日が沈み夜の帳が落ちる頃、屯内がにわかに慌ただしくなってきた。屯の中心部にある広場の隅で剣の手入れをしていた谷利も、仲間たちと共に大人たちが忙しなくあっちこっちに飛び回っているのを見つめる。
「いよいよ戦いに行くのかな」
 仲間内でも一等血気盛んな秦平がうきうきしながら言う。彼は先の衝突で父親を孫策の軍に殺されていて、俺がその仇を取る、俺が孫策の首を取るのだと豪語して憚らなかった。谷利自身は他人事のように思っていたが、秦平と同様に家族を亡くした者たちは、いいや、孫策は俺がやるのだと競うように武芸を磨くことに励んだ。
 若者たちはもう齢十五になっていた。一人前と呼ぶには少し遅すぎるくらいで、若い彼らを戦いの場に出したがらなかったのも前の屯長の一存だったが、その彼が先の衝突で孫策の配下である程普に討たれてから、好戦派の大人たちはすぐに若者を戦力に組み込むことを決定した。
「……神さま」
 秦平とは真逆で、気の弱い黄寧が虎の牙で作った魔除けの首飾りをぎゅっと握りしめるのを谷利は見た。
「寧、平気か」
「……利は怖くないの。俺たち人を殺さなきゃいけないんだよ」
 すがるような瞳で己を見てくる黄寧に、谷利は返答に窮した。あまり、怖いとか怖くないとか考えたことがなかった。実感がない、というのが一番だったが、それをこんな頼りない表情を浮かべる黄寧に告げるのは躊躇われる。
「豚を屠るみたいにすればいいんだよ。人だって思うから弱るんだ」
 耳ざとく聞きつけた秦平が大股で二人のところに歩いてきた。それなら俺もしたことがあるけど、と黄寧は彼の勢いに押されてそう答える。秦平は黄寧の肩を二度強く叩いて、大丈夫だよ、と言った。
「俺たち虎だって殺せたろう。何も怖いことなんかない」
 そのあっけらかんとした明るさに黄寧も感化されたのか、うん、と先ほどよりも力強い声で彼は頷く。心配そうに見ていた周りの仲間たちはそれを見届けてから、よし、俺もがんばるか、応、と言いながら各々の武具の手入れを再開し始めた。

 孫策、字を伯符。未だ齢二十を少し過ぎたくらいだという彼は、突如として谷利たちの屯をはじめ、時の政権にまつろわぬ少数民族たちが各地に点在して暮らす江東地域に大勢の兵を率いて押し寄せてきた。始めの頃は漢だとか王室だとか、そういう自分たちに関係のないところで勝手にいざこざを起こしている者たちがいるだけのことだとほとんどの屯が思っていたが、あるとき谷利たちの屯に、友好関係にあった他の屯が孫策軍と衝突したとの一報がもたらされた。激しい抗戦の末、多くの者が死に、女子供や捕らえられ生き残った男たちはそのすべてが隷属下に置かれたらしい。そのときも大人たちは慌ただしく話し合いの席に着いたのだった、と谷利は思い出す。
 我々に従え、さもなくば武力をもって制圧する。簡単に言えばそういうことだった。屯一番の知恵者が、恐らく孫策という男はこの江東をまるごと併呑して己の土地にするつもりなのだろう、そしてそのため、我々のような武力を持つ者たちを恐れるのだ、としたり顔で言った。
 最初の屯の惨劇を受けてもなおほとんどの屯は反発した。我々は我々の穏やかな生活のためだけに生きているのに、なぜ急にやってきたお前に従わなければならないのだ、と。まつろわぬ民にも彼らなりの矜持や尊厳があった。そうして孫策の圧力に逆らったことで、多くの少数民族たちが今こうして孫策の軍によって敵対勢力として攻撃を受けている。そしてそれは不服従民だけに留まらなかった。いつだったか谷利たちの屯に訪れた、何とかいう神――それは谷利たちの屯の神とは違うもの――を信じている人たちの暮らす屯も、孫策軍の襲撃を受けたという。
 孫策は、神をも蹂躙する。そのことが、彼らにより一層の恐怖と反抗心を植え付けた。
 そう、そのときも黄寧は首飾りを握りしめて、神さま、と呟いたのだ。

 谷利たち若者の集まる広場に、一人の大人が走ってきた。
「お前たちも来い」
 一番に立ち上がったのはやはり秦平だった。その後に他の仲間たちも続く。谷利も最後に続いた。
 屯の会合に使われる幕舎に入ることを促される。谷利と同じ年のころの若者たちが二十名近くもぎゅうぎゅうになりながら――何人かは幕舎の外にあぶれながら――集まると、上座の床几に腰かけていた新しい屯長が、来たか、と快活な声を上げた。その周りには屯の重役たちの他に見慣れぬ顔があって、谷利がよくつるむ仲間の一人である郭博が、誰だろうねと耳打ちしてくる。さあ、と首をかしげる谷利だったが、すぐに屯長の声が飛んできて姿勢を正した。
「恐らくもう感づいているだろうが、次の戦いにはお前たちも出陣させるからな。武具の手入れはきちんとしているか?」
 はい、と皆が大きな声で返事する。満足げにあごひげを撫でた屯長は、そうか、そうか、と嬉しそうに頷いた。
「あまり猶予がない。というのも、孫策の軍が西の涇に向かったらしい。そして、彼の別動隊が駐留している、この手前の宣城の防備がかなり手薄だと用間の者から報告が入っている」
 ばさり、と囲んでいた卓上に手製の地図を広げ、屯長の毛深い指が宛陵から西に少し離れた涇県まで動き、その後もう一度宛陵から、今度は涇県の手前の宣城までなぞる。
「ここを守備しているのが孫なんとかと言う孫策の身内の若造だそうだ。防衛のための塀も柵もなければ、宣城の住民の他は待機する兵数も千人に満たぬとの見立てだ」
 屯長は、彼の周りにいた見慣れない顔の男たちを示した。
「こたび、我々の屯から出る連中の他に、楊屯や河屯、岱屯や――あとは、黒屯だな。合わせて四千の兵で宣城を制圧することとなった。勝利のためには数の有利が何よりも大切だからな」
 見慣れない顔の男たち――恐らく他の屯の首長か名代たちは、若者に向けて笑みを返す者、むすりと口を引き結んでチラとも見ない者、無表情に会釈だけする者など様々あった。秦平が誰にも先んじて、よろしくお願いします! と頭を下げると、若者たちも皆一斉にそれに倣う。屯長は客人たちに、彼らのこともよろしく頼む、と人好きのする笑みを向けた。
「一刻も無駄にできぬ。出立は明朝、日の出と共にする。宣城の東三里にある丘のふもとで他屯の軍と合流し、そこから一気呵成に攻撃を仕掛ける。お前たちも遅れを取るんじゃないぞ」
「はい!」
 若者たちの威勢のよい返答を受けてやはり嬉しそうに笑った屯長は、では下がれ、明日に向けて英気を養え、と言って彼らに退出を促した。一人の大人が顎をしゃくり、すぐに出て行けと外を示す。谷利も若者たちの流れに従って幕舎の外に出た。屯を囲む森の稜線の向こうに見え隠れする月を見つめながら、若者たちはそれぞれの集落に向かって歩き出す。幕舎の喧騒が聞こえなくなったところで、あーあ、と残念そうな声を上げたのは秦平だった。
「孫策がいないんじゃなあ」
「しょうがないだろう。俺たちは初陣なんだぞ。いきなり孫策と当てられたって……」
「だってこれじゃあ、ずるをして不意打ちするみたいだ」
 仲間の一人、潘卓が咎めるのに秦平は口をとがらせてそう返す。真正面からぶつかったって俺は孫策を殺せる、彼はそう息巻いた。
「相手の弱いところを突くのが常套手段だって、偉い人の兵法書に書いてあっただろ」
 仲間内でも特に学問が好きな郭博が言う。
「そうだけどさ……」
「それに、その、孫なんとかってのは戦下手なんだね。本隊の留守中にそんな風に駐屯地の守りをスカスカにしていていいもんかい。攻めて必ず取る者は、其の守らざる所を攻むればなり」
 得意げに先日読んだばかりの兵法書をそらんじる郭博に谷利が、善く敵を動かす者でない保証があるか? と口を挟む。郭博が、それもそうだね、と首をかしげたそのとき、二人の会話を遮断するように秦平が、あーわかったよ! と怒鳴るように言った。
「しょうがない。代わりにその孫なんとか言う若造を俺が討つ。孫策の身内なんだろ?」
 おんなじ目に遭わせてやる、と唸る秦平の双眸は怒りに燃えていた。それを見ながら谷利も、先の戦いから帰って来なかった父親のことを思う。すべてまるで実感がなかった。きっと戦場に散っただろう父親の無念も、秦平の怒りも、黄寧の不安も、孫策の脅威も、孫なんとかと言う若造の余裕も。
「あの……利」
 ふと背後から呼ばれて振り返る。今しがた思った黄寧が、夜の闇に眼下を窪ませて立っていた。谷利は立ち止まったが、二人の様子に気づかなかった仲間たちはさっさと先を行ってしまった。
「俺が死んだら、このお守りは君にあげるね。遠慮しないで持っていっていいから」
 彼がいつも大事にしている首飾りを示して言うから、谷利は驚いた。
「死んだら、とか言うな」
「うん、でも、万が一があるといけないしさ」
 黄寧は情けなく眉を下げて笑う。
「大人たちだってたくさんいるから大丈夫だ、四千もいれば俺たちの出る幕なんてない。それに、俺が死んでも寧に託せるものはない」
 復讐心も、祈るべき心のよりどころも、驚くほど己の手の中には何もない。
 谷利の言葉に黄寧はきょとんと目を丸くして、それから、先ほど見せたような情けないものでなく、楽しそうに笑った。
「利は死なないと思うな、俺」
「だったら、寧も死なない」
「そうかな……」
 それでも言い淀む黄寧に、そうだ、と谷利は返す。それを聞いた黄寧は、じゃあわかった、と小さく頷いた。
「俺も死なない」
 谷利と黄寧は、先に行った仲間たちを追って少し小走りになる。
 豚を屠るみたいに殺せばいい、と秦平は黄寧に助言したが、先頃屠畜した時だって黄寧はおっかなびっくりだったのだ、と谷利は思い出す。だったら仕方がない、黄寧にはずっと後ろにいてもらうしかない。それもいいだろう、と谷利は考えていた。先ほど自分でそう言ったように、味方側に四千人も兵がいて、相手が千人に満たないのなら、自分たちのような経験不足の若輩者に戦う出番があるとは思えない。
 楽観視――谷利の心境を表すのに、一番近い表現がそれだった。
 集落入り口の木戸をくぐろうとしていた仲間たちにようやく追いつけば秦平の、何してんだよ、と明るい声、そして潘卓の、今日は早く寝よう、と落ち着いた声が同時に二人に掛けられる。その隅で郭博が、もう少し写しを読み込んだ方がいいかな、とぶつぶつ呟くのも聞こえた。
 黄寧を見ると、木戸のかがり火に赤く燃えた頬が先ほどまでの不安を拭うかのようで、谷利は小さく微笑む。
 どうせ何事もないのだ、ただ少しだけ成長して、自分たちが大人の仲間入りをするだけなのだ。
 かがり火に導かれて、若者たちはそれぞれの家に戻って行く。それからは誰も皆言葉少なで、明日への不安と高揚感を綯交ぜに、月が天頂に届く頃には彼らはそれぞれの休息に入っていた。


 ◇


 青天に高らかに陣太鼓の音が響き渡る。空気を裂くような鬨の声が宣城の街全体を震わせた。四千の兵が地平上に土埃を上げ大挙して攻め寄せた――その報が届いたときには既に“蛮族”たちの影は城門に迫っていた。
「案の定だ! これが都城を守る陣容か!?」
 兵の一人が叫ぶ。応、と別の一人が答える。
「一人でも多く頭数を減らす、孫策の軍の脇腹をえぐり!」
「頭目を殺し宣城を孫策の同胞の赤い血で染める! 完膚なきまでにせよ!!」
 地面を波打たせるが如く押し寄せる“蛮族”に宣城に駐留する守備兵たちは戦慄いた。本営からの指示は「各員自身の守備位置に着き役務をこなすように」。およそ戦闘状態に似つかわしくない――そのようなことが起こるなどと夢にも思わなかったというような、拍子抜けするほど薄弱な防備だった。
「完膚なきまでに……って、女性や子供も?」
 行軍する“蛮族”の兵士たちに混じり隊伍を組んで進軍する若者たちの中、潘卓が不穏なことを言う。馬鹿言え、とそれを否定したのは伍長を任された秦平だった。
「最初にそれはしないって決めただろ!」
「でもそれは俺たちの屯の中でだったろ、他の屯がどうするか……」
「やかましいぞ、童共! とっとと進め!」
 他屯の兵の一人に怒鳴られ、チッと舌打ちをした秦平が大股で走っていく。潘卓、郭博、黄寧がそれに続き、谷利も走っていく。
 崩された城門から中に突入すれば、怒号と悲鳴が一帯に渦巻いていた。宣城には守衛の千人未満の兵士の他に、一万人足らずの民がいる。“蛮族”たちの襲撃におののき、逃げまどう姿を横目に、谷利たちの隊伍は前へ前へと進んだ。
 宣城駐留軍の指揮官が控えているであろう小高い丘の上に立つ敵本陣に向かうにつれて、敵味方双方の死体が増えていく。数の上では圧倒的に“蛮族”たちの有利であるはずが、孫策の軍の兵士たちにも手練れが揃っているらしい。
「いや――」
 一軒の家屋の前で郭博が立ち止まる。秦平が、博、と叫ぶと、見てくれ、と彼は家屋の横に斃れたひとつの死体を示した。仲間たちが彼の周りに集まる。
「ぼろ服の男が剣を持ってる――これ、兵士じゃない。ここの人だ」
 何だって、と黄寧が息を詰める。谷利がかがみ込み、その剣を取り上げて矯めつ眇めつした。
「孫策の兵のものを……借りたのか? 死んだ兵士の持ち物を漁って……」
「ちょっと待て、てことは戦ったのか」
 秦平が問う。黄寧が剣を胸元で握りしめて一歩後ずさった。
「それ……って」
「戦ったのか、戦わせたのか、それじゃ全然話が違う」
 厳しい声の秦平を皆が見る。かがみ込んだ谷利の向こうで、家屋の板戸がカタリと音を立てた。
「なんもできない民にまで武器持たせて戦わせる糞野郎がいんのかよ!」
 バタン!
 大きな音を立てて板戸が開く。一斉に家屋を振り返った隊伍の仲間たちの目に、しゃがんだままの谷利に向かって小剣を振り下ろす女の姿が飛び込んできた。
「利ぃ――っ!!」
 黄寧が叫び、間一髪、横に転がって刃を避けた谷利と女の間に飛び込んだ。
「やめろっ利を殺すなあっ」
「寧っ!!」
 倒れ込む谷利を潘卓が庇う。大丈夫、と谷利が答えて顔を上げた瞬間、ぱしっと頬に水滴が当たった。
 黄寧ががむしゃらに振り回した剣が、女の胸元を深く切り裂いたのだ。血飛沫を浴びた黄寧が、呆然と立ち尽くす。うめき声を上げた女は背中から崩れ落ち、しばらく胸をかきむしった後、動かなくなった。
「あ、……危なかったな! 寧! よくやった!」
「寧、すごいぞ!」
 秦平が飛び上がり、それから黄寧の肩を強かに叩いた。郭博も同じように黄寧の背に抱きつく。
「お、俺、俺……!」
 そんな己の背後の歓喜など耳に届いていないような黄寧が、うわ言のように繰り返す。谷利は立ち上がり、彼の前に立って顔を覗き込んだ。
「寧、ありがとう。お前の武勇のおかげで助かった」
 ぱちり、と黄寧の焦点が谷利に合う。
「利……なんともない? その血は……」
「返り血だから大丈夫。お前も、ほら」
 谷利が服の袖で黄寧の顔を拭うと、彼は顔を真っ赤にして下唇を噛んだ。
「……よかった」
 彼の言葉に、谷利はひとつ頷いた。
「よかないぞ!」
 はっと思い至り、潘卓が慌てて立ち上がる。もろ手を挙げて喜んでいた秦平が、どうしたんだよ、と首を傾げた。
「だって今、この人俺たちを殺そうとしただろう! 宣の人たちは戦えるんだ!」
「――しょうがない、逃げるならまだしも抵抗してくるなら殺すまでだ! 武器を持ったなら向こうだってわかってるだろう」
「けど、それじゃなおのことまずいんだよ」
 仲間の必死の形相にいぶかる四人だったが、やがて郭博が、あ、と大きな口を開けた。
「まずい!!」
 潘卓の焦燥を受けて郭博は熱弁した。宣城に駐留する“孫なんとか”の率いる軍勢は千人に満たない。しかし宣城の住人に“蛮族”に対する敵意があり、かつ先ほどの女のように男女の別なく武器を持って戦う意思があるのであれば、多数の民を義勇兵として数えることができる。そうなると――
「敵の兵の数が、俺たちの数を圧倒的に上回っちゃうんだよ!!」

 五人は先行する仲間たちを追って、城下街を抜けて丘のある北へ向かった。道中に同じ屯の大人や若者たちの死体を見つけるたび、目を逸らし一心不乱に走り抜ける。
 郭博が宣城の最奥にそびえる本陣を指した。
「太鼓の音が近い――もうみんなあすこにいる!」
「こんなに奥まで来て大丈夫なのか?」
 潘卓が弱気な声を上げるのを、秦平が、大丈夫だ、と一喝したそのとき、

 ――――っ!!

 誰かの叫ぶ声が聞こえた。本陣に続く、丘を巻く坂を駆け上がっていた五人は思いがけず立ち止まる。足が竦んだ、と言った方が正しいかもしれない。
 見上げると本陣のある丘の頂上から、どう、と人だかりが一挙に坂を下って押し寄せてきた。孫策の兵士だ!! と秦平が怒鳴り声を上げる。若者たちはやにわに乱戦の中へ身を投じることとなった。
「周隊長に続け!!」
 敵兵たちは口々に叫び、彼ら自身を鼓舞しているように見えた。谷利は襲いくる敵兵の槍や矛を掻い潜ってなんとか避けながら、大股で急斜面を駆け上る。
「利っ!!」
「平、卓、皆こっちだ!!」
 郭博の背後を取ろうとしていた一人の敵兵を斬り伏せ、谷利は仲間たちを呼ぶ。潘卓が左腕に傷を受けたが、どうにか全員が本陣の前に続く坂まで辿り着いた。敵味方の別なく事切れたたくさんの死体と、赤黒く染まった地面に思わず渋い顔になる。
「卓、痛いか。少し我慢してくれ」
「平気だ、一本くらいなくなったっていい」
 その言葉に潘卓の覚悟を感じ、皆無言で頷き返す。なりふり構わずとも指揮官さえ討ち果たすことができれば、状況の不利が覆るはずだ。彼らはそう信じて疑わなかった。
「それより――本陣がすぐ近くなのにもう敵兵の姿がほとんどない」
「さっき出てきた連中で丘の下は混戦だ。でも……もしかしたら今はここが本陣じゃないのかも」
 危なくなったら本陣だって動かすものだから、と郭博が顎に手を当てて呟く。剣を握り直した秦平が、いいじゃないか、と高らかに言い、最後の坂を駆け登った。
「とにかく確かめようぜ。孫なんとかが逃げるんならどこまでも追って討てばいいんだから!」

 しかし――
 意を決して丘の頂上に立った五人の目に飛び込んできたのは、累々と横たわる仲間の死体と――その奥に凛として立つ、戟を携えた一人の兵士の姿だった。

 八尺以上はあろうかという長身に赤銅色の鎧を身にまとったその兵士の双眸が、まっすぐに五人を捉える。青天から照らす光をまとった彼を見て、谷利は気がついた。鎧だけではない、彼の四肢も、手にした戟も、それらはすべて血に染まっているのだ、と。
「……若いな」
 低く、落ち着きのある声だった。
「取って返して貴様らの首領に伝えよ。宣城は落ちぬ。我々を討ち果たすことも叶わぬ。即刻我が殿のもとに服従するか、さもなくば軍を退け」
 秦平が一歩踏み出した。そして小さな声で、彼の背後に立ち尽くす仲間に声をかける。
「俺が飛びかかってあいつに斬りつける。そしたらすぐに皆も左右から斬りかかってくれ」
「…………」
 兵士が無言で彼らを睨みつけているのを真正面から受け止めながら、秦平はなおも仲間に呼びかける。
「あいつを、倒す。異論はあるか」
「……ない!」
 郭博がはっきりとそう口にした。
「俺は右、博は左。利と寧は回り込んで後ろから。どう見たってあいつ強いけど、五人と一斉に取っ組み合いなんてできないんだから」
 潘卓の提案する作戦に谷利も黙って頷く。黄寧は不安そうに胸元の首飾りにそっと触れ、それから、わかった、と震える声で言った。
「行くぞ……走れ!!」
 秦平が地面を蹴って駆け出した。
「オオッ!!」
 四人もすぐさまその後に続く。兵士は戟を握り直し、腰を低くすると戟を持った右腕を引いて構えた。
 五人の手にする剣よりも、彼の得物は攻撃範囲が広くなる。突きか、薙ぎ払いか、或いは振り上げてくるのか――先陣を切って兵士に攻撃を加える役割の秦平は、キッと目を見開いて彼の一挙手一投足から目を離さないようにした。
 全速力で走った秦平が、戟の攻撃可能範囲に踏み込む――刹那、兵士が引いていた右腕を勢いよく前方、秦平に向かって一直線に突き出した。
 突きだ!
 秦平は戟の刃をしっかりと睨みつけ、剣を薙ぎ払う。ガキン、と戟と剣がぶつかり合い、弾けた。秦平は反動でよろけたが、足を力強く踏み込んで留まる。左右から潘卓と郭博が走り込んで来たのが視界に入り、痺れの残る足をさらに踏み出した。
 兵士もまた、たたらを踏んだがすぐに立ち直り、駆けつけてくる若者たちの作戦を見て取ったのか、一瞬で構え直した戟を大きく薙ぎ払った。
 負傷した左腕のために、剣で打撃を受け止めきれなかった潘卓が勢いよく吹き飛ばされる。
「卓!!」
 秦平が潘卓に気を取られた。
「どこを見ている!」
「……っ!!」
 谷利の目が、兵士の戟が秦平の鎧を貫く瞬間を見た。
「平い――っ!!」
 絶叫する郭博を、兵士の目が続けざまに捉えた。秦平の体躯を払い退けた戟が返され、足を止めた郭博に襲い掛かる。ドスン、鈍い音がして、戟に吹き飛ばされた郭博の体は本陣の名残であろう急造の防備柵に激突し、地面に落ちてそのまま動かなくなった。
 払われた戟の余韻――その一瞬に谷利は走り出した。兵士が体勢を立て直す隙を突き、その右肩に剣を振り下ろす。
「!」
 谷利の攻撃はぶれ、しかし兵士の上腕を掠めた。怯んだ兵士に追撃を加えようと剣を返した谷利だったが、敵が腕を振るう方が早かった。
「ぐうっ!」
 怪力で跳ね除けられた谷利の体が地面に叩きつけられる。黄寧が悲鳴を上げて谷利の元に駆けつけようとしたとき、兵士が戟を一閃した。思わず立ち竦む黄寧はチラとも見もせず、兵士は視界の隅に立ち上がろうとする潘卓を収めながら谷利に向かって歩き出す。
「山越、貴様らの愚は我が殿の御命を脅かそうとしたことに他ならぬ」
 潘卓が跳ね起き、兵士に向かって剣を投げつけた。それを戟の一振りで弾き落とし、兵士は言葉を続ける。
「それだのに貴様らはその愚昧なる使命から何度も目を逸らして些事に捕らわれた。だから迷いが生じ、あたら若い命を落とすことになる」
 眼前まで兵士が迫り、その輪郭がはっきりと見えたとき谷利はようやく気がついた。顔や腕、その胴につく無数の剣戟の痕。彼が満身創痍であることに。
 彼の赤銅色の鎧が敵の返り血のみでなく、彼自身が敵から受けた傷によっても染められていることに。
「……なぜ……」
 驚愕に震えた谷利の声は、戟を振り上げた兵士には届かなかったようだ。

 ドスン

 思わず目を伏せた谷利が、受けた衝撃の違和感に恐る恐る瞼を上げると――
「寧!!」
 離れたところで立ち竦んだままだったはずの黄寧が、血を流して谷利に覆い被さっていた。
「うわああああっ!!」
 潘卓が、周囲の遺体から漁って手に入れた槍を構え兵士に突進する。兵士は谷利の傍から退き、戟を構え直して応戦した。
「寧! お前……!」
 抱き起こされた黄寧は、己を見下ろす谷利の表情を見るや、場違いにも照れくさそうに笑った。
「利……なんとも……ない?」
「なんともない、お前が庇ってくれたおかげで……!」
 それを聞き、よかった、と黄寧は呟く。青白くなっていく頬に谷利が触れると、彼は嬉しげに目を閉じて、そのまま息を止めた。
「ね……!」
「――――っ!!!!」
 丘の上に絶叫がこだまする。
 振り返った谷利の目に、膝をついて左腕から血を流す潘卓と、その前に佇む兵士の姿が映った。
 潘卓の左腕が、ない。
 事切れた友人を地面に横たえ立ち上がった谷利が潘卓の元に走り出そうとした瞬間、彼の耳に、馬の蹄の音が聞こえた。兵士がにわかに坂を振り返る。
 援軍か、とおののいた谷利は、しかしすぐに違和感に気付いた。音の数が多くない。いや、むしろ――単騎分しか聞こえてこない。
 音は坂を駆け登ってくる。時々数瞬聞こえなくなるのは、丘の傾斜を跳躍したからだろうか。谷利は息を殺し、足元にあった剣を拾い上げた。兵士に気取られるかと思いきや、彼は先程まで恐ろしげな色を浮かべていたその面に、ひどく困惑したような表情を見せているばかりだった。
 なぜ彼は動揺しているのだ?
 谷利はじりじりと摺り足で潘卓と兵士の方へ近づいていく。友人を助けなければならない。理由は判然としないが、兵士が隙を見せている今が好機だ。
 蹄の音はどんどん大きくなる。もう少しで頂上にたどり着いてしまう――その前に。
 谷利は息を飲み、同胞の元に一歩踏み出す――

「飛べっ!!!」

 坂の下から聞こえてきた掛け声は、丘の上までよく通り、辺り一帯に響き渡った。

 ――飛べ?
 谷利が疑問に思う間もなく、その解はすぐに与えられた。丘の頂上に至る坂の道から、一騎の馬が高く高く跳躍してきたのである。太陽を背負い、黒い影となって。
「!!」
 着地した騎馬は本陣に駆け込んでくる。兵士の表情がいよいよ驚きに変わった。
 彼が何か言うよりも早く、乗り手が声を張り上げた。
「幼平どのおーっ!!!」
 手綱を引き馬を諌めた若い――谷利達とそう歳は変わらないように見える――乗り手が転げ落ちるように下馬し、兵士に向かって矢のように走り出す。対する兵士も、とどめを刺そうとしていた潘卓のことなどすっかり頭から抜け落ちたかのように若者を迎えに走り出した。それを見た谷利が急いで潘卓に駆け寄る。
「利……」
「ちょっと待て、今腕を縛るから……」
「寧は……?」
 その問いに谷利が答えなかったことで潘卓も察した。そして、今しがた吹き抜けた風の発生源に弱弱しく視線を向ける。谷利もそれに倣った。
 もはや、兵士の目に自分たちが映っていないことを彼らは知っていた。
「仲謀様、なぜお戻りになったのです!」
「蒋公奕どのの部隊が下に到着いたしました! 涇に向かう軍から取って返してくれたようです」
 独断専行のようでしたが、と情けなく眉を寄せる闖入者は、兵士の満身創痍を見て悲鳴のような声を上げた。
「幼平どの、もう戟を置いて、どうかお休みください。公奕どのも今ここに向かっております」
「公奕……公奕が来るなら、もう安心です」
 若者の言葉を聞いた兵士の声色が、生ぬるく優しげな響きに変わっていく。
「すみません、少し……今この時ばかり、お言葉に甘えさせてください……」
 戟を取り落とした兵士が乗り手の肩に額を突いてもたれかかる。わ、と驚きによろめいた若者は、そのままどすん、と尻餅をついた。兵士の崩れ落ちた体を慌てて横たわらせ、揃えた己の両膝にその頭をそっと乗せたとき、
 彼の目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。
「私の、私の至らないせいで……」
 ぱたりぱたりと滴が目を閉じた兵士の上に落ちては、彼の表面を滑らかに伝って落ちていく。
「早く来てください、公奕どの……」
 坂の下が騒がしくなってくる。自分たちの窮地だというのに、谷利は若者と兵士の姿から目を離せなかった。
 先ほどは闖入者を黒い塊に変えていたはずの太陽が、今度は泣き返す若者を柔らかく縁取るように照らしている。その光を湛えた彼の赤い髪が、兵士の血がついて汚れてしまった彼のまとう防具が、きらきらと輝いて美しい。仰向けに横たわる兵士の血にまみれた赤銅色の鎧に神々しさすら覚えて、恐怖はとうに薄れてしまっていた。
 はたり、はたり、若者の流す涙が弾ける音さえ響くような静寂が、丘の上を支配している。多くの同胞が息絶え、残った友も深手を負い途切れそうな意識の中――己の最期に見る景色がこんなに美しいもので良かったと、谷利は心の底からそう思った。