「けーん!」
 何の前触れもなく突然現れた闖入者に、室の主である孫権とその側仕えである谷利は驚いた。闖入者――孫策には珍しくないことだが、彼は人の不意を打ったり、予期せぬ判断をしたりして行動することがしばしばあって、そのたびに群臣に諌められているのである。それでも改めないのはもはや性分としか言いようがなかった。
「ど、どうなさったのですか、討逆様」
「ふふ、驚くべき者がこの呉に来るぞ。権、誰だと思う?」
 子供のようにいとけない表情で小首を傾げ問いかける。孫権は困ったように眉を寄せて、叔父上ですか、と答えた。
「……叔父上も驚くが、違うぞ」
「じゃあ、もうわかりませんよ」
「つれないなあ。答えは公瑾、だよ!」
 孫策の種明かしに、孫権は確かに驚いた。それどころか伸び上がって、本当ですか、と色めき立っている。その様子に満足した孫策はうんうんと頷いた。
「それで、私はこれより公瑾を迎えに行ってくるんだが、お前はどうする?」
「い、行きたいです!」
 勢いよく席から立ち上がった孫権は、文机に足をぶつけながら身だしなみを整え始める。続くように谷利も立ち上がると、その様子を見ていた孫策が猫なで声で、権、と忙しなく動き回る弟を呼んだ。
「お前から谷利に、程公と公覆どのと義公どのを呼びに行ってくれるよう頼んでもらえないか。公瑾が来たら軍について話し合いの場を持ちたいんだが、お三方が何処におられるかわからなんだ」
「…………」
 意図せず、谷利は孫策を睨んでしまったかもしれない。
 彼は時々こうして、孫権を通して自分の使いを谷利に呑ませるような真似をする。本人が傍にいるにも関わらず、である。そのたび孫権が苦笑して谷利の名を呼び、谷利は諾々と従うしかなくなるのだ――明らかに孫策にからかわれているのだろうが、どうにも釈然としないものがある。
 今回も孫権は、利、とその名を呼んだ。
「……わかりました」
「悪いな。すぐに戻って来るし、子義どのも共に行くから、心配は無用」
 子義どのもですか? ときょとんとする孫権に、私が二人を会わせたいんだ、と孫策は言う。
 太史慈、字を子義とは、件の宣城での衝突の一方で西へ展開していた孫策軍が対峙していた将――正にその人だった。それより以前、何の偶然か一騎討ちで刃を交えた孫策と太史慈は、伯仲する討ち合いで以て互いを好敵手と認め合った。その経緯から丹楊郡西部の平定に際し太史慈を虜にした折も、彼はすぐさま虜囚の縛を解いて会見を持ち掛け、あまつさえ折衝中郎将という高位の任まで就けるに至ったのである。
 彼ほどの武勇は、他に比肩する者もほとんどない。ましてや未熟者の自分では。太史慈の名前を出されてしまえば、谷利はすっかりお役御免だった。
「すまないな、利。すぐに戻って来るそうだから。後でお前のことを公瑾どのにも紹介させてくれ」
「……はい。お気をつけて」
 孫権たちが出るより前に、谷利は政務室を後にした。何となしに悔しくなってしまった己が恥ずかしくて、一刻も早くその場を立ち去りたかったという一点の理由以外は何もない。

 孫策の言う、程普、黄蓋、韓当の所在が知れないというのは半分以上でまかせであると谷利は勘繰っている。彼らを始めとした呉の武官たちは、将軍府に詰めている場合はその時間のほとんどを練兵所や詰め所、厩舎といった、直接的な戦争に係わる部署で過ごす。そして、どちらかといえば武官たちとつるむことを好む孫権もまた頻繁にそこに出入りしているため、自然と谷利も彼らとは顔馴染みになっていた。
 まっすぐに詰め所に向かいそこにいた知り合いの若い兵士に程普の所在を尋ねると、同時に奥の練兵所から割れんばかりの怒号が響き渡った。
「……あすこにいるよ」
「……そのようですね」
 練兵所に顔を覗かせた谷利に、間髪入れず全身を痺れさせるような怒声が降りかかる。真正面から受けているわけではないのに、足が竦むほどの覇気がある。広い練兵所の中央では、上背のある壮年の将がその太い腕で木の槍を振り回し、彼を囲む若い兵士たちを薙ぎ倒してはまた叱責を浴びせていた。
「おや、阿利」
 練兵所の入り口脇から声が掛かった。見れば韓当、字を義公が胡坐を掻いて漫然としている。
「確か仲謀様は今はお勤め中ではなかったかな」
「そのはずでしたが、ええと……公瑾どのが呉に来られるとかで、討逆様と共に出迎えに行かれました。私は使い走りで、皆様を呼びに参ったのです」
 谷利の言に、へえ、と韓当は驚いたような声を上げた。
「周公瑾が。北で何かあったかね」
「あの……一体どなたでしょうか」
「ん? 聞いてないのか?」
 はい、と頷き隣に腰を下ろす谷利のみっともない妬心など露知らず、韓当は丁寧に件の人物について説いた。
 周公瑾はその名を瑜といい、まだ孫策の父――孫堅が存命だった頃、その夫人である呉氏と幼い兄弟たちが戦火を避けて移った舒の地で孫策と出会い、ちょうど歳が同じであったこともあって親密な友誼を結んだ。その辺の話は自分も詳しくはないが、と韓当は言ったが、その後、孫策が江を渡り東に軍勢を進めていた時分に再び合流し共に戦った間柄だ、と続けた。
「いやあ、凄まじかったよ。戦果もそうだが、みるみる軍が膨れていくのは本当に気持ちよかった。一千が数万だよ、並大抵のことじゃない」
 心底誇らしげに韓当は言う。
「かつては数百がほとんど全滅したときもあったしな。その時に比べれば……」
 ぼんやりと夢を見るような眼をした韓当は、それからしばらく黙った。
「……何の話だったかな」
「周公瑾どのがもうすぐいらっしゃるので、評定の間に集まるようにと討逆様が」
 韓当に拳で軽く頭を小突かれた谷利は小さく笑う。二人のやり取りにようやく気づいた程普、字を徳謀が大股で入り口に向かって歩いてきた。
「おう、阿利。仲謀様はおいでではないのか?」
「はい。周公瑾どのが呉に来られるとのことで、討逆様と出迎えに行っております。その後軍議の場を持ちたいということで、お二方と、黄校尉をお呼びする任を仰せつかりました」
 谷利の言葉に、程普はその傷痕だらけの面をしかめた。
「フン、あの若造か。相わかった」
 肩で風を切って練兵所を後にする程普の背中に、先ほど彼に伸された兵士の内の一人が大声をぶつける。
「程公、また後ほどご指導をお願いいたします!」
 谷利が顧みると、全身に汗をかいて床に倒れ伏した若い兵士が、それでも必死で上体を起こしている。確か彼は名を徐元といっただろうか。
 オウ、と程普は片手を上げて去って行く。続いて腰を上げた韓当もその後ろに続いた。黄校尉は、と谷利が慌てて尋ねると、厩舎じゃないか? とおざなりな返事があって、思わずため息が漏れてしまう。
 しかし言われた通りに厩舎に向かえば、果たして黄蓋、字を公覆はそこにいて、手ずから愛馬の世話をしていた。用向きを伝えると彼は、了解了解、と大きな口で笑った。
「しかし周公瑾か、久しぶりだねえ。あいつの話は為になって面白いんだ」
「程公はあまりお気が向かれないようでしたが」
「そりゃ、あいつの話が面白くないからさ」
 舌の根も乾かぬうちに全く正反対のことを口にする黄蓋に谷利が惑乱して首をかしげると、そういうもののようだよ、と彼はまた笑った。
「程公は北のお人だから北の訛りが強くて、それであんまり話も通じないしね。周公瑾は飄々としてるからまた癇に障るんじゃないかね? まあ俺も南の田舎者だから人のことは言えないけれど」
「……様々なところから皆さんお集まりなのですね」
「そうだねえ。そういや義公も北か。よくもまあ出会ったもんだ」
 巡り合わせってやつだね、と言う黄蓋の横顔には、確かな充足感が垣間見える。そして、その言葉には谷利も内心で賛同した。巡り合わせ――言葉にすればたったそれだけのことが、人の来し方や行く末を激しくうねる濁流にもすれば、悠久の時を感じさせるような穏やかな流れにもする。
 こうして馴染み深くなってからも、孫堅の時代からの宿将たちはあまり過去のことを口にしない。かつて朱然の語った物語はあくまで孫策の時代からのもので、そこに至るまでの孫堅軍の来し方には触れられてはいなかった。ただ、彼の義父である朱治も孫堅の時代から世話になっていたのだ、とだけ。
「北では何があったのですか?」
 谷利は本当に“何も知らない”。隣を行く黄蓋は、そりゃ戦争だよ、と明るい声で言った。
「ずうっとそうさ。西でも東でも北でも南でも、死ぬか生きるか、殺すか殺されるかの戦争だ。文官も武官も、貴族も平民も関係ない。誰も知らぬ存ぜぬではいられないんだから、そんな風な顔をして当たり前のことを訊くなよ」
 黄蓋の大きな手が、谷利の頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。思わず肩を竦める谷利に相変わらず笑っている黄蓋は、評定の間だったかね、と独りごちる。いつの間にか二人は将軍府の正面玄関前まで来ていた。
 じゃあな、ありがとうよ、と手を振って将軍府の内部に去って行く黄蓋を見届けて小門を振り返った時、喧騒がにわかにその門をくぐってやって来た。遠目からでもわかる、喧騒の正体――騎馬隊の先頭は孫策である。そして、彼の横に見覚えのない男がいる。眉目秀麗が輪郭を得て顕現したかのような美丈夫だ。孫策と並ぶと、まるで谷利たちの屯で謳われている神話の中の存在にも見えるほどの美しさ。
 男が何事か言い、それに応えて孫策が笑う。騎馬隊の進路を塞がないよう脇に避けて、膝をつき拱手する谷利を、馬上から男がチラと見下ろした。

 ――あれが、周瑜。


 ◇


 うーん、兵士二千と……騎馬は四十、いや五十だな。お前は当然、軍楽隊もほしいだろう? 遠慮なく持って行け。それから邸宅はすぐに用意させるが、片付けにしばし時間をもらいたいから今日は私の邸に泊まれ。ああ、お前の邸宅は私の近所でいいだろう? 遊びに行きたいから。
「いや、伯符」
「うん? 足りないだろうか。じゃあ兵は三千……」
「いや、それなら二千でいい。十分すぎるほどだ」
 竹簡に書き連ねながらさらに数字を増やそうとする孫策を呆れ顔で制する周瑜。互いに慣れたやり取りだった。まだ十全でないのだがなあ、となおも重ねる孫策の筆をぱっと奪い取った周瑜が、評定の間に集って整然と坐した面々を見渡す。かつて丹楊郡での戦役を共に戦った歴戦の宿将たちから、新しい江東の盟主を掲げその下で才気を煥発させる謀臣たち。錚々たる顔ぶれである。
「しかし、壮観だな。この軍に加われることを嬉しく思う。諸将、この周公瑾も微力ながらお力添えをいたします。不心得者ですがよろしくお導きのほどを」
 拱手する周瑜に、一同も礼を返す。ただ程普のみは腕を組んで目を伏せ、微動だにしなかった。その様子を横目で見ながら朱治が口を開く。
「我々としてもありがたい限りですな、討逆様。ところで公瑾、今この機を以て来呉したのには何か理由があるのか?」
「いえ……ただ単純に、見切りをつけてきました。さすがに“老い先短い”主の下に仕えるのは、心が我慢なりませんでしたので」
 伏し目がちに言う周瑜はしかし、すぐに顔を上げて努めて明るい表情を作った。
「居巣で面白い男に会いました。魯粛、字を子敬という、元は富豪の家の倅なのですがこれが大変豪気な男で、困窮する民衆を救済するに財を惜しまず、また才智を愛して知識人たちと積極的に交わり、さらには時勢を見て武芸の励行にも努めその配下の兵たちは皆強者です。私が居巣県長をしていた頃に彼の援助を求めに行った折などは、二つあった内の片方の蔵をそっくりそのまま差し出されたほどです」
 三千斛を何のためらいもなくです、と続ける周瑜に場がざわめく。
「この魯子敬もまた寿春の主に見切りをつけてわざわざ私を訪ねてくれたもので、それならば呉に行こうと、実は共に江を渡って来たのです。ただ彼は今、その家族や同行した民たちを曲阿に預けているところで、一日ほど遅れて到着する予定です」
 周瑜が孫策を振り返ると、彼は予想通り期待に胸を膨らませた少年のように目を輝かせている。彼についても宜しく取り計らってくれ、と頼めば、もちろんだ、と頼もしい返事が来た。
「お前がそこまで言う男ならば歓迎せぬ道理はない。素晴らしいな、公瑾。呉はどんどん大きくなるぞ」
 孫策の言葉が評定の間に響いた。自然、群臣の背筋も伸びる。誰もが皆、それは周瑜を憎らしく思う程普でさえも感じていた。彼が孫策の元に来たことで、膠着した状況が動き始めるであろうことを。
「さあ、軍議を始めよう。中華に蠢く大いなる動乱に呑み込まれる前に!」
 その号令に、一同は揃って手を組み礼をした。時を置かず評定の間に白熱した議論が展開され始める。
 彼らは確かに、同じ方角を見つめているのであった。


 ◇


 袁公路の振る舞いは著しく道義を外れ、その宮殿は奢侈極まりないにも関わらず、領民は困窮に喘ぎ飢餓と疫病とで多数の命が奪われている。
 寿春の主――袁術、字を公路は、建安二年、兼ねてより自身が切望していた登極を天意の瑞兆があったとして強行し、寿春の地に仲の王朝を築いた。諸侯はほとんどがその行為を非難し、また“献帝”劉協は司空・曹操、衛将軍・董承、益州牧・劉璋、そして討逆将軍・孫策に対し袁術征伐の詔勅を発した。
「あれは天子様の民をわがままに己が民として扱っている」
 身の程を弁えぬ愚物だ、極めて厳しい言葉で孫策は袁術を罵倒する。それはかつて己がその足下にあったことへの嫌悪感も多分に含まれているように孫権には見えた。

 兄が亡き父・孫堅の跡を継ぎ袁術の下で苦杯をなめていた頃、孫権は母や他の兄弟たちと共に曲阿にあった。だから彼は、いや彼でさえも、兄が負い続けてきた苦難のすべては理解し得ない。当時その傍らにあった孫河や呂範は今も黙して語らず、労苦何するものぞとばかりに笑うだけだ。ただ一人、朱治だけは、ある時幼い兄弟たちにこう言った。
「あなたたちの御兄君は、天子様もそうだが、何よりあなたたちのためにその荷を負うている。いずれ長じてその荷を負う御兄君を正しく支えてあげられるよう、あなたたちもよく勉学に励み、世の道理をきちんと弁えられますように」
 その言葉を聞き分けられる歳にあったのは孫権くらいのもので、それでも漠然と、ああ私の兄は大変なのだ、とはわかったというだけのことだった。
 弱年の孫権はかつて、己の責務の重さを知りもしないで勝手気ままに過ごしたことがある。県長を任じられた陽羨県の公金を私用で使いこんでは帳簿を書き換えてもらったり、軍の会計を預かる呂範にこっそり金を無心したりした。しかし、呂範を伝ってその悪行が兄の目に触れることになり咎めを受けることを覚悟したとき、兄は一瞬難しい顔をして、それからふと笑った。

 ――しょうがないな、もう、こんなことはするんじゃないぞ。

 兄に許されたことで、思い上がった心がなかったとは言わない。それ以上に、彼は結局“理解していなかった”。兄の存在する領域のことを。
 初めての軍団長で、初めての戦争だった。たくさんの人が死んだ。――己が、殺した。
 それが、あの宣城だ。
 ――そして今、己は、父を失った時の兄と同じ歳になった。

「権? けーん?」
「え、あっ?」
 不意に孫策に顔を覗き込まれて、孫権は驚いて上体を引いた。ふふふ、と孫策は唇ににんまりと弧を描き、孫権の額を小突く。その箇所を押さえながら周囲を見回せば、群臣が皆孫権を注視し、張昭などはその眉間に深い皺を刻んでねめつけている。
「討逆様が袁術征伐についての方策を求めておいでです」
 斜め後ろに控えている谷利のささやき声が耳に入った。
「あなたさまに、一番初めに求められたのです」
「私に……」
 孫権は谷利に向けていた意識を、改めて評定の間全体に向ける。程普がいる。韓当が、黄蓋がいる。孫河がいる。呂範が、朱治がいる。張昭がいる。張紘がいる。周瑜がいる。陳端が、秦松が、太史慈が――その中で一番に、孫権に意見を求めた。
「い、今……今すぐ動かれるのは、いささか時期尚早ではないかと思われます」
 背筋を伸ばし、拱手した孫権はまっすぐに孫策を見つめた。彼は目を細めて首をかしげると、その心は、と問う。
「昨年の飢饉で長江・淮水の領民は苦しみ、未だその苦悶の内から解放されてはおりません。今その地を兵馬で踏み荒らし寿春に攻め入り袁術の首を獲っても、即ち民心にとっての真の救済にはなり得ぬかと存じます。そして、討逆様は先頃涇県までを平定されましたが、これより西を根城にする劉勲、そしてその南にはまつろわぬ宗民が多数おります。これらに我々が袁術を征討しているところに横槍を入れられることは避けなければなりません」
 必死に言い募る孫権に、孫策は何度も頷きながら目で続きを促す。そのことが嬉しくて、孫権は腹に力を入れて胸を張った。
「まずは民心の慰撫、何よりもこれが肝要かと思われます。幸いにして今、我々の軍に周公瑾どのがおいでくださいました」
 己の名を出されて驚いたのか周瑜は目を丸くして、ほう、と嘆息した。
「周家の徳は盧江に広く行き渡っております。加えて明日来呉されるという魯子敬どの。私は寡聞にして存じ上げませんが、公瑾どののお話を鑑みますにこの方も大変に徳があり、居巣の民心に寄り添われているものとお察しします」
 頭の中に地図を繰り広げ、孫権は言葉を重ねる。孫策の目がまっすぐ己を見ている。
「公瑾どのは先ほど来呉に特別な理由があったわけではないと仰いましたが、それは違います。討逆様の下に今このお二人が来られたはまさに天祐とも言え、漢王室に仇成す逆賊袁術を討つための布石なのです。よろしければどうぞ、私めの言をお聞き入れいただけますよう」
 深々と礼をすると、場が水を打ったように静まり返った。ただ孫権の耳にだけは、己の心臓の激しい拍動が響いている。
 長い沈黙に耐え切れずにはあ、と息を吐いたその時、不意にぐい、と肩を押されて孫権は思わず顔を上げた。
「すごいぞ、権!」
 孫策の満面の笑みが、眼前にある。
「まさにそれだ。私の打つべき次の一手。お前が持っていたのか」
 そして立ち上がった彼は群臣を見渡し、まず初めに手のひらで周瑜を示した。
「公瑾、建威中郎将として牛渚に赴きその守備の任に当たってくれ。お前の持てる力のすべてで、民を愛せよ」
 周瑜は拱手し、承知、と高らかに言った。
「そして程公、ひとつ頼みがある。零陵を尋ねるふりをしながら、豫章、盧陵一帯の様子を探ってきてほしい。伯陽どの、国儀どのに連絡を入れておくから、三人で協力して事に当たってくれ」
「は、仰せの通りに」
 程普もまた丁重に礼を返す。続けて孫策はその場に集まった一人ひとりに詳細に指示を出し、最後に孫権を見た。
「いずれ暇を作って碁でも打とう。お前の戦は、面白い」
「――はい、ありがたく」
 震える声で、孫権は返事をした。己の言葉が誰かを動かした――彼にはそのことがなんとも感慨深く、たまらなく思えた。


 ◇


 その夜、周瑜の来呉を祝う宴席が将軍府で開かれた。魯子敬どのが来てから行えばいいのに、と孫権が言うと、その時にはもう一度開くのさ、と孫策は呵々と笑った。
 上座には宴席の主役である周瑜、そして主人である孫策が坐す。列席する面々はいずれも孫策の股肱たちであり、孫権にとっては先達とも言うべき存在だ。
 孫権は望んで末席に坐した。その後ろ、宴席からは孫権の陰になる位置に恐る恐るといったように剣を携えた谷利が立つ。
「本当に、ここにいてもよいのですか」
「よいも何も、見渡してみろ。こういうものだ」
 確かに宴席に招かれた客人たちの後ろには厳めしい鎧をまとった守衛が幾人もおり、万が一の事態が起こらないよう常に目を光らせている。
「の、飲みにくくはないのですか」
 落ち着かない様子の谷利に孫権が思わず笑うと、つられてか隣席に坐していた秦松、字を文表も、白髪交じりの顎ひげを震わせて小さく笑い声を漏らした。
「お前には馴染みが薄いかも知れぬが、古来より宴席は優れた暗殺の場としても用いられてきた。無論我々の中に造反者などいるはずもないが、それでなくとも慣習や建前というのは、我々の生活にはほんの少し、大切なのだ」
 はあ、そうですか、と答えながら、谷利は僅かに得心が入った――そういえば屯で酒盛りをしていた大人たちが突然大喧嘩をし始めて、危うく一人が剣など持ち出そうとして必死に止めたこともあったっけ。
 先に孫権に聞いていた通りに、彼らの宴席の場では主人が客人の席を巡り、鄭重に酌をして持て成すものらしい。立ち上がった孫策の行く先々では、何がそれほど面白いのか常に笑い声が聞こえてくる。愛想笑いではない、腹の底からの哄笑だ。
 その内、孫策は孫権の席の前に来た。
「今日の軍議は本当に為になった」
 杯を掲げた彼は微笑み、頬を赤らめた孫権を頭を優しく撫でた。
「私はどうも、攻撃、攻撃、攻撃でいけない。戦争は一面的でいてはいけないというのに」
 そして彼は宴席を振り返ると、列席している客人たちを一人ひとり見渡した。谷利もそれに倣って彼らを見ると、対面の席にいる黄蓋や韓当と目が合い、気さくに笑って手を振る彼らにつられて笑ってしまう。
「なあ、権。彼らは確かに私の下に集った者たちかも知れないが、皆お前の部将でもあるんだよ」
 意識の外からその言葉を耳にした谷利の背筋に、鋭い痺れが走った。
「そ、そんな――過分なお言葉です」
 慌てて否定する孫権に、孫策は、もっともな返答だな、と苦笑する。
「私がそう思っているんだよ。権、お前は私に遠慮することはないのだからね」
 孫策は、孫権が言葉を返す前に立ち上がり、では、と手を振ってさっさと次の客人の下へ向かってしまった。
 取り残されてしまった孫権は何を考えているのか赤くなったり青くなったりして、その内谷利を振り返ると、今のは、とぽつりと溢した。
「……世辞だな」
「御兄君は世辞を仰るような方ですか?」
 谷利の言葉に孫権はまた赤くなったり青くなったりする。他方谷利は、まだ痺れの残る背を伸ばした。孫策の口から発せられた、あの言葉の威力、凄まじさは他に比類するものがない。
「ふふ、伯符に何か言われたのか?」
 不意に掛けられた声に肩を震わせた孫権が振り返ると、宴席の主役であるはずの周瑜が席の前に腰を下ろしたところだった。孫権はどぎまぎしながら彼に向き合う。
「こ、公瑾どの、よろしいのですか?」
「ああ、伯符に許しは得ているからね。久しぶりだね、仲謀どの。前に会ったときはこんなに小さかったのに」
 右手の人差し指と親指をぴたりと合わせて示す周瑜に、そんなに小さくありませんでした、と孫権は言う。
「随分立派になった。先ほどの軍議では良いものを見せてもらったよ」
「いえ、その……本当に、出過ぎた真似をして」
「仲謀どの、謙遜も過ぎると生意気に聞こえるよ」
 そんなつもりは! と必死に首を振る孫権に、周瑜は笑う。
「からかってすまない。でも、君はもっと自信を持ってもいいのではないか?」
 周瑜は孫権から目線を外し、その後ろに立っていた谷利を見た。
「君もこちらへ。話を聞きたい」
「え?」
 孫権が周瑜と谷利を交互に見遣る。谷利はと言うと、急に話を振られてどうすることもできずにぽかんとして周瑜を見つめてしまっていた。さあ早く、と促されてようやく孫権を見ると、孫権は少しためらってから谷利の名を呼んだ。
 おずおずと谷利が孫権の隣に腰を下ろすと、周瑜は満足そうに頷き、居住まいを正した。
「君は昨年から仲謀どのの側近になっているそうだね。働き者だとか、伯符も褒めていたよ」
「き、恐縮です」
 常日頃から内心で孫策に対する恨みの言葉――自分の使いは自分でしろ、とか――を連ねていた谷利は恥ずかしくなって肩を竦めた。同時に申し訳なさもこみ上げ、次からはなるべく睨まないようにしよう、と心に決める。
「山越の者が側仕えをすることも然して気にしていないようだし、仲謀どののことは私からもよろしく頼むよ」
「いえ……それは仰られるまでもなく、……ん?」
 謙遜の言葉を述べようとした谷利が、ふと顔を上げる。それは孫権が、あれ、と呟くのとほとんど同時だった。
「いえ、彼は宣城の者で」
「ん? その着物の襟紋様は山越のものだろう? 宛陵南部の丘陵地帯に点在する虎の神を信仰する宗民たちだ」
 周瑜の視線に射抜かれて、谷利は全身が一瞬にして冷え切るのを感じた。うかつだった、という気持ちが脳裏を支配する。隣にいる孫権さえも絶句しているのがわかる。彼はしばらく目線を忙しなく動かして、それから膝の上でぎゅうと強く拳を握ると、言った。
「ご……ご存じなのですか」
「そりゃあ、不安定な江東・江南の情勢は逐一調べているからね。私でさえそうなのだから、直接戦争に参加した将たちは当然、知見の広い者も」
 ――ましてや伯符が気づかないわけないだろうに。
 谷利の頭の中に、孫権の側仕えとして孫策の軍に参加してからこれまで触れ合った多くの将たちの顔が思い浮かぶ。まるで友人のように、息子のように温かく、そして厳しく接してくれる彼ら。皆、知っていて、そして素知らぬふりをしていたのか。――ああ、確かに、谷利のいた屯の屯長を斬ったのは、あの程普だったのだ。
 二人の表情を見ても、周瑜は微笑んだままだ。
「咎めに来たんじゃないんだよ。君は伯符に、そして仲謀どのに許されてここにいるんだろう? その腰の剣は、我々を斬るためのものではないはずだ」
 周瑜に示された腰元に提げている剣にそっと触れ、谷利ははっきりと頷いた。
「この剣は、仲謀様をお守りするためだけの剣です」
「ふふふ、そうだろう。何も心配なんかしていないから、そう睨まないでくれ」
 坐り直した周瑜は、いや、呉に来て本当によかった、と感慨深そうに言った。
「面白い男たちばかりだ。北にいてはこんなに充実した気持ちにはなり得なかったな。早く魯子敬どのを君たちに会わせたいよ」
「ああ、魯子敬どの」
 場の空気が和んだことをようやく察した孫権が、肩の力を抜いて少しだけ笑う。
「お話を聞いているとなんとも大胆なお方ですね。私も早く会ってみたいものです」
「そうだろう? きっと気が合うと思うんだ」
 早く明日にならないかな、と言う周瑜に、実は明日は我々が休沐なのです、と孫権はいささか申し訳なさそうに伝える。目を丸くする周瑜に、彼は続けた。
「それで、騎馬の調練も兼ねて、彼と、友人たちと共に海へ行こうと」
「おや、それは残念。友人たちというのは、朱義封と?」
「胡偉則です」
 楽しんで来るといい、と周瑜は気にした風でもなく言う。
「なに、明日よりは子敬どのも伯符の下でその才を遺憾なく発揮するのだ。これからいつでも会えるのだからね」
 そうですね、と笑った孫権は、では失礼、と辞去する周瑜を見送った。
 緊張がほぐれ、一気に弛緩して体を折ってしまった谷利を見て、彼はおかしそうに笑う。
「我々の粗末な謀りなど、お見通しだったというわけだ」
 その言葉に谷利も頷く。
 疑念を持たないはずがないだろうに、彼らはきっと己が孫権に許された存在だからと分け隔てなく接してくれていたのだ。それは言うまでもなく、孫権のなせる業であるように谷利には思えた。
「あまり気に病むなよ、利。しかし魯子敬どのにお会いするのは楽しみだなあ。いや、その前に海か」
 慣れていないと百里走るのも難しいから油断はすまいぞ、とからかうように肩を叩く孫権に、谷利は、わかっております、と返事をした。
 そのまま穏やかに宴会は過ぎ、戌の正刻には散会となった。
 賑やかな楽の余韻を耳に残して着いた兵舎までの帰路、闇夜にぽかりと浮かぶ月を見ながら谷利はぼんやりと、許されていたのだなあ、と考えていた。己の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる黄蓋や、豪快に笑って肩を叩く程普、まるで子供に話して聞かせるみたいに昔語りをしてくれる韓当ののどかな声も、そのすべてが優しさに満ちている。そう思えば宴の始まる前、秦松が谷利に対し諭すように言った言葉にも重みを感じられて、なんとも身の引き締まる思いがする。
「――よし」
 ぱしん、と自身の頬を叩いて、谷利はまっすぐ前を見た。すべきことは明らかで、そのためにいかなる懊悩も苦悶も置き去りにして、進んでいく。
 月が照らす道を、谷利は大股で歩いた。

 ――さて、なんの“巡り合わせ”か、その後件の魯粛と孫権とは、周瑜が言うように彼らは互いに将軍府にいるにも関わらずそれぞれの事情が重なってほとんどまともな挨拶もできぬまま、一月もせぬうちに魯粛の祖母の葬儀のための帰郷という形で引き離されてしまうこととなった。
 そして二人が再び邂逅を果たすまでには、実に約二年の歳月を要することになるのである。


 ◇


 その年の暮れ、呉の将軍府に北から一報が届いた。

 ――曹孟徳、下邳に呂奉先を攻囲し、以てその軍を誅滅せしめる。

「ついに呂布が身を滅ぼしたか」
 孫策の声は愉快そうな響きを持っていた。その傍らで牛渚より報告のために戻っていた周瑜が首をかしげる。
「董卓を討った男だったか。詳しいのか?」
「ああ、いろいろと縁がある。始まりはそうだな、亡き我が父が陽人で彼の軍勢と激突し、散々に破ったところからだろうか」
 孫策が亡父孫堅より聞いたところでは、彼の将はあろうことか味方の軍勢を偽報で出し抜き、孫堅軍を打破する手柄を総取りしようとしたらしい。しかし孫堅軍の守りは強固であり、呂布の奸計も成らず、攻撃に転じては至るところで敵将を討ち取り、軍を潰走させたのだという。
「奴は私の働きを天子様に言上するその口で袁術をもたぶらかしていた。二心どころか三つも四つも心を持ち合わせて、おあつらえ向きの最期だよ。子綱どのもやかましい勧誘文句から解放されてせいせいするだろう?」
 政務室の隅に坐して黙々と仕事をしていた張紘が顔を上げ、骨張った頬にうっすらと微笑を浮かべると、そうですね、と静かに言った。
「ん? 呂布に誘われておいでだったのですか?」
「ええ、彼が徐州の牧をしていた頃に、私も徐州人だからということで。ですが、まあ、私はああいった手合いが嫌いなので」
 はっきりとした物言いに、周瑜が顔を引きつらせる。
「……ああ、お嫌いですか」
「ええ、嫌いです。それで受けませんでした」
「いつもは私が子綱どのに書簡を書いてもらっているのに、この時ばかりは下手ながら自筆で返書をしたためてしまった」
 哄笑する孫策に、その節はお世話になりました、と張紘も笑う。その様子を見ていた張紘の隣席の陳端はコホン、とひとつ咳をして、曹孟徳は勢いづいておりますね、と言った。
「天子様を擁し、新たに都を定めるも彼の働きあればこそ。しかしその分多方面に敵も多い。北の袁本初、南の……袁公路はともかくとして、劉景升も何やらその手元に涼州兵を飼っているようだし、こたびの戦で呂布を誅したことには少なからず安堵もありましょうか」
「さて、たかる蝿を一匹殺したところで、まだ小やかましいのには変わらんだろう」
 孫策は、先に届いた書簡を乱暴に文机の隅に追いやると、今度はその傍らの小机に常日頃から置いてあるひとつの書簡にそっと触れた。
「以前天子様より賜った詔勅も、未だその半分も成せずにいる。そういえば天子様は幼少の折に、南皮におられたこともあったそうだな……」
 ぽつり、孫策のささやくような小さな声は、それでも静寂に満ちた政務室に坐する面々の耳に入るには十分だった。

「……願わくは早く、江東の海をお目にかけたいものだ」