「どうやらわたくしの命数がもう、そう多くは残っていないようなのです」
 あっけらかんとして笑う目の前の魯粛に、孫権はぱくりと開いた口が塞がらない。

 建安二十一年、秋。ついに建業来訪が叶った魯粛は孫権との会談の席につくなり、大したことでもないような口調でそう言った。虚を突かれしばらく絶句するよりなかった孫権だが、ようやく我を取り戻すと魯粛の傍へ膝立ちで擦り寄る。
「ど、どういうことですか。お体に何か障りが」
「ええまあ。変な咳は止まらないし、日々にだるさが抜けない。起き上がるのがつらい朝もあれば、毎日このへんが」
 魯粛は彼の手でそっと心臓の上に手を置く。
「痛むのです」
「…………そんな……」
 孫権は魯粛の手の向こう、彼の心臓の形を思う。平然と目の前で笑って軽口を叩いてみせるくせに、彼の命は今このときも傷つき、痛んでいる。
「子敬どの、このまま建業に留まり養生に当たってください。漢昌は……そう、呂子明どのにお願いして」
「それはできません。それを言いに来たのです。そしてこれからのことを」
 魯粛の眼差しが真剣味を帯びる。嫌です、と呟く孫権の手を彼の手がそっと握った。
 かぶりを振る孫権に、魯粛は訴える。
「残り僅かとわかっているならまだできることは山ほどあります。わたくしはわたくしの生涯を惜しまぬほど、あなた様に出会えて楽しかったし、幸せでしたよ」
「…………あなたを、車の中へ迎え入れる約束は」
 ささやくように、しかし必死の顔で問いかける孫権に魯粛は、覚えていたのか、と瞬く。
 かつての荊州での激戦から十年近くが経とうとしている。周瑜、孫瑜は既に亡く、程普もまた病魔に侵され衰弱する身となった。あのとき願った地には未だ届かないが、しかし確かに暗闇のなかに道が見えているのが魯粛にはわかっている。
 彼はおかしそうに笑って、握ったままの孫権の手を軽く振った。
「そしたら、時期を見計らって黄泉から遊びに来ますよ。他の皆様もお連れしますから、必ず我々の分の場所を空けておいてくださいね」
 そう言った彼はおどけるように片目を閉じてみせる。まるで道化のような表情に孫権はようやくと口許をほころばせ、しかし眉根は悲しげに寄せたままひとつ首肯した。

 さて、とぱしんと自身の膝を軽く叩いた魯粛は、沈んだ空気を払うように声を上げる。その様子に孫権も口許を引き結んで背筋を伸ばし元の席へ戻るために立ち上がった。
 室の外に控えさせていた親近監らを呼ばわると、彼らは足音を立てぬようにひそりと入室してくる。孫権の傍らに向かう谷利、魯粛の後背に落ち着く左異、衛奕らの肩をそれぞれ軽く叩きながら魯粛は彼らに、頼もしいな、などと声をかける。訝るような谷利の目線に笑みを返して、彼もまた背筋を伸ばした。
「これからする話は特に谷利には驚かないで聞いてほしいんだがね」
 魯粛は口を開くなりそう言った。名を挙げられて驚いたのは他ならぬ谷利本人である。孫権と魯粛との間にもたれる会談は常に国事のためであった。それがなぜ己の機嫌を伺わねばならぬのか、彼にはその理由が判然としない。
「……とはいえ恐らく我が君も、お考えの端には置いてあるひとつの策略だとわたくしには思われるのですが、そこのところはどうでしょうかな」
「……曹孟徳に南下の気配があります。彼の外患であった北方、西方の敵はほとんど除かれました。本来であれば次に相対するならば我々です。巴蜀の峻険な山地を越え劉玄徳と対峙するよりも、遥かに容易く、平定してしまえるでしょう」
 私は彼らに比べればよほど若輩ですから、孫権の言には感情がこもらない。まるで他人事のようにそう口にする彼に、谷利は不安を覚える。彼が何を言おうとしているのか、浮かぶいくつかの考えは谷利には到底飲み込めるものではない。
 しかし魯粛は、然り、と首肯する。
「ましてや遂に魏王の地位に至ったとなれば、いよいよ彼にとって障壁となるものはございますまいな。我々が東でいざこざを起こしている間にまんまと劉玄徳は己が国まで手に入れてしまった。この上わたくしがいなくなってしまえば、劉玄徳との繋がりもこれ以上持っていて意味のあるものではございませぬ。少なくとも、今この段階に於いては」
「え?」
 素っ頓狂な声を上げたのは衛奕だった。左異もまた目を丸くして魯粛を見ている。
 孫権は谷利を振り返り、同じように困惑したその表情を見てとると、後で話す、とだけささやいた。
 魯粛に向き直った孫権は頷き、彼が続ける言葉を待つ。魯粛は真顔になり、孫権の碧い双眸を見つめ返した。

「あなた様はまだお若く、総身に気力が満ち満ちている。その青い気高さゆえに、いかに余人や後世の史書に嗤われ蔑まれようとも、いずれ必ず自身の両の足で立つために、今膝を屈する覚悟はおありですか?」

 谷利は息を呑み、体を前に乗り出した。思わずその腰に佩く剣の柄に手が掛かり、それが視界に入ったわけでもないだろうに孫権は彼の前にその手を差し出して動きを制する。
「我が君、魯子敬様が今仰ったことは」
「利よ。心に大願のなかりせば」
 孫権の静かな声が、熱くなった谷利の脳裏に届く。
「恥辱に塗れ屈服することを容れられず誇りを抱いて死ぬのみだ。だが、私には大願がある。大言壮語と嗤われ、無知厚顔と蔑まれようとも成すを欲する願いが」
 ふと孫権は谷利を振り返り、その口許に笑みを浮かべた。
「それに、お前がそうやっていつも私を尊重してくれているから、こんなくらいならなんでもないんだよ」
 だから魯子敬どのを邪険にしないでくれ、とついに彼はおかしそうに笑った。そこでようやく谷利が体を引いたのを見、魯粛の後背で剣の柄に手を掛けていた二人の親近監もほっとしたように居住まいを正す。
「本当にいい奴だな、お前さんは」
 魯粛は谷利の行為を意に介さず、そう言って笑う。申し訳ありませんでした、と頭を深く下げる谷利を見て、彼はますますおかしそうに口許をほころばせる。
「謝るなよ。これからもずっとそのようにあってくれたら俺は嬉しい」
「…………」
 その答えは言うまでもないことで谷利は口を引き結んで首肯するに留めたが、魯粛は変わらずにこにことしていた。

 腹は決まった、ならば問題は時期である。魯粛の言うにはこうである。早すぎてもいけないし遅すぎてもいけないが、少なからず一度は曹軍と干戈を交えねばならぬし、その際に少なからず人は死ぬ、彼はそう述べた。
 孫権は口を閉ざしじいっと彼の斜め下を見つめていたが、やがてひとつ頷き、わかりました、と口にした。
「なればその被害を最小限に留めることだけを考えましょう。次に戦闘が発生するとしたら恐らく濡須になるでしょうが、当地には以前の衝突の際に築いた堡塁がございます。あれを使えば」
「なるほど、周到ですね」
「呂子明どのの発案だったのです」
 呂子明、魯粛はその名を呟く。そうしてチラと孫権を上目遣いに見やり、彼は良い将だ、と言った。
「彼になら任せられます」
「……と言うと?」
「おわかりになりますでしょう? 詳しくわたくしの口から申し上げるようなことはさせないでください。これでも悔しいのですから」
 魯粛の言に唇を引き結んだ孫権は覚束なく頷き、わかっております、と言った。
「呂子明どのは本当に頼もしい将です」
「あまり彼をわたくしの前でお褒めにならないでください。妬心を覚えます」
「…………ふふふ」
 ほんの少し頰をふくらませた魯粛の稚気のある仕草に、孫権はおかしそうに笑う。
 魯粛の言は本意なのか気遣いなのか孫権には判然とせぬが、その明るさに遺される己のほうが勇気付けられてしまう、と彼は気恥ずかしく、切なく思った。
 魯粛は居住まいを正すとじいっと孫権を見つめる。その目の輝きに孫権は身の引き締まる思いになり、腹に力を入れて彼を見つめ返した。
「これよりはすべて、あなた様の采配に委ねられました。我が君、あなた様の開く“新しい国”を――」
 そうして彼は揖礼し、さらに深く頭を下げた。
「――どうか、歴史に示されませ」


 ◇


 魯粛が漢昌に帰還して程なく、濡須の砦から、曹軍に南下の兆しありとの報を携えた使者が建業に入った。既に軍は譙県に到り、年明けには居巣に到達するであろうという、濡須督である蒋欽、そして巣湖南部に造営した三関屯を守備する朱然からの見解に、孫権は大げさにため息をつく。
「そうか。またこの季節に曹孟徳の顔を見るのか……新年の口上を考えておかねばな」
 軽口に使者は小さく笑い、慌てて表情を引き締める。孫権もまた、己の言葉におかしそうに笑った。
「呂子明どの、甘興覇どのに使いを。すぐに濡須塢まで軍勢を率い赴くようにと。私も疾く支度を整えて向かうから」
 かしこまりました、と使者は答え、その場を辞去した。傍らの張昭がどこか忌々しそうに孫権の名を呼ぶ。
「先達ての大敗の後、各地で山越に対する戦果はあれど、兵たちは疲弊するばかり。この上曹孟徳は西方の憂いを断って意気盛んです。状況を打開する具体的な方策のないではいられませぬ」
「もちろんです。ここいらで少し落ち着いてもいい頃合いだ」
 にこりと微笑む孫権に張昭は片眉を上げる。何かあるので、と問う彼の傍に寄り、孫権はそっと膝をついた。
「後ほど親近監がお迎えに上がります。この場は散会ということで、しばしお待ちを」
 訝る表情の張昭や群臣を促し、孫権は軍議を散会させた。回廊に出てなお幾度か張昭が振り返るのを親近監らはチラと見、衛奕がそっと孫権に囁く。
「思わせぶりな物言いをなさったので?」
「仕方がないだろう。いつぞやの彼の方策をようやく採るのだから」
 あのころとはずいぶん様変わりしてしまったが、と孫権が言うのに、谷利と左異は口を引き結ぶ。
「不思議なものだなあ。曹孟徳の“国”も私の“国”もどこにもないのに」
 そのどこか軽薄な物言いに谷利が片眉を上げると、孫権はぱっと彼を振り向いてその肩を軽く揉んだ。
「…………まだ、どこにも」
 うっすらと口許を緩ませる彼の眼差しはしかし、笑っていない。あまりに不敵な表情に谷利は息を飲んだ。
「だから、なんの心配もない」
 孫権ははっきりそう述べると再び歩き出した。後を追う親近監たち、その一団に連なりながら、谷利は大きく息を吸い込んだ。

 八日後、軍備を整えた孫権直属の軍勢が先頭を孫高の部隊、後尾を傅嬰の部隊という編成で建業を発ち、その一行は利浦の地で休息を取った。長江の岸辺に立ち遠くに霞む北岸を睨む孫権の隣に、利浦駐屯軍の長である陸議が並ぶ。
「曹軍は大挙して押し寄せるでしょう。それでも、この大江に阻まれてこの地の踏むことすら叶わぬでしょうが」
 言葉を返さず頷くだけの孫権の顔を覗き込むように、彼は僅かに体を傾げて首を捻る。
「我が軍は動かさなくてよろしいのですか?」
「伯言には、別にしてほしいことがある」
 孫権が言うのに、陸議は驚きもせず目を眇める。ちらりと己を見遣る孫権の目線に、彼は口許だけでにんまりと笑ってみせた。
「先の尤突のこともある。江南地域の動向に注意を払ってくれ」
「ええ。南下する曹軍に呼応して叛乱が起きる危険性は格段に高い。尤突一人にだけ働きかけたとも考えられませんしね。承知いたしました」
 わざわざ孫権の意図のいちいちを詳らかにしながら、しかし彼自身は疑問のひとつも呈さずに了解する陸議を孫権は二度瞬いて見つめたが、やがて首肯すると再び江の向こうに目を向けた。
 冬の気配が北からは風に乗り、西からは江の流れに沿って運ばれてくる。どうどうと遥か流れる重い音が、孫権の心象をも塞ぎ込ませる。
「……魯子敬どのが、もう永くはないそうだ」
 静かに聞こえてきたその声にぱっと孫権を顧みた陸議は、このとき初めて驚きの表情を見せた。
「それは確かですか」
「本人がそう仰っていた。しかし役務は最期まで全うすると、西へ戻って行ったよ」
 そうですか、という陸議の返事は彼の口の中でもごもごと混ぜられて聞こえづらい。だが彼はすぐに、西方戦線の後任は、と問うた。
「呂子明どのを、と考えている。この戦闘を終えた後すぐにでも打診する」
「先の荊州での戦役にも戦果がありましたね。そうか、彼なら……」
 ふと自身の口許に拳を置いた陸議に孫権は顔を向けた。
「お前はしばらく揚州戦線だよ。北と西の動向次第では、わからないが」
「もちろん承知しております」
 大仰に頷く陸議に苦笑した孫権は後背を顧みると、少し離れて控えていた谷利ら親近監を手招く。
「左異は徐都尉を、衛奕は偉則をここへ呼んで来てくれるか」
「は、かしこまりました」
「利よ」
 残った谷利を孫権は更に傍近くへと手招く。小首を傾げた彼が歩み寄ると、孫権はその耳許に口を寄せた。
「次の戦闘の際に、お前に頼みがある」
「なんなりと」
「衛奕は操船に難があるし、左異は曹孟徳に面が割れているから」
「……? はあ、そうですね」
 ごく小さな孫権の声はしかし陸議の耳にも届いていたが、彼は僅かに口の端を上げるのみに留めている。
「戦闘の頃合いを見て、曹孟徳に使者を出す。その者の付き添いとして共に曹孟徳のところへ向かってほしい」
「…………」
「我が君」
 陸議が唐突に口を挟んだ。孫権は面を上げると不敵に笑んで、片眉を上げる彼を見つめ返す。

「降伏ですか」
「降伏だ」

 孫権はささやくように、しかしはっきりとそう返した。


 ◇


 孫権らの軍勢が濡須塢に入って程なく、西から来た呂蒙と甘寧らの軍勢もまた当地に到着した。孫権と蒋欽が彼らを迎え労っていると、挨拶もそこそこに呂蒙は孫権に目配せする。瞬いた孫権であったが、その場を散会させた後に蒋欽と共に呂蒙と会合の場を持った。
 彼はまたしても孫権に問題の種を持ち込んだ。その憂悶の表情は孫権に察することを強要しているかのようにも見え、孫権は口を引き結びながら、何があった、と声を絞り出す。
 そして、やはりというか孫権が内心で訝った通り、その問題とは甘寧についてのことであった。彼は、些細な過ちを犯した自身付きの料理人を殺害しようとし、己が下に逃げてきたその者を庇護した呂蒙は諌めた。そして、必ず事を起こさぬようと何度も言い含め甘寧もそれに同意した上で料理人の身柄を引き渡したにも関わらず、呂蒙の下から戻った彼を甘寧は木に縛り付けた上で矢で射るという残忍な手を使って殺害したのだという。これを呂蒙に知らせた者があり、呂蒙は怒り心頭となって甘寧を部隊を使って攻撃しようとまでした。しかし、呂蒙の母が息子を咎めた。我が君の下、一致団結して事に当たるべき今このときに、お前は己の義憤その赴くまま同胞を討つつもりか、と。この母は呂蒙の幼いころより彼のせっかちな勇猛さを或いは蛮勇かと懸念してやまなかった。だが、長じた呂蒙は母の諫言に応じ、甘寧と和解するに至る。甘寧もまたこれを容れ、落涙までした。
 ――その報告を受け、呂蒙、甘寧、それぞれの内奥を慮りながらも、孫権は諦念のようなものを抱いた。結局皆、また同じことを繰り返す。
 わかった、と答えて呂蒙を下がらせた孫権は、渋面になっている蒋欽に一度目線を向けた後、自身の後背で押し黙っていた親近監らを顧み、そちらへ歩み出した。まっすぐに谷利の傍へ行くと断りなくその体を抱き寄せ、彼の肩に額を置いて長い息を吐く。谷利もその気持ちがわからないではなかった。
「…………」
「…………」
 ひとしきりそうして、孫権はそっと谷利から体を離すとその両肩を軽く二度叩く。
「ありがとう」
「いえ、お好きなように」
「もう落ち着いたから大丈夫」
 孫権は苦笑を浮かべ、再びほうと息をついた。
「俺もいい?」
 からかうような口調で蒋欽がそう尋ねる。驚いて困惑した表情を浮かべる谷利に彼は、冗談だよ、と付け加えると、孫権に向き直った。
「やはり、問題ですね」
「その通りです。だが、問題なら山と積まれている。ひとつひとつ切り崩していかねばなりません、が……」
 蒋欽、そして親近監らが気遣わしげに彼に目線をやると、孫権は額に手のひらを当てて今一度深いため息をついた。
「…………ああ、嫌だなあ」
 それは、孫権の心底から発せられた嘆きであるように谷利には思われた。蒋欽がそっと孫権に歩み寄る。
「あなた様のやりたいようになさってよろしいのですよ」
「…………」
 微笑んで小首をかしげる彼の仕草を、孫権は若い時分に幾度となく見てきた。それは亡兄に対して向けられるときもあれば、他の年配の将たちや、あるいは孫権自身に対して向けられることもあった。
「この局面を乗り切りましょう。あなた様の思うさま、将兵を駆られませ。如何様な結果になったとて我々はそれを敢えて咎めませぬ」
 そっと蒋欽は孫権の手を取り、その指先に額を寄せるように身を屈める。
「誰も彼も、かつて死にかけていたのをあなた様に救われたんですからね」
「……それを言うなら私こそ」
 ふと孫権の微笑む口許を見ていた谷利は、彼の中に去来したであろういつかの出来事を思い起こした。
 ――あれからずいぶんと、長い時間が経った。

 建安二十二年、春正月。三関屯の防備を破った曹軍の先鋒部隊はついに、孫軍が布陣する濡須塢の対岸にその姿を現した。西方鎮撫を滞りなく終え、いよいよ南方制圧に本格的に注力できるとあって、前線より後退してきた朱然の部隊、そして濡須塢から出された斥候からの報告によれば、その後方に控えるのは十数万は下らない大軍勢ではないか、という見立てだった。
 孫権は開戦前夜、盛大に酒宴を催した――降伏の意図も知らぬまま、将兵らは酒肴を楽しみ戦に向けて意気を高める。
 一方で孫権はまた、甘寧を別の室に呼び出し彼とごく個人的な席を持った。大人数の酒宴には出ないような立派な馳走が目の前に並んでいて、甘寧はうっすらと目を細める。彼はしかし、機嫌のよさそうな孫権からかたむけられる酒瓶に杯を差し出し、勧められるがまま酒を口にした。
「こたびの交戦でもあなたには特別な働きを期待しているのです。曹孟徳の合肥に張文遠がいるように、私にはあなたがいる」
 孫権は甘寧に、今回の戦いでは呂蒙をその督とし一切の指揮権を彼に委ねる積もりであるからあなたもそれに従ってほしい、と言った。甘寧は――己の過失で一触即発の状態になったこともあったとは言え――常から呂蒙に対する信頼は篤かったので同意すると、孫権は微笑み、一人の親近監を呼び寄せてその耳許で何か囁いた。
 甘寧の目がぎょろりと動く。親近監は一旦室の外へ出たが、程なくして戻ってきた。その手にいくつかの包みを載せた盆を携えて。
「これをお納めください」
「……我が君? これは……」
「いつぞやの夷陵城、そして先達ての皖城でのあなたの先陣は凄まじかったと伺っております。どちらも私はこの目で直に見ることが叶いませんでしたが……」
 甘寧の目の前に盆を置いた親近監はひとつ会釈をすると包みを次々開いてゆき、それからもうひとつ会釈をしてから静かに彼の前から退き、孫権の斜め後ろに居直った。孫権は彼に礼を述べ、再び甘寧に向き直る。
「ぜひまたあれを拝見したい」
 口許に穏やかな笑みを浮かべ、うっすらと目を細めて己を見る孫権を、甘寧はまじまじと見返した。確かに、些かやんちゃなところのあるこの年下の主君は、彼自慢の麾下の将兵らの活躍をまるで我が事のように喜んでみせ、賞賛する。しかし甘寧は彼自身の経験から、この表情がそれのみを欲しているのではないと察した。己にはかつての周瑜や魯粛のように、彼の内奥を推し量る才や、その努力をする積もりも毛頭ないが、今、このときに於いては彼の意図がはっきりと理解できたような、そんな心地がする。甘寧はちらりと開かれた包みに視線を落とした。上等の酒や米が結構な量で載ってある。そうして甘寧は再び孫権に目を向けた。相変わらず笑みを浮かべている彼は、先ほどの言葉に対する己の返答を待っているのか。
 劉璋の麾下にいた時分、劉表の麾下にいた時分、黄祖の麾下にいた時分、それぞれのことを甘寧は思った。どこにいても軽んじられていた己の存在は、ともすれば仕官する前からそうであったかもしれないが、この呉郡に足を踏み入れたときよりは僅かでも重量を増しただろうか。甘寧は、己の来し方や振る舞いについて、己の“非”を思うたちではない。己がそうしたかったからそうしてきたし、それは彼が天下のどこに身を置いていようと同じことだった。呉郡にあっても変わることがない甘寧の本質である。
 甘寧はすうと息を吸い込み、それからにこりと笑った。
「もちろんですとも、我が君。では、どうか俺を前部督に任じてください。我が戟が敵を屠る様をぜひ御目にかけましょう」
 右手に作った拳を左手で包み、ぐいと前に押し出してみせると、孫権はいっそう嬉しげに笑みを深めて、ええもちろん、楽しみです、と明るい声で答えた。甘寧は口許を笑ませたまま、彼の後背に静かに控える親近監たちをさり気なく見やる。皆、一様に僅かに顔を俯けて、少しの表情の乱れもなかった。


 ◇


 濡須塢には四年前の戦役で孫軍が築いた堡塁が健在であった。濡須督である蒋欽が常から麾下に整備を指示して万全の態勢を保たせていたためで、今回の戦役の督を任された呂蒙は大層喜んだ。前線には陸議を介して揚州各地から集められた弩が一万も届けられ、孫軍はこれを堡塁の上一面に並べ攻守の要とすることとした。
 だからこそ、軍議の合間を縫って甘寧が呂蒙に対し、己が孫権から前部督として直接先陣を任せられた旨を伝えると、彼は僅かに狼狽を見せた。
「ですが、まずは敵が陣営を築ききってしまう前にこの弩で攻勢をかける手筈です。突撃部隊を編成し無闇な死傷者を出すつもりは」
「ああ、だからその弩が一段落したあたりで、まあそうだな、百人程度で敵陣に乗り込む。我が君が俺の勇姿をご所望なんだ、頼むよ」
 甘寧の言葉に、呂蒙はぽかんと口を開けた。
「百人?」
 その素っ頓狂な声におかしくなって甘寧は思わず笑ってしまう。呂蒙はその様子を咎め、何を言うのです、と詰めた。
「それでは少な過ぎる。決死隊でも組むおつもりですか。敵の先鋒部隊とはいえ数も千では足らないでしょう。そしてその後背には十万とも目される曹軍が控えている」
 唾を飛ばさんばかりの勢いで前のめりに喋る呂蒙に、甘寧は思わず上体を逸らす。
「しかし先鋒さえ砕けば勝機は必ずあります。そのためのこの弩です。甘将軍、どうしても行かれるのであればあなたの全部隊を投入してください。百人はだめです」
「ああ、わかった、わかった。大将はお前さんだもんな、従うよ」
 両手を顔のわきに挙げてそう言う甘寧に、呂蒙が送った視線は冷ややかなものだった。
「あなたが従うのは口先ばかりだ」
 強張った声に甘寧は目を細める。
「なぜ殿はあなたに先陣など任せたのだろう。あなたが出るまで見張りをつけます。私はあなたを信用してはおりませぬ」
 表情には当惑を浮かべながらもやけにそうはっきりと口にした呂蒙に、甘寧はぱちりと瞬き、それから口の端を上げて不敵に笑った。
「俺がそれに能うからさ。それ以外の理由があるか?」
「…………」
 呂蒙は、はあ、とひとつ深く嘆息し、それから、わかりました、とぼそりと言った。
「くれぐれもお気をつけて。あなたとあなたの部下の命は、決してあなたのものではありませんよ」
「ああ、わかってる」
 ひょいと軽く片手を挙げて去っていく甘寧の後ろ姿を呂蒙はじいっと注視する。先達ての呂蒙の報告を受けて孫権が何がしかの働きかけを行ったのであろうことは明白だったが、それが甘寧に対し前部督として先陣を切る下命を拝したこととどう繋がるのかが呂蒙には今ひとつ判じ得ない。
「……まさか……」
 ふと口許を覆い呂蒙は眉をひそめる。すぐに思い直した彼は足早に自身の幕舎に向かった。己の言葉通り、彼の部隊の動向を伺う間者をつけるために。

 翌日、呂蒙は曹軍の先鋒部隊に弩で攻勢をかけ、これを撃退した。狙い通り陣を築ききらぬうちからの攻撃であったために曹軍は後退し、また孫軍も以降はあくまで守勢に徹したため、状況は膠着した。
 これを見た甘寧はその日の酉の正刻、自ら選別した百余名を集めて酒宴を開いた。その中には呂蒙が用間のために派遣した兵らも含まれていたが、彼らは宴が開かれて間もなく酒を矢継ぎ早に注がれて潰され、陣の隅に転がせられてしまった。
 いよいよ甘寧は孫権から与えられた酒と肴を振る舞い、将兵らの前で、お前たちは今日の夜襲に連なる決死隊である、と高らかにのたまった。僅かな古参の将を除いて多くの者が驚き、恐れをその面に浮かべるのを見て甘寧は目を細める。彼は銀の盃に酒を汲み、ぐいと二杯、一息で飲み干すと、従僕に命じてその酒を宴に連なる全員に振る舞わせた。誰一人としてろくろくそれに口をつけることもできずおののくばかりなのを見てひとつ嘆息した甘寧は、呼び寄せた中の一人である都督に手ずから酌をした。
「ほら、飲め」
「……甘将軍……」
 絞り出すような声、俯いて床に両手をついたまま顔を上げることのできない彼に、甘寧はまたひとつ深く息を吐いてその眼前にどすんと腰を下ろす。
「お前たちが今、飲んで食っている酒肴はすべて我が君より賜ったものだ。我が君は恩愛と期待とを以てこれを俺に預けた。もちろんお前たちは降りたければ降りていい。だが考えてもみろ、お前ら百人の命と俺一人の命、我が君の手にあるそれらのどちらがより重いか。その俺がかけらも躊躇わぬと言うのに、お前たちは何を勿体つけているんだ」
 そうして甘寧は、すうと息を吸った。
「お前たちには到底届かぬ高みへ行こうという男の足に踏みつけられる屍となるがそんなに恐ろしいか」
 穏やかな、しかし水を打ったように静まり返る場にふさわしい澄んだ声だった。
その言葉に都督はゆっくりと顔を上げ、己を覗き込む甘寧の面を見据えた。彼の軍に連なってからしばらく経ち、ようやくその横暴さにも慣れてきた頃だった――これほどまで物柔らかな表情など、知らなかった。
 都督は己に向けて差し出された杯を受け取り、それをぐいと一息に呷った。そうして長く息を吐き、勢いよく立ち上がると宴席をぐるりと睨みつけるような目で見回り、お前たちも疾く飲め、と怒鳴るように言った。
「夜は待たないぞ、機を逸してしまう!」
 死ぬための機を、彼は酒席を巡り一人一人に酒を促して回った。甘寧はそれを見ながら立ち上がり、都督の後について席を巡る。
「さあ、さあ、急げ。大丈夫だ、俺が見ていてやるからな!」
 彼らは一人残らず酒を呷り、次に顔を上げたときにはもう、内心に凝る恐れを面に出すことはなかった。

 宵闇を破り、僅かに遠くからわっと上がった鬨の声に、自身の幕舎で演習台の確認をしていた呂蒙は弾かれたように顔を上げた。慌てて外に出るとかがり火に照らされた夜の陣を向こうから走ってきた一人の兵とぶつかり、彼は思わずその体を支える。
「りょ、呂将軍!!」
 その兵とは、呂蒙が甘寧の部隊につけていた目付の一人だった。ただならぬ様子に呂蒙は狼狽えたが、何があった、となんとか口にする。
「か、甘将軍に酔い潰され、気づいたときには既に酒席はもぬけの殻で……!」
「まさか、夜襲を!?」
 呂蒙はほとんど泣いているような彼を休ませるよう人を呼んで手配すると、数十名の手勢を集めて濡須塢の塁の上に立った。対岸に火の手が上がっているのが見える。
「この騒ぎは?」
「呂将軍! 何事ですか!」
 蒋欽、そして朱然とが連れ立って呂蒙の下へ現れる。眉を寄せ塁から降りた呂蒙は、甘将軍だ、と呟いた。
「曹軍の陣に夜襲をかけたのだ……恐らく、百余名の決死隊と共に」
「百……!?」
 絶句する朱然の横で蒋欽は口許に拳を当てて唸る。呂蒙はちらりと二人を見やり、また塁の向こうへ視線を送りながら、殿から、とささやいた。
「直接先陣を任されたのだと仰っていました」
 訝るような表情をした朱然は、
「だからと言って呂将軍に断りもなしに勝手に出陣するというのですか。あれでは蛮勇もいいところだ」
と口にする。然り、と呂蒙は頷いたが、蒋欽は一言も言葉を発せず、ただ呂蒙のしたように塁の向こう――対岸へ目を遣るだけだった。

 騒ぎの中で一人が火を放ち、半端に出来かけていた曹軍の陣は見る影もなく焼け落ちた。甘寧は煤に塗れた顔で燃え広がる瓦礫を見つめ、はあとひとつ息を吐く。
 両陣営から距離を開けて渡河し、息をひそめ敵陣に夜襲をかけたまではよかったが、一度気が高ぶった麾下に連なった者たちの興奮は冷めやらず、雄叫びのような声をあげて散々に敵を追い立てたため、反撃を受けることもほとんどなく傷を負った者はほとんど数日のうちに癒えるだろうし、当然のように死者もなければ、甘寧の手には大した首級もない。
「何やってんだか」
 口の端を上げて笑う彼に、後背から声をかけてくる者があった。顧みるとそれは王辟で、彼の頬もまた煤に汚れ黒くなっている。
「よう虎凌、顔が面白いぜ」
「あなたもね。もう戻りましょう。獲物はどこにもないですよ」
 肩を竦める彼に甘寧は片眉を上げる。
「ちょっと待て、俺はまだ俺のすべきことをしてないだろう」
「知りませんよ。じゃあそれは、ここですることじゃなかったんじゃないですか」
 王辟はため息を吐き、それからふと微笑んで甘寧を見た。
「さっきはうまい酒と飯をありがとう。あなたの傍にいると、いっつもうまいものが食える」
「…………お前な……」
 そんなことのために何十年俺といるんだよ、甘寧は呆れたように言ってから、妙におかしくなって笑ってしまう。王辟もつられて笑いながら、二人は周囲の決死隊を促して帰路を辿った。
 対岸にかがり火が燃え、その下にいくつもの影が揺らめいているのが見える。
 その中のひとつに赤々と燃える髪を悠然と風になびかせる不敵な笑みを見たような気がして、甘寧は、ついとその目を眇めた。