図書館ではお静かに」「A Better World」の続きのお話です。


(あれ、楽進殿)
 書架整理をしていた賈詡は、ここ数ヶ月ですっかり知り合いになった青年の後頭部を見つけ、そろりと背後から歩み寄った。
「やあ、待たせたな」
「わあ!」
「おっと、図書館ではお静かに」
 カウンター前に所在無げに立っていた楽進に人差し指を立ててそう戒め、賈詡はカウンターの後ろに回る。人目についたかと周囲を見回す楽進のいとけない姿に目を細め、賈詡は口の端を上げた。
「さて、貸し出しかな、返却かな。問い合わせかな?」
「か、借りに来ました」
 差し出された一冊の書籍を受け取り、作業がてら表紙に目を走らせる。それは十年ほど前に出版された作家の幻想小説だった。文体が小難しく大衆向けとは言い難いが、その割に要約すると熱血で王道の冒険譚になる物語を得意とする作家であり、このタイトルも知り合いが幾人か称賛していた覚えがある。賈詡も同じ作家の別タイトルの小説を特別気に入ってはいたが、このタイトルは未読であったことを思い出した。
「へえ、こういうの読むんだな」
「あ、表紙がきれいで」
「ん? ああ、そうだね、確かに」
 赤や黄、緑でラフに塗られた極彩色の下地に、白い鉛筆の線で譜面のような図柄が大雑把な筆致で描かれている。題名は『流浪癖(ヴァンダラスト)』。
「楽しんで」
 処理を終えて貸出カードと共に楽進に書籍を返すと、彼はそれを受け取った後、わずかに逡巡してから賈詡の前を退いた。彼の後ろに利用客が続いていないのを見た賈詡は手招きし、ところで、と切り出す。
「どうだい、荀攸殿はあんたに優しくしてくれてるか?」
「!」
 途端にぱっと頬が赤らんだ若者に、賈詡は喉の奥でおかしそうに笑った。おそらくかの男はこの青年のこういうところが好きなのだろう、と思いを馳せる。
「は、はい。お優しいです。優しい、というか……良くしてもらっています」
 はにかみながら答える彼に、そうかい、と賈詡は機嫌良く相槌を打つ。話題に上っている荀攸という人物は泰然として浮世離れした風貌と寡黙な態度でありながらその実、献身的な気質を併せ持っている。それが裏目に出てしまった“前の恋人”のことがあって賈詡も彼のことを気にかけてはいたが、楽進の様子を見るにこの分ならどうやら心配する必要もなさそうだ。
 ――そう思うと途端に悪戯心を発揮したくなるのが、賈詡の気質である。
「今、俺があんたにやってみせたろう。荀攸殿の驚く顔が見たけりゃあ、後ろからおどろかすのがいいぜ」
「えっ」
「どうせあんたの前では飄々として年上ぶってるんじゃないかと思ってね。ま、ひとつの助言だよ」
 きょとんと呆気に取られる楽進を横目に、賈詡は視界に現れた利用客を促す。慌てた楽進がぺこりと頭を下げて去っていくのを流し見ながら、さて本日休暇のかの男はどういう反応をするのかな、と愉快な気分になった。


 ◇


「賈詡殿」
 事務室に入るなり、常よりよほど低い声で荀攸が賈詡を呼んだ。当然心当たりがある賈詡は内心でぺろりと舌を出し、そうは見せずに「おはよう、荀攸殿」と軽い挨拶をしてみせる。荀攸はむっと眉を顰めた。
「おはようございます。楽進殿に要らぬことを吹き込まないでください」
「おっと? 早速実践か。彼は対応が早くて優秀だな」
「茶化さないで」
 肩を竦め自身のデスクに着いた賈詡は、隣のデスクにいる荀攸の不満げな横顔をにやにやと見る。何があったのかわざわざ詳らかにされたいわけではないが、この男の表情が崩れるのを見るのが賈詡は好きだった。
「……彼は純粋なんですから」
「そう思うか? 俺はなかなかに強かだと思うがね」
 荀攸の黒い瞳が賈詡に向いた。
「あんたの『驚く顔が見たいなら』って言ったんだぜ、俺は」
「…………余計ですね」
「あははあ。さて、新聞でも綴りに行くか」
 これ以上何か言われる前にと賈詡はさっさと立ち上がってカウンターに向かった。後ろからひそりと荀攸もついてくるが、特に何かを言う気配はない。賈詡は朝刊の綴じ作業、荀攸はブックトラックを押して本の返却作業に取り掛かり、時折他愛のない雑談を交わすだけでそれらを終えると、間もなく開館の時刻になっていた。

 荀攸について、意図的に自分の考えを隠そうとしているのだろう、というのは賈詡が彼と初めて会ったときにすぐにわかった。賈詡は他者を意識的と無意識的とに関わらずよく観察するたちで、ある程度の相手の性質ならば捉えられる。他方で、自身の内心、手の内は決して明かさない――明かす必要のあるような人付き合いをしてこなかったということもあるが。それが何か賈詡の有利になることはほとんどないが、面倒事を避けるのには重宝する能力だと自身では考えていた。
 荀攸が惚れた相手に入れ込み過ぎるたちなのだと知ったときは心底意外だった。だが同時に、賈詡が“意外だ”と感じることの多くは世の中に溢れているのだということも知った。どんな立場であれ、それが少なからず、世の中から“見えないことにされている”ということも。
 そうなら、せめて目の届くところにあるそれくらいは気にかけたい。せめてこの友人に対してくらいは助けになりたいと、賈詡はそのとき、思ったのだ。

 パソコンに向かって管理作業をしていた賈詡は、帯出者欄にいる楽進が貸出延長処理をしていることに気づいた。読み切るのに時間がかかるのかもしれないな、と想像して口許を緩めると、隣にいた荀攸が訝るような声を上げる。
「何か不審なことを考えているのですか?」
「んいや? なーんも」
「…………」
「あっははあ、そんな目で見るなよ」
 半眼で睨まれ肩をすくめるが、賈詡自身は少しも堪えていない。荀攸とて遊び混じりのやり取りなのだ。それがわかるくらいには、互いに信頼関係がある。
 そうだといいと、願う。


 ◇


「恐縮です。長く借りてしまって」
 申し訳なさそうに返却カウンターに本を差し出す楽進に賈詡はにやりと笑みを返した。
「あんたくらいなら普通にいるさ、何も気にしなくていいんだよ。いつまで経っても借りっぱなしで督促状を送られたことはないんだろ?」
「な、ないです」
 ぷるぷると首を振る楽進に賈詡はますます笑みを深め、「楽しかったかい」と問う。楽進は大きく頷いた。
「難しくて、何度も文章を行ったり来たりしてしまいましたが、読み切ることができました。最後には感動して泣いてしまって……あ、すみません。李典殿に軽率なネタバレは控えるようにと普段から」
「ずいぶん熱中したようで何よりだよ。いい本を見つけられてよかったな」
 楽進はこくりと頷き、では、とカウンター前を辞去して書架エリアに向かう。さっとだけそれを見送り、賈詡はすぐにカウンター作業に従事した。
 好きな作家、好きな本のタイトルを明らかにすることは、自身の手で何か表現物を生み出すことと比肩できるくらいには、自身の内奥を外にひけらかすことと同義だと賈詡は考えている。そう考えれば、図書館という場所に渦巻くものの正体は計り知れない。その多様さと深度に於いて。繋がる線の複雑さに於いて。
 程なく自身の視野に影がかかったのに賈詡は気づく。顔を上げると楽進が一冊の書籍を手に戻ってきていた。
「早いね。もう次の本は決まってたのかい」
「はい。同じ作者のものを……こちらは、荀攸殿がお薦めしてくれて」
「ほー」
 そうして手に取った濃紺の書籍は、賈詡にはよく見覚えのあるタイトルだった――己の特別気に入りの、一冊である。
「……荀攸殿が、お薦め?」
「はい。えっと、賈詡殿がお好きな本なんですよね?」
 目を瞬かせた賈詡に、楽進はにこにこと続けた。
「『友情、努力、勝利の本ですよ』と教えていただきました。賈詡殿もこうした本が好きだなんて、少し意外です!」
「……あー……」
 賈詡は思わず髪をくしゃりと掻いた。
 己はいつ、この本のことをかの男に言っただろう? まるで覚えがない。始業前の他愛のない雑談か? 暇を持て余した就業中か? 帰宅間際の二言三言のなかか? それとも――
「……そうだね、俺からもお薦めするよ」
「恐縮です! ふふふ」
 やけに愉快そうに笑う楽進に首をかしげる賈詡に、彼は「荀攸殿の仰る通りでした」と口にした。
「え?」
「『お返しです』!」
「…………はあー……」
 長い嘆息。がくりと肩を落とす賈詡のことを楽進は気にも留めず、貸出カードを手に微笑みながら彼の作業を待っている。
「……やられた、降参だ。ずいぶんと息が合ってきたじゃないか」
「はい! おかげさまで」
「そこでそう言える豪胆さがねえ……」
 貸出カードを受け取り、手許で作業を続けながら賈詡は、堪えきれず苦笑をこぼす。
 この分なら、心配なさそうだ。
 今度からはもっと、“友人”らしく在ろうじゃないか。