自隊の精鋭を連れて丘の頂上に駆け登った蒋欽、字を公奕は、山越たちの死体が転がる本陣の真ん中で坐り込んだ宣城駐留軍の指揮官である青年の背中を見て、驚き竦み上がった。
「孝廉様!」
 慌てて駆け寄った彼は、その膝に頭を乗せたまま昏倒している血まみれの友の姿を見つけ、また飛び上がってしまう。己の存在に気づいた青年がすっかり泣き腫らした頬で見上げてくるのには参ってしまった。
「公奕どの、宣城は……」
「……大丈夫です。山越どもは撤退しました。捕虜は広場にまとめていますのでご指示をお願いします。幼平は……俺一人じゃ無理だなあ」
 おうい誰か、と呼びかけ、集まってきた兵士たちに友――周泰の介抱を頼み、蒋欽は本陣を見渡した。累々と横たわる死体は、ほとんどが友の手によるものだろう。幼少の頃からの付き合いで、戦場では互いに背を預けた仲だが、彼がここまで凄まじい働きを見せたのは蒋欽には覚えがない。
「……ん?」
 丘の頂上の片隅に、かすかに動く塊があった。見れば、恐らく山越の兵士であろう若者が二人。片割れは左腕を失い俯いており、もう片割れは呆然と指揮官の姿を見つめている。
「あの者らは?」
「……え?」
 蒋欽の麾下兵に連れられて行く周泰の姿を見ていた指揮官は、蒋欽の呼びかけに、今気づいた、と言うように山越の若者に目を向けた。
「……わからぬ」
 ぼんやりと呟く指揮官はまっすぐ彼らを見つめている。そのうち、一人の兵士が彼らの姿を見とめた。誰何の声、返事も胡乱な彼らにいらだっているのか、兵は半ば乱暴に若者の腕を掴み立ち上がらせようとする。
「無体を働くな!」
 何が彼の切っ掛けになったのか、勢いよく立ち上がった指揮官は兵士と山越の若者たちの元へ走っていくと、兵士を追い払うような仕草をした。困惑した表情の兵士に見つめられて、蒋欽は普段から朗らかなその面に苦笑を浮かべると、いいよ、と助け船を出した。
「孝廉様は私が見ているから、お前は他を手伝っておくれ」
「わ、わかりました」
 蒋欽が指揮官に目を戻すと、彼は山越の若者の前に膝をついていた。
「こ、孝廉様……」
 率直に言えば蒋欽自身も、今の指揮官の危険を顧みない振る舞いには当惑している。現に山越の若者のすぐ傍には剣が落ちていて、至近距離で不意を打たれて刃向かわれようものなら蒋欽と言えど彼を満足に守ることができる保証はない。今日だって胸騒ぎに従うがまま西に向かう軍から独断専行で部隊を宣城に引き返させた折も、城外に一騎で立ち尽くす姿を見たときは――そして半泣きで縋りつかれたときは――度肝を抜かれた。それを看過した挙句、人事不省の大怪我を負ってしまった周泰には現時点でかける言葉も見つからないが……
 ――いや、あいつの考えなのかなあ?
 己の背後で渋面になる蒋欽のことなどお構いなしの指揮官は、山越の若い兵士の顔を交互に見つめた。
「お前たち、名は何と言う?」
「――谷利と、潘卓です」
 先ほどとは違いやけにはっきりとした返事があって、蒋欽は目を丸くする。そうか、と答えた指揮官は一頻り周囲に目を配ったあとひとつの死体を目に留め、お前たちのともがらか、と小さな声で問いかけた。はい、と比較的傷のない若者が答えた。
「すぐに遺体を洗い、お前たちの屯に返すよう努める。そっちの……潘卓か? お前の傷もすぐに手当てをさせよう」
「……え?」
 掠れたような声で、重傷を負った若者が聞き返す。
「こたびの衝突で捕虜になった者たちを、私は奴婢として使役させるつもりはない。時が来れば必ず郷里に帰すと約束しよう。だが……その前に、私の頼みを聞いてくれるか」
 指揮官にまっすぐ見つめられ、谷利と名乗った若者は不思議そうな表情で頷く。
「孝廉様、討逆様や帷幄の皆様が何と仰られるか」
「私の不手際に対する咎めは受けましょう。油断などせず防備をきちんとしていれば敵に戦意を起こさせることなく、無用な衝突は避けられ、いたずらに命が失われることもなかった。このような失態の末に犠牲になった者たちをこの上酷使させるなど……」
 到底させられません――眉根を寄せて首を振った指揮官は立ち上がり、周囲に散っている兵士たちを呼び寄せるとすぐに潘卓の介抱に当たるよう指示を出した。不承不承それを引き受けた一人の肩を叩き、よろしく頼む、と送り出した彼は、手持ち無沙汰になった谷利を振り返る。
「さあ、行こう。公奕どの、下の広場に皆を集めているのでしたね」
「あ、ああはい。そうです」
「では、谷利」
 行こう、と改めて促され、谷利は首肯した。先に立って歩き始める指揮官の後ろを素直について行く山越の若者の姿に、蒋欽は戸惑いを隠せない。
 蒋欽と彼との付き合いはまだそれほど長くないが、主である孫策と彼とはあまり似ていない兄弟だと蒋欽自身は思っていた。むしろ豪気で大胆な風情は更に二つ年少の孫儼の方がより近く、若年ながら頼りがいのあるのもまたそちらだと思っている者が群臣の中には決して少なくないのも事実である。
 それでも、先ほど我を通した横顔は――山越の若者を伴ったときの毅然とした表情はどことなく孫策に似通って、蒋欽には心強く思われた。
「あんな顔もするんだなあ……」
 嘆息し、蒋欽も二人の後に続く。大股で坂を下りていく彼のぴんと伸びた背が、青天の下に淡く光を帯びていた。


 ◇


 ぼんやりと見上げる郷里の夜空に月はない。ふう、と息を吐いた谷利は、眠りに就いた母親を起こさないように静かに家を出ると、そっとその幕を下ろした。

 宣城での衝突から五日が経った。あの日、広場に集められた山越――孫策の軍はどうやら谷利たちまつろわぬ民のことをこう呼ぶらしかった――の捕虜たちの前に立った駐留軍の指揮官は、彼らに向かって語りかけた。
 こたびの衝突によって犠牲となった孫策軍、山越両軍の兵士、そして宣城の無辜の民への弔意、捕虜となった山越の兵士たちに対する処遇、そして――
「このまま郷里に帰ってもらっても構わない。だが、どうかその前にこの宣城の復興に手を貸してはもらえないか。我々だけの手では足りぬのだ。愚かな私を見兼ね、自ら武器を手に取った勇敢なる宣城の民の中には命を落とした者も少なくない。この町の恙無い生活のために、どうかこの通りだ」
 そう言って、指揮官は頭を下げた。思わず声を荒げて指揮官の名を呼んだ蒋欽のことは誰も咎められないだろう。それでも、指揮官は山越の捕虜たちに懇請した。
 日没が間近に迫り、兵舎に引き上げる駐留軍を横目で見送ると、すぐに谷利の屯の百名足らずの捕虜たちは宛がわれた宿営地で車座になって討議を始めた。若い指揮官の必死の熱意は彼らの多くの心を打ったが、それでも信用しきっていいものかと疑いは晴れない。元より捕虜は奴婢として扱われるのが定石の時代で、件の指揮官の対応は異例とも呼べるものだった。
「利、卓、お前らは帰れ」
 一人が言う。そうだな、と別のもう一人が頷くのに、なぜ、と谷利は反発した。
「あの若造は確かに俺たちを帰すつもりかも知れないが、それと孫策の取り巻き連中の思惑は別物だろう。後でやっぱり返せません、なんてことにもなりかねんし」
「卓は怪我があるから当然だが、利も戻って――他の奴らを弔ってやってくれ」
 チラ、と彼は宿営地の隅に目を遣った。そこには駐留軍の兵士たちの手によって洗われた同胞の亡骸が整然と横たえられてある。谷利たちの友もそこにいた。
「……わかりました」
 沈痛な面持ちで答える谷利の頭を、一人がぐしゃぐしゃと撫でる。彼の友人もこの戦闘で命を落とした。向こうで笑っているあの男の友人も。仲間の輪から少し離れたところで俯いている青年の父親も。
 翌日、谷利たちの屯からは谷利と潘卓、そして二人に次いで年少の若者を十数名選抜して屯に帰すこととなった。行きは半日とかからなかった道程も、帰りには一日をかける積もりである。
 思いがけないことに、指揮官の青年が城門まで見送りに駆けつけた。戸惑う山越の若者たちに彼は微笑みかけると、達者で暮らせよ、とねぎらいの言葉までかける始末で、肩の向こうで笑みを浮かべているのに眉を寄せているなんて複雑な表情をしている蒋欽のことがむしろ気にかかる。
 郷里への道中は虚しいものだった。何せ死んでしまった同胞を乗せた荷車を曳いて、ただひたすらに青天の下を進まなければならない。これほどまでの苦役をまるで厚意のように任せてしまえる、宣城に残る仲間に対する恨みつらみが頭をよぎってしまいそうなほどだ。すっかり夜も更けた頃に郷里に赤々と燃えるかがり火が見えてきたときには、泣き崩れる者さえあった。
 若者たちを迎えた屯の住民たちの反応は様々だった。必死の形相で息子に縋りつく母親、滂沱と涙を流して抱きしめ合う夫婦、物言わぬ死者となって帰ってきた父親の傍に呆然と立ち尽くす幼い子供と――膝をついてその体に寄り添った妻の姿。先に撤退して屯に戻っていた仲間と抱き合ったとき、ぽつりぽつりと谷利の目から涙がこぼれた。

 黄寧の母親の悲痛な叫び声は、静寂の落ちた夜の屯を横切る谷利の耳に今もこびりついて離れない。
 三人の友人は、他の同胞たちと共に集落の外れの墓地に埋葬された。かつて黄寧が谷利に「持っていっていい」と告げた虎の牙の首飾りは、遺品だからと彼の母親に渡してしまった。それでいいのだ、と彼は思う。
 一振りの剣の他には何も持たずに、ただこの身ひとつの軽やかさだけを頼りに進んでいく。たったそれだけを心に決めるのすら、三日もかかってしまった。屯を出て行くことを唯一告げた潘卓は、そうか、わかった、と絞り出すような声で言ったあとは、静かに泣き入るばかりだった。
 厩舎の脇を横切り、南西に面した集落の出入り口に設えた木戸の横に立つ門番の大人たちに気づかれないように、身を低くして草むらを掻き分けていく。屯の西にあるなだらかな崖の斜面を恐る恐る下りながら、谷利は何度も何度も屯を振り返った。
 母親には、どうか心配をしないでほしい。潘卓はうまく言い訳をしてくれるだろうか。彼は仲間内でも特別頭はいい方だから、あまり気に掛ける必要もないかもしれない。
 最後の斜面を勢いよく滑り降り地面に立った谷利は、空を見上げた。月がないから、星が良く見える。西の丘陵地帯を黒く染めて縁取るような、かすかな地平の光の帯に浮かぶ三つの星を目指して行く。南東の空にも一際大きな三角形の星が見えるが、あれを背に進めばいい。そうして北を見れば、いにしえより中心に坐して動くことのないひとつ星と、その周りをぐるりと巡る七つ星と五つ星。
 谷利は歩き出した。
 彼の力になりに行くのだ。


 ◇


 卯の刻、不意に城門の前に現れた軽装の若者を、門番たちは明らかに警戒した。しかし、城門の清掃のために偶然行きあった同胞の一人――荊尹が彼の名を呼んだことでその警戒は解ける。むしろなぜ戻ったのだ、と奇異の目で見つめられた彼――谷利は気まずそうに目を逸らした。
「いや、だが本当になぜ戻って来たのだ。こちらは城内もあらかた片付いたところだが……」
「あの、指揮官どのは」
 谷利の問いに荊尹が、ああ、あの人なら、と口を開いたとき、背後から鋭い声が飛んだ。
「何者だ!」
 振り返ると孫策軍の鎧を身に纏った若い兵士が、目を吊り上げてこちらに大股で向かって来るところだった。
「ああ、これはうちの屯の若い衆です。先に帰したんですが、手伝いに戻って来たみたいで」
 谷利の前に立って背筋を伸ばした兵士は、キッとその顔を睨みつけた。谷利の目線の高さにちょうど彼の頭のてっぺんが来るほどの身長差があって、谷利は彼を見下ろす形になってしまう。
「孝廉様の寛大なご配慮が解せなんだか。戻って来たからには遠慮なくお前の手も貸してもらうが……」
「あの、その、コーレン様……? でしょうか、指揮官どのはどちらへ」
 言葉を遮られた兵士はムッと眉を寄せたが、ごほんとひとつ咳払いをすると、孝廉様は一度呉に戻られている、と言った。
「二日前に涇県から戻る軍勢に一旦合流したのだ。討逆様の火急の用のためにここに留まることができなんだ。もうすぐ戻られるとは思うが、それまでは俺と陳子正どのがここを任されている。以後俺の指示に従うように」
 胸を張った彼に荊尹が、どうしてそんな感じなんです? と笑い混じりに言った。
「四角張って面白いですよ」
「面白いとか言うな! 最初が肝心なのに、台無しだ」
 急に砕けた若い兵士と荊尹に困惑する谷利に、兵士はまたごほん、と咳払いをする。
「俺は朱義封。わかったらついて来てくれ。まだすることは山ほどある」

 朱然、字を義封。自分はこの宣城駐留軍指揮官の学友であり戦友でもある、とのたまう彼の表情は実に誇らしげだった。こたびの丹楊郡西部の平定に於いても自分はかの指揮官、そしてその副将である周泰と共に宣城に駐留する予定のはずだったが、指揮官のあっけらかんとした、周幼平どのがいるからお前は西に向かっていい、との一言で征伐軍に加えられてしまったのだと言う。
「なーにが大丈夫だよなー! 周司馬もあんな大怪我までしてさ! あいつもこれでわかったろうさ、一人だけじゃ何もできないって!」
 なー! と大きな声で管を巻く朱然は、谷利の肩に腕を回してはしゃいでいる。首が痛いと訴えたが酔いの回った彼の頭には届かなかったようだ。
 夜半、城内各地の宿営地をねぎらいのために訪れた朱然は酒を持参していた。呉にいる駐留軍指揮官から出された早馬が、彼が明日の昼には宣城に帰還する一報と共に手土産として運んできたものであった。宣城に残っていた山越たちは皆喜び、それぞれの宿営地はかがり火を焚いて大いに盛り上がった。
 谷利たちの屯の宿営地に腰を落ち着けた朱然は、己と谷利との年が近いことを知るとすぐに人懐っこい笑みになり、たくさんの話を――ほとんど一方的にであるが――谷利にした。己が孫策の腹心である朱治の養子であることや、その縁で彼の弟と出会い、机を並べて学業に励んだ仲であること。時には若さゆえのいたずらも共にしたこと。また、自分も又聞きではあるが、と言い置いて、しかしまるで見てきたかのように孫策とその群臣たちの来し方を大きな身振り手振りと共に語った。それは艱難辛苦の旅であり、先の見えない暗闇を掻い探って進み続けた道だった。だがそれはまだ続いているのだ、と朱然は言った。
「これからは俺もその一団に加わって、あいつと共に進むんだ」
 かがり火に照らされた朱然の昂然たる横顔は、谷利の目に焼き付いた。
 その内手拍子やら口笛やら歌やらが始まりだした宴たけなわの時、もう一人の駐留軍指揮代行である陳端、字を子正という壮年の参謀がのっそりと宿営地に現れて、柔和な笑みのまま酔っ払い共に釘を刺した。
「宣城の皆々様のご迷惑もお考えなさい」
「申し訳ありませんでした……」
 特に朱然は一気に酔いが醒めたようで、先ほどまで赤かった顔が心なしか青くなっている。つられて谷利や他の山越たちまで縮み上がってしまった。
「早く休みなさい。明日は孝廉様がお戻りになるのですよ」
「はい……重々承知で……」
 恐る恐る立ち上がった朱然は、そのまま陳端の後ろに従う。慌てて谷利も立ち上がり、彼らを追いかけた。
「あの、義封どの」
「ん? 何?」
「明日、俺も指揮官どのに挨拶させていただいてもよろしいでしょうか」
 谷利の訴えに朱然は目を丸くするばかりで、答えたのは陳端だった。
「構いませんよ。孝廉様もお喜びになります」
「あ、ありがとうございます!」
 ほっとする谷利の腕を朱然ががしり、と掴んだ。
「うん、喜ぶ。絶対あいつ喜ぶよ。谷利、ありがとう」
 戻ってきてくれて、ありがとう。
 満面の笑みを浮かべた朱然の顔を見て、谷利の心臓がばくばくと激しく脈を打つ。

 夜通し歩いた晩秋の空気は重く、不安に押し潰されそうになる若い体をただ星々だけが見ていた。来た道を引き返したいと願う衝動に足を絡めとられないようしっかり地面を踏みしめて、しかし頭の奥では何度も何度も家族やともがらの名を呼んだ。
 正しさでも、義務でもなく、ただ心の望むまま西を目指した彼の両眼に、薄い涙の膜が張っている。

「なんで泣くんだよー」
 朱然が困ったように笑い、陳端は苦笑を浮かべて彼の頭をそっと撫でさすった。
「お疲れでしょう、早くお休みなさい。また明日も、元気にがんばりましょう」
 言葉を発することもできず、谷利はただただ頷いた。


 ◇


 翌日、短期間で立派に建て直された城門前に集まったのは、指揮代行の陳端と朱然、そして宣城駐留軍の各部隊長の他は、宣城に暮らす住民の代表数名のみだった。兵士の大部分や山越たちは最後の一仕事のために忙しなく城内を動き回っている。連日の働きがあって宣城の修繕はほとんど段取りよく終えられたため、今日一日を後始末に費やし、帰還した指揮官の最終的な監査を以て一堂は解散となる。
「孫孝廉様、蒋司馬のお帰りです!」
 衛士の声と同時に城門が大きな音を立ててゆっくりと開いていく。その向こうから、軽やかな蹄の音と共に宣城駐留軍指揮官――孫孝廉と、蒋欽、そして十騎の守備騎兵が入城してきた。膝をついて拱手する陳端以下出迎えた兵士たちに手を上げて挨拶すると、ヒョイと下馬した孫孝廉は馬を引きながら彼らに歩み寄った。
「留守中ご苦労でした。何事もありませんでしたか?」
「はい、万事恙なく。今日一日はたっぷり後始末にかける積もりです」
「それはよかった。義封、酒は美味かったか?」
「はい! ……あ」
 威勢の良い返事のあとに尻込みした朱然に孫孝廉は首をかしげる。陳端がコホンとひとつ咳をした。
「孝廉様、皆を労わろうというお心遣いはご立派ですが、酒が入れば人は往々にして乱れます」
「う……騒がしくして、子正どのにちょっと怒られました」
 申し訳なさそうな朱然の表情と、陳端の渋面という対照的な様子に、孫孝廉もつい肩を竦めてしまう。その様子に思わず笑い声を漏らした蒋欽まで陳端に睨まれ、おっと、と口を手で塞いでみせた。
「申し訳ない、気が回りませんでした……以後気をつけます」
「いいえ。ですが、皆とても喜んでおりましたよ」
 それは重畳、と言いながら傍らの兵士に馬を預けた孫孝廉は、陳端と朱然に先導されながら、片付いた城内を歩いて回った。行く先々で宣城の民や後始末に奔走する山越たちに声をかけられ、それらにひとつひとつ応えながら、孫孝廉は心なしか満足そうに頷いた。未だ衝突の爪跡はそこかしこに残るものの、指揮代行の発言の通りに、宣城は元の生活の気配を取り戻し始めている。思わず口元に笑みを浮かべた孫孝廉に、陳端が問いかけた。
「そういえば、周司馬は大丈夫でしたか?」
「…………」
 急に黙り込んだ孫孝廉の代わりに蒋欽が、大丈夫ですよ、と笑いながら答えた。
「頑丈なだけが取り柄なんですから。それに討逆様が幼平の活躍をとてもお喜びになって、傷が癒えたら春穀の長に就くようにと仰ったんです」
 おや、それはめでたい、と陳端が言うのに、孫孝廉は浮かない表情をしている。それに気づいた朱然が彼の名を呼ぶと、うう、と彼は唸り声を上げた。
「……あれほどの勇将の命を、たかが私如きのお守で失うわけにいかないことは、私もわかってるんだ」
「こうして呉からずうっと拗ねてるんです」
 誰もそんなこと言ってないじゃないですか、と蒋欽は気安く孫孝廉の肩を叩いて慰める。陳端も苦笑して、仕方がないじゃないですか、と取り繕うように言った。
「それだけの働きを周司馬はなさって、討逆様がそれにとても感じ入り、相応の役職をつけた。何も拗ねることはありませんよ。むしろ立派な武人の姿を直接ご覧になることができたじゃないですか」
 こういったことがこれからも続いて、あなた様も義封も皆、そうやって長じていくのですよ、と陳端は続ける。
「……わかってる……」
 口では納得しながら、いまだ得心がいかぬ風な孫孝廉を、いよいよ朱然が小突いた。
「しょーがないなあ。今度からは俺が守ってやろうか?」
「……からかうな。それに、そうもいかないだろう。義封もいずれは武功を立てて討逆様の下で将軍になるんだから」
「なんだよ、つれないなあ」
 からからと朱然は高らかに笑った。

 その軽やかな笑い声が大通りの方角から聞こえて、谷利は後片付けの手を止めて顔を上げた。水桶を担いだままひょいと通りに顔を覗かせると、ちょうど帰還したらしい指揮官の一団が、陳端、朱然に伴われて城内を見回っているところらしい。すぐに彼の赤い髪に目が行った。
 ――コーレン様。
 谷利がその様子をじっと見つめていると、あにはからんやその視線に気づいたのは他でもない指揮官当人だった。その目が徐々に驚きに見開かれ、丸い碧眼がきらりと輝き出す。
「谷利? 谷利ではないか!」
「!」
 すぐに指揮官は彼のもとに駆け寄ってきた。
「戻っていたのか? なぜ……」
「あ、俺は……」
 言いかけたとき、ああ、そうだ、と朱然が口を挟んだ。
「お前に挨拶したいって、こいつ」
 挨拶? 首を傾げた指揮官が谷利を見る。はい、と頷いた谷利は、屯を出てからずっと心に決めていた、彼に伝えるべきことをはっきり口にした。
「コーレン様のお役に立つために戻ってきました」
 指揮官の双眸がますます驚きに満ちる。
「私の役に?」
「どのようなことでも構いません。叶うならば俺のことをあなた様の私兵に加えてください」
「私兵……とは」
「コーレン様のために戦う兵として」
 谷利が必死に訴えたその言葉に困ったような表情を作った指揮官は、周囲の喧騒を気にしてかやにわに谷利の腕を取り、まずはわかった、と言った。
「とりあえず私と共に兵営に行こう。そうだ、それから、私はコーレンという名ではないよ」
「え?」
 違うのか、と谷利は思わず指揮官の背後にいる朱然たちを見遣った。谷利の勘違いに気づきもせず、彼らは不思議そうに見つめ返すばかりである。
「私は孫権、字を仲謀という。そうだな……コーレン以外なら、お前の好きなように呼んでくれて構わない」
 指揮官――孫権は小首をかしげて笑った。

 兵営で床几に腰を下ろした孫権は谷利らも地面に敷いた席に坐らせると、お前の気持ちは本当にありがたいのだが、と神妙に前置きをした上で谷利の申し出を断った。
「私は私兵を持たぬ。私自身が討逆様の下で戦う兵の一人だからな。兵馬は討逆様より預かるもので私の所有するところにはないのだ」
 そこまで告げて谷利を見た孫権は、彼が明らかに失意の表情をしているのに気づいて慌てる。
「いや、私から討逆様に伝えてお前を麾下に加えてもらうようにはできる。そう落胆せずとも」
「……それでは嫌です」
 ぽつりと呟かれた言葉に、孫権も、共に兵営に集まった蒋欽たちも首をかしげた。
「嫌とは?」
「俺は、仲謀様のために戦いたいのであって、そんさ……トーギャク様に言われてあなた様の下に就くのは……」
 朱然が、はあ? と素っ頓狂な声を上げる。
「同じだろう。違うのか?」
「違います」
 わからん、と首をひねる朱然の隣で目を細めた蒋欽は、討逆様は君らの敵だものね、と言った。宣城に於いて山越の鎮圧に直接参加した彼の目を通すと、谷利の言葉は得心のいくものだったらしい。
「山越にとって討逆様は憎らしい、でも君にとって孝廉様は恩人だ。そこの折り合いがつかないんだろう?」
「ああ、なるほどなるほど」
 陳端が二度頷いた。
「あくまであなた様だけのための兵になりたいのですよ、この子は」
「……それは……」
 困る、と孫権は言った。
「私が個人的な戦力を持つことはできない。討逆様に要らぬ心配をかけさせる」
 孫権の言い分を谷利はまるで理解することができなかったが、孫策軍の将たちはその言わんとするところを十分に把握したらしかった。兵営に落ちかけた淀みを払うように、朱然が笑う。
「こいつが戦力ですか? どう見ても使い走りですよ。宛陵辺りからここまで夜通し歩いた健脚と、そのまま一日働き通した体力だけは認めますけど」
「ああ、それはいいな」
 蒋欽も同調する。
「孝廉様、私がここに着いたとき、あなた様は単騎だったでしょう。ああいうのは心臓に悪いのでやめてもらいたいです。幼平ほどとは申しませんが、せめてお供の一人でも」
「そうですね、それに、大量の酒を遠地に運び込むような振る舞いを諌める者が必要です」
 うんうん、と陳端も頷く。焦った孫権が、お前たち、と声を荒げるも聞く耳を持たない諸将、中でも谷利の肩に腕を回した朱然などはすっかり乗り気だった。
「仲謀のこと、どうか頼む。もうあんまりこういう無茶はさせないでくれ」
 どうしたものかと谷利は迷って――結局頷いた。おい、と思わず立ち上がりかけた孫権だったが、三様の目線に同時に見つめられて続ける言葉を失い、居たたまれなさそうに坐り直した。
「……わかった」
 孫権に目を戻した谷利の顔を、彼は見返す。
「谷利、お前を私の側近にしたい。了解できるか?」
 背筋を伸ばした谷利は、はい、と大きく頷いた。
「願ってもないことです」
「では、早速だがひとつ、お前に任を与える」
 ぴ、と孫権が立てた人差し指を谷利は目で追った。
「明朝、帰還する兵らと共に郷里に戻り、きちんと同胞と話をつけてから来るように。一度呉に来てしまえば、滅多なことではお前を帰すことはできなくなる」
 元より承知です、と谷利は即答した。目を丸くした孫権はすぐに、そうか、とはにかむように笑うと、今度こそしっかり立ち上がり谷利の傍に歩み寄った。彼が何かを言う前に朱然が、立て、谷利、と急かす。
「え?」
「そしたら跪いて、こう、手はこうだよ」
「いや義封、私はそういうつもりでは」
「こういうのはちゃんとしておかないと」
 朱然の指示する通りに、片膝をつき、腰を落とす。右手につくった握り拳に左手のひらを包み込むように重ね、胸の前で合わせれば、不思議と心が穏やかになり凛とした気が全身をめぐるような心持ちになった。
 顔を上げて孫権を見つめると、彼は戸惑ったような表情をしている。口を引き結び、谷利は深く頭を下げた。

「阜屯の谷利、これより呉の孫仲謀様に付き従います」
「…………わかった。阜屯の谷利、この孫仲謀がお前の命を預かろう」


 ◇


 二度と戻るつもりはないと思っていた郷里に足を運ぶのは気恥ずかしい。しかもたったの二日ぶりだ。宣城から戻ってきた同胞の中に谷利の姿を見つけた門番たちは、口々に驚きの声を上げた。
「卓からもう帰って来ないと聞いていたぞ」
「まったく、驚かせるんじゃない。季もお前を心配していた」
 母親の名を出され、谷利は小さく頷く。すぐに行ってやれ、と背中を押されるがまま彼は走り出した。
 二日ぶりに会った母親は、目の下に隈を作り、憔悴した様子で息子を出迎えた。あなたが黙って屯を出てから一睡もできなかった、と谷利の体を抱きしめた彼女は声を上げて泣き出してしまう。
 そのうち潘卓が息を切らして谷利の家を訪れた。谷利の顔を見るなり彼もすっかり涙声になって、おかえり、とだけ言うと手のひらで顔を覆ってしばらく二の句が継げなかった。
 どうにか二人を落ち着かせた谷利は、話があるのだ、と彼女らの前に腰を下ろした。
「実は、またここを出て行きます。それで、次はもう本当に、戻ってこられないかも知れません」
「利?」
 戸惑ったような声を上げた潘卓を見遣り、谷利は、すまない、と呟くように言った。
「ある方の側仕えとしてお勤めすることになりました。一度その方の下に参じてしまえば、もう滅多なことではお傍を離れることはできません。元より……その方を守り、お力になるために俺は行ってくるのです」
 母を一人きりにする不肖の息子をどうかお許しください。谷利は母親の手を取り、額をそっとつけた。その温もりに彼女の目からまた涙があふれる。
「だから卓、どうか母をよろしく頼む」
「…………」
 潘卓は頷かなかった。卓、と谷利がその名を呼ぶと、彼は眉をひそめて問うた。
「ある方って、誰だよ」
「…………それは……」
「まさか、孫策じゃないよな」
 詰問するかのような潘卓の語調。はっと驚きに息を飲む母親を見て、谷利はそっと首を振る。
「孫策じゃない。でも、もう一人……」
 息子は、母親の手を強く握った。
「いずれこの屯にも彼の名が聞こえてきます。名を、孫権、と言います」
「孫、権……?」
「その名が聞こえてくる限り、彼の傍に必ず俺がいます。それをもって息子からの便りとしてください」
 彼女はもう涙してはいなかった。ただ息子の真摯な表情を見つめ、それから、わかりました、と微笑んだ。
「必ずその方のお役に立ちなさい。途中で投げ出してはいけませんよ」
「――もちろんです。そうしたら、夜は必ずお眠りください。卓、今度こそよろしく頼む」
 頭を下げれば、はあ、と長い溜息をついた潘卓は、わかったよ、と答えた。
「あいつだろう、孫権て。俺たちを帰してくれた……」
「……そうだ」
「そっか。うん……」
 残った右腕で頭を掻く潘卓の表情は柔らかい。
「帰ってきたとき皆で宣城の話をしたろう。お前がいなくなってからも話し合ってたんだ。……孫策は許すことはできないけど、あの若造を裏切るのは忍びないって」
 潘卓は谷利と目を合わせ、にこりと笑った。
「帰ってきた皆ともう一度話し合うことになると思う。……お前はお前で、がんばってこいよ」
 その言葉に、谷利は頼もしく頷いた。

 太陽を中天に望みながら、郷里の同胞たちに見送られた谷利は手を振る彼らに答えたきり、もう振り返らなかった。
 宛陵近くにあるこの屯からは東に五十里ほど行ったところにある広徳県で、宣城から撤退した駐留軍は一時休息を取るという。自然、谷利も急ぎ足になる。早く彼の元に向かわねばならない。
 いつの間にか谷利は走り出していた。目の前に広がる平原が、日の光を浴びて輝いている。
 まるであの時自分を見つけた孫権の、瞳の色のような碧。

 谷利は叫び、拳を握った。
 己の手の中に、譲れないものを彼は見つけた。