建安二十年、晩秋。綏遠将軍・孫瑜の容態がいよいよ悪化したという報を受けて、孫権は孫瑜の軍勢が駐屯する牛渚に急行した。
 通された室で彼が牀に伏せっているのを見た孫権は傍らに膝をつき、その弱々しく細った左手を取って、己の両の手でしっかと包んだ。骨が浮き出ているのがはっきりと感じられ、彼が力なく微笑むのを見ると切なく、胸が締めつけられて涙が滲んでくる。
 孫瑜の口が、泣くな、と動いた。声は掠れてほとんど言葉としては聞こえなかった。孫権が慌ててその口許に顔を寄せたのを見て苦笑した彼は布団から隠されていた右手を引き抜くと、なんとか身を捩りそっと孫権の赤い髪を優しく撫ぜる。
「ち、仲異どの……」
「お前は……泣き虫だなあ……ずっと……」
 呆れたような笑い交じりの声音はその場に相応しくなく、いっそう孫権の涙腺を緩ませた。否が応でも、彼が己に心配を掛けさせまいとしているのを察してしまう。
「周公瑾どのがね……」
 唐突にそう切り出した彼を、孫権は驚いたような表情で見る。相変わらず口許に笑みを浮かべたままの彼の優しい瞳はどこか遠くに目線を向けていた。
「我々は死ねないのだと、そう言ったのだ……お前に……これ以上寂しい思いをさせてはいけないから……」
 お前が無茶をしたら都度諌めてくれとも言われたよ、と紡ぐおかしそうな声に、孫権も思わず笑みをこぼす。
 彼の表情がほころんだのを見た孫瑜はほっと息をつき、その頰にいささか冷たい手を滑らせた。
「お前のことが……好きだよ。死ぬときはお前と一緒がよかった」
 息を呑んだ孫権から目を逸らし、孫瑜は彼の室の扉を見る。それに気づいた孫権は不思議そうに彼の名を呼んだ。
「“彼ら”も……ここへ、連れて来てくれないか」
 慌てて振り返った孫権は、小さな大声で親近監らを呼びつけた。恐る恐るといったふうに入室してくる彼らを孫瑜の細い指先が招く。孫権の傍らに跪いた谷利のいつになく不安げな表情に、その双眸を細めた彼は、やはり笑ったようだった。

 そうして、数日後に孫瑜は息を引き取った。
 孫権のみならず、彼の麾下にあった多くの将兵が涙を流し、そればかりか彼の治めていた地の民もまた悲嘆に暮れ、牛渚の城邑は哀切を極めた。


 ◇


 合肥での戦闘に於ける敗戦と将兵への甚大な被害、北部防衛戦線の一翼を担っていた将軍・孫瑜の死に加え、西部方面からは黄蓋の死と盪寇将軍である程普の病臥、それに伴う軍権返上の希望が孫権の下に届けられ、将軍府では軍の再編が喫緊の課題として挙げられた。亡き孫瑜の軍勢、そして黄蓋の軍勢はまとめられ、孫瑜の弟である孫皎の麾下に再編し、程普の軍勢の多くもまた彼の長子、程咨がまだ年若いという理由からしばらくは孫皎の預かるところとなり、共に江夏守備の任に継続して当たることとなった。また程普の後の盪寇将軍は蒋欽に任ぜられ、彼は同時に合肥の南、巣湖より注ぐ濡須水を望む濡須口の督の任に当たることとなった。
 孫瑜の死とほとんど同時期、中原では曹操の征西が張魯の降伏を以て終結したという報が届いたため、ともすれば曹軍の再びの南下も考えられ、孫権は一時牛渚に留まり、孫瑜の後任として当地に駐屯する奮威校尉、全琮の到着を待つ傍ら、臨時に政務を執り行うこととした。

 魯粛からの書状が孫権の下に届いたのは建安二十一年に入って程なくのことだった。
 内容は孫瑜への弔意と事情があってその葬儀への参加が遅れることに始まり、荊州方面の情勢についてがほとんどを占めていたが、結びに、しかし近く必ず我が君の下へ参上するから僅かでもよいので時間を頂きたい、今後についての相談がある、と記されてあり、孫権は少しばかり背筋が冷えた。
 先達ての敗戦や外交姿勢について何か苦言を呈されるのではないかと彼は疑った。半年近くが経とうとしてなお、孫権はあの敗戦から完全には立ち直れないでいる。あるいはまた魯粛にも何らかの不調があって軍務を退きたい旨の打診でもあろうか、とも考えられ、これ以上の人手の減少が堪える将軍府としては聞き入れたくない事柄でもある。
 思わずため息をついた彼を、その傍らに控えていた谷利が見る。何か言おうか逡巡しているうちに、室の外から声がかかってそれは叶わなかった。
 現れたのは張昭であった。どこか表情に意気を漲らせて大股で入室してくると、彼は孫権に向けて大きく頷き、携えていた書簡を差し出した。
「陸伯言より文が届いております。使いの言うところでは、昨年末に潘臨を降し捕捉したとの報告が」
「潘臨を! ついにか。手こずらせてもらったが、さすがは伯言だ」
 張昭が言うのに孫権は僅かに興奮気味に首肯する。
 潘臨とは揚州東部の呉、会稽、丹楊の三郡に跨って跋扈する山越の頭目の名である。当地に拠点を置く孫権とその将軍府は、常に彼の率いる山賊たちの略奪や暴動に頭を悩ませていた。賀斉をはじめ、陸議、朱桓らが常にその制圧の任に当たっていたが、山越たちは事を成すと揚州西部の山間地に行方をくらませてしまい、なかなかその身柄を拘束することがこれまでできずにいたのである。
 潘臨に従う山越の数は少なくなく、軍に取り込むことで相当の戦力の増大が期待できた。
 そうして、陸議の書簡には確かにそのように記されてあり、敵の兵力を吸収して自軍の強化に充てたいというのである。孫権は一も二もなく了承と、併せて彼を定威校尉に任じ将軍府に召還する旨を認めた返書を出した。

 ほうとひとつ、谷利はため息をついた。陸議――しばらく会っていない、懐かしい名である。孫権との間には頻繁に書簡のやり取りがあるものの、谷利の脳裡には新年の祝賀に訪れる彼の姿ばかりが思い起こされ、その声音は既におぼろげだ。
「陸将軍はお元気にしているでしょうか」
「もちろんさ。あんなにたくさん書簡を送ってくるんだから。ああ、伯言からも、今回の書簡にはお前の名が出されていたよ」
「え?」
 ぱちりと瞬いた谷利にニヤリと笑いかける孫権は、陸議からの書簡の一部を指し示して彼に見せてやる。
 その内容を読んで訝るように己の顔を見た谷利に、孫権はやはりおかしそうに笑いかけた。


 ◇


「陸都尉!」
 眼下の庭を佐軍の楊詮が早足で過ぎていく。政堂の欄干に腰かけたまま声をかければ、彼は声のする方を見上げて仰天した。
「なっ……何をしてらっしゃるんですか! 危ないです、降りてください!」
「危なくないですよ。俺はそんなに愚鈍ではないつもりです」
「そういう問題ではありませぬ!!」
 とにかくそこを降りてその場を動かないでくださいすぐ行きますから、と息巻いて視界から立ち去る楊詮を見送り、陸議はおかしそうに笑った。彼は今年齢三十四になった陸議よりも歳が十ばかり上で、先達ての新年の宴席で、最近体力の衰えを感じる、などと漠然とした不安を愚痴っぽくこぼしていたから、ここまで来るのに少し時間はかかるかもな、などと考える。
 陸議がこの呉郡海昌県の屯田都尉として当地に赴任してから既に十二年が経とうとしている。思えば痩せた土地の開墾と不服従民の討伐にばかり明け暮れた日々だった。
 海風が吹くこの土地が陸議は好きだった。少し馬を走らせれば美しい湖沼に囲まれた生地、呉の地にも着く。思い出はほとんどないが、呉の天上に広がる底抜けの空を陸議はとても気に入っている。
 だが同時に、いつまでもここに留まっていられるわけではないことも理解している。現に孫権は将軍府を曹軍の支配域との境に程近い建業まで動かしている。そして陸議の下にも、先の合肥で陳武が戦死した報や、黄蓋、孫瑜の病没、程普の退役の話は届いていた。
 ――いよいよだ。陸議はそう思う。
 不思議なほど孫権の考えが手に取るようにわかる。そして陸議は、己の才をもっともっと世に知らしめていくことを願っている。

「陸郎」

 不意に名を呼ばれ、陸議は振り返る。そこにいたのは先の戦争で降し己の配下とした潘臨と、その戦で共闘した阜屯の荊尹だった。そして楊詮は彼らの後背で憮然とした表情をしている。
「こいつが何か面白いものを持ってきたみたいな顔してたんでな」
 髭面をニヤニヤと歪ませる潘臨にそう示され、目を剥いた楊詮は怒ったように口をへの字に曲げてつかつかと陸議の前に歩み出る。荊尹はおかしそうに笑った。
「楊さん、顔に出やすいですから」
「言われてますよ」
「うるさいうるさい! 陸都尉、孫会稽様から書簡が届いております!」
 懐に隠していたそれを陸議に渡した楊詮は彼に背を向け、山越たちに睨みを利かせる。
「あなたたちは見ないでください」
 その態度に片眉を上げた潘臨は、ちらりと荊尹を横目で見遣った。同じようにする荊尹を見た楊詮はいっそう肩を怒らせた。その彼に後背より不穏な言葉を投げかけるのは――味方であるはずの――陸議である。
「彼らは言われなくてもわかっていますし、言わなくてもわかると思いますよ」
「え?」
「将軍府への召還です」
 ぱっと勢いよく己を顧みる楊詮に陸議は口の端を上げて笑む。
「ようやくですよ」
「お……おめでとうございます! 随分と長いお勤めでしたし、民は皆寂しがるとは思いますが……」
「後任の官吏がこちらに着くまではあいさつ回りで忙殺されそうですね」
 軽やかな音を立てて書簡を巻き戻す陸議に潘臨は、俺を降したんだから当然だろう、とのたまう。肘で突いて咎める荊尹に構わず、彼は自身の顎髭を撫でるとくるりと踵を返し、伝えてくる、とだけ言ってその場を去った。
「伝えてくる……って、あいつはついて来るつもりなのか? 山越の分際で……」
「残していっても他の誰も彼を御しきれませんよ。俺ですらやっとなんですから。もちろん彼も連れていきます」
 至極嫌そうなしかめっ面になる楊詮の肩を軽く叩いて、陸議は残された荊尹を見た。彼もまた頷いている。
「そいじゃ、俺らは帰るよ。また何かあったら呼んでくれ」
「一緒に行きませんか? 利君も喜ぶかも」
 その名を口にすると荊尹は少し黙った後、口許をもごもごと緩ませて首を振った。
「いいよ、気恥ずかしいし。あいつももうだいぶ偉くなったんじゃねえのか。それに自分だけ除け者にされたって卓が拗ねるから」
 そんなことないのに、と陸議は言い、それに、と続ける。
「利君はずっと我が君のお傍にいるし、ずっと利君のままですよ」
 陸議の言葉に目を丸くした荊尹は、だがすぐに微笑んで、そんならそれでいいんだよ、と答えた。

 建安二十一年、夏五月の末。意気揚々と、しかしそれとは悟らせずに堂々と建業へ帰還した陸議を待ち受けていたのはしかし、急ぎ鄱陽へ向かってくれ、という孫権の要請だった。虚を突かれたまま彼の使いに促され政堂へ向かうと、そこには群臣のほか凌統、賀斉、そして全琮ら武官の姿が既にあって、陸議は、またしても賊討伐か、と察する。
 しかし孫権の開かれた口から発せられたのは、思いもよらぬ、だがいずれ必ず起こり得たであろう事象のことであった。

「曹孟徳が魏王の地位に登った」

 その場に集まった諸将の間にざわめきが広がる。既に群臣の間ではこの問題について話し合われたのか驚きこそなかったものの、皆どこか悄然とした表情をしていた。
 曹操の魏王昇進は歴史上異例中の異例であった。後漢の朝廷のなかで“異姓”でありながら王の地位にまで登った者はこれまでなかったのである。それほどに曹操の影響力は朝廷内に於いて絶大かつ不動であり、またこの事態そのものが来たるべき歴史の転換点ともいえる“事象”の兆しのように誰しもが思った。
 ――遠からず国が変わる。
 陸議は面を俯け、うっすらと口の端を上げた。

「ところで」
 やけに軽やかな話題転換に、陸議はぱっと顔を上げて彼を見た。
「鄱陽にて尤突と名乗る山越が賊徒を従えて蜂起したという急報が入った。そして丹楊西部の陵陽県、涇県、新都郡の始新県の不服従民たちがこれに呼応したらしい」
「一度懲らしめたくらいじゃあ飽きないようですね」
 孫権が言うのに、賀斉が呆れたように答える。建安十三年に当地を平定し、その郡県を分割したのは他ならぬ彼だ。忌々しい、と雄弁に語るその表情に、陸議もまた苦笑を隠しもしなかった。
「笑い事ではない」
 鋭い声が政堂に飛ぶ。孫権の斜め前にぴんと背筋を張って坐する張昭がその全身に怒気を孕ませている。陸議は肩を竦めた。
「尤突はあろうことか、己は印綬を持っている、とのたまったそうだ」
「!」
 諸将が皆、揃って彼を見遣る。すぐに陸議が孫権に目を向けると、彼はその視線に気づいて重々しく頷いた。
「真実であるかは未だ判然とせぬが……目の前で見せられたそれは正しく本物であるように見えたという」
「それは曹孟徳の仕業でしょうか?」
 俄かに声を発する陸議に孫権は僅かに驚いたようだったが、その問いには肯定も否定も返さなかった。
「…………わからないが、真偽を確かめる必要がある。疾く鄱陽へ向かい、鎮圧してほしい」
「尤突は」
 陸議はさらに声を上げた。
「斬りますか」
「必要とあらば。ただし話をすべて聞き出してからだ」
 自身の答えに頷き返した陸議に、孫権はほっとしたように微笑んだ。
 そうして政堂を辞去し軍備に向かう諸将を見送りながら、孫権は早足で陸議の傍へ寄る――陸議もまた、何度か彼を名残惜しそうに振り返る所作をしていた。
 伯言、と彼はささやいた。
「戻ったらお前に話がある」
 首をかしげる陸議に孫権は目を細めて小首をかしげてみせる。陸議はその真意を図りかねて、しかし、わかりました、と朗々と答えた。
「では、手土産に尤突の首とその印綬をお持ちいたします」
 孫権はそれを聞いてくすぐったそうに笑った。
「伯言、気張らなくていい。肩の力を抜いて、楽にしていろ」
「……緊張しているつもりはないのですが」
「そうなのか? だったら、私の目が節穴だっただけだな」
 ふふ、と小さく漏れる笑い声に陸議は慌てた。今の孫権は陸議にさえどこか捉えどころのなさを感じさせる。しかし当の孫権は困惑する彼の様子にますます肩を震わせ、頼りにしているよ、と彼の肩を二度叩いて政堂の外へ促した。
「お前の帰りを待っている」
 政堂の玄関に立って己を見送る孫権の姿を陸議は何度か振り返ったが、彼が変わらず笑顔のままでいるのを見てようやく意を決したように走り出した。

 軍営に戻った陸議を佐軍の楊詮が迎える。すぐに鄱陽に向かいます、と陸議が言うと、彼はしばし逡巡してそれから頷いた。
「また征伐ですか。息つく間もありませんな」
「無理もありません。敵は印綬を持っているとの報告がありましたので、早急に対応せねば」
「印綬を? 意味がわからないな……」
「曹孟徳が王の地位に登ったそうですから、十中八九彼の差し向けた事態でしょう」
 え、と言葉を失い立ち止まった楊詮を置いてきぼりに、陸議はさっさと陣営に向かう。先に降した二千の山越を含む全将兵を集め征西の任を通達するなかで陸議は、我々の部隊で必ず尤突を斬る、と息巻いた。
「“偽”の印綬を振りかざして民衆を扇動し混乱のさなかに巻き込む不義を正し、江東江南の地を安んじるのが我々の使命だ。各員、奮励努力を惜しまぬよう。では一刻の後に出立する。軍備を急げ!」
 散会する将兵ら流れのなかからニヤニヤと笑みを浮かべて陸議の前に歩み出てきたのは潘臨である。陸議は彼を眉根を寄せて見つめた。
「あなたも印綬を?」
「そんなものねえよ。俺たちはお前らが気に入らねえから俺たちの好き勝手やってただけだ」
「ああ、そう。ならいいんです」
「ずいぶん気合い入ってるじゃねえか」
 その言葉に陸議はおどけるように肩を竦め、当たり前でしょう、と答える。
「初めて我が君から直接言われて賊の征伐に向かうんですよ。しかも……ふふふ」
 言い終える前に思わず笑い声がこぼれた陸議を、潘臨は余裕ぶった表情を忘れて訝る。
「なんだよ陸郎……気味悪いな」
「ご褒美が待っているみたいなんです」
「ああ?」
「だから早く尤突を斬って帰りますよ。足を引っ張ったらあなたたちも叩き斬りますからね」
 そうして足取り軽く己の幕舎に向かう陸議に潘臨は、そりゃお前ら漢人の手下に言え、と吐き捨てた。


 ◇


 建業から南下し、四軍はまず涇県、そして陵陽県の叛乱を素早く鎮圧した。鄱陽郡を根城にする尤突の軍勢、そして丹楊郡南部の峻険な山地を越えたところにある始新県にはそれぞれ二軍ずつに分けて当たる方針が取られ、鄱陽には賀斉と陸議が、始新県には凌統と全琮が赴くこととなった。
 陵陽の南、荘厳な出で立ちで居並ぶ霊峰黟山、その支峰陵陽山の狭間の山道を抜け辿り着く黟県で彼らは宿営を張った。翌朝の軍議の席で、凌統が未だ前年の戦役で得た戦傷を完全には癒やしていないという報告を孫権より受けていた全琮が彼に後詰めを頼むと、彼は些か不満げな表情をした。
「そんなに怖い顔をしないでくださいよ。私だって凌将軍が頼りになるのは知っていますけど、我が君だってすごく心配していたんですから。それに私も若年とはいえ精鋭を預かっていますから、今回は任せてください」
「……わかったよ」
 拗ねたように口を尖らせながらも答えた凌統に賀斉が、全君の言うことを聞いておきなさい、とくぎを刺す。苦笑した陸議がまた凌統をじっと見つめると、彼は不承不承というように言った。
「本当は、無理を言って軍旅に連ならせてもらえるよう頼み込んだのです。我が君のご心配も……わかりますけど……でも、敵が印綬を持ってるって聞いたら」
「ああ」
 彼の言うのに陸議は首肯する。
「そうですね。そんなの振りかざしたってここではもう無意味なのに」
「え?」
 ぱちり、凌統は瞬いた。思いもよらなかった、と言いたげなその表情に、陸議はにこりと微笑み返す。賀斉はしたり顔で腕を組みそっぽを向いていたが、四人の内で最も年若い全琮は興味深そうに陸議の面を見た。
「だってそうでしょ? ここはもう漢の国の軛を逃れた」
「あ、そ、そうなんですか? 俺あんまり、わかってなかったな」
 くしゃりと己の頭を掻く凌統に陸議は目を細める。その彼の腕を軽く二度叩いて、陸議は拳をきゅっと握った。
「だから、余所者はさっさと追ん出さないとね。我が君の国から」
「!」
 ぱくりと口を開いた凌統はやがて得心したように何度も頷き、そっか、とぽつりと口にした。
「俺、わかってませんでした。俺たち、今――」
「おい、陸郎!」
 幕舎の入り口の幕が外からバシンと強かに叩かれ、次いでその仕業を咎める声が上がる。きょとんと目を丸くした一同に陸議は苦笑を返し、うちの荒くれです、と教えてやる。
「さっさと行かねえと奴さんが逃げるぞ。首が欲しいんだろう」
「わかってますよ! じき発ちますから、せっかちなあなたの手下にもそう伝えてください」
 はいはい、と答えて遠ざかっていく足音に、はは、と全琮は笑い声をこぼした。チラリと彼を横目で見やると嬉しげな顔が視界に入る。
 賀斉が呆れたように嘆息した。
「あまり調子に乗らせるんじゃないぞ」
「すみません、気を付けます」
「君ならわかっているだろうし、余計かもしれんがな。それじゃあ急かされたことだし、行こうか」
 答え、四人は連れ立って幕舎を出る。夜も明けきらぬ濃紺の空、城邑全体に立ち込める霞の幽玄な最中に、既に彼らの率いる数万の軍勢は各々の軍備を終え、出立の号令を待っていた。諸将が出て来たところで工兵たちが手早く幕舎を片付けていく。
 諸将は軍勢の前に並び立った。その手に持つ松明の明かりに照らされ、見渡す顔は様々である。賀斉、陸議の部隊にはそれぞれ数千からなる元不服従民の兵士が組み込まれ、或いは呉会、丹楊、盧江や遥か北方から下ってきた者たちまであるのだった。
 賀斉が口を開いた。
「続く鄱陽の山越征伐では、全軍、そして凌軍がこれより南東の始新へ、陸軍、そして我々賀軍が西方の鄱陽へ動く。尤突に連なる賊徒は数万にも上ると聞くが、たかが烏合の衆、諸君らの剛力に及ぶものではないことをここに確約しよう。だが決して侮るなかれ! 万倍の力で以てこの地を荒らす敵を撃滅せしめよ。この地は我々の、そして我が君の聖なる庭なのだ。鼓を打ち鳴らせ!」
 その声に鼓吹が激しく楽を鳴らし、将兵らが地鳴りのような鬨の声を上げ始める。その怒気で松明の火がいっそう燃え上がったようにも見えて、陸議はぶわりと総毛立つ感覚を覚えた。全身に震えが走り、覚えず口許が緩む。
 ――これだ、これが欲しかったんだ、俺は。
「賀将軍」
 隣の賀斉に小さく声をかける。彼からの返答は将兵らの声にかき消されそうなほどだった。
「さっさと尤突を斬って建業に帰りましょう」
「ふん、もちろんだとも」
 煌々と照らすかがり火に浮き上がる彼の表情には自信が迸っている。そうして、四軍は東西へと分かれた。

 朝焼けを背にした山霞の中から突如として現れた黒々とした軍勢に、朝の空気に微睡んでいた山越たちはなす術なく散り散りになった。抵抗を見せるものには容赦なく、首を斬られたものは数千にも上り、籠城する間もなく鄱陽の城門は破られ、瞬く間に城内に孫軍が突入した。
「陸郎、北だ!」
 戦場となった鄱陽城内で、すれ違いざまに潘臨が大声を上げた。馬を駆り自身が叫ぶ方へ向かう彼に、陸議が周囲に走らせる。
「賀将軍は!?」
「南東に旗が見えます! あと少し賑やかですね」
 楊詮が応えると陸議は大きく頷き、左右と数十名の近習を従えて北へ向かう潘臨の後を追った。
 彼らの視線の先に、這々の体で北門からの脱出を試みる一団の姿があった。すぐさま陸議は弩弓に矢をつがえて放つ。潘臨の右肩すれすれを飛んだそれに、彼は眉を吊り上げて振り返った。
「ふざけるな、このど下手くそが! どこに目がついてやがる、名家の坊ちゃんは止まった鼠すら仕留められねえのか!」
「俺に背を向けないほうがいいですよ! 邪魔だと思ったらすぐにあなたを殺せるんですから!」
「ばかやろうが!」
 続けざま陸議が放った矢は一団のなかに飛び込み、怯んだ彼らは城門の手前で一瞬動きを止めた。
「仕留める!」
 息巻いて陸議がつがえた矢はしかし、放たれることはなかった。賊の右往左往する北門から光をその鎧にまとった数十騎の騎兵が突入し、呆気に取られ身動きできぬそれらをやにわに取り囲んだのである。陸議はぽかんと口を開き、ゆっくりと馬の速度を落としながら楊詮を振り返った。焦ったのは佐軍である。
「え、だ、だって、あすこに旗が、旗がありますよ!」
「旗は私かもしれないが、私は旗ではないぞ」
 騎兵の後ろから悠然と馬を歩かせてきた賀斉は陸議の前に来ると、君に任せた、と微笑んだ。
「…………いつの間に?」
「不埒な者は北から逃げる。なんてな。内に入ってしまえば見えないものがある。もちろん、内に入らなければ見えないものもある」
 さあ早く、と彼に肩を押され、馬を降りた陸議はへたり込む賊の一団の前に立った。
「尤突」
 長い顎髭を蓄えた壮年の男が血走った目を剥いて若い陸議を見上げている。男の首に掛けられた金の首飾りを見て、彼は目を細めた。その胸許には無造作に印綬がぶら下がっている。
「それはそうやって身に着けるものじゃないんだ」
 しゃがみ込み彼の首から印綬を取り外してその肘に巻き直し再び立ち上がった陸議は、後背を振り返り、連れていけ、と近習に促した。兵士に腕を取られ立ち上がらせられた尤突が、待ってくれ、と叫ぶ。
「こんなもの要らない、あんたにやるよ。俺の女も部下も全部やる」
「印綬は要らぬが接収する。言っておくがお前の持つそれはこの国ではがらくただ。女も要らぬが部下はもらおう。だが俺が一番欲しいものはまだお前が持っている」
「なんだ!? 言ってくれ、あんたにならくれてやる。だから――」
 視界の隅で肩を竦める潘臨を咎めもせず、口許を笑ませた陸議は気風のいい男を顧みる。
「ありがとう」

 ――そうして尤突の首は落ち、鄱陽城邑に勝鬨の声がこだました。
 程なく始新県の不服従民もまたすべて制圧したとの報が当地に届き、彼らは投降した者たちのなかから八千の兵士を選別して配下とし、初秋の風が吹き始める前に建業へと凱旋したのであった。


 ◇


 尤突征伐の功により、安東将軍に昇進した賀斉は鄱陽から盧江郡皖県までを司ることとなり、定威校尉へと昇進した陸議は、建業と蕪湖の中間にある利浦の地に軍勢を駐屯させることとなった。
 任地へ赴く前に羽を休めておけ、と少し長めの休沐を与えられた彼はしかし、今緊張しながら孫権の私邸の前に立っている。
 征伐の直前に陸議が期待していたような事態にはなっていない。思わせぶりな物言いをするからきっと何か陸議にとって心踊るようなこと――軍事のことや、“新しい国”のこと――だと考えていたのに、私邸に呼び立てられてはそれらの予想はすべて打ち消さなければならなくなってしまった。
 そして、陸議は代わって新たにひとつ予測を立てていた。それは確かに陸議の今後に関わることであり、恐らく己には拒否し得ない内容になる。
「……そろそろ取り次いでも?」
 孫邸の衛士に訝られ、ようやくと陸議は頷く。既に四半刻に近い時間、陸議はここで立ち尽くし、衛士は痺れを切らしていた。
 衛士に呼ばれ、下男の一人が邸内から現れた。我が君がお待ちです、と正庁を過ぎて奥まったところにある私室にまで案内され、いよいよ陸議の予測は現実味を帯び、また逃れようもない事実に思わず渋面になる。
 ――嫌なわけではないんだ、ただちょっと、心の準備ができていなかっただけで。
「“臣”議、ただいま参上仕りました」
「入れ」
 陸議が入室すると、肘置きにもたれてあぐらを掻く孫権が一人、むつりと口をへの字に曲げて待っている。陸議は苦笑を堪えきれず、孫権もまた釣られたように笑って、こら、と口ばかり咎めた。
「なんだ、今の“臣”というのは」
「すみません。出しゃばりました」
「私に対してへり下るのは辞めてくれ。ましてや曹孟徳のような王侯貴族ではないんだから」
 それに――孫権の続けた言葉に、陸議はつい閉口してしまった。
「そういうのなら、お前の方がよっぽどだ」
「…………、……すみませんでした」
「いいんだ、こちらへ来てくれ」
 促され、悄然としながら陸議は孫権の前にあぐらを掻く。孫権は身を乗り出し、彼の顔近くに己のそれを寄せた。
「お前は察しがいいからもうわかっているだろう。私の姪をお前に嫁がせたい」
「…………」
 ――やはりか。予測通りの言葉に、陸議は返す言葉もなく目の前の彼の顔をじっと見つめる。
 孫権の姪――亡兄孫策の遺児である一女は、陸議の記憶の通りなら今年で齢十七になるはずであった。まだ若干早い時分ではあるかもしれないが、政略結婚に年齢は障害になり得ようもない。
 そして、陸議にはもうひとつ推察されることがあった。孫権によるこの申し出の意図するところ――つまり、江東に由来する豪族である陸家と孫家の間に姻戚関係を結び、より連携の強化を図ろうというのである。
 そのようなことをせずとも、“陸議”の思惑は孫権の悲願と相反しない。しかし“俺はあなたから離れない”と心を尽くして伝えたところで、きっと孫権は形ばかり得心はしても心底から陸議を信頼するまでには至らないだろう。そんなことまで察せられて、覚えず眉を下げてしまった陸議を孫権は心配そうに見つめた。
「だめだろうか? もう姪の同意は取りつけてあるんだ。お前なら若いし、見目もいいから嫌ではないと」
「そんな理由ですか」
 ようやく微笑んだ陸議に、ほっとしたように孫権も頷き返す。陸議は背筋を伸ばし、頼もしく見えるように大きく首肯した。
「俺以外にふさわしい人がいないなら。ぜひ受けさせていただきます」
「お前がいいんだ。お前を離したくない」
 不意打ちに、陸議は言葉を失った。瞠目して見つめた孫権は笑顔のままに続ける。
「こんなやり方でお前を縛りつける私を許してくれ」
「…………いいえ、構いません」

 陸議が見たいのは、“新しい国”だった。そして、そこに属する自身の姿だった。
 人に愛され敬われた父が若くして没したときも、身を寄せた先の盧江の太守となっていた父の従兄弟、忠烈の士である陸康が時の権力者である袁術の手先、孫策の手によって敗走せられ、失意の内に亡くなったときも、血に塗れ悲嘆に暮れる一族を眺めながら、陸議はただ、すべてのことに幻滅していた――この時代、この土地には、生きている甲斐がないとすら思った。なぜなら“真っ当さ”や“正しさ”がそのまま命数には繋がらないからだ。いつも最初に殺されるのは良心を持つ者たちだった。中原の戦乱はやがて平穏な江東にまでその魔手を伸ばし、山奥から下り、あるいは山奥に引きこもったまつろわぬ民たちはいつしかまとめて“山越”と呼ばれ、武器と反抗心に見境のなさまで付与されて平地を荒らし回るようになっていた。この頃陸議は呉の地が嫌いだった。父を殺された恨みを抱きながら仇敵に仕える従兄が嫌いだった。人が人を食らう大地を素知らぬ顔で照らす青天と太陽とが嫌いだった。
 一族を蹂躙し江東の地を侵略しまつろわぬ民を虐殺した孫策がその業に斃れた、という報を聞いても、陸議は何ひとつ心を動かされなかった。年若い――陸議よりひとつ齢が上である程度の青年がその後継となったと聞いたときでさえ、ご苦労なことだ、と冷笑すらした。
 だがその一年後――かつて陸家の縁者が統治していた盧江の地で、あろうことか孫策に任ぜられて太守となっていた男の叛乱が一月以上に及ぶ籠城の末に鎮圧されたとの報が入ったとき、同時に得たひとつの噂に陸議は己の耳を疑った。
 その鎮圧を手助けしたのが、ある“山越”の者たちだというのだ。
 ばかな、と一番に陸議は思った。そんなことはあり得ない、と。彼らは互いに殺し合っているべきなのだ。助け合うことなどあり得ない。
 ――だが陸議は確かに彼自身の目で見てしまった。孫討虜のもっとも近く、少し腕を伸ばせばその腰の剣で支配者の心臓を貫けるほどのすぐ傍らにいたのは、黒ずくめの“山越”の青年だった。その間に、一朝一夕に得得るものではない信頼感を携えて。

 不意に陸議は、賀斉の言葉を思い出した。内に入ってしまえば見えないものがある、もちろん内に入らなければ見えないものもある。
 己はそれが見たいのだ。思いもよらぬほどの風景を。その驚嘆がすなわち生きている甲斐だろう。

 頭を下げ、謹んでお受けします、とのたまう陸議の顔を上げさせた孫権は、こちらこそよろしく頼む、と口許をほころばせた。まるで彼と婚姻を結ぶことになったみたいだ、と陸議は思って、自身の思考の可笑しさにやはり驚き、笑ったのだった。