共に休ませてもらいたい」と申し出られました。私がぽかんとしてしまって言葉を返せずにいると孫権様は早口に「心配だから見ていたい」と続けられたのでした。
「は、はあ。ええ、孫権様がそう仰るのであれば……」
「ありがとう」
 やはり彼はにこりとお笑いになって、せかせかとした摺り足で正庁から辞去しようとした後こちらを振り返り、
「貴殿らも休まれるといい。室に入ったら私ももう朝まで顔は見せぬ。厠は借りるやもしれぬが……皆も疲れたであろう。私のために、もてなしをありがとう」
と、そうして「おやすみ」と付け加えられて、さっといなくなってしまわれました。
 残された私は一人、奇妙な心地のまま李の帰りを待ちました。戻ってきた李に事の次第を告げるとやはり――私もこんな表情をしていたのだろうと思われるような――きょとんとした顔になり、それから「はあ」とひとつ首肯しました。
「本当にずいぶん、仲良くされているんですね、旦那様と孫権様」
「ええ、そうですね」
 ともかく、孫権様のお言葉に甘えて我々も一旦休むことにしました。『孫子』の続きはまたの機会に、と私が言うと李も嬉しげに頷きました。
 さて、明朝、旦那様のお部屋に挨拶に伺うのは崔の役目です。
 ――無礼を働かなければ良いのですが……
 振る舞いという点に於いていまいち信用の置けないかの若人のにやけ顔を思い浮かべながら、やはり嘆息してしまうことは止められませんでした。


 ◇


 昨晩饗膳に使った器を両手に抱えながら、厨の入り口に崔が呆然と立っています。
「どうしたのです」
 私が声をかけると彼はこちらに目線を向けました。先ほどまでは影になってよくわかりませんでしたが、よく見ると耳から頬まで赤く染まっています。
「崔? 体調でも悪いのですか」
「えっ……いや……」
 どうにも判然としない態度で気にはなりましたが、とにかく早く朝餉の準備をしなければならない全員の苛立ちを代表して、陳がせっついて崔を動かしました。元より彼が厨に戻ってきているということは、旦那様たちに朝の挨拶は済ましているということなのです。まさか室内に入っていちいち確認するわけではありませんが、特に旦那様は朝の早い方ですからもうすぐ起きてこられるでしょう。急いで正庁に二人分の膳の用意をしなければなりません。
「おはよう!」
「「「「わーーーーっ!!!!」」」」
 唐突に声をかけられて、我々は皆一様に飛び上がりました。入り口を見ますと孫権様がお支度を整えて顔を覗かせてらっしゃいます。私はすぐに彼の前に膝を突き非礼を詫びましたが、孫権様は快活に笑われて、
「朝の忙事に急に声をかけた私が悪い。どうか立って」
と容赦してくださいました。立ち上がるのもせかせかと、用事を尋ねる目線を向ければ、やはり彼は笑みを浮かべています。
「おいしそうなにおいがしていたから。焼き魚か」
「は、はあ。はい、そうですね……」
「邪魔をしたな。于禁ももうすぐ起きてくる。だがあまり急かずとも構わんぞ」
 そうして手を振って去っていかれる孫権様の足取りは軽快で、我々の心情には程遠いものです。
「な、なんなんだあの人は……」
「とにかく、急いで準備を」
 小声でぼやいた陳の肩を強めに叩き、我々はまた忙しない朝の準備に戻りました。
「……崔? なんでにやにやしてる?」
「え!? してないけど!」
 そんなやり取りが後背で行われていたことも、忙しなさのなかに忘れられていきました。そうして結局これ以降も、崔がなぜ不審な様子だったのかはわからず仕舞いになってしまいました。

 孫権様は大層味わって朝餉を召し上がられたようでした。正庁脇の廊下に控えていた私は、逐一この料理のどんなところが美味いと褒め称える孫権様のお声と、ああ、そうだな、うむ、と時折ぶっきらぼうにお返事なさる旦那様の、それでも喜ばしげな声音に、こそばゆくなる心地を覚えていたものです。
 食休みの後、「ずいぶん長居をさせてもらった」と照れくさそうに微笑まれながらお帰りの支度を整えられた孫権様でしたが、玄関まで出てきて不意に、「では、行こうか」と仰られて横に並ばれた旦那様には驚かれたご様子で、ぱちりとひとつ瞬きなさいました。
「え? 于禁」
「道具屋に所用があるゆえ序でに外出すると申したであろう。黄、しばし留守にする」
「はっ、はい! 行ってらっしゃいませ」
「あ、皆、本当にありがとう! 次があったらそのときもよろしく頼む。では」
「はい! お気をつけて!」
 そうしてあっという間に旦那様と孫権様は出て行かれ、後には我々だけが残されました。しばらく誰一人言葉を発せずにおりましたが、やがて陳が「戻るか」とぽつりと言ったので皆もそれに続きました。
 厨に入るなり崔が、
「俺、あの人好きかも。また来てくれますかね」
と言いました。
「昨日は男の人かって言ってたくせに」
「それは昨日の話だよ。孫権様、いいお方だし」
 茶化す李にもあっけらかんと返す崔はずいぶんと機嫌が良い様子です。隣を歩く陳も同様に思っていたのか眉根を寄せていましたが、私と目が合うと小さな声で「まあ、いいか」と呟いて頭を掻き、厨の椅子に腰掛けて伸びをしました。
 ともかく、久方ぶりのお客様のもてなしという一大事は成功裡に終わったと見ていいでしょう。我々は程よい疲労感と共に、束の間の休息を楽しむことにしたのでした。


 ◇


 以来、折に触れて孫権様から書簡や土産物などの荷物が届くようになりました。ほとんどは旦那様に宛てられたものですがいくつかは我々家人宛のものもあって、初めのうちは旦那様にそれを差し出されるたびに恐縮していたものの、次第に皆その便りに慣れてしまい、若い二人などは次は何が来るだろうかと勝手な想像を話し合っては旦那様に苦笑と共に戒められることもしばしばです。
 翌年は旦那様が曹操様のお付きで南方に赴かれ、お帰りになられたときには両手にいっぱいの蜜柑の入った袋を携えられていて、皆して目を丸くしたものでした。
「帰るころには熟しているだろうと……。必要ないと言ったのだが、『家人の皆は別だろう』と言われ」
と、どこか言い訳がましく仰る旦那様はさも困っているのだという態度を崩されはしませんが、その日の夕餉に甘味として出した際には美味な様子で召し上がっておられたので、これも孫権様のお心遣いの賜物と感じます。
 私はもはや、以前己が抱いた疑念に対してひとつの確信をしておりました。旦那様は、孫権様との交流を通して、やわらかく、少しばかり柔和にそのお心を変えられたのです。そしてそれは何ものにも替え難く尊い、愛おしむべき大きな変化でありながら、春にほころぶ杏の花に気づくような些細さでもってもたらされたのでした。
 その有り様に偶さかまみえることができた私の、なんと幸運だったことでしょう。

「黄、一月後、孫権がこちらに来る」
「おや」
 旦那様が仰られると、私の脳裡には途端に彼の明るく快活な笑顔と、隣り合う旦那様の穏やかな笑みが思い起こされます。
「饗膳のご用意は」
「ああ……」
「我々はご遠慮いたしましょうか」
「む」
「お久しぶりの逢瀬で積もる話もありましょう」
 旦那様はしばし逡巡されたご様子でしたが、しかし「頼まれてくれるか」とごく控えめな口調で申し出られました。私は「喜んで」と首肯を返し、努めて嬉々とした声色になるように続けました。
「では、その日はお暇をいただければと思います。久しぶりに街を散策したいですねえ」
「苦労をかける。費用はすべてこちらで持つ。皆にもそう申し伝えてくれ」
「外泊も構いませんか?」
「無論だ。好きに過ごしてくれて構わぬ」
 その言葉に、初めて孫権様がこちらをご訪問された際にも同じことを仰っていたことに私は思い至りました。
「では、皆して遊びに行ってまいります。一月後でしたら杏の実も成っていることでしょうし、甘味を厨に用意しておきますのでお食事とご一緒に召し上がってください。それから、孫権様がお帰りになられる前のお食事はこちらでご用意させていただきたく存じますので、朝には戻りますが、ご挨拶は控えさせていただきますね。遅く起きられても我々は構いませぬので……」
「う、む……、……わかった」
 次第に渋面になっていく旦那様に私が首をかしげますと、彼ははあと長く嘆息され、それからまるで独り言のように仰いました。
「ずいぶん、変わったな」
「おや、あなた様がそう仰る?」
 私が笑うと、しばらくは口許をむつりと尖らせていた旦那様も、やがて困ったように眉を下げて破顔されました。そうして花ほころぶような頬はやがて来る仲夏を先取って、鮮やかな杏の実の色に染め上げられていたのでした。