広徳県からさらに東に向かうと、東西約百里以上に拡がる巨大な湖、震沢がその壮麗な姿を現す。周囲をめぐるなだらかな丘陵地帯の南部にある二つの城市、故鄣と烏程を越えて湖を北に向かえば、やがて呉郡十三県の中心、呉の城塞が見えてくる。都のある北西から合肥、居巣、秣陵を通って伸びてきた交易路の終着地点である。
「ここからさらに東に百里行けば海がある」
「……海」
 宛陵周辺の丘また丘の景色を見て育った谷利には馴染みがない。彼の表情に好奇心を見て取った孫権は、機会があれば行こう、と笑った。
 遠目にも大きく見えた城郭は、間近に来て見ればより威圧感が増す。宣城と比べてもその違いが歴然で、宣城の城門は東西南北にそれぞれひとつずつしかなかったように思うが、この呉の城は南面だけで既に三つある。
 中央の城門をくぐった一団は、呉の民の帰還を喜ぶ声に迎えられて城内を闊歩した。孫権の乗る馬の横に並んで小走りについていく谷利も、この街の賑わいを全身に浴びることになった。
 人々は皆明るい表情をしている。それは紛うかたなき生活の充実であった。老若男女の別なく彼らは忙しなく、しかし生き生きとして動き回っている。そこかしこで交わされる会話のなんと小気味よいことか。初めて肌で感じる都市の空気に、若い谷利の心は否応なく緊張した。隣を行く馬上を仰げば、口許に微笑を浮かべたまままっすぐ前を見つめる孫権がいる。浮ついた己の心の内など恐らく彼には知る由もないのだろう。生きてきた環境の違いを見せつけられたような気がして、谷利は居たたまれない気持ちになる。
「利よ、お前は馬には乗れるのか?」
 不意に馬上から声をかけられ、谷利は返事するのに一瞬間を作ってしまった。
「いえ、乗れません」
「そうか。では今後は騎馬の調練も重ねていこう」
 谷利は慌てた。孫権のために与えられた時は、側仕えの不備を補うために費やすものであってはならない。
「俺は足でついて行きます。大丈夫です」
「ふふ、私自身の馬術が未熟なのだ。お前には私の調練に付き合ってほしい。それに、他者に教えることで学ぶことも多かろう」
 笑い混じりにそう告げられ、谷利は思わず頷いてしまった。彼はどうして、己の馬術が未熟だなどと簡単に口にしてしまえるのだろう。あの日、宣城で谷利が目の当たりにした跳躍は、さながら人馬一体の美しい姿だったと言うのに。
 見てくれ、と前方を示され、谷利は孫権の指差す先を見た。
「あすこに入っているのが、討逆様が開いた将軍府だ。元々はここより南の会稽を根城にしていたのだが、天子様より呉侯に封ぜられたことでこの呉に拠点を構えたんだよ」
 城内で一際高く、そして横にも広い石造りの建築物である。この城塞の心臓部分とも呼ぶのだろう。あの中では才智を誇る文官たちが昼夜議論を戦わせ、或いは屈強な武官たちが主の矛であり盾として己の武芸に磨きをかけているのだ、と孫権の声は自慢げに語る。
 ――谷利の見てきたものとは、まるで違う。
「利、これより我々は一度討逆様にお会いしてくる。そこで私から個人的に討逆様に御目通りする時間をいただけるよう頼んでくるから、しばし小門の脇で待っていてくれるか」
「……それは」
「とりあえずお前を私の側仕えにするということは伝えておかねばなるまい。知らぬ顔が軍内部にあるというのは我々にとって歓迎できる状況ではないんだ。思うところはあるだろうが、どうかこらえてくれ」
 谷利は頷いたが、息苦しさを覚えて胸を押さえた。孫策。谷利たち、まつろわぬ民の生活を一変させた者。そして他方で、その旗の下に人の賑わいと明るい営みを約束する名前。
 他人事だと思っていた事象が急に己の身に降りかかる。谷利は、彼を殺したいと願っていた友を、傍でずっと見ていたのだ。
「私がちゃんと傍にいるから」
 ぽつりと落ちてきた声に顔を上げると、孫権は微笑んで谷利を見下ろしていた。
「――はい、わかりました」
「よし。では、あれが小門だ。中に入って構わないから、あすこで待っていてくれ」
 帰還兵の一団が小門を抜け、将軍府に入って行く。谷利はすぐに一団から離れ脇に避けると、手を挙げて去って行く孫権に拱手して首を垂れた。
 蹄の音が全く聞こえなくなってから、ようやく谷利は振り仰いだ。
 目の前にそびえる呉の将軍府。孫策の本拠地。
「……大きい城だ」
 呆然という言葉がふさわしかった。孫策を殺すということは、これを打倒するということになるのだ。小門の傍らでぽつんと立ち尽くしている自分は、例えばあのてっぺんから見下ろせばどんなに小さな生き物だろう。

 本当にそれは、自分たちに出来得ることだったのだろうか。

 しばらく物思いにふけっていた谷利がふと視線を目の高さに戻したとき、将軍府正面の玄関からこちらに向かって歩いてくる人影を見つけた。彼は谷利の視線に気づくと、その凛々しい眉をさらに吊り上げてねめつけてくる。
「貴様はここで何をしている? 将軍府は平民の立ち入ってよい場所ではない。見てわからないのか」
 若々しい声が谷利を咎めた。実際、見た目にも谷利より僅かに年少に見える。苛立ちを露わにした端正な面は、どことなく覚えがあるような気がした。
「自分は、孫仲謀様の側仕えで谷利と申します。お戻りになるまでこちらで待つよう仰せつかっております」
「孫仲謀様の? 側仕え? そのような話は受けていない。謀るにしてももう少しうまい言い訳があろう」
 そう言われてしまえば谷利は戸惑うしかない。何せ、ちょうど今孫権が孫策に了解を求めに向かっているところなのだ。言葉に窮してしまった谷利の様子に鼻を鳴らした彼が、不届き者め、と吐き捨てる。ぐい、と乱暴な彼の手に腕を掴まれたとき、その肩の向こうに焦った様子で走ってくる孫権が見えた。
「仲謀様」
「え?」
「儼! 何をしている」
 二人の間に割り込んだ孫権は谷利をチラと見て、すまない、と謝罪を口にした。
「兄上、じゃあ本当に彼はあなたの側仕えなのですか」
「ああ、そうだ。名を谷利という。今日から勤めてもらうことになったからお前が知らぬのも無理はない。今から討逆様の御目通りに行くところなのだ」
 驚いた彼が谷利をじっと見つめてくる。頷き返すと羞恥に赤らんだ顔で、すまなかった、と悔しそうに呟いた。
「利よ、これは私の弟で孫儼、字を叔弼という。先日もらったばかりの字だ、思う存分呼んでやってくれ」
 ああ、だからか、と谷利は得心がいった。顔の造形に覚えがあるのは彼、孫儼が孫権の弟だったからだ。言われてみれば眉の形や大きめの口元などが似通っている。ただ出会い頭のような、醸し出す雰囲気の苛烈さは孫権にはないもののようだ、とも思った。
「よろしく。谷利だったか。兄を頼む」
「はい、よろしくお願いします。叔弼様」
 チッと舌打ちをした彼は、では、と孫権に頭を下げると足早に将軍府に戻っていった。頬を掻いた孫権は、難しい年頃だ、と苦笑する。
「私にもああいう時があったからかわいらしく見えるが、お前には嫌な思いをさせたな。本当にすまない」
「いいえ、構いません。彼が俺を咎める理由もよくわかります」
 そもそも自分は孫儼が言うような平民ですらないものだ。この将軍府が、本来であれば谷利のような立場や身分の人間を拒んでいることは十分に理解し得たし、孫権が先ほど別れる前に言った『知らぬ顔が軍内部にある状況』を忌避するが故の行動なのだということもわかる。孫権の弟であればつまりは孫策の弟ということだ、その責任感も頼もしく感じられる。むしろ小門内部で谷利を待たせた孫権の散漫な注意力に不安を覚えるほどだった。
 ――それが少なからず、宣城における失態の要因とも言えるのであろうが。
「だが、もう大丈夫だ。お前はこれから私と共にここに勤めるのだからな。さあ行こう」
 孫権が満面の笑みを浮かべて谷利をいざなう。はい、と返事をして、谷利は彼の後ろに従った。

「これより討逆様に目通りするが、他に孫伯海どの、呂子衡どの、朱君理どの、そして張子布どの、張子綱どのがいらっしゃる。今日は秦文表どのは休沐の日で、陳子正どのは先ほど報告を終えてすぐに会稽に向かわれてしまったのだ」
「陳子正どの……」
 陳端には宣城でよくしてもらった縁から、彼が――本来なら同席してあるべきで――不在だというのは谷利には少し心もとなく思われた。それを察したのか孫権は彼の肩を軽く二度叩いて、大丈夫だよ、と笑う。
「朱君理どのは義封のお義父君だ。私を孝廉に推挙してくれたのも彼で、本当に世話になっている」
「そうなのですか」
 谷利の脳裏に、すぐ朱然の快活な笑みが思い浮かんだ。だから大丈夫だろう? といたずらっぽく笑う孫権に、それならば安心だ、と谷利もつられて笑顔になる。
 これから二人が向かうところは、評定の間ではなくより奥まった場所に特別に設えられた孫策の私的な政務室だという。それゆえにその場に集まる者はすべて孫策が全幅の信頼を置く腹心で、彼らにあまねく目通りしておくにはふさわしいのだ、と孫権は言った。少し堅苦しいかも知れないが我慢してくれ、と神妙な表情で付け加えるのも忘れずに。
 足早に目的の政務室前に辿り着くと、扉の両脇に立つ二人の守衛の兵士が同時に孫権に拱手した。彼もそれに応えるのを見て、谷利も見よう見まねで手を組んで挨拶する。
 一人が室内に向かって二人の到着を伝えると、中から入室を許可する返答があった。
「失礼します」
「失礼……します」
 守衛が開いた扉から一歩室内に踏み込み、孫権はそこで膝をつき手を組んで首を垂れる。慌てた谷利がそれに倣うと、ふふ、と室の奥から笑い声が聞こえた。
「そう堅くなるな。もっとこっちに来てくれ」
 はい、と返事をして立ち上がる孫権について行く。顔を上げると、政務室の奥にある窓から射し込む光が、二人の正面で榻に胡坐をかく男を黒く縁取っていた。両脇に整然と座る五人の群臣が二人を注視している。近づくほどにその輪郭が鮮明になり、ついに顔のつくりもはっきり見えるほどの傍まで来た。改めて膝をつくと、顔を上げてくれ、と彼は言った。
 美しい男だった。きりっと吊り上がった眉と涼やかな目元、整った鼻梁は絹のように繊細ですらある。柔らかい笑みを湛えた口元が、谷利の名を呼ぶ。
 ――こんな男が、谷利たちを恐怖に陥れた軍勢を率いているのだ。
「権から話は聞いている。これは危なっかしくて苦労も多かろうと思うが、どうか励んでよく仕えてやってほしい」
「は、はい……」
「とはいえお前の目の付け所は実にいい。権の見ているものはどうも私とは違う風であって、それでいて道理に適っている。私や……彼らだってその言葉に気づかされることも多いんだよ」
 孫策は、彼の両脇に控える群臣たちを手のひらで示した。
「こちらが孫伯海どの、そして呂子衡どのと朱君理どの。こちらが張子布どのと張子綱どの。お前も多分に世話になるであろうからきちんと覚えておくように」
 彼らの一人ひとりが谷利や――孫権よりもよっぽど立場は上であるだろうに、皆丁寧に一礼して名を名乗った。
 孫河、字を伯海。呂範、字を子衡。そして朱治、字を君理。この三人の名前は谷利にも覚えがあった。朱然が宣城の夜に揚々と物語った、長い長い旅路の至るところに出てきた名前である。そして張昭、字を子布。張紘、字を子綱。彼らは先の北方の戦乱を避けて江南に移住した者たちで――張昭などは徐州に咎人として囚われていたという――孫策が数か月前に会稽太守となった折にその参謀として馳せ参じたのだという。
 いずれも孫策よりは少なからず年が長じて見える。それだのに彼らを取りまとめる孫策には、若さを補って余りある堂々とした威厳が全身に余すところなく満ちていた。それはすなわち未だ混沌として定まらぬ江東地域の旗頭としての自負であったかも知れない。
 群臣の中でも一番年長に見える張昭が口を開いた。
「先の戦でも仲謀様は些か軽率な振る舞いがあったと伺っておる。谷利、お前にはその目付けとしての働きも期待しておるのだ。仲謀様もどうかご自身が、討逆様のかけがえのない将であることをご理解されますように」
「ぐ……、……重々、承知しております」
 一体これまで何度、似たようなことを他者から言われてきたのだろうか。孫権の軽薄さは誰にとってもよほど目に余るらしかった。確かにそういう人間でなければ、戦場の真ん中に泣き崩れるようなこともないのだろう。
 そして、それが谷利の先行きを決めることもなかったのだろう。
「はい、身命を賭してお守りいたします」
「利、それほど構えずともよい」
「いえ、そのつもりで来ました」
 言葉を返せば、孫権はやはり戸惑ったような表情をして押し黙った。二人の様子を見ていた孫策が哄笑する。
「ははは! その意気だ、谷利。頼んだぞ」
 孫策の大笑いが伝わったのか、群臣たちもおかしそうに笑い始める。一人、張昭だけはむっつりとして、当然だ、と言った。
 ひとしきり笑って満足したらしい孫策は、さて、と坐り直すと谷利を見た。
「お前は宣城の者だそうだな」
「え? あ、ああ……はい」
「こたびの戦、権はどうだった。いや、経過の報告は受けているのだが、お前の目から見て権の働きはどう映ったのか、それが聞きたい」
 孫策に見つめられて、谷利は返事に窮した。横にいる孫権が己に視線を向けていることに気づいて、谷利は頭の中で必死に言葉を探す。
 室内の者は皆、黙して谷利を見つめている。政務室に完全な静寂が落ちた。
「仲謀様は――」
 谷利は、口を開いた。
「我々の目には、少々頼りなく映りました。ただ、それでも特別にお優しかった。常に我々を労わってくださいました。ですから我々は心もとない仲謀様の戦に与しようとそう思ったのです。確かに命を落とした者もありましたが、それらはすべて覚悟の上です。副将様が総身に傷を負いながら仲謀様をお守りするのを俺はこの目で見ました。そして仲謀様もまた、副将様や兵士の皆様の奮励に応えるためにご自分のすべきことをなされた。仲謀様は全く、命を懸けるのに足るお方です。このような僥倖に巡り合えたことを、心より嬉しく思います」

 政務室を辞し、孫権が自分のために宛がわれているという執務室に向かう。道中二人は無言だったが、室内に入った途端孫権が谷利を振り返り、お前はすごいな、と興奮気味に言った。
「お前の生まれを偽っていたのは本当にすまなかった。まさか討逆様があそこであのような問いをするとは思わなんだが、お前も急に話を振られてああも上手く繕うことができるとは」
「いいえ、まさかご自分の弟君の側仕えが山越では問題もあると思いますから、構いません。それに――」
 繕ったわけではありません。谷利の言葉に、孫権は目を丸くした。
「死んだ俺の友人たちも、宣城の人たちも、武器を持った以上は腹を括っておりましたから。でもあなた様はそうではないようでしたので」
 谷利は俯く。
「……俺もそうではありませんでした。ですが、あの日あなた様を見たとき、どうにかしてお守りしてやらねば、と思ったのです」
「……少々頼りなく、というのはそのことか?」
 弱ったなあ、と孫権は情けなく笑う。それもありますが、と谷利は続けた。
「ただただ、この人のお役に立ちたいという思いです。お聞き届けいただけましたことを心底より感謝申し上げます」
 拱手して深く頭を下げた谷利を、孫権は複雑そうな表情で見つめた。
「義封も、公奕どのも、幼平どのも、子正どのも、張公も、お前も皆、好き放題言ってくれる」
 谷利が顔を上げると、孫権は眉根を寄せて怒ったような顔を作った。たじろぐ谷利に、孫権は言い募る。
「みじめだ。身から出た錆とわかっていても情けなくてしょうがない。しかし言われっぱなしでは腹の虫がおさまらぬ」
「ち、仲謀様」
「私も強くなりたい。皆を守れるくらい。今この時から私にも守るものが増えたのだ」
 お前の命だ。孫権の言葉に、谷利は自然と居住まいを正す。
「厳しく私を見ていてくれ、谷利。私は決して守られるだけの男にはならない」
 こつん、と孫権が右手に作った拳で谷利の肩を叩く。その柔らかい衝撃を受けて谷利は、はい、と頷いた。
 二人は同時に破顔し、笑い合った。
 これより長く続いていく縁の、その結び付きの確かさを喜ぶように。


 ◇


 目を開けたとき、友のほころんだ笑顔が一番に視界に飛び込んできて、周泰は内心驚いた。
「やっと起きたか、お寝坊さん」
「公奕、何してるんだ……?」
 息抜きついでのお見舞いだよ、と言い置いて蒋欽は立ち上がり室の外に向かって、おうい、起きたよ、と声をかけた。すぐに外から、かしこまりました、とはきはきとした返事が来て、どこかへ去って行く足音が聞こえてくる。戻ってきた蒋欽は椅子に坐り直すと、あとで討逆様からも伝えられると思うけど、と話し始めた。
「傷が癒えたら春穀県の長に就くことになってるよ。昇進おめでとう」
「春穀……北を睨む地だな」
「そうだなあ。がんばってこいよ」
 わかった、と頷いた周泰はそれから、お前は、と蒋欽に尋ねた。彼にとって、先の宣城での衝突で事なきを得たのは蒋欽の部隊の働きがあってこそであったからである。
「俺は怒られたよ」
「……なんで?」
「『お前の判断が奏功しはしたが、何も言わずに軍を返すのは事後報告でも驚くからやめてくれ。次からはちゃんと許可を取ってから転進すること。いいな?』」
 周泰は笑って、蒋欽を小突いた。似てないぞ、そうかなあ、と掛け合っている内に、室の外に気配がして二人は同時に振り返る。すぐに外から、孫策の来訪を告げる声が聞こえた。
 すぐそこまで来ていたのだ、と彼は笑った。周泰に労いの言葉をかけ次いで昇進を伝えると、些かの驚いた風もなく拱手して賜る周泰に孫策は目をぱちくりとさせる。ちらりと蒋欽を見ると、彼は小首をかしげて微笑んだだけだった。
「――とは言えその怪我じゃ、一月ほどはかかるか」
「いえ、すぐにでも動けます」
 口早な周泰の額を孫策は手のひらで柔らかくはたいた。じっとしていろ、と気安い笑顔で彼は言う。そのまま指先がささやかに眉間に触れ、すぐに離れた。
「顔にまで傷がついたな。遺るぞ、これは」
「…………」
 孫策の目線の先、右の頬に周泰はそっと触れた――包帯の上からでも、そこに深い傷が走っているのがわかる。気の毒そうな視線を向けられて周泰は戸惑った。
「失態と誉れとが綯交ぜになって、どうにも言葉では言い表せません」
 朴訥とした彼の言葉が室内にぽつりと落ちる。
「――今後も奮励努力いたします」
 手を組んで頭を下げた周泰を、孫策がそっと撫でる。
 孫策と周泰、蒋欽とは二つほどしか歳が違わないのに、二人にとって孫策はもっと大人びて見えた。五年以上前からその側仕えとして彼の傍らで勤めてきて、揺らぐことのない頼もしさを目の当たりにしているからだろうか。
 寿春、孫策にとっては不遇の時代。寒門の出自であるにも関わらず、彼は周泰と蒋欽を召し抱えて厚く世話をしてくれた。一人でも多くの助勢が必要だったことも事実であろうが、それでも勝手のわからぬ若造を辛抱強く育ててくれた彼に対する恩義は、二人の中に深く根付いている。
 だからこそ、彼の身内である孫権を命を張って助けることにも躊躇がない。眷族であれ外様であれ、分け隔てなく接する孫策がそのことについて良い感情を抱いていないことも二人は気づいていたが、それでも刃に立ちはだかる体は、窮地に向かう足は止められなかった。
 自身の力量を計り違え、満身創痍で昏倒してしまった失態も、しかしそれでも孫権を五体満足で呉に帰すことが叶った達成感も、己の中では等しく大事にして然るべきものだ。ただ、この顔の傷を見るたびに、夢見心地に感じた孫権の涙の滴がもしまた溢れてきやしないかと、周泰にはそれだけが気がかりでならない。

 一月は必ず伏してじっとしているように、と重ねて戒められ、不承不承返事をした周泰に再度手刀を食らわせた孫策が退出してから四半刻もせぬ内に、孫権の来訪を告げる声が聞こえた。なぜか未だに周泰の傍で漫然としている蒋欽が彼の代わりに応答すると、恐る恐ると言ったように孫権が入室してくる。牀の上に周泰の姿を見止めた彼は、ほんの少し頬をゆがめて苦しそうな表情をした。
「目を覚まされたと……聞きましたので」
「はい。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
 思わず謝罪が口を突いて出た周泰に孫権は駆け寄り、いいえ、と何度も首を振った。
「私が至らないばかりに、幼平どのに深手を負わせてしまいました。本当に申し訳ありません」
 本当は彼は、周泰に縋りつきたいように蒋欽には見えた。孫権はぎゅっと両の拳を握りしめて俯いている。
「お守りできて本当によかった。あなた様のご無事が何よりです」
「……そういうことを、仰らないでください……」
 また泣いてしまうだろうか、と周泰は思った。
 孫策は泣かなかった。少なくとも、周泰の知る限りでは一度も泣いたことはない。周泰が彼と出会ったときには既に彼は大人びて凛々しかった。よく笑い、よく話し、そしてしばしば怒った。
 ぱ、と孫権が顔を上げる。碧の瞳がきらきらと光って潤んでいるが、それでも滴はこぼれてはいない。
「春穀県長への昇進、おめでとうございます! やはり幼平どのはすごい」
「あ、ありがとうございます」
 拍子抜けした周泰のとぼけた表情に、孫権は思わず笑みをこぼす。
「実は、私にも側仕えの者ができたのです。もしかしたら幼平どのも覚えてらっしゃるかもしれませんが」
 そう言って孫権は室の入り口を振り返り、その名を呼んだ。ああ、あの子、と訳知り顔の蒋欽を振り仰ぐと、彼は小首をかしげて微笑む。何か企んだり、はかりごとを成したときの彼の癖だ。
「利、ほら、大丈夫だから」
 なぜか室の入り口でごたついている様子に周泰は当惑するが、理由を知っているらしい蒋欽は相変わらず微笑んでいるばかりだ。討逆様より怖いって何を言っているんだお前は、と不穏当な孫権の発言が聞こえてきたが、いよいよ腕を引かれてその側仕えだという青年が入り口の陰から姿を現した。
「……お前は」
 確かに、見覚えがある。あの日宣城で敵対した若者たちの隊伍の一人だったはずだ。自分を見上げる、恐怖を浮かべた面が思い出される。周泰は、彼の友人を殺し、そして彼をも殺すつもりだった。
「……、自分は、谷利と申します」
「――谷利」
「これより孫仲謀様の側近くにお仕えし、その身をお守りさせていただきます」
 谷利は周泰にそう言った。表情には怯えを残しているのに、その言葉ははっきりと意志を持って発せられたものだった。
「……必ず、勤められるのか」
「はい、必ず」
「仲謀様に何かあれば俺はお前を斬るが、その覚悟はよいか」
「もし仲謀様に何かあるとするなら、その時私の命は既にないでしょうから、お手間をかけるまでもありません」
 怖いことを言うなよ、と苦笑する孫権に、最善は尽くします、などと谷利はのたまう。小突き合う所作は、彼らが既にお互い心を許したことの証にも見えた。
 周泰は嘆息する。
「俺から言うまでもないだろうが……よく励め。仲謀様をよろしく頼む」
 その言葉に一番驚いたのは孫権だったように周泰には見えた。他方谷利はしばらく周泰の顔を見つめ、ひとつ首肯しただけだった。
 そこでようやく、黙して事の成り行きを見守っていた蒋欽が口を開いた。
「俺からも。がんばってね、谷利」
「はい。不調法者ですが、よろしくお願いします」
 手を組んで一礼する谷利の様は、なかなか堂に入って頼もしく見える。
 他の武官の皆にも挨拶をせねばならぬ、と二人は落ち着く間もなく室を後にした。やはり一人室内に残った蒋欽が、頼もしいね、と笑う。
「そうだな」
「でもちょっと、寂しいか」
「……そうだな」
 蒋欽はふと脳裏に、あの日宣城で陳端がことも無げに話していた言葉を思い出した。
「そうやって皆、長じていくんだよな」
 俺も、お前も、仲謀様も。
 周泰は遠い目をして、そうだな、ともう一度呟いた。


 ◇


 孫権と谷利が将軍府の中庭に設えられた武官たちの詰め所に向かうと、そこに集まっていた将の中でも上背のある一人が二人の来訪に気づき、仲謀様、と快活な声を上げた。
「子烈どの! お久しぶりです」
「やあ、久しぶり。そうか、先頃は入れ違いだったな」
 正にまとわりつく、という表現がふさわしかった。腕に飛びつき跳ねんばかりの勢いで喜びを露わにする孫権を、邪険にするでもなくその赤い髪をくしゃくしゃと掻き混ぜてやりながら、久しぶり、と笑う将は、むしろ彼の方が孫権の兄貴分のようにも見える。
 置いて行かれた谷利が手持ち無沙汰にその様子を見ていると、彼がチラリと目線を向けた。
「あいつかい、使い走りっていうのは」
「使い走りではなく側仕えです。谷利と言います」
「そうか、よろしく、谷利。俺は陳武、字は子烈だ。そう呼んでくれ」
 陳武に微笑みかけられ、谷利は戸惑いながら拱手する。その様子に得心が入った陳武は彼の背後を振り返り、おうい、義封、と朱然の名を呼んだ。――なるほど、使い走りという呼び方といい、彼か。
 詰め所の奥にある練兵所に居たらしい朱然は、陳武の声で孫権の来訪に気づくと小さな体で飛ぶように駆けて来た。
「どうだった仲謀、討逆様は」
「何ともなかったよ。一度思いがけず問い掛けがあって焦ったが、利がうまく答えてくれたのだ」
 傍観者然としている谷利の隣にやってきた朱然は、やるじゃん、とその肩を叩いた。
「じゃあもう俺たちの仲間入りだな。いや、待てよ。俺の後輩か! びしばし鍛えるからなー」
 口だけは達者だな、と陳武が言う。今にあなたみたいになりますよ、と粋がる朱然の頭まで掻き回して、陳武は愉快そうに笑った。
 騒ぎを聞きつけて、詰め所にいた他の将兵が孫権と陳武の周りに次々と集まってくる。一気に賑やかさが増す中で、朱然がぽつりと言った。ちょうど、隣にいる谷利にしか聞こえないような大きさで。
「俺もさ、一緒に居たいんだけど、そうもいかないからさ」
 谷利が朱然を見ると、彼は――彼らしくなく――うっすらとした笑みを浮かべていた。
「他の……誰が、死んで、いなくなっても、生きていてほしい奴がいるとして、俺にとってはそれは仲謀だから」
 朱然は、ばつが悪そうに眉を下げて、谷利を見る。
「俺の分も、よろしく頼むよ」
「――はい」
 谷利ははっきりと答えた。
「言われるまでもないことです」
「……ははは、頼もしいな」
 言い残して、喧騒に交わるために朱然は歩き出す。その背中越しに孫権と陳武の満面の笑みを眺めながら、谷利は目を細めた。
 日の光が彼らに反射して、目映く照っている。