Swimmer, Swimmer」「ヒア・カムズ・ザ・サン」の続きのお話です。
ヒトとひれあしの両方に台詞がありますが、ヒトはひれあしの言葉がわからないことにご留意ください。


 今日のカリフォルニアアシカ孫権は、いつも以上に気合が入っています。
 朝もぱっちりしっかり目覚め、プールでひと泳ぎして体をきれいにしました。韓当がくれるお魚も朝の分は残さず全部食べました。午前中に『鰭脚公園』の友達と元気に遊んだら、いよいよ午後の『おさんぽ』の時間です。
 ふん、と孫権は鼻息を鳴らします。
「孫権殿、がんばってください!」
 友達のミナミアフリカオットセイ朱然が、ぐっと吻を突き出します。その後ろで他の友達も頼もしげな表情で孫権を見つめています。
「うむ。武運を祈っていてくれ」
 孫権もそれに応えて吻をくっつけ、胸を張って観覧フロアに繋がる扉前で待つ韓当のところに歩いていきました。
「それじゃあ、行きましょうか」
 韓当が扉を開け、孫権は観覧フロアへ一歩踏み出しました。はあっと一息、気合いじゅうぶん。
 穏やかに春の陽射しが注ぐ今日。孫権はついに、トドの于禁をお花見デートに誘うのです。


 ◇


「孫権殿、于禁と一緒に『おさんぽ』したくないですか?」
 きっかけは、韓当の一言でした。その言葉に孫権はぴょんと飛び上がり、「したい!」と叫びます。アシカの大きな声は、周りでのんびりくっつき合っていた友達をびっくりさせました。
「孫権殿、どうしたんですか」
 オタリアの子供の一頭、徐盛が訊ねます。孫権が韓当の言ったことをそのまま伝えると、横から朱然が「それって“デート”ってやつじゃないですか?」と口を挟んできました。
「“デート”?」
「好きな相手と『おさんぽ』することです。こないだ周瑜殿が言ってました」
「!!!」
 にわかに『鰭脚公園』にざわめきが広がりました。ここで暮らしている子供たちは皆、孫権が他所のフロアに住んでいる大きなトド――そう、去年の夏に突然ここに現れたあのトドに片思いしていることを知っていましたし、毎日の『おさんぽ』はその相手に会うことが目的であることもわかっていましたので、今の朱然の一言で色めき立ってしまったのです。
「お、おおいみんな。なんだ急に騒がしくなって……俺の話を聞いてくれえ」
 アウアウ、ガウガウ、落ち着かないひれあしの子供たちに韓当はおろおろするばかり。彼には子供たちがなぜ騒ぎ出したのかわからないから仕方ありません。そんな韓当に気がついて、孫権は彼の前にぴょこんと歩み出ました。
「韓当! 私は于禁と、で、“デート”がしたいぞ」
「お、おお……? うん……喜んでくださってるのか、な……?」
 困ったように自身の顎髭を撫ぜる韓当に、孫権はもう一度「アウッ!」と大きく返事をしたのでした。

 韓当がこんなことを言い出したのは、彼にとっては唐突なことではありませんでした。彼は孫権が于禁の“追っかけ”になってしまったころから、このことを活かして何か水族館を盛り上げる企画を立てられないか、と考えていたのです。
 そこに去年の夏の日、魏フロア長の曹操から、いっときばかり于禁と共に『鰭脚公園』まで遠出した旨を聞かされました。その際に孫権がうっかりひれを滑らせてプールで溺れかけたこと、于禁の一声で冷静さを取り戻し、ちゃんと陸場に戻ることができたことも。
 韓当の胸に、驚きと恐怖と、意外に思う気持ちとが綯い交ぜになって去来しました。そして彼は、于禁が特別『おさんぽ』を苦手としているわけではないことに何か希望のようなものを見た心地がしました。
 同じトドの典韋と違って普段は展示水槽の外に出ることのない于禁のことを、韓当は“あまり動きたがらない気質”なのだと思っていました。ですがおそらく、少なくとも曹操と一緒ならば彼は『おさんぽ』を拒否することはないかもしれない、そして孫権の傍まで来てくれるのかもしれない――
「――曹操! 折り入って相談があるのだが」
「ほう? 申してみよ」
 そこから韓当は常にないくらい必死になって自身のやりたいことを相手に訴えました。企画会議では、魏フロア側は面白がりの曹操が「于禁がそれを良しとするならば」と二つ返事で許諾しましたが、やはりというか、副フロア長である夏侯惇が難色を示しました。
「まだ体の小さい子供のアシカと于禁を『おさんぽ』させるのか? 何かあったらどうする」
「俺は構わんと思うぞ。権は、そうだな、はしゃいでしまうかもしれないが、于禁は大人しいトドだろう」
 呉フロア長の孫堅が快活に笑い、「曹操がついて行くのだからなおさら」と続けます。それは韓当の予測と同じ意見でした。孫堅の気安い様子に夏侯惇はむつりとして腕を組み、「それもそうか」と渋々といった声音で返します。
「私も構わないと思いますよ。孫権殿はうちのペンギンたちにも気さくに接してくれるし」
 劉備もまた――彼はいつもそうですが――にこにこと賛同の意を示します。孫権の『おさんぽ』の内容にバリエーションをつけるために、韓当は少し前から渋る彼を蜀フロアに連れ出す機会をたびたび増やしていました。ペンギンたちやユーラシアカワウソの周倉と関平、ゴマフアザラシの関兄妹とも孫権はすっかり友達です。
「そうだ、お花見などどうでしょう? うちのペンギンたちも毎年行くじゃないですか」
「お、お花見デートというやつかっ?」
 劉備の提案に韓当は一人で色めき立ちました。席から腰を浮かしてそわそわする彼の様子に、直接の上司である孫堅は呵々と笑います。
「楽しそうだな、韓当!」
 彼の言葉に韓当は驚き、気恥ずかしくなりました。そんなに自分はわくわくしているように見えたでしょうか?

「見える」
「見えるのう」
 同僚の程普と黄蓋も口々に言います。韓当は照れくさくなって頭をかきながら、もごもご言い訳のようなことを口にしました。
「それは……だって……孫権殿と新しいことに挑戦できるから」
「なーにをもじもじしとるんだ。悪いことではあるまいて」
 黄蓋に力強く肩を叩かれ、韓当は呻きます。確かに彼の言う通りなのですが、むずむずする気持ちは収まりません。
 なぜって韓当は、自分からこんなに積極的に新しいことをするのは初めてなのです。孫権の『おさんぽ』の範囲を拡げようと思ったのは、あくまで通常業務の延長でした。もちろん彼の可能性を伸ばしたかったことも理由ですが、上司である孫堅の了承さえあれば動ける範疇のことでした。
 別フロアのスタッフたちも一緒になって、ひとつのことをやろうと思えるなんて……
 『鰭脚公園』に入れば、ご飯の時間を察したひれあしの子供たちがプールから続々と上がってきます。周泰と共に彼らの相手をしながら、韓当は嘆息しました。そうすると足許でお行儀良くお魚の順番を待つ孫権がぐにっと首をかしげます。その真っ黒な瞳がプールの光と空の色を反射して碧く輝いているのに、韓当は思わず笑みを浮かべました。
 ――そうして彼は、春間近になったこの日。ひれあしの子供たちが騒ぎ出すきっかけになった一言を口にしたのでした。


 ◇


 さあ、そうと決まれば練習です。目指す目的地は水族館のエントランス外にある、桃の木がたくさん生えている小さな植物園『桃園』。普段孫権が『おさんぽ』する距離よりも少しばかり長く遠く、周囲の環境もまるで異なります。彼にはもの珍しく、慣れないことも多いでしょう。
 そして、桃咲く春はもうすぐそこまで来ているのです。準備をするための日にちはあんまりありませんでした。
「孫権殿」
 “いつも通り”の『おさんぽ』の時間。“いつも通り”じゃなかったのは韓当の態度でした。たったかうきうきと魏フロアにひれを進めようとする孫権を、身を挺して韓当は制しました。具体的には彼の前に立ちはだかって、先に進ませないよう孫権の動きに合わせて右に行ったり左に行ったりを繰り返しています。
「アォッ!!」
 焦れたのでしょう、孫権が吠えました。しかし韓当はどきません。
「孫権殿、今日はあっちに行きましょう」
 あっち、と指差された、今までひれを運んだことのない方角に孫権はうろたえました。だって韓当ったら、先ほど尋ねたじゃないですか、「于禁と“デート”がしたいか?」って。孫権はちゃあんと答えたんですよ、「したい!」って。
 孫権はその場でぐるりと回り、それから右へ左へひれを動かして、韓当の長靴をあぐっと噛みました。しかし韓当は動じません。そうして彼は、「ああ」と言いました。
「孫権殿。何の準備もなしに意中の相手を『おさんぽ』には誘えないんですよ。行き先の状況だって見ておかなけりゃあいけないし、“エスコート”できるように道順も把握しておかなきゃ。きっと于禁はしっかり者が好きですよ」
 韓当の言うのに孫権は彼の顔をじいっと見つめます。そうしてふんとひとつ鼻を鳴らすと、孫権はエントランスに向かって進み始めました。周囲で孫権と韓当のやり取りを楽しそうに見守っていたお客さんたちが「おお」と感嘆するのにぺこりと頭を下げながら、韓当は孫権の後を追いかけました。
 ずいずいと『天河走廊』を端まで進んだ孫権はエントランスパッセージとの接続口で立ち止まり、韓当を振り返りました。口許にお魚を出してやると、ぱくりと一飲み。韓当はひとつ頷き、孫権の隣に並んで一緒に歩き始めます。
 エントランスパッセージは明るさを落とした通路空間の壁面に複数の円形のクラゲ展示水槽が並べて嵌め込まれ、クラゲたちの動きによって光や影が浮かび上がる構成になっています。水族館で設置した青や紫の照明を受けて揺蕩うものもあれば、自身の持つ発光能力をもってきらきらとひかめいているものも。
「孫権殿、クラゲですよ。きれいですなあ」
 韓当がそんなことを言っていると、通路の終わりに一人のスタッフが立っているのに気がつきました。暈のふちを発光させて揺れているオワンクラゲの水槽前に立っているあの後ろ姿は、
「張遼、メンテナンスか? お疲れさん」
この冬、クラゲ飼育担当スタッフとして新しく入社した張遼でした。
 張遼はくるりと振り返り、その捉えどころのない眼差しで韓当と孫権とを交互に見ます。そうして、ああ、と言いました。
「お疲れ様です。『おさんぽ』ですかな。そちらは孫権殿で合っていますか」
「おお、合ってるぞ。今日は外に行く練習なんだ」
「そうですか。孫権殿、がんばってください」
 そう言ってじいと自分を見下ろしてくる張遼に孫権はどぎまぎしました。なんだか彼は、何を考えているのかわからない瞳をしています(そんなことをアシカの孫権に言われては、ヒトの張遼も困るでしょうが)
 思わず韓当の足を隠れ蓑にした孫権に、張遼は小さく笑みました。彼の様子に韓当も苦笑します。
「まあ、入りたてだし別フロアだしな。たまにはこっちにも遊びに来てくれ」
「かたじけない。では、私はこれで」
 そうして去っていく張遼を避けるように、孫権はぐるりと韓当の周りをひと巡り。久しぶりに発動した彼のヒト見知りを韓当は不思議に思いますが、とりあえず今は外に行くほうが先決です。
 エントランスパッセージから明るいロビーフロアに出ると、ロビー脇にあるスーベニアショップから偶然出てきた小喬が彼らを見つけてぱっと笑顔になりました。
「孫権様だあ! 郭嘉様郭嘉様、携帯貸して。孫権様インスタに載せよ!」
「え? ああ、本当だ。珍しいね、どうしたんだい?」
 SNS運用担当というだけあり、頻繁に全フロアに足を運ぶ機会がある小喬と郭嘉の気軽さにはすっかり慣れている孫権、向けられたモバイルカメラにも堂々と対応して一丁前です。他方の韓当は……俺にもカメラ向けてくれないかなあ、なんて、思っているかもしれませんね。
「実は今度、于禁と一緒に『おさんぽ』させようという話になってなあ。孫権殿も外に出るのは初めてだしトレーニングがてら、ロケハンに来たんだ」
「なにそれ、素敵! デートだね! ねえねえそれってさ、告知とかしちゃってもいい? みんなに見に来てもらおうよ」
「アォッ!」
 感動した様子で尋ねる小喬に、元気に返事をする孫権。韓当は不意にぎくりとしました。
 もちろん、たくさんのお客さんに見てもらえれば目立ちますし、水族館の宣伝にもなるでしょう。そして、韓当ははじめ、“孫権の行動を活かした、水族館を盛り上げる企画”について考えていたのです。
 だけど今、小喬から何の気なしに発せられた言葉に、彼は思わずつまずいてしまいました。
(なんだか、孫権殿のお気持ちを、利用しているみたいだ……)
 そのことに気づいてしまったら、韓当は唸るしかありませんでした。
「ああ……いや……桃が咲いたらになるから、いつというのは言えないのです。それに、あんまりお客さんがいて彼らが緊張してしまってもよくないし……だから、今回は遠慮させてください」
「そっかあ。だよね! せっかくの初デートだもんね!」
「アォウ!」
 小喬が言うのにまたしても孫権が返事をしました。韓当が目をぱちくりしている横で、郭嘉もおかしそうに笑っています。
「孫権殿、初デート、成功するといいね?」
「アウ!」
「ふふふ、かわいいなあ」
 もう一枚写真を撮られてから、韓当と孫権はロビーから屋外に出ました。
 たったか隣を行く孫権は、なんだかご機嫌な様子です。韓当は、もしかして、と思いました。
「……孫権殿、“デート”が何かわかってます?」
「ゥアッ」
「…………」
 わかってるっぽいぞ、と韓当は少しどきどきしてしまいました。

 さて、一人と一頭は館外に出て、水族館入り口から見て右手に広がる『桃園』に到着しました。ここでは約二ヘクタール分の広さを利用して、桃の木をはじめとした低木から亜高木の約二十種類の樹木、それから多種類の草花が植えられており、遊歩道を歩けば四季折々の風景が楽しめる小規模な植物園が形成されています。
 桃の木全体が赤く染まって見えるのは、膨らんだつぼみが開花を待っているからでしょう。もしかしたら、このうちのどれかはすでに咲いているかもしれません。
 蜀フロアに暮らすペンギンたちが季節ごとのお花見に『桃園』を訪れるイベント、『ペンギンピクニック』は三國市海洋水族館が開館してから翌年の春に始まった最も歴史あるふれあいイベントでしたが、孫権のようなカリフォルニアアシカ――鰭脚類がここにひれを運ぶのは初めてのことです。植物園を管理する代表、孟獲は、劉備からの口添えもあって快く鰭脚類たちの訪問を受け入れてくれました。
 そんなヒト同士のやり取りは露知らず、孫権は物珍しそうにきょろきょろと首を振っています。
「孫権殿、今週はここに来る練習をしましょうね」
 韓当が声をかけると、孫権は目線だけを彼に向けました。それに満足して韓当も桃の枝を見上げます。
「きれいに咲くのでしょうなあ」
 来週には、“デート”ができそうです。


 ◇


 胸を張って歩く孫権を、お客さんたちが「かわいい」と口々に言いながら見送ってくれます。得意になって孫権はずいずい進みます。彼には“かわいい”がいまいちわかりませんが、きっと今の孫権の奮励努力を後押ししてくれているのでしょう。
 あれから孫権が何度か外に出るトレーニングをしているうちに、すっかり桃は満開になりました。
 そうそう、孫権には内緒の話ですが、実は于禁も外に出る練習をしていたんですよ。本当は、于禁に別フロアスタッフの存在に慣れてもらうために韓当も彼のトレーニングに付き添うつもりだったのですが、曹操から「于禁は頭が良いゆえ、おぬしがいるとこれから何が起こるのかすぐに気づいてしまう」と言われて断念したのです。曹操は「おぬしの存在にはもう慣れておる」とも付け加えました。確かに、あれだけ毎日のように孫権と一緒にトド展示水槽前に足を運んでいれば、そういうこともあるかもしれません。
 そんなヒトのあれやこれも、孫権には関係のない話。たったかうきうき、誰にも邪魔されず久しぶりの魏フロアトド展示水槽までやってきました。
「お? 孫権、久しぶりじゃねえか!」
 水中をゆったり泳いで孫権の前までやってきたトドの典韋の挨拶が、分厚いアクリルガラスの向こうからこもって聞こえます。
「うむ。実は、……えっと、外に出る練習をしていたのだ!」
「外にい? 何でまた……あー、ははあん」
 なぜか典韋が自分だけで勝手に納得するので孫権は焦りました。もしかしたら、典韋にはすべてわかっているのかも。于禁に秘密をばらされてしまうかも!
「典韋! 于禁には、于禁には何も言うな」
「おいおい、わしぁ于禁なんて一言も言ってねえぞ。まあ、安心しろよ。わしは口が堅えほうだからよ!」
 そうしてまあるい目をニヤリと細めて泳ぎ去っていく典韋に孫権は慌てました。急いで韓当に「早く中に入ろう!」と訴えますが、韓当はにこにこ笑って孫権の頭を撫ぜ、お魚をくれるばかりです。くれるのでありがたく食べますが、ぺろりと飲む込むと孫権は「ちがあう!」とひれをばたばたさせました。
 アクリルガラスの向こうでは于禁が陸場で姿勢よく日向ぼっこをしています。ときどきちらりと鋭い眼差しがこちらを向くので孫権の存在には気がついているでしょう。「おはよう!」孫権は叫びます。また于禁はこちらをちらり。そして口を動かして、孫権には聞き取れないような小さな声で何かを言いました。
「うぬぬ……韓当~!」
「孫権殿、もう少しですよ。ほら、曹操が来ましたよ」
 孫権の懊悩なんて与り知らない韓当は、どこか彼自身も浮ついた声でそう言います。トド展示水槽にはバックヤードから曹操と賈詡が入ってきて、青い空に抜けるような甲高いホイッスルの音を鳴らしました。于禁がしゃきしゃきと曹操の傍に寄っていくのを孫権は羨ましそうに見つめています。
 曹操と于禁はいつも通り息の合ったトレーニングをしています。曹操が手を拡げれば于禁が吻をくっつけ、ボイスサインで舌を出し、くるりとその場でひと回り。きりりとした横顔に孫権はすっかり見惚れていました。そのとき、曹操が于禁にプールに入る指示を出しました。ピィ、という音と共に、于禁が孫権の目の前までやってきます。孫権がぽかんと見上げるアクリルガラスの向こう側に、于禁がひれをついて静止しています。
「う、于禁」
 ピィ、とまた高い音。何か言葉を返してくれる前に、彼は曹操の許に泳ぎ去ってしまいました。
「…………韓当〜!!」
「ほら、孫権殿。もうすぐですよー」
 びたびたとひれで足を叩かれているにも関わらず、韓当はやはりにこにこと笑ってトド展示水槽のどこかを指差しています。孫権は目をいっと細めながら韓当の示す先を見ました。
 得意になって笑う曹操が于禁にその場で待つよう指示し、観覧エリアに繋がる扉の前まで歩いてきます。もったいぶるような仕草で――孫権にはそう見えました――それを引き開けた曹操は、小さなカリフォルニアアシカの子供に声をかけました。
「孫権。待たせたな」
「さ、孫権殿、行きましょうか」
 また韓当からもらったお魚をぺろりと飲み込んで、孫権は大きくひとつ息を吐きました。
 体の真ん中のあたりがどきどきばくばく、孫権が感じたこともないほど震えています。さっきまではあんなに于禁の傍に行きたかったのに、いざとなるとひれがすくんで動けなくなってしまいそう。
 でも孫権は、友達の激励を思い出しました。そうして、大きくひれを踏み出しました。

 ……さて、驚いたのは于禁です。なぜ曹操は別フロアに暮らす子供のアシカを、自分と典韋の暮らすこの水槽に招き入れているのでしょう?
 その場で待機を指示されていたために于禁はうろたえ、ほんの少しだけ後ずさりしました。于禁の傍に戻ってくる曹操が、目を細めて微笑んでいます。ちらりと賈詡の隣にいる典韋に視線を向ければ、何やら彼も楽しそう。
「于禁」
 すっかり気もそぞろになってしまった于禁に曹操は声をかけます。続けて三尾出されたお魚を全部飲み込んだ于禁ですが、状況はさっぱり飲み込めません。
 曹操はやはり笑っていて、言いました。
「あやつが、おぬしに話があるそうだ」
 そうして曹操は傍に退きました。そうすると于禁と孫権の間には阻むものが何もなくなって、二頭で向き合うことになります。
 お昼の陽射しが展示水槽の上に降り注いでいます。于禁の目には、どうやらまだ乾いていないらしい孫権の黒い体がきらきらと光っているように見えます。
「う、于禁!」
 孫権が吠えます。于禁は無意識にますます背筋を伸ばしました。
「わ、私と“デート”に行かないか!?」
 …………。
「……“デート”とは?」
「あ! 違う、私と外まで『おさんぽ』に行かないかっ!?」
 耳慣れない言葉に首をかしげた于禁に孫権は慌てて訂正を入れました。“デート”という単語を于禁は聞いたことがありません。そんな言葉は曹操も、賈詡も発したことがありません。ましてや典韋はなおさらです。ですが、孫権の言うのはどうやら『おさんぽ』に言い換えられることのようでした。
 そこで于禁はようやく、この数日間、孫権がトド展示水槽前に姿を見せなかったこと、曹操がやけに自分を外に連れ出したことの理由がわかりました。“このため”だったのですね。
「…………」
 于禁は曹操を見、韓当を見、それから孫権を見ました。
 みんなして、この子供のアシカに甘くはないですか? 于禁は今、初めて孫権と面と向かって話をするんですよ? いきなり話を持ってこられたって、于禁にも都合というものがあるのです。
 だけど、なんだか必死になってこちらを見つめてくる、彼の眼差しに映った空の色を見ていると――
「……ああ、構わぬ」
「!!! ほ、本当か!?」
「嘘がいいのか?」
「嫌だ、本当がいい! 嬉しいぞ、于禁!」
 じたばたとひれを動かした孫権がぴょうと飛ぶように于禁の傍にやってきて、ぐいっと吻を突き出します。于禁がそれに応えて吻を合わせてやると、孫権はにまにまと嬉しげに口許を緩ませるのでした。
「で、ではこちらだ! 私が“エスコート”する」
 于禁の返事ももらいました! いよいよ二頭の初めての“デート”です。そわそわと先に立つ孫権に、于禁は訊ね返します。
「“エスコート”とは何だ?」
「そういえば、どういう意味だろう」
「なんだ、それは」
 とぼけた答えにおかしくなって于禁も笑います。そうすると孫権もへらっと笑い返すので、于禁は心のどこかがぽかぽかするのを感じるのでした。

 いきなり動き始めた孫権に慌てたのは韓当です。急いで彼の目の前にお魚を差し出すと、おっと、とつんのめった孫権が少し下手くそにそれをぱくりと口にしました。一方の于禁はきちんと曹操の傍に寄って指示を待っているようです。そういうところはしっかりしているなあ、と韓当は曹操と于禁の関係に感心しました。子供のアシカはなかなかどうして、制御不能なのです。
「ガウ!」
 賈詡と一緒に遠巻きに眺めていた典韋が吠え、孫権と于禁が同時にそちらを振り返ります。いきなりのことに賈詡が目を丸くしているのを尻目に、
「アォ!」
「ガォ」
と、二頭は返事のような鳴き声を返します。
「そ、それじゃあ、行くか?」
 その様子を見た韓当が曹操に確認を取ると彼は頷き、
「将来有望な小童よな」
と楽しげに言うのでした。


 ◇


 観覧エリアに出た二頭は、まっすぐ『天河走廊』に向かいます。
「あ、于禁殿! 孫権殿と『おさんぽ』ですか?」
 オットセイ・ゴマフアザラシ混合展示水槽のアクリルガラスの向こうからキタオットセイ楽進に声をかけられ、孫権と于禁は頷きます。
「楽しんできてください!」
「お気をつけて」
 ゴマフアザラシ荀攸も泳いできて、見送りの言葉をかけてくれます。孫権も嬉しくなって「ありがとう!」と元気よく返しました。
「彼らとも知り合いになったのか」
「ああ。お隣さんだからな」
 何の気なしに返されてしまったので、于禁は「お前の隣人ではなかろう」という言葉を思わず飲み込みました。
 そうこうする間に『天河走廊』を過ぎ、クラゲたちのいるエントランスパッセージの入り口です。
「于禁、ここには時々恐ろしいやつがいる。注意するのだ。いや、いざとなれば私が守る!」
「恐ろしいやつ?」
 この円形水槽のなかを漂っているクラゲたちのことでしょうか? 曹操は外出トレーニングのときにクラゲたちを見て「美しいな」と言っていましたし、クラゲたちの飼育を担当している張遼も掴みどころはありませんが悪い人物ではないように于禁には思えました。
 それとももしかしたら、この暗がりに青い光が射す空間のことでしょうか? そうなら、やっぱり孫権はまだまだ子供です。
 さて、おっかなびっくり于禁に引っ付きながら明るいロビーに出た孫権は、解放されたようにぴょんと一歩、于禁の前に出ました。
「もうすぐだぞ于禁!」
「ああ。そう急かすな」
 孫権の声があんまりわくわくしていて楽しそうなので、于禁もついつい引っ張られて、どこか愉快な気持ちになってきていました。心なしか大きくひれを動かして、彼に遅れないように進みます。
 そうして二頭はついに館外に出ました。春のあたたかい陽射しが注ぐ青い空。右手を見れば、彼らの目には灰色に見える桃の木たちがかわいらしく咲き誇っています。
 一本の木の下に来て、二頭は桃の花を見上げました。
「桃というらしい。韓当がきれいだと言っていた」
「そうか。曹操殿もそう仰っていた」
 孫権は于禁の穏やかに目を細めた横顔に見惚れました。いつもなら曹操に対してもやもやした気持ちが湧いてくるはずなのに、どうしてでしょう、なんだかすごく胸がいっぱいです。
「于禁は、曹操のことがとても好きなのだな」
 そんなことを孫権が口にしますと、于禁が彼のほうを見ました。
「無論だ。お前も、韓当のことが好きだろう」
「もちろんだ! だが……私は、お前のことも好きなんだぞ」
 ぱちり。于禁はまたたきました。彼は孫権の突然の告白に――“告白”について彼らは少しも理解していませんでしたが――何と返したものか、困ってしまいました。なぜって、先ほども言ったように、于禁と孫権とが面と向かって言葉を交わすのは今日が初めてなのです。
 確かに、ここ最近しょっちゅう遊びに来る顔になり、妙に気にかかり、いつも心の片隅にいる不思議な子供のアシカでした。于禁にとって彼の言う“好き”は、于禁が曹操に向ける好きとも、典韋に向ける好きとも、同じフロアの仲間たちと向け合う好きとも、違うように思うのです。
 だって孫権の眼差しは、最初からずーっと、太陽みたいに情熱的。
(なぜ私のことをそのように言う?)
 于禁が首をかしげたとき、一陣、強い風が吹きました。灰色の桃の花びらが一斉にふわりと空に舞い、二頭の上にも降ってきます。
「于禁、顔をこちらへ。お前の頬に何かついている」
「む?」
 言われるがまま孫権のほうへ首を伸ばしますと、于禁の口の端に彼の吻先がちゅっと当たりました。
「へへ……」
 はにかみ交じりの明るい笑顔。その黒く小さな頭の上に白い花びらが載っていて、于禁は目を細め、すいと同じように吻を寄せました。
 今度は自分が驚かされた孫権が、数秒置いてからわたわたと慌て始めます。彼の様子がおかしくて、于禁はふふっと笑ってしまいました。
「う、于禁……!」
 恥ずかしそうにもじもじし始める彼に「先ほどまでの威勢はどうした」と言いかけて、やっぱり于禁は言葉を飲み込みました。その代わりにじっと彼を見つめていると、やがて孫権はぴとりと于禁にくっついてきました。アシカ科の習性のようにも思えますが、孫権の体は内側からぽかぽかしています。
(あたたかいな)
 于禁は孫権の思う通りにさせてあげました。
 それからしばらく、韓当と曹操が彼らの名を呼ぶまで、二頭は寄り添って灰色の桃の花を見上げていたのでした。

 ――実は、もう一人。二頭はまるで気が付きませんでしたがそこには初めから郭嘉も一緒にいて、孫権と于禁との『おさんぽ』の一部始終を録画していたのです。【アシカとトド、初めてのデートでお花見へ】と題されたその動画は、動画サイトに投稿されるとそれなりに視聴数を伸ばして韓当を驚かせることになるのですが、それは二頭には関係のないお話です。